発達障害の子どもはおもしろい!――『がんばりすぎない!発達障害の子ども支援』を出版して

加藤博之

 本書の書名にある「がんばりすぎない!」には、私のいろいろな思いを込めています。出版後、ある人から「「がんばりすぎない!」ではなく、「がんばらない!」のほうがいいのではないか?」と言われました。語呂としてはそっちのほうがすっきりすると思ったのでしょう。しかし、それでは、私の本意を伝えることはできません。すでにがんばっている人たちのことを否定することにもなりかねませんから。
 そうです。発達障害の子どもと関わる親や先生たちはどうしても「がんばって」しまうのです。なぜでしょうか。障害が重い子であれば、かなりの割合でおおらかに接することができるでしょう。しかし、いざ発達障害の子どもを目の前にすると、そうはいかなくなってしまいます。がんばれば周りの子と同じようになるのではないか、という一種の幻想がつきまとってしまうのです。
 しかし、実際にはそうはいきません。一般の子育てで通用する方法がことごとく適用できないのが発達障害の子どもです。そうすると、諦めるかと思いきや、まだ足りないのではないかと思い込み、もっともっとがんばってしまう大人がいます。そこに大きな落とし穴があります。本書でも随所で述べているように、がんばることは逆効果になることが圧倒的に多いのです。そのため、何年もがんばってしまったあとに、やっとそのことに気づくというケースも少なくありません。
 そのような事情から、がんばっている大人に対して、がんばるのは確かに立派なことだけど、あまり「がんばりすぎないで」と言いたいのが、書名決定の由来です。ちょっと肩の力を抜いてリラックスすれば、それだけで子どもとの関係は変わってきます。私の好きな音楽に、大阪のブルース・バンド憂歌団の『リラックス デラックス』というアルバムがありますが、まさに、まずはリラックスしようじゃないかということが言いたいのです。

 出版後、いろいろな人たちからさまざまな感想をいただきました。なかでも、「この本は、発達障害のことを書いているにもかかわらず、一般の子育てにも十分通じるものがある」という内容が多いように思います。私は長年、障害がある子どもたちの臨床や教育、音楽療法に携わってきました。そして、子どもたちとの関わりのなかでつくづく感じることは、「子育ては、障害があろうとなかろうと、みんな同じだ」ということです。
 障害があるとどうしても、何か専門的なことをしなければならないと思われがちです。実際に、幼児期からせっせと訓練のようなものを求めるケースがみられます。それで、本当に子どもたちは幸せなのでしょうか。なぜ、障害があると、ほかの子よりも多くのことを求められるのか。もちろん、子どもへの配慮や対応の仕方を変えることは必要だと思います。しかし、子どもは誰でもまだ子どもなのです。

 もう30年以上前のことですが、私が公立学校の教員時代に大変お世話になった故・宇佐川浩先生(元・淑徳大学教授)から次のようなことを言われました。
「加藤くん、優れた障害児教育(療育)は、とても質が高い一般の教育につながるものだよ」
最近、この言葉の意味をかみしめることが多い気がしています。「そうか。そういうことか」と。きっと、何百人もの障害のある子どもたちが、「子育てとはこういうものなんだよ」と教えてくれているのだと思っています。

 ともあれ、発達障害の子どもは理屈抜きで面白い! 日々一緒に過ごしていて、ワクワクさせられる。「面白い」と感じ、いつもポジティブな見方で接していると、子どもはどんどん勝手に育っていきます。おそらく、一つひとつの行動を「面白い」と思っていればその子のよさが次々に発見でき、それは関わる大人を幸せにしてくれるのだと思います。幸せな大人がしょっちゅう近くにいれば、当然、子どもも幸せになることでしょう。それは、やがて子どもの自信につながり、自己肯定感にもつながっていくはずです。

 本書は、発達障害の子どもたちから学んだいろいろな知見をもとにしています。だから、本音を言えばもっともっとたくさん書きたかったと思っています。実際に、編集者から「多すぎます」と言われ、泣く泣く大幅に削除しました。その原稿は、パソコンのなかに眠っています。そして、日々増えていっています。字数の限りという壁には勝てません。そこだけが少しだけ無念ですが……。こんなに学べて、こんなに得をする職業が、はたしてこの世にあるのか、と日々思っています。

 発達障害がわかれば、どんな子どもにも対応できる。
 発達障害がわからなければ、子どもはよくわからない。
 

第15回 ノーバート・ブレイニン(Norbert Brainin、1923-2005、オーストリア→イギリス)

平林直哉(音楽評論家。著書に『クラシックの深淵』〔青弓社〕など多数)

アマデウス弦楽四重奏団の顔として活躍

 ノーバート・ブレイニンの名前に反応できなくても、アマデウス弦楽四重奏団の第1ヴァイオリン奏者と言えば、たいていの人はすぐにわかるだろう。アマデウス弦楽四重奏団は何度か来日している(初来日は1958年)が、ブレイニンがソリストとしての来日はなかったように思う(ただし、音楽祭とか、マスタークラスの講師として招かれた例があったかもしれないが)。
 ブレイニンは1923年、オーストリア・ウィーンに生まれた。若き日の履歴は知られていなかったが、アマデウス弦楽四重奏団の第2ヴァイオリン奏者、ジークムント・ニッセルの妻ミュリエル・ニッセルが著した“Married to the Amadeus: Life with a String Quartet”(Giles De LA Mare Pub Ltd.)のなかにいくつか情報が記されていた。それによると、7歳のときにヴァイオリンを始め、ほぼ同時に父が他界。最初の先生はいとこのマックスという人物で、彼は子どもにヴァイオリンを教えながら、ナイト・クラブでヴァイオリンを弾いていたという。ウィーン音楽院でウィーン・フィルのコンサートマスター、リカルド・オドノポゾフに師事し、ヴァイオリンのほかピアノ(ブレイニン本人は、へたくそだったと言っている)、対位法を学び、ローザ・ホホマン=ローゼンフェルトからは室内楽、ウィーン風のスタイルなどの手ほどきを受けた。
 1938年、イギリス・ロンドンに移住する直前に母も他界。ロンドンではカール・フレッシュ、続いてマックス・ロスタルに師事している。46年、ギルドホール音楽院主催のコンクールでカール・フレッシュ賞を獲得、翌47年、ブレイニン弦楽四重奏団を結成する。48年1月、名称をアマデウス弦楽四重奏団と改めて再出発、87年にヴィオラのピーター・シドロフが他界して解散するまで不動のメンバーで活躍した。60年、大英帝国勲章を授けられる。
 ブレイニンが初めてピーター・シドロフに会ったとき、シドロフもヴァイオリニストだった。両者の間でどのようなやりとりが交わされたのかは不明だが、シドロフは弦楽四重奏団を始めるにあたり、自身がヴィオラに転向した。かくして、弦楽四重奏団の性格を決定づける最も重要な役割である第1ヴァイオリンは、ブレイニンに託されたのである。ブレイニンはウィーン風の柔らかい音色と力強いダイナミズムをもっていて、非常に表情豊かだ。弦楽四重奏団とソリストを兼ねたヴァイオリニストというと、アドルフ・ブッシュや巌本真理を思い出すが、この2人に比べると、ブレイニンのソロ活動はずっと割合が低かったようだ。
 ブレイニンがソロ奏者として録音したものはさほど多くはないが、昔から知られているものとしては、盟友シドロフと共演したモーツァルトの『ヴァイオリンとヴィオラのための協奏交響曲K.364』があり、彼らはこの曲を以下のように3回録音している。ハリー・ブレック指揮、ロンドン・モーツァルト・プレイヤーズ(HMV、1953年)、デイヴィッド・ジンマン指揮、オランダ室内管弦楽団(EMI、1967年?)、アレキサンダー・ギブソン指揮、イギリス室内管弦楽団(シャンドス、1983年)。このうち手元にあるのが1回目(テスタメント SBT1157)と3回目(シャンドス CHAN6506)のCDである。2つの録音には約30年の隔たりがあるものの、明るくよく歌うという点では全く同じと言っていいだろう。全体的に1953年録音のほうが全体的にややテンポが速く、両ソリストの音もいっそう若々しいが、83年録音はステレオ(デジタル)ゆえに、一般的にはこちらのほうが好まれそうだ。
 ブレイニン単独のもので、最もまとまっているのはベートーヴェンの『ヴァイオリン・ソナタ全集』(プライザー PR90703、3枚組み)だろう。これは1989年から90年にかけ、ドイツ・フランクフルトでセッション録音されたものである。この録音はすでに弦楽四重奏団の活動を終えたころのものなので、シドロフがもう少し生きていたら、もしかしたら実現しなかったのかもしれない。
 ブレイニンの音は柔らかく人懐っこい音色は変わらないものの、音の粒立ちが若干甘くなったり、あるいは美感を損ねてでも激しい感情の高ぶりを見せたりしている。従って、きちっとこぎれいに整えられた演奏を好む人には、いささか抵抗があるかもしれない。だが、このこぼれ落ちてくるような豊かな情感は、そうした細かなキズを忘れさせてくれると思う。
『第1番』から『第3番』のような初期の作品は、いかにも若々しく瑞々しく歌われるが、それぞれの緩徐楽章がことさら味わい深いのが印象的だった。これは、全10曲すべてに共通するといえる。約40年にわたり、弦楽四重奏のアンサンブルで培った経験がにじみ出ているのだろう。『「運命」交響曲』にもたとえられる『第7番』、対照的に穏やかな『第10番』など、それぞれの曲の性格を巧く弾き分けているが、極端に走らぬように配慮されているのも感じられる。
 ブレイニンの個性が最も発揮されているのは『ヴァイオリン・ソナタ第5番「春」』と『同第9番「クロイツェル」』だろう。前者の第1楽章は、通常はさらりと流れるように弾くのとは正反対に、場面によってはかなりメリハリを付けている。第2楽章は晩秋のような風景で、これまた独特である。第4楽章では歌い方は多少ぎこちないけれども、暖かい音色が日差しのように飛び込んでくる。
 後者はすべての演奏のなかでも、最も特色があるだろう。第1楽章は最初の重音の弾き方からして実に独特で、主部が非常に遅い。口が悪い人は、速いテンポで弾けないからだろうなんて言いそうだ。しかし、テンポを伸縮させ、さまざまな表情を作るブレイニンのやり方には、この遅さは必然なのである。第2楽章は開始部分が、これまた非常にテンポが遅い。しかし、続く各変奏は決して先を急がず、それぞれの性格を慈しむように描き分けられている。以上の2つの楽章に比べると第3楽章は平均的な解釈に近いが、それでもこの気迫に満ちた表現はいかにもブレイニンらしい。
 言うのが遅くなってしまったが、ギュンター・ルートヴィヒなるピアニスト、これがなかなかすばらしい。ブレイニンの音楽にぴたりと同期しているだけではなく、タッチも明確、音もきれいである。音質も非常に良好。
 モーツァルト、ベートーヴェン、シューベルトの作品を収めた2枚組みLP(BBC Records & Tapes REF313)も紹介しておこう。これらは放送用に収録されたもののようで、1964年から67年にスタジオで録られたものだが、音声がモノラルなのがちょっと惜しい。
 きっと多くの人が聴きたがるのは2枚目、名花リリー・クラウスと共演したものではあるまいか。曲目はモーツァルトの『ヴァイオリン・ソナタ第32番K.376』、シューベルトの『ソナチネ第3番』、ベートーヴェンの『ヴァイオリン・ソナタ第8番』である。モーツァルトはクラウスの小粋なピアノに乗って、ブレイニンものびのび歌っている。シューベルトはピンと張った清新な表情が心地いいが、モノラルのせいか、いささか地味に響くのが残念(蛇足ながら、モノラルのLPなので、モノラル用のカートリッジで聴くことを推奨したい)。
 ベートーヴェンはジャケットとレーベル面には2つの楽章しか収録されていないと表記されているが、実際に聴いてみると、ちゃんと全曲入っている。演奏は全集に入っているものと比べ、いっそうテンポが速く、若々しい。
 1枚目はラマー・クラウソンがピアノ伴奏を受け持ったもので、すべてモーツァルト。『ヴァイオリン・ソナタ第28番K.304』、『同第33番K.377』、『同第42番K.526』の3曲。クラウソンだって腕達者であり、特にクラウスと見劣りがするわけではない。どれもブレイニンの音色が生きたいい演奏だが、色々なワザや工夫が多々ある『第33番』が最も聴き物だと思った。
 この原稿書くにあたり、もうひとつの重要な録音であるブラームスの『ヴァイオリン・ソナタ全集ほか』(Ducale CDL015、2枚組み)が、どうしても手に入らなかったことが悔やまれた。あちこち、さんざん探し回ったが、とうとう出てこなかった。

 

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第14回 ユーディス・シャピロ (Eudice Shapiro、1914-2007、アメリカ)

平林直哉(音楽評論家。著書に『クラシックの深淵』〔青弓社〕など多数)

多方面で活躍したアメリカの逸材

 最近、活動を再開した復刻盤専門レーベルのビダルフだが、そのなかで琴線にふれたのがユーディス・シャピロのCD(85025-2)だった。このCDに収録されたモーツァルトの『ヴァイオリン協奏曲第5番』が強烈だったので、この人に関して、全く突然に調べたくなったのである。
 シャピロはニューヨーク州バッファローの生まれ。幼いころから才能を発揮し、12歳でバッファロー・フィルハーモニー管弦楽団と共演。イーストマン音楽学校で学んだあと、フィラデルフィアのカーティス音楽院に入学、エフレム・ジンバリストのクラスに入る(シャピロは女性で唯一加入が許された)。一時期ニューヨークに滞在したあと、ロサンゼルスに移住、ハリウッドでの仕事を始める。ハリウッド・スタジオのオーケストラで初めて女性のコンサートマスターに抜擢され、のちにパラマウント・オーケストラのコンサートマスターも務める。RCAビクター交響楽団ではヤッシャ・ハイフェッツのセッション録音の際にコンサーマスターも務めたが、ナット・キング・コール、フランク・シナトラ、エラ・フィッツジェラルドら、ポピュラー音楽の大御所のバンドでも活躍した。
 アーロン・コープランドや ルー・ハリソン、ダリウス・ミヨーなどの現代作品を積極的に演奏し、イーゴリ・ストラヴィンスキーともたびたび仕事をしていた。さらに、彼女の夫でチェリストのヴィクター・ゴットリーブとともに1943年に結成したアメリカン・アート四重奏団の第1ヴァイオリン奏者としての任務も、シャピロにとっては非常に重要だった(1963年、ゴットリーブの他界とともに活動は停止してしまう)。
 以上のように、シャピロはソロ、室内楽、映画音楽、ポップスと多方面で活躍していたが、その活動は単に幅広いものではなく、常に一流の音楽家たちとのふれあいだった。
 冒頭でふれたモーツァルトの『ヴァイオリン協奏曲第5番』は1944年8月のライヴ(フランク・ブラック指揮、NBC交響楽団)であり、復刻の素材はアメリカ軍の慰問用レコードである。音は多少古めかしいが、ソロは鮮明に入っている。シャピロのヴァイオリンはヴィブラートが大きく、そして速い。実に伸びがある力強い音であり、ほのかな甘さもある。第1楽章、ぐいぐいと突き進むような覇気があふれる運びであり、とても濃い音楽だ。第2楽章も、広々とした空間に響き渡るような太くたくましい音色で、朗々と歌い尽くしている。最近は古楽器派の薄味演奏ばかり聴かされていたので、耳にはとてもいい栄養になった。第3楽章も、生き生きとした跳躍ぶりがいかにも楽しげだが、ふとテンポをゆるめ、ひと呼吸置く巧さにも感心した(同様の手法は第1楽章にもある)。
 解説によると、現在確認されているシャピロ唯一の協奏曲録音だという。こんなにすばらしいモーツァルトを聴いてしまうと、ほかの曲はどこかにないのか、とぼやきたくなる。
 協奏曲の次に収録されているのはアメリカン・アート四重奏団による小品が7曲。まず、最初のメンデルスゾーンの『スケルツォ』、この勢いと音の粒立ちのよさにはちょっと驚かされる。続くチャイコフスキーの『アンダンテ・カンタービレ(弦楽四重奏曲より)』やフーゴー・ヴォルフの『イタリア風セレナード』なども、シャピロの個性的な音が発揮されていて、ほかの演奏とはひと味もふた味も違っている。弦楽四重奏は4人の奏者の音色が平均化されているのが近代の主流だが、このシャピロのように、第1ヴァイオリンに個性的な奏者がいたほうが面白いと思う。以上の7曲は1953年の録音。
 最後の2曲はヴィクター・ヤング。ポール・ウェストンとそのオーケストラの伴奏によるムード音楽。1958年の録音で、これだけステレオだが、ムード音楽特有のエコーがかかった音である。したがって、シャピロの音は風呂場のなかで響いているような感じだが、彼女のうまさは十分に伝わってくる。
 同じくビダルフからは2枚組み(85026-2)もほどなく発売された。1枚目にはブラームスの『3つのソナタ(第1番―第3番)』とエルネスト・ブロッホの『バール・シェム組曲』(ピアノはラルフ・バーコヴィツ。1957年録音)を収録。ブラームスはともに力強くしなやかな演奏だが、なかでも最も成功しているのは『ヴァイオリン・ソナタ第3番』だろう。より自由な息吹が感じられる。ブロッホも、シャピロの個性がよく出ている。 
 2枚目にはベーラ・バルトークの『狂詩曲第2番』と『ルーマニア民俗舞曲集』、ミヨーの『ブラジルの郷愁』、モーリス・ラヴェルの『カディッシュ』(ピアニスト、録音データは1枚目と同じ)が入っているが、このなかでバルトークの『狂詩曲第2番』での切れ味と、ミヨーの表現の多彩さは特に聴きものだと思った。
 ストラヴィンスキーの『デュオ・コンチェルタンテ』『ディヴェルティメント(「妖精の口づけ」より)』は1962年のステレオ録音(ピアノはブルック・スミス)。ステレオの恩恵もあって、シャピロのよりいっそう透明な音色が楽しめるが、演奏自体はその昔に比べると落ち着きが感じられる。演奏、音質ともに『ディヴェルティメント』が傑出している。
 最後の2曲はムード音楽(ステレオ、1958年録音)で、フリッツ・クライスラーの『わが瞳に輝ける星』、ハインツ・プロヴォストの『間奏曲』(ともにポール・ウェストン編)、伴奏はポール・ウェストンとそのオーケストラ。全体的な音質や演奏内容は1枚ものの2曲よりも優れていて、この方面でもシャピロは一流だったことが聴き取れるだろう。
 以上、2点(CD3枚分)は協奏曲を除いて、すべて市販盤LPからの復刻である。LP特有のノイズはうまく処理されているが、なかにはちょっと音を削りすぎかと感じる曲もある。ただ、全体的には大きな違和感はなく、シャピロがどんなヴァイオリニストだったかを知るためには十分な内容だろう。
 なお、同じくビダルフからはアメリカン・アート四重奏団によるハイドンの『弦楽四重奏曲「ひばり」』、ベートーヴェン『弦楽四重奏曲第10番「ハープ」』、モーツァルトの『クラリネット五重奏曲』(ベニー・グッドマンのクラリネット)を収録したCD(BIDD85011)が発売されていることを付記しておく。

 

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ここが第二のスタートライン――『音楽ライターになろう!』を出版して

