第41回 『宝塚イズム46』宙組トップコンビに贈る特集と「すみれコード」

薮下哲司(映画・演劇評論家)

 宝塚愛にあふれる『宝塚イズム46』(薮下哲司/橘涼香編著)が発売されました。今号は2023年6月に退団する宙組トップコンビの真風涼帆、潤花にスポットを当てて特集を組んでいます。真風は06年初舞台の92期生。今年で在団18年目、トップ就任5年を超え男役として円熟期を迎えたスターです。20年からのコロナ禍で公演スケジュールが大幅にずれこんだ影響で、在任期間が延びた間にすっかり貫禄もつき、いまや宝塚を代表するトップ・オブ・トップスとしての存在感も漂わせてきました。
『宝塚イズム46』ではそんな真風のデビュー当時から星組の新人時代、宙組での二番手時代から宙組トップの現在までの魅力の変遷を様々な角度からフォーカス。加えて相手役の潤花との奇跡の巡り合いによるコンビの相性論までもれなく網羅しています。
 真風は、入団当初から、スラリとした長身と当時人気だった雪組のトップスター水夏希に似たすっきりとした容姿で一躍注目を浴び、星組に編入されてすぐ新人公演の主演に起用されるなど、正統派貴公子タイプの男役として早くから劇団の期待を一身に担い、その後も順当に推移して宙組のトップスターに就任しました。いかにも宝塚の男役らしいスターなのですが、トップになってからの作品群に真風ならではのこれといった代表作がなく残念に思っていた矢先、サヨナラ公演の演目がイアン・フレミング原作による007シリーズ第1作『カジノ・ロワイヤル』(脚本・演出:小池修一郎)の舞台化に決まり、真風がどんなイギリス諜報員ジェームズ・ボンドに変身してくれるのか期待に胸が弾みます。
 そんな真風に新年早々とんだ逆風が吹き荒れました。昨年2022年の暮れ、ポスト小池修一郎の一番手的存在だった若手演出家・原田諒氏に、宝塚歌劇団から阪急電鉄への突然の異動辞令が出たことがきっかけで、某週刊誌がその理由を原田氏のパワハラが原因だったと報道し、結果的に原田氏が退職、決まっていた外部の仕事からも名前が消えるという騒ぎに発展しました。劇団はその事実を調査しながら内部で処理したのが裏目に出てしまいました。同週刊誌はその第2弾として1月に入って真風の娘役に対するいじめ疑惑を報道、ファンの間でまたまた大きな波紋を呼んだのです。
 記事は1月10日、真風が東京国際フォーラムホールCでリサイタル『MAKAZE IZM』(構成・演出:石田昌也)の初日を開けたばかりのタイミングで掲載されたことから、記事が出た翌日に真風が舞台上からファンに向けて「お騒がせしてすみません」と謝罪する異例の事態となりました。笑顔で記事の内容を否定、その誠実な対応ぶりに真風への同情が集まり、逆に好感度がアップ、いつにない劇団の対応の素早さに驚かされましたが、逆風を見事にかわしたのは喝采ものでした。
 宝塚は創設以来「清く正しく美しく」をモットーに、観客にひとときの間、美しい夢を提供することを第一に、内部をベールで覆い「すみれコード」といわれる自己規制でマイナスイメージになるものから守ってきました。ただ、コンプライアンスが重要視される昨今、これが内側から崩れてきていることが、先の2件で明らかになってきました。イメージを守ることの大事さはよくわかるものの、宝塚ももう少し開かれた感覚で物事を推し進める時代にきているのではないか、今回の事件の教訓としてそんなことを思った次第。このままではまた同じことが繰り返されるのではないかと杞憂するのです。
 さて『宝塚イズム46』ですが、真風×潤のサヨナラ特集のほか、2022年12月末で退団した元雪組の娘役トップ朝月希和への惜別と彼女を受け継いで2月の御園座公演からトップ娘役に就任する夢白あやへの期待も小特集でつづり、加えて各組の公演評、新人公演評、OG公演評なども充実。OGインタビューは元月組トップスター霧矢大夢と元雪組娘役トップ咲妃みゆという珍しい組み合わせによる対談形式のインタビューです。イギリス・ロイヤルシアターの日本初演ミュージカル『マチルダ』にかける2人の意気込みが、タカラジェンヌ同士の楽しい語らいのなかで浮かび上がります。ぜひご一読ください。

 

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「紙」出身者がブログで起こした小さな奇跡――『フードライターになろう!』を出版して

浅野陽子

 出版から約1カ月たちました。私の日常に大きな変化はなく、今日もメディアの片隅で食の取材をし、文章を書いています。
 とはいえ、一人の職業ライターから本の「著者」になったことで、出版前には決して味わえなかったミラクルや感動が、少しずつ起こっています。
 たとえば、紀伊國屋書店新宿本店にある、食関係の本や料理書がぎっしり並ぶ専門フロア。フードライターとして駆け出しのころから、何度足を運んだかわかりません。
 その売り場で最も目立つコーナー、「dancyu」「料理王国」各誌の最新号が積み上げられている真ん中に、本書『フードライターになろう!』の山(しかもポップ付き)を見つけたときは、胸に迫るものがありました(青弓社のみなさまをはじめ、最高の表紙イラストを描いてくださった藤本けいこさん、素敵なブックデザインをしてくださった和田悠里さん、本当にありがとうございました。オレンジ主体の表紙は売り場でひときわ輝いていました!)。

 また、本を読んでくれた友人・知人、直接面識のないSNSのフォロワーさんから、
「面白い」「役に立つ」のほか、
「食ジャンルに限らず、取材して書く仕事をする全ライターに必要な情報が詰まっています」
「まさに探していたテーマの本に出合え、予約してから読破するまで楽しめました」
「どのページからも仕事への思いが伝わり、いまの自分自身をも見直す機会になりました」
など、いまのところは大変ポジティブな感想をいただいており、そのたびに自分でも読み返しちゃったりして(笑)、悦に入っています。

 しかし、本を出してわかった最大の発見は「自分が何者であるか」に気づけたことでした。「はあ?フードライターだから『フードライターになろう!』って本の依頼がきたんでしょ」と突っ込まれそうですが……。
 実は、長年この仕事を続けながらも、私は「自分が何の専門家か」がわからず、フワフワしていました。メディアに注目されるフードライターさんは「ラーメン」「カレー」「フレンチ」「肉」「スイーツ」と、それぞれ得意なジャンルをおもちです。

 でも私は日本国内で食べられるすべての料理、食材、酒が好きで、絞れませんでした。そして、食の取材ならどのジャンルでもそこそこ書けてきました。要は、器用だけれど特徴や個性がない、“何でも屋”フードライターだったのです。
 しかし、出版後、本の現物を見せたり、SNSのアカウントに書影の画像を貼ったりしていたら、「食の文章が得意な人」と認識されるようになりました。
 そこで、「おいしさを伝える書き方」や「食の文章がうまくなる方法」をSNSで短く発信すると、急に「いいね!」が付き始め、フォロワーも増えていったのです。
 そういえば、過去10回出演したテレビ番組で、共演したタレントさんやディレクターさんに「浅野さんの食レポは違う」となぜかほめられてきたことも思い出しました。
 そうか、私はフードライターの原点である「食×文章」そのものを個性にすればいいんだと。
「食とSNS」は親和性があり、「おいしかったー」「この店のこの料理がうまい!」と画像付きで発信する人はたくさんいます。ですが、過去に味の表現や料理人への取材術、原稿の書き方を一人で統括的にまとめた人は、プロのフードライターを含めてたまたまいなかった。ラッキーでした。

 ちなみに、この本は依頼をいただいてから1年間かけて書き上げました。執筆中は、自分にとって身近すぎる、いつもの仕事の話なので自信がもてませんでしたが、最後の校正で自分の書いた全15万字を一気読みしたら、案外面白かった。「20年同じことをやり続けたら、誰のどんな体験も一つの価値になるんだな」とも思いました。
 出版に必要なのは、原稿用紙300枚あまりの文字量を書ききる体力と気力があるか、そしてお金を出してそれを読みたい人がいるか。つまり「市場(マーケット)」があるかです。
 そこに市場があるかは誰にもわかりませんが、まずは発信しないとチャンスは生まれません。本書も私のブログの「フードライターになるには」という記事を青弓社の方が見つけてくださったのがきっかけです。食をテーマに出版したいと考えている方は、とにかく発信することをおすすめします。

 日本では少子高齢化が加速しています。本気で世界を「お客さん」にしないと、日本人の豊かな生活は立ち行かなくなると私は焦っています。日本のアニメや漫画、“Kawaii(カワイイ)”文化は人気ですが、「食」という素晴らしい資産は、世界にいま一つアピールできていません。
 本にも書きましたが、本書をきっかけにプロとして食の発信をする人の輪が広がって、「日本の食と酒を世界一のコンテンツにする」のが私の夢です。
 実はそのための、次の本のネタも考えています。またお目にかかれる日がありますように。

[ブログ]
「フードライター浅野陽子の東京美食手帖」
https://asanoyoko.com/

 

既視感?――『戦時下女学生の軍事教練――女子通信手と「身体の兵士化」』を出版して

佐々木陽子

 いまから80年以上前、太平洋戦争が勃発した日の女学生たちの興奮や熱気が、元女学生の語りから伝わってきた。日米開戦を知ったとき、校庭に集まった生徒も教員も異様な熱気に包まれたとのことだ。なかには、裏付けがない勝利への確信だけではなく、漠とした不安を抱いた者もいただろうが、異様な熱気はこうした不安や混沌とした思いを吹き飛ばすに余りあるものだったようだ。あの異様な興奮を昨日のことのように思い出すと語った人もいた。
 戦争勃発によって平和は簡単に壊すことができても、戦争を終わらせ平和を再生することは難しい。2022年2月、ロシアのウクライナ侵攻で始まった戦争の泥沼化を見れば一目瞭然だろう。いま、日本では、北朝鮮によるミサイルの連続打ち上げ、中国による台湾への武力侵攻の恐れなどの不安定要素を理由に、日本の「専守防衛」が標語にすぎないことを明かすかのように、防衛費拡大のタガが外される方向へと動きだした。日本は「専守防衛」を掲げ「敵基地攻撃能力はもたない」と言明してきたが、自国を守るために「反撃能力」が必要だと叫び始めた。従来の規模からは考えられない防衛費の拡大を政府は打ち出し、いつの間にか、防衛費拡大の車輪が動きだした。こうした潮流を抑制することがどれほど困難かは想像に難くない。どうしてこうした変化が私たちの日常に忍び込んでくるのだろう。緊迫感漂う東アジア情勢のニュースが流され、「反撃能力」をもたなければ日本は危険にさらされると叫ばれる。私たちの政治への無関心や諦念や絶望、そして想像力の欠如の隙間に、こうした危機意識をもつことこそが現実的であるという言説が入り込んでくる。防衛費拡大の潮流ができてしまえばそれに流されていることにも気づかず、変節を変節と指摘することも困難になる。どこまで防衛費を拡大しても安全・安心が得られないことを、私たちの知性は知っているはずなのに。
 15年戦争では兵役を担う男性兵士だけでなく、本来は労働動員と無関係で学業を本業とするはずの女学生も動員が強制され、彼女らの身体は戦時国家に領有され収奪されていった。自分のものだったはずのこの身体は、いつしか当人のものではなくなっていった。だが、兵役にしても労働動員にしても、国家による国民の身体の「領有だ」「収奪だ」と叫べば「非国民」呼ばわりされる。同調圧力が強まれば、これに真っ向から抗うことは、困難にちがいない。本書では女学生の身体が軍国主義の潮流のなかでどのように変容していったかを追った。「ぜいたくは敵だ」「外地の兵隊を思え」といわれ、我慢競争のような日常へと切り替わっていき、極度な精神主義に塗り固められた教育現場では、日本が勝利することを当然視する空気が充満したという。「戦争なんか早く終わればいい」「一日でも早く家族が戦地から帰ってくればいい」という本音や実感は、いつしか語られなくなる。それどころか、戦死を名誉とみなし、靖国に祀られれば「英霊」「軍神」と称えられたが、「どうしてあれほどまでに多くの生命が軽んじられ犠牲にならねばならなかったのか」という問いは封印された。個性を失った死者は国家の名の下に祭祀対象とされ、個別のはずの死は「英霊」に総括される。本音や実感が禁句になり、「報国」「忠君愛国」という標語が満ちるとき、国家のために死ねる覚悟の国民創出に戦時国家が成功を収めたことを意味するのだろう。
 女学生の身体性が男性的なるもの・兵士的なるものに接近することが歓迎される時代が到来するとは、戦前には思ってもみなかっただろう。だが、戦争が総力戦である以上、女学生をも巻き込んで戦争は遂行された。軍事教練に励む女学生のなかには、体力第一主義の教育を嫌った者もいただろうが、一方で「女ならそんなことはするな」「女ならしとやかでいろ」という抑止的・静止的な身体性が、軍事教練などの実施によって変容していくことに解放感にも似た思いを抱いた女学生もいただろう。女性を排除した組織とされてきた軍隊にも、女性が軍属である通信手として参入し、男性通信手に代替して任務を果たした。過度な精神主義が合理的な思考、科学的知識を凌駕すれば、紋切り型の標語が充満し、実感や本音は葬り去られる。今日の軍拡の動きに照らすと、戦時下女学生の体験は、決して現在の社会と無関係なものとはいえないだろう。

