いまなぜ高所綱渡り師なのか――『高所綱渡り師たち――残酷のユートピアを生きる』を書いたあとで

石井達朗

 現在の舞踊を中心にして、パフォーミングアーツ全般に対するわたしの関心は、もとをたどれば、幼少期に1年に1度、母が連れていってくれたサーカスにある。大きな神社の境内に秋になると市が立ったのだが、それと並行して神社から少し離れた空き地にサーカス団がやってきてテント公演をするのが恒例だった。子どもにとっての娯楽がいまのようになかった時代、秋にやってきて、終わると跡形もなく消えていくサーカスは、異形の人たちがもたらす最高の楽しみだった。テントのなかに一歩足を踏み入れると、馬糞のにおいとサーカス芸人たちのきらびやかなスパンコールが同居している。どこにもない不思議な世界。とくに魅せられたのは曲馬と空中ブランコである。大人になってからは、欧米はもとより中国、韓国、インドなどの町や村でさまざまなサーカスを観てきた。
 綱渡りに引かれるようになったのは、サーカスという集団を離れて、野外の高所でパフォーマンスをおこなう人たちがいるからである。彼ら/彼女らは孤高の存在だ。文字どおりの独立独歩の冒険者たちである。サーカスのように鳴り物入りで綱渡りを盛り上げてくれるわけではない。何よりも高所綱渡り師たちは、サーカスでアクロバットするほかの芸人たちとはどこかちがう。最近のサーカスは、わたしの子どものころとは比較にならないくらいの大きな鉄骨に支えられたテントを使うので、テントのなかではるかてっぺんを見上げるようにして綱渡りを観たという人も少なからずいるはずである。その場合は、落下防止のネットが設置されていたり、綱渡り師とワイヤーを結ぶ「テザー」とか「ハーネス」を装着したりするなどの安全対策をとっている。
 それにしても高所綱渡り師たちとは一体、何者なのか。歴史をみると、一瞬の油断で、あるいは何らかの物理的な条件が不備であったために命を落とした者たちが少なくない。大けががもとで残りの人生を車椅子などで生活した者たちはもっと多いだろう。しかし、彼ら/彼女らは決して向こう見ずの命知らずではない。なぜあえてそれほどの高所に挑戦するのか。
 そんなふうにわたしに迫ってきたのが、フィリップ・プティである。彼の生のパフォーマンスを1度だけ、1980年代末のニューヨークで観たことがある。プティといえば、74年に、110階建て、地上410メートルを超えるニューヨークのワールドトレードセンタービル2棟の屋上に長さ42メートルのワイヤーを設置して、命綱なしに渡ったという歴史的な行為がある。すべて違法であることを承知のうえでおこなった確信犯である。プティの助っ人たちは、徹夜で超高層ビルの屋上をワイヤーでつなぐという大仕事をしたのだ。プティも一睡もせずにこの作業をやったあと、その日の朝、綱渡りを決行した。「勇気」や「挑戦」などという言葉さえ色褪せて聞こえるほど、度を超している。
 歴史をひもとくと、驚くことにフィリップ・プティに勝るとも劣らない高所綱渡り師たちが少なからず存在してきた。これは決して男たちだけではない。女たちもいる。そういう人たちに言葉をとおしてできるだけ肉薄してみたいと思ったのが、本書を書き始めたきっかけである。高所綱渡り師について語る場合、数字が物を言う。いつ、何歳のときに、ロープの高さ、長さ、太さ、バランス棒の長さ、集まった群衆の数は……など。そのほか、ロープの下に設置する安全ネットの有無、ハーネスなどの墜落防止対策をしていたかどうか、天候はどうだったか、ロープの種類は麻か鋼か、など。不幸にも墜落してしまったのなら、その人は亡くなったのか。墜落した理由はどこにあるのか。墜落はしたけれど命拾いしたのなら、その後の人生はどうだったのか。わたしの好奇心がふくらめばふくらむほど、数字による具体的な記述も増えてくる。20世紀前半から19世紀へと時代をさかのぼるほど資料が少なくなったり、資料によって記述が異なっていたりと、困惑させられることもよくあった。
 高所綱渡りをする者たちについて知りたい情報は尽きないが、わたしにとって最大の疑問は、彼ら/彼女らは一瞬にして命を失ったり、残りの人生を障がい者として生きなければならなくなったりするかもしれないのに、なぜ綱を渡るのかということだ。彼らは精神も肉体もわれわれ常人とはちがう何かをもっているのか。それともさしてちがわない人たちなのか。恐怖、不安、躊躇をどんなふうに克服できるのか……など、尽きることがない問いが追い立てるように執筆中のわたしを突き動かした。それらの問いに対する答えはいまだに一筋縄では捉えられない。
 本書を書き終わってひとつ感じていることがある。人という生き物は自分が想像する以上に、途方もない可能性をもっているにちがいないということだ。外に羽ばたこうとウズウズする心身の力を内包している。それが、最近はケータイやパソコンなどのデジタルテクノロジーによって、いつも押し込められているように思えてしかたがない。高所綱渡り師という静かな挑戦者たちが、歴史のなかにいつも存在してきた。そして現在もいることに思いを馳せてみたい。そのことが、いまや当たり前のようにITの森の住人になってしまっている我々に、何か根底からちがう尺度を与えてくれるかもしれないと思うのだ。
 
『高所綱渡り師たち』試し読み
 

第3回 『プロポーズ大作戦』の人間学

柿谷浩一(ポップカルチャー研究者)

 山下智久は〈弱さ〉を演じるのがよく似合う。それも特別なものでなく、誰のなかにもごく当たり前にある弱み。山Pはそんな〈弱い人間〉をテレビドラマ、とりわけラブストーリーのなかで印象深く表現してきた。
 彼が出演したドラマのジャンルはさまざまだが、なかでも前回取り上げた『コード・ブルー ~ドクターヘリ緊急救命~』の救命医の藍沢先生や、『インハンド』の微生物学者・紐倉博士、あるいは『アルジャーノンに花束を』の高知能を得る咲人といった「天才」を多く好演してきた。その一方で、普通の「凡」な青年、そこにある小さな苦悩や葛藤を描く作品でも、彼の芝居は光ってきた。その最たるひとつが『プロポーズ大作戦』(フジテレビ系、2007年)だ。
 山P初の月9作品であるこの作品は、ラブストーリーの金字塔として、往年の名作ドラマを振り返るバラエティー番組の特集などで、必ず上位にランクインして評価が高い。山Pのラブストーリーの代表作という印象をもつ人も多いだろう。そんなこの作品の真の魅力は、名作が往々にしてそうであるように、恋(の展開)自体ではなく、そこからみえる「人間」にこそある。
 ――あらすじは、幼なじみの礼(長澤まさみ)に想いを告げられずにきたケンゾーこと岩瀬健(山下智久)が、素直になれなかった過去を悔やみながら彼女の結婚式に出席する。そこに教会に住む妖精(三上博史)が現れ、哀れな彼にスライドショーの写真に写った時間に戻って、過去をやり直すチャンスを与える。そのタイムスリップを繰り返しながら、なんとか礼との運命を変えるべく奮闘する。でも過去に行っても、そう簡単に勇気ある行動がかなうはずもなく、運命も変わらない。そんな主人公が悲嘆に暮れながらも、恋心を抱えて懸命にもがく姿が切ない青春ラブコメだ。

山Pのラブストーリーの鉄板

 山Pのラブストーリー作品を見渡してみると、ひとつの型(方程式)のようなものが存在することがわかる。現実のアイドルとしての山Pは、外見も内面も申し分なく整った「完璧な存在」として人々はイメージする。そのもとで、彼の配役はこんな構図が大半だ。

《現実の山下智久 + ひとつの弱点・欠点 = ドラマのなかの山P》

 たとえば、『ブザービート』のプロバスケット選手の直輝は、肝心の局面で自分の本領を発揮できない。『SUMMER NUDE』の朝日は、3年前にいなくなった元カノをずっと忘れられず前へ進めない。そして『プロポーズ大作戦』のケンゾーも、礼に「好き」を伝えられないまま彼女が別の男性と結ばれる結婚式まで来てしまった。
 外見は抜群のルックスで、性格も明るく謙虚さもある。現実の山Pから抱くイメージも相まって、これらの人物は一見パーフェクトに近くも映る。でも彼らはみな、ある一点の弱さを抱えていて、それがネックになって夢や幸せをつかめずにいる。それは「あとひと踏ん張り」ができない、「もう一歩の勇気」をもてない、そんな人間誰もがもつ〈普遍的な弱さ〉だ。意気地がない、根性がないという言い方もできなくないが、彼らはとことん「不器用」というのが正確だ。どこか完全な印象が漂う人間ほど、抱えた〈小さな弱さ〉はより際立ち、その人物の人間味も深くなる。そうした役回りを与えられたときの山Pの力は、ピカイチなのだ。
 
 ケンゾーは何度過去に戻っても、絶好のタイミングで告白の言葉が出ない、女心がわからず相手をいつも怒らせてしまう、大事な場面で恋より友情を優先してしまう……、とにかく恋に不器用だ。でもそれは、彼が人一倍優しくピュアなため。その人間らしさが憎めない魅力を放つ。だがそう感じられるのは、演じ手が山Pだからというところが大きい。
 ひたすら過去を後悔し、タイムスリップしても「自分は何をしてるんだろう」と煮え切らない言動をとってばかりの自分を嘆く。その心境も表情も、くよくよしてネガティブ極まりない。でもケンゾーからは不思議と、「男のくせに」という気持ちにさせる湿っぽさや軟弱さをあまり感じない。むしろ強く印象に残るのは、どこまでもひたむきで、一途な想いを寄せる。それしかできない〈純な人間〉のイメージだ。もっとこう行動したらいいのに……そういうもどかしさは随所にあるが、彼の後悔や苦悩は「男のもの」ながら、性別を超えた「人間的なもの」としてしっかり際立つ。だからこそ、強い感情移入を誘い、万人の心に響く。
 現在のジェンダー観が恋愛ドラマに反映してくるのはもっと先のことだが、山Pの役作りと演技は、どこか時代を先取りさえするように、人間普遍の「ピュアな心情」を引き出してフォーカスする力に長けていた。