妹尾みえ

「FMで『音楽ライターになろう!』が紹介されていたよ」と知人が教えてくれた。兵庫県西宮市のコミュニティFM・さくらFMの番組「cafe@さくら通り」(6月8日放送)の「本棚に音楽を」というコーナーで、木曜パーソナリティーを務める安來茉美さんが取り上げてくださったのだ。
 こんな本が出ましたよというインフォメーションだけかと思ったら、1時間近くたっぷりの紹介でびっくり。本のなかで取り上げたスティーヴィー・ワンダー、ベティ・ラヴェット、ルイ・アームストロングらの曲も流れた。音楽を聴きながらだと、原稿をつづったときの想いが立体的に浮かび上がってきて、自分の文章なのに胸が熱くなった。そうなのだ、原稿はいつも聞こえる音楽と一緒。こうして耳を刺激する文章をつづるのが音楽ライターの役目なのだ。どんなにそれらしくても文章のなかに閉じ込めてはいけない。

『音楽ライターになろう!』を書いてみて予想外だったのは、現役ライターからの反響だった。なり方も仕事のやり方も誰も教えてくれなかったから読みたいという人もいたし、原稿料だけでは食べていけない!とハッキリ書いてほしいという人もいた。
 そしてみなさん、ライター業だけでなく、音楽を取り巻く状況に何かしらの葛藤を抱いて仕事をしている。
「ライターを育てる気がない音楽業界に嫌気が差す」と業界の知り合いにこぼした知人は、ChatGPTを引き合いに出して「いまみたいな音楽ライターは必要なくなるんじゃないか」と言われたそうだ。
 AIも使いようによってはよき相棒になるようだが、私自身は「聴き、評価し、自分の言葉で表現する」音楽ライターの仕事がAIが取って代わられるとは思わない。こうしてみると音楽ライターって、いろんな意味でフィジカルと連動した仕事なのかもしれない。
 そんな話題も含め、音楽業界の未来や、後輩に手渡したいことについて、もっと話したり発信したりほうがいいのだろう。これから音楽ライターになりたいという人が夢をもてるような話もしてみたい。

 などとエラソーなことを書いているが、今回の執筆では編集のみなさんにかなりご迷惑をおかけした。表現の甘さも痛感し、潮時という言葉も頭をよぎった。
 それにググればマニアックな情報でも収集できるいま、これからの音楽ライターは生半可な知識では勝負できないだろう。「ライターと読者の知識の差がなくなっている」という厳しい意見も耳にする。
 その分、これからはいままで以上に、書き手が何を聴いて、何を感じて、何を己の言葉で語るのかが重要になると思う。例えば、現場に足を運んで伝える、自分の視点でガイドブックを編む、専門誌ではないメディアで音楽を紹介する――私にしかできないこともあるんじゃないか?
 愚痴っている場合じゃない。もうひと踏ん張りしてみよう。私にとって、この本は音楽ライターとしての第二のスタートラインになりそうだ。
 

第13回 シュテフィ・ゲイエル(Stefi Geyer、1888-1956、ハンガリー→スイス)

平林直哉(音楽評論家。著書に『クラシックの深淵』〔青弓社〕など多数)

バルトークに愛されたヴァイオリニスト

 シュテフィ・ゲイエルは戦前・戦後を通じて活躍したヴァイオリニストのなかでも屈指の実力を備えていたが、今日ではヴァイオリン関係の文献でさえも彼女の名前は見つけにくい。多くの人がゲイエルの名前に遭遇するのは、おそらくバルトークの『ヴァイオリン協奏曲第1番』の曲目解説だろう。『ヴァイオリン協奏曲』はバルトークがゲイエルのために書き上げたものの、ゲイエル、バルトークがともに他界してから公開されたことは周知の通りである。
 インターネット上にはゲイエルに関する様々な情報があるが、相変わらず根拠を示していない、思い込みのようなものが多いので、ここではイギリス・パールのCD“THE RECORDED VIOLIN VOLUMEⅡ”(BVAⅡ、3枚組み)に所収されている、タリー・ポッターの記述を引用しておく。
 ゲイエルは1888年6月23日、ハンガリーのブダペストに生まれる。名教師フバイに師事し、ヨーロッパ、アメリカで活躍し始める。1908年、師フバイの50歳の誕生日を祝い、フバイが書いた『ヴァイオリン協奏曲第4番』を演奏した。11年から19年までオーストリア・ウィーンに滞在、その後スイス・チューリヒに移住し、作曲家のワルター・シュルテス(下記のピアノ伴奏者と同一人物?)と結婚、スイス国籍を取得する。23年から53年までチューリヒ音楽院で後進の指導にあたり、パウル・ザッハーが主宰するチューリヒ・コレギウム・ムジクムにも加入、並行して弦楽四重奏の活動もおこなう。50年、フランス・プラードのカザルス音楽祭ではバッハの『ヴァイオリン・ソナタ』をクララ・ハスキルと共演している。56年12月11日、チューリヒで死去。
 バルトークが1907年から翌年にかけて最初の『ヴァイオリン協奏曲』を書いていたとき、バルトークがゲイエルに好意をもっていたことは明らかだったようだ。でも、なぜ、ゲイエルはこの協奏曲を弾かなかったのか? 単純に、ゲイエルは曲に対して完全に共感できなかったためと考えられる。また一方では、バルトークとの関係が密になるのを避けたいがために、ゲイエルはこの協奏曲を無視したのだと指摘する声もある。ただ、真相は不明だ。
 バルトークはその昔、ダラニ家の次女でありヴァイオリニストのアディラ・ファチリ(ファキーリ)に強い愛情をもっていた。実際、バルトークはアディラと一緒に演奏するために、ヴァイオリンとピアノのための小品を書いている。それでも、バルトークとアディラの関係は深まらなかった。すると、バルトークの関心は三女のヴァイオリニスト、イェリ・ダラニに移っていく。イェリはバルトークを優れた作曲家でありピアニストとして認識はしていたものの、バルトークにユーモアのセンスが欠けていたのがお気に召さなかったようだ。このように、バルトークは結局、3人の女性ヴァイオリニストにフラれたともいえる。
 話が横道にそれてしまった。SPにいくつかゲイエルの録音が残っているのは知っていたが、ゲイエル単独のCDは出ていないと思い込んでいた。ところが、つい最近、オークションでゲイエルのCDを見つけ、送料込み約1万円で落札した。これはフランスの復刻レーベル、ダンテのLYSシリーズ(LYS398)のものだった。このシリーズは発売点数は多かったものの、内容は玉石混交。しかし、“玉”のほうには唯一の復刻とされるものも多く含まれており、ここにゲイエルがあったのは驚きだった(ヴァイオリン関係に詳しい知人も、このゲイエル盤を知らなかった)。
 ゲイエルのCDは全7曲、すべてSP復刻である。最初はスイスの作曲家、オトマール・シェックの『ヴァイオリン協奏曲「幻想曲風」』(1912年、初演の詳細は不明)である。この協奏曲はバルトーク同様、ゲイエルに対するシェックの恋愛感情からの産物といわれる。これは1947年にフォルクマール・アンドレーエ指揮、チューリヒ・トーンハレ管弦楽団によって録音されているが、確かこの曲の世界初録音のはずである。音の古めかしさは多少感じさせるものの、甘く、叙情的な情感を実に見事に弾ききっているゲイエルのソロはすばらしい。バルトークとは違い、ゲイエルもこの曲に強く共感しているのも聴き取れる。CDもさほど出ていないし、演奏会でもほとんど取り上げられないが、この演奏を聴けば、多くの人がこの協奏曲を好きになるだろう。
 次はモーツァルトの『アダージョ』、パウル・ザッハー指揮、チューリヒ・コレギウム・ムジクムの伴奏(録音:1938年)。ゲイエルは非常にゆったりと、一つひとつを味わい、慈しみながら弾いている。柔らかくはあるが、とても透き通ったきれいな音だ。
 モーツァルトと同じ指揮者、オーケストラの伴奏で、ハイドンの『ヴァイオリン協奏曲第1番』(録音:1947年)がある。シェックの『ヴァイオリン協奏曲』では、かなりしなやかに、蠱惑的に弾いているゲイエルだが、ここでは古典的なたたずまいに徹していて、明るく冴え渡った音で弾いている。伴奏も、カチッとまとまっている。
 バッハには『無伴奏ヴァイオリンのためのパルティータ第3番』より「ルール」(録音:1930年)がある。これはハイドン同様に透き通った、いくらか硬質な音色ではあるが、品格とほのかな甘さが漂う逸品である。ゲイエルのバッハがこの曲しか残されていないのは、残念としか言いようがない。
 ゴルトマルクの『エアー』(録音:1927年、CDにはピアニストの表記なし。別資料ではW.シュルテス)はバッハよりもさらに甘く、柔らかい雰囲気が強い。あまり有名な曲ではないが、ゲイエルの個性がはっきりと打ち出されている。
 ドヴォルザーク(クライスラー編)の『スラヴ舞曲作品72-2』(録音:1927年、ピアノ:W.シュルテス)は、先ほどふれたパールのCDにも入っている。ややゆっくりめに弾き、テンポをゆらゆらと揺らしながら歌っている。このあたりが、いかにも古いヴァイオリニストである。
 最後はクライスラーの『美しきロスマリン』(録音:1930年、SP盤ではピアニスト不詳だが、このCDではW.シュルテスと表記)。この曲もテンポは気持ち遅め。普通は柔らかめに始まるのだが、ゲイエルはその逆。けれど、右に左にテンポは揺れ、少し強めのポルタメントも使用される。このように弾くヴァイオリニストは、最近ではまずいないだろう。
 以上、ゲイエルの主要な曲が収録されている単独のCDとして非常に貴重だが、ブックレットのSP番号、マトリクス番号の表記のデタラメさには驚き入ってしまった。
 手元にあるSPで、ダンテのCDには含まれていない曲が2つある。1つはマルティーニ(クライスラー編)の『アンダンティーノ』(英コロンビア LZ1/録音:1930年、ピアニスト不詳)。これはゴルトマルクと同様、柔らかく甘い雰囲気に満ちた美演奏である。もう1つはベートーヴェンの『ロマンス第1番』(英コロンビア LZX2/録音:1930年、ピアニスト不詳)。これまたゆったりと歌っており、ほどよいテンポ・ルバートと、ごく控えめなポルタメントを使用し、非常にうま味のある演奏を展開している。これだけを聴いても、ゲイエルの豊かな音楽性がしっかりと感じられる。なお、ゲイエルは『ロマンス第2番』は録音していない。
 ゲイエルの未発表録音があるとすると、スイスの放送局なのだろうか? メジャーな協奏曲を期待したいけれど、有名なソナタでもいいから、ぜひ聴いてみたい。

 

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人生はアップデート――書くことの原動力――『妾と愛人のフェミニズム――近・現代の一夫一婦の裏面史』を出版して

石島亜由美

 本書が刊行されてから数週間がたった。印刷に回るギリギリまで校正をして、見れば見るほど修正したい箇所が見つかり、自己嫌悪に陥りながらもなんとか締め切りに間に合うように作業の区切りをつけて原稿を送り出した。そのあとはできるだけ原稿のことは考えないようにして淡々と日常を送ろうとしたが、気持ちを切り替える間もなく、ついさっきまで握り締めていたと思っていた私の原稿は書籍という印刷物になって目の前に現れ、あれよあれよという間に書店に並んでしまった。ネットを検索すれば「Amazon」でも簡単に買えるようになっている。本書の「はじめに」もウェブ上で試し読みができるようになっている。私が書いたものが私のもとを離れて、一冊の本として社会に流通してしまった。不思議な気分である。カバーに印字された「石島亜由美」という著者名を確認して、私は石島亜由美で、これは私の本なのだ、私は本を出版したのだと、いまさら照れくさい気分にもなっている。

 本書のタイトルは『妾と愛人のフェミニズム――近・現代の一夫一婦の裏面史』である。「妾」と「愛人」という存在を取り上げるのは、やはり勇気がいることだった。妾や愛人と聞けば、「夫の浮気相手」として非倫理的な存在という認識が一般的にあるだろう。そんな女性をフェミニズムが擁護するのかという批判の声が聞こえてきそうだ……。
 本書の議論は、妻の立場に揺さぶりをかけている。一夫一婦の法制度とジェンダー規範が確立した近代以降の日本社会では、妻は正しい存在であり、フェミニズムでもその立場は夫と対等になるために称揚され、妻の役割を肯定的に語ることが長い間の関心事だった。本書では、そうしたフェミニズムの経緯に水を差している。一夫一婦を支柱とした妻の問題を、妾・愛人の議論から照射しているのである。したがって、フェミニズム内部からは、女性間の対立の構造を深めるのではないかという声も聞こえてきそうだ。フェミニズム内外から飛んでくるだろう批判の声を感じ、おびえながら私は原稿を書き上げた。

 そして現在、出版されて数週間のためか、主だった批判の声はまだ私の耳には聞こえてこないが、意外だったことがある。本書の「はじめに」で、私がこのテーマに取り組むことになったきっかけを述べているが、その理由の一つに私の母親との確執があった。私が選択した道を「正しくない」と言って批判したうちの一人は、実は私の母親だったのである。その母親が私の本を読んで、この出版を心から喜んだのだった。「はじめに」に書いたそのことについても自分のことが書かれているとわかったようで、そのうえで「あのとき言い合ってよかったね」と、信じ難いほど前向きな感想が母親の口からもれたのである。
 本書を出版することは事前に母親には伝えていたが、出版は喜んでもらいたくても、本の内容、中身までは知られたくないという気持ちが強かった。せめて書名とカバーだけを眺めて、あとは何も考えないでページをめくらないでほしい。そのまま実家の仏壇の前に置いておいてくれと祈るような気持ちだったが、見事にその期待を裏切り、母親は読んでしまったのだ。読んだら落ち込むだろうと思っていた。複雑な気持ちになって、過去にこじれた関係もそのまま墓場までもっていかれてしまうのではないかという恐れを抱いていたが、杞憂だったとわかった。本書を書く原動力の一つだった母親との確執、私が身体に刻んできた過去のトラウマの一つが、この一言で吹き飛んでしまうような出来事だった。書くことでネガティブな経験は乗り越えられるということを、身をもって実感した出来事だった。

 もう一つ、この出版で私が乗り越えることができたと思うことがある。それは、大学を離れても研究を続ける原動力を失わず、自分が腑に落ちる在野での研究スタイルを見つけられたことである。私は女性学専攻の大学院に入って博士号を取得し、そのまま大学の研究職に就いたが、8年あまりでその道を断念して鍼灸師に転職した。大学を辞めるとき、大学を離れても研究は続けることを自分に課したが、鍼灸師の資格を取るために今度は専門学校に3年通い、国家試験を受験して資格取得後は臨床の現場に出ていく(しかも2つの治療院をかけもちした)という状況下で、二足のわらじを履くというのはそう簡単なことではないと悟った。
 今回の出版に際して、SNSをエゴサーチしていると、私が「鍼灸師」であることに反応しているツイートがあった。人文の世界からすると、鍼灸師で書籍も出版していることが面白い経歴として見られるかもしれないが、治療の世界では中途半端な存在として扱われる。専門学校を卒業して同級生が正社員として就職、あるいは独立・開業して鍼灸師としての腕を磨いていくなかで、私はアルバイト生活を送ってきた。バイトに通うだけで精いっぱいで、周囲が修練に費やしている時間を、私の場合はすべて原稿を書く時間につぎこんだ。同級生とはこの2年、私が執筆にあてた時間の分だけ実力の差が開いてしまったが、とにかく私は自分の意志を貫いた。二足のわらじでもなんとかやっていくことができる。大学を辞めたという過去を乗り越える出来事となった。

 ネガティブな経験は書くことで乗り越えられる。それが本書を出版して、いま、私が感じていることである。最後にもう一つ、いまだから言えることがある。本書を出版した青弓社は筆者が憧れた出版社だった。私は学生のときに青弓社の就職試験を受けていた。本当は青弓社の編集者として仕事をしたかったのだ。しかし、見事にその試験に落ちていたという過去の傷がある。無鉄砲だった当時の自分に恥じ入る気持ちを抱えたまま時は過ぎたが、そのときの記憶は本書の出版によって「苦い思い出」として、人に対して語ってもいい出来事に変化していることに気づく。ネガティブな経験や記憶は完全に消えることはないけれども、新しいチャレンジによって書き換えていくことはできると思う。本書をつくってくれた青弓社のみなさんに感謝して、「おわりに」で書いたことをもう一度ここで言いたい。今日のこの日の気持ちを「20年前の自分に伝えてあげたい」と思う。
 

第12回 ジャニーヌ・アンドラード(Janine Andrade、1918-97、フランス)

平林直哉(音楽評論家。著書に『フルトヴェングラーを追って』〔青弓社〕など多数)

