毎シーズン発表されるパリ・コレクション。ファッション・クリエイターたちはみずからの創造や提案を世界に問うために、ジャーナリストやビジネス・ピープルたちはその新しい芽をいち早くつかみとろうと、世界中から集まる。2004-5秋冬コレクションの大きな話題は、ジャン=ポール・ゴルチエがクリエイティブ・ディレクターとなったエルメス社のコレクションだった。
マドンナのセンセーショナルな衣装製作者としても知られるゴルチエは、幼時の「祖母のコルセットの記憶」にこだわりつづける。その名を冠した香水のボトルもコルセットをならっている。そして新エルメス・コレクションにもその刻印が押されたのだ。
コルセットはいつから存在したのだろうか?
コルセットに似た衣服は古代にもあった。地中海クレタ島の女性たちは、膨らんだスカートで下半身を覆う一方、ウエスト部分を細く締めたらしい。出土した多彩色テラコッタの女神像は、こうしたコルセット風の服装で身を包んでいる。しかし、クレタの文化はギリシャに滅ぼされた。そして、古代文明のギリシャ・ローマではゆったりした巻衣が主流で、女性性の身体的特徴にあまり価値を見いださなかったらしい。中世以降、オリエントなどの影響もあって衣服が立体化して男女差も確立し、女性の身体の曲線美を紐締め[レイシング]によって表現するようになった。
ルネサンス時代に入ると女性服立体化の技巧は進展し、大きく膨らませたスカートの上半身は、堅く糊付けした麻地を張り骨[ボーン]で補強した胴着[ボディス]を強く紐締め[レイシング]するようになった。当時のヨーロッパ各地の宮廷ではそれぞれ多少の違いはあったものの細いウエストが好まれ、女性だけでなく男性もその細さを競ったという。イギリスのエリザベス一世も、強く締めた胴着[ボディス]とスカート枠[ファージンゲール]とでかっちり構築した豪奢な衣装姿の肖像画を残している。胴着[ボディス]は張り骨[ボーン]と紐締め[レイシング]の構造によって次第に本格的コルセット化するが、「コルセット」という呼称がイギリスで使われるようになったのは17世紀頃である。
しかし、18世紀末、コルセットはその姿を消す。王政からモードまであらゆる旧体制を覆そうとするフランス革命の時代、宮廷スタイルの象徴としてコルセットも否定され、新しく台頭した直線的な新古典主義[ネオ・クラシシズム]スタイルはナポレオンの帝政から公認されたのだ。
しかし、短期間の帝政崩壊後、再び女性の身体の曲線を誇張するシルエットが復活する。19世紀は、ブルジョワジーたちの価値観が時代を支配した。男女の役割分化が確立して女性にはあくまでも女らしさが求められ、機能を無視した装飾的・技巧的なモードが階級の印となった。コルセットは復活し、王侯貴族から労働者階級にいたるまで、選択の余地なく着けるべきものとなった。コルセットは女性専用ではなかった。伊達男のなかにも着用する者がいたらしい。流行によるフォルムの変遷や製作技術の進展・革新などによる変化は多様だったし、極端な紐締め[タイト・レイシング]の害を問題視する医学者や女性運動家たちによるコルセット批判もやかましかったが、コルセット着用は、世紀を超え第一次世界大戦まで続く。
20世紀初頭、モードが女性たちのコルセットを脱がせた。後に「モードのサルタン」とも呼ばれるポール・ポワレらが提案するシンプルで緩やかな新しいモードが、コルセットを流行遅れにし、徐々に社会進出を始め、テニスやゴルフなどスポーツを楽しむようにもなっていた20世紀の女性たちは、コルセットに代わってブラジャーを採用するようになったのだ。
コルセット・スタイルが復活するのは第二次世界大戦後、クリスチャン・ディオールの「ニュー・ルック」発表による。「整形下着[ファウンデーション]なしにモードはありえない」というディオール自身の作品は服そのものにコルセットのような張り骨[ボーン]が入っていたが、「ニュー・ルック」を追う女性たちは、少しでもウエストを細くしようと整形下着[ファウンデーション]を求めた。しかしすでに合成繊維が導入されてストレッチ性を備えた整形下着[ファウンデーション]は、以前のコルセットとは別のものだった。
服の内側で身体を締め上げる伝統的コルセットは、モードの主流を外れた。しかし、コルセットはいまなお無視できない存在でありつづける。「内なるコルセット」として、「表着化したコルセット」として。
コルセットから解放されたはずの現代女性を縛る「やせ願望」という「内なるコルセット」の締め付けは緩まる気配がない。モード誌のダイエット特集に整形美容医までもが加わって女性たちの「やせ願望」を強迫観念化しているようだ。
そして、伝統的コルセットは、ロックやストリート・シーンなどでそのフェティッシュな存在感が再評価されている。こうしたサブ=カルチャーと共振するアヴァンギャルドなデザイナーの旗手ゴルチエらが、再びコルセットをモードの表舞台へと引っぱり出した。ヴィヴィアン・ウエストウッドやクリスチャン・ラクロワ、アレキサンダー・マックイーンらも加わった、過去の下着を「見せる」モードへ変貌[コンバート]する作業は、現代モード界に大きな影響を及ぼした。表のフォルムを支える裏の存在から、「見せる下着」という新しいコンセプトを得て表着となったコルセットは、その身体との密着性によって身体を誇らしげに顕示するツールと化した。
そしていま、新しい「コルセットの時代[シーズン]」がやってきたのだろうか。パリで、そして東京でもクリエーターたちがコルセットを作り出している。「洋服」を日常着としながら、「祖母のコルセットの記憶」をもたない私たち。現代のコルセットは私たちの衣服の記憶に何かを残すのだろうか?
