映画をめぐる言葉が、いまあまりにも貧しいのではないか。映画作品を映画作品としてまともに論じようとするような批評がほとんど存在しないのではないか。そういう空虚な状況に少しでも抗おうと考えて、この『映画の政治学』という(映画批評というのとは少し違うのだが)論集を中村秀之とともに編んだ。むろん反対に、ある意味では映画をめぐる言葉はいま世の中にあふれかえっていると言えるのかもしれない。これを書いている現在ならば、『踊る大捜査線 THE MOVIE2 レインボーブリッジを封鎖せよ!』 (本広克行監督)と『座頭市』(北野武監督)をめぐってマスメディアが大量に流している情報がそうだろう。前者が大ヒットして実写映画としての観客動員数の新記録を更新中であること、後者がベネチア映画祭の銀獅子賞を受賞したということ。これらの情報はここ1カ月ほどのあいだ、マスメディアを賑わしつづけた。
しかしでは、これらの作品の内容、主題、出来ばえなどについての批評の言葉があるかと言えば、ほとんどないのだ。そもそも両作品とも、別の作品の二番煎じ(続篇とリメイク)として作られたわけなのだから、以前の作品として比較して批判されるのが普通だと思うのだが、そのような批評はほとんど見られなかった(実際、両作品とも、そのような批判をかわすように巧みに作られていることは間違いないのだが、その工夫のありようにさえほとんど誰も言及しないのだ)。マスメディア上で問題とされているのは、それらが「面白い映画」であるとか「駄作」であるというメディア自身の判断では決してなく、記録的にヒットしたとか外国で賞を取ったとかいった、メディアにとっても作品にとっても「外在的」なデータばかりである。つまり、こうした作品をめぐるマスメディア情報は、「作品」自体について語ることだけは避けて通っているのだ(しかし『踊る大捜査線』でさえ、決して批評する価値がない、ただの情報エンタテインメント作品ではないと思う。それはお台場というメディアイメージ化された観光スポットへと人びとの欲望を吸引するための情報エンタテインメントにすぎないことを自ら暴露しながら、実は情報映画として機能するという、用意周到な自己韜晦的映画なのだから)。
むろんこうしたマスメディアの流す情報とは違ったところで、インターネット上の掲示板や日記には「映画作品」をめぐる多くの人びとの感想や批評が書き込まれていることも事実だろう。その意味では確かに、現代ほどさまざまな映画批評(?)を読める時代はないとも言える。だが私はつい先だって、やはり今年ヒットした『黄泉がえり』(塩田明彦監督)をめぐる批評や感想の言葉をネット上で次々と読んでいるうちに、なんだかげんなりしてきてしまった。要するにそれらの感想は、「泣けました」という絶賛か、さもなければ「思ったほど泣けませんでした」という酷評に二分されてしまうのである。つまりこれらの感想は、この作品との対話を通して評者が思考したことや想像したことを書いているのではなく、たんに自分の感覚がどれだけその作品に刺激されたかを報告しているだけなのだった。これではまるで、新しいジェットコースターの乗り心地を報告し合っているみたいではないか。「いやあ、今度のマシーンはスリリングだったよ」とか「そうかな、思ったほどでもなかったよ」などと。
しかし『黄泉がえり』に観客が泣くということは、このような刺激-反応図式からは最も離れた地点に起きる出来事ではなかったのか。例えばイジメを苦にして自殺した男子中学生が、自分の葬式の最中に「黄泉がえって」くるエピソード。ここで観客は、彼がどのようにイジメを受け、どのように苦しんだのかをイメージとしてもセリフとしても全く知ることはできない。ただ結果的に黄泉がえって再び学校の自分の席に着いた彼が、その机の上にひっかき傷のように書かれた無数の悪口の言葉を指でなぞっていくのを私たちは見るだけである。あるいは、娘を出産したときに死んでしまった母親が、年老いた夫と大人になった娘のもとに若々しい姿のまま24年ぶりに黄泉がえってくるというエピソード。ここでも観客は、残された親子がどのような人生を歩んできたかを(母親が聾だったことを聞いた娘が、聾学校の教師という職業を選んだというセリフの説明を除いて)何もイメージとして知らされない。ただその奇妙な年齢構成の親子三人が、抱き合っているのを見るだけである。だからもし観客がこの映画を見て泣いたとしたら、刺激的なイメージやセリフや物語が涙という反応を惹起したためではなく、与えられていないはずのイメージを観客自らが勝手に想像してしまったためと言うしかないだろう。だからここで「批評」に求められているのは、映画を見て泣くというコミュニケーション自体の不思議さについて思考することのはずなのだ(本書第2章の斉藤綾子によるすばらしい論文を参照してほしい)。だがウェッブ上でこの映画について書く誰もが、その不思議さに立ち止まることなく、泣いたり泣かなかったりする自分を生理学者として報告するだけである。
こうして私たちはいま、映画の言葉をめぐる、奇妙な二極分解の地点に立たされているように思う。一方にマスメディアによる、映画をめぐる、味もそっけもない、外在的な情報とデータの羅列。他方に個々人による、「泣ける」とか「笑える」とか「怖がれる」などといった、身も蓋もない生理学的気分の醸成装置としての映画紹介。この両者に欠けているのは、言うまでもなくコミュニケーションであり、対話であり、政治である。映画作品について語ることは、決して自分自身の生理学的反応の報告ではなく、他者の感受性を触発したり、他者の想像力を映画に向けて喚起させなおすような、言語的パフォーマンスであるはずだろう。そのようなパフォーマンスを喚起させてくれる過去の映画作品には、事欠かない(本書が示したのは、そのほんの一部である)。そしてそれはいまも作られつづけているのだ。だから怠慢なのは、映画をめぐる言葉のほうである。本書がそのような映画的コミュニケーションを生み出す起爆剤となることを願ってやまない。