ブーシュリ門下の逸材
 
 1954年11月、ジャニーヌ・アンドラードはフランス政府派遣文化使節として来日した。もう70年近くも前のことになってしまったいまでは、このときのことが話題になることはめったにない。来日アーティストが本格化するのは57年から翌58年にかけて、ウィーン・フィル、ベルリン・フィル、レニングラード・フィルなど、海外一流のオーケストラが華やかな話題を提供して以来のことだった。ある意味、アンドラードの来日は、あまりにも早すぎたともいえる。
 アンドラードは1918年11月13日、フランスのブザンソンで生まれた。母親はピアニストだったようで、その影響でヴァイオリンを習い始めた。上達は驚異的で、26年には母親の伴奏で公開演奏をおこなっている。その後、パリ音楽院に名教師ジュール・ブーシュリに師事する。門下生にはジネット・ヌヴー、アンリ・テミアンカ、マヌエル・キロガ、イヴリー・ギトリス、ローラ・ボベスコなど、そうそうたる顔ぶれが並んでいる。31年(1930年説もある)にパリ音楽院を卒業、さらに研鑽を積むためにジャック・ティボーやカール・フレッシュのもとで学んだ。その後、ヨーロッパ各地で公演し、日本を含むアジアや南米などを訪れ、好評を博した。レパートリーは非常に広く、フランスの現代作曲家の作品も積極的に演奏していた。
 アンドラードのレコードが最初に日本で発売されたのは1970年初頭で、テイチクがオーヴァーシーズのレーベルでチャイコフスキーとブラームスの『ヴァイオリン協奏曲』を廉価盤で発売したが、まったく話題になっていない(当時の表記はアンドラーデ)。
 アンドラードの国内盤が事実上最初に認識されたのはCD時代になってからで、2004年12月に日本コロムビアから発売された『アンドラード/ヴァイオリン・リサイタル』(COCQ83872)である。これはスプラフォン原盤によるもので、1965年のステレオ録音と56年、57年のモノラル録音、LP2枚分を含むものだった。
 このCDは目下のところアンドラードの録音のなかでも最も音質がよく、代表盤といっていいだろう。まず、ステレオ録音にはモーツァルトの「ロンド」、グルックの「メロディ」、パガニーニの「ラ・カンパネラ」など、クライスラーの作曲・編曲の小品が11曲。クライスラーの小品集は世の中には多数存在するが、このアンドラードの演奏は、なかでも最も魅惑的な一つである。音色は明るく、やさしくて艶やかであり、愉悦感たっぷりに弾きながらも、とても上品。聴けば、誰もが好きになるヴァイオリンだろう。
 モノラルのほうはカサネア・ドゥ・モンドヴィユ、ヨハン・マテゾン、フランツ・リースなど、あまり知られていない作曲家の名前が連なるが、演奏の魅惑という点では、ステレオ録音を上回っているかもしれない。ことに、リースの「常動曲」のなめらかさ、ジョヴァンニ・バッティスタ・ペルゴレージの「ヴァイオリン・ソナタ第1番」(旋律はストラヴィンスキーの「プルチネルラ」に転用されている)の美しさは印象的だった。また、パガニーニの「ラ・カンパネラ」はモノラルでも録音されていて、ステレオ版と比較できる。
 音質を重視するのであれば、モーツァルトの『ヴァイオリン協奏曲第2番』『第6番』(いうまでもなく、現在では偽作とされている)(Berlin Classics 0184122BC)がある。伴奏はクルト・マズア指揮、ライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団で、1966年、67年に収録されている。これは、アンドラードが東ドイツに招かれて演奏したときに収録したもので、解説にはアンドラードがハンス・プフィッツナーの『ヴァイオリン協奏曲』をラジオ放送用に収録したとある。
 マズアの伴奏は、中庸ではあるものの、もうちょっとだけ、しゃきっとしているといいなと思う(協奏曲にもかかわらず、マズアの顔のイラストがデザインされている表紙も無粋)。曲は地味だが、アンドラードのソロは美しい。音質は特に不満のない鮮明なステレオ録音だが、何となく丸みを帯びているような気がするので、おそらくはオリジナルのLP(東ドイツ Eterna 825824)で聴くと、もっといいかもしれない。
 手前味噌になってしまうが、自家製レーベルによるチャイコフスキーとブラームスの『ヴァイオリン協奏曲集』(Grand Slam GS-2082)にも触れておこう(復刻に使用したのは2曲ともLPである)。これはハンス=ユルゲン・ワルター指揮、ハンブルク・プロ・ムジカ交響楽団によるもの。この演奏については、いろいろと不明な点が多い。まず、オーケストラは契約関係によるものだろう、実体は北ドイツ放送交響楽団だという。録音はステレオだが(モノラル盤のLPでも発売されている)、録音データは1950年代ということしか知られておらず、なかには59年と特定しているディスクもあるが、根拠がはっきりしない(この1959年は初発売年の可能性もある)。
 さらに不可解なのは、指揮者はワルターのままであってもオーケストラ名が異なったり、あるいはソリスト、指揮者、オーケストラの全部が偽名・変名で表記されたLPが何種類か発売されていることである。理由はわからない。
 そうした周辺の事情はさておき、演奏はすばらしい。ゆったりと構えて呼吸は深く、実にのびのびと、スケール感豊かに描き上げている。芯は強いけれども、表面は艶やかな音色も一級である。しいて言えば、ブラームスがいっそう見事だ。ブラームスでは同門のヌヴーの評価が高いが、アンドラードのそれはヌヴーに十分匹敵すると思う。
 この2つの協奏曲は、いまとなってはGS-2082の中古を探すよりも、中古LPを探すほうが楽かもしれない。
 なお、最近アンドラードの独奏、ランドルフ・ジョーンズ指揮、ベルリン交響楽団による『チャイコフスキーのヴァイオリン協奏曲』のLP(イタリアJoker SM1025)がある通販サイトで「従来とは別の、演奏会録音」とあったので購入してみた。しかし、中身は上記のワルター指揮のものと全く同一だった。
 そのほかのCDではアンドラード単独のものを紹介しておこう。一つはセザール・フランクの『ヴァイオリン・ソナタ』、ガブリエル・フォーレの『ヴァイオリン・ソナタ第1番』、シューベルトの『ソナチネ第3番』(melo Classic MC2013)。これは1958年、60年の放送用録音で、音はモノラル。
 演奏はどれも秀逸で、特にフランクの『ヴァイオリン・ソナタ』はアンドラードの個性が存分に発揮された名演といえる。音質は良好だが、音量の差が整えられていないのが欠点だ。たとえば、フランクの第4楽章など盛り上がる箇所なのに、音量が小さくなっている。元の録音がこうなっているのかもしれないが、これはマスタリングの際に調整すべきである。
 もう一つはベートーヴェンの『ヴァイオリン・ソナタ第7番』と『第3番』、モーツァルトの『ヴァイオリン・ソナタ第40番K.454』、アルベール・ルーセルの『ヴァイオリン・ソナタ第2番』(melo Classic MC2021)、1955年、57年、60年、モノラルがある。
 このなかで最も印象的なのはベートーヴェンの『第7番』かもしれない。ハ短調ゆえか、『運命交響曲』のような闘争的な内容として知られているが、アンドラードの演奏は聴き手を包み込むような大らかさが感じられる。また、曲はあまり有名ではないが、アンドラードの艶やかさが強く感じられるのがルーセルの『ヴァイオリン・ソナタ第2番』ではないかと思う。
 全体の音質は悪くはないが、MC2013と同じようにトラックによって音量差があって、聴いている途中でアンプのボリュームを調整しなければならないのは難儀である。
 以下の協奏曲はほかの演奏と組み合わされたものである。ベートーヴェンの『ヴァイオリン協奏曲』、フランツ・コンヴィチュニー指揮、ライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団、1959年のライヴがある(melo Classic MC2038、ジャンヌ・ゴティエとの組み合わせ)。
 音はモノラルだが良好。チャイコフスキーやブラームスの協奏曲と同様、実に立派な演奏である。びくともしない安定感があり、悠々と、朗々と、しなやかに歌いまくっている。これを聴いても、アンドラードがヌヴーやミシェル・オークレールなどと同等な力量をもっていたことは明らかだろう。
 ダヴィッド・オイストラフ、ヘンリク・シェリング、ボベスコ、ドゥニーズ・ソリアーノが組み合わされた2枚組みのなかにはシベリウスの『ヴァイオリン協奏曲』(Spectrum CDSMBA057)がある。これはアンドレ・ジラール指揮、フランス国立管弦楽団、1962年の放送用録音で、音はモノラル。
 音質はいいけれど、オーケストラがいささか奥に引っ込んだバランスがちょっと残念だが、ソロはきれいに捉えられている。演奏は非常に濃厚な感じが強い。シベリウスの透き通った叙情とはいささか異なるかもしれないが、エネルギーを絞り出すようにして歌いまくるのは、やはり感動的である。
 なお、このCDには2カ所、指揮者の姓がGiradと表記されているのは、Girardが正しいようだ。
 次はジャン・マルティノン指揮のプロコフィエフの『交響曲第5番』、シャルル・ルノー(チェロ)のシューベルトの『アルペジオーネ・ソナタ』と組み合わされたマックス・ブルッフの『ヴァイオリン協奏曲第1番』がある。伴奏はルイ・フルスティエ指揮、フランス国立管弦楽団で、1970年1月のスタジオ収録で、ステレオ録音である。これは現在知りうるなかでは最も晩年の録音であり、少なくともこの時期までアンドラードは現役だったようだ(1970年代前半に演奏活動から遠ざかり、その後は主に後進の指導をしていたとされる)。
 厳しい目で見れば、1950年代、60年代の演奏と比較すると、いささかぎくしゃくした感じは見受けられる。とはいえ、あからさまに衰えたというほどではない。第1楽章の弾き始めを聴いても、聴き手を吸い寄せるような蠱惑的な音は以前と変わっていない。この録音もオーケストラがやや奥まった感じになっているが、アンドラードのソロはステレオの恩恵もあって、より鮮明に聴き取れるのがありがたい。特に印象的なのは第2楽章。本当に気持ちがこもった、心に染み渡る美しいヴァイオリンである。
 きちんとした形で聴いてみたいのはニルス=エリク・フォーグステッド指揮、フィンランド放送交響楽団とセッション録音したシベリウスの『ヴァイオリン協奏曲』(デンマークDecca DLP9001)である。このLP(10インチ)はデンマーク以外の主要国、イギリス、フランス、ドイツ、アメリカなどではプレスされなかったため、中古市場でもきわめて入手が難しい。収録は1959年といわれるが、これは正しいかどうかはわからない(モノラルであるのは判明しているが)。粗末なCDRで売っているのは知っているが、そんなものを集めても意味がない。また、イギリスのシベリウス協会がCD化したようだが、これはおそらくCDRではないだろうか。海外ではCDとCDRは同レベルで扱っているが、やはり耐久性の点でも、CDRは信頼性が低い。それに、この協会のCDだってほかの演奏と組み合わされているだろうから、アンドラードのファンには向いていない。
 そのほか、CDRでサン=サーンスの『ヴァイオリン協奏曲第3番』なども手に入るようだが、やはりCDRは手に取ったときに、ありがたみが非常に薄く、コレクションとしての価値は低い。
 1953年9月、アンドラードはシェリングとともに師ティボーを見送るために、オルリー空港に向かった。いうまでもなく、ティボーは日本へ向かうはずだった。間もなく、ティボーらが乗った飛行機がアルプス山上に激突したニュースが舞い込む。
 ティボーの突然の死は、アンドラードにとっても衝撃だったはずだ。その師が向かおうとした日本に、翌1954年に訪れた彼女の胸中には、どんな思いがめぐったのだろうか。アンドラードはティボーから、日本や日本の聴衆について、何らかの話を聞いていたのだろうか。あるいは、日本に滞在中に、アンドラードがティボーについて、何か質問されたことがあったのだろうか。
 しかしながら、アンドラードが来日した際、彼女は全くの無名に近かったし、レコードもなかった。そのため、来日時には、インタビューなどの記事は計画されなかったようだ。

 

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生きている人間を推すからこそ“変人”となる勇気を――『宝塚の座付き作家を推す!――スターを支える立役者たち』を出版して

七島周子

「七島さん、郵便がきてるよ」
 2021年の冬、出社すると青弓社からの封書が届いていました。
 私は編集者で出版社勤めをしているとはいっても、美容師や美容業界向けの業界誌を制作する会社。ほかの出版社から封書が届くのは珍しく……、それで違和感があったのかも。隣の席の先輩が教えてくれました。
 それが拙著『宝塚の座付き作家を推す!』が生まれる最初の一歩。この依頼は、当時私があるヘアカタログサイトで連載していた、好きな座付き作家を好き勝手に紹介するコラムを見つけてもらってのことでした。
 この連載自体は、同サイトの編集長からじきじきに依頼を受けた正式な仕事ではあったけれど、媒体はヘアカタログサイトだし、編集長も美容業界誌の編集として新人時代からお世話になっているいわば“兄弟子”のような人だったため、心のどこかで「美容の仕事」と一続きのものと思っていました。小さな自宅の庭で気の置けない家族とつつましく野菜や花を育てているような、そんな感じ。それを「世の中に出荷しませんか」と。これには大変驚き、率直にうれしくワクワクしたのを昨日のことのように覚えています。
 業界は違えど同じ編集者の目線から見ても、私の連載はいわゆる「バズっている」ようなものでもないし、私自身もまったく無名。それを見つけて出版の決裁をするの、同業者として感服です。すごい勇気と決断……! また、書籍執筆が初めてで、どこもかしこも未熟な私の論を「おもしろい」と評価してもらったことは支えになりました。

 青弓社が「おもしろい」と言ってくださるように、私の視点はかなり変わっていると思います。まず、そもそもタカラヅカというスターシステムがウリのコンテンツで作家の話を必死にしているの、はっきり言って“変人”です。
 さらに、彼ら/彼女らの作品を評価する観点もだいぶ変わっています。仮に私と同じように作家に興味をもつ読者だったとしても、きっと共感を集めることはないでしょう。「作家を推す!」と冠していますが、“推しカルチャー”の根本ともいえる「“好き”を共有してつながる」ということは期待できない本です。
 なぜそんな本になったかというと、本書全体で述べたいのが、“推しカルチャー”のなかでの作品受容は「“推し”に対する“好き”がすべて」という風潮が強いことへの疑問だったから。もちろん、推し活そのものは「“好き”がすべて」でいいと思います。ですが、その“推し”が出ている作品、その人が関わり残す仕事に対して「関わっているから尊い」だけでいいのか?、 それって本当にその“推し”は喜ぶの?と常々思っていたのです。

 その疑問の背景にあるのは、まず一つに、その“推し”も生きているからということです。私はタカラヅカに始まり、いろんなものや人を推してきた半生でしたが、いつも「生きている人間を推すってなんて怖いことだろう」と思ってきました。彼らにも人生があるのに。
 タカラヅカ以外の俳優やアイドルのファンなどが特に顕著ですが、たとえば恋愛・結婚や脱退、引退など、本人のライフステージに関わることに対して「こうあるべき」を振りかざすことは普通におこなわれていて、そうやって「正しさ」で導くことが“推し”を応援することだと思われているふしもあります。私は25年間「生きている人間を推す」ことをやってきましたが、あらためて順応したくない価値観です。そして、本当に“推し”の人生を尊重できる応援の仕方を心がけ、模索してきました。
 タカラヅカは音楽学校に始まる「学校システム」から、“推される人たち=生徒”の人生に対してファンが干渉しづらい仕組みができています。そんなタカラヅカだからこそ、単に「贔屓がかっこよければいい」「贔屓や相手役をすてきに(ファンが願うとおりに)見せてくれる作家こそが正義」というだけでなく、もっと多様な作品の楽しみ方を提案できればと思いました。拙著にラインナップした12人の“推し”座付き作家たちの共通点は、作品の出来・不出来やファンを喜ばせることが得意かどうかではなく、生徒たちの役者としての成長やキャリアアップに寄り添うように作品をつくる、まさに「先生」として私が愛せる人たちだということはここに補記しておきます。

 もう一つは、先に述べたようにタカラヅカの作品は生徒と先生の成長と人生観を投影したものですが、それと同じくらい観劇するという行為そのものが、本来は観る人を映す鏡だと思うからです。私が胸を打たれる作品に「生徒たちのよき師」としての座付き作家の姿勢を感じるのは、私自身の宝塚音楽学校受験の経験に基づいていると思います。さらに、いま身を置いている美容業界も師から技術を受け継いでいく教育産業なので、ことさらにその点に思い入れをもつのだとも分析します。だからこそ「変わって」いて、多くに共感されるマジョリティにはなりえません。
 しかし、これは何も私だけの特別な事情ではなく、本来は観客のみなさん一人ひとりにそういった人生の違いがあるはず。仕事も境遇も育ちも何もかも違う人たちが一つの同じ作品を見て、まったく同じ感想で「共感」しあおうとするのって、本当はとても違和感があるな、と。先に述べた「「関わっているから尊い」でいいのか?」というのは、作品の良し悪しをもっと批評すべきということではなく、せっかくなのだからもっと没入しようよ、という提案でもあるんです。まったく違う人生を生きている人たちが一堂に会し、一つの作品を見る。その人生によって、同じ場所で同じ時間に見ても、感じ方がまったく違うかもしれない。それが自由であることが舞台や映画、ライブを鑑賞する醍醐味ではないでしょうか。

 とはいえ、本来その「違い」が怖いから、現代人は「“推し”が好き」ということでつながり安心したいのだということも見当がついているのですが……。それでも、せっかくその“推し”たちが生活のほとんどをなげうってつくっている作品に、こちらも同じくらいの熱量で没入することが彼らに対する敬意であり、何よりの応援ではないでしょうか。
 私が自分の「小さい庭」から大切に育ててきたものをみなさんに出荷してお役に立てることがあるとすれば、共感していただくことではなく……、もっと広く深く自由に作品読解の畑を耕し、心の土壌を肥やすことができる方法の提案。舞台観劇を通してご自身の心をもっと深く知ることができるような、小さな鍬のような存在になれたら幸いです。

 

第5章 パラマーケット/非知覚過程からの解放の条件

小倉利丸(富山大学名誉教授。専攻は現代資本主義論)

目次
序章 資本主義批判のアップデートのために
第1章 拡張される搾取――土台と上部構造の融合
第2章 監視と制御――行動と意識をめぐる計算合理性とそこからの逸脱
第3章 コンピューターをめぐる同一化と恋着
第4章 パラマーケットと非知覚過程の弁証法――資本主義的コミュニケーション批判
第5章 パラマーケット/非知覚過程からの解放の条件

[第5章構成]
5-1 国家とパラマーケット
    ・マスメディアの時代と何が違うのか
    ・無意識の再編成としてのデジタル文化空間
    ・資本と国家の共同作業
    ・プラットフォーマーによって助長される敵対要因
    ・[補遺]市場の匿名性を市場が奪う
5-2 コミュニケーション労働と非知覚過程
    ・コミュニケーション労働の形式的包摂から実質的包摂へ
    ・コミュニケーション労働とデータ化する「私」
    ・デバイスとアプリと身体性
    ・自転車に乗るロボット
    ・非知覚の基本的な構造
    ・隠された過程と非知覚過程
5-3 資本と国家による意識の実質的包摂――資本主義のユートピア、私たちのディストピア
    ・さらにその奥にあるフロンティアとしての無意識
    ・非合理性という問いと社会の構造的一貫性