藤田ひろみ『あなたと聴く中島みゆき』こうして私はなろうとして中島みゆきさんのライターになった
中島みゆきさんの『夜会』のプラチナチケットが、今年は2回分手に入った。京都-東京間を二往復する間、新幹線の窓から富士山を眺めて、「偶然に富士山に登った人はいない。登ろうとした人だけが登ったのだ」という言葉を私は思い出していた。私は偶然に中島みゆきさんのライターになったのではない。なろうとしてなったのだ。
3年ほど前になる。私が主催している女性のためのグループで、もし余命があと3カ月、6カ月、1年と宣告されたら、それぞれ何をするかという、自分の生き方が問われるワークショップをおこなった。余命1年の場合、私の答えは「中島みゆきさんの論文を書く」だった。
どんなときも中島さんの曲と向き合って、自分にとっての意味を考えてきた。それが消えてしまわないために、ほかの人が読んでもわかる文章にして残そうとしてきた。それをまとまったものにしなければ死ねない、私は迷わずにそう思ったのだった。
そのさらに2年ほど前のこと、本書でも紹介しているFMIYUKIが立ち上がったときのことだ。私は東京まで記念のオフに出かけて行って、臆面もなく「中島みゆきさんのライターです」と宣言をした。誰かから認められていたわけではなかった。でも私のなかでは、自明のこととして私は中島さんのライターだった。
中島さんについてのエッセー(「中島みゆきと癒し」として本書に所収)をグループの通信に連載しながら、これがいつか本になったらすごいよねと夢のように考えていたが、本当に実現するとは思っていなかった。ただ、いま振り返ってみて思うことは、勝手にライター宣言した日から、私は一度も迷わなかったし、一度も後戻りしなかったということだ。自分の内的必要性に応じて、私は自分のペースで書きつづけた。
学会誌「女性学」に投稿した論文は、いまから思えば私にとっての大きな転機だったが、それよりも私は『夜会 金環蝕』が伝える、女性の解放と連帯というすばらしいメッセージを多くの人に対して明らかにできたことがうれしかった。
実は、「女性学」への投稿は最初『金環蝕』と『問う女』というふたつの『夜会』を扱っていた。それが選外となり、私は『金環蝕』に論点を絞って再挑戦したのだった。したがって『問う女』で私が取り上げたかった問題はそのままになってしまったので、今度は修士論文で取り組んだのだった。そして修士論文が今回の執筆に結びついた。余命があと1年になったわけではなかったが、私のなかでは機が熟していたのだと思う。
こんなふうに振り返ってみると、自分のなかで常に変わらない姿勢がありながらも、一歩一歩階段を登るように今回の出版に自分で近づいていったのだと思える。そして私は書くときはいつもひとりだけれど、見守り支えてくれる仲間や家族がいて、関わりのなかで自分を見つめることができるから、書くことが血肉をもつのだと思う。その意味で、本書にも書いたとおり、中島さんが『誕生』に込めたメッセージを、私は出会えた全ての人たちに感謝の気持ちを込めて贈りたいと思う。
こうして私はなろうとして中島みゆきさんのライターになった。山を登るように一歩一歩近づいていった。ところが、思いがけない出版ということで、最後の急坂は全速力で一気に駆け上がらなければならなかった。私はいまも息を切らしている。それにもかかわらず、次の山をめざそうとしている自分もいる。人生には流れに乗る勢いが必要なときもあるだろうと思っている。それはそれとして、自分の出発点を見失わないためにこの文章を記した。あとがきに代えて。
米村みゆき『宮沢賢治を創った男たち』読者にとってどうでもいいこと
いわゆる研究書と呼ばれる書物を手にとると、まず最初に「あとがき」を見る人は結構多い。これは、どうやら、私と同じ“業界”に棲んでいる人たちにとりわけ多く見られる習性らしい。『宮沢賢治を創った男たち』を手にした同業者の何人かが、同書の「あとがき」を読んでびっくりした、と伝えてくる。最初に「あとがき」を見て驚いた、というのだ。
「あとがき」には、お世話になった先生方のお名前や、自分を支えてくれた家族の名前を連ね、感謝の意を書くこと、いわゆる謝辞を記すのが通例……とまではいえなくとも、とても多い。私がこの先達の轍を踏まなかったのは、お世話になった先生がいないとか、親族から追放の扱いを受けているから、とかいうわけではもちろんない。たとえば、学位論文を審査した大学教員の方々は、宮沢賢治の作品は大嫌い、であったとしても、大部の論文を一字一句骨を折って読んでくださっただろうし、そういう私もいま、クリスマスも大晦日もお正月も返上して学生の書いた卒業論文(の下書き)を読んでいる立場だから痛いほどわかる。数年来お正月に顔を見せないと文句を言う家族だって、昔はともあれいまは、絶縁するほどには私を恨んではいないはずだし、私だっておせち料理用のたしにと北陸名産かぶら寿司を贈っている(私は以前、金沢で暮したことがある)。
ただ、私は「○○先生、ありがとうございました」「妻の○○へ、この本を捧げる」という特定の固有名へ向けられた語句を目にするとき、名指しされていない、同書物を手にとる読者の大半にとっては、蚊帳の外に置かれた気分になるのではないのか、と思っているのだ。この感じ方には個人差はあるかもしれない。しかし、やはり教員や家族への謝辞を書いていない筆者に理由を尋ねると、「そんなことは、読者にはどうでもいいことだから」という返答があった。あるいは、なかには家族への謝辞をパロディ化して、洗濯機の愛妻号ありがとう、という「あとがき」を記した研究者もいて、つい吹き出してしまった。