 本書を一人でも多くの人に手に取ってもらい、時代に変容が生じ、いつしか潮流ができあがってしまえば、対抗が困難になることなど、現在の日本のありように思いをはせることにもつながればと願ってやまない。

 

『大麻の社会学』その後――本書と批判的犯罪学

山本奈生

 大麻規制の状況は刻々と変わっていくもので、本書を刊行してから、アメリカのバイデン大統領はやはり全米での規制を抜本的に変えようとはしなかったけれど、連邦法で収監されているごく一部の人々には「恩赦」を与えた(しかし、全米で大麻所持によって収監されている州法違反者の大部分はまだ置き去りにされている(注1))。そして、日本では「使用罪」を創設しようと、厚生労働省の規制当局が奔走しつづけているように見える。
 本書を読んでもらった方からは、大きく2つの問題関心に分かれる読後コメントを聞かせてもらい、大変うれしかった。
まず1つ目に「大麻」という書名に関心をもってくれた読者からは、時事報道に関連する話題としてというよりは、もっと身近で切実なコメントが寄せられた。ある人の「実は兄に逮捕経験があるが、しかし自分は兄が悪人だったとは全然思っていないのだ」というコメントや、別のある人の「自分自身の活動と、筆者・山本とのこれまでの交流」という問題関心から本書を手に取ってくれたというコメントがそれで、そうした読者によって、私は本書で記そうとしたすべての狙いを汲み取ってもらったのである(注2)。
 実際のところ、大麻に関する議論はただの文化史や法制史に還元することはまったくできない。逮捕され収監される人々の生について語ることなのだから、実存と不可分のテーマであるはずだと、私は思う。
 そして2つ目に、「社会学」、とくに本書序章で一応記しておいた「批判的犯罪学」という「立て看板」へのコメントをいろいろともらった。批判的犯罪学という名称は、私にとっては例えばカルチュラル・スタディーズがそうであるように、名詞というよりは動詞の意味を多く含み、1つだけに定義することが困難な、「批判的に犯罪概念と向き合う、人々の営み」の総称である。ただ共通しているのは、既存の犯罪概念や刑法制度を抜本的に批判し、そこに含まれる権力性と対峙しようと試みる姿勢ではないだろうか。
 個別分野としてみても、その批判性は論じる人々の視座によって変化し、環境破壊や公害を扱う「緑の犯罪学」であれば、エコロジー論や「住まう人々の生活視点」から、大企業こそが巨大な犯罪行為をしているとして犯罪概念を解体・再構成しようとするし、「受刑者(自身による)犯罪学」であれば、受刑者という当事者の視座から刑務所制度の痛みを告発する姿勢が含まれる(注3)。そして私は「アクティビストでもあり研究者でもある」立場から、「ストリートで生きる人々」の人生を重視して本書を記したつもりである。
 現代日本の「五輪汚職疑惑」や「政界とカルト」問題をみるだけでも、そもそも犯罪とは何か、一体誰の痛みが無視されがちで、誰の「加害」が黙認されがちなのかが、問われなければならないはずだ。そうした「そもそも犯罪とは何か」を批判的に問うてきたのが、「68年の精神」を背景にしながら、1970年以後カルチュラル・スタディーズが勃興していった時代と軌を一にして発展してきた、欧米の「批判的犯罪学」の潮流だった。私はそのムーブメントが成してきたことの一部を拝借したのである。しかし、日本ではカルチュラル・スタディーズが広範に受容されてきたのに対して、どうして「批判的犯罪学」はあまり知られてこなかったのだろうか。
 さてそれで、2022年度の日本犯罪社会学会大会(第49回)では「批判的犯罪学の視角――犯罪社会学と刑事司法制度のあり方を問う」というミニシンポが開催され、「綱領」が発表された(注4)。文章は山口毅が作成し、企画参与者がみんなで意見を出し合った「暫定的な綱領」だが、これがなかなかよくできていて、本書で私が書いた大雑把な概説よりも明快であることを認めたい(しかし、「綱領」については学会発表しなかった私も企画準備会に参加して、少しだけ一緒に考えた部分があるのだから、誰が優れているとか誰の手柄だといったことではなく、言うべきことをみんなで言ったのだと思う)。
 この「綱領」は①刑事司法と主流派犯罪学への批判的視角、②研究者の規範的コミットメントの明示と検討、③個人化の拒絶と社会の変化に対する要請の3点をとして詳細な解説がなされた。そのうちどこかで公刊されることだろう。「綱領」は「社会の問題を看過して個人に問題を押しつける抑圧的な装置のひとつとして刑事司法制度を位置づけ」てから「犯罪学は刑事司法制度を追認して正当化するイデオローグ(注5)」だとストレートに論陣を張って、犯罪学者や法曹関係者が多数くる学会で大いに論争と顰蹙を買った(褒めています。論争と顰蹙を買わない穏健な批判というのは、批判が不足しているのだから)。
 ミニシンポで問われたことの1つは、これまで特に犯罪社会学分野での「社会問題の構築」が含む問題性だった。これは『大麻の社会学』は「社会問題の構築」論ではないのだという、私の関心とも近い論点である(注6)。
 端的に言えば、犯罪と摘発といった人の生死に関わる、そして国家と権力性の重力圏にあらざるをえないテーマを扱う場合、研究者側がただ「こうやって構築されてきたのでした」としてすます姿勢を、私(たち)は首肯しかねるのである。一部の「社会問題の構築」は、常識や先入観を括弧に入れて、観察と記述に専念する。それはそれで、「普通の社会」を相対化している点でみるべき点もあるが、しかし、そこで同時に研究者自身の批判精神までも括弧に入れてしまっている部分があったのなら、それは本末転倒なのではないか。
 私がミニシンポ登壇者の1人、岡村逸郎とそれぞれの自著に関して談話した際、彼と私が言い合っていたのは一冊の本に人生の重みをかけるという営為は、どうしても実存それ自体と不可分だよね、ということだった(注7)。ここでいう実存や人生の重みというのは、何かの苦境や困難の当事者経験だけに限られるわけではないと思う。ある人が日々の人生経験を踏まえて本の山と向き合い、作者との対話を経て権力性への違和感を論理的に確信する瞬間はありえて、そうした批判的思索もまた実存の1つなのである。
 しかし、その確信を世に問う際に自己を安全圏で「私はただ観察しただけなのです」とする振る舞いは、少なくとも実存の悩みを抱く読者に何かを喚起することができるかどうか、私には疑問である。結局のところ、先に紹介した本書への読者からのコメントはどちらも、私にとっては同型の問題を別様の方法で問いかけていたのであり、筆者は今後の原稿執筆に際して、そうした「研究と実存、批判精神」の論点を幾度も思い返すことだろう。


(1)「バイデン米大統領、「大麻の単純所持」に恩赦 連邦法で有罪の6500人が対象」「BBC NEWS JAPAN」2022年10月7日付(https://www.bbc.com/japanese/63167891)
(2)筆者の旧友の白坂和彦による紹介文。「あさやけ」(https://cbdjapan.com/archives/6949)
(3) 分野各論の概説として、平井秀幸「犯罪学における未完のプロジェクト──批判的犯罪学」(岡邊健編『犯罪・非行の社会学――常識をとらえなおす視座 補訂版』〔有斐閣ブックス〕所収、有斐閣、2020年)、また山本奈生「書評 『批判的犯罪学ハンドブック 第2版』」(「佛大社会学」第46号、佛教大学社会学研究会、2022年)がある。
(4) 2022年度日本犯罪社会学会大会テーマセッションB「批判的犯罪学の視角――犯罪社会学と刑事司法制度のあり方を問う」
(5) 山口毅「批判的犯罪学とは何か――綱領作成の試み」2022年、注(4)のセッションから。
(6) この点について、学会誌での本書書評と筆者リプライにも記述がある。山口毅「書評 山本奈生 著『大麻の社会学』」「犯罪社会学研究」第47号、2022年
(7) 岡村逸郎『犯罪被害者支援の歴史社会学――被害定義の管轄権をめぐる法学者と精神科医の対立と連携』明石書店、2021年。同書の「2022年日本犯罪社会学会奨励賞受賞スピーチ」にも実存への言及がある(同学会ニューズレターに掲載予定)。

 

ギモン8:何を残すの?

難波祐子(なんば・さちこ)
(キュレーター。弘前れんが倉庫美術館アジャンクト・キュレーター。東京藝術大学キュレーション教育研究センター特任准教授。東京都現代美術館を経て、国内外での展覧会企画に関わる。著書に『現代美術キュレーター・ハンドブック』『現代美術キュレーターという仕事』〔ともに青弓社〕など。企画した主な展覧会に「坂本龍一:seeing sound, hearing time」〔2021, M WOODS Museum | 木木美術館、北京〕など)

作品のオリジナルを保存・展示するとは?

 前回のギモン7では、主に作品のコレクションを擁する美術館について、その目的や特徴などをいくつかの事例を踏まえながら見てきた。作品の展示がなければ、展覧会活動や美術館活動は成り立たないことも、これまでのギモンで見てきたとおりだ。今回のギモンでは、ギモン7の最後に少し触れた、形が残らない作品、残りにくい作品の保存と展示について、もう少しさまざまな視点から考えてみたい。
 そもそも、美術館でコレクションされる作品は、絵画であれ彫刻であれ、良好な保管環境を用意しながら、定期的に点検し、何か不具合があれば、修復などの処置をおこなうのが定石だ。美術館にある作品は、「できるかぎりオリジナルの状態で残すもの」というのが大前提にある。そうすることで、一度展示した作品も、再度展示したり、調査研究のために活用されたり、別の美術館などの展覧会のために貸し出せるようになる。
 ここで作品展示と保存のあり方について考えるうえで、札幌芸術の森野外美術館の常設作品の一つである、砂澤ビッキの『四つの風』(1986年)を紹介したい。砂澤は北海道出身の戦後日本の彫刻界を代表する作家の一人であり、自然と交感しながら木と向き合い、ダイナミックな木彫作品を数多く制作したことで知られている。『四つの風』は、屋外にそびえ立つ高さ5.4メートルの巨大な四本の柱状の木彫で構成されているが、1986年に設置されてから、長い年月をかけて一本ずつ倒壊していき、三本がこれまで倒れて、2022年現在は最後の一本を残すだけになっている。だが、これは美術館がメンテナンスを怠っていたからではなく、作家本人の遺志に沿って、あえて手を加えることなく経年による変化も含めてそのままの形で残しているものである。砂澤は、『四つの風』について次のように述べている。
「生きているものが衰退し、崩壊してゆくのは至極自然である。それをさらに再構成してゆく。自然は、ここに立った作品に、風雪という名の鑿(のみ)を加えてゆくはずである(1)」。このように砂澤にとっては、「風雪という名の鑿」によって生じる現象も含めてすべてが作品を形成する要素であり、美術館としては作家本人が考える「オリジナル」に忠実に沿って作品を保存・展示していることになる。実際、『四つの風』は、キツツキが巣を作り、キノコが生え、倒れた柱の周りには若い木が生い茂って常に新しい風景を生み出している。『四つの風』の事例は、美術作品にとって、何がオリジナルなのか、またどのように残していくことが作家の意図に沿っているのか、ということを考えさせる。

砂澤ビッキ《四つの風》(1986年)、アカエゾマツ
札幌芸術の森野外美術館
(2022年7月撮影)
photo: 吉崎元章

メディアアート作品のオリジナルとは?