5-1 国家とパラマーケット

マスメディアの時代と何が違うのか
 
 近代社会の自由を一方の理念としながら、コミュニケーションを監視し、ときには言論を弾圧しようとする権力の欲望は、資本主義に一貫している。コンピューターコミュニケーションの時代は、この手法が技術の中核をなし、資本のビジネスチャンスとなり市場として確立することにより、私たちの日常生活やプライバシーあるいは内面へと侵入するようになってきたことによって、その性格に根本的な変化が生じてきた。
 コミュニケーションは、人間の歴史を通じて人間の人間たるゆえんを根源において規定しているものといえ、発話と文字による伝達が、身体の機能から次第に切り離され、技術的な条件によって媒介されるようになるが、近代資本主義あるいは近代国民国家は、印刷や電信などの技術を通じて、それまでには実現しえなかった人間集団の構築システムを可能にした。識字率の高まり、日刊新聞が発行されるようになる19世紀の出版をめぐる環境、つまり出版の自由と検閲の法制度をめぐる闘争状態は、現代のネットの情報発信をめぐる国家と資本と大衆の軋轢と非常によく似ている(注1)。学問研究の自由は幅広く認められるが、庶民の不道徳あるいは反体制的な不真面目な言動と検閲の是非がもっぱら問題になった。当時は検閲官の資質が問題になったとすれば、現代の検閲官ともいえるAIの資質が議論の的になっているというところが違うだけで、大衆の意思を国家の下に束ねようとする意図をもって、意識を操作しようとする本質に変わりはない。19世紀には、人々は匿名で出版せざるをえなかった場合も少なくない。特に女性の言論の自由は大きく制限された。その後20世紀の大衆民主主義とマスメディアの時代になっても、人々の言論表現の自由や集会結社の自由は例外であって、不特定多数とのコミュニケーションの回路を実際に駆使できる人々は、出版、ラジオ、映画、テレビなど、いずれも特権的な少数者が発信力を独占し、圧倒的多数の大衆は情報の一方的な受け手とされ、身近な人間関係のなかで自由な意思表示ができるにすぎなかった。これは、マスメディアが国民国家の統治機構に組み込まれ、個人は不特定多数に対する発信を断念させられたということだけを意味していない。プライバシー空間という奇妙な「自由」な空間が形成されるようになる。空間の私的所有と個人主義が確立するとともに、プライバシー空間は情動の発露が保障され、擬制的な「自由」の空間を象徴するようになる。これは、コミュニケーションでの二重構造を形成することになった。公的な空間では、品性とか道徳とか謙譲とかといった類いのリテラシーが情動の抑圧と制御の構造的なメカニズムをなし、教育とマスメディアがこのようなコミュニケーションの手本となる。公共空間でのコミュニケーションとは、この意味でのマスメディアの表現であり、学校文化のなかで読み書きの礼儀作法であり、国民国家の文化の「品格」であり、不品行な情動の抑圧を構造化する仕組みとなった、といえる。ル・ボンが群集心理として描いた19世紀の不定形な都市のプロレタリア大衆が広場を占拠し、デモ行進し、匿名や偽名で印刷物を配布する行為は、不特定多数に対するコミュニケーションの数少ない回路であり、彼らの言論が支配階級に対する脅威となった(注2)。このような意味で、マスメディアは大衆を国民として組織化するための道具立てとして、20世紀の国民国家の意識構造の枠組みを形成することによって、現実の「群集」を国民として国家に統合する役割を果たすべきものとして位置づくことになる。マスメディアは、人々の情動に形式を与え、祝祭を媒介し、世俗的な宗教性の担い手となった(注3)。
 ポストマスメディアの時代――現代のインターネットを基軸とする時代――に、この仕組み全体が構造転換する。インターネットがもたらした不特定多数との間の双方向コミュニケーションは、マスメディア時代のコミュニケーション構造が長年の試行錯誤のなかで制度化しようと試みてきた情動制御の仕組みを機能不全に陥れた。SNSに典型にあらわれているように、情動は不特定多数に対して開放可能な回路を獲得し、結果として欲動の抑圧にも影響を及ぼすことになった。プライベートな空間のなかに抑え込まれてきた性や暴力あるいはネクロファラスな欲動が、コミュニケーション閘門の調整機能を超えて開かれた回路へと溢れ出すようになり、その結果として伝統的なリテラシーの制約の縛りを無視した情動の振る舞いとしての表現が――公共的な言論空間の側からすれば――突然出現したかのような現象を呈することになった。しかし、実際には、こうした言説がプライベートな空間のなかでは、多かれ少なかれ、事実上放任されてきたことを誰もが知っている。
 前章で述べたように、コミュニケーションの空間の伝統的な分節構造が解体された結果として、プライベートな空間に生息してきた近代社会の差別や偏見の欲望があからさまになった。ヘイトスピーチやいじめからリベンジポルノまで、SNSなどに流出するメッセージはSNSが生み出したものではない。SNSが生み出したのは漏出の回路である。近代資本主義の性秩序(差別と排除の構造)と暴力の制度のなかで密かに、しかし確実に構造的に再生産されながら、プライベートな領域や限られた空間でだけ通用可能だった抑圧されたコミュニケーションが不特定多数の「公共的」な回路に媒介される水路を得たにすぎない。この水路に閘門を設けて、堰き止めることで問題の広がりを抑えることはできても、本質的な解決にはならないことは明らかだ。プライバシーの権利で保護されながら人々が、この資本主義社会がもたらす構造的な差別と偏見を内面化して、内心におぞましい憎悪や嫌悪を醸成しているとき、資本主義の人権や人道の装いをもったもうひとつの仮面をかぶった正義の狼たちは、公共空間に漏出するこれらの感情の主体を隔離し排除しようとする。こうすることで既存の秩序を維持することが可能であり、普遍的な道徳と倫理をこの社会で実現することが可能であるかのように装っているにすぎない。実際に起きていることはもっと深刻だ。非知覚過程がAIなどを介して人々のプライバシーの内面に直接介入し監視可能となるにつれて――AIそれ自体のバイアスという問題があろうとなかろうと――、人々はもはやプライバシーと呼びうる場所の最後の拠りどころでもある自分自身の内面世界それ自体を外界から遮断する一切の手立て失う可能性に直面する。犯罪は、実行行為が問題の焦点にならなくなり、むしろ権力に求められるのは、実行以前に行為の意図や欲望を抱いているかどうかを予測し、行為に至る前に抑制することが可能な力をもつというところに焦点が当てられることになる。権威主義的な国家や独裁国家がやってきた粛清が民主主義を標榜する国家でも、予防を名目として、思想・信条の領域での検閲などが、一見すると民主主義や自由の権利と抵触しない手法で広がりをみせる。あるいは、本連載の課題を超える問題だが、「あなたはレイプ犯やストーカーを未然に排除・隔離することに反対なのか、彼らを野放しにしていいというのか」という問いに的確なオルタナティブを提起できなければ、AIによる行動予測と予防措置という現在のテクノロジーの傾向を押し止める理論的な見通しをたてることはできないだろう(注4)。
 往々にして、SNSの前述のような双方向性に伴うネガティブな現象が、あたかも発信者の主体的な情動の発露に還元されて論じられがちであり、その後に、問題が社会的な広がりをもつにつれて、こうした発信を可能にしているプラットフォーマーのビジネスモデルが槍玉に挙げられるようになる。こうして、法的規制の是非が議論になるわけだが、法規制は必ずといっていいほど、個人の自由をターゲットにして、社会構造に内在する差別や搾取は放置される。しかし、さらに悪いことに、差別や搾取に肯定的な意味付けを与えようとする思想や価値観の再構成を促す傾向が、CTCのプラットフォーマーの資本蓄積構造――いまや経済的土台であるだけでなく社会の上部構造の主要な文を構成している――によって肯定的に受け止められるようになる。こうなることによって、諸個人の情動が社会化する物質的な基礎を獲得することになる。現代のCTCはイデオロギー装置でもあることを忘れてはならない。こうした一連の動きは、コミュニケーションに付随する非知覚過程を通じて、社会構造のより深部にある人々の意識過程を規定する技術的な条件が、より直接的に、人間の意識を包摂することになる。
 しかし、インターネットの時代の双方向性が露出させた情動の回路のなかには、汚水ばかりが流れているわけではない。むしろ逆に、資本主義のコミュニケーション構造がもたらす身体性の搾取に対する政治的な異議申し立てもまた見いだすことができる。あらゆる政治的な意思表示は、実空間でのデモや集会のように、情動の動員なしにはありえないが、こうした行為が意味を獲得するのは精神的革命なしにはありえないことだ。剥奪された意味に対する創造的な行為に内包されている意味には権力への敵意があり、だから支配者の側からの眺めは、こうした政治的な情動もまた制御や抑圧を必要とするものとみなされることになる。
 現代の文化の機能は、欲動の制御であるとしても、それは、従来のような手法ではなく、あたかも人々が情動の解放を実感するかのようにして、その情動に陶酔しながらも欲動の制御を実現するような変化を構造化する途上にある。これはマスメディアの情動制御とリテラシーの流儀の押し付けに対する大衆の即自的な反発と深く関わる。つまり、大衆の反発が具体的に実現可能な条件をコンピューターネットワークが与えようとする試行錯誤の現れなのだ。コンピューターネットワークが資本の論理によって構築されている場合、資本の利潤はデータフロー量の不断の増加に依存する。SNSでの炎上やインフルエンサーと呼ばれるような人々の感情的な発信やフェイクあるいはヘイトといった表現の漏出は、ネットのユーザーたちの合理的な判断や理性ではなく、不合理で感情的な情動を戦略的に刺激することによって、アクセス数を稼ごうとする資本が生み出したものでもある。これはコンピューター・テクノロジー/コミュニケーション(CTC)に固有の性質なのではなく、パラマーケットを介した広告のメカニズム――SNSのビジネスモデル――がもたらした事態であるという意味で、特殊資本主義的な現象だ。コミュニケーション領域が市場化し、多数者のメッセージが量的支配を容易に獲得できる構造は、必然的に、少数者のメッセージに対する多数者のメッセージの過剰な応答を生み出す。インターネット以前には、この量的なメッセージの力はマスメディアが独占し、これを国家が統制することによって、多数者のメッセージをイデオロギー的に調整したが、ポストマスメディア=インターネットの時代には、より直接的に多数者の情動の集団的なメッセージが少数者のそれを圧倒するようになる。もはやマスメディアの媒介は不要となり、個人が、直接社会の土台であり、かつ上部構造でもあるCTCのプラットフォーム上で束ねられ、調整される(注5)。

無意識の再編成としてのデジタル文化空間

 フロイトは文化を人間関係を律する仕組みだとみなし、人間関係が欲動充足に深く影響され、また、ここには、〈労働力〉としてであれ性的な関係であれ、個々の人間も他者からある種の「モノ」として利用される関係が含まれると指摘したうえで、文化に対する潜在的な敵意が内在しているとも指摘した。文化は「個々人に対抗して守られねばならないし、文化の様々な仕組みや制度、命令はこれを課題としている」とフロイトは述べた。文化は、人間の内面にある敵対的なうごめきから社会の秩序を守る使命を帯びるわけだ(注6)。支配的な社会集団によって構築される文化が敵対するのは人間そのものというよりも、人間のなかの欲動に内在するある側面、とりわけ性的な欲動の本質をなす近親相姦や性器性愛や異性愛に還元できない性欲動に向けられる。フロイトはこれを文明(彼は文明と文化を峻別する立場をとらない)の起源にまで遡って、人類史の時代を貫通して見いだすことができるものだとしたが、私はむしろ、家族関係が歴史的社会構成体によってその構成と社会的意義・機能が大きく変化することをふまえると、資本主義に固有の文化による欲動抑圧のメカニズムと特徴があると仮定するべきではないかと考えている。資本主義は、性の構造的な秩序を家族と市場を横断するようにして、世代の再生産と性の快楽という性をめぐる二つの従属変数を独特の方法で配分するきわめて特殊な一夫多妻制をとる(注7)。性をめぐる差別、偏見、禁忌、道徳・倫理は、資本が商品として供給することによって構成される家族生活世界の資本主義的な文化を通じて再生産される。つまり、文化と欲動を構成する諸要因を念頭に置くと、文明という没歴史的な理解によって資本主義に固有の諸要因を無視することはできないということだ。
 文化は、諸個人の内面にある破壊的・反社会的・反文化的な傾向を飼い馴らすこと、諸個人への強制と欲動の断念を基礎として構築されるものだとフロイトは述べるわけだが、フロイトが念頭に置いている「文化」はもっぱらヨーロッパのキリスト教文化であり、抑圧の文化の核心にあるのは宗教である。この意味での文化は、文化一般に共通する本質だとフロイトはみなしたが、多文化社会であってもマイノリティの文化であっても同じように機能するのかどうかは、文化の構造それ自体が多層的でかつ相互に摩擦や対立を含むために、複雑であって、この複雑な文化的な多層構造が個人の情動にも影響する。この影響構造に市場経済と国家に組み込まれたパラマーケットを構成するマスメディアの文化装置があることにフロイトは必ずしも関心を寄せていない。支配的文化とサブカルチャーやカウンターカルチャーのように長らく議論されてきたテーマに対して、文化の抑圧的な性格という視点が有効なものといえるかどうかは、この点にかかっている。若者文化をある種のサブカルチャーとみなすとしても、当該の若者は、この文化を享受しながら「大人」になり支配的文化の担い手になる。都市と地方、あるいは多数者の文化と少数者の文化も、その間には明らかな支配的な文化と従属的であることを余儀なくされる文化が数世代にわたって継続する一方で、同化や順化の力が作用して支配的文化は変容しながらも資本主義の構造そのものが揺らぐことはない。古典的な正統派マルクス主義の社会理論がほとんど関心をもっていないセクシュアリティと家族関係を通じて、パーソナリティ形成に資本主義的家族制度が与える生育過程の影響の持続性を考慮すると、少なくとも、フロイトが指摘する文化の抑圧的性格は、多相的な構造を貫いて、それぞれの歴史的社会構造に固有の特性をもちながら一貫するとみていいだろう。逆に、そうだからこそ、この抑圧に対する抵抗が形成され、この抵抗に対して、支配的な文化がこの抵抗を抑える仕組みをさらに開発するという抑圧と抵抗の弁証法の可能性が見いだせるだろう。
 ここで欲動の断念として語られていることは、他者とのコミュニーションの様々なレベルで、相手との関係性のなかで、様々に抑圧の装置が作動し、様々な断念となって個人の言動を制御する。欲動の断念によって文化の枠組みのなかに整序された情動が構築されるわけだが、この欲動の抑圧が一定程度解除されるのは、意識的な過程では、もっぱらプライベートな関係のなかに限られ、そこでは多かれ少なかれ性的な欲動が最も大きな自由を与えられることになる。性的欲動の抑圧が家族(異性愛に基づく一妻一夫制を公式のイデオロギーとしながらも構造的には一夫多妻制をとり、これが近代の家父長制を支えるわけだが)を社会の制度として、しかも〈労働力〉再生産の中軸に据えられることによって、欲動の断念が人間の生育から資本が供給する商品の消費様式まで、ほぼ人生の全てを覆うことになる。この重層的な欲動の断念の背後に、無意識の作用域がある。
 欲動の抑圧と情動の制御は、諸個人の人間関係――コミュニケーション――を社会的に規定する制度を通じて具体化される。コミュニケーションの回路は、諸個人を制度を通じて相互に結び付けることになるために、コミュニケーションは、人間関係と社会制度の従属変数である。親密でプライベートなコミュニケーション一般があるわけではなく、プライベートな関係が妻と夫、親と子といった親族関係の資本主義的な機能に規定されて形成されることを前提として、相互のコミュニケーションが形成される。資本の組織は、利潤目的という組織動機も含めて、家族の組織とも議会の組織とも違う意思決定のコミュニケーションによって組織されるために、コミュニケーションそのものがこの外的な条件によって規定される。労働者は職場にいる場合と買い物で顧客となるときとでは、異なる情動の制御を受けるわけだが、これは、相手とのコミュニーションを通じて制御されることになる。そして、こうした枠組みがコンピューターコミュニケーションのなかで変容あるいは課題を抱え込むことになる。

資本と国家の共同作業

 パラマーケットは、マスメディアの時代と比べて、国家の統治機構と有機的な結び付きをより一層強くもつようにもなる。これは、資本が国家の統治機構を支えるコミュニケーションの社会基盤を担うようになったこと――土台と上部構造の融合――と無関係ではない。そして、また、資本が開発してきた行動予測と行動制御の技術を国家もまた「国民」の心理的な動員と治安管理などに用いるようになる。本連載ですでに述べたように、近代国家が国勢調査などの統計データを収集しようとしてきた歴史的な背景には、国民管理のためのデータ管理への志向があった。人口を固有名詞をもった具体的な個人の集合として扱えるだけのデータ処理能力がなかったから抽象的な「量」として処理する以外になかった。しかしコンピューターテクノロジーはデータ処理の飛躍的な高度化を実現し、具体的な固有名をもつ一人ひとりをターゲットにすることを可能にした。個人が抽象的な数値になることや、固有名を奪われて番号で呼ばれるといった事態に伴う直感的な嫌悪や違和感を基盤とした異議申し立ては通用しなくなる。同時にこのデータ処理の高度化は、資本と国家がデータを相互運用できるまでに発展してきた。こうして、日常生活の行動をデータとして把握して、「解釈」し、これを前提にしたコミュニケーションが、人と人、人と機械との間に構築される。この過程で、私たちの情動に対するコンピューターによる解析が中心的な課題となる。AIや機械学習などが目指すのは、こうした過程を通じた私たちの世界についての見方と感じ方を制御し、私たちの行動を彼らが予測する範囲内に収めることを通じて、既存の制度を維持することであり、結果として、彼らは私たちに幸福や満足を与え、不安や恐怖に対して私たちが自前で立ち向かう力を削ぎ、大きな権力への依存を希求する感情を喚起しようとする。しかし、実際に起きているのは、むしろ人間の側がAIに同一化することを通じて、ある種の幸福感情を獲得しようとする主体的な動きだ。
 具体的な事例でこの問題を考えてみよう。テロ対策に関するグローバル・インターネット・フォーラムGlobal Internet Forum to Counter Terrorism(GIFCT)という国際的な政府間組織がある。この組織は外務省の説明では「インターネット上のテロリズムや暴力的過激主義の拡散を共同で防止する目的で設立されたIT企業によるフォーラム。2017年に、Facebook、Microsoft、Twitter、YouTube(Google)の4社で立ち上げ。共有ハッシュデータベース作成・運用の効率化、テロ関連情報検知技術に関するベストプラクティスの共有等、テロリストによるサイバー空間の悪用への対応を議論。中小事業者への技術支援も実施している(注8)」とされている。GIFCTは創設メンバーに加えて、現在ではAmazon、tumblr、wordpress.com、Instagram、WhatsAppなど17社が加盟している。テロ対策という国家安全保障分野に、民間企業で消費者に対してグローバルにサービスを提供している企業が共同で取り組むという体制そのものが、これまでにみられない特徴だ。しかもこの取り組みの中心にあるのが「共有ハッシュデータベース作成・運用」である。ハッシュとは、もとのデータから一定の計算手順で生成された数十バイト程度の短い固有の値のことを指す。データの同一性を確認するときに、元データが大きくてもハッシュであれば簡単に判断が下せるために、データの照合などで用いられる。GIFCTは、各社が保有しているデータのなかでテロリストが発信した疑いがある動画などのデータを各社で共有し、同じデータがほかのサイトにアップされていないかどうかなどを判断することが容易になるとされている。その結果をもとにして、これら大手のICTは、コンテンツの削除、捜査機関への通報などを実施する。従来、コンテンツの検閲や削除などの行為は、言論表現の自由に関わるとされ、日本の場合であれば、刑法の猥褻罪のように、法的に明確な違法性があるものについての法的規制があるが、現在では民間企業が独自の判断で公権力にかわって表現内容を監視し検閲する力を発揮できるようになっている。こうした民間の検閲は憲法の検閲禁止条項の適用外だ。
 GIFCTのハッシュデータベースがテロリズムの分野で信頼性のあるデータベースであるかというとそうとは言えない。なぜなら、そもそもテロリムの定義が国際的にも合意できていないから、各社がテロリズム関連のコンテンツだとしてデータベースに上げたものの客観性を保証するものは何もない。欧米の価値観を前提としたテロリズムの判断は、イスラーム原理主義組織に対してはキリスト教原理主義よりも不寛容であることは推測できる。GIFCTは、加盟している企業が米国企業に極端に偏っている。グローバルに非西欧諸国の企業も参加させるべきかどうかでは合意がとれていないようだ。なぜなら、たとえば中国やインドなどのIT大国の企業が参加したときに、これらの国の利害によってGIFCTの方針が影響されることへの懸念があるからだろう。国連の機関との連携はあっても、国連にこうした機能を移管させることについてもたぶん否定的だろう。つまり、グローバルな多国籍企業は、普遍的な価値としての西欧の人権を共有するという建前を掲げることによって、本社があるアメリカの権力的な後ろ盾を利用することが、現状ではそのビジネスモデルに最も適している考えているからだろう。この意味で欧米諸国の文化ヘゲモニー装置の一部を構成するものになっている。
 こうした取り組みは、いくつもあり(注9)、民間が国家安全保障に関与する枠組みは、これまでもよく報じられてきた民間軍事請け負い会社といったリアルワールドでの軍事企業やいわゆる軍事テクノロジーに特化した企業から、一般的なプラットーム企業と呼ばれる巨大企業が、政府や国際機関と連携して治安対策の前提となるコンテンツの監視と検閲を担うようになっていて、資本蓄積の構造的な性格の一部をなすようになってきた。
 もっと卑近な日本での例を挙げれば、政府のギガスクール構想で導入される児童・生徒のデジタル環境の場合、この環境を準備するのはGoogleやMicrosoftなどの大手ICT企業であり、これらがさらに連携しているアプリ開発企業とともにユーザーになる子どもたちの行動を監視する教育システムを構築する。教科書会社が教材を作成することと本質的に異なるのは、こうしたCTCは共時的・経時的にユーザーのデータを蓄積して履歴として学校や政府が利用しうる環境を伴っている点だ。伝統的な教科書会社は教科書を供給しても、日々の学習行動を逐一把握することはできなかったが、いまではそれが可能になる。そして教師は、こうしたツールがどのようなプログラムによって作動してるのかを理解することは現実問題としてほぼ不可能であり、プログラムを独自に検証したり改変することもできず、このツールの評価を「信じる」以外になくなる。こうして教師はツールに従属することになる。これは典型的な法規制を迂回して資本が公権力と実質的に同等の監視や検閲の力をもつようになったことを端的に示す具体的な事例である。こうした教育現場の状況が子どもや親に受容されるのは、子どもも親も教師も、日常生活のなかで、CTCに基づくライフスタイルを肯定的に受け入れているからだ。とりわけ、この受容が、技術的な仕組みへの理解なしに「信じる」ことに基づいていて、近代の人間関係が公的場面で人々の言動を規制してきた合理的な判断や理解そのものが作動する余地が狭められ、これにかわって、人ではなくシステムを「信じる」ことへの依存が人々の行動の規範になりはじめている。こうした事例は、様々な不合理な判断や評価の蔓延をもたらし、人々の行動の規範が好き嫌いといった感情によって容易に左右される――ヘイトスピーチのように――といった事態が至るところに見いだせるようになってきた。
 テロ対策と学校でのデジタル環境を例として示したが、これがいったいどのような意味で私たちの世界についての見方と感じ方を制御し、私たちの行動を予測するメカニズムになるのか。このことを私たちは実感することはきわめて困難だ。CIFCTによるデータ解析やCTC資本による調整過程がなかった場合に、私たちがどのようなコミュニケーション環境に置かれるのかを具体的に実証することはできない。私がテロリズムの疑いをもたれて監視されていても、そのことを知ることはできないだろう。ただし、私のデータはテロリズムのカテゴリーを通じて「調整」され制御される。これが私のブログが検索エンジンにヒットする確率に影響しているとしても、そのことを実証することはたぶんできない。他方で、ギガスクールで集積される成績や行動履歴が長期にわたって解析される過程は、学校の教育制度の枠組みに還元されるという意味でいえば、わかりやすいように見える。しかし、教師も子どもたちも、誰も、自分たちのコミュニケーションの関係を規定するデータがどのように処理され、なぜそのようなデータとして集約されることになったのか、というアルゴリズムの実体を知ることはほぼ不可能だ。CTCが介在しない場合、教師と子どもや親のコミュニケーションに介在していたのは当事者が書いた書類だった。これがコンピューターやタブレットの画面に代わると、当事者の間には、紙に書かれたものがディスプレイに表示されたものや、そのプリントアウトされたものに代わるだけで本質に変わりはない、と誤認する。AIの関与は、これまで以上に客観的で正確な教育データであるにちがいないという根拠を説明しえない「信仰」が支配することになる。
 確実に言えることは、私が世界について、あるいはあなたについてどのような感情や理解を抱くのかは、私が取り結ぶコミュニケーションの経時的な蓄積――経験――に大きく依存する。この経験が、私の知覚を通じて世界との関係によって構築されていて、たとえそれが無意識の領域にあって私に自覚的に認識しえないとしても、私の知覚を介さない経験はありえない。しかし、この知覚過程にメタレベルで規定するCTCが私と他者――人間あるいはコンピューターのディスプレイ――を知覚しえない過程を通じて、インタラクティブに介在するというようなことは、これまでにはありえなかったコミュニケーションの過程だ。このことは最近急速な普及をみせはじめたChatGPTをめぐる動向をみてもよくわかる。ChatGPTは非知覚過程をインタラクティブなコミュニケーションに組み込んだものであり、人間に固有のフェテイシズムを巧みに利用した仕組みだ。ゲームの仮想空間ではなく現実の空間のなかで、私たちは人なのかAIなのかの判別がつかないコミュニケーションを通じて、いまここで交された会話が再帰的に処理されて次の会話の方向を規定する。民主主義の基本となる議論は一見すると成り立つようにみえるが、AIには対象への認識や意識と呼びうるものがあると私が信じるかぎりでそうであるにすぎない。人類の歴史のなかで、貨幣のフェティシズムに囚われて久しいことを想起すれば、ChatGPTのようなAIフェティシズムによる現代の卓踊術をあなどってはならないだろう。
 こうした過程では、私たちの自由がどれだけ奪われても、それを自覚することがないだけでなく、たとえ自覚したとしても、奪われた自由よりもいま現在の境遇に幸福や自由を主観的に感じる感性が形成されるとすれば、私たちが将来の社会をいまここにある社会とは根本的に異なる社会として構想する想像力も奪われることになるし、不幸や不安を感じるとすれば、それは「私」にその責任が帰せられるべき出来事としてしか感じられなくなる。想像力は常に現実的なもの、いまある権力と構造を与件とした狭い範囲のなかで実現すべきことだという主張は、保守的な人々だけでなく、体制に批判的な運動や人々の考え方の主流をなすことになる。想像力とは意味の世界であり、意味の剥奪と付与という一連の過程を形成するが、ここに巧妙な非知覚過程が伏在して私の将来の動静を予測し制御する過程があたかも自然過程であるかのようにして組み込まれ、こうなることによって、想像力もまた私たちから奪われるとともに、現状維持を正当化するような想像力が付与されかねないことになる。とりわけコミュニケーションが資本によって支配された労働ともなれば、このことはなお一層顕著になる(注10)。