もちろん、先生を崇拝し、家族想いの著者であるというメッセージを伝えることはできる。しかし、多くの読者へ向ける言葉としてわざわざそんなパフォーマンスをするのは遠回りだ。また「あとがき」で固有名を出された人たちが喜んだり、その人のメリットになっているとは限らない。この著者とあの先生はお仲間なのね、とカテゴライズされたり、単に審査のために読んだだけなのに「○○先生ありがとう」と書かれて、その著者を後押ししていると誤解され苦笑いをしている人だっているのだ。
閑話休題、この欄は「原稿の余白に」なので、『宮沢賢治を創った男たち』の書物には、綴らなかった私の個人的なことに少し触れたい。同書のプロフィールを見た人から、経歴に関する質問が多いからだ。私は、名古屋にある大学の外国語学部を卒業した。大学在籍中になんらかの“変節”があって、日本文学に転向したわけではない。不本意入学だった(英語の教師になってほしいと思っていた親が入学金を同大に納めてしまった)。しかし、大学生活に息苦しくなり、大学の姉妹校に留学をした。ある文学の講義では、教室が若い人から年配の人たちでいっぱいになり、熱心な議論を繰り返していたことが印象的だった。日本文学を学ぼうと進学した別の大学の大学院では、自分で学費を稼ぐ人が少なくなく、私も貯金やアルバイトで遣り繰りし、書籍代を捻出するため頭を痛めた。調査のために名古屋から東京へ、あいだに国会図書館をはさみ、さらに岩手県・花巻まで夜行バスを乗り継いで移動し、とても疲れたことを覚えている。数年、家賃が二万円に満たない下宿屋さんにお世話になった。コンセントも一つしかなかったので、冬は暖房機はあまり使えずとても寒かった。博士課程のときに韓国・ソウルに語学留学したのは、大学院に韓国からの留学生が多かったことが大きなきっかけだ。みんな、日本語を流暢に話せるのに、日本人の日本文学研究者たちは、韓国語を話せない、学ぼうとしないことに疑問を抱いていた。留学の経験のおかげで、いま、学生を韓国の研修に引率したりしている。
佐倉智美『女子高生になれなかった少年――ある性同一性障害者の青春時代』のちに女子大生になったワタシ
『女子高生になれなかった少年』がようやく世に出た。1年あまりにおよぶメールマガジンでの連載が終わってから、さらに1年あまり。そのあたり当世の出版事情の厳しさなどが垣間見えなくもないのだが、なにぶん本書の舞台は1980年代、私の“高校・大学時代”なので、執筆と出版のタイムラグはさほど問題ではない(その点、初著『性同一性障害はオモシロイ』〔現代書館、1999年〕では、この問題が大きかった。執筆時にはまだパートタイムで“女装”するだけだったのが、出版時にはほぼフルタイムで女性として生活するようになっていたりした)。
それよりむしろ現在の高校生・大学生が本書を読んだときに、1980年代という時代背景が昔すぎて理解しにくいという問題が発生しないかが多少心配である。なにせJRはまだ「国鉄」。音楽聴くのもCDではなくアナログレコード。なにより携帯電話もインターネットもない。だから「そーゆーときは、まずメールしてみたらエエやん!」とツッコミを入れられそうな場面も少なくないが、そんな便利なものがなかったんだからしようがない。
しかし本当のところ、1980年代と現在とでもっともちがいが大きいのは、じつはセクシュアルマイノリティをめぐる情報の質と量かもしれない。インターネットの有無とも関連するが、現在とくらべれば当時はそうした情報が格段に入手しがたかった。したがって自分のセクシュアリティについて正確に把握するための考察もできなかった。だからこそ私は、悶々とした謎の違和感を抱えたまま、貴重な青春時代を男子生徒・男子学生として過ごさなければならなかったのだ。
その点、現在は恵まれている。例えば小学生からも、「5年生の女子です。でも自分は男子のほうがいいと思っています……」などという相談のメールをもらったりするくらいである。これは、早い時機から具体的に悩まなくてはならなくなったとも考えられるが、やはり自分がどういう存在なのか、なるだけ早くわかるほうが、次への対応がはるかにとりやすいので、おそらくはよいことなのだろう。自分の心の性別はこうなんだ、などと自覚さえできれば、学校に対する要望なども整理できるし、進学・就職に関する作戦だって立てられる。そうして、場合によっては「女子高生になる」という本人の希望を、百パーセントではなくても叶えることができるかもしれない。
そういう意味では、最近の若い世代がうらやましいのはたしかである。同世代のセクシュアルマイノリティ仲間と飲みに行くと、そんな話題でひとしきり盛り上がることもある。とはいえ、私たちも現在ではこうあるべき自分・そうなりたい自分として生きているわけである。いまちゃんとしている以上は、将来「あのときちゃんとしていれば……」という後悔を現在以降に対して抱くことはないということだ。しょせん人生、前を向いて歩いていくしかないだろう。
ちなみに私は2003年4月、大阪大学大学院の人間科学研究科に入学した。昨今は講演の機会が増えてきたこともあり、あらためてジェンダーにまつわるさまざまな事柄を勉強しなおしてみたいというのが公式な理由である。だがもちろんもっとヨコシマな動機も他にあって、その最たるものは「女子大生になってみたい」だろう。いざ入学してみると、大学院というところは年齢不詳・正体不明の人の多いこと! 私もそうだったのだが、社会人特別枠を利用して入試を受ける人は少なくないようで、なかには先生と見まごうような年長者もいる。そんな環境で、私が女子大生として楽しく過ごしているのは言うまでもない。女友達とノートの貸し借りをしたり、昼休みにはいっしょに学食でランチなんてこともある。もちろん勉学にも励んでいる……つもりである。