人間としての告白劇

 最も象徴的なのは、最終回だ。ケンゾーはついぞ果たせなかった告白を、結婚スピーチを通して実現する。その姿は潔く勇敢だ。それは「男をみせた」瞬間にちがいないが、そのクライマックスは「強くたくましい男」になったとか、「男らしい」終着をみせた――そういうラブストーリーが強調しがちな光景とは少々違ったおもむきだ。
 大好きな相手を強引に奪い去るのでもなければ、恋心を隠したまま身を引くのでもない。彼がみせたのは、必死に涙をこらえながら、正直にまっすぐ彼女への想いを伝える。その一点に全身全霊をささげようとする純粋な姿だ(実際、そこではラブストーリーお決まりのキスやハグは一切なく、ひたすら彼の告白だけを徹底して描いたのも特徴的だ)。それは恋とか男女を突き抜け、人間として「大切な人へ大切な想いを伝える」誠実さにあふれ――その重要さを激しく突きつけながら、悔いなく生きようとする健気な身ぶりだった。
 そこで怒濤のように押し寄せる感動、いや感銘は、ケンゾーが「男として」というよりは、ひとりの「人間として」素晴らしかったためだ。だからこそ、彼の言葉ひとつひとつが、また頬を伝う涙が、とびきり尊く美しく映った。
 事実、視聴者が劇中のケンゾーにもっぱら向けたのは、「男らしい」言動や勇気への期待ではなく、純粋な「がんばれ」というエールだった。そして彼がもがき苦しみながら「一歩踏み出す」ためトライを続ける姿が、恋愛ごとを超えて、観る者それぞれの“生き方”へつながり重なる、普遍的なものとして受け止められた。それはケンゾーに「人間」をみていたためにほかならない。

ニュートラルな役作り

 いうまでもなく現実の山下智久は、メンズビジュアルとしてのカッコよさは抜群だ。それはケンゾーにも反映していて、立派な二枚目だ。だがここが重要なのだが、山Pの役作りは、不思議と「男くさく」なりすぎない。これは俳優・山下智久を評価するとき、見逃してはならない特質のひとつだ。
 顔立ちが整ったイケメンながら、同時にずば抜けたキュートさもあわせもつ。その絶妙なブレンドで成り立つ山Pが放つオーラは、屈強でワイルドというのとは違って、どこかマイルドでソフトな質感を強く含んでいる。そんな彼の素材の長所がうまく注がれることで、人間味あふれるケンゾーは生まれ、王道のラブストーリーながら「男の物語」に染まらない「人間劇」が実現した。
 このころの山Pは人気急上昇の最中で、“ザ・アイドル”というイメージが強く、女性からの人気が圧倒的な主軸だった。そんななかで(『野ブタ。をプロデュース』の彰に続くようにして)このニュートラルな役のこなしが、彼のドラマ作品に高い好感度をもたらし、性別を問わず広く受け入れられていくひとつの重要な基点にもなった。

スター性の脱色

 役作りでいうと、キラキラしたスターながら「大衆」感、具体的にいえば「等身大の青年」を醸し出す点でも、この時期(20代)の山Pは秀逸だった。ケンゾーの特長は何といっても、妙に親近感を覚えさせるところにある。それは彼の性格や言動によるだけでなく、たたずまいから感じる部分も大きい。その美貌、つまり美男子という点では世間離れした部分も確かにある。だがそのなかにも、絶妙な素人っぽさを伴う「リアルな若者」感がしっかり立ち上がる。
 物語の外ではアイドルとして輝く山Pだが、ひとたび劇中の人物になると、スターの影や色をナチュラルに中和してみせる。遠く離れた手の届かない人物から、身近に感じられる人間へ。山下智久は「アイドル」を柔軟自在に脱着することができる。そうした点でも、彼の役者力は優秀だ。
 
 男くささの抑制、そして輝きの脱色。こうした持ち前の「オーラのコントロール力」に長けているのが、山下智久の凄みだ。そしてそれが、この作品で肝となる〈弱さ〉の説得力――つまり強靭な男でもなければ、ひどく現実離れした王子でもない、限りなく「大衆的な青年」に近い人間だからこそもちうる〈弱さ〉を、手応えあるかたちで表現するのに貢献してうまい。ケンゾーのピュアな心も、その好感度の高さも、そのために視聴者が経験する没入度の質と度合いの深さも、山Pの身体を通してこそ可能になった成果というべきだ。
「男」になりすぎず、キラキラ感を主張しすぎず、普通の人間っぽさをじんわり醸し出す。それを役作りで巧みにやってのけ、多くの人に響く「大衆性」を作品とキャラに持ち込む山P。そこには、俳優として天性のものがある。

「弱い人間」を見つめ、描き切ったエンディング

 物語ラストでケンゾーがたどり着いたのは、弱い自分をさらけだし、弱い人間なりの精いっぱいを体当たりでぶつけることだった。弱くても現実へ懸命に立ち向かおうと必死にもがいて告白した。そのスピーチのあと、教会でひとりむせび泣く姿も含めて、彼に突出していたのは、一歩踏み出せた強さというよりも、その勇姿に「弱い部分」を隠さず、「弱さ」があふれていたところ。そこに(魅)力があった。
 ――その一端としてぜひ注目してほしいのは(これは筆者が山Pのラジオ番組『山下智久 Cross Space』〔TOKYO FM系〕に出演したときに話した大学での考察のひとつだが)、スピーチのときの手だ。「好きでした」と告げるとき、ケンゾーの両手はポケットにキザな感じでかかっている。第1話の最初のスピーチのときはないが、スピーチをやり直して告白する最終回では、手が印象的に映る。そこには、彼が懸命に「弱さ」と闘って“強がる”ことで、ようやく果たす告白の状況がよく現れている。彼は弱さを克服してその場に毅然と立っているのではなく、最後まで「弱い人間」だった。その象徴ともいえる手は、台本に基づく意図的なものでなく、無意識に演じたと山Pは語った。それはケンゾーの弱さ、もっといえば人間の弱さというものを深く理解してこそ可能な、心が通った繊細で卓抜した演技だ。
 最終的に作品が届けるのは、普段強くある人間がのぞかせる弱さではない。もともと弱い人間が全力で強くあろうとして、それでも、そのために、どうしようもなくこぼれてしまう弱さ。それを露呈する姿、最後の最後まで「弱さ」を生きる光景が、どこかに必ず同じ弱さを抱えて生きるぼくらの胸を、必然的に激しく揺さぶった。
「強くなった人間」ではなく、とことんまで「弱い人間」を演じて、役者・山下智久は見事だった。

〈弱さ〉を生きるアイドル

 こうした人間的な弱さ、不器用さにふれるとき、演じ手本人である山下智久のあるエピソードを想起せずにはいられない。それはソロになって初のライブツアー『エロP』(2012年)での「山下智久へ」と名づけられた自分への手紙だ。スクリーンに映る手書き文字を朗読するかたちで披露された内容は、前年のNEWS脱退にふれた熱いメッセージだった。そこで山Pは、3年以上迷い続けてソロの道を歩むという答えを出すまでの葛藤を、ファンへの想いとともに赤裸々に語った。

お前がもっと6人をまとめる力があれば、みんなを引っぱる力があれば、ファンをもっと喜ばすことも出来たし、お前がNEWSを脱退するということにならなかったかもしれない。(略)お前が器用だったら●●●●●●一人の仕事もできたし、こんな気持ちにならずにすんだはずだ。(略)普通の人が出来ることでも、お前は出来なかった。グループと個人の仕事をバランスよくすることができなかった。

 グループを離れるという苦渋の選択をしてよかったと言ってもらえるためにも、がんばらないといけない。そのために「口べたで不器用●●●なお前が一言だけ、言うんだ」と締めくくって、マイクスピーチへ続く。そして「これからもどうぞ応援よろしくお願いいたします」と、深々と頭を下げた。
 ファンにまっすぐ向き合って自分の言葉で説明するその実直な姿は、鳥肌が立つほどに素晴らしい。それは、たとえファンでなくても、彼の経歴を十分知らなくても、胸に迫る。
 なぜなら、傍点をつけたように、ここでの山Pは惜しみもなく自分自身の「不器用」さ、つまり完璧では決してない「弱い人間」をさらけだして語っているからだ。プロのアイドルとしてファンに向けた責任感によるものとはいえ、簡単には語りにくい脱退について、ここまで身を張って想いを伝えるのは相当に勇気がいる。そしてこの手紙は、己の力不足はもとより、グループを辞めたことでいろいろ感じた人々に「謝りたかったけれど言う場もなく、時が過ぎ」ていった、さまざまな後悔に押されたものでもあった。それに一区切りをつけ、後ろを振り返らず、どんなに困難でもひとり前へ進んでいく。一度しかない人生に、悔いを残さないように。その姿勢と想いには、どこかケンゾーと重なるものがあった。
 もちろんこれは作品とは直接関係しない。だが、不器用で弱い、そのことに誰より自覚的で、だからこそもちうるかぎりの力とやり方でもって、それを露呈してでも素直な想いを自分の言葉で届けたい。そんな人間味あふれる生き方を実践する山Pであればこそ、『プロポーズ大作戦』とケンゾーの役も成立したように思えてならない。

大切なバイブルとして……

 ぼくだけではないだろうが、『プロポーズ大作戦』は一定の間隔で無性に観たくなる作品のひとつだ。そのたびごとに、若い山Pが届ける「弱い人間」の姿に、人間が生きていくために大切なさまざまな学びや気づきを新鮮なかたちで得る。それはまるで人生のバイブルのようだ。そして、この作品はラブストーリーという以上に、立派で上質なヒューマンドラマであって、何よりその点で優れているのだと毎回強く思う。ケンゾーに、それを演じる山下智久に、ぼくらは〈人間〉を学ぶ。
 そんな大切な場=時間として『プロポーズ大作戦』は生き続けている。
 
筆者X:https://x.com/prince9093
 
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男性たちの第一歩のために――『ジェンダーの考え方――権力とポジショナリティから考える入門書』出版に寄せて