 近年増加傾向にある映像作品やメディアアート作品などは、機材や記録媒体などの変化が目まぐるしく、オリジナルの形で残すことが難しくなっていて、多くの議論がなされている(2)。具体的に言えば、8ミリや16ミリフィルムの作品は、フィルムが製造中止になっていたり、映写機自体が希少である。ブラウン管テレビを使う作品も、テレビやそのパーツの確保のために美術館関係者や作家自身が奔走するという話もよく耳にする。映像ならば、フィルム作品をDVDなどデジタルデータに変換すればいい、と思われるかもしれないが、イギリス人アーティストのタシタ・ディーンのように、フィルムを切り貼りしながらつなぎ合わせることで作品を制作して、映写機自体もインスタレーションの一部として見せる場合などもあり、ことはそう単純ではない。さらに言えば、デジタルデータであっても、マスターデータをハードディスクに保存する場合、ハードディスク自体の耐用年数も使用頻度にもよるが、約5年と言われていて、永遠ではない。またコンピューターでプログラミングされたデータを使って展示する作品の場合、使用するコンピューターのOSがアップデートされると、プログラムを書き換える必要が生じてくる。
 韓国出身のビデオ・アーティストであるナム・ジュン・パイクの場合は、ブラウン管テレビの特徴を利用した作品や、数十台、数百台ものテレビを彫刻的に積み上げて構成する作品などで知られているが、ブラウン管テレビが生産中止になり、世界中の美術館関係者の頭を悩ませている。例えば、『マグネットTV』(1965年)は、ブラウン管テレビの上に強力な磁石を置くことで、磁力でモニタの映像がゆがんで映し出され、観客が磁石を動かすとそれに合わせて映像も変化するという作品だ。テレビが映し出す情報(映像)を観客がコントロールすることで、人々が普段、知らず知らずのうちにテレビから発せられる情報によって支配されている社会の構図が、逆説的に浮かび上がる。このブラウン管モニタのかわりに例えば液晶ディスプレイを用いても、同じ効果を物理的に再現することはできない。また仮に磁力によって変化する映像をコンピューターでプログラミングして擬似的に再現してみせたとしても、それは作家の意図に沿うことにはならないだろう。
 パイク作品のなかでも最大規模である、韓国の国立現代美術館所蔵の『The More, The Better』(1988年)は、1003台のテレビをバベルの塔のように積み上げた高さ18.5メートルの巨大な作品だが、モニタの交換など補修を繰り返したのち、2018年に火災発生の恐れがあるなど安全上の問題から作動を停止した。同作品は、1988年のソウルオリンピックに合わせて制作され、発表時には衛星生中継で世界各国の放送局を結んで映像を映し出した。次々と映し出されるその圧倒的な映像が、インターネット社会の到来を予感させる、情報化時代を象徴するパイクの代表作だ(3)。この作品については、その保存・修復方法が早くから議論されていた(4)が、その後国内外の専門家が調査と協議を重ねて、なるべく原型をとどめる形になるように努める、という方向性で2019年から三年がかりで修復され、22年に6カ月間の試運転を経て、公開されることになった(5)。修復では、交換できるパーツは中古品を購入して交換され、一部、タワー上部のモニタについては、液晶ディスプレイが用いられた(6)。
 オランダでメディアアートのアーカイブについて研究・実践してきたガビー・ヴェイヤースは、メディアアートの保存・修復に関する倫理と実践についてまとめた論考のなかで、いくつか重要な指摘をしている(7)。ヴェイヤースが述べているように、メディアアート作品も、ほかの美術作品と同様にそれが本質的には唯一無二のオリジナルであることには変わりないが、ビデオ作品をはじめとするメディアアートの場合、その多くがデータをコピーすることが可能であり、また再生機も作家による改変を加えた例外的なものを除き、量産されたものが多いので、物質的に「唯一無二のオリジナル」という考え方が当てはまりにくい。さらに、日進月歩のテクノロジーを用いるメディアアート作品は、そのテクノロジーの特性ゆえに絵画や彫刻などと比べると短命に終わってしまうという脆弱性をはらんでいる。メディアアート作品の保存・修復については、1990年代の終わり頃から盛んに議論されていて、基本的には「なんとしてでもオリジナルの技術を追求する」派と、「改造・アップデートした技術を用いる」派の2つのアプローチに大別されている。ヴェイヤースは、その双方のアプローチはどちらも有効であるとしながら、適切なアプローチは、その両極の間にあるのではないかと述べている。そしてメディアアート作品においても、ほかの美術作品の保存・修復の場合と同様に、「物理的、美学的、歴史的」な観点から、いかに作家の意図を汲みつつ、作品のオリジナルの形を尊重していくかという倫理上の問題を考えていくかが火急の重要な課題であると、具体的な事例を交えて論じている。ここでは個々の事例は紹介しないが、簡単にまとめると、次のような視点が求められると言える。
 現存する作品を成立させる機材や記録媒体などが使えなくなった場合、既存の作品データを別の媒体にコピーするだけでいいのか、それとも再生機を含めた作品の見た目や、その機材を使用すること自体が作品が成立するうえで重要なのか、そうでないのか。代替機器や手段を使えば、再生方法は異なっても、見た目だけはそのままにすればいいのか、あるいは見た目は遜色なくとも、そうした代替手段による展示は作品の意味を変えてしまうので一切不可として、作品の寿命とするのか。もしくは作品のコンセプトはそのままで全く新しく別の形で作品を作り直すのか、など。ここで先のパイクの『The More, The Better』についてあらためて考えてみると、ここでのブラウン管モニタの使われ方は、『マグネットTV』とは少し異なり、その彫刻的な外観や、パイクがこの作品を発表していた1980年代の時代精神や社会的文脈などを伝えることがその大きな役割となる。よってブラウン管テレビは、作品のコンセプト的にも美的にも重要な意味をもっていて、できるかぎり維持していくことが望ましいと言える。一方で、その時代時代の最先端のテクノロジーに関心を抱いて作品に積極的に取り入れていたパイクの作品制作のあり方に鑑みると、もしパイクが存命であれば、迷わず新たなテクノロジーを導入するであろうことを、パイクを知る技術者や美術批評家が口をそろえて証言している(8)。だが、液晶ディスプレイは、ブラウン管モニタよりもフラットな画面で形状が異なり、ブラウン管モニタほど画面が明るくないので、すべてを液晶ディスプレイにしてしまうと、作品の生き生きとした見え方が変わってきてしまう。よって『The More, The Better』の修復に液晶ディスプレイを最低限の数で一部用いる、という解決策は、まさにこうした作品の背後にある作家の意図や美的・技術的な観点などの倫理をキュレーターやコンサバター(保存修復家)たちが総合的に吟味した結果であると言えるだろう。このように作品をその作品として成立させるために必要な条件については、できるかぎり作家本人や作家の制作に関わる関係者と事前によく相談し、どのように再現展示するかなどについても、記録をとっておくことが必要になる。こうした展示や保存に関する作家との確認プロセスの重要性は、近年、増加しているパフォーマンス作品の収集と展示でも同じことが当てはまる。

パフォーマンス作品の収集と展示

 ギモン1では、1960年代から70年代にかけて、従来のホワイト・キューブの美術館の外に飛び出した作品についていくつか見てきた。これらは、もともと美術館での展示を想定していない作品であり、その多くは、当時、「モノとして市場で取引される作品」という商業主義的な考え方そのものに反旗を翻すものでもあった。なかでも、形に残らないイベントやハプニング、パフォーマンスなどの作品については、長年、美術館で収蔵する際には、それらを記録した写真や映像、チラシや案内状などを対象とするか、コンセプチュアル・アート作品のように指示書が残されるだけで、パフォーマンスそのものを収蔵する、ということはなかった。だが、近年、ギモン2で紹介した2019年のヴェネチア・ビエンナーレ、リトアニア館の『Sun & Sea(Marine)』のように、パフォーマンスを展覧会の枠組みのなかで展示する試みも増えていて、パフォーマンスが美術館のコレクションに加わる、といったケースも00年代から見られるようになった。
 これには、テートで長年保存・修復を担当してきたピップ・ローレンソンが指摘するように、1960年代や70年代に作家自身が演者・実行者であることが大半だったパフォーマンス作品が、90年代頃から他者によって演じられるスタイルになったものが増加し、パフォーマンス作品のあり方が変容していることが、大きな一因になっていると言えるだろう(9)。従来のように作家自身が演者であり、そのことが作品の成立にとって不可欠であるパフォーマンス作品であれば、その作家が不在の場合、あるいは亡くなった場合は、オリジナル作品は再現不可能となるが、作家以外の演者による作品であれば、作家が課する条件を満たせば、再現することができる。そして、それはほかの絵画や彫刻作品のように収集や貸し出しまでも可能にするのである。
 大阪の国立国際美術館は、日本国内ではいち早くパフォーマンス作品の収蔵や展示を積極的に取り入れている。同館が2016年度に最初に収蔵したパフォーマンス作品は、プエルトリコを拠点として活動している二人組の作家アローラ&カルサディーラの『Lifespan』(2014年)であった(10)。これは、展示室の天井から吊り下げられた小さな石をめぐって、三人のボーカリストが口笛と息で交信をする約15分間のパフォーマンス作品であり、展覧会の会期中は毎日実施される。三人のボーカリストは、この石を取り囲むように立ち、石に向かって交互に、あるいは同時に息を吹きかけたり、口笛を鳴らしたりする。また三人は、しばしその場に立ち止まったり、ゆっくりと石の周りを回ったりしてそれぞれの立ち位置を変えていく。その光景は「ときに激しく、ときに緩やかに変化しつつ、言葉が誕生する前のコミュニケーションの有様を想像させる(11)」。この作品でモノとして物理的に収蔵されているのは、石(40億年以上前の冥王代の石)とスコア(五線譜と言葉のインストラクションからなる楽譜)である。作品の展示にあたっては、スコアの作曲家であるデイヴィッド・ラングによる指導が必要とされていて、18年の開館40周年記念展である「トラベラー まだ見ぬ地を踏むために」で展示するにあたって、国立国際美術館でも実際にラングをアメリカから招聘し、パフォーマーたちがトレーニングを受けた。また美術館が作品を購入した際にギャラリーと交わした契約書にも、展示や運営に関する事項が多数盛り込まれていた。これに加えて、収蔵後に美術館側が作家にインタビューして聞き取った展示に関する細かな諸条件(パフォーマーの男女比、服装、展示室のしつらえ、照明など)も大変重要な参考資料になっている。スコアに表現されていない事柄が多いため、リハーサルや運営の記録や、展示条件を記した資料類は、館内に大切にストックされている。こうした資料は、次回、同作品を展示する際のさまざまな判断材料になる。またもし同作品を再展示する際には、18年の展示に協力してくれた主に関西圏在住のパフォーマーに再び協力依頼をすることになると想定される。このようにパフォーマンス作品の収集と保存、展示では、メディアアート作品の場合と同様にどう作家側と丁寧に対話を積み重ねて作家の意向を確認し、作品を成立させるための条件を共有し、展示に関する細やかな環境を記録しておくかがカギとなってくる(12)。
 一方でギモン3で紹介したティノ・セーガルは、作家以外の演者・実行者によって成立するパフォーマンス作品を多数発表している(13)が、セーガルの場合、写真や映像などの記録を一切残さないことを展示や収集でも徹底していて、アローラ&カルサディーラのようにはいかない。セーガルの『これはプロパガンダ』(2002年)は、2006年にテート・ブリテンで開催されたテート・トライアニュアルで展示され、テートの収蔵作品となり話題になった。しかしこの作品の収集や展示にあたっては、ほかのセーガルの作品と同様に、映像などで記録しておくことはできない。またスコアや指示書も存在しない。購入にあたっては、契約書も書面ではなく、口承で交わされる(14)。セーガルはもともと経済学とダンスを学んだ作家であり、彼の作品は、モノとしての作品のあり方を否定する彼の経済的批評の実践になっている。そのため『これはプロパガンダ』に関しても、ある踊りを知っているダンサーがそれを別のダンサーに踊ることで伝授するように、「身体から身体への伝達」になるようデザインされた作品になっている(15)。この作品の展示や収集にあたっては、作家や作家のスタジオからスタッフが派遣され、オーディションで選ばれたパフォーマー(16)と美術館のキュレーター、コンサバターなどに直接、身ぶりや歌が伝承されていく。セーガルの作品は、一見、収蔵には不向きと思われるかもしれないが、既存の形ある美術作品を扱う仕組みを作家が意図的に巧みに利用していて、展示や収蔵が可能となっている。例えば『これはプロパガンダ』は、展示の際には、会期中は展示室で最低1カ月間展示することが課されている。またエディションを切ったり、アーティスト・プルーフ(AP)もあり、版画や映像作品のように売買したり、貸し出したりすることができる。ちなみにエディションやAPとは、版画や写真、映像作品のように複製可能な作品を取り扱うときに作家やギャラリーが複製する点数を決めて、作品の価値・販売価格をコントロールする仕組みである。例えば、版画の場合、100枚限定で刷って、それ以上は刷らないと決めて、通し番号を1/100、2/100……のように振っていく。この100がエディション数となる。ある美術館はエディション15/100を収蔵し、個人コレクターはエディション23/100をもっている、というふうな具合である。その際に試し刷りなどで作家の手元にある数点をAPと呼び、通常は作家の手元に残して販売の対象にはならない。セーガルの作品に話を戻すと、『これはプロパガンダ』については、あるエディションがテートのコレクションになっていて、APが別の展覧会に貸し出されている。とはいえ、版画や写真、映像作品と異なり、こうした記録をとることができない、美術館内外の人々の記憶に頼る作品を美術館でコレクションとして長期的に保存・維持していくには、ローレンソンが指摘するように、作品成立に関わる美術館内外の人とのネットワークを保てるように、定期的に再現展示をしたり、貸し出しをおこなったり、美術館で検証する機会を設けたりすることなどが不可欠になってくるだろう。そのために適切なメンテナンスのサイクルは作品ごとに異なり、細やかな対応が求められていくことになる(17)。