プラットフォーマーによって助長される敵対要因

 いわゆるプラットフォーマーなどともよばれる民間の大手ネット企業は、政府が保有していない膨大なコンテンツの流通を支え、同時にコンテンツを保有したりデータベース化することによって世界理解に影響を与えるほど膨大な意味を生成する。そして、こうした意味の生成に自身の収益を最大化する構造があるために、ユーザーが増え、コンテンツの投稿が増えれば増えるほど、資本の基盤も拡大することになる。こうしたコンテンツのなかに、憎悪や流言蜚語に関わるものが含まれる場合があっても、それらをどのように規制するのかは、技術の制約と利潤率最大化の資本の運動法則と国益に基づく国民国家の立法との間の弁証法に規定されることになる。これは資本が供給する商品一般に共通する性質であり、たとえば健康に有害な食品添加物がなぜ市場に供給される商品に広範囲にみられ自家製の食品には見いだされないのかを考えれば、その理由は利潤原理に対する法の限界にあることは容易に理解できるだろう。資本がコミュニケーションサービスの提供をする場合であっても同じことがいえる。ヘイトスピーチやフェイクニュースの制御は利潤の従属変数でしかない。コミュニケーションの権利が基本的人権としての言論表現の自由や思想・信条の自由にとって不可欠だという理由で資本がこの分野に投資しているわけではなく、資本にとって利潤が見込めるから投資するのであり、利潤率最大化がヘイトを助長することがあってもおかしくはなく、資本に人権を期待したとしても、そこには資本の論理という厳然とした限界がある。
 先にも少し言及したが、ヘイトスピーチやフェイクニュースに無視できない数のフォロアーが生み出されるのも、Facebookの内部文書(注11)が明らかにしたように、SNS資本がユーザーを獲得するために駆使するアルゴリズムが利潤を最大化するように設計される結果であり、憎悪やフェイクのメッセージの助長に資本の加担があり、これが人々の心理に影響を与える。政治権力にとっては、こうした敵対するコンテンツを制御することが権力の維持に寄与すると判断した場合であっても――権力や支配的イデオロギーがヘイトの背景にあることを忘れてはならない――、資本の協力は欠かせない。資本にとってこうしたコンテンツが資本の収益に寄与しないのであれば、あるいは、資本が普遍的な価値を尊重することをアピールすることがビジネス上有利であると判断されれば、その限りで、コンテンツの制御に加担することになる。しかもコンテンツ規制は、普遍的な人権概念によっては規定されず、各国の法制度や政府の政策によって規定されるのが一般的だ。また、こうした資本と政治の思惑に対してプライバシーや市民的自由を主張する人々、ターゲットとされた集団の影響力、逆に極右の政治力などのベクトルにも左右されるから、政治的権力と経済的権力が多国籍の構造のなかで錯綜する複雑なゲームによってプラットフォームの監視・検閲の具体的な実行が決定されることになる。
 同様に、政治的権力にとってもコミュニケーションは、人権として尊重すべき領域として最大限の保障を与える義務があるという立場は、「建前」あるいは形式的な理念であって、政治権力は自らの権力利益の最大化するようにコミュニケーション環境を制御しようとする。つまり支配の拡大再生産を自己目的とする権力は、自らを支持する大衆の自由な政治活動こそが自由であり、この自由を阻害する行動は自由への敵対や阻害要因だとみなして「自由の敵」などとして抑圧する。この意味での自由が最大化されることによって自らの権力基盤の拡大に寄与することが可能になるかぎりで「自由」を尊重しようとする。これを抽象的一般的な言い回しによって――憲法の文言などを利用しながら――あたかも普遍的な権利としての自由の擁護者であるかのように印象づけようとするのが、いわゆる自由と民主主義を標榜する国がとるイデオロギー戦略だ。資本にとっても政治権力にとっても、コミュニケーションの自由の権利は、それ自体が自己目的となるような組織動機をもっていない。資本にとっても政治にとっても私たちの自由は、彼らの組織目的・動機ではないからだ。このことが資本主義での自由の限界であり、私たちが構想する自由の条件を資本主義が満たすことができない理由でもある。
 こうして、パラマーケットもまた政治的なコミュニケーションの回路としての機能をもちはじめるとともに、統治機構の意思決定にとっても不可欠な回路へと変容しはじめている。これは、政府の統治機構が、コンピューター・テクノロジー/コミュニケーション(CTC)による情報基盤に支えられるようになり、この基盤の構築を民間資本が担うようになることによって、近代国家の官僚制による情報統制の最も根底にあるデータの管理、処理、解析の多くの部分が官僚制から民間資本へと移行しはじめていることにみられる。しかし、そうであっても、現在は、法執行権力や法制定権力まで民間に完全には移行しておらず、また、民間にとって、こうした統治機構との有機的な結合は、資本の最終目標でもある利潤最大化の原理との折り合いという問題を残すままになっている。権力にとっての統治能力の最大化、無限の権力志向があり、資本の無限の価値増殖欲望が、この権力の欲望と整合的に機能するとはかぎらないからだ。

[補遺]市場の匿名性を市場が奪う

 資本主義的自由は市場の自由を中心に構築されてきた。私たちが「自由」を実感するとき、その根底にあるのは市場が与えた自由である場合がほとんどだ。ここに自由をめぐる将来社会の構築をめぐる難問――市場経済による価値の支配を廃棄しながら、市場経済が切り開いた「自由」に基づく権利に内包される歪みを排して再構築する可能性を探るという難問――がある。貨幣は身分に依存しない「金」という物質の価値を根拠に一般的等価性という社会の共同意識を構築することで歴史的に成り立ってきたものだった。つまり、金の直接的使用価値とは関わりなく、一般的等価性という意味使用価値を付与することで貨幣となった。市場経済の自由が関わるのは、この意味使用価値としての一般的等価性を「金」という実物で保障することによって、その所有者が何者であるのかに関わることなく、その者に代えてその物の貨幣性によって売買が担保できる仕組みになっている点にある。マルクスはこれ人と人の関係が物と物との関係になるとみなしたが、この物象化という代償によって匿名性を獲得するというトレードオフがここにはある。クレジットカードでも貨幣同様の一般的等価性に近い機能があるが、根本的に異なるのは、その意味使用価値=一般的等価性には私の個人情報(私の銀行口座の預金残高、この口座が私の口座であることを証明する認証仕組み)も不可分一体のものとして組み込まれている点だ。仮想通貨(政府は「暗号資産」と呼び、その貨幣性を払拭しようと懸命だが、私は仮想通貨と呼ぶ)は、ブロックチェーンの仕組みを利用してサイバースペースの取引に再度匿名性を導入しようとする試みだ。匿名は市場の活動も巻き込んで市場のポリティクスの中心課題になっている。
 歴史的にみれば、市場経済での社会の共通意識として銀行券に貨幣性を付与するようになったのは、貨幣のフェティシズムの基本的な性格が、物本来の性格に対する社会的な意味付与、つまり、社会を構成する人々が共通して「貨幣」であると認識する――そのモノの直接的使用価値ではなく――意味使用価値に一般的等価性を付与するというところにその原因がある。フェティシズムは物それ自体が物に付与された意味の体系との関係を通じて、意味に物それ自体が支配されるような社会と物の関係に基づく。不兌紙幣は金の裏付けがなく国家による信用だけで支えられるのもこの構造があるからだ。つまり、発券銀行の信用から国家の信用(正確には国家の後ろ盾をもつ中央銀行)へと変化することができるのも、市場経済の必須の条件でもある貨幣の一般的等価性という抽象的な性格を、社会の構成員の「共同作業」によって、あるモノの意味として付与することが可能だからだ。フェティシズムは物と意味の関係性の特殊社会的な反映なのである。
 貨幣は、階級社会を構成する資本家も労働者もともに共同作業者として利害を共有することによってこの一般的等価性を支える。これは、一見すると市場経済の非イデオロギー的な機能のようにみえる。しかしそうではない。市場がナショナリズムと不可分な構造がここにはっきりと露出しているにもかかわらず、そのように自覚することがきわめて困難なものが貨幣的なるものには内在している。中央銀行が発行する銀行券が「貨幣」とみなされるということは、階級を超越し、様々なアイデンティティ(ジェンダーやエスニシティなど)をも超越しながらも、ナショナルなアイデンィティだけは手離されることがない。つまり、貨幣のフェティシズムが国家のフェティシズムに依存するということを意味している。この段階で、貨幣は世界性を喪失し、私たちもまた、労働者であれ資本家であれ、男性であれ女性であれ、どのエスニックグループに属していようと、円とかドルといった「国民通貨」を用いることを強いられる。結果として、私たちは、金に体現されていた匿名の世界性も一部を失うことになる。本連載ではこれ以上立ち入れないが、仮想通貨は、この国家のフェティシズムではなくネットワークの暗号技術に依拠するというこれまでにないフェティシズムの新たな選択肢を生み出したという意味でいうと、資本主義がナショナルなアイデンティティへと収斂するように意味世界を構築してきた歴史に質的な転換をもたらす可能性がある重要な問題であると同時に、この傾向は、一般的等価性が国家に依存することなく市場それ自体に純粋に依存してなしうるものとして、資本主義的アナキズムを含意しているのか、それとも資本主義を超越する何かであるかどうかは未知数だ。暗号通貨の世界にはそれなりのアクター相互の力学があり、まだそのテクノロジーのイデオロギー的な傾向そのものが争点の渦中にあることも踏まえれば、暗号通貨もまた国家管理に包摂されて、かつての銀行券の二の舞になる可能性が高い。
 広義の意味での貨幣によって形成された近代的な市場の匿名性は、資本の流通過程の不確定性というコスト(流通費用)をもたらすことになる。独占がその解決策の選択肢の一つであるが、そうであっても買い手を特定して購買欲動を制御することまでは立ち入ることができない。非知覚過程は、買い手の欲動を個別に把握し、フィードバックを通じて、その制御を再帰的に調整し、匿名性が剥ぎ取られることになる。

5-2 コミュニケーション労働と非知覚過程

コミュニケーション労働の形式的包摂から実質的包摂へ

 前にも述べたように、19世紀の機械制大工業が労働者の労働を単純化し機械に従属する位置に置くことによって、熟練を解体し、不特定多数の単純〈労働力〉への置き換え可能にし、資本が労働現場の支配権を実質的に確立することになった。労働行為をめぐる意思決定が労働者から奪われ、意思決定から疎外されることによって、労働の意味の剥奪と資本による再構築が物質的労働の現場の当たり前の環境になり、次第にこの単純〈労働力〉そのものが機械へと置き換わり、労働者そのものが駆逐されるようになる。
 肉体労働の機械への置き換えは、〈労働力〉の人口構成を物質的労働から非物質的労働へと移動させ、やがて20世紀後半になると、コミュニケーションそれ自体が労働として再構成されるようになる。労働が果たす役割は、労働対象にはたらきかけて、資本の計画に沿って加工する対象操作的な性格をもつ。労働者は資本の意図を「理解」して、資本の一部として労働対象としての人間をコミュニケーションを通じて制御する。会話は、コミュニケーションの相互性を装いながら、実際には、非対称的な基盤の上にたっている。サービス産業の労働者が消費者との間で交わすコミュニーションの前提にある基盤は、一方が資本循環の一環に組み込まれた生産過程であるのに対して、消費者の前提にある基盤は資本に外的に接合された消費過程(〈労働力〉再生産過程)である。コミュニケーションがまとう相互性の外観からはこの構造的な違いは見いだせず、あたかも対等であるかのようにみなされる。
 コンピューターによるコミュニケーション領域への介在が支配的になる20世紀の末になると、コミュニケーションそのものの制御の主導権が労働者から機械へと移行するようになる。こうした事態は、具体的には、コンピューターが処理するデータやデータに基づく予測アルゴリズムを意思決定や判断の根拠として「信じる」ということを意味した。ここでは経験や主観とコンピューターのアルゴリズムの間で主導権争いが起きるが、これは労働者と資本のどちらがコミュニケーションの意思決定で主導権を握るか、という問題でもある。
 資本主義のコミュニケーションで支配的な位置を占める操作的なディスクールをそのままに、これまでは、労働者が資本家意識を内面化させられたりしながら、その「手先」を演じさせられて、相手(顧客、同僚、部下など)の意識にはたらきかけ、その行動や情動に意図したとおりの影響を与えようとするコミュニケーションが、コンピューターに取って代わられることによって、相手はより一層行動選択を拘束(その自覚のあるなしにかかわらず)されるようになる。人間はコンピューターを介在させたコミュニケーションの補助作業者になる。オンラインショッピングの売買の大半がコンピューターと顧客の間のコミュニケーションだが、このコミュニケーションでは解決しえないクレームなどの問い合わせがサポートデスクの担当者(人間)の労働になる。それもまた、ChatGPTなどを導入してAIによって定型的な質問、問い合わせが処理されるようになり、よっぽどのことがないかぎり顧客は人の声を聞くことが難しくなり、直接会ってクレームや相談をすることなどはほぼありえない世界になるつつある。行政も同様であり、役所に出向いて権利行使することは容易ではない。こうした事態が、コロナ・パンデミックを契機に一気に普及したが、これはコロナに原因があるのではなく、それ以前からの傾向が加速化されたにすぎない。コールセンターであれ行政の窓口であれ、通話は録音され、メールもまたそのヘッダも含めて記録される。住所や電話番号を入力しなければ問い合わせフォーム自体がエラーになる。匿名の選択の余地などはほぼないといっていい。
 あるいは、たとえば、学校現場にデジタル教材が導入され、生徒の成績がコンピューターによって解析されるようになると、教師の労働は、こうしたコンピューターの判断に依存するようになる。生徒の学習を教師が主体的に担うのではなく、次第に、コンピューターが主体となり教師はこれを補助する位置をとるようになる。ここでは生徒の個人データを教師が手作業で処理できる量を圧倒的に凌駕する膨大なデータを駆使して、生徒のプロファイルを実施するシステムが介入することになる。生身の人間の教員による教育と比べて、コンピューターのプログラムの方が生徒の学習能力を向上させるかどうかがここでは問題の核心をなすのではない。核心となる問題は、こうした過程のなかで生徒や教師たちがコンピューターのアルゴリズムに自らの学習/教育能力を最適化するように行動しようと努力するようになり、結果としてコンピューターのフェティシズムが成立してしまう点にある。ダマシオの言い回しを借りれば、情動から切り離された「理性」もどきの機械が「理性」の手本になり、こうしてデカルトが正しいということになるような世界が生まれる(注12)。学校の権威は、教師の人格からAIへと移行し、コンピューターによって媒介されたシステムのフェティシズムが再構成される。たぶん現在はこの過渡期にある。こうしたコンピューターフェティシズムの否定が旧来の学校教育への回帰の主張によってなされるのであれば、国民国家と資本の構造のなかで制度化された「教育」それ自体からの人間の解放という課題を果たすことにはならない。学校というフェティズム、その背後にある国家と資本のフェティズムからの解放、言い換えれば、意味の剥奪と資本と国家による意味の世界からの解放は、復古主義的な回帰によっては果たせないし、果たそうとするのは右翼のノスタルジーにしかならない。
 こうしてコミュニケーションが労働に組み込まれるとして、それでは資本や国家のコミュニケーション労働の回路のもう一方の側、顧客や学校の子どもたちのコミュニケーションは労働なのだろうか。
 コミュニケーション労働は、賃労働や家事労働同様、賃金を支払われる領域と支払われない領域に分けてみておく必要がある。店舗で働く労働者が顧客と接するとき、顧客は単なる労働対象なのではない。顧客と店員との間のコミュニケーションを通じて商品の意味使用価値が形成され、この意味は顧客が認識する商品の意味として顧客に意識される。商品の意味使用価値は直接的使用価値のように資本が一方的に形成できるものではなく、店員と顧客との間のコミュニケーションという共同作業の結果である。この意味で、顧客のコミュニケーションは資本が供給する商品の生産過程に――意味使用価値の生産――タダで関与することになる(注13)。顧客、つまり消費者が資本とともに使用価値生産に関与させられるという事態は、消費者が〈労働力〉再生産過程にある労働者でもあるということを念頭に置くとすると、資本が〈労働力〉再生産過程そのものを資本に繋ぎ止められた人間の行為、つまり労働過程として直接関与できる仕組みでもあるとみる必要がある。そして、商品売買過程にとって、パラマーケットを介した情報による商品の意味使用価値形成と前述した店員と顧客のコミュニケーションは相互補完的な関係をもつことになる。