池田 緑

 これまでジェンダー論の授業を複数の大学で担当してきて、ずっと感じていたことがありました。ジェンダー論の授業なのですから、ジェンダーについての知識や議論を紹介することはもちろん重要なのですが、それ以上に、ジェンダーに対する視角・態度が重要なのではないか、ということです。せっかくの知識も、頭ではわかっていても、実際に男性の支配と直面したときにうまく対応できない、引け目を感じてしまう、丸め込まれてしまうといったことが起きやすく、それらを克服するためには単なる知識だけでは難しい。ジェンダーに対する態度というか、視点というか、現象学的社会学でよく使われる「自然的態度」をチェックしなおすことが必要なのではないか、と感じてきました。
 これはとくに女子学生においてですが、身近な男性(家族、彼氏、アルバイト先の人など)とジェンダーをめぐって衝突し、マンスプレイニング全開で説教されて言い返せず、悔しい思いをした話をたくさん聞いてきました。そういう彼女たちがジェンダーの授業を受けて知識とロジックを獲得して、「よし、今度は言い返してくる」「今日は負けないぞ」と意気揚々と帰っていくのですが、しばしば「言い返せなかった~」「また言いくるめられた~!」と半べそをかきながら戻ってくることもありました。
 話を聞いてみると、様々なごまかしのロジックや、彼女らが内面化しているジェンダーの、他者に対する葛藤を恐れる部分などを、男性たちは見事に突いてきているのでした。ジェンダーを内面化する過程で、女性たちにはいわば「つけ込まれやすいポイント」とでも表現できる部分が埋め込まれ、男性たちはまさにそこにつけ込んでいたのでした。
 ただし、別の発見もありました。ジェンダー論の授業を担当しはじめたころの話です。彼女たちが身近な男性にジェンダーの授業で学んだ内容を話すと、いちばん多い反応は「どうせ、ヒステリックなおばさんが言ってんだろ」といった、集団間の権力関係を個人の資質に還元して無化しようとする典型的なごまかしの対応でした(本当はもっと聞くに堪えない罵詈雑言が多いのですが、ここではマイルドな表現にしました)。そのときに「いや、若い男の先生だよ」と彼女たちがいうと、男性は黙るというのです(そのころは私も若い教員でしたので)。
「あ、そこは黙るんだ」というのが、発見でした。女性に言われてもごまかせることが男性に言われるとごまかせず、その結果沈黙せざるをえない。男性たちは、女性からのクレイムに対してはあれこれごまかす方法を熟知していても、同じ利害にある男性からの告発やクレイムに対しては脆弱なのです。それを否定する根拠も、ごまかすロジックも、同じ利害を共有しているという関係性(同じポジショナリティ)のために構造的にも準備しにくいからです。
 私が男性による女性に対する支配や権力作用の“手口”を焦点化しようと考えたのも、男性たちがつけ込むポイントを開示することで、女性たちにそのごまかしのポイントを示すこと。それ以上に、男性たちに「もうこの手は使えないよ」と、自らのありようを見つめ直す機会を共有したかったからでした。
 もちろん、そのような試みに対しては批判もありうるでしょう。しかし、女性に対して頻繁に使用している「黙殺」「無視/スルー」は、同じ利害関係にある男性に対しては使いにくくなるでしょう。「黙殺」「無視/スルー」は、非対称的な権力関係では効果を発揮できますが、同じ利害関係にある者同士では効果が十分に期待できないからです。
 必要なのは、男性同士での、自らがおこなってきた権力行使についての情報の共有と議論だと思います。その過程で利益を失いたくない男性たちと、女性たちとの関係性を変えたいと願う男性たちの間で、対立やいさかいも起こるかもしれません。しかしそのような対立やいさかいこそ、男性たちにとって必要なものだと思うのです。
 男同士が、自らの利害を開示しながら争う姿をみせること。これが重要と思います。これまで女性たちは、分断された利害をめぐって争わされてきました(本書の第6章で少し考察しました)。男性たちは、自分たちがその争いの原因を作ったにもかかわらず、女性たちの争いをニヤニヤと眺めていただけでした。分断支配という状態です。今度は、男性たちがそのような姿を女性たちにさらす番だと思うのです。それが、両性が平等で対等な位置づけに立つための一歩になり、男性たちが自らのありようを刷新する出発点になると信じます。
 社会学者ハーバート・ブルーマーは、シンボリック相互作用論を唱えるにあたって、大きな理論から細部や現象を定義的に説明するのではなく、社会や現象を捉える際に大きな方向性を与え、概念から細部や現象の現実の個別性に至るようなものを「感受概念」として論じました。私はジェンダー論(ジェンダー規範やジェンダーそのものではなく)こそ、典型的な感受概念と感じてきました。本書には、そのようなジェンダーをめぐる現実の現象や事例に接近するための、感受概念として作用しうるポイントを、主に権力作用という観点から整理するという目的で書いた面があります。
 ジェンダーにまつわるあれこれについて現実の現象や関係のなかで直面したとき、それをどのように捉えて考えるのか、その大きな方向性や枠組みとして本書のささやかな試みが機能するならば筆者としてはうれしいかぎりです。本書の書名を『ジェンダーの考え方』としたのも、そういった含意があったからでした。

 そのような感想とは別に、本書の執筆・編集過程では貴重な体験がありました。本書は私が書いたものの、同時に青弓社編集部のみなさんとの共作という感想をもっています。編集部から戻ってきたゲラは真っ赤で、本当に細かな言い回しにいたるまで、ジェンダー論の入り口に立った読者にどのようにして届けるかという視点からの提案にあふれていました。指摘を要約すると、論点はシンプルに、学問的な思いなどは初学者に伝わりにくいからバッサリ切れ、言いきるべきところは言いきって議論にメリハリをつけよ、といったものでした。その結果、私がこれまで書いてきたものとは相当異なる文体・表現になりました。文体だけでいえば、まるで別人格です。しかし、あとから読み返すといずれも適切な提案で、別人格を引き出してもらえたなどということは本当に稀有で貴重な体験と思います。
 また本書のサブタイトルには「ポジショナリティ」という言葉が入っていますが、提案された当初はポジショナリティは必ずしも本書全体のサブテーマとまではいえないと思い、入れるのをためらっていました。しかし編集部内はもちろん、営業部の方々も様々な声を集約してくださり、本書の特徴を打ち出すためにぜひ入れてほしいと言われ、そこまでしていただけたのであればと入れることにしました。
 見本を手に取ったときにあらためて読んでみたところ、本書でポジショナリティという用語が登場するのは第5章ですがそれ以後は頻出していて、また第4章までの記述も「ポジショナリティ」という用語こそ使用していないものの、相当にポジショナリティを意識した議論になっていました。サブタイトルに入れるにふさわしい言葉だったと、あらためて思いました。私自身も把握していなかったような本全体の構造を見抜く、プロの慧眼に驚いた経験でした。
 
[青弓社編集部から]
4月27日(日)の14時から、大妻女子大学で本書の書評会を開催します。

評者として、江原由美子さんと木村絵里子さんがコメントくださり、著者の池田緑さんが応答します。

対面とオンライン(アーカイブあり)がありますので、ご興味がある方はぜひご参加ください。

『ジェンダーの考え方』書評会
4月27日(日) 14:00-16:30
方法:対面とオンライン
場所:大妻女子大学千代田キャンパスのH棟313室(オンラインはZoom)
参加料:880円(税込み)

対面での参加チケット
https://seikyusha.stores.jp/items/67e5fae1006ad14c8a3db9fc

オンラインでの参加チケット
https://seikyusha.stores.jp/items/67e5fc24c6aee7ae031a6f43

 

第2回 『コード・ブルー』という軌跡=奇跡

柿谷浩一(ポップカルチャー研究者)

エッセンス引き立つ「大人の役者」へ

 山下智久の代表作といえば、誰もがテレビドラマ『コード・ブルー ~ドクターヘリ緊急救命~』(フジテレビ系)をまず思い浮かべるだろう。放送のスタートは2008年。その後スペシャルドラマを挟んで、10年には2ndシーズン、17年には3rdシーズンと続篇が放送されて、集大成である翌年の劇場版は、その年の邦画No.1を記録し、実写邦画の歴代興行収入5位にいまも君臨している。足かけ10年にも及ぶ大ヒットシリーズ。その軌跡は、まさに作品(と彼が演じた藍沢耕作)が大衆に愛された証しであり、平成という時代に記憶されるひとつの社会現象だったといって過言ではない。
 実際、しばしばいわれるように放送当初まだ配備も含めて一般的ではなかったドクターヘリが作品とともに普及していき、人々の認知度向上にも作品は貢献した。視聴をきっかけに、救急医療を志して第一線で活躍している人もいる。社会に与えたそんな影響のかたわら、この作品と役どころが、山P自身へもたらしたものも小さくなかった。
 それまでも山下智久は、数々のドラマ作品にコンスタントに出演して、人気を積み重ねていた。主だった作品を挙げるだけでも『池袋ウエストゲートパーク』に始まり、『ランチの女王』『Stand Up!!』『ドラゴン桜』『野ブタ。をプロデュース』『クロサギ』、そして前年(2007年)に反響を呼んだ月9『プロポーズ大作戦』と、ドラマ面での活躍は目覚ましく、視聴者からの人気やニーズも着実に高まっていた。一方で役者歴の面でいうと、ひとつの転換点に差しかかってもいた。
 というのも『コード・ブルー』放送時の山Pは、23歳(4年半かけて大学を卒業する年)。ちょうど「青年」から「大人の男」へ。役者として次のステージに入りかけていた時期。それまで演じてきた人物の多くは、元気や活力に満ちていて、ときにチャラさも含む、フレッシュないまどきの若者や現代っ子という印象が強かった。それとは打って変わって『コード・ブルー』の藍沢先生は、若いけれど落ち着きがある。また明るく活発というのとは違って、無愛想なまでに感情を表に出さず、常にクールでドライ。どちらかといえば「陽」よりは「陰」、「動」よりは「静」。そうした要素を強くまとった、従来とはひと味違う人物像。それがぴたりとハマった。彼が元来持ち合わせている特性――山下智久という人間の根幹にあるエッセンスと見事にマッチしたのだ。そして名演技が生まれた。
 たとえばこのころ、NEWSのメンバーとして出演したテレビ番組を思い出してみると、デビュー時に比べるとやや淡泊で大人しい、そんな印象を感じる部分も増しつつあった。でも決して無愛想とか内気というわけではなく、自分からあえて主張する感じはやや弱いが、しっかり己(の世界観)をもっている。歳を重ねて徐々ににじみ出るそんな「静かに光る個性」に惹かれた人も多いはずだ。見た目のイメージだけではわからない、それだけでは十分につかみきれない本性。静穏で控えめだが、秘めた想いはチャレンジ精神にあふれて情熱的。男ぶりある外貌ながら、繊細でピュアなハートをもつ。そうした山P特有の〈立体的で彫りのある存在〉のかたち――それがのちの30代前後にかけてさまざまな役や表現の幅を広げ、現在へ至る飛躍の支柱になっていくのだが――、そんな彼のなかに宿って眠っている魅力を、役のうえで、そして演技として全面に引き出して輝かせてみせたのが『コード・ブルー』、そして藍沢耕作だった。