願いはいつかは叶うのだ、なのかもしれない。
出口 顯『レヴィ=ストロース斜め読み』世界に一つだけの花
余白については本書第8章「余白のフィロソフィー」でマンダリ人の神話を分析しながら論じたことでもあるが、本やその原稿の余白について語ることは必然的に本と原稿の内容を逆に余白化することであり、本来のものとは別の本をつくる営みになってしまう。だからそれは舞台裏やこぼれ話を語ることと決して同義ではない。
例えば、本書はこれまでレヴィ=ストロースについて書いてきた論文を中心に編まれた論集だが、校正の段階で原稿を読み返して、誤解されつづけてきたレヴィ=ストロースの思想のよりよい理解のための「狂言回し」であるかもしれないにせよ、レヴィ=ストロース同様あるいはそれ以上に、柄谷行人の『探究Ⅰ・Ⅱ』にこだわりつづけているということは、文章そのものからわかる。そして、たとえ自分自身でそのこだわりを「再発見」したにせよ、原稿の余白として記すべきことにも思われない。同様に、他ならぬこの私が他ならぬこの私に執着することをなんとかしたいと、「個」「人格」「身体」「関係性」などの構造主義的理解を研究テーマにしてきたことも、本文とくに第6章から読みとれることであり、これもまた余白とはいえないだろう。余白とは、語ることができないから余白なのである――と述べたところで、ここでの責を免れるとも思われない。だから以下の余白ならぬ空白のページを埋めることになるのは、本書の基調音の変奏というべきだろう。
代替不可能性、かけがえのなさということを考えてみよう。売り上げがダブルミリオンに達したSMAPが歌う「世界に一つだけの花」の歌詞ではないが、一人ひとりの個人はもともとお互いに違う「特別なオンリーワン」である。この歌では、だから「ナンバーワンにならなくていい」し、たとえ一卵性双生児、クローン人間であっても、なお彼らはかけがえのない個体であり、代替不可能ということになる。その意味での「オンリーワン」である。
この歌の1番の歌詞では「それなのに僕ら人間はどうしてこうもくらべたがる、一人一人違うのにその中で一番になりたがる」とある。これは19世紀人類学の思想を彷彿とさせる。そのころ欧米に登場した人類学は、文明の絶頂にいた欧米を発達の頂点に位置づけ、そこからの隔たりに応じて世界中の文化を階層的に配列するという、エスノセントリズムに基づく比較を試み、人類の文化の進化を跡づけようとした。「世界に一つだけの花」はこうした、今日のわれわれにも根づいている考え方を批判しているといえよう。
歌の最初(シングルバージョンのみ)と最後で「ナンバーワンにならなくてもいい、もともと特別なオンリーワン」と歌われる。つまりどんなに見た目は異なっていても、逆にどんなに似ていて遺伝子組成が同じでも、優劣をつける比較の対象にはならない、ナンバーワンを決めるような序列的比較は無意味だといっているのだ。これは進化論的比較を批判し、それぞれの文化の独自性を主張した文化相対主義の立場といえよう。人であること(歌では花であること、「そうさ僕らは世界に一つだけの花」)以外は共通点がないのだから、かけがえのない個体だというレベルでとらえるとき、共通なものがないなら、比較は無意味ということになるのだ。
しかしこのような文化相対主義には支払うべき代償がある。違うのだからそれぞれの固有なものを大事にしなければならないと説くことが、その固有なものを守るために文化の間に隔壁をつくることになり、さらにそれが人種差別につながりかねないおそれも出てくるのだ。
「共通なものがないなら、比較は無意味ということになる」と述べた。しかし互いに全く異なっているということにおいて、じつはお互いが同じだということもいえる。「他と同じ性質を全く有していない」という共通の=同じ特徴を個々が有しているのである。代替不可能という意味での差異が全ての個体の共通性、あるいは同一性になるのである。つまり「違うことは同じこと」であり「同じことは違うこと」なのである。これは荒唐無稽に聞こえるかもしれないが、人間の個の関係、自己と他者の関係はまさにこのようにしか表現できないのであり、「自己は他者でもある故にかけがえのない自己になる」のである。神話や婚姻の透徹した分析と強靱な思考力で、レヴィ=ストロースが明らかにしたのは、こうした自己と他者の関係性の「構造」なのである。そして、「そうさ僕らは世界に一つだけの花」の「花」とかそれが意味する「人」とは、たんに分類のための普通名詞なのではなく、じつは「他者であるゆえに自己である」個それぞれに与えられる名前といえるだろう。
このような思考に到達できるとき、われわれは、文化相対主義の代償を回避できるのではないだろうか。
長谷正人/中村秀之編著『映画の政治学』 他者の感受性を触発する映画的コミュニケーションを――長谷正人
映画をめぐる言葉が、いまあまりにも貧しいのではないか。映画作品を映画作品としてまともに論じようとするような批評がほとんど存在しないのではないか。そういう空虚な状況に少しでも抗おうと考えて、この『映画の政治学』という(映画批評というのとは少し違うのだが)論集を中村秀之とともに編んだ。むろん反対に、ある意味では映画をめぐる言葉はいま世の中にあふれかえっていると言えるのかもしれない。これを書いている現在ならば、『踊る大捜査線 THE MOVIE2 レインボーブリッジを封鎖せよ!』 (本広克行監督)と『座頭市』(北野武監督)をめぐってマスメディアが大量に流している情報がそうだろう。前者が大ヒットして実写映画としての観客動員数の新記録を更新中であること、後者がベネチア映画祭の銀獅子賞を受賞したということ。これらの情報はここ1カ月ほどのあいだ、マスメディアを賑わしつづけた。