コミュニケーション労働とデータ化する「私」

 コンピューターが介在するコミュニケーションでは、この相互性の基盤にあるコンピューターによる通信が新たに形成されるが、このコンピューター相互の通信の大半はコンピューを操作する一般のユーザーに自覚されることがないプロセスになる。この非知覚過程は、コミュニケーションの不可欠な一部をなすにもかかわらず、当事者がそのすべてを正確に把握して自覚的に制御することはほとんどありえない。しかし、コンピューターのコミュニーションは、ターゲット(消費者、労働者、子どもたちなど)をトラッキングしたり、ほかのデータベースを参照して、本人を認証してカテゴリーに分類して選別したり、個人データの収集に利用するなどといった作業が資本の側ではおこなわれる。ターゲットにされる消費者や労働者、あるいは一般の住民の側では同じことはおこないえないという非対称性がある。この一方的なデータの収集(データの搾取)を通じて、ターゲットの非合理的側面を含むパーソナリティについて、資本と国家による一方的なプロファイリングがおこなわれる。
 言い換えれば、純粋に技術的な観点からすれば、私たち一人ひとりが、資本や政府をトラッキングして彼らをプロファイルすることを可能にする技術は存在するのだが、これを駆使することが不可能なようにコミュニケーション・インフラが設計されているか、あるいはこうした逆方向のトラッキングは犯罪化され、資本と国家の側が一方的に私たちの知ることができない方法でデータを収集することは合法化され、あるいは、収集を搾取とも不当な人権侵害とも感じない感性によって、自らの奴隷状態が自覚されないままになる。この非対称的なコミュニケーション過程は、とくに非知覚過程が構造化されることによって物質化される。こうした傾向を最も端的に示しているのが人工知能(AI)への期待かもしれない。
 人工知能が技術開発の中心的な課題になっている現代資本主義は、人間の力学的な制御という近代社会の本質の究極の形態のように見える。人間は機械ではないが、機械は人間によってある種のフェティシズムの対象になっている。フェティシズムの一般的な性格には対象となるモノに対して自我そのものが同一化しようとするところがあり、まさに、人工知能はこの意味で、人間の脳の機械への同化現象をもたらしているわけだが、こうした傾向は、脳科学がコンピューターに媚を売るような概念構成によって、脳の「情報処理」がコンピューターの情報処理と本質的に異なるところがないだけでなく、脳は出来の悪いコンピューターにまで格下げされかねない議論が登場し、これが「世論」を誘導する。
 これまでにも指摘してきたように、こうした傾向をもたらした背景にあるのは、社会の支配構造が、人間を社会の主体の地位から引きずりおろし、〈労働力〉として労働市場に投入される「資源」とみなすことによって資本主義経済を防衛しようとする20世紀の戦略が限界にきたことを意味している。しかし、これでは人間を総体として資本の価値増殖に組み込むことはできない。なぜなら人間はそもそも資本ではないからであり、資本が必要としているのは、人間の総体ではなく、〈労働力〉としての側面だけだからだ。これに対して、コミュニケーションの労働化は、資本が発見した新たな人間の特性を〈労働力〉として価値増殖に媒介するものだ。これがもしかしたら資本主義にとっての最後のフロンティアかもしれない。既に述べたように、コミュニケーションの労働化の前提にあった思想は、行動主義であり、道具的合理主義の伝統であり、この文脈の延長線上にコンピューターによって解析可能なデータ化された人間の断片の膨大な集積としてのビッグデータと機械学習やAIのテクノロジーがあるわけだが、この技術の流れの精緻化がその結果として構築する「人間」(データ化された「私」などと呼ばれるわけだが)は、文字どおりの意味での人間としての地位を次第に確立するようになっている。この過程で、AIは「私」を理解しえるかどうかといった問題が論争化する。しかし、問題の核心は、機械の側にあるのではなく、人間の側が、機械によるデータ化された「私」を真実の「私」として受け入れるかどうか、というところにある。大方の人々は、データ処理された「私」を真の「私」として受け入れることにさほどの抵抗感をもっていない。目の前の私をさしおいて「本人確認書類」(運転免許証、保険証、最近はマイナンバーカードとか)が「私」の座を奪ったり、医師が患者を見るよりもずっと長い時間検査データに注目したり、教師が生徒よりも試験の数値化されたデータにより大きな関心をもつなどという事態は日常のなかにしっかり根を下している。人々は「私」がデータに還元されることを奇妙な事態とは感じていない。
 しかし、この生身の「私」をさしおいて主人公の位置を占めるデータに還元された「私」に対して、実は支配者たちの側が懐疑的になっている。データ化された「私」に基づく制御が思うようにうまくいかないからだ。それは本当の「おまえ」なのか? この懐疑は、データ化された「私」とこのデータから逸脱する「私」の関係を、後者が前者のデータ化された「私」にとってのバグであるかのような転倒した認識をもたらす。他方で、詐欺師たちもまた巧妙にデータ化された「私」を偽装することによってある種の利益を得ようとする。資本家たちは〈労働力〉を買いたたけるように、データ化された「私」をジェンダーや人種などのファクターに偏見を織り交ぜたアルゴリズムによって選別し、経済的搾取の特権を維持しようとする。資本の戦略は人間の最もやっかいな心理、「不安」を武器にする。まず「私」を認証してくれるモノをもたない「私」を不安にさせる。この不安につけこんで「あなたの指紋さえあればあなたであることが証明できますよ」という生体認証の誘惑や「国があなたが何者かを証明しますよ」というマイナンバー制度の罠を仕掛ける。
 もう一つの事態は、人間の側が機械による「私」を真実の「私」として受け入れるかどうかという問題と表裏一体をなす事態だ。人間の側が機械をもはや機械ではなく、ある種の人間とみなすという問題だ。コンピューターに「人工知能」という名称を付与するときにすでに予定されているのは、この「知能」が限りなく人間の知能に近付くことであり、そうであれば、「人工知能」をある種の人間と同類の「知能」とみなしてさしつかえないだろうという類推が流布することになる。汎用的なAIが構想された時代は、まさに人間並みの「知能」の可能性が追求されたが、現代ではむしろ介護ロボットからメタバースまで、特定の用途に特化するようにして部分的に人間(あるいはそれ以上)を演じるこようになっている。部分的に人間のある部分を演じることによって人間になりかわるのはフェティシズムの特徴だが、これは、人間の認識(心理というべきか)が機械を部分的に人間とみなすフェティシズムであって、技術至上主義が率先して社会の共同意識として形成しようとしている側面だ。人間もコンピューターもどちらも、計算させれば同じ答えを出す。一方はデジタルであり他方はアナログだというその本質的な仕組みの差異を論じることそのものを却下してしまう。
 コンピューターが介在するコミュニケーションの場合、人工的に構築されたコンピューター相互の通信の領域があり、その多くが私とあなたの意識やコミュニケーションで意図されているメッセージとは相対的に異なる領域にあり、しかも、この通信の領域なしには私とあなたのコミュニケーションそれ自体が成立しない。この非知覚的な構造は膨大な広がりをもっており、誰もその全体を把握することはできない。この非知覚過程のなかで、私とあなたが誠実に自分の感情や理解に沿った会話をするとしても、この世界は私とあなた二人だけでできているわけではなく、私が語る話題の多くは、ネットのほかの情報を介して得た知識だったりする。あなたにしても同じだ。何度も述べているように、ターゲティング広告から巧妙なAIによる入れ知恵まで、私の知識そのものがそもそも非知覚過程からの影響を免れていない。そして私とあなたの会話がSNSのチャットだったりしたとき、この会話そのものがビッグデータの一部に追加されて、私が何者であるのかを判断する材料の一部をなすことになる。
 こうして、私が何者であるのかが他者を媒介として(他者とは、自己のなかの他者と、文字どおりの意味での他者とがあるから、そもそも複数だが)、私と呼ばれる自己の同一性が構築されるという場合、ここに、「他者」としてのコンピューターを介したコミュニケーションが介在することによって、この自己の同一性それ自体が本質的な変更を被ることになる。人間は社会的な動物だから、私というパーソナリティが社会を構成する他者との関係のなかで構築されるというだけでなく、私は、コンピューターを介してAIが構築する私をも私のパーソナリティの一部に意識されない形で受け入れ、その結果私がこれに反応して引き起こす言動が再帰的にデータ化されてデータとしての私の一部を構成しながら、ほかの人間の私についての理解に影響することになる。だから、データ化された私と、そうではない私を明確に区別することはできない。私が認識し感じるあなたについての私の受け止めの何らかの部分は、データ化されたあなたを含んでいるのだが、それがどのような部分なのかを正確に言い当てることは不可能だ。
 非知覚過程は、人と人のコミュニケーションが、たとえ遠距離であっても、コミュニケーションの内容に影響を与え、しかもフィードバックによって再帰的にその影響が自分にもはねかえるだけでなく、直接のコミュニケーションの相手を超えて、双方がとりむすぶコミュニケーション関係全体からの間接的な影響がコミュニケーションの意味内容それ自体に干渉する。こうした従来にはなかったコミュニケーションの構造が生み出された結果、言語活動は人間に固有であることにかわりはないのだが、この言語活動や象徴的な行為を支える他者と自己についての理解を生み出す意味の集合にコンピューターのアルゴリズムが目的意識的に関与することになる。重要なことは、当事者である人間たちは、このコンピューターを介して実行される言語活動への干渉に必ずしも自覚的ではないが、コンピューターのアルゴリズムを組み込む側――資本と国家がその主な主体となる――は、目的意識的にこの過程に関与しているという点にある。
 このような非知覚過程が目指そうとしているのは、人間の情動をコミュニケーションを通じて、とりわけ意味の世界を通じて、操作可能なものへと転換しようとすることにある。ここには、機械が人間を排除して置き換わるという機械化が引き起す問題とは異なって、人間は排除されるのではなく、機械とは最も異なるそのアナログな脳の言語活動の前提となる意味の世界に機械が介入することを通じて、機械による人間の支配、マルクスの言い回しを借りれば、死んだ労働による生きた労働の支配、あるいは人間労働の実質的包摂がコミュニケーション労働の世界を舞台に展開されはじめている、ということである。

デバイスとアプリと身体性

 会社で働くときとオフでくつろぐとき、人は服装から話し方までを変える。なぜ変える必要があるのだろうか。会社が「自由」であることを演出するために、あえてラフな服装を推奨する場合がある。しかし実際には、労使関係に縛られた不自由な関係が偽装されるだけなのだが。そしてコロナ・パンデミックのなかで、テレワークで自宅のパソコンの前でオンライン会議に臨むとき、プライベートな場所がオフィスになり、スーツに身を包まざるをえなくなる。職場のドレスコードがプライベートな場所を侵食し、コミュニケーションの流儀も変わる。これをプライバシーの侵害だと理解する人はあまりいないが、バウマンがいう監視社会の液状化とはこういうところに露出する。
 こうした可視的で意識可能な領域に加えて非知覚過程の作用がコンピューターコミュニケーションでは顕著になる。多くの人たちは、仕事で「ワード」「エクセル」を使い「パワポ」でプレゼンテーションするが、これらはいずれもマイクロソフト社の商標であって特定の商品名が一般名詞になった最近の典型例だ(一昔前なら、ゼロックスやホッチキスがそうだった)。この仕事の道具を、パソコンを私用に変えても多くの人たちは私生活でも使い続ける。私たちのプライベートな生活はすでに市場を媒介にしてモノの意味作用の集合によって構成されているが、これにコミュニケーションの道具が加わるわけだが、その機能の多くが非知覚過程を通じてインタラクティブに私たちの情動を捉える。私たちの意識を構成しているなかには私が抑圧して無意識に押し込めた「何か」が作用するかもしれないし、「判断」と呼ばれる過程を通じて私たちが抑圧を制御することは知られていたが、私が操作するコンピューターを介して可視的なデータとしてディスプレイに表示される内容が私を密かにプロファイルしたり、つきまとって取得したデータに基づいて私の言動を意図的に操作しようという底意をもっているなとどいうことは、これまでにはなかったコミュニケーション構造だ。こうした非知覚過程が成功しているかどうかは問題ではない。失敗しているとしても、「敵」は失敗に学んでより成功率が高い非知覚過程の再構築を試みるだけであって、私たちが操作対象であることに変わりがない。私たちが外部環境との間で開かれた関係をとることを通じて私の身体性が構築されるという意味で、身体性は社会的・歴史的に規定されたものとして「意味」を与えられるわけだが、私と外部とのインタラクティブなコミュニケーションでありながら、人工的な機構として機械化されて私の意識には上ることがないが、私とのコミュニケーションは確実に実行されていて、このコミュニケーションの影響を私が逃れることはできない。これは、大衆広告時代のあやしげなサブリミナル効果のデジタル版なのだろうか。マイクロターゲティングを売り込もうとするプラットフォーマーの宣伝文句にはそうしたいかがわしさがあるが、インタラクティブであること、ある種のでっちあげではない実際の私の動静を何らかの手法でデータ化して「客観性」を装った証拠とともにフィードバックのメカニズムが作用すること、これらがいかがわしさを数段レベルアップさせている。
 コミュニケーションを制御する機械は、単純な計算機械を超えて、ターゲティング広告のように、人々の選択に個別に影響を与えるようになっている。コンピューターに媒介されたコミュニケーションも、それ以前からある生活を構成している様々な「モノ」同様、人間のパーソナリティに影響を与える。誰もが少なからずもっているフェティシズムが、コミュニケーションを制御するコンピューターが作り出す「世界」に対して形成されることは、それがコミュニケーションを構成する他者を巻き込んで自己のパーソナリティに影響を及ぼす場合であっても、それを、コンピューターによって外部から与えられた意識されない刺激による非本来的なパーソナリティなのだ、などということはどのようにして説明することが可能だろうか。むしろパーソナリティそれ自体が関係の産物であることを踏まえれば、この関係が出生から大人になるまでの生育期に周囲の親密な人間関係によって影響されるように、あるいは、マスメディアの大衆文化によって影響されるように、私を取り巻く様々なモノによって影響されるように、スマホや家庭内のIoTやAIロボットによって影響されるとしても不思議なことはひとつもない。スマホそれ自体であれ、SNSの「お友達」であれ、ゲームのキャラクターであれ、実在か非実在かを問わず、対象に対するある種の恋着は、双方向性の精度が高度化すればするほど、これがある種の転移の対象となり、フェティシズムが強固な基盤をもつようになるだろう。それだけでなく、こうした過程が社会的な規模で、多くの人々のパーソナリティの基盤を形成するようになると、ますますこのフェティシズムへの囚われからの解放は難しくなる。コンピューターコミュニケーションの双方向性は、多くのSF小説が予感しているように、より一層深く人間のパーソナリティに影響を与えるだろう。
 デバイスは私の身体の延長として、プライベートな場所を共有するモノでもある。かつてのデスクトップパソコンよりもラップトップのほうが可搬性が大きいために、身体との結合は強固だが、スマホはこの傾向をさらに推し進めていることは明らかであり、この身体との一体性を希求する人間の労働特性を資本は見逃さず、アップルウォッチやFacebookのスマートグラスのようなウエアラブルデバイスへと「進化」することになる。この方向に内在しているのは、デバイスが私たちのプライベートな場所に同伴し、24時間密着することを通じて私たちの言動を細部にわたってデータとして取得することによって、「私」とは何者なのか、その特異性をプロファイルしようという資本の思惑である。様々なビッグデータが連動することによって、私の知人・友人がもっている私に関するデータとか金融機関、医療機関、ショッピングサイト、行政などのデータとも照合されることによって、構築される「私」が、私に取って代わることになる。そしてこうした傾向の延長線上にFacebookが開発しているメタバースのように、ビッグデータによって構築されたバーチャルな私の「分身」としてのアバターが構築されている。私の複数性によって、たったひとつの「私」という自我の拘束から解放されたかのような擬似的な環境を資本が先取りして構築することによって、文字どおりの私の解放の回路が資本に横取りされる。この過程は、表層にある私とデバイスを媒介したコミュニケーションの可視的なレイヤの下に、非知覚的な過程が技術のレイヤとして私が自覚しない私に関する膨大なデータを動員する。しかし、こうした傾向は、文字が喚起し自己創造される麻薬的な想像力にはとうて及ばないということに気づいている人は少ない。
 このように私たちのプライベートな空間に入り込む当の装置は、私たち人間のアナログで矛盾に満ちた判断の流儀とは全く異なる意思決定の方法を持ち込む。このシステムのアルゴリズムは、目標設定の前提をなす動機の是非については判断停止し、目標達成の手順の選択をAND/ORあるいはYES/NO(t/nil)というある種のマニ教的な二分法を通じて遂行しながら、システムは自壊することなく自己再生産すべきものとして維持される。私たちは、このシステムを操作する主体であるのではなく、このシステムが操作する対象でしかない。フィードバックを「内臓」化させたプログラムは、制度の支配者たちが本能的に欲望する不死であり永遠の権力生命の実現をシミュレートしているのかもしれない。支配的イデオロギーの永遠への願望には必ずといっていいほどフィードバックすべきいま現在に直接連なる「過去」への回帰が伏在している。支配者たちが権力の正統性の口実に伝統を持ち出すとき、彼らが権力の私物化を企図しはじめたことの兆候だ。コンピュータープログラムのアルゴリスムの窮屈な世界と、伝統や神話への回帰による再生を通じた自己維持のカタルシスをある種の超越――この場合は、コンピューター技術による「グローバル化した近代の超克」――への唯一の道であるとみなす伝統主義との間には、共通した世界感覚と、問題解決の振る舞いがある。最先端を標榜する技術を携えた芸術が同時に「伝統」をも携えて自らの正統性を誇示するありさまは、国策としてのメガイベントに回収されたクリエーターたちの無意識のナショナリズムが繰り出す過剰な技術至上主義芸術に端的に示されている(注14)。個人としての人間も社会も、外部に開かれた開放系としてしか成り立たないし、そこには、固有の始まりと終わりがあり、人間にとっての時間=歴史は、均質で無限に続く時間を前提としてはいないにもかかわらず、この歴史的な宿命を彼らは受け入れたがらないのだ。
 なぜこのような奇妙に見える事態が、実際に社会の権力として歴史的な一時代を画すことが可能だったのだろうか。合理主義の政治的な形態としての法による統治が人々の生活の隅々にまで波及するようになるにつれて、人間が本質的に有している非合理的な側面をもてあますようになったからだろうか。私たちは、合理的な判断によって言動を制御するコンピューターのような意思決定に支配されているわけではない。にもかかわらず、プライバシー空間を解体・侵食して繁殖するSNSの言説空間は、非合理性を公共における言説のあり方として事実上の言説のヘゲモニーを握りつつある。これはGAFAのようなプラットフォーム企業の思惑に還元することができない事態だ。むしろ伝統的なマスメディアのリテラシーのプロフェッショナリズムによって排除されてきた大衆のネクロフィリアや破壊衝動に新たなビジネスチャンスを見いだし、大衆の欲望の直接的な表出を可能にする舞台を設定することによって、言説空間市場を拡張しようとするものであって、この意味でいえば、巨大な多国籍企業が大衆のプライベートなコミュニケーションを市場化しようとして繰り広げている争奪戦なのだが、かつての帝国主義的な市場争奪とは異なって、資本それ自体が社会構造の上部構造をなし、逆に国家もまた経済的土台を権力装置に組み込んでいて、イデオロギー過程はもはや純粋な上部構造とはいえず、むしろ経済的土台そのものをなす。ヘイトスピーチや偏見は資本と国家のイデオロギーの表出なのであって、資本や国家に倫理や責任を期待することはお門違いだ。マスメディアの前で沈黙させられ、彼らに「世論」の代弁を許すことと、SNSを通じてマスメディアが容認しない主観的・感情的な表現を拡散することと、伝統的なマスメディアやプラットフォーム企業が自由と道徳家の仮面を被ること、この相互に矛盾し対立する過程を通じて、私たちは、データ化されて意味を搾取され、結果として自らのパーソナリティに介入する機械が私の不可欠な一部としてあたかも超自我であるかのように振る舞うときに、私の無意識が時限爆弾のように私の情動を刺激する。これが、現代の支配の弁証法である。