役者人生を開いた代表作

 10年の月日をかけて進む物語は、シーズンを追って、主人公と仲間たちの成長のドラマを形作っていくが、それは生身の山下智久自身が「大人の役者」へ移り変わる重要な過渡期と重なってもいた点を見逃してはいけない。(もちろん前後の他作品の役割もあるものの)この時期の彼が役者として一歩大きく展開=熟成していく、その大事な舞台と推進力になったのは『コード・ブルー』だった。劇中の人物が、ただ歳を重ねて頼もしくなっていくのが刺激的だっただけではない。(主人公だから当然のこととはいえ)どのキャストにもまして、作品を通じ、劇中人物と一緒に、現実の山下智久もたくましく変貌していく。彼がもつ本質的な魅力が発見され、演技もますます深まっていく。
 そのダイナミックでスリリングな一面、すなわち役者人生の劇的なターニングに立ち会うことが、ストーリーのもっと底で劇(ドラマ)を深くして、観る側をワクワクさせて楽しませていた感も大きい。
 後年になって山下智久は、この作品当時「芸能界引退も考えた」と回顧している。学業と仕事の両立、さらにはグループと単身での役者活動のバランス。理由はさまざまあっただろうが、実際の理由はここでは重要ではない。現在(とそれまでの活躍ぶりを知るいま)から振り返るとき、『コード・ブルー』が彼の役者生命の節目に位置していたこと。誤解を恐れずにいえば、この作品があることで彼は前に進めた。役者の歩みを止めなかった。その決定的な出来事こそが重要であって、それは実に運命的で奇跡のように感じずにはいられない。
 代表作というのは、単にひとりの俳優の最も有名で優れた作品ではない。その役者の特色・個性がよく表れた作品、つまりその人自身ともいえるような一作を指してこそのもの。その意味で、自身のもちうる「山Pらしさ(個人の実存に深く関わる本質)」と深く結び付き、彼の本領を開花=深化させたこの作品こそ、代表作といわなければならない。とりわけ、1stシーズン(2008年)から2ndシーズン(2010年)にかけての藍沢=山Pの成長ぶり――彼のオーラとたたずまいは物語の設定以上の飛躍ぶりで、その端正さ、頼もしさ、自立した安定感……、たった1年半の短いスパン(時間)ながら「成長して大人になったなぁ」という感触を強く与えた。それは文字どおり、山下智久の新たなステップと幕開けを体現する証しだった。

〈寡黙〉の表現力

 そんな『コード・ブルー』の核をなして、山Pの芝居力が最もよく発揮されていたのが、ほかでもなく〈寡黙の表現〉だ。何といっても藍沢先生の魅力は、自分の気持ちをあまり語らない、その沈着として物静かなたたずまい。そんな彼が下す現場での判断や決断は、ときに非情で冷酷にも映る。世間話や無駄口を叩くなどのカジュアルなコミュニケーションを積極的にとらないため、メンバー間の協調性に欠ける面もなくはない。でも本当は、人一倍「人情」に厚くて「温かい心」にあふれて優しい。そうしたギャップ、そこから染み出す「人間味」が、観る者の心をグッと惹き付けてはなさない。こう書くと簡単そうだが、山Pのその演じ方――〈寡黙〉の作り方は見事なまでに徹底していて、繊細だった。それをあらためて強く評価しておきたい。
 口数が少ない人物像はともすると、陰を含んでミステリアスにも映りかねない。でも藍沢先生には、そうしたマイナスな意味の「わからなさ」がない。何を考えているかつかめずに物語が邪魔されることもない。それは場面ごと、ショットの瞬間瞬間に、彼の「心」がメリハリをもってありありと伝わってくるためだ。でも藍沢の表情は、普段も緊急時もさして大きく変わらない。むしろ冷静な処置のため、いつにもまして顔つきは険しさを漂わせて動じない。命令や叫ぶときなどの例外を除けば、せりふ回しや声色にも目立った変化もあまりなかったりする。
 つまり彼の心情(変化)は「言葉」だけでなく、顔を中心にした「身体」からもうかがい知れない。にもかかわらず、「胸の内」が確かに感じ取れる。矛盾した奇妙な言い方だが、実際そうなのだ。そして、これこそが藍沢という人物の深みであり、演じ手の山Pの凄みにほかならない。
 それを支える肝になっているのが〈細部の演技〉。ストーリーを追っているだけでは気づかないほど、ごく微細な動きが要所にある。目や口元のわずかな力み具合、頬や喉などの顔周りの筋肉の変化、皺の作り、眼光の強弱、語気のハリ……。それが意図された芝居によるものか無意識なのか、もはやわからないレベル。その域へ達するほど、山Pは身ぶりに頼ることが許されない役柄のなかでも、刹那にある「心」を丹念にハートで演じようとしている。わかりやすく変化しない表情のなかにも、心の機微を見事なまでに写し取った。目にしてはいるが、見えてはいない。そんな難易度が高い「心の演技」を彼は実現した。その表現力と役者魂は並大抵のものではない。

人間的な「感情」を表す凄み

 しかもそこでのポイントは、微小な演技から染み出る感情に、とてつもない「厚み」と「深み」が感じられることだ。ストーリー展開から、藍沢が何を悩んでいるのか、その課題や問題のありかは知ることができる。だが多くの場合、その心情自体はというと、喜怒哀楽のこれといって取り出せる単純なかたちをしていない。救命処置のとっさの判断と指示、患者との対話や酷な宣告、同僚に向けるさり気ない意識やまなざし。どの場合でも、厳粛さをベースにしながら、そこに痛みや悲哀、ときには落胆や絶望、そして慈悲・祈りといったあらゆる〈想い〉が入り交じった重層的な心の内を覗かせる。その感情のありようが、実に生々しくリアルなのだ。――現実のぼくらがそうであるように、人間の感情や心理というのは渦を巻いて混濁したものだ。
 この作品は、スカッとする救助救命に終着しないことがひとつの特色。患者を救えた/救えなかったにかかわらず、緊迫した危機や目を背けたくなる悲運、その逆のつかの間の安堵や安心。そのどれにも、じわっとくる言い知れぬ感銘があって、決して「助かってよかった」だけではない独特な余韻をそっと伴う。それは物語の中心にある藍沢の心が、いつも安易に割り切られることなく、さまざまな想いをない交ぜにして、自己のなかでグッと抱える。苦悩や葛藤はもちろん、うれしさや喜びでも、安易に感情の出口を探さず、解決や妥協をせず、とことんまで自己のなかで突き詰めるように大切に抱え対峙する。その「感じ方」が深遠で、ときに重たく、また実直。それが藍沢という人物の真骨頂といえる。
 そしてそれは、作られた「フィクションの(なかの)心」ではなく、そこに確かに「現実の人間の心」がある、もっといえば、藍沢耕作という人間が生きている。そうした圧倒的な手応えを与える。医師という職業も救急という場所も、一般の人々には現実離れしたもの。でも藍沢耕作が遠いかりそめの存在などではなく、強力な親近感でもってそこにいる。だからこそ、特別な感銘や共感も生まれる。そんな「人間を感じさせる」、もっといえば「人間をつくる」力の点でも、山Pの演技は桁違いに秀逸だったのだ。
 テレビドラマや映画の続篇が始まると、主人公の誰々が帰ってきたとよく言うが、『コード・ブルー』が新シーズンを迎えるたびに経験する感覚は、どの作品よりも強烈な実感に満ちている。それは山Pの演技のもと、まるで現実世界のどこかに藍沢耕作が存在していると感じるためにほかならず、だからこそ「藍沢にまた会いたい」という視聴者の想いもまた熱狂的なものになった。物語がただ面白いからという理由だけでなく、10年という長い時をまたぐ作品のシリーズ化の持続には、山Pの芝居力の貢献もきわめて大きかった。
 演者と役。それらが違うものだとよくよく知りながら、どこかで山下智久も、藍沢耕作もともに存在しているような確かな錯覚、いや実感。そのなかで『コード・ブルー』は永遠にぼくら視聴者(大衆)と一緒に時を刻んで、不朽の名作であり続けることだろう。
 
 連載初回にも少しふれたが、ぼくは5年前に病気をした。不自由はいまも続く。そこに追い打ちをかけるように別の病も重なり、先がみえない治療や経過観察で通院も増えた。そして何かの運命のように、母の手術もつい先日あった。そんななかで(ときに病院の待合室の片隅で)、医療を扱う同作を原稿のために見直すのは怖くもあった。どうしても患者目線に傾いて、目を背けたくなる。そんな瞬間や場面もなくはなかった。でも想像した不安など気にならないほど、のめり込んで再鑑賞できた。
 それは、そのつどの治療やそれに伴う判断をめぐる苦悩に焦点を当てるのではなく、それよりもっとずっと先にある「命」を前にして、決して解決や答えなどない途方もない苦悩を抱えるということ。その苦痛のなかでも表情ひとつ変えず、その宿命をひとりグッと内に抱えて凝視しながら、それでも前進しようとする藍沢先生の静かで強くひたむきな姿があったからだ。そんな到底まねできない生き方をする藍沢という人間に、何度も作品を見返していたあのころよりも、より強い尊敬と感謝がいま胸にひたひたと満ちてくる。山下智久らしさあふれる、彼の役者としての新たな扉を開けたこの作品は、時間がどんなに経ってもやはり観る人間に響く。
 
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あるアーティストのファンであり続けること――『ライブミュージックの社会学』出版に寄せて