しかしでは、これらの作品の内容、主題、出来ばえなどについての批評の言葉があるかと言えば、ほとんどないのだ。そもそも両作品とも、別の作品の二番煎じ(続篇とリメイク)として作られたわけなのだから、以前の作品として比較して批判されるのが普通だと思うのだが、そのような批評はほとんど見られなかった(実際、両作品とも、そのような批判をかわすように巧みに作られていることは間違いないのだが、その工夫のありようにさえほとんど誰も言及しないのだ)。マスメディア上で問題とされているのは、それらが「面白い映画」であるとか「駄作」であるというメディア自身の判断では決してなく、記録的にヒットしたとか外国で賞を取ったとかいった、メディアにとっても作品にとっても「外在的」なデータばかりである。つまり、こうした作品をめぐるマスメディア情報は、「作品」自体について語ることだけは避けて通っているのだ(しかし『踊る大捜査線』でさえ、決して批評する価値がない、ただの情報エンタテインメント作品ではないと思う。それはお台場というメディアイメージ化された観光スポットへと人びとの欲望を吸引するための情報エンタテインメントにすぎないことを自ら暴露しながら、実は情報映画として機能するという、用意周到な自己韜晦的映画なのだから)。
むろんこうしたマスメディアの流す情報とは違ったところで、インターネット上の掲示板や日記には「映画作品」をめぐる多くの人びとの感想や批評が書き込まれていることも事実だろう。その意味では確かに、現代ほどさまざまな映画批評(?)を読める時代はないとも言える。だが私はつい先だって、やはり今年ヒットした『黄泉がえり』(塩田明彦監督)をめぐる批評や感想の言葉をネット上で次々と読んでいるうちに、なんだかげんなりしてきてしまった。要するにそれらの感想は、「泣けました」という絶賛か、さもなければ「思ったほど泣けませんでした」という酷評に二分されてしまうのである。つまりこれらの感想は、この作品との対話を通して評者が思考したことや想像したことを書いているのではなく、たんに自分の感覚がどれだけその作品に刺激されたかを報告しているだけなのだった。これではまるで、新しいジェットコースターの乗り心地を報告し合っているみたいではないか。「いやあ、今度のマシーンはスリリングだったよ」とか「そうかな、思ったほどでもなかったよ」などと。
しかし『黄泉がえり』に観客が泣くということは、このような刺激-反応図式からは最も離れた地点に起きる出来事ではなかったのか。例えばイジメを苦にして自殺した男子中学生が、自分の葬式の最中に「黄泉がえって」くるエピソード。ここで観客は、彼がどのようにイジメを受け、どのように苦しんだのかをイメージとしてもセリフとしても全く知ることはできない。ただ結果的に黄泉がえって再び学校の自分の席に着いた彼が、その机の上にひっかき傷のように書かれた無数の悪口の言葉を指でなぞっていくのを私たちは見るだけである。あるいは、娘を出産したときに死んでしまった母親が、年老いた夫と大人になった娘のもとに若々しい姿のまま24年ぶりに黄泉がえってくるというエピソード。ここでも観客は、残された親子がどのような人生を歩んできたかを(母親が聾だったことを聞いた娘が、聾学校の教師という職業を選んだというセリフの説明を除いて)何もイメージとして知らされない。ただその奇妙な年齢構成の親子三人が、抱き合っているのを見るだけである。だからもし観客がこの映画を見て泣いたとしたら、刺激的なイメージやセリフや物語が涙という反応を惹起したためではなく、与えられていないはずのイメージを観客自らが勝手に想像してしまったためと言うしかないだろう。だからここで「批評」に求められているのは、映画を見て泣くというコミュニケーション自体の不思議さについて思考することのはずなのだ(本書第2章の斉藤綾子によるすばらしい論文を参照してほしい)。だがウェッブ上でこの映画について書く誰もが、その不思議さに立ち止まることなく、泣いたり泣かなかったりする自分を生理学者として報告するだけである。
こうして私たちはいま、映画の言葉をめぐる、奇妙な二極分解の地点に立たされているように思う。一方にマスメディアによる、映画をめぐる、味もそっけもない、外在的な情報とデータの羅列。他方に個々人による、「泣ける」とか「笑える」とか「怖がれる」などといった、身も蓋もない生理学的気分の醸成装置としての映画紹介。この両者に欠けているのは、言うまでもなくコミュニケーションであり、対話であり、政治である。映画作品について語ることは、決して自分自身の生理学的反応の報告ではなく、他者の感受性を触発したり、他者の想像力を映画に向けて喚起させなおすような、言語的パフォーマンスであるはずだろう。そのようなパフォーマンスを喚起させてくれる過去の映画作品には、事欠かない(本書が示したのは、そのほんの一部である)。そしてそれはいまも作られつづけているのだ。だから怠慢なのは、映画をめぐる言葉のほうである。本書がそのような映画的コミュニケーションを生み出す起爆剤となることを願ってやまない。
落合真司『音楽業界ウラわざ』J・K・ローリングでなくても、運命から誕生する本はある
わたしが上京するのは、年に1度ほどしかない。目的はコンサートなのだが、上京すれば必ず青弓社を訪れる。いつもアポなしで顔を出し、他愛もない世間話をすこしだけすると、目の前のお茶の湯気が消えないうちに退室する。わざわざ多忙な業務の手をとめさせて、長話をするような重要なネタは持ちあわせていない。いつもあたたかく迎え入れてくれるだけで、ありがたいと思っている。