自転車に乗るロボット

 AIの是非論争が活発だった1980年代に、反AIの急先鋒の一人、哲学者のヒューバート・ドレイフェスは人間とAIとの本質的な違いとして、日常的な経験のなかで柔軟な判断や行動の術を直感的に体得する点を強調した。たとえば、自転車の乗り方を習得するという場合、これを口で説明して理解しても、乗れるようになるわけではない。ドレイフェスは次のように言う。
「自分が自転車に乗れるからといって、その経験から具体的な法則を引き出して、他人に乗り方を教えることができるだろうか。転ぶ時にも角を曲がる時にも自転車は傾くが、ここまでなら大丈夫という微妙な感覚を言葉で説明できるだろうか?」「答えは「ノー」だ。自分が自転車に乗れるのは、時には痛い目にあいながら練習を積んで、「コツ」を身につけたからである。学んだことを言葉でいい表わせないという事実は、何を意味するのか。それは、データと法則をいくら集めても「コツ」は身につかないということである(注15)」
 しかし、残念ながら、二足歩行ロボットは自転車に乗ることができるようになってしまった(注16)。ロボットが人間の「コツ」を習得したわけではない。ロボットに自転車を操縦させる方法は、「コツ」に頼り、練習を積むという人間がやってきた方法以外のいくつもの方法がある。機械(自転車)を機械(ロボット)によって制御するには人間とは別の機械工学的な方法をとればいいだけのことだ。ドレイフェスが勘違いしたのは、自転車に乗ることが可能なロボットの制御という課題を、人間の「コツ」なしに自転車には乗れないに違いないと思い込み、自転車を制御するという課題を「コツ」の話にずらしてしまったところにある。データと法則を集めてやるべきことは「コツ」を身につけることではなく、自転車を操作可能な力学的なプロセスを設計することだ。
 さて、問題の重大なところは、ドレイフェスの勘違いが、ロボットが自転車に乗れるようになるという現実に直面すると、別の勘違いを生み出す。それはロボットが人間と同じような「コツ」を習得して自転車に乗ることができるようになった、という勘違いだ。この勘違いは、自転車に乗れるようになる方法は「コツ」以外にないという思い込みを前提にして、ロボットも「コツ」を体得したかのように錯覚してしまうところにある。この錯覚が錯覚として自覚されないとき、人間はロボットにある種の人間的な性格を読み込んでしまうことになる。つまりフェティシズムである。人間もロボットも同じ結果を達成したことから、結果を導いたプロセスを人間の思考や行動がとるであろう機械の力学的なメカニズムには還元できない人間に固有と信じられているプロセスになぞらえる間違いをおかすことになる。もちろんドレイフェスはこのプロセスの違いを重視しているのだが、言葉にできない曖昧さや合理的判断に還元できない柔軟さに基づく行為の帰結に対して、AIの研究者たちは、コンピューターのアルゴリズムによって同じ結果を導くことができるような迂回路の研究を重ねてることで、この難問を解決してきた。自転車は乗れるか乗れないかの二者択一であり、チェスもどちらが勝利するかの二者択一であり、結果の是非が明確な例だが、私たちがAIに判断を委ねて何事かを決定するという場面は、是非の判断そのものが不分明な場合がますます増えており、そのときに、AIに対してある種の感情移入ができるかどうかが、AIの決定を受け入れるかどうかの重要な要素のひとつになる。ネットショッピングで、あの商品を買うかこの商品を買うか迷っているときに、ちょっとしたターゲティング広告に刺激されて、商品を買うという行動をとったとき、このターゲティング広告のアルゴリズムがどのようなものかで、私の購買行動に影響を与えたかもしれない。こうした場合、この決定は私の決定ではあるが、純粋に私の決定とはいいがたく、その一部がAIによって左右されている。私の情動が、アイドルのポスターや、ネットの動画によって刺激されたり、ペットとして一緒に生活している動物をあたかも人間であるかのように遇することができることからも明らかなように、AIと私の間のコミュニケーションが私の情動に影響し、私の一部になる。これはフェティシズム一般の特徴がAIにも妥当するというだけなのだが、ChatGPTのAIのように、それ自体が巧妙に人間を演じるネットワークに繋がったインタラクテイブな存在だという大きな(深刻な)違いがある。

非知覚の基本的な構造

 これまでに述べてきた非知覚はフロイトの系譜をひく無意識の概念とは明確に区別すべきもので、コンピューターが介在するコミュニケーションのなかのアルゴリズムやプログラムのように、人間がコミュニケーションをとる場合に相手との関係のなかで意識することがない過程を指す。ロジャー・ペンローズはいわゆる「強いAI」に対する批判のなかで、これを「無意識」と呼んでいる。私はペンローズのAI批判には強い共感をもつが、「脳の無意識の活動はアルゴリズム的過程に従って遂行される(注17)」という主張は支持しない。彼は、人間の判断形成そのものをコンピューターのプログラムに移し替えることはできないと考えているが、同時に、この意識過程の背後にあるのはある種の物理過程とみなすことによって、アルゴリズムが成立する余地があるとみている。しかし、フロイトがいう無意識は、このどちらにも属さない。そもそも人間の脳はデジタルではない。問題は、私たちさえその片鱗を夢の現象などでしか見いだせない世界や、フェティシズムや意味の剥奪を「生きる」ことができるような自己意識には還元することができない判断の背後にある非物理的過程なのである。ペンローズがいう無意識を私はむしろ非知覚と呼び、これを人間の脳の機能ではなく、コンピューターによって生成される人工的なコミュニケーションのインフラとして考えたいのだ。
 私たちのコンピューターコミュニケーションには、いくつかのバリエーションがある。

・コンピューターデバイスを所持していなくても、一方的に、動静を把握される場合。たとえば、顔認識機能を搭載した監視カメラがネットワークされデータベースと接続している場合。私はコンピューターを用いたコミュニケーションの主体ではないが、監視カメラの設置者からすれば、これもまた環境化された私とのコミュニケーションである。

・意図的にコンピューター端末を用いてコミュニケーションしていなくても、端末がコンピューターによるデータ処理過程に組み込まれる場合。たとえば、スマートフォンの電源を入れている場合、GPSをONにしている場合、COVID-19の接触者アプリをインストールしている場合、スマートメータなどIoT機器を利用している場合、パソコンのOSが自動でアップデートをおこなう場合。そして最近はほとんどすべてのテレビ。

・意図的にコンピューター端末を操作している場合で、コミュニケーションの相手が人間ではない場合。たとえば、ウェブにアクセスしてショッピングしたり情報収集する場合、サポートデスクのコンピューターとのチャット。

・意図的にコンピューター端末を操作している場合で、コミュニケーションの相手が「結果」として人間である場合。たとえばメールでの通信、SNSなどの場合だが、実際には、本当の人間なのか、コンピューターによる自動応答なのか、ボットなのかの区別がつかない場合がある。

・リアルタイムで直接人間とコミュニケーションする場合。たとえば、オンライン会議やオンライン学習の場合など。

 これらのバリエーションには共通した要素が2つある。1つは、「私」という主体の存在と、私が意識しているかどうかは別にして、これらのコミュニケーションからコンピューターという条件を排除することがきわめて困難だ、ということだ。そうであるがゆえに、いわゆるオンラインの仕組みには、私たちの動静をデータとして把握する隠された過程が必ず付随することになる。オンライン学習の場合、端末を操作する子どもたちと、これを監視する教師のほかに、オンライン学習の仕組みを提供する企業が学習支援などの名目でデータを収集しAIによる解析などを提供する。オンライン会議も、エンド・ツー・エンドの暗号化が利用できなければ、このサービスを提供する企業のサーバーで会議情報を取得することができる。メールサーバーの管理者はメタデータだけでなく、メールの本文も読むことができる。ウェブにアクセスしたときにクッキーによって自分の行動が追跡されることがあるし、Googleの地図機能を使えばGPSのデータがGoogleのサーバーに溜め込まれる。
 これらの仕組みは、いずれの場合も単に私たちの動静を把握するだけでなく、直接・間接に行動変容が意図されていて、巧妙なフィードバックの機能が組み込まれている。そしてこの機能に私たち自身が、気づかないだけでなく意図せずに積極的に加担しさえする。検索サイトにキーワードを入力して検索結果を表示させるとき、表示の並び順が検索サイトのビジネスモデルによって操作されていることなど気づかない。たとえば漠然と私が買いたいと思っていた靴に対して、検索結果に表示された靴を見て私の気持ちが引かれることがある。紙のカタログを見て気持ちが変わることと同じような結果にみえるが、ネットの検索は、私の行動を把握して表示を変えることができる。紙のカタログの場合は、カタログのメッセージを受け取った私という主体の内部で、私との閉じられたコミュニケーションが展開されるが、ネットでは、このコミュニケーションの一部が外部化され、私は、私の意識にはのぼることのないコンピューターのアルゴリズムが生み出したコミュニケーションの結果を自然な結果と感じて受け取ることになる。人間がコミュニケーションのインタラクティブな過程をもっぱら人間関係として構築してきたのに対して、コンピューターコミュニケーションがこの関係に介入して「他者」を僭称する。このコミュニケーションに人間の言語活動だけでなく、コンピューターのアルゴリズムやプログラムが関与しているにもかかわらず、私たちはこれを「人間の」言語活動の結果であるかのように理解(誤解)してしまう。コンピューターには言語活動はなく、従って意識もないし無意識もないわけだが、私たち人間の側が、これをある種の意識過程とみなして取り込んでしまうために、コンピューターは「他-者」になってしまう。逆にコンピューターの側からは、私たちはデータ化されるかぎりで言語活動そのものであり、それだけのものであり、それこそがコンピューターにとっての私たちの「意識」それ自体である。こうして、私の知りえない私についての膨大なデータに基づいてコンピューターによって構築された私の意識を私が私の意識として受け取ることによって、私の意識に組み込まれる。コンピューターのフェティシズムが私の自我に取り込まれる。これが資本主義的な生産様式による機械に支配された近代が生み出した「個人」という観念の完成形態なのかもしれない。コンピューターフェティシズムは人間についての間違った理解に基づいたものだ。しかし、残念ながら理論的な間違いによって社会システムは自壊しない。存在するはずがない神を実在のものとみなす統治機構は人類史のなかで珍しくない。天動説の間違いで社会が解体したこともない。地動説の間違いも同様だ。私からすれば、支配的経済学を前提として市場における行動が構成されていること自体が間違いだが、そうであっても市場は機能する。人間は科学的な「正しさ」に還元できないのだ。社会を構成する力は、間違いを正しいこととして真理とみなす説得力を獲得することによって維持される。
 ネットの双方向の世界は、同時に、この双方向コミュニケーションを前提とした権力の側のコミュニケーション制御のバリアの再構築をもたらし、双方向の外観の下に隠されたデータの流通をみると明らかなように、私たちのデータが資本や政府によって一方的に取得される構造になっていて、双方向ではない。彼らは多くのトラッキングの手段をもっているが、私たちは、資本や政府をトラッキングする手段をもっていない。つまり私たちは相変わらずコミュニケーションを制御する主導権を奪われたままだということである。ただしマスメディアの時代のような技法で私たちを情報の受動的な受け手の地位に押し込めることができなくなったために、彼らは、人間相互のコミュニケーションの双方向性にもかかわらず、私たちへの制御の力を維持する新たな回路を構築した。これが非知覚過程だ。
 非知覚は、主体である「私」に属するのではなく、コミュニケーションの構造が生み出すもので私の外部にあってコミュニケーションに不可欠な過程だ。人々から隠されていたり、知りえない過程がコミュニケーションに付随するようなことは、コンピューターコミュニケーション以前から様々な形で存在はしていた。文字を読むことができる人が一部の特権階級に限られているような時代には、文書が構成するコミュニケーションの世界は、庶民にとっては隠された過程であるにもかかわらず、その影響を受けざるをえないものだった。文字による知識の流通は、ときには意図的に知識伝達を制御するために、不特定多数から隠されたり、理解に必要な言語能力を意図的に奪うことによって、隠された過程が構築された。理解不可能な領域が隠されるなかで、こうした領域そのものの存在を人々が日常生活で必要なものとはみなさなくなる。電信や電話のメカニズムをほとんどの利用者は知りえないままであり、この通信技術の領域は隠された過程を形成していた。コミュニケーションが確立しているとしても、当事者の意図しない仕組みが組み込まれることはありうる。盗聴はその典型的な例になる。

隠された過程と非知覚過程

 こうした隠された過程、あるいは不可視の過程と、私がここでいう非知覚過程の決定的な違いは、コンピューターコミュニケーションが関与するその仕方にある。私と他者の間のコミュニケーションを媒介するコンピューターは、同時に、メタデータやクッキー、さらには膨大なビッグデータに基づいて私の情動や世界についての理解を制御しようとする。ここで、私のコンピューターとネットワークで接続されたコンピューターが相互にデータのやりとりをしながら私の意識に作用する全体の構造=非知覚過程が形成される。現代のコミュニケーションのなかでコンピューターコミュニケーションが占める割合は無視できない規模になっている(注18)。私のなかで形成される「意識」の何割かは、コンピューターが生み出しながらも他者の言動と融合して他者そのものの言動とみなされて受け取られる。たとえば、私が自分の仕事について「うまくいかなかったな」と反省しているときに、友人が「いや、いい仕事したよね」と評価してくれるとき、私はこの言葉に影響されて自分の仕事を「もしかしたらあれでよかったのかもしれない」と満足するように心変わりするといった場合の友人の評価が、友人自身のものなのか友人のコンピューターがデータに基づいて下した評価の結果なのかは、私にはわからない。こうした会話で得た自分の満足と他者の満足の間のちょっとした、しかしもしかすると根本的な違いこそが「他者性」そのものの意味づけだといえるのかもしれないのだが(注19)、その他者による私の評価がコンピューターのAIアルゴリズムがはじき出した評価に影響されているかもしれない、というややこしい事態を、私は純粋な私と人間としての友人の相互関係に還元することはできない。
 あるいは次のようなシチュエーションで考えてみよう。友人に「この近くでおいしいラーメン屋ないかなあ」と話したときに、友人が「それならGoogleで検索してみよう。○○がおいしいらしいよ」と答える会話にも非知覚過程が関与している。友人がGoogleで検索したとすると、Googleは検索行動を把握して、Googleのビジネスにとって最適な広告を表示する。Googleのアルゴリズムが非知覚過程でおこなうコンピューター相互のコミュニケーションが、最終的に人間が理解可能なものとしてディスプレイに表示されることで、友人や私の意識に作用することになる。ここでは資本としての利潤最大化を企図したGoogleの恣意的な操作が介在するが、多くの場合、これを恣意的な操作ではなく、検索は百科事典で調べものをするように客観的な配列の表示であると誤認され、「私」とネットのコミュニケーションの自然で客観的な帰結だと感じてしまう。この一連の検索行動などのやりとりをChatGPTはコミュニケーションとして組み立てることによってより人間相互のやりとりに近づけた。これは、コンピューターが、プログラム言語ではなくて自然言語を用いることによって自然なコミュニケーションを偽装することによって、「私」の選択が「私」の自発的な意思によるものであると誤認させる仕掛けにもなる。こうすることによって、コンピューターは選択の正統性を担保しようとする。あなたの選択はあなたの自由意思の結果であり、ここには誰かの恣意的な意図は介在していない、という体裁だ。AIが自然言語を偽装する技術を習得すればするほど、こうした誤認は広がるだろう。そして、AIが新聞記事を書くまでになっている現在、非知覚過程がより洗練されたプロパガンダの回路となって私たちの偏見や差別や憎悪を私たちの自然な感情であるかのようにして発現させることになりうる(注20)。
 コンピューターのアルゴリズムが私や友人の意識に不断のフィードバックを伴いながら作用するとき、もはや自己と他者の「満足」をめぐる関係は、それだけで完結せず、その背後にある種の「中間者」が介在してコミュニケーションを歪めるように作用する(注21)。私や友人が感じる満足は、コンピューターコミュニケーションによる非知覚過程が介在してコミュニケーションを歪めた結果かもしれないのだ。友人の言動から受け取ったメッセージにはデータ化された私についてのプロファイリングが影響している可能性がある。しかし、私はそうは考えずに、まごうことなき友人のメッセージとして受け取る。他者と私の関係のどこまでが純粋な人間相互の関係であり、どこまでが人間と機械の関係であり、さらには機械と機械の関係が生み出した結果なのかはもはや不分明になる。明らかなことは、非知覚過程に介入してある種の「中間者」になれる者は限られていて、私も友人も「中間者」にはなれない。非知覚過程は資本と国家が形成してきた双方向のコミュニケーションを、非対称的に制御する構造化された過程である。学校の教師や職場の上司が下す評価にはこうしたAIが介在した評価の要素が混在することは稀ではない(注22)。
 こうした非知覚過程は、完全に秘匿された過程ではなく、意識化される可能性は常にあり、Googleを広告媒体として使うビジネスサイドにとっては非知覚過程ではなく、むしろ意識的に追求すべき過程になる(注23)。非知覚過程はこの意味で非対称であるが、常に資本あるいは国家の側は目的意識的に対象を制御するための手段としてこの非知覚過程を利用する。この非知覚過程は、Googleのような資本が情報コミュニケーション資本として、それ自体がフェティズムの対象になることによって、たとえ消費者がこの非知覚過程を意識化させたとしても、そのことを非知覚過程が実現した自然な自分の自由意思による選択という錯覚をそのまま受け入れることになる。資本のフェティズムという問題は、貨幣に還元するよりもむしろ資本が提供する商品の使用価値や、サービスにこそ当てはまるものだ。