南田勝也

 私が『ライブミュージックの社会学』を編むことにしたのは、新型コロナウイルス感染症禍のくすぶった日々に考えていたひとつの問いがきっかけである。その問いとは「あるアーティストのファンであり続ける●●●●●ことはどのようにして可能か」というものである。このアジェンダは本書では展開していないので、このコラム欄で私の思念の道筋を記してみたい。
 
 現在、あるアーティストのファンであり続けることは、どんな条件で担保されているだろうか。もちろん往年のミュージシャンや解散バンドのファンの場合は「心のなかのナンバーワン」を永続的に定めているだろうが、そういうことではなく、活動の存続がそのまま経済基盤になっている現在進行形のアーティストとそのファンの関係についてだ。
 元来それは文化産業が守ってきた。音楽関連会社のマネジャーやエージェントが、世間知らずで気まぐれなアーティストに代わって、ファンの前に姿を現すスケジュールを組んできたのである。そのなかでもっとも重要な活動は新作のリリースであり、シングル盤なら数カ月に1枚、アルバム盤なら年に1枚のペースが大方にとっての標準になっていた。
 ディスクを発表すれば、音楽批評家によって新譜評が書かれ、音楽誌にインタビューが掲載されて露出の機会が増える。まず何よりも、心待ちにしていたファンがプレゼントを渡されたときのように喜ぶ。いそいそと街のレコード店に出かけてディスクを手に取り、帰りの電車で開封の儀を済ませ、帰宅するとうやうやしく再生する。その音源をリピート再生しながら次のアルバムが出る日を楽しみに待つ。つまり、ずっとファンでいてくれる。
 もうひとつはツアーだ。アーティストはいまも昔も巡業を好む。ギター1本で移動できるシンガーは旅の歌をレパートリーにもっているものだし、ライトバンに機材を詰め込む小所帯のバンドは深夜高速を利用して全国を回る。アリーナクラスのアーティストになるとそうはいかないが、近年ではライブ使用可能なハコモノが各地に設置されているので、当該地域のファンの欲求はそこで充足される。重要なことは継続性であり、とくに地方在住者にとっては数年に一度でも自分の住む地域に来てくれれば揺るぎない信頼につながる。
 ツアーのチケットがなかなかとれない人気者の場合は、ライブ参加のためにファンクラブの入会を半ば義務づけているパターンもある。これは批判の対象になりうるが実のところうまい仕組みであり、今回は抽選に外れても会員であるかぎり次のチャレンジは約束されているので、ファンがファンであり続けることに持続的に貢献する。
 また、そうしたクローズドなつながりとは反対のオープンな仕組みも進展していて、それがフェスである。現代的なフェスが誕生してから四半世紀、多様な出演者が彩る開放的な雰囲気が受け入れられ、全国各地で四季を通じて開催されている。ツアーの行程にフェス出演を組み込むアーティストは多くいる。ファンにとってはフェスのチケット代は割高だが入手は容易で、単独公演ならチケット争奪戦になるライブアクトを見る好機になっている。
 
 しかしこのようなルーティーンに基づく活動は、現在では崩壊寸前の状況にある。
 インターネット、とりわけサブスクリプションの登場は、シングル盤やアルバム盤のフィジカルな単位を無意味化させた。それどころか、それが新曲なのか過去曲なのかという時間の概念さえ曖昧にさせている。そもそも新人は別にしてベテランになるとアルバムは数年ごとのペースになりがちだし、シングル盤は出したとしても「一斉に店頭に並ぶ」販売スタイルが失われた結果、話題として盛り上げにくいものになっている。そして新人たちはフィジカルでの販売を放棄し、配信オンリーで独自のプロモーションを展開している。
 そこで頼りになるのはチャートのはずだが、多様に存在するポータルサイトの集計はまちまちで、著名なアーティストでもリリースに気づかれないままランク外へと埋もれていく。かつてなら誌面だけでなく広告面でも援護射撃していた音楽雑誌は、長引く出版不況によって全盛期の力を期待できない。音盤の発売スケジュールに寄り添って「ファンであり続ける」ことは確実に難しくなっている。
 となると、ライブが唯一的に残された紐帯になる。ライブでのアーティストは、新曲を演奏しようがしまいが、現在進行形の姿でファンの前に現れてくれる。ツアーのたびに新しいデザインのグッズも用意されて、記憶と記録の双方に痕跡を残してくれる。非線形的なインターネットの時空間に漂う楽曲群の不確かさとは対照的に、はっきりと線形的で確実な「ともに年月を重ねていく」感覚を与えてくれるのだ。これが2019年までは順調に推移していたアーティストとファンの関係式だった。
 しかしその幸福な関係式は、2020年2月以降のコロナ禍によって断絶の時を迎える。
 
 コロナ禍は生活のさまざまな場面にストレスをもたらしたが、私がもっともめいったのは、大学教員という職業柄もあるだろう、身体的・精神的に本来もっとも活発な若い世代が身動きできずに日々落ち込んでいく姿を目の当たりにしたことだった。
 あるゼミ生は、好きなバンドのライブ映像を見る気が起きないと語った。映像を見るとその空間に自分がいないことを自覚してしまう。ライブキッズだった彼女にはそれがつらすぎるのだ。また、あるゼミOGは、10枚以上の「使われることはなかった」チケットの写真を「Instagram」に投稿した。彼女はチケットを「この子達」と表現し、理不尽な現実に悲しみを覚えながらも、ファンであり続けるため踏ん張っていることをメッセージした。さらに、あるゼミOBは、学生時代からバンドを続けていて、2020年は大型イベントに誘われることが決まり、飛躍の年になるはずだった。しかしそのイベント自体が中止になった。
 コロナ禍がライブ市場にもたらした損失は、経済的なものにとどまらず、アーティストとファンの心理的な関係に及んでいた。当たり前に訪れるだろうと思っていた明日はぷつりと途絶え、次はどんな音を聴かせてくれるのだろうという高揚感は失われ、継続こそがバンドの命綱なのにそのモチベーションさえ奪われてしまった。
 私は、彼や彼女の顔を思い浮かべながら、コロナ禍が明ければライブミュージックに関する書籍を出版すると決めた。音楽研究として歴史性と現場性を存分に描ける執筆者に集ってもらい、学術書としてはイレギュラーなほどに写真をふんだんに用いたのは、ライブの魅力を人々に伝えて裾野を広げるためだ。
 幸いなことに、ゼミOBのバンドは、コロナ禍を乗り越えてライブ巧者の異名をとるほどに成長し、都内の中規模ライブハウスをソールドアウトにするレベルに達している。人間が出せる最高スピードの時速36kmで突っ走る彼らには追い付けないかもしれないが、私は彼らに倣い、ライブ研究の論文発表というツアーを継続していきたいと考えている。
 
『ライブミュージックの社会学』試し読み
 

第1回 山下智久論へ

柿谷浩一(ポップカルチャー研究者)