だが、そのときはちがった。ひとつの企画がぼんやりと頭のなかにあった。しかし、鼻息荒くプレゼンをするほどの材料はなく、ターゲットさえ決まっていない状態だった。だから、いつものようにアポなしで青弓社を訪れることにした。あいにく矢野さんは不在で、1分もしないうちに会社を出てきてしまった。年末の出版社がどれほど忙しいかよくわかっているつもりなので、あいさつだけで出てきたのだ。
静かな廊下でエレベーターのボタンを押して、冷たいドアをぼんやりながめていた。そのとき、ドアが開いてエレベーターから矢野さんが降りてきた。互いに驚き、「もう帰っちゃうの?」という社長の言葉に甘えて、再び部屋に入ることにした。
そこでわたしは、まだ輪郭のはっきりしていない企画をしゃべりはじめた。音楽業界で活躍する人材を育成する専門学校で1年間授業をもっていたことがあり、その講義内容を一冊の本にまとめたいと思っていたのだ。きっかけは、自分が授業をするにあたって、何か教科書になるような本はないかと書店をいくつも見てまわったが、ひとつもなかったところにある。かなり苦労をして、ひとつひとつ自分で調べ、徹夜を繰り返して授業の準備をした1年間だった。
音楽シーンで現在起こっている現象を裏側から分析・解説した講義ノートは、学生に向けてつくったもので、これを外に向けて出版するとなると、今度はターゲットが誰になるのか、自分でわからなくなってしまった。とにかく、こんな本はどこにもないから、どうしても出したいんですと、そればかりを矢野さんに訴えていた気がする。そんなわたしに、「年明けにでも、企画書を送ってよ」と言ってくれた。
約束どおり、年が明けてまもなく企画書を送った。ただし、ターゲットは、あいまいなままだった。同時に、「年明けにでも、企画書を送ってよ」という言葉の重みをわたしは疑っていた。あんなとりとめもない話に、本気で企画書を見たいと思ってくれたのだろうか。「企画書を送ってよ」は、編集者なら、昨日入社したばかりの新入社員だって言うじゃないか。忙しい年末の話など、きっと忘れているにちがいない。そんな不安な気持ちのまま、数日が過ぎた。
1週間ほどして、矢野さんからメールが届いた。社内で会議にかけ、ターゲットや方向性などの案を出してくれたのだ。うれしかった。メールを何度も読み返しながら、なぜかドキドキした。こんなに真剣に取り組んでくれていたのに、つまらないことを考えていた自分を恥じた。そして会議で出されたいくつかの提案にもとづき、企画書を練り直すことになった。
あらためて企画書を出して、つぎの連絡を待った。届いたメールは、ゴーサインだった。張り切って原稿を書いた。講義ノートは、原型をとどめないほどに内容がリファインされていった。気がつけば、原稿は450枚にもなっていた。今度は300枚ちょっとにするため、削っていく作業に追われた。
季節は春が終わりを告げようとしていた。初校のゲラを見ながら、いいことを書いてるなあとナルシストになってしまい、校正がなかなか進まない。
いよいよリリースになり、できあがった本を手にとり、また顔がゆるむ。ちなみに、これが青弓社から上梓した10冊目の本になる。もう本は出せないかもしれない、つぎはないかもしれないと思いつつの10冊目だ。うれしくないはずがない。
この出版不況のなか、ターゲットが不明確な企画書と真剣に向きあい、なんとかよい本にしようと取り組んでもらったことに感動する。わたしが、よい本だとうっとりする理由は、もしかしたら、あの年末の日、偶然にもエレベーターから矢野さんが降りてこなかったら、あと1分すべてがずれていたら、この本は誕生しなかったかもしれないと思うからだ。よくぞこの世に生まれてきたと思う。
田口亜紗『生理休暇の誕生』月経の医療化に抗して――日常的な身体感覚と近代知をつないだ実践の歴史
たいていの方は、「生理休暇」という言葉を耳にしたことがあるのではないでしょうか。また、職に就いている女性の方で、その労働規約に「生理休暇」が盛り込まれていることを知っていたり、実際にこれを使ったことがあるという方もいると思います。また、労働法制にくわしい方なら、労働基準法第68条に「生理日の就業が著しく困難な女性に対する措置」(労基法改正前の第67条では「生理休暇」)として、生理休暇をはっきりと認めた規定が存在することを知っているかもしれません。
けれども、この生理休暇という制度、実は成立当時はアメリカなどの欧米にもまったく例のない、日本オリジナルの制度だったことはごぞんじでしたか? それどころか、大正期にはすでに月経時の休暇を要求する声が登場していたこと、昭和初期にはいくつかの企業で実際に生理休暇が獲得されていたこと、敗戦直後には労働運動に生理休暇要求が復活し、多くの企業が労働協約に生理休暇を盛り込むようになったことなどについては、おそらくほとんど知られていないのではないでしょうか。生理休暇制度は、たんに敗戦直後のGHQ主導による民主化政策のなかで付与されたのでも、労働基準法の成立にともない突然出てきたのでありません。女性労働者や雇用者、医学者、政治家たちとのあいだで敗戦期よりもずっと前から繰り広げられてきた議論や交渉をへて生まれた制度だったです。