変化していく作品

 先に見たパイクなどのメディアアート作品では、何をもってその作品の「オリジナル」とするか、ということが作品の保存と展示では問われると述べてきた。ここで、本ギモンのまとめに入る前に、最初に紹介した砂澤ビッキの『四つの風』のように変化していくことを前提にしている作品の事例として、もう一つ、タレック・アトゥイの『The Reverse Collection』(2016年)を紹介したい。
 アトゥイは、レバノン出身でフランス在住のアーティストで、音を使ったインスタレーションやパフォーマンス、さまざまな協働作業を伴うプロジェクトなど、ユニークな活動を展開している。彼の長期にわたるプロジェクトの一つである『The Reverse Collection』の収集・展示のあり方は、作品が成立してきた経緯とともに、一風変わったものになっている。この作品は、まず2014年にアトゥイが実験音楽のミュージシャンたちをベルリンのダーレム地区にある民族学博物館に招き、そこに収蔵されている素性や演奏方法が定かではない民族楽器を即興で演奏してもらったことから始まる。アトゥイはこのときの楽器ごとの演奏を録音した素材をもとに、これらの楽器のためのスコアを書き、そのスコアは同年のベルリン・ビエンナーレで演奏された。そして今度は、このときの演奏を録音した音源をもとに、視覚的な情報を排除し、音だけを手がかりとして、この音を奏でることができる楽器を複数の現代楽器制作者たちに作ってもらうよう依頼した。結果的には8つのオリジナル弦、管、打楽器が作られ、14年11月にメキシコ・シティの展覧会で展示され、これらの楽器を使って演奏もされた。そして16年には、新たに中国とフランスで作った楽器二つを加えて、先の8つの楽器とともにテート・モダンで展示され、これらを使って定期的に展示室で演奏された。アトゥイはこれをさらに録音して、一時間のマルチチャンネルのサウンド作品を作り、それもテート・モダンでの展示に加えられた。こうして、『The Reverse Collection』は、音を手がかりに楽器を作る、という楽器制作のプロセスをタイトルのとおり「Reverse(逆行)」させる作品となり、テートのコレクションになった。だが、この作品の再展示にあたっては、その複雑な成立過程のように、幾通りもの可能性があるという点で、ほかの作品とは一線を画している(18)。
 まず、『The Reverse Collection』は、2016年のテート・モダンでの展示のようにインスタレーション作品として、アトゥイのサウンド作品と一緒に展示することができるが、このとき展示する楽器は全部でもいいし、一つだけでもかまわない。また新しい演奏者や作曲家を招いてパフォーマンス作品として発表することもできる。そして万一楽器の一つが壊れてしまった場合は、音だけを手がかりに新しい楽器を作ることも理論上可能である。実際、『The Reverse Collection』は、テート・モダンの展示のあとも、世界各地の別の展覧会などで、新しいリサーチに基づいて別の楽器制作者が作った楽器を加えたり、アトゥイの別のプロジェクトと組み合わせて発表されるなどして次々と形を変えて展示・演奏されている。このように最終的な形態が定まらず、オープン・エンドな作品の保存と展示では、キュレーターもコンサバターも、常に新たに生まれ変わる可能性がある作品の成立に立ち会うことになり、臨機応変な対応が求められる。

変化していくキュレーター、コンサバター、美術館

 これまで見てきたとおり、メディアアート作品やパフォーマンス作品など、長期にわたって形が残りにくい作品の展示と保存では、いずれも何が作品の成立にとって本質的な条件なのかについて、作家との話し合いを重ね、きちんと記録しておくことが不可欠であるとわかるだろう。物故作家の作品の場合は、そのプロセスはより困難になるが、作家を知る関係者や遺族などへの聞き取り調査や、それまでの展示の記録などを丁寧に掘り起こすことで、可能になるケースもある。例えばアメリカ人アーティストで2016年に亡くなったトニー・コンラッドの『Ten Years Alive on the Infinite Plain』(1972年)については、作家の死後にテートに収蔵されたが、スコアは残されていない作品であり、テートが関係者への聞き取りや資料のリサーチ、再現ワークショップなど非常に根気強いプロセスを経て、コレクションを可能にした(19)。
 メディアアート作品の場合、機材などの生産終了に備えて、スペアの部品や機器のストックなど物理的な面での備えが重要だが、同時にこうした機材を扱える技術者など人的資源の確保も課題になっている。美術館内に専門の技術スタッフが常駐している館の数は世界的に見ても限りがあり、展示や保存に際しては、外部の専門家に協力を依頼することが多い。またパフォーマンス作品の場合も、ティノ・セーガルやトニー・コンラッドの例のように作品の記憶を美術館内外のできるだけ多くの人と共有し、定期的に検証・アップデートしていくことが求められる。このようにメディアアート作品やパフォーマンス作品の展示と保存については、必要な機材などの確保、技術者や外部協力者の確保と人的ネットワークの構築、作品の再現展示を検証するための場所の確保やコストなどさまざまな課題が山積していて、一つの美術機関の予算とネットワークだけでは難しいことは明らかだろう。この分野で先駆的な試みにいくつも取り組んできたテートも、研究費や助成金などの外部資金を複数の機関とときには国を超えて共同して確保し、協力しながらリサーチや検証を進めている。日本でもメディアアートに関しては、メディア芸術アーカイブ推進支援事業(20)として、文化庁が支援をおこなっているが、単体のプロジェクトに対する支援となっていて、美術館内外を横断するようなネットワークの構築には至っていない。パフォーマンスを含めたタイムベースト・メディアの保存と展示に関する美術館内外を結ぶ包括的で国際的なネットワークの構築は、今後ますます求められていくことだろう。
 展覧会は、一過性の作品を展示するだけではなく、こうした形に残りにくい作品や、再現展示が難しい作品を検証し、後世に伝えていくという重要な役割もある。そうした作品の展示を実現すべく、キュレーターやコンサバターは日々、試行錯誤している。作品のあり方が変化するにつれて、作品の展示や保存を取り巻く環境もアップデートされていく。それを支えるコンサバターもキュレーターも、そして美術館もまた、当然ながらそのあり方を変えていくことが必要だろう。

 さて、本連載ではこれまでさまざまな角度からキュレーターをめぐるギモンの数々を取り上げてきた。ここでウェブでの連載は一区切りとし、残り二つのギモン9「どうして「展覧会」を作るの?」とギモン10「キュレーターって何をするの?」については、書き下ろしで書籍にまとめ、これまでのギモンを総括しながら、あらためて考えていきたい。


(1)札幌市企画、札幌芸術の森編『札幌芸術の森野外美術館図録』札幌芸術の森、1986年、86ページ
(2)メディアアート作品を中心にしたタイムベースト・メディアの修復・保存については、京都市立大学が中心になってまとめた「タイムベースト・メディアを用いた美術作品の修復・保存ガイド」(https://www.kcua.ac.jp/arc/time-based-media/)を参照されたい。また海外では、ニューヨーク近代美術館(MoMA)とサンフランシスコ近代美術館(SFMOMA)、テートの三館によって2004年に立ち上がったMatters in Media Art(メディアアートの諸問題)が、メディアアートの保存・修復と展示について、有益なオンラインのガイドを公開している。「Guidelines for the care of media artworks」(http://mattersinmediaart.org
(3)Nam June Paik, “Wrap around the World,” Media Art Net(http://www.medienkunstnetz.de/works/wrap-around-the-world/images/8/
(4)2012年11月23日には「How to Conserve The More, the Better」という国際シンポジウムが韓国国立現代美術館で開催されていて、そこですでにブラウン管モニタを液晶ディスプレイで代替する修復方法も提案されている。平諭一郎「《The More, the Better》は「なにか」の乗り物である」、『ナムジュン・パイク《The More, the Better》に関するノート』所収、東京藝術大学、2015年
(5)韓国国立現代美術館「Ending Test Operation of Paik Nam June’s ‘The More The Better’」、2022年7月8日(https://www.mmca.go.kr/eng/pr/newsDetail.do?bdCId=202207080008320
(6)「ナムジュン・パイク作品 モニター修理し原形保存へ=韓国美術館」「KONEST」COPYRIGHTⓒ YONHAP NEWS、2019年9月11日15時19分(https://www.konest.com/contents/news_detail.html?id=40599)、Park Yuna, “Paik Nam-june’s ‘The More, The Better’ operates for six-month test run,” The Korea Herald, January 24, 2022, 08:48(http://www.koreaherald.com/view.php?ud=20220123000112
(7)以下の考察は、次の論考を参照した。Gaby Wijers, “Ethics and practices of media art conservation, a work-in-progress (version0.5),” August, 2010(https://www.scart.be/?q=en/content/ethics-and-practices-media-art-conservation-work-progress-version05
(8)前掲「《The More, the Better》は「なにか」の乗り物である」、YOON SO-YEON, “‘The More, The Better’ has a monitor problem: The screens on Nam June Paik’s biggest work are staying retro,” Korea JoongAng Daily, September 16, 2019(https://koreajoongangdaily.joins.com/2019/09/16/movies/The-More-The-Better-has-a-monitor-problem-The-screens-on-Nam-June-Paiks-biggest-work-are-staying-retro/3067963.html
(9)Pip Laurenson and Vivian van Saaze, “Collecting Performance-Based Art: New Challenges and Shifting Perspectives,” in Outi Remes, Laura MacCulloch and Marika Leino eds., Performativity in the Gallery: Staging Interactive Encounters, Peter Lang, 2014, p. 33
(10)アローラ&カルサディーラ作品については、植松由佳「トラベラー まだ見ぬ地を踏むために」(橋本梓/植松由佳/林寿美編『トラベラー まだ見ぬ地を踏むために』展覧会カタログ所収、2018年、国立国際美術館)13―14ページ、林寿美「アローラ&カルサディーラ」(同書所収)112ページ、ならびに同館主任研究員の橋本梓氏へのメールインタビュー(2022年7月19日)に基づく。
(11)同書112ページ
(12)パフォーマンス作品の収集について考慮すべき手順や項目については、下記のテートによるリストが有益である。“The Live List: What to Consider When Collecting Live Works, Collecting the Performative,” TATE(https://www.tate.org.uk/about-us/projects/collecting-performative/live-list-what-consider-when-collecting-live-works
(13)ただし、ローレンソンによれば、セーガル自身は自分の作品を「パフォーマンス」と呼ばれることに関しては否定的で、「生きた彫刻(living sculptures)」「構成された状況・経験(constructed situations/experiences)」と呼んでいる。Laurenson and Saaze, op. cit., p. 35.
(14)Louisa Buck, “Without a trace: Interview with Tino Sehgal,” The Art Newspaper, March 1, 2006(https://www.theartnewspaper.com/2006/03/01/without-a-trace-interview-with-tino-sehgal
(15)ピップ・ローレンソン氏へのメールインタビュー、2022年8月16日
(16)セーガル本人は「パフォーマー」と呼ばず、「解釈者/翻訳者(interpreter)」と呼んでいる。同インタビュー
(17)Laurenson and Saaze, op. cit., pp. 36-37.
(18)タレック・アトゥイ作品については、下記を参照。Tarek Atoui, Tarek Atoui: The Reverse Sessions/The Reverse Collection, Mousse Publishing, 2017, p. 1, 19. 再展示に関する詳細については、ピップ・ローレンソン氏の下記シンポジウムでの発表とメールインタビューに基づく。国際交流基金・水戸芸術館共同企画特別国際シンポジウム「プレイ⇔リプレイ――「時間」を展示する」水戸芸術館ACM劇場、2018年11月3日(https://www.jpf.go.jp/j/project/culture/exhibit/exchange/2018/09-01.html
(19)トニー・コンラッドについては下記のテートのウェブサイトを参照。“Reshaping the Collectible: When Artworks Live in the Museum,” TATE(https://www.tate.org.uk/research/reshaping-the-collectible), “Conserving Tony Conrad,” TATE(https://www.tate.org.uk/art/artists/tony-conrad-25422/conserving-tony-conrad
(20)なお、文化庁のメディア芸術アーカイブ推進支援事業については、次の文化庁の「メディア芸術の振興」のサイトを参照されたい。文化庁「メディア芸術の振興」(https://www.bunka.go.jp/seisaku/geijutsubunka/media_art/

 

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タジタタン――あるいは上梓までの日々――『〈サラリーマン〉の文化史―― あるいは「家族」と「安定」の近現代史』を出版して

鈴木貴宇

 ものを書く仕事に就きたいなと憧れた10代のころ、そのイメージは万年筆を手に原稿用紙に向かい、一つの形容詞が思い浮かばずにため息をついて、早朝の森に散歩に出たりするといった、どうも串田孫一的スノビズムに彩られた、おまけに時代がかった「文人」のものだった。もちろん場所は片流れの品のいい屋根の別荘で、そこには無口だがすべてを心得ている年配の家政婦がいて、そっと紅茶を入れてくれる。訳ありの渋い執事でもいいけど、まあとにかく、私は万年筆を握ってさえいればいいのだ。時折はウイットの効いた編集者が、老舗和菓子なんぞを差し入れにきたりする。
 さすがにそりゃないわなと大学院に進学したあたりで気がつくのだが、今度は論文の執筆というのは、きっと知の集積みたいな研究室で、厳しい面持ちで臨むものに違いあるまい、とこれまた勝手にイメージしていた。これも違うわなと現実を知るものの、どこか「単著上梓」ということに関しては、最後のロマンではないけれど、なんとなく「おお! われ成し遂げり!」的な充実感があるんだろうなあと思っていた。メンデルスゾーンの「おお雲雀」が高らかに響いてしまう感じである。