 山下智久が、ただ好きというのではない。山Pは重要である。カルチャーシーンにとって、さらには時代や社会にとって、そうした側面ももちろんある。でもいちばんは、現代といういまを生きる人間――ぼくら大衆が必要とする価値観や感性に鋭くふれ、その重要性に気づかせ、また届けてくれる存在として、彼は代えがたい役割を果たしている。その意味で大切なのだ。それは「アイドル」というくくりを踏み出て、ひとりの「アーティスト」の力というべきだ。
 彼のそんな重大さに気づくきっかけになったのは、2013年の『SUMMER NUDE』(フジテレビ系)だが、もっと以前からぼくは山Pの作品に支えられてきた。いま手元にレンタル落ちのDVDセットがある。店頭にあった外装ケースそのままで、かなりの使用感で古びたものだ。文学研究を志し大学院へ進学してしばらくして、研究も思うように進まず迷子になり、小説も論文も読むのが怖くなっていた時期。とりつかれたように、山Pのドラマを繰り返し観ていた。自分では気づかなかったが、その熱は相当だったようで、当時利用していたレンタルショップが閉店するとき「これはあなたにあげますよ」と『コード・ブルー ~ドクターヘリ緊急救命~』(フジテレビ系)のセットをもらった。邦画のなかでも人気作で回転率がよかったが、借りた回数が歴代で最も多かったのがぼくだったそうで、こりもせず毎週のように借りる姿が印象的だったと言われた。最後に「山P好きなんですね。医療関係の仕事ですか?」と聞かれ、照れながら否定したのを覚えている。DVDを抱えながらの帰り道、この作品が、この山下智久という存在が、店長の言った「好き」というより、「大事」なんだ。そう自分自身に確認したのが昨日のようだ。思えば、当時のぼくにとって、それは唯一の文学の代わり、いや文学そのものだった。それがいいすぎなら、作品と役者に「文学的な何か」を強く感じて吸い寄せられていた。その想いは、それから数年して本格的に山Pを追いかけるようになって、いっそう強固になる。
 山下智久というアーティストとその軌跡は、文学書に負けず劣らず「人間」存在というものに肉薄し、「人間とは何か」について考えさせてくれる。勇気や活力を分けてくれる。そうしたアイドル的な体験、アイドルへ向ける憧れや推し(好き)などではなく、もっと「人生そのもの=人間が生きる」ということに密接に関わる一大事。そして「言葉」をめぐる大切な事象。少なくともぼくにはそう感じられた。だからライフワークのように、この十数年、作品やイベントごとにSNSでコツコツと拙い考察を発信しつづけてきた。そして本業の文学的な仕事のかたわらで、ある程度すべきことをなし終えたら、いつか体系だった論考をまとめたいと願ってきた。だが恥ずかしいことに、数年前患った病もあって、(力を入れているドラマ論を除くと)存分な成果は出せないまま歩みも停滞ぎみになった。そんななか、山Pがポリシーにするフレーズ「人生は一度しかない」が頭をよぎった。
 山Pは、今年(2025年)の4月でちょうど40歳の節目を迎える。活動的にも独立して、グローバルな挑戦と国内での活躍。それぞれがいっそう充実し、またひとつピーク(中継点)にきているようにみえる。それを目前にしてぼくのほうは、いわゆるアカデミックらしい学問では納得いく実績を十分挙げられていないが、それが整う「いつか」を待っていては遅い気もしてきた。そして、曲がりなりにも文学・文化を研究し(それも作家の年譜・年表作り、つまり人生を調べて記述する「書誌」という、人間の人生や活動に近い仕事を多くやる機会もあり)、書くことを専業にしてきたぼくなりに、言葉で、それも長い文章で語れることもあるかもしれない。そう少し思いだしていた。そんなタイミングで、かつて文学の仕事を共にし、山P論をまとめたい想いを早くから受け取ってもいた編集者が声をかけてくれた。正直不安もたくさんあるが、山Pが身をもって実践するように、未来を信じて挑戦するのも、きっと悪くない。その想いで、勇気を出して筆をとることにした。
 大学の講義で、いつも言ってきた。ぼくが「山下智久論」を書くのは最後の仕事だと。実際どうなるかはわからないが、(そうは思えないかもしれないが)これでも出世や別の仕事をときに一部捨ててでも、少なからず身を切って考察してきた。そんなこれまでの蓄積を基礎に、それを発展させながら、さらに生きる時間をかけて、渾身の愛情をこめて、ぼくなりの視点や切り口、言葉を大切に、「たったひとつの、ぼくだけの山下智久論」を始めてみようと思う。
 いまでは誰もが知る、名実ともにスターになった山P。その活動のひとつひとつは、ヒットや成功、反響や名声という形で(そのたびごと、その瞬間に)評価されている。しかし、もっとその表現(力)という観点に目を向けて、それがいかに、どのように「人間の普遍」にふれて重要か。それゆえ大衆の心を捉えてきたか。またどんな形でカルチャーシーンを席巻してきたか。それを主軸に、自分自身が背伸びしたり偽ったりすることなく、あらためて“自分の言葉”で語りたい。惜しまず、語り尽くしたい。SNSで個人の意見や感想、ときに専門家より鋭い批評コメントも可視化され、広く共有される現代。たくさんあふれる山Pのファンたち(通称:sweetie)の言葉は、何より貴重だ。その内容はもちろん、そこにある愛情もできるかぎり尊重したい。そのうえでもなお、山下智久はまとまった言葉で、もっと語られなければならないと思う。その「長いつけたし」をする。そんな想いで「山Pを語る場」に、ぼくも本腰を入れて参加してみる。彼には不思議な力があって、気づくといつの間にか、人々の心に自然とスッと染み入って、いまという時代に当たり前のように、欠かせない形で存在している。いつでも人気や反響は圧倒的だが、それとは裏腹にそうした独特な感覚――山P特有の存在感の前で、ぼくらは妙な「納得」をしている感がある。でも実際、彼の何がどう凄いかを言語化しようとすると決して簡単ではない。その意味でも、ボリュームある言葉で丁寧に語り、確かめることは意義深いと強く思う。
 論を始める前に、読者になってくれるみなさんにひとつお願いがある。あえてぼくは今回、ネット上の連載を選んだ。それにはいろいろな理由や考えがあるが、ひとつは上から一方的にわかったように語る、そういう偉そうで傲慢な仕事にしたくはないことがある。紙でも反応や意見はネットに出てくる。でもより積極的に、山下智久を愛する人たち、そこまでいかないが彼の作品を楽しんでいる人々と一緒にこの論を進めていきたい。すでに見取り図はあるが、扱うトピックも(ときにそのボリュームも)要望の声で柔軟に変わってもいい。きれいごとに聞こえるかもしれないが、ぼくの論でありながら「みんなで作り届ける」ことができたら素敵だし、それこそ「Instagram」というネットの場も重要な活動拠点にしている山下智久を、いま追うのにふさわしいスタイルだと思うのだ。だからぜひ、ぼくの「X」でも編集部宛てでも感想を送ってほしい。それと対話もしながら、たぐいまれな表現者たる山下智久について、たぐいまれな新しい批評が展開できたらと願う。
 取り上げる毎回の作品や題材は、あえて評伝のように時系列順にはしないことにした。彼のさまざまな側面、その多彩な魅力に、全方向の視点から柔軟に光を当てながら、パズルを完成させていくように、その全体像と歴史をダイナミックに記述することも意識したいからだ。そして、連載という形式がもつ面白みも最大限に生かしたいこともある。次回は何について書くのだろうという読者の期待(次は何を書こうという書き手の思案)は、山Pの言葉を借りるなら「希望しかない未来」であってほしい。どんな状況でも、常に前を向き楽しむことを大切にするのが山下智久。そんな生きざまの彼を対象にするからこそ生まれうる〈語る=読む〉特別なワクワク感も、ぜひ作っていきたい。
 
筆者X:https://x.com/prince9093
 
[青弓社編集部から]
次回(第2回)は4月21日に掲載予定です。また、第3回以降は毎月20日ごろに掲載する予定です。ご期待ください。
 
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妻にこそ読んでほしいのだが――『世界文学全集万華鏡――文庫で読めない世界の名作』を書き終えて

近藤健児

 私が購入する大量の本やCDの洪水に迷惑しているせいか、妻は私が書く本については、だいたいいつも冷淡に受け止めている。「そんな本、誰が買ってくれるの?」「また本を出してくれるなんて、青弓社ってほんとに奇特な出版社だね」と何度言われたかわからない。本当は身近な人にこそ励ましてもらいたいし、とにかくまず妻に読んでもらいたいものなのだが、ページさえ開こうとしないのである。今回も『世界文学全集万華鏡』を手に取ると、「ジョージ・エリオットの「ロモラ」しか読んだことがない。知らない本だらけだわ」と一刀両断されてしまった。
 世界文学全集の定番の作家といえば、フョードル・ドストエフスキー、レフ・トルストイ、スタンダール、ロマン・ロラン、アンドレ・ジッド、アーネスト・ヘミングウェイなどがすぐさま思い出されるだろう。これらの作家のものは文庫でも刊行されていて、代表作を中心にほぼ安定的に供給されている。原則的には古書か図書館に頼ることになる、往年の世界文学全集を探してわざわざ読む必要はない。もちろんあえて文庫ではなく世界文学全集の一巻で読む理由もある。より読みやすい訳者のものを選ぶことは大切だし、写真が多用された詳しい解説が魅力的な場合が多いからだ。ただ本書では、せっかく世界文学全集の一巻に所収され昭和の時代に世に出た作品でありながら、文庫化されなかったことも手伝って、研究者や熱心な読書家以外からは忘れられつつあるものに、再度光をあてようと選書した。その結果ほとんどの作品が文庫化されたこれら大物作家の本を加えることはしなかったのである。
 そうしたわけで、A級の大作家が入っていない目次になったが、一方では複数の作品を選書している作家もいる。ヘンリー・ジェイムズはただ一人、「アメリカ人」「ボストンの人々」「カサマシマ公爵夫人」の3作を選んだ。いずれも落とすことができない秀作と思うからである。2作を選んだのは、ジョージ・エリオット(「フロス河の水車場」「ロモラ」)、ジョゼフ・コンラッド(「ノストローモ」「勝利」)、トーマス・マン(「大公殿下」「選ばれた人」)、オノレ・ド・バルザック(「あら皮」「幻滅」)、エミール・ゾラ(「クロードの告白」「生きるよろこび」)の5人である。これらの人たちも先に挙げた作家に劣らぬA級作家であることは疑いない。どういうわけか文庫に恵まれないエリオットを除けば、代表作・主要作の多くが文庫で読める。だがこれらの作家はおおむね相当に多作なので、文庫ではほぼすべての作品をカバーするまでには至っていないだけである。先に世界文学全集の一巻として世に出て、そこで一定数の読者を獲得してしまったので、加えて文庫化するほどの需要が期待できなかったのも、ちょっと地味な作品が文庫化されない原因かもしれない。
 というわけでいまに至るまで、バルザック「あら皮」の文庫本は存在しないのだが、世界文学全集はたとえ必要な端本だけを買い求めたとしても置き場に困るし、不ぞろいは見栄えがいいとはいえない。だから文庫があるならそのかたちで手元に置きたいのが人情である。本文中にも書いたが、クラウドファンディングでバルザックの文庫未刊の小説を出すなんて話をもちかけられたら、日ごろからそんな空想をしている私なんかはうっかり騙されて、10万円をレターパックで送ってしまいそうなのである。そんなことになったら、ますます妻に(以下自粛)。