生理休暇制度は、1947年の成立当初から現代にいたるまで、月経時の女性労働者を保護するという発想ゆえに、「過保護だ」「世界に例がない」「男女平等の原則に反する」などの批判にさらされてきました。そればかりか、取得する当事者である女性労働者にとっても、「自身の労働評価が低くなる」「上司や同僚からひやかされる」といった理由から、それはたいてい取りづらいものでした。一言でいってしまえば、生理休暇は、誰もが大手を振って称揚するような有効な権利ではないのです。けれど、私が生理休暇について書いたのは、それが有用な制度だからなのではなく、生理休暇をめぐる諸言説の歴史が、近代日本における月経の医療化のプロセスと、その医療化のなかにあってなお、より生きやすい日常を模索しようとする女性たちの姿とを、同時にみせてくれると感じたからでした。
明治以降の欧米文化の移入にともない、近代西欧医学的な観念が日本でも支配的になると、月経は、医学者たちによって病理的なものと説明されるようになっていき、大正期以降には、具体的な医療技術や専門人員の配備などをともなって医療化の対象となっていきます。このような、月経を管理や治療の必要な現象とみなす月経の医療化の過程にさらされながら、生理休暇は、それに抵抗するようなかたちで生まれました。なぜなら、それは女性たちが、自分たちの身体感覚を起点にして、さまざまな女性同士のネットワークを築きながら、月経をあくまでも病気ではないものと捉えたうえで、少しでも快適な労働条件を確保しようとして編み出した権利要求だったからです。
生理休暇を要求する女性たちの主張は、学術的な理論を援用したかと思えば、その理論にはっきりと賛成するでも反対するでもなく、時にはひたすら感情的に自身の身体観や労働環境の悪さを切々と訴えるなど、一見すると一貫性のないものばかりです。そこには、とにかく過ごしやすい「いま・ここ」を確保しようとする女性たちの姿が読み取れます。そして、より強い医療化にさらされている現代の私たちにとって大事なことは、日本で生理休暇という制度が有効なのか、存続か廃止か、といったことを議論することではありません。むしろ、医療化によってもたらされた知や技法を使いながら医療化には抗していた過去の女性たちの姿を、私たちの「いま・ここ」を生きるヒントとして活性化させていくことこそが重要なのではないでしょうか。
つまり、本書は、法学の立場から生理休暇制度の意義や是非を問うことを目的としているのではありません。また、多くの女性史や法制史などの立場から、日本に特殊な要求や制度が日本のフェミニズムの成果として生まれたのだと主張したいのでもありません。私がもっとも注目したのは、月経の医療化とそこでおこなわれていた女性たちの言説による実践の歴史でした。医療化の過程で、自分たちの身体を医療化から守ろうとする女性たちの
田代 順『小児がん病棟のこどもたち――医療人類学から』死が引き戻す母子の原始的関係
この本に描き出した「子どものシーン」の原型となった子どもたちは、(残念ながら)そのほとんどが、私のフィールドワークの期間中に亡くなっていった。
病棟に(基本的に)週1回しか行けないフィールドワーカーの私にとって、終末期/臨死期の子どもと会った翌週のフィールドワークは、とても気の重いものだった。まず、ナースステーションに入る。挨拶もそこそこにおそるおそる入院中の子どもの名札を見る。個室に入室している子どもの名前に目をやる。そこに先週会った彼/彼女の名前はない。
私は彼/彼女が、短い人生の最後のひとときを母親とすごしただろう個室の前に立つ。新しい個室入室者はまだいない。引き戸のドアをスライドさせてなかに入る。がらんとしたベッドがきれいに掃除されて、ぽつんと部屋のなかにある。ものすごい違和感だ。彼/彼女の痕跡はまったくない。しんと静まりかえっている。沈黙そのものですら押し黙っている感じだ。あるいはしんという音がうるさいくらい耳ざわりだ。ついこの前までこの個室で、子どもが死に逝きつつあることを知っている母親は、どのような気持ちで、子どもとの最後のひとときをすごしたのだろうか? 身体がどんどん悪化して苦しくなるなか、子どもは迫りくる自分の死というものをどのように認識していたのだろうか?
小児がんの病棟で、子どもは、(まだ)生きていること、子どもであることの証として、遊んだり泣いたりしていた。ときにぶっきらぼうになり、ときに熱心になって私に受け答えをしてくれた。あるいはときに悲しそうに。ときに苦しそうに。ときにさびしそうに。ほんとうにいろいろな姿を母親に、私に、ほかの子どもたちに、医師や看護師にみせてくれた彼/彼女は消えてしまった。
あるいは(今週は)もう会えないくらい病状が悪化していて、完璧に個室で母親と2人きりになっている子ども。もちろん、治療をする/看護行為をする以外の者は、その個室に入ることがすでにできなくなっている。私は、彼/彼女ともう会うことはない。顔を見ることもない。私が、どんなに母親やその子どもと仲がよかったとしても、もう彼/彼女は死に捕らわれてしまっている。死の覆いがすべてを包み込んでいる。唯一、母親だけが、その子どもという命を産み出した母親だけが、自分がこの世にひとつの命として産み出した子どもの、刻々と死に逝きつつある状況を子どもとともにする。子どもの命に寄り添っている。そして(おそらく)次の週には、彼/彼女の名前はない。
思い返してみて、こうして死に逝きつつ死に至るという時期でさえ、そこにあるのは社会的な営みを維持しながら死んでゆくための子どもと母親の営為である。もっと具体的に言えば、母親との最後の関係を維持しつつ、きわめて社会的に死に逝こうとする子どもの姿が、死とともにそこにあるということだ。そして、ここに至るまでにさまざまな方法とニュアンスで子どもは(そして母親は)小児がん病棟を構築し、それを支えるために通底する社会的文脈を絶えず維持・生成する方向でのダンスを踊る。壊す方向ではもちろんなく。そのような「破壊」につながる方向での言動・行動はタブー視され徹底して回避する方向で。病棟社会を構成する人々が、それぞれの役割を存分に担い合いながら。