 それも一つには、「あとがき」の為せる業だとおもう。これまで読んできたあまたの本にある「あとがき」は、なんてスタイリッシュなものが多かったことか。著者は必ず「理解ある職場」にいて、さらに「孤独を分かち合う友」もいて、おまけに「そっと励ましてくれる妻ないし夫」もいる(さらに、いつも寄り添ってくれるペットまでいたりする)。そして「セーヌ川のキャッフェで談論風発の日々を思いながら」なんていう締めの言葉で終わったりするのだ。ああ、私もそういうことを書いてみたい!と、三十路に入ったあたりから、悶々と「エセあとがき」を書いたりしていた。
 まあ、それは無理でも、とりあえず落ち着いた状況で行く末越し方を考えながら「あとがき」を書くことができたら、それだけでずいぶんと幸せじゃあないか、といろいろあった不惑以降の私は、ささやかながら「あとがき」を書ける幸せを楽しみにしていたわけである。

 ところが。まず青弓社の校正者は大変に熱心で、改善提案みっちりの初校ゲラが届き、当初はうれしい悲鳴も最後には単なる悲鳴となりながらなんとかゲラを返したら今度は編集部が私の訂正に手間取り(ごめんなさい)、さらにコロナ禍でスケジュールがすべて押せ押せとなって、私の本って本当に出るのかしらと訝しむ時期があったくらいである。
 かと思えば、年度が明けたら今度は猛ダッシュでどっかどかとゲラが投下されてきた。しかも「8月末に刊行するので、いついつまでに再校念校見本印刷」と、怒涛の勢いである。「あ、ということで、「あとがき」は7月7日までにデータで送ってください」との指示が期日3日前、すでに学期末のとんでもなく忙しい時期に入っている。七夕の日が締め切りというのはちょっとステキかしらと思うも、甘かった。通常授業の期間でさらに学期末となると、もはや「ステキ」なものなんてお茶休憩のチョコレートくらいしかないんじゃないかと思うくらい、バタバタである。文学少女のころからあんなに思い入れがあった「あとがき」なのに、ローソンのからあげクンをつまみにノンアルコールビールを片手に書くことになった。

 いま思えば、それしもまだマシだった。いよいよ書影が出て、うわあ、本当に出版してもらえるのか、いやはや、とドキドキする日が続いた8月はじめ、なんだかとにかく部屋が暑い。いやあねえ、緊張してるからほてってるのかしら、意外とウブなところがあるわね私、なんて思っていたら、本当に暑い。熱中症になりそうな気配である。もちろんエアコンはつけている。だけど原稿用紙のマス目が汗でにじむくらい暑い。ふと見れば、エアコンの電源ランプが点滅していて、送風口からは熱風が出ている。
 築10年ちょっとの物件で、決して古いものではないけれど、設備も10年たてば劣化する。さらに最近の暑さだ、フル稼働となったエアコンを責めるのも気の毒である。しかし、さすがに30度を超える日本の夏をエアコンなしで過ごすのは無理だ。おまけに念校も抱えている。しかもこれが起きたのは日曜日、管理会社の代行さんは、「ええ、そら暑いですよなあ、よくわかりますわ、だけどどうしようもないんですよなあ」の繰り返し。
 仕方ない、とりあえずビジネスホテルをとって、修理を待つしかないかと考えた月曜日、勤めを終えて電車に乗っていたらスマホが振動する。見るとなんと警察である。一瞬、再校ゲラが遅れてるから警察から督促がきたのかと焦るが、そんなわけはあるまいと電話に出ると、「あ、えーと、鈴木さんですか? あなたの住んでる建物、火事になってまして」と言うではないか。

はい?

 閑話休題。要は、隣室の壁のなかにあった分電盤がショートして、たまたまリモートワークで家にいた住人は急に部屋に煙が立ち込めるからびっくりして外を見たら燃えていた、ということらしい。消防車が派手に噴水してことなきを得たが、着いてみたら隣室の外壁は無惨に剥がされ、こりゃしばらく住めませんよねは一目瞭然だった。
 エアコンが壊れたおまけに火事に遭いまして、つきましては念校は大学に送ってください、と担当編集者さんに伝えたら「そりゃまあ、タジタタンですなあ」と呆れたのか驚いたのか、そんな言葉で返された。タジタタン? ああ、多事多端か、と脳内変換するも、多事多難ではなく「多端」ときたかと感心する。単に言い間違えかもしれないけれど、「タジタタン」という響きは、どこかスタッカートで、軽やかではないか(そんなことないか)。

 そんなわけで、何事も現実は小説よりも奇なりを地で行くような日々を過ごすうちに、10年かかった拙著『〈サラリーマン〉の文化史』を無事に上梓することができた。「あとがきのあとがき」くらいは、それこそ文人らしいことを書きたかったのだが、どうやらこれが私の身の丈である。最終章に登場してもらった山口瞳にならって、「この人生、大変なんだ」ということで、お読みいただけたらとてもうれしい。

 

過剰に誇張するネットの作用――『女子はなぜネットを介して出会うのか――青年期女子へのインタビュー調査から』を出版して

片山千枝

『女子はなぜネットを介して出会うのか』というタイトルで、今回執筆しました。まずは、このような機会をくださったみなさまに心から感謝したいと思います。今回の執筆前後で、私は以下のようなことを考える機会があったので、コラムに記します。
 それは、ネット上の発信は良くも悪くも、そこで発信されている内容を誇張する効果があるという点です。関連する研究では、炎上に関するものやCMC(Computer-mediated communication)に関するものなどがありますが、後日きちんとレビューしたいと思います。
 具体的には、ネット上の発信をプラスに捉えると、それを発信した相手を過剰に評価する傾向にあるのではないかということです。本書でも言及していますが、特に「Twitter」や「LINE」などネット上のサイト・サービスを介して知り合った相手だと、①視覚的情報が制限されている点や②物理的距離がある点などから、相手を過剰に評価すると考えられます。既存の友人・知人であれば、対面でやりとりする機会もあるため、相手に対する「自分の妄想」や「思い込み」をある程度修正できると思うのですが、ネットを介して知り合った相手は対面で会う機会がほとんどないと予想されるため、相手に対する「自分の妄想」や「思い込み」を修正できない恐れがあります。「こんなすてきなメッセージをくれる人に実際に会ってみたい」「実際に会ったら、画像や動画よりもよりカッコイイ/カワイイかもしれない」と相手に過剰に期待した結果、ネットを介した出会い(ネットを介して知り合った人と実際に会うこと)を実現すると考えらえます。ちなみに、これを本書では「能動的出会い」と定義しています。
 逆に、ネット上の発信をマイナスに捉えると、それを発信した相手を過剰に非難したり、その内容からさらに否定的な想像や思い込みをしたりすることも考えられます。相手のことを肯定的に評価しているときは発信のすべてがよく見えますが、少しでも自分の想像と違ったり、相手が自分の意に反することをしたりすると、相手の発信はもちろん、相手の存在まで否定的に捉えてしまうことにつながるのです。
 ネット上の発信は基本的に文字でのやりとりが中心なので、対面と異なり誤解が生じやすい(メラビアンの法則)というのも、良くも悪くもネット上の発信がそこで発信されている内容を誇張する理由になると思います。また、私自身が実感していることですが、検索機能の充実により、ネット上では似た情報が集まりやすいということも、その理由として挙げられます。たとえば、「ネット恋愛」と検索すれば、ネットを介して知り合い、恋愛・結婚をした体験談やすてきな「ネット恋愛」をするための方法を指南してくれるサイト・サービスがたくさん出てきます。だからこそ、「私もこんな恋愛がしてみたい」と期待と想像が必要以上に膨らみます。一方、「ネット恋愛 詐欺」「ネット恋愛 騙された」と検索すれば、それに関する犯罪実態や事件・ニュースなどが出てきます。それらの情報を見て、過度に不安や恐怖を抱くことも考えられます。良い情報も悪い情報も、ネット上では検索結果を1つクリックすれば、さらにそれに関連するサイト・サービスが際限なく提示されるので、アリの巣地獄ならぬ「検索地獄」から抜け出せなくなり、自分の「想像」や「思い込み」をコントロールできなくなってしまうといえます。その結果、「ネット依存」はもちろん、ネット上の情報量の多さに「ネット疲れ」や「SNS疲れ」に陥る人も少なからずいると思います(ちなみに、私自身も「検索地獄」にはまり、自分自身をコントロールできなくなった一人です)。
 本書では女子のネットを介した出会いに注目し、その実態について執筆しましたが、女子のネットを介した出会いの背景には、ネット利用に伴う様々な社会問題が潜在していると私は考えます(「ネット依存」や「ネット疲れ」など)。本書ではそれらすべてを明らかにすることはできませんでしたが、本書をきっかけにして、それらの社会問題を今後明らかにしていきたいと考えていますし、その手伝いができればと思っています。

 

第4章 パラマーケットと非知覚過程の弁証法――資本主義的コミュニケーション批判

小倉利丸(富山大学名誉教授。専攻は現代資本主義論)

目次
序章 資本主義批判のアップデートのために
第1章 拡張される搾取――土台と上部構造の融合
第2章 監視と制御――行動と意識をめぐる計算合理性とそこからの逸脱
第3章 コンピューターをめぐる同一化と恋着
第4章 パラマーケットと非知覚過程の弁証法――資本主義的コミュニケーション批判

[第4章構成]
4-1 資本主義批判の枠組みの組み替え
   ・上部構造への資本の介入
   ・監視資本主義
   ・資本主義と機械
   ・支配的構造の歴史的変容
4-2 予測と制御:意味生成過程
   ・使用価値とパーソナリティ――〈労働力〉再生産過程と意味使用価値
   ・買い手にとっての意味使用価値
   ・パラマーケットの変容
   ・選択の自由と操作的言語
4-3 空間の解体
   ・プライバシーと空間
   ・空間の配置とパラマーケット
   ・資本主義における自己同一性
4-4 非知覚過程
   ・モノの回路とコミュニーションの回路
   ・資本に有機的に組み込まれたパラマーケット
   ・ユーザー追跡技術
   ・監視システムとしてのパラマーケット
   ・ユーザー追跡技術への批判と抵抗
   ・政府による非知覚過程の利用
4-5 コミュニケーション労働と非知覚過程
   ・コミュニケーション労働の実質的包摂へ
   ・コミュニケーション労働とデータ化する「私」
   ・コンピューターと身体性
4-6 フェティシュな人工知能
   ・フィードバックの副作用
   ・恋着と同一化の対象としての人工知能
4-7 官僚制と法の支配の終焉
   ・政治過程にコンピューターが介在するとはどのようなことか
   ・では現行の法の支配のほうがマシなのか
   ・個人の意思と集団の意思
4-8 ナショナリズムの再生産構造
   ・ナショナルアイデンティティ
   ・パラマーケットとナショナリズム

4-1 資本主義批判の枠組みの組み替え

 本稿全体の冒頭で、マルクスの資本主義認識に立ち返りながら、現代資本主義の基本構造を、土台―上部構造の定式に対する資本主義的な応答としての、上部構造の土台化、土台の上部構造化について述べた。つまり、政治権力と資本の意思決定構造が相似形をとるようになる、ということだ。マルクスの資本循環図式を形式的に当てはめて表現すると、以下のようにも言うことができる。権力の生産過程は、統治機構の物質的条件(権力の生産手段)と官僚、議員、裁判官などの人的な資源によって、構造への「従属」という政治的生産物が生産される。これを「国民」やこのカテゴリーから排除された人々が「消費」することを通じて、「従属」が再生産される。
 資本が介入する伝統的な回路は、ケインズ主義の公共投資と土木建設資本の関係のようなインフラ投資の時代から新自由主義の公共サービスを民間資本に開放する時代へと展開してきた。この前提には、公共サービスを生存権の保障のための国家の義務として理解することから、財政負担を伴う「費用」とみなして採算を優先させるような国家の側の義務理解の根本的な転換があり、その結果として、公共サービスが資本に利潤をもたらすことが可能な領域に組み込まれることになった。一般に、この過程は民営化とか小さな政府と解釈されてきたが、私は、逆に、権力の生産過程が資本の生産過程と融合しはじめたのであって、小さな政府ではなく、政府機能が市場経済に有機的に結合しながら、市場そのものが政治化する契機となったとみたほうがいいと考えている。政府は小さくなったのではなく、民主主義的な統制の外部で大きくなったのだ。従来の公共投資では、資本は、政治的生産手段を担うこと(道路や港湾、都市開発など)を通じて政治過程と外的・形式的に接合していたにすぎなかった。いま起きていることは、官僚制など権力の生産過程を担う人的な組織の資本との内的・実質的接合である。伝統的な近代の権力の人的組織が担ってきたのは、意思決定と、その前提にあるコミュニケーションや情報の管理である。さらには、法の「生産」とこれを適用することができる力である。コンピューター・テクノロジー/コミュニケーション(CTC)が支配的技術となる時代には、デジタル庁のように、この過程がデジタル・トランスフォーメーション(DX)として展開されることになる。