 
『世界文学全集万華鏡――文庫で読めない世界の名作』試し読み
 

『図書館を学問する』本はどれくらいの図書館に所蔵されているのか?――『図書館を学問する――なぜ図書館の本棚はいっぱいにならないのか』を出版して

佐藤 翔

『図書館を学問する』などという書名の本であるからには、きっと日本中の図書館が購入し、所蔵(図書館が受け入れ、利用可能な状態にすること)してくれるにちがいないと期待するのは、著者として自然なことでしょう。本書中でも頻繁に引用する『日本の図書館 統計と名簿』(日本図書館協会)という資料の2023年版(執筆時点での最新版)によれば、2023年時点で、1,359以上の市区町村に図書館があり、1自治体に複数の図書館があることもあるため、市区町村立図書館の総数は3,246館にものぼります。そのほかに47都道府県すべてに都道府県立図書館があります。また、約800の大学、約300の短期大学にも図書館があり、こちらも1大学が複数の図書館をもっていることもあるため、その総数は1,800館以上。加えて全国1万8,000校以上の小学校、約9,900校の中学校、約4,800校の高等学校にも、法律上すべて学校図書館が置かれているはずです。そのほかに国立図書館や専門図書館など、世に「図書館」とされる存在はあまたあります。さすがに学校図書館が本書を買ってくれるかはわかりませんが(中学生・高校生ならぜひ読んでほしいところです。図書館学を志す人口を増やすためにも!)、市区町村立などの公立図書館や、大学の図書館ならば、きっとその多くが買ってくれるにちがいない。分館まで含めてすべてに置かれるのは無理でも、各自治体・大学で1冊ずつ買ってもらうだけで3,000冊くらいにはなるはずで、「まいったなあ、これはきっとすぐに増刷がかかることになるぞ」などと、出版前にはもくろんでいました。いわゆる捕らぬ狸の皮算用というやつです。
 その後、出版から約1カ月が過ぎましたが、いまのところは増刷のお声はいただいていないようです(1月23日の執筆時点。ところが、おかげさまで2月6日に2刷ができました!)。「おかしいな、いまごろすべての図書館が買っているはずでは?」と疑問を抱き、本書の趣旨にものっとって、さっそく各図書館の所蔵状況を調べよう……と思ったのですが、実はこれが意外に難しい。大学図書館については簡単で、全国ほとんどの大学図書館の所蔵資料をまとめて検索できる「CiNii Books」というサービスが存在します(いずれ論文や研究データなどを探せる「CiNii Research」という仕組みに完全統合される予定)。そこで所蔵を調べてみると……2025年1月23日時点の所蔵図書館は10館。10館!? 何かの間違いではないでしょうか。筆者の所属の同志社大学にも入っていないし、図書館情報学研究の拠点である筑波大学とか慶應義塾大学、愛知淑徳大学とか九州大学とかにもないではないですか。え、実はみんな僕のこと、嫌いだった……? ただ、たまたま現地にうかがって、蔵をこの目で確認した大学図書館なども、「CiNii Books」上ではまだ所蔵していないことになっているので、データの反映が遅れていたり、購入・準備に時間がかかったりしている大学もあるのかもしれません。そうであってほしい。
 公立図書館のほうはどうかというと、大学図書館に比べると所蔵を調べるのが容易ではありません。「CiNii Books」のような、多くの図書館の所蔵状況をまとめた蔵書目録「総合目録」が、公立図書館の場合には存在しないからです(一部の図書館だけ入っているものはありますが)。大学図書館の場合は、自分の図書館でもっていない雑誌に掲載された論文のコピーを依頼するとか、もっていない本をほかから取り寄せたいという要望が頻繁に発生することもあって、総合目録が発展してきた歴史があるのですが、公立図書館の場合は地域のネットワーク内で完結したり、国立国会図書館を頼ることが多いこともあって、全国的な総合目録が発展してきませんでした。そのためこういうときは不便だったのですが、2010年に「カーリル」という、全国の図書館がオンラインで公開している検索システムを横断的に検索して、所蔵状況をまとめて閲覧できるサービスを株式会社カーリルが運用開始し、全国の所蔵状況を調べることができるようになりました。ただ、総合目録がデータ自体、統合して作られているのに対し、横断検索はつど、各図書館の検索システムに問い合わせをかける負担が発生することもあってか、カーリルでは全国をまとめて探すことはできず、都道府県ごとのブロックでしか所蔵を調べることができません。したがって、仕方がないので47都道府県分、自分の本があるか検索してみました。エゴサーチここにきわまれり。
 カーリル検索の結果、1,359自治体、3,246館の市区町村立図書館中、本書を所蔵していたのは220自治体、252館でした。自治体単位での所蔵率は16.2%、図書館単位では7.8%。思ったほどには伸びていないかあ……もうちょっと所蔵しているものかと思ったのですが。ちなみにカーリルでは各図書館での貸出状況もわかるのですが、本書の貸出率は56.0%でした。新刊書のわりには低いともみるか、ノンフィクションのわりには高いとみるか。著者本人としては後者の立場をとりたいです、けっこう借りられているようだしぜひ所蔵しましょう!>図書館関係者各位。
 もっとも、出版から1カ月を待って調査してみましたが、おそらく買うつもりがないから所蔵していないのではなく、単にまだ納品あるいは準備ができていないだけ、という図書館もありそうだと思っています。そうでないと、都道府県別にみたときの京都府の所蔵率が低すぎます。21市町村中、2自治体しか買ってくれていない。なんなら日頃、図書館司書課程の教員としていろいろとお世話になっている、具体的には毎年ご挨拶にいっている図書館とか、研修事業を担当したことがある図書館とか、審議会委員をやったことがある図書館とかで、買ってくれているのが1館しかない。さすがにそこまで嫌われているということはないだろうと思うので……思いたいので、おそらくこれは新刊が図書館で提供されるスピードに、図書館によって差があるのではないか、という仮説が成り立ちます。発注から納品・受け入れ手続きにかかる時間に差があるのではないかとか。それを検証しようと思うと、例えば同じ時期に出た別の本の場合はどうなんだろうとか、もう所蔵している図書館/いま所蔵がない図書館で何か差があるのだろうかとか、もし検索システムで本の受け入れ日がとってこれるなら、個別の図書館の検索システムを使って受け入れ日のデータを取得してみて、館によって刊行→受け入れまでに系統的な(たまたまじゃなく、毎回発生する)差があるのかを調べる、なんてことが考えられます。
 そんな感じで、発端はごく素朴な疑問(自分の本って図書館にどれくらい所蔵されているのか)であっても、実際に調べて傾向をみているうちに様々な仮説が浮かび、それをまじめに検証していくと、いつの間にか図書館に関する研究・学問になっていくわけです。この場合は刊行から所蔵・提供までにかかるスピード(期間)とそれを左右する要因という、図書館サービスの品質に関するトピックになってきました(品質といっても、早ければ早いほどいいわけではなく、提供に期間がかかるところは慎重に選んでいるという結論になることも大いに考えられます)。似たようなことを様々なトピックについておこなっているのが本書『図書館を学問する――なぜ図書館の本棚はいっぱいにならないのか』でして、本稿を読んで興味をもった方は、ぜひご一読いただければ幸いです。
 もちろんこんな書名の本ですから、図書館で借りてもらうのもいいのではないでしょうか。お近くの図書館に所蔵があるかどうかも、カーリルで簡単に調べられますよ!
 
『図書館を学問する――なぜ図書館の本棚はいっぱいにならないのか』試し読み
 

第22回 アルフレッド・デュボワ(Alfred Dubois、1898-1949、ベルギー)

平林直哉(音楽評論家。著書に『クラシックの深淵』〔青弓社〕など多数)