いま、こうして本が上梓されることになって、振り返ってみると、ほんとに眩暈がするくらいの社会的な営為の積み重ねが、病棟社会のそこここに展開していたことがよくわかる。幼い子は幼い子なりに、母親は母親なりに。かように、人間は人間であるがゆえに(最後まで人間であるために)、社会/関係という鎧をしっかり着込んで病気なり、死が近しくなるにつれて、病棟社会の社会的属性、鎧を脱ぎ捨てながら(幼い子どもは赤ちゃん返りして)死に逝く。母子関係という原初的な関係は最後まで維持しながら。それらは、死に子どもと母親が近づくことよって、治療を究極の社会目標とする病棟社会の一員である必要がなくなるということだ。ここにおいて初めて、子どもは子どもに、母親は母親に(再び)存分に帰っていくのである。病院にくるはるか以前の、ごく普通の「健康」だった子どもと母親の関係に。
最後に、本文ではあまりふれることができなかったが、医師と看護師の献身的な治療と看護に言及しておきたい。
治療・看護対象が子どもだということもあると思う。彼らとは、本来、死んではいけない存在なのだ。元気に走り回っている存在なのだ。だからこそ、医師も看護師もそれこそ、その小児がんに子どもが罹患するという理不尽さに全力で抵抗し戦っていた。もてる力を出しきりながら懸命に子どもにかかわっていた。それが、短い生涯を全力で生き、全力で死んでいった子どもらへの「畏敬」と「はなむけ」の証であるかのように。
最後の最後に。
なによりも子どもと母親に。そして、医師と看護婦に。心から感謝の気持ちをこめて。ほんとにありがとうございました。
笠原美智子『写真、時代に抗するもの』私は抗しつづける
拙著『写真、時代に抗するもの』が出版された。できあがってほやほやの本に頬ずりして、にまにましながら、さすってみる。もう読む必要もないのに、何回も見返して、ことあるごとに取り出してページをめくる。そうした幸せな躁状態がすこし落ち着いて、つくづく眺めて思うのは、「わたし、よくこれだけ仕事してきたよね」。
1989年に東京都写真美術館の学芸員になってから今年の7月に東京都現代美術館に異動するまでの13年間で、この本と98年に出版した『ヌードのポリティクス――女性写真家の仕事』の2冊をまとめることができた。13年間で本2冊というのは普通の書き手としては少ないのかもしれない。けれども美術館の学芸員としては、「よく」と自画自賛してもバチは当たらないのではないかと思う。なにせ、学芸員の仕事の9割以上は雑務である。展覧会のための調査や研究、図録の論文書きなどは雑務の合間のわずかな時間をかすめてやるか、勤務後や休日に家で書くしかない。日本の学芸員が雑芸員といわれる所以である。自他共に認めるめんどくさがり、怠惰このうえないわたしが、こんな状況で、「よく」これだけ仕事をしてきたものだとわれながら感心する。好きな仕事だし、やりたい展覧会だからではあるが、怠け者のわたしを衝き動かしていたのはそれだけではない。それは「怒りのパワー」とでも呼ぶべきものである。
本当にわたしは怒っていた。美術館とはどんなものであるかもちゃんと調べずに美術館を作ってしまい、まっとうな組織構成も人事もせず、10年にも満たないうちに、入館者が少ないからといって予算を大幅に削減したり廃館をにおわす、東京都のいいかげんな文化行政に対して。自分の権利だけを主張して、義務をなおざりにする役人化した学芸員に対して。コンセプトだけ考えれば展覧会ができると思っている大学の先生に対して。展覧会を金儲けのイベントとしか考えていない一部の新聞社事業部に対して。普段美術館に興味もなく来もしないのに、海外旅行でたまたま立ち寄った美術館の聞きかじりをわけ知り顔で吹聴し日本の美術館をけなす政治家や一般の人に対して。自分の写真だけは美術館で取りあげられるべきだと信じ込んでいる写真家に対して。専門分化も役割分化もできていない日本の美術館に対して。貸館になっても専門家以外の館長が就任しても、異を唱えるどころかその問題点すらわかっていない写真界に対して。写真のことなど何の興味もなく勉強もしていないのに展覧会を企画する「現代美術」のキュレーターに対して。そもそも批評文化が成立しないこの国の文化的貧困について……。
もちろんわたしは自分のことを棚に上げている。そんなことははなからわかっている。しかし、上は日本の文化情勢から、果ては日常の細々とした出来事まで、毎日毎日何かが起こり、怒りの種は尽きず、怒髪天を衝くような環境でわたしは暮らしていた。
最近わたしは怒らなくなった。「大人になったね」ともたまに言われる。45歳の女をつかまえて「大人になった」もないもんだけれども、確かに大声を出すことも、怒りで身を震わすことも少なくなった。愚痴をこぼすのもめっきり減った。何が起こってもたいがいのことではあわてふためいたりはしない。状況が好転しているからではなく、むしろその逆で、美術館や写真を巡る状況は悪化の一途を辿っている。しかし経験とは恐ろしいもので、怒りのハードルはどんどん低くなっていく。めったなことでは動じなくなった。
わたしは自分の身に起こっているこの変化がおそろしい。これは成熟と言うよりもむしろ、諦念が忍び寄っているのではないか。嫌悪してきた予定調和の世界に、知らず知らずに自分も身を浸しているのではないか。エネルギー値が落ちてきているような気もする。
怒りの代わりに人を動かすのは何だろう。人によっていろいろあるだろうけれども、わたしの場合の答えはわかっている。そしてわたしはいま必死でそれを探している。