上部構造への資本の介入

 CTCが支配的構造の基軸をなすようになったきっかけは、インターネットの商用利用への開放だった。これが1990年代後半以降一気に加速化し、社会のコミュニーション・インフラとして定着したことによって、民間資本のなかでも、情報通信分野が資本蓄積の基軸産業へとのしあがることになる。郵便や電信電話の民営化をこの文脈のなかで見直すと、単純に公共サービスが開放されて市場経済の論理に支配されたというように解釈することだけでは不十分だとわかる。政府と資本は、CTC分野に投資する民間資本が確実に収益をあげられるような構造を準備すると同時に、これが支配的構造による社会全体への制御を実現するような拡がりが目指された。ここで重要な意味をもつのが、コンピューターによる情報処理の高度化がインターネットのような双方向のネットワークと結び付いて、人々の生活必需品として日常生活空間に組み込まれ、その先に、ブレイン・コンピューター・インターフェース(BCI)のような、商品の使用価値を媒介しない直接的な人間の意識制御技術が企図されてきたという点だ。政府や資本の権力のトップから個人一人ひとりのプライベートな空間までが、ひとつの通信プロトコルによって接合可能なネットワークのなかに組みこまれた。こうして、双方向のネットワークは、一方で、一般の人々に対して不特定多数への情報発信の力を与えることになると同時に、政府や資本には、これまでは不可能だった個人のプライベートな情報を詳細に、かつリアルタイムに収集することが可能な力を与えることになった。こうして、個人の発信力の高度化と個人データの際限がない収集を通じて、コミュニケーションが社会構造のなかでもつ意味が変容した。これが土台と上部構造の相互浸透過程を生み出す決定的な要因となった。
 道路などの公共事業の民営化と医療や教育など人を対象とするサービスの民営化の間には本質的な違いがある。統治機構の構造を理解する場合、権力が統治の対象とする人間(人口)との関係を考慮する観点からみる必要がある。権力や政治過程にとって、「人間」を「国民」として従属の構造に組み込むことが最大の課題であり目標でもある。この意味で権力は人間を手放すことはできない。逆に、資本にとって人的な条件は、コストであり、機械化によって排除の対象になるか、消費者として商品を買わせるようにコントロールするためのターゲットだ。資本主義を支える構造のなかにありながら、政治過程と経済過程とでは、「人間」への扱いに関する戦略がまったく異なる。いま起きていることは、官僚制であれ、議会であれ、裁判所であれ、これらの権力過程のなかの人的な要素が排除され、意思決定にコンピューターが代替しはじめているということだ。民主主義は人間的条件によって構築されることが大前提になっているから、コンピューター化による人間的条件の排除は民主主義の本質を変質させることになる。他方で、権力の「生産物」である「国民」としての「従属」的な人間は、市場の消費者を制御する技術の応用として、コンピューターによって代替された意思決定を心理的にも受容する。

監視資本主義

 ショシャーナ・ズボフは『監視資本主義』のなかで、こうした構造転換を監視資本主義として概念化した。
「監視資本主義は、人間の経験を行動データに変換するための無料の原料として一方的に要求する。これらのデータの一部は製品やサービスの改善に応用されるが、残りのデータは独自の行動余剰と宣言され、「マシン・インテリジェンス」と呼ばれる高度な製造プロセスに投入され、あなたが今、すぐ、そしてこの後何をするかを予測する予測製品に加工される。最後に、これらの予測製品は、私が行動先物市場と呼ぶ、行動予測のための新しい種類の市場で取引される。多くの企業が私たちの将来の行動に賭けようとしているため、監視資本家たちはこれらの取引から莫大な利益を得ている(注1)」
 無料の原料とは、私たちが無料でGoogleで検索し、Facebookで交流したりするたびに、これらの企業が、このサービスの舞台裏で収集する私たちの行動や私たちが利用しているデバイスが送信するメタデータやフィンガープリントと呼ばれるようなデータなどのことだ。ズボフは、データを「製品やサービスの改善に応用される」部分と、それ以外(以上)の部分に分け、後者を「行動余剰behavioral surplus」と呼ぶ。マルクスの剰余価値を想起させるような考え方だ。この余剰部分こそが監視資本家がデータを取得する動機を構成する部分になる。
 こうしたデータの生産過程では、「私たちの声、性格、感情」が収集されるだけでなく、「最終的に監視資本家は、最も予測性の高い行動データは、収益性のある結果に向けて行動を誘導し、なだめ、調整し、集団を作る」。こうして「自動化された機械のプロセスが人間の行動を知るだけでなく、大規模に人間の行動を形成するようになる」。これをズボフは「知識から権力への方向転換」と呼び、次のように述べている。
「監視資本主義の進化のこの段階では、生産手段はますます複雑で包括的な『行動修正の手段』に従属する。このようにして、監視資本主義は、私が『道具主義instrumentarianism』と呼ぶ新種の権力を生み出す。道具主義の権力は、他人の目的に向かって人間の行動を知り、形成する。軍備や軍隊の代わりに、「スマート」なネットワーク化されたデバイス、モノ、スペースのますますユビキタスなコンピューター・アーキテクチャの自動化された媒体を通して意志を行使する(注2)」
 ズボフが道具主義と呼んだ事態は、すでに紹介したようにホルクハイマーがプラグマティズム批判で用いた概念との共通性が高いように思う。監視資本主義は、英米の支配的な思想でもあるプラグマティズムと行動科学、そして社会を数学的なモデルによって解析可能だとする非弁証法的な方法とデータに基づく実証主義という20世紀のイデオロギーを堆肥にして、そこから成長してきたものだ。この成長の経路が「監視」へと向かった理由は、個人主義と資本主義的な自由の枠組みを前提として、いかにして「個人」を既存の権力構造に従属させるのか、という問題意識に内在するものだ。行動科学は、目的の意味や動機を問わないで、目的に対して最適な手段の選択にだけ関心を寄せる。だから、権力や支配といった人間の自由や平等にとって不可欠な問いは脇に追いやられて、この目的を実現するには人間の行動をどのように予測し制御すべきか、だけが関心の対象になる。ズボフがホルクハイマーと共通する問題意識を抱くに至ったとしても、それは当然の結果だといえるだろう。
 ズボフは、私たちの個人データが無料の資源としてプラットフォーム企業によって採掘され、これをインテリジェンス機械で加工するところに着目している。製品になるのは私たちの行動を予測したり、行動変容を促すことができるような生産物で、こうした商品をほしがる企業に売られることになる。私もズボフ同様、資本主義経済の蓄積様式が監視技術を担う産業によって大きく支配されている状況は社会に対する深刻な破壊だと認識し、ズボフはそれをある種のデータ搾取として捉え、人間の行動予測と行動制御が課題の中心にあるとしている点については問題意識を共有している。他方で、私の関心は、こうした監視資本を支える構造が市場経済によって完結するシステムにはなっておらず、その外部、私がいうパラマーケットを介していて、さらにこれに非知覚過程が構造的に接合することで、私たちの意識と行動そのものへの操作可能性が高度化している点に注目している。この問題は、市場と政府の二分法や、この両者だけを社会制度として議論するだけでは不十分だ、ということを示唆しているものだ。
 無料であるかぎりデータ資源を抽出する過程は、市場経済のメカニズム(価格メカニズム)では把握できない。商品としての財やサービスの取引には価格が設定されなければ市場メカニズムが機能しないからだ。同時に、この予測と制御の商品を購入した資本が、この商品を利用して実行する過程もまた市場経済の外部で、パラマーケットが介在しておこなわれることになる。私の関心は、むしろこのパラマーケットがもたらす効果と、データを人間そのものとみなす資本の人間観に内在する誤認が、誤認とされずに広く受け入れられる理由がどこにあるのか、この誤認を「真実」や「事実」とみなすことが社会の共通理解となることによってもたらされる深刻な人間への影響である。そしてコンピューターが介在するとき、このパラマーケットは非知覚過程を伴って「私」の意識とのフィードバック過程を構造化する。コミュニケーションが人と人の関係から機械に媒介された関係に変化することによって、「私」がコミュニケーションをとる「あなた」のどこまでが人間としての「あなた」なのかが不分明になる。これはモノに対するフェティッシュな感情の問題ではなく、モノと人の中間に新たな「意識」の領域が形成されるという問題である。

資本主義と機械

 人間をデータとみなす過程は、マルクスが機械制大工業のなかで労働者が〈労働力〉として扱われる過程について論じた観点を再度思い出すことが必要になる。第1章で述べたように、マルクスは機械を死んだ労働と呼び、〈労働力〉排除の資本にとっての唯一の武器だと指摘した観点は、現代のコンピューターと人間との関係の基底を構成していることを見落としてはならない点だろう。労働者の疎外と〈労働力〉商品化が機械に接合されるとき、自らもまた機械に適合するように再構成されなければならなくなる。これがテーラーの科学的管理法や反ユダヤ主義者のフォードが構想したことであり、その延長線上に20世紀以降の技術と資本主義の発展軌道が定められた。
 19世紀の産業革命によって本格的に資本の生産過程の中核を占めるようになった機械=固定資本は、当時から労働者の排除、とりわけ熟練労働者の排除と単純労働への置き換えと、〈労働力〉コストの削減と労働者に対する資本の支配となってきた。エンゲルスは『イギリス労働者階級の状態』で機械のこうした問題をいち早く指摘し、マルクスもまた『共産党宣言』で機械による労働者排除を指摘した。他方で、機械がもたらす単純労働化は、熟練労働による労働者階級内部の階層化を打破し、階級としての一体性、つまり階級的な団結の基礎をもたらすともみなしていた。こうしてマルクス=エンゲルスは、ラダイトのような機械排斥運動に対しては、その限界を指摘し、機械を労働者の統制の下に置くこと、つまり資本の機械から労働者の機械への転換を可能だとも考えていた。
 機械制大工業が資本主義における産業技術の中心をなしてきた根源に、労働者による資本に対する不断の抵抗の存在があり、これが資本の生産性を阻害する要因になっていたことをアンドュー・ユアらが指摘していて、こうした指摘を踏まえて、資本の生産性は〈労働力〉の抵抗(政治的な抵抗だけでなく身体的あるいは文化的な抵抗も含む)との弁証法的な相互関係抜きには説明できないことをマルクスは『資本論』で強調した。
〈労働力〉を資本の支配の下に置くことは、資本主義にとって最大の社会統合問題だ。機械とは、一方で、〈労働力〉を機械に置き換えることを通じて、生産過程の全面的な資本による支配という夢を実現するための手段になるものであり、また、他方で、完全な置き換えが不可能であっても、単純労働化し機械のリズムに従属させることを通じた労働者の労働への主体的な裁量の余地を最大限奪うこと、つまり、労働現場での主体性の剥奪を実現する過程でもある。機械化は、この階級構造の資本によるヘゲモニーの物質的基礎をなすものであり、不断の技術革新は、〈労働力〉のコントロールがその重要な動機をなしていた。
 マルクスは、機械の問題を、労働者の部分労働者化と低賃金、あるいは失業と貧困の問題に集約して論じる傾向があるが、同時に、機械化の一連の過程は、労働者の抵抗をそぐための技術でもあるという側面に着目するとき、問題の重要な側面として、資本に対する労働者の意識変容を見落とすわけにはいかない。
 19世紀の機械制大工業は、人間の身体が初めて機械と接合し、機械が人間の身体を不可分一体のものとして――資本の観点からは――コストという貨幣量によって統一的に計量可能なシステムのなかに組み込まれることになった。これは人類史のなかで、人間と自然の関係を大きく変容させるものになった。労働は、もはや自然との物質代謝過程を直接実現する行為ではなくなり、資本=機械によって媒介され、しかも生産過程の一部分を担うだけになり、その労働の具体的有用労働としての側面が、具体的でありながらその意味を経験的にも見いだすことが次第に困難になり、存在それ自体が抽象化されるようになる。具体的な労働がどのように意味づけられようとも、人間の〈労働力〉を機械よりも劣るものとする一般的な価値観が形成され、労働者は繰り返し機械によって駆逐される運命にあるものとみなされてきた。労働者にとって「労働」は賃金=貨幣に換算・媒介されることでだけその存在価値があるとみなされるようになる。だから貨幣によって評価されない行為は、価値をもたない行為――実は資本主義的な意味での価値にすぎないのだが――として否定的にだけ評価されるようになる。他方で、資本にとって労働者とは、資本の機械と接合されたある種の機械であるべきものとみなされることになる。機械は常に労働者の手強い競争相手でありながら、機械化を賛美する文化が労働者の消費生活や教育制度でも支配的になり、労働者自らが機械を資本の手先としてではなく、人類の進歩の成果だと誤認するようになる。こうして、機械の機能そのものには備わっていない文化的な「意味」を人間の側が作り出すようになる。機械はフェティシズムの対象になる(注3)。こうなることで、機械は近代社会の文化的表象となることができた。自動車とテレビが日常生活を支配する最も基幹的な位置を占めることに成功したことによって、20世紀の資本主義の商品フェティシズムは『資本論』の時代とは質的に異なる意味の体系を私生活に持ち込むことに成功する。そして現在では、このフェティシズムの中心を担っているのがスマートフォンに代表されるCTCデバイスだ。