イザイとグリュミオーの架け橋

 ウジェーヌ・イザイからアルフレッド・デュボワへ、そしてアルテュール・グリュミオーへと引き継がれたベルギー楽派の伝統。しかしながら、この3人のなかで圧倒的に知名度が低いのはアルフレッド・デュボワだろう。彼の名はマーガレット・キャンベルやヨアヒム・ハトナック、ボリス・シュワルツなど、ヴァイオリニストを網羅した代表的な書籍では扱われておらず、あったとしてもせいぜい「グリュミオーの先生」程度の記述しか見当たらない。比較的新しい『偉大なるヴァイオリニストたち――クライスラーからクレーメルへの系譜』(ジャン=ミシェル・モルク、藤本優子訳、ヤマハミュージックメディア、2012年)では珍しく単独で取り上げられているが、くくりは「番外編――クライスラー以前の巨匠、偉大なる教育者たち」である。
 デュボワは1898年11月17日、ベルギーのモレンベークで生まれた。両親は音楽家ではなく、彼が楽器を始めたきっかけは明らかではない。12歳のとき(1910年)にブリュッセル音楽院に入学し、アレクサンドル・コルネリウスに師事する。コルネリウスはアンリ・ヴュータンのアシスタントを務めていたユベール・レオナールに師事しているので、若きデュボワはヴュータン以来の伝統を叩き込まれたといっていいだろう。1920年にはブリュッセル市からヴュータン賞を贈られている。ソロとして活躍するのと同時に、25年からはベルギー王宮三重奏団を結成、27年にはイザイの後継者としてブリュッセル音楽院の教授に就任する。31年、イザイの葬儀で追悼演奏をおこなう。ベルギーでのデュボワの名声は高まり、38年にはアメリカに演奏旅行に出かけた。第二次世界大戦中、アルティス(Artis)弦楽四重奏団を結成し、弟子のグリュミオーが第2ヴァイオリンを担当する。49年3月24日、ベルギーのイクルで塞栓症のため急死。
 ビダルフのBID80172の解説でタリー・ポッターは「デュボワは1917年以降、定期的にイザイの指導を受けた」と書いているが、2023年に発売されたCD(ミュジーク・アン・ワロニー MEW2204)の解説には、デュボワがイザイから直接指導を受けたという証拠はないと記してある。ただし、彼がイザイが主宰する室内楽の演奏会に出演したこと、ジャック・ティボーの代役としてイザイと一緒にバッハの『2つのヴァイオリンのための協奏曲』を弾いたことがあったこと、若いころにはイザイと交流があったヴァイオリニストたちの指導を受けていたことも書いてある。イザイの後任として教授に就任したり、イザイの葬儀で演奏したりしたという事実なども含めて総合的に判断すると、デュボワがイザイからさまざまな恩恵を受けたことだけは間違いなさそうである。
 デュボワの演奏を紹介するとなると、さしあたりは現役のCDを優先しなければならないだろう。まず、ビダルフのBDF-ED85049-2で、モーツァルトの『ヴァイオリン協奏曲第6番』(1931年)とヴュータンの『同第5番』(1929年)、伴奏はともにデジレ・デファウ指揮、ブリュッセル王立音楽院管弦楽団である。前者は周知のとおり現在では偽作とされていて、最近の奏者は弾かなくなってしまった。この2曲は独奏が出ずっぱりの作風だが、これを聴くと、たいていの人がグリュミオーの音と似ていると思うだろう。明るく張りがあって、スコンと抜けるような美音は師弟に共通している。特にグリュミオーは弦楽四重奏団でデュボワの音を隣で聴いていたわけだから、師匠デュボワの音を身体全体で受け止めていたはずである。デュボワとグリュミオーとの違いは、デュボワはポルタメントを随所で効果的に使用しているところだろう。
 2曲の協奏曲のあとは、ソナタなどの室内楽作品が収められている。まず、ヘンデルの『ヴァイオリン・ソナタ第6番』。これは1947年の録音で、最晩年のものに属する(ピアノはジェラルド・ムーア)。2曲の協奏曲とはいささか異なり、古典的なスタイルを基本にしているが、随所にふっと香るような甘さをちりばめているところが魅力的である。
 次の4曲はデュボワが頻繁に共演し録音で同行していたピアニストで作曲家のフェルナン・フーエンス(つづりがGoeyensなので、ときどきゴーエンスという表記も見かける)のピアノ伴奏。ピエトロ・ナルディーニ(イザイ編)の『アリア』、ジャン=マリー・ルクレール(ヘルマン編)の『タンブーラン』、モーツァルト(ヘルマン編)の『メヌエット』、ヴュータンの『ロマンス』(1929年、31年録音)などだが、どれも自在で勢いにあふれた手さばきで、艶やかな美音と粋な表情を聴くことができる。
 最後の2曲は無伴奏で、イザイの『無伴奏ヴァイオリン・ソナタ第3番「バラード」』(1947年)とフリッツ・クライスラーの『レチタティーヴォとスケルツォ』(1929年)である。クライスラーも見事だが、圧倒的なのはイザイだ。力強く斬新な響きをくっきりと描くとともに、流麗でしなやかさがあり、歌心にもあふれていて、実に味わいがある演奏である。なお、これは『ソナタ第3番』の世界初録音らしい。
 次のCDは先ほどもふれたミュジーク・アン・ワロニーのMEW2204(2枚組み)。これにはデュボワの詳細な経歴が記されているだけでなく、写真も豊富で、資料としては非常に貴重である。ただ、CDの音質はいささかノイズ・リダクションがきつく、それがちょっと残念だが。
 ディスク1にあるヴュータンの『ヴァイオリン協奏曲第5番』とイザイの『無伴奏ヴァイオリン・ソナタ第3番』はビダルフのBDF-ED85049-2にも含まれていて、フランクの『ヴァイオリン・ソナタ』は後述するビダルフのBID80172にも収録されている。このCDでしか聴けないものの一つはイザイの『子どもの夢』(1929年、ピアノはフーエンス)である。これは美しい演奏だ。この甘く切ない音色は、弟子のグリュミオーを上回っている。
 ディスク2はフーエンスのピアノ伴奏で、フーエンスの『ユモレスク』『ハバネラ』、ジョセフ・ジョンゲンの『セレナータ』、アレックス・ド・タイエの『ユモレスク』、クレティアン・ロジステルの『リゼットに捧ぐセレナード』(1928年、29年、31年)など、ほかのCDではあまり見かけない作品が収録されている。しかしながら、内容は魅惑的なものばかりで、いかにも美音のデュボワが好んだ選曲といえる。また、ナルディーニ(イザイ編)の『アリア』はビダルフのBDF-ED85049-2にも入っている。
 次の2枚は廃盤になっているが、できれば早期に復活してほしい、重要なCDである。最初はビダルフのBID80172で、ベートーヴェンの『ヴァイオリン・ソナタ第7番』(1936年)、フランクの『ヴァイオリン・ソナタ』(1931年)、ドビュッシーの『ヴァイオリン・ソナタ』(1936年)で、伴奏はデュボワの長年のパートナー(主に1930年代以降)だったマルセル・マースである。
 まずベートーヴェンだが、ライブのような勢いにまずはっとさせられる。基本的には古典の枠組みをきっちり保持したスタイルなのだが、明るくどことなく漂う色香も感じさせる。ピアノのマースも、いかにも闊達だ。
 フランクの『ヴァイオリン・ソナタ』はミュジーク・アン・ワロニー盤にも入っているが、このビダルフ盤のほうがSPの味を伝えていて、聴きやすい。これまたベートーヴェン同様、生き生きとした息吹を存分に感じさせる演奏なのだが、ベートーヴェンではほとんどみられなかった、甘く夢を見るような温かさ、甘さ、しなやかさがあり、忘れがたい。スケール感も十分にあり、起伏や色彩感も見事で、名演の一つだろう。
 ドビュッシーの『ヴァイオリン・ソナタ』も傑作である。小気味よさと切れ味があるばかりでなく、粋で繊細な表情も抜かりなく描き出している。
 最後にはフォーグラー(ゲオルク・フォーグラー〔1749-1814〕のことと思われるが、CDには作曲家の名字のほかは何も明記していない)の『アリア、シャセとメヌエット(Aria, Chasse and Minuetto)』を収録。これもデュボワらしい、とてもきれいな演奏である。
 もう一つはバッハの『ヴァイオリン・ソナタ第4番』『第5番』『第6番』と、『ヴァイオリン・ソナタ第2番』より「アンダンテ・ウン・ポコ」(以上、すべて1933年)(ビダルフ BID80171)を収録しているものである。これらも、実に美しい演奏だ。端正で古典的なたたずまいのなかで気品がある音色で歌い上げ、いかにもヴァイオリンらしい甘さも感じさせ、胸にじんと響き渡る。こんな演奏を聴いていると、最近の古楽器演奏というものがいかに単一的で皮相なものかということを強く感じる。これらもすべてデュボワのよき相棒マースの伴奏だが、このCDにはマースの独奏が2曲、付録的に加えられている。
 いささかマニアックな情報も加えておこう。前出のフランクとドビュッシーそれぞれの『ヴァイオリン・ソナタ』はキャニオン/アルティスコのYD-3006(1977年発売)というLP復刻があった。この2曲の世界初復刻盤だったが、これが、なかなか優れた復刻なのだ。復刻の方法は「アートフォン・トランスクリプション・システム」とうたわれているが、実はどのようなやり方なのかは謎である。このLPの帯には「コルトー/ティボーと並ぶもう一つの決定盤!!」とあるが、これは決して大げさではないと思う。

 

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ニュルンベルクのクリスマス市――『ナチス・ドイツのクリスマス――ナチス機関紙「女性展望」にみる祝祭のプロパガンダ』を出版して

桑原ヒサ子

 冬のドイツ観光といえば、定番は有名なクリスマス市を巡る旅だろう。クリスマス市はドイツ各都市で、旧市街の中央広場を会場にアドヴェント期間、すなわちクリスマスの4週間前から通常クリスマスイブまで開かれる。クリスマスイルミネーションに照らされる市場では、レープクーヘンやシュトレン、シュぺクラティウスといったクリスマス菓子や焼きアーモンド、焼き栗が売られ、カラフルなガラス玉やアドヴェントの星、ラメッタなどのツリー飾り、エルツ山岳地方の木製の煙出し人形のほか、さまざまな雑貨の屋台が200近くも並ぶ。体を温める飲み物といえばグリューヴァインで、これは温めたワインにシナモン、レモンの皮、チョウジ、ウイキョウを混ぜ、甘味を加えたものだ。
 この時期、ドイツ観光局、ドイツ大使館、さまざまな旅行会社はこぞってクリスマス市を紹介し、ドイツへの旅行を提案する。ドイツの3大クリスマス市といえば、世界最大のシュトゥットガルト、世界最古のクリスマス市の一つドレースデン、それに世界で一番有名といわれるニュルンベルクのことで、ニュルンベルクだけでも世界中から200万人から300万人もの観光客を引き付けている。このエッセーでは、ニュルンベルクのクリスマス市に注目してみたい。

 第二次世界大戦後の復興を経て、再びドイツの家庭はどこも同じようにクリスマスを祝うようになる。その定形は、『ナチス・ドイツのクリスマス』で明らかにしたように、ナチ時代に発行部数第1位だった官製女性雑誌「女性展望」がアドヴェント号とクリスマス号に掲載した記事が作り出したものだった。クリスマスがキリスト生誕の祝祭であるという理解はあるものの、クリスマスのルーツはドイツ固有の民族文化にあるという19世紀以来の「ドイツのクリスマス」という自負心がナチ時代に強化された。ナチ時代に周知された「家族のクリスマス」が戦後に復活したのと同じことが、ニュルンベルクのクリスマス市の復活にもみられるように思う。
 クリスマス市が立つ中央広場には、「美しの泉」(鉄柵の金の輪を握って願い事をするとかなうという言い伝えがある)やゴシック様式の聖母教会が立つ。ニュルンベルクのクリスマス市は「クリストキンドレスマルクト」と呼ばれ、金髪に王冠をかぶり、金色の天使の服を着た(子どもたちにプレゼントを与える)クリストキントに扮した若い女性が、2人の天使を伴って聖母教会のバルコニーに現れて口上を述べる一大イベントで始まる。クリストキント役は市内在住の16歳以上の若い女性から選ばれるが、それは大変な名誉となる。

 この広場の歴史をたどるのもなかなか興味深い。
 ニュルンベルクの町はペグニッツ川の両岸に広がっている。12世紀によそから追放されたユダヤ人がやってきて、川の湿地帯に入植することを許される。14世紀にニュルンベルクの市壁が完成すると、ユダヤ人地区は街の真ん中に位置することになった。当時、ヨーロッパでペストが蔓延してユダヤ人がスケープゴートにされるなかで、皇帝カール4世はユダヤ人迫害を阻めず、1349年にニュルンベルクのユダヤ人地区でも迫害が起こり、560人のユダヤ人が殺害されている。1498年にはユダヤ人はニュルンベルクから放逐され、以後1850年まで家を構えることができなかった。カール4世は空になったユダヤ人地区に聖母教会を建設する許可を出したのである。
 クリスマス市がいつ始まったかは不明で、残存する史料によるとその歴史は17世紀後半までさかのぼれるという。その後、18世紀にはニュルンベルクの職人のほぼ全員、約140人が市で商品を販売する権利を獲得している。しかし、19世紀末になるとクリスマス市はその意味を次第に失い、街の周辺に追いやられた。それが国民社会主義の時代になると、長い伝統があるクリスマス市は、ニュルンベルクに「ドイツ帝国の宝石箱」というイメージを与え、年間祝祭カレンダーに入れるように利用された。1933年12月4日、アードルフ・ヒトラー広場と改名された中央広場で、神々しいほどロマンチックなオープニングの祝祭がおこなわれて、クリスマス市は復活した。市立劇場の若い女優レナーテ・ティムがクリストキントに扮し、2人の天使を伴って聖母教会のバルコニーに現れ、郷土愛あふれる口上を述べると、子どもたちの合唱が続き、教会の鐘の響きで締めくくられた。
 戦時中は空爆が激しくなる1943年以降のクリスマス市の開催は不可能だった。戦後初のクリスマス市は48年だというが、ナチ党と関係が深かったニュルンベルクは連合国の激しい爆撃を受けてがれきの山と化していたから信じがたい話である。いずれにせよ、ニュルンベルクのクリスマス市は戦後早い時期に、ナチスが33年にクリスマス市を復活させたときのオープニングをそのままに再開した。68年まではクリストキントに扮するのは女優だったが、69年から公募制に変更された。アドヴェントの第一日曜日前の金曜日に聖母教会のバルコニーに2人の天使にいざなわれて登場する金髪のクリストキントは、現在のニュルンベルクのクリスマス市の一大イベントになっている。

『ナチス・ドイツのクリスマス――ナチス機関誌「女性展望」にみる祝祭のプロパガンダ』試し読み