柿谷浩一(ポップカルチャー研究者)
山下智久の鍛えられた肉体美は、テレビドラマや映画の出演作や雑誌のほか、「Instagram」の投稿などで、ときにセンセーショナルな話題を作りながら人々を魅了してきた。山Pの肉体――こう書くと、たくましくてセクシー。そんなイメージを思い浮かべるかもしれない。確かに、雑誌のグラビア、具体的な例では雑誌「an・an」のフルヌード特集、あるいはコンサートのパフォーマンスなどでは、色気あふれるボディーを披露してほれぼれする。だが彼の肉体は、ビジュアルだけの単純なものではなく、もっと深い特質も備えている。
出演キャリアを眺めてみると、肉体作りが話題になった映画『あしたのジョー』をはじめ、規模の大小はあるが「裸の芝居」を多くこなしてきた。そのつど彼の肉体からは、美観を超えた、ある種の「魅惑の肉体性」とでも呼ぶべきものが感じられた。山Pの肉体を全面に捉えた作品としては、最初で最後と銘打った『山下智久写真集 CIRCLE』もあるが、これについては長い書評をすでに書いた。なのでここではほかの作品群から、その個性に迫ってみたい。
サスペンダー姿の「上裸」の魔力
山Pがみせた裸体のなかで、人々の記憶に鮮烈に焼き付いている早いひとつに、テレビドラマ『クロサギ』(TBS系、2006年)の冒頭シーンがある。詐欺師の主人公が、裸の上半身にサスペンダーだけを身に着け、青空の下、緑の芝生に仰向けで寝転んでいる。カメラが寄ると、はだけた首元と腕まわりの素肌を強調しながら、こちらへ目線を向けるように寝返りを打つ。この印象的なショットから、物語の幕は開く。
さまざまな人物に変装し、弱者を助け正義を守るため詐欺をはたらく。そんな物語性をくみとりながら、何者にも扮することなく「偽りないありのままの素」の主人公――本当は人の痛みや悲しみを誰よりも思いやる優しい心の持ち主、そんな彼の本性をイメージで捉えながら、視聴者に向けたサービスショットにもなる一コマだ。本篇の内容や展開と直接は関わりがない、ごく短い挿入映像だが、この半裸が、初の山Pの単独主演作ということもあって、妙にクセになる魅惑と求心力を放っていた。
なぜこの姿が、胸をつかんでくるのか。確かなのは、彼の「裸」には、瞬時にして(ここでは、なぜ裸なのかの謎も含めて)ミステリアスな雰囲気を強烈に生み出すと同時に、あっという間にその奇抜さのなかに、妙な納得感で観る者を引き込んでしまう――そんな魔法のようなパワーがあることだ。そこにはキャーと嬌声を上げて反応するような、目を喜ばせる「表面的な美観」では決して収まらない、肉体の潜在力が感じられた。
コミカルさに隠れた、ナチュラルな特性
同じく長い映像ではないが、彼の肉体の個性を表現して象徴的だったものに、2015年に放送されたDMMモバイルのコマーシャルがある。ベーコン柄のスーツに、ときに目玉焼きのサングラスをかけてベーコンエッグに変装した山Pが、スマホを宣伝する。数種類のバージョンのなかでも、特に体を張ってインパクトがあったのが「爆安」篇だ。
「わざとらしいCMって個人的には大嫌いなんですけど、どうしてもやれって言われたんで、いまからわざとらしいCMやらせていただきます」で始まるその内容は、山Pがおもむろにシャツのボタンを開けて「爆安」と書かれた胸筋を見せて、その字に自分で驚くというもの。芝居がかった「うーわっ」というオーバーリアクションと、振り切ったパフォーマンスが、コミカルかつシュールで衝撃的だった。
そこで注目すべきは、そのあらわになった裸体からは、変な特別感や違和感といった印象を受けないことだ。わざとやっているが、裸を見せること自体はわざとらしくない。もっといえば、裸が自然であるかのようにさえ感じる、そんな不思議なテイストにあふれていた。CMとしてウケを狙った設定と見せ方だから「ヌード」のように露骨にはならなかった、そういう面ももちろんあるだろう。でもそれを踏まえたとしても、シャツを剝ぐという生々しい身ぶりから、そして豪快にはだけて主張してくる立派な胸板と艶のある肌から、官能めいた露出感が漂わないのは特筆すべき特徴といっていいはずだ。そこで際立つのは、セクシーや刺激とは真逆の、安心感や安定感にも近いナチュラルさ。それは、「山下智久の肉体」とその表現の重要なエッセンスであるように思われる。
『今際の国のアリス』で全開する個性
そんな山P特有の「肉体的エッセンス」を役者として炸裂させたのが、全世界配信ドラマ『今際の国のアリス』シーズン2(Netflix、2022年)である。物語は、異世界に迷い込んだ主人公たちが、現実世界へ戻るため、生死を賭けたさまざまなゲームに挑んでいくサバイバルもの。その敵役のひとりで、シーズン2の目玉の配役として予告の段階から反響を呼んだのが、山P演じるキューマだ。