支配的構造の歴史的変容

 20世紀の資本主義では、統治機構のなかに、「国民」と呼ばれる人口が形成され、形式的ではあれ、議会制民主主義の制度を通じて、「国民」は、人口を国家に統合するためのアイデンティティとして必須のカテゴリーになる。その結果として、資本主義の階級構造がもたらす人口内部の階級意識による分断は、「国民」意識との摩擦を内包し、統治機構に直接・間接の影響を及ぼすようになる。
〈労働力〉が生み出す剰余労働によって資本の価値増殖が支えられるとしても、このことが、〈労働力〉商品の担い手としての労働者の総体をいわゆる労働者階級に帰属しうる存在とするものではない。人間のいくつかの重要な属性(たとえば、ジェンダーやエスニシティとしてのアイデンティティや、親族関係のなかでの役割意識、信仰など)を捨象することによって描かれた人間像と現実の人間の多面的な存在との間にはズレがある。しかも、資本は、その組織の巨大化と、生産過程の機械化の繰り返しを通じて、〈労働力〉は物の生産過程だけでなく、マルクスが資本家的な労働と呼び、剰余価値を生まないとみなしたような資本の流通過程での労働の大半を担うようになる。
 階級闘争に対する資本による支配の戦略は、資本の組織内部での戦略と、〈労働力〉再生産過程、つまり消費生活過程での戦略の二正面作戦をとる。資本家が資本の人格的な表現であるように、資本の組織を構成する労働者集団もまた、労働者でありながら資本の人格的表現を分有するように組織が強いることになる。資本主義では、労働者は〈労働力〉商品の人格的表現であるとしても、このことが自動的に労働者意識を形成するわけではない。この点が資本と資本家意識との関係と決定的に異なる。労働者の闘争という観点からみたとき、資本とは異質な、資本と敵対する意識形成は、目的意識的な過程として集団的に、かつ、国境を越えた取り組み――ナショナリズムへの回収を拒否する取り組み――として指向されないかぎり「労働者に祖国はない」といったスローガンは容易には現実のものにはならない。だから、労働者でありながら資本家的な意識をもつことはこの意味では不思議なことではない。しかし、資本主義の階級構造は、他方で、労働者に対して資本の意識とは対立する労働者意識、あるいは階級意識を醸成する根拠をもなしている。いわゆる中産階級やホワイトカラー層は、人格的な存在としては、剰余労働の生産主体(被搾取主体)でありながら、資本家的な意識を内面化することこそが〈労働力〉の使用価値を構成しているという矛盾した存在だとしても、剰余価値を形成する構造としての階級のなかで一定の機能を果たしているという面でいえば、矛盾はない。こうした特異な人格と構造こそが、20世紀の先進国に共通した〈労働力〉になるために、意識の問題は、資本主義にとって中心的な課題をなすことになる。
 こうして、資本にとって〈労働力〉の再生産過程の意味は、19世紀資本主義とは大きく異なるものになる。資本家的意識を内面化した〈労働力〉を世代的にも日常的にも形成するためには、消費生活とその基本的な組織の家族制度の意義が格段に大きくなる。資本が供給する商品は資本家的意識の形成のための不可欠な条件となる。マルスクは商品の価値に着目して使用価値の問題を「商品学」に委ねて詳細には検討しなかった(注4)。また、搾取の問題をもっぱら価値形成に関わる労働の問題として捉えたが、前にも述べたように、搾取とは人間が資本主義のなかで過ごす時間全体を覆うものであり、その意味で身体性の搾取であり、大衆消費社会での生活のなかで消費される商品の使用価値は、その使用価値に込められた象徴的な意味作用を通じて、〈労働力〉の担い手となる労働者の意識を形成し、同時に、家族関係のなかの人々の役割意識を形成することにもなる。
 資本がもっぱら生活手段を物としての商品の供給を通じてコントロールする以外の手段をもたなかったマルクスの生きた時代から、マスメディアや広告を通じて、積極的に〈労働力〉となる人口に対して商品の使用価値の意味、生活様式の意味を構築しようとする時代へと移行する。これが、工業化から脱工業化、あるいはサービス化とか情報化と呼ばれる資本主義に一般的に見いだせる展開の方向である。資本主義経済が、物の領域から非物質的な領域へと展開していくなかで、非物質的な領域が市場化されるようになる。
 非物質的な領域は、物質と無関係に存在するわけではない。ハードなしにソフトウエアやネットワークはありえないという意味でもそうだが、そもそも物が資本主義社会のなかで存在することを私たちが認知できるのは、その物が資本主義のシステムのなかで意味の体系に位置づけられているからだ。この意味の体系を市場は使用価値の体系として構成する。やや機械的な切り分けになるが、商品の使用価値には、その物の本来の有用性と、この有用性によっては説明しえない意味が付随する。「本来」的な有用性とは何なのかは必ずしも明確にすることはできないのだが、有用性によっては説明しえない意味としてここで念頭に置いているのは、物が商品となることによって、商品としてのブランド、広告のキャッチコピーやパッケージのデザインなどの商品化に伴って付加される「意味」などだ。同時に、こうした商品化に伴って付加される「意味」が物の商品開発では主導的な役割を果たし、ここから逆算するように物の「本来」性が追求されるという転倒が生じる。こうして本来性は商品化に従属し、商品化なくしてはその本来性も存在しえないものとなる。
 こうしたモノの直接的な有用性とは無関係な意味が生じるのは、資本主義が使用価値ではなく価値に支配されていて、資本の価値増殖に寄与するように使用価値が操作され、これが広告やパッケージなどを通じて買い手の消費行動を左右するからだ。価値に支配された使用価値が本来の使用価値には付随しない意味を担わされる。これまでも、こうした側面の使用価値を「記号」や「象徴」という概念で把握することで資本主義での消費社会の問題を浮き彫りにし、本来の使用価値の世界への回帰(?)が模索されたりもしてきた。しかし、資本主義的生産様式を前提として供給される商品の意味を剥ぎ取ることで本来の使用価値と呼びうるものが露出するというふうには物は存在していない。どのような社会にあっても、物の有用性としての機能をそれそのものとして体現するような物はひとつもない。人間が言語をもつかぎり、物の有用性それ自体はその物の意味と不可分であり、その意味とされる事柄は、言葉で表されるかぎり、常に有用性を逸脱する要素を含む。つまり非本来的あるいは過剰としての意味が本来的な意味のものであり、そうであるかぎりで、本来と非本来という区別は便宜的なものでしかありえない。とはいえ、市場経済が商品の使用価値として直接扱うことが可能な「意味」と、そうとはいえない「意味」という二つの領域を判別することは、資本主義批判の理論構築にとっては必要な作業である
 この物に付与される意味は資本の生産過程を通じて商品の使用価値として具体化されるのではなく、「意味」は、この生産過程を超えて生成されるものでもある。資本主義が歴史的な「社会」として数世紀にわたってとりあえず延命できたのは、物と意味の構造が人々の生存で一定の意味の体系として〈労働力〉の再生産基盤を構築したからだ。この基盤は、当初は、資本主義に先立つか、あるいはその外部にある人々の日常生活やその伝統を巧みに接合することを通じて形成されてきたが、資本の生活手段供給は、商品の使用価値の集合を通じて、生活全体を商品によってコーディネート可能な空間とされるのにつれて、人々は空間そのものを商品の使用価値とその意味で覆うようになる。料理のレシピのなかで一つひとつの素材の役割や意味が定められるように、生活のなかにある商品一つひとつの意味は、その商品によってだけでなく、その商品がとりむすぶ他の諸商品との関係や人々の相互の人間関係とコミュニケーションのなかで、人々の生活過程のなかで形成される。
 ごく当たり前の日常生活空間は「生活世界の植民地化」(ハーバーマス)だとすれば、私たちはこの植民地のいかなる住民なのだろうか。先住民を追い出して定住しようとする植民者なのか、資源や土地を収奪してプランテーションを建設してもっぱら植民地産品の輸出に関心をもつような帝国主義者としてなのだろうか。あえてこの例え話を続けるとすると、大衆消費社会以降現在まで続く資本による生活世界への浸透は、資本が浸透する以前の生活世界とそこで暮らす人々のライフスタイルと記憶を排除したり統合して巧みに利用する。これは「伝統」と呼ばれて資本の観光資源になったりもする。こうしたなかで、〈労働力〉という資源が資本によって「採掘」されることになる。この一連の過程で、近代に特有のナショナリズムの文化と価値観も形成されることになる。
 生活世界への資本の拡張は、単に拡大再生産を本性とする資本にとって、生活手段生産部門の拡大再生産の帰結として、生活が市場経済に呑み込まれることになった、というストーリーだけでは理解できない。むしろ、〈労働力〉という資源の再生産に必要なプロセスとして捉える必要がある。このときの最大の目標は、〈労働力〉を資本の人格に包摂すること、フロイトによる大衆心理に関する分析での言い回しを借りれば、資本への同一化と恋着の心理を形成するためのプロセスとして、消費生活を組み込むことであり、資本の組織化とは異なる家族制度という親族組織を資本に折り重ねることよって消費市場に供給される商品の使用価値の意味・象徴作用が、家父長制家族を通じて、またこうした家族を再生産しながら〈労働力〉を再生産する重要な役割を担う。ライヒが問題意識の核心にもっていたように、これが、資本による階級意識への対抗戦略である。
 資本循環(注5)を貨幣循環の相でみれば、生活手段としての商品は、〈労働力〉の代価であり賃金によって購入されることによって、資本はその投資を回収し、労働者は必要労働部分を「買い戻す」ことになるだけだ。しかし、こうした貨幣のフローの視野から外れるところで、〈労働力〉の再生産過程が機能しつづける。だからむしろ、資本循環を商品循環の相で捉えることが必要になる。これは資本が商品の供給を繰り返すなかで、〈労働力〉を再生産するうえで不可欠な意味としての商品の再生産を含意する循環だからだ。消費生活の場は、家族関係から様々な公共的な場や人間関係まで多様な内容で構成されるが、これらを資本が供給する商品の空間として再構成することによって、目指されるのは、資本にとって必要とされる〈労働力〉資源の安定的な供給である。ここでいう〈労働力〉は、20世紀前半までは、製造業と農業が〈労働力〉の具体的有用労働の質を規定していた。同時に政治的支配の側からすれば、〈労働力〉となる人口を「国民」として組織することによって、権力の正統性が維持される。これが、民主主義であれ独裁であれ、権力の基盤をなす。こうして国民的〈労働力〉が資本主義の前提をなすことになる。
 20世紀前半までに人間の肉体的な能力を機械体系と接合して制御する技術は、その頂点に達した。究極の制御は、結局のところ全自動無人工場へと向かうことになった。周辺部資本主義は、このなかで別の役割、つまり機械化しえない人間の労働を担うのだが、これは産業革命の機械化と非西欧世界の植民地の構図が現代に至るまで成り立っているということを示してもいる。この意味で、物の生産過程で、人間―機械の基本的な制御の構造で新たな発見はないといっていい。
 20世紀後半以降、先進国の人口は、非物質的生産へとシフトするが、人と人のコミュニケーションの制御が最大の課題になる。ここで、〈労働力〉の使用価値(注6)は、物を対象とした労働から人を対象とした労働への大転換をこうむることになる。販売、教育、企業組織内の合意形成、マスメディアやその周辺に形成される様々な情報産業の類まで、労働は人の意識にはたらきかけて、人の情動を制御することになる。人の意識(心理、感情、ニーズなど)が労働対象になる。こうしてコミュニケーションは労働に組み込まれることになる。