5-3 資本と国家による意識の実質的包摂――資本主義のユートピア、私たちのディストピア

さらにその奥にあるフロンティアとしての無意識

 資本と国家による人々の意識と行動の制御の手段は、時代によって異なるが、目的は支配の再生産にあり、資本にとっては安定的な蓄積を可能にする労使関係と市場の需要動向のより精緻な予測と消費者欲望の制御にあり、国家にとっては統治の正統性を支える「国民」意識の再生産である。人々の心をどのようなものとして認識するのかによって、この制御の戦略は大きく変化する。現代の制御の戦略は、コンピューターが解析可能なものとしての心に解決策の決定打を見いだそうとしている。
 非知覚過程が人間の意識と密接に絡み合い、しかもこの非知覚過程はコンピューターによるデータ処理のフィードバックメカニズムによって目的意識的に人間の意識それ自体、あるいは心理そのものをターゲットにして作用することを目的に開発されている。私たちの意識や心理の自覚可能な領域を基礎にした人間関係が社会関係の基礎をなすという暗黙の社会認識理解はもはや成り立たない。関係としての社会が人々の意識や認識を超える社会構造をもつことと、いま私が非知覚過程として論じていることとは同じではない。問題は「人間」と「機械」を明確に区別する境界そのものが曖昧になることだが、この曖昧さは、ドゥルーズ=ガタリが言うような意味での「機械」(欲望機械)とも異なる。一定の目的をもって機械的に処理可能なデータがコミュニケーションの内部に組み込まれることによって、この全体の構造のなかに私たちが身体性そのものとして統合され、人々の情動に影響を与えるということだ。だから問題は、この身体性の統合からどのようにして私たちが自らの身体性を剥し、私たちの無意識の領域をどのようにして防衛するか、である。あるいは社会的な集合としての私たちが、様々な集団を通じて形成する集合的な意識がこうした非知覚過程から受ける影響をいかにして回避できるか、という問題でもある。私たちにとって機械に対して有利な条件は、データ処理の前提となるコンピューター科学の人間観のなかには「無意識」などという概念は存在しないために、この概念は逆に私たちが反撃するための根拠地にもなりうるということだ。労働と価値の関係を排除してマルクスの剰余労働=価値論を否定した支配的経済学と同様に、ここに資本主義批判の理論的真空地帯が生み出されたということだ。この点で、意味の剥奪と再付与の関係がもたらす身体性の搾取にとって、無意識は意識過程が非知覚過程を通じた制御の支配下に置かれかねないなかで、この非知覚過程に対するある種のジャミング効果をもたらす可能性をもっている。無意識の領域は、解放と抑圧の弁証法そのものの領域でもあるが、同時に、道具的合理主義とは真逆な構造的歴史的に構築された「私」のコミュニケーションに内在するデータ化しえない残余あるいは過剰としてのコミュニーションであり、意味の剥奪を免れる可能性がある領域であり、同時に、現実の世界が私たちに強いる法を超越する道徳と倫理の規範に対する抵抗の潜勢力の源泉でもある。フロイトが自我と無意識の弁証法として、内面の闘争として論じた問題は、同時に、家族と性にまつわる資本の抑圧を甘受するようにプログラムされた生育システムという一次的な社会関係抜きには成り立ちえない問題でもある。ライヒやアドルノは、ここに権威主義的なパーソナリティの根源をみようとした。
 しかし、このことは「私」ひとりの実践によっては不可能であって、ある種の集合的な挑戦が必要になる。このとき、非知覚過程が、おしなべて誰にとっても「非知覚」として作用するわけではなく、重複するレイヤーのなかで、人々がコミュニケーションに関与するあり方によって、非知覚過程は異なる。一般のネットユーザーよりもサーバーの管理者やセキュリティの専門家の方が認識可能なコミュニケーションのレイヤーは多くなるだろう。しかし、そうした専門家は、そうではない一般の人々ほどにこの資本主義社会の非知覚過程がパラマーケットと協働して引き起こす身体性の搾取の実感を生きているわけではない。むしろ非知覚過程を意識的に操作できることがある種の特権と意識されることによって、彼らは、支配的なシステムの側に加担させられるだろう。他方で、プログラミングの生産過程が社会的分業を構成するような現代では、技術をブラックボックスにしたまま他社にAPIとして提供するような関係が当たり前になることによって、実際に非知覚過程を構成するCTCの全体は誰にも理解できないものになる。彼らがどのようにして自らの身体性の搾取に気づき、そこからの解放の必要に気づくかどうかは、むしろ非専門家の社会への異議申し立ての運動が彼らと出会うことで果たされるだろう。非知覚過程は、個人や組織――たとえ国家であっても――が総体としてこの過程を制御することはできない。そうするにはあまりにも複雑で巨大であり、また、国境を超えたテクノロジーの網の目に依存しているからだ。

非合理性という問いと社会の構造的一貫性

 資本主義が機械・計算合理性を基軸に社会を設計せざるをえないという限界は、資本主義の本質に関わる性質であって、この問題を資本主義内部で解決することはできない。常に資本主義は、人間の非合理性(あるいはときには自然の非合理性)を合理的=科学的な理解を通じて制御可能な対象へと転態させて制度の維持を図ってきた。
 コンピューターによるデータ処理が計算合理性に支えられているという問題は、ここで処理されるデータそのものが科学的知見とされる手法を用いて、憶測、偏見、差別などを問題視することなくプロファイリングに組み込むことによって、「彼ら」が個人のアイデンティティを再定義するという問題に結び付いている。しかし、非知覚過程の構造を規定するアルゴリズムやプログラムに組み込まれたこうした資本主義的な偏向に対して、問題を自覚することができる技術者たちは、資本の組織内部で抵抗の潜勢力をもつ主体となる。これは技術決定論よりも技術者の非技術的な問題意識、つまり、表現の自由やプライバシーの権利、差別主義の拒否、利潤を人権よりも優先させる資本の論理への拒否といった権利意識がその引き金になるものでもある。こうした領域は人間であれば社会認識全体に組み込まれて、世界観の一部をなすが、コンピューターには人権意識は存在しないから、アルゴリズムやプログラムに意識的に組み込むことを人間が指示してやらなければならない。資本は技術者の労働を細分化したりAPIを導入するなど、アルゴリズムやプログラミング労働をより一層自動化しようとする。いわゆる内部告発者として登場する多くの技術者たちに対して、資本の要求を内面化して仕事をこなす技術者たちが圧倒的に多いからこそ、資本主義的な偏りが支配的になる。
 問題の核心は、非合理的なものの計算合理性による再構成を通じて制御可能なものにしようとする権力技術が、資本主義の構造的再生産という枠組みのなかで実現されてきたということ、そしてこのなかに搾取という主題の転換もはらまれている、ということだ。伝統的なマルクス主義理論の搾取理論は、搾取の全体理論から部分理論へと位置づけなおさなければならない。これは、マルクスの限界という問題ではなく、マルクスによる搾取の暴露と労働者の組織化による抵抗が、資本による生産性の向上=機械化を促し、工業化による搾取に加えて、ポスト工業化の搾取のフロンティアとしてのコミュニケーション領域が20世紀後半以降次第に射程に入るようになったことによって、搾取の問題が、使用価値を巻き込む生活世界、つまり〈労働力〉再生産と家族制度を含む意味の再構築、言い換えれば身体性の搾取という領域を生み出したのだ。その結果として、搾取という事態そのものの全体像を描き直すことが必要になってきた、ということでもある。搾取は剰余価値と価値の量的な問題から使用価値の消費を通じたコミュニケーション〈労働力〉の再生産の質的な問題へと拡張されてきたのである。
 私たちは、様々な分断と敵対的な亀裂のなかで資本と国家によって再定義された「人間」として生きる以外の選択肢を奪われてきた。この定義は、言語のカテゴリーとして一次的には与えられるが、現実の世界では、私たちの身体性そのものを通じて日常的な行為のなかに、資本にとっての人間=〈労働力〉と国家にとっての人間=国民との組み合わせとして体現される。だから、私は、資本主義で人々が〈労働力〉になるという場合も、国民的〈労働力〉になるのだ――だからこの周辺に移民の〈労働力〉が差別的に配置される――、ということを強調してきた。私たちが何から解放されるべきなのかといえば、それはこのナショナルな〈労働力〉として再構成されている身体性を、資本と国家によって与えられたカテゴリーの檻から解放することにある。行為の意味の剥奪と資本と国家による行為の意味付与という関係のなかで、私たちは、マルクスの剰余価値(市場経済的な搾取)の問題だけでなく、マルクスの概念を用いれば、必要労働そのものの「必要性」の欺瞞の主体として資本に加担させられている私たちの行為それ自体からの解放をも視野に入れなければならない。必要労働と剰余労働の概念上の区別が資本の価値増殖の根拠を与える重要な観点だが、同時に、具体的有用労働を通じて形成される商品の使用価値が、その消費過程を通じて人々の世界観や価値観を再生産するという使用価値のイデオロギー効果を視野に入れる必要がある。そして、これは、価値が時間の概念であるという側面から語るとすれば、私たちの生きる時間の総体を、その意味で解放することが含意されることになる。


(1)「出版は、諸個人が彼らの精神的存在を伝達するためのもっとも普遍的な方法である」、カール・マルクス「第六回ライン州議会の議事(第一論文)」全集第一巻、83ページ。また「プロイセンの最新の検閲訓令にたいする見解」も参照。
(2)19世紀のイギリスでは、出版物の著者が匿名や偽名であることは珍しくなかった。大谷卓史「匿名文学と匿名言論」情報管理 55(8),603-605,doi: 10.1241/johokanri.55.603(http://dx.doi.org/10.1241/johokanri.55.603)
(3)ジョージ・F・モッセ『大衆の国民化』(佐藤卓己、佐藤八寿子訳、ちくま学芸文庫)は、マスメディアへの言及はないが、感情の組織化にとってシンボル政治が果たした役割を分析した研究として重要である。
(4)欧米では人種差別的な捜査機関や裁判の経験からの警察廃止運動の議論が参考になる。最近の議論としては以下を参照。Mariame Kaba, Andrea Ritchie, No More Police : A Case for Abolition, The New Press.
(5)この合理性の残余をどのようにして政治過程に組み込むかという問題に対するひとつの実践的な解答が、広義の意味でのファシズムであり、高度に合理的で科学的な構成と非合理的な神話的な構成がある種の弁証法構造として資本と国家を支えた。この意味で、戦後日本の憲法がその冒頭に統治の非合理性の典型ともいえる象徴天皇制の規定を残したのは、戦後日本が一貫して道具的合理主義を徹底することができずに、非合理性を正当化する余地を支配の一角に与えたといえるから、このこと自体がファシズムとしての資格を十分にもつものだと言うことさえできるかもしれない。
(6)フロイト『ある錯覚の未来』、全集20巻、4ページ。
(7)小倉利丸「売買春と資本主義的一夫多妻制」、『絶望のユートピア』、桂書房、所収
(8)https://www.mofa.go.jp/mofaj/fp/is_sc/page25_001966.html
(9)たとえば、国連テロ対策事務局(UNCTED)の支援で2017年に設置されたTech Against Terrorism https://www.techagainstterrorism.org/project-background/
(10)意味の剥奪という概念は、誤解を招きやすいので付言する。資本主義では人間の行為の意味が資本と国家によって剥奪され、この剥奪によって生じる空白を資本主義的な意味が埋める。ここに商品の意味使用価値が果たす役割がある。しかし、私は剥奪される前に何か行為の原意味とでもいうべきものが存在するとは考えていない。人間は資本主義社会のなかで生まれ、この社会が制度化した人間関係を通じて意味を習得する。この点でいえばあらかじめ剥奪された意味しか存在しないともいえる。来たるべき社会のなかでこの剥奪された意味を創造的に回復する以外にない。原意味のようなものが存在するという場合、これが剥奪ではなく抑圧であると考えることもできるかもしれない。この意味はどこに抑圧されるのだろうか。もしこの抑圧が無意識へと抑圧されると仮定すると、この抑圧からの解放とは単に原意味の回復ということにしかならない。無意識をこのようなものとみなすことは、結果として、現にある資本主義に対する根底的な否定への回路を認めないことになる。意味は奪われるのであり、これを奪い返すのではなく、そんなものは彼らくくれてやり、私たちは一から意味を創造する道を選択すべきだろう。
(11)the facebook files, Wall Street Journal, https://www.wsj.com/articles/the-facebook-files-11631713039
(12)アントニオ・ダマシオ『デカルトの誤り』田中三彦訳、ちくま学芸文庫、参照
(13)マルクスが論じた資本の流通過程は、もっぱら生産物の直接的使用価値に即した概念であって、コミュニケーションが労働化し、意味使用価値が商品の使用価値の不可欠な要素になるにつれて、流通過程は生産過程の延長となり、その労働もまた生産的労働となる。
(14)たぶん、万国博覧会のようなメガイベントや国別のパビリオンに固執するベネチアトリエンナーレのような芸術のなかに端的にみることができるだろう。
(15)ヒューバート・ドレイフェス『純粋人工知能批判』、p.39
(16)たとえば、右の動画を参照。https://tube.connect.cafe/watch?v=j6bNVqe_1xY
(17)『皇帝の新しい心――コンピュータ・心・物理法則』林一訳、みすず書房、461ページ
(18)2015年の情報通信白書(第1部第2節)では、身近な友人や知人とのコミュニケーションに占める電子メールやメッセージングアプリ等のICTサービスが約3割を占めるようになっている。https://www.soumu.go.jp/johotsusintokei/whitepaper/ja/h27/html/nc122330.html。インターネットの利用動向については総務省の通信利用動向調査に各種のデータがある。https://www.soumu.go.jp/johotsusintokei/statistics/statistics05a.html
(19)ジャック・ラカン『自我』(下)XIX「大文字の他者の導入」の例示を念頭に置いている。言い換えれば、コンピューターが介在するコミュニケーションは、ラカンの図式には収まらない問題を引き起すということだ。ラカンのサイバネティクスの議論は非知覚過程を見逃している。
(20)2017年、「ワシントンポスト」やAP通信がAIによる記事作成をおこなっていると報じられた。「AIが新聞記事を書いてみた 執筆1秒、でも設定は人間」「西日本新聞」https://www.nishinippon.co.jp/item/o/304013/。APが導入したのはAutomated InsightsのWordsmithだ。このシステムは日本ではデリバリーコンサルティングが代理店となっている。
(21)ここでいう「中間者」とは、暗号理論でいう「中間者攻撃」にヒントを得た概念である。哲学でいわれる「中間者」とは関係がない。
(22)キャシー・オニール『あなたを支配し、社会を破壊する、AI・ビッグデータの罠』久保尚子訳、インターシフト、参照
(23)「Google広告でビジネスを拡大しましょう」 https://ads.google.com/intl/ja_jp/home/

 

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堀口大學が経験した「異国」――『異国情緒としての堀口大學――翻訳と詩歌に現れる異国性の行方』を書いて

大村梓

 子どもの頃から読書が好きだった私にとって、本を出すのはずっと夢でした。周りに出版や創作に関わる仕事をしている友人が多いのもあって、何かを作り出して自分の名前で世に出すのは身近なことでした。そうはいっても自分がその当事者になると、本一冊を出版するのはこんなに大変なのか、と思いました。
 私は主に日本近現代文学、比較文学を専門として大学では講義をおこなっていますが、もともとはどちらかというと外国文学、翻訳文学を好んで読んでいました。母親が読書好きだったこともあって、小さい頃から家には本がたくさんありました。本棚に置いてあった『チボー家の人々』の黄色い表紙をいまだに覚えています。十代の頃に好きだったのはフランスの作家であるジュール・ヴェルヌの作品で、まだ見たことがない世界への憧れを抱いていました。高校は帰国子女や在京外国人の方が多いところを選び、大学院ではオーストラリアに留学し、その後、さまざまな国からやってきた同僚が多くいる職場で勤務したこともあり、異文化を身近に感じて過ごしてきました。おそらくそういった長年の経験から自分のなかで「日本」に対する認識も変わっていったのだと思います。そういったこともあり、翻訳家・詩人・歌人である堀口大學の活動により関心をもつようになりました。インターネットもない時代に海外に在住していた堀口は、どのように異国での生活を受け止めていたのでしょうか。堀口はそんなに詳しく異国での自分の経験について述べる人ではありませんでした。私たち読者は短い随筆、短歌や詩から、堀口が経験した「異国」をうかがい知ることができます。
 私もいまでこそ外国の友人も多く、海外に渡航することも多いので、もうカルチャーショックを感じることはほとんどないのですが、思い返してみれば十代の頃はよくカルチャーショックを感じていたような気がします。比較文学・比較文化の研究をしていることもあって、異文化にふれたときに自分のなかの固定観念や思考の枠みたいなものに気がつく瞬間を、非常に興味深いと感じます。もちろん私たち研究者・教育者はすべてのものに対して公平な態度で接したいと考えています。しかし一方で、自分の考えには固定観念や思い込みがあるのではないか、と常に自分を振り返るように職業上なっているような気がします。そういった自分のなかの固定観念や思考の枠に気がついたときに、まだまだ勉強しないといけないことがある、と研究を続ける理由にもなっています。
 本書で取り扱った翻訳文学という領域は、さまざまな要因が複雑に絡み合ったものです。翻訳は必ず読む誰かを想定しておこなわれます。自分が読むために翻訳する場合でも、誰かのために翻訳するためでも、そこには読む人がいるから翻訳するという目的が存在します。そして翻訳は翻訳に用いられる言語の制約にとらわれています。人によってはその制約をわずらわしいと思うかもしれません。しかし私はその制約がむしろ面白いと思います。そういった制約のなかでどれだけ試行錯誤をこらして、新しい文章を作り上げることができるのか。そういった苦心の跡を、本書では明らかにしたいと思いました。
 また、私たちは必ずしも自分が考える自分ではない姿で他人に受け止められていることも多いです。私はそれが面白いと思うタイプの人間ですが、みなさんはどうでしょうか。特にそれを顕著に感じるのが、日本で日本文学について語っているときの「私」と海外で日本文学について語っているときの「私」は、明らかに求められるものも、認識のされかたも異なるということです。具体的にいえば、日本で日本文学について語るときは外国での日本文学のとらえられ方についてふれながら話すことが多く、海外で日本文学について語るときは現在の日本文学や日本文化のあり方についてふれながら話すことが多いです。そういった求められているものの違いに気を配りながら研究者生活をおこなうことは、私にとっては興味深いことです。堀口も自分の日本文壇での役割と海外での役割の違いについては非常に敏感に感じ取っていたようです。そういった複数の顔をもっている自分、というものをどのように受け止めていたのか、という視点も本書では重要なポイントになってきます。
 本書を読んで、実際に自分も海外に行き、自分の異なる面を発見し見つめ直してみたいと思っていただけたのであれば、きっと本書に書いたことをよく理解していただけたということなのではないかと思います。