彼は裸で生活することを真の生き方として実践する「ヌーディスト(裸体主義者)」で、登場から終始、それが当然であるかのように何の衣服も着けず真っ裸で行動していく。もちろん下半身にも何も着けていなくて、お尻は丸出し、局部はほかの人物やモノの一部でうまく隠した状態で進行する。
主人公たちも彼の仲間たちも、周囲はみんな普通に服を着ているなか、素っ裸で飄々と現れ、素足でスタスタと歩き、ときには天に向かって両手を広げて「フォー!」と雄叫びを上げる。そのいでたちはインパクト絶大で、最初は少し笑いかけてしまう。でもそれもつかの間、十数秒も観ていると、彼の裸から強烈に発せられる得体の知れない魅力と個性のほうがすぐに上回って、その異様な世界観にぐいぐい惹き込まれている。そして気づけば、山P=キューマが丸裸であることに、「しっくり」した感じさえ覚えるほどになっている。肉体は迫力ある主張をしてくるが、「~だよ」という独特なソフトな口調も含め、キューマの言動は余裕にあふれて力みがなく、軽やかそのもの。そのソフトな「自然体」が、全裸をクレイジーなものとして受け止める、ぼくたち観る側の凝り固まった感覚と価値観をほぐし、転覆させながら、キャラクターと作品に夢中にさせていく。
この独特な触感を、人物が登場してからの短時間で、一気に、そして強烈に作り出す力は、「山下智久の肉体」の特性ならではものだ。
「哲学」をつくる裸
ボリュームたっぷりの大胸筋、バキバキに割れた腹筋、引き締まったヒップ……、全身の各部位の筋やスジがくっきり浮かぶ、ビルドアップされて筋骨隆々としたフォルムは、芸術的なまでの「美」と「荘厳」に満ちて凄まじい。それはダビデ像をも彷彿とさせる趣で、(ヌーディストの起源のひとつでもある)古代ギリシャ・ローマの気配さえ含んで感じられる。――テレビドラマ『MONSTERS』冒頭で、香取慎吾演じる主人公が、山P演じる西園寺を見つめて「ギリシャ彫刻にしたいぐらいのきれいなお顔」と語る場面があったのを思い出す。どうも彼の容姿は、年齢や身体の鍛え具合とは別に、ただきれいでカッコいいというのではなく、歴史ある西洋美術へと通じるような要素や側面を元来備えている感じが強い。
そんなキューマ最大の特色は、主人公の前に立ちはだかる敵でありながらも、ゲームを通じて究極的な問いを投げかける〈哲学者〉のような立ち位置で、主人公の考えに大きな影響を与えることだ。
「そもそも、もとの世界とは何か」というせりふをはじめ、世界や人間、その生き方や価値観など、さまざまなものの〈真〉をキューマは追究してかかる。そんな彼の言葉が比類ないメッセージ性を帯びるのは、全裸の人間から発せられる「ウソ偽りない真実性」という点ももちろんながら、いちばんは、彼の肉体が「歴史」の香りを存分にまとうことで、時間・時代を超えて「哲学」的な伝統、その深みと重みを獲得しているためだ。思考をとことんまで探求し突き詰めていくのが哲学だが、極限まで鍛え抜かれたキューマの肉体を通して語られる言葉は、その意味とは別に、温度や質感、響き方という面で、洗練されたストイックさと深遠さをもって相手に突き刺さるから鋭い。哲学的な発言を「肉体」が補強し生成していく、そんな凄みがここにはある。
しかも妙なのは、キューマの裸以外の部分、たとえば顔や言葉選びなどに目を向けると、しっかり「現代っぽさ」もあること。ぼくらと変わりない現代人ながら古風な趣もにじむ、人間なのだけれど人間を超えた感じも漂う。そんな絶妙なミックス具合の彼が、高尚で形式ばった「哲学」とは違う、生々しくも斬新な「新しい哲学」をみせる感じが、またいいのだ。見事な肉体を備えたアイドルや役者はほかにもいるが、すべてが屈強でワイルドにならず、顔や声、存在感などの節々で現代風の柔らかさもあわせもつ山Pだからこそできる役と芸である。
衣服以外の何かしらの装飾、空間的な演出が特別あるわけでもなく、文字どおり、ひとりの現代人らしい風貌のキューマ=山Pが「裸になる」、素っ裸で「ありのままの人間」としてそこに立つ。それだけで、鍛錬した肉体のもとに「人間の完成形」のような圧倒的なオーラと、人間を超越した「古代の神」の面影のような雰囲気を同時に醸し出す。そして、いくぶん殺風景なゲームとその舞台であるコンテナ置き場に、古代西洋のコロシアムさながらの息吹を吹き込む。その創造力は、破格といわざるをえない。
「肉体」と「精神」のドラマ
そんなキューマのパーフェクトにも近い「肉体」と「精神」の関わり、そこにみえるドラマも圧巻だ。キューマの強烈なカリスマ性は、その生き方の思想からきている。現実世界でやっていたバンドのライブで、観客に「お前ら、生きてるのか?」と絶叫する回想に象徴されるように、彼は「生」の実感や充足に飢えていて、これを希求している。それは生死のバトルを繰り返すこのバーチャルな異世界に放り込まれてから、より激しく先鋭化して、彼にとって唯一の目的と化している様子だ。そこでは、もはや死に対する不安や恐怖は消え、魂と魂をぶつける命がけの戦い(対話)によることでしか、世界や人間の真実――「生きる」意味、そしてその延長線に必然としてある「死の意義」は捉えられないと考えている感じだ。