4-2 予測と制御――意味生成過程

使用価値とパーソナリティ――〈労働力〉再生産過程と意味使用価値

 マルクスの商品論では、商品の二要因として、価値と使用価値を指摘し、使用価値を物の有用性を意味するものであり社会的・歴史的な背景があるとはいえ、価値の問題のような資本主義の搾取と関わるやっかいな隠された構造をもつとは考えられていなかった。
 たしかに使用価値は剰余価値を直接形成するわけではないのだが、生活手段として消費過程に入ることによって、〈労働力〉再生産過程に直接影響を及ぼすことになる。生活手段を消費することとは、資本が供給した「モノ」を単に生理的な必要を満たすために使用することを意味するものではない。この消費には文化的な意味があり、また労働者のライフスタイルを規定する条件をなすものだ。どのようなものであれ市場で生活手段を購入せざるをえないということは、資本が供給する商品を私生活のなかに持ち込むことを意味していて、階級闘争の主体にとっては、このことが〈労働力〉の再生産に影響するだけでなく、その意識にも影響するはずであって、この問題は主体の解体をもたらす可能性を秘めていて、決して瑣末な問題ではない。生活手段とは、資本が労働者の生活世界に送り込む敵の手先なのだ。だからこそ、商品の使用価値は物の直接的な有用性(衣服なら外部環境から身体を保護するという機能)に還元することはできない。商品化を前提としたファッションとしての衣服の側面なしには衣服は商品になることはできず、商品としても需要されない。商品の使用価値における直接的な有用性(以下、直接的使用価値と呼ぶ)は、ある種の抽象的な概念化作用でしかなく、実際の商品は直接的使用価値と一体化された様々な意味をまとう。この使用価値の意味を構成する環境は市場経済の貨幣を代価とする所有権の移転の過程だけでは理解できない。広告のように、商品そのものとは別の回路を通じて、一般には対価なしで提供される商品情報と一体となって商品の使用価値の意味が形成される。他方で、市場での商品売買は、この広告に典型的に示さているような商品情報の回路なくしては十分に需要を開拓することができない。価格と使用価値は市場で「情報」として、商品本体とは別の回路を通って流通する。私は、市場経済を補完し、かつ市場経済にとって不可欠な情報の回路をパラマーケットと呼ぶ。
 広告の機能はマスメディアのニュース報道などと本質的に異なる役割を担っている。それは広告に触れた人たちが、その商品に対して購買欲望を発動し、行動に移すように促すことを意図している。つまり、操作的な情報に特化している。ニュース報道に接した人たちが報道内容を様々に解釈し、様々な評価をもつことを発信者側は許容し、報道の内容が画一的な何らかの行動に結び付くことは必ずしも最優先の目的ではない。どのように評価しどのように行動するのかは情報の受け手に委ねられている。しかし、広告はそうではない。考え方や欲望の内容を変えるだけではなく、実際に行動する(当の商品を買う)ことを実現できるかどうかが広告の成否の基準になる。インターネット以前の大衆消費社会の広告は、メディア技術の限界によって、消費者を「大衆」としてしか把握できなかった。やがて情報技術の高度化のなかで1980年代にマーケティング業界などで「分衆」「少衆」などの概念が提案される時代を経て、インターネットの時代になってターゲティング広告が支配的になる。こうした広告技術の発展を規定しているのは、個人としての消費者の購買行動を操作しようとする資本の欲望である。これが土台の上部構造化のなかで政治過程における人口の政治的な操作へと拡張されていくことになる。
 この意味で広告は商品の意味内容を構成するわかりやすい事例だといえる。広告に限らず、商品の使用価値には直接的な使用価値とは区別される意味使用価値が存在する。これは、その商品の意味内容を構成するものであって、その物を物として消費することによって得られる有用性とは「意味」という世界を通じて接点をもつにすぎない。マクドナルドのハンバーガーを食べるということが、モスバーガーのハンバーガーを食べることとはその「意味」が違うということを消費者なら誰でも知っている。この違いは直接的使用価値には還元できない「意味」が買い手の心理に作用する領域に関係している。買い手が何を選択するのかという問題は、市場全体の構造からすると、買い手は圧倒的に多くの商品を選択肢から排除して一つを選ぶわけだから、ほとんどすべての広告は効を奏することなく終わったということになる。そうであっても、まったく広告を打たなかった場合との比較で、広告が有意な効果をもたらしていると判断するから資本は広告に投資する。この優位な効果とは、まさに、その商品が実際に購買されたかどうかとは相対的に切り離されて流通する意味使用価値の効果なのだ。
 他方で、売り手にとっての意味使用価値と買い手のそれとが一致しているかどうかを確認する手だてがないから、ここでの「意味」は二重になる。意味の二重性とその検証不可能性はコミュニケーション一般に共通する基本的な性格である。そもそもパッケージや宣伝文句が、商品の使用価値の意味として売り手が構成しようとしたコンセプトを正確に反映しているかどうかさえ確証することはできない。可能なのは、資本がその組織の意思決定で、商品の使用価値の「意味」をパッケージや商品名や広告のキャッチコピーなどとして具体化する際の組織内合意形成がおおむね成立しているということ、そして、「売れた」ことをもって意味使用価値が買い手によってもまた承認されたと「見なす」ということ、これ以上のものではない、というのが伝統的な大量広告によるパラマーケットが果たしうる機能の限界だった。
 売り手にとっての意味使用価値の生成は、パラマーケットを通じた情報回路によって市場に伝達される様々な非直接的な使用価値、パッケージデザインだったり広告に登場するアイドルのキャラクターだったり、商品のブランド名だったり、いずれにしても、本来の使用価値とされている物の有用性とは概念的にも物理的にも区別されるものであり、買い手の購買欲望に直接作用することを意図して売り手が意識的に商品と一体のものとして生産することになる。この意味使用価値は、物の生産とは異なって資本の流通過程のなかに組み込まれた意味生産過程であり、意味使用価値の観点からすると、資本の流通過程は生産過程そのものである。最終的に買い手が店舗などで商品を購入する際に実際に接触する店員たちとのコミュニケーションもまた意味使用価値に組み込まれる。
 買い手のなかで起きる意味使用価値の生成は、売り手のそれとはまったく異なる。最も純粋なケースとして、これまで消費経験がない商品を購入する場合を考えてみればわかるように、買い手の購買行動を促す欲望には具体的な経験は必ずしも必要とはされない。「もしこの商品を買うとすればどのような生活が実現可能になるだろうか」というイメージや想像の世界が形成されて、この想像の世界のなかの欲望の充足が先取りされることによって、現実の商品への欲望がここに係留される。実際には想像と現実の間を橋渡ししているのは売り手による想像力喚起のための仕掛けであり、これが長年広告やパッケージデザインが果たすべき役割とされてきた(注7)。

買い手にとっての意味使用価値

 買い手にとっての使用価値の「意味」は、どのような作用を果たすものなのか、さらに立ち入ってみてみよう。直接的使用価値が消費者の生理的な身体の維持や保護などの機能を果たすとすると、意味とはいったい何なのだろうか。買い手が買うモノは具体的なブランド名をもつものだが、その具体性を買い手は具体的な意味としてだけ受け取るわけではない。たとえば、マクドナルドのハンバーガーを食べるとき、「おいしい」とか「まずい」といった感想を口にする。ほとんどの日常生活の経験が言語として表現されるときには、暑い、寒い、痒い、痛い、面白い、退屈などなどいずれも、様々なシチュエーションに共通する言葉で表現されることが多い。言語化されるときに、人は同時に、経験を抽象化して一般的な言葉として表現する。「マックのハンバーガーはおいしい」というありきたりの表現であれ、いわゆるテレビのグルメ番組の食レポであれ、言語による表現は意味使用価値の抽象化作用を必ず伴う。味覚のような身体経験は言語に還元できない言語外の残余の部分を含むが、これが言語化されたときには、必ずある種の抽象化作用が生じる。このように考えると、商品をめぐる意味は、買い手のなかで幾重もの重層的な具体と抽象の意味構造のなかで処理されていることがわかる。
 たとえば、7月25日午後5時に原宿竹下通りのマクドナルドでビッグマックセットを1個購入した、というように、モノの具体的な情報は、時間と空間によって一義的に決定される世界――その可視化された証拠がレシートの情報やキャッシュレス決済のデータになる――のなかに配置されている。しかし私たちは、コンピューターとは違って、この具体的なモノが意味するものを特定するデータを、そのモノの意味それ自体だとみなしているわけではない。データによってこの一義的に決定されたこのモノは、たとえば、次のような会話を成り立たせることになる。
アリス「ハンバーガーを買って食べたよ」
ボブ「どのハンバガー」
アリス「マック」
ボブ「どこで買ったの?」
アリス「竹下通り」
ボブ「いつ食べたの」
アリス「5時ころかな」
ボブ「最近ぼくはハンバーガー食べてないけど、どうだった?」
アリス「まあまあかな」
ボブ「一緒に食事しようと思ったけど、まだおなかすいていないね」
アリス「そうでもないよ…」
 こうしたごく普通にありがちな会話は「7月25日午後5時に原宿竹下通りのマクドナルドでビッグマックセットを1個購入した」というデータが一括で提供されているわけではない。「ビッグマックセット」は「マクドナルドのハンバーガー」として抽象化され、さらには「ハンバーガー」という一般名詞に置き換えられ、それが食事のカテゴリーのなかに属するものであり、おいしいとか空腹などの感覚表現と結び付けられている。会話が具体的な状況を前提にしながら、実は、きわめて抽象的な概念がその背後で作用している。具体的な意味は抽象的な意味と相互に繋がりながらひとつの意味の場を形成している。このかぎりでは、具体的な意味と抽象的な意味の間には一見するとどちらが規定的なのか判別がつかないようにみえる。しかし、具体的な意味が抽象的な概念との結び付きを一切もちえない場合、食べ物は「食べ物」としては認識できず、食べるという行為にも結び付かない。また、他方で、食べ物が「食べ物」として認識されても、それを食べるという行為と結び付けられない場合もある。その「食べ物」が映画のなかの登場人物の演技であったり、自分が嫌いな食べ物であったりなど、「食べ物」は、その文脈のなかでその意味が変容する。いずれの場合も、抽象的な概念との関係のなかで具体的な意味がその具体性を実現するのだ。具体的なモノが時間と空間によって一義的に規定されるということと、それが意味をもつということとは別のことである。そして具体的なモノの意味は抽象的な概念なしには意味を生成できないし、抽象的な概念もまた、具体的なモノの集合によってその「豊さ」が支えられる。コンピューターはこの具体と抽象の意味の世界を格好の獲物にする。つまりデータセットだ。 しかしデータセット――上述の例でいえばレシートのデータでもいい――から推測しうる消費者の行動はボブとアリスの会話に含意されているニュアンスを再現することは不可能だ。
 ではこの抽象的な意味、「食べ物」「食べる」とか、「服」「着る」などの表現や、「おいしい」とか「寒い」といった感覚や感情を一般的に示すような表現はどこから生まれてくるのだろうか。ハンバーガーもお茶漬けもともに「食べ物」という概念で括るような意味操作を人間は成長の早い時期に獲得する。対人関係に関わる言語も、母や父の固有名詞よりも先に「ママ」「パパ」といった一般的な呼称が先行したりする。友達の親と自分の親が同じ「ママ」「パパ」と呼ばれながら、それが「同じ」意味ではないことを子どもも認識できたりする。このようにしてみると、時間的・空間的に一義的に規定され、他と明確に区別されるようなモノがまとう具体的な意味の方が実は極めて特殊なのではないか、と考えてみる必要がある。言語表現よりもより原初的かもしれない身振りなどは、それが指し示すものを言語と比較して漠然としてしか表しえず、その意味は言語ほど明確ではない印象があるが、実は言語とのこうした比較が正しいのかどうかを疑う必要がある。むしろ漠然とした指し示しによる場合であっても人々が相互に了解可能なコミュニケーションのほうが、言語に還元できないが意味としての機能はそれで十分果たしえているから、それでコミュニケーションとして通用している、ということの意義にもっと注目する必要がある。これはたぶんコンピューターの認識世界にはないことだろう。
 そもそもモノの意味が時間と空間によって一義的に規定されることに執着するのは、近代世界の、とりわけ市場経済が、モノを私的所有の対象とし、商品として供給する構造がもたらした意味生成の特徴である。パンを作るのに必要な小麦粉という商品は、特定の商標名をもって売られる以外には存在しない。つまり、資本主義の市場経済では「小麦粉」それ自体は存在しない。具体的なモノとして存在しているのは何らかの商品名である。この固有名詞としての商品と一般名詞としての「小麦粉」とを売り手も買い手も同一視するが、この同一視は同じことを意味していない。売り手としてのメーカーは、固有名詞を一般名詞に結び付けて、あたかも自社の商品が小麦一般を代表するかのように振る舞おうとする。こうした振る舞いは、言外に、競争相手を意味論上排除することを意図している。他方で、買い手にとっては、必要なのは、小麦の実質的使用価値であり、この実質的使用価値は、買い手が小麦粉を用いて料理する(パンを作るとか天ぷらの衣にするとか)など、そのモノが使用される文脈に依存してその意味が規定される。このような意味の文脈上の規定にとって、商品の商標名が不可欠であるとはかぎらない。小麦粉であれば何でもいい、という場合も珍しくない。買い手にとっての小麦粉一般と商品としての小麦粉との結び付きは、その実質的な使用価値をめぐる意味の文脈から導き出されるものだ(注8)。
 いつどこでどれだけの商品が売れたのかは資本にとっては大きな関心事だ。このことが、モノの具体的な意味を近代市場経済に固有の意味として規定し、これがモノの意味がになう一般的な性質の中心を占めるようになる。その背後にある具体的有用労働に担われた具体的意味は、買い手のなかで、意味の抽象化作用の階段を登って最も抽象的で一般的な意味を担う言語と結び付くことになる。つまり、労働生産物としての小麦粉は、この回路を通じて、買い手にとっての「小麦粉」になる。このように、「小麦粉」は、売り手にとっては、自社のブランドの固有名詞と同義であり、買い手にとっては、その意味の文脈に規定された直接的使用価値なのである。
 資本主義で、商品売買は、市場で商品が買い手に渡され、貨幣を売り手が受け取る時点で完結するという点については、支配的経済学とマルクス経済学の間に基本的な認識の差はない。結果として両者とも、パラマーケットと使用価値の意味をめぐる構造を念頭に置いたとき、市場経済が消費過程そのものであるかのように扱われることになる。
 経済学でいう市場は、空間的に明確な境界をもつ場所を意味していないにもかかわらず、「いちば」と同義とみなされて、日本語でも英語でも空間的な場としての「いちば」と、機能としての商品売買行為としての「市場(しじょう)」の本質的な違いはあまりきちんとは論じられてきていない。パラマーケットは、商品売買そのものと不可分一体ではなく、空間的にも時間的にも売買とは異る構造のなかで機能しながら、同時に市場の取引にとって不可欠な機能を果たすから、この両者の違いは大きい。

パラマーケットの