そこでのポイントはこうだ。精神的にはハードなまでに「生」の手応えが足りない。しかし逆に、外見としての肉体は「生命力」をみなぎらせて充実感にあふれている。その「肉体」と「精神」のギャップ、そこから逆説的に伝わってくる彼の本性、その心のありようが、唯一無二の魅惑を生んでスリリングなのだ。しかも彼は感情の起伏をみせず、泰然とした態度で己の生き方を貫く。そのさまは、特に物語序盤では、つかみどころがなく不敵そのもの。悟りの境地を開いて振り切った感じはヒシヒシ伝わってくるが、鉄壁の肉体が「鎧」になるようにして、彼の中身は守り隠されている印象だ。それが強烈であるがために、肉体というベールに包まれた内面は、一体どうなっているのか。彼の実体・本性を知りたい想いに強く駆り立てながら、観る者をファンにするように絡め取りながら物語が進む。そのダイナミックさも圧巻である。
空虚な真実へ
そんな物語のラストで、主人公とのゲームに負けたキューマは、落雷のようなビームに撃たれて果てる。本気で戦った主人公との相互理解、終わりなき命がけの闘いを(勝ち)続けてきた全力の時間と仲間との絆……それらを抱えたままついに訪れる死を前に、彼は両手で天を仰ぐようにしながら「これが死か、案外悪くない。ひとつの後悔もない、理想的な人生だ」と語る。
この場面の捉え方はいろいろあるだろうが、彼の言葉と満足げに死を受け入れる姿には、求めてきた「生きる(生きてきた)」手応えをようやく手にした感じがみえる。つまり、ずっとズレていた「生」がほとばしる肉体に、「生」を実感する精神が一致して重なる。だがそのとき、無残にも命は終焉を迎える。そこでのキューマは、まるで人間の限界まで、存在の外も内も「生」で満ち飽和しきって、死へ向かって崩壊するようにも映る。その瞬間の(肉体と精神が合致した)個体は、じつに神秘的で荘厳だ。
人間に到達できる究極の幸福と、それでいてどうにもならない死という運命の悲哀。これらが混然一体になって――でも、最後までキューマは冷静で淡々としているため、それはじつに静穏に粛々と伝わってくる。その深遠ぶりは、唯一無二だ。そして、まるで水泳選手が華麗に飛び込むように、ビームに撃たれた彼が海へ落ちていく光景は、美しくも、じつにあっけなくてはかない。そこには、人間の生=生きた肉体、人間の死=屍になった肉体、それらすべてが結局は刹那的なもので、無機質な出来事でしかない。そんなこの世の空虚な本質を突き付ける感じがあり、茫然とする余韻が観る者をしばらく覆う……。
「裸」で世界をつかむ
日常の感覚からすれば、特別なことで、奇抜にも映る「裸」。でもそれは一個の人間の原点へ立ち返れば、ごく自然なことでもある。そんな真理をさらりと「肉体」で醸して体現しながら、それを生かした役で、もっと大きなこの世界の自然――すなわち、人がこの世で生き/死にゆく意味と運命を、鮮烈に表現してみせる。それを実現する「山下智久の肉体」の力は、とてつもないものだ。人が「裸」になるとき、その“個人の素”をさらけ出すが、山Pはさらに向こうにある“世界の素”も剝ぎ取ってしまう。それだけの表現力をもつから素晴らしいのだ。
そして、加えて想う。キューマがたどり着いた「後悔」の一切ない生き方は、まさしく「人生は一度しかない」を生きる哲学として掲げて、どんな役もこなすべく肉体作りを怠ることなく挑戦的に生きる、現実の山下智久に強く重なりもする(そして前回の『プロポーズ大作戦』のケンゾーにもだ)。
後年になって山Pは、全裸のキューマを演じたことにふれて「それを経験したらもう何も怖くない」と語っているが、その境地に立つのは容易なことではない。やったことがない役への挑戦を常々口にしてきた彼なればこそ、この作品で(も)惜しげなく「素っ裸になる」——それは衣装や小物などの手助けなしに、文字どおり、己の身体だけで表現しなければならないきわめて困難な試み。それを意欲的に選んで、見事な成果を出してみせた。そこには役者として高みを追究し、自身の可能性を模索しつづける〈役者魂〉があった。
それまで培ってきた経験やキャリアからさらに踏み出して、いまある「殻」を脱ぎ捨てて前進する。国内にとどまらず、世界へも進出する。そんな現在の山Pの並々ならない情熱と、表現者としての強い覚悟。それらが重なり絡まるようにして、キューマの「裸」のドラマは、リアルさと重力を伴って胸にズシンと響いた。
筆者X:https://x.com/prince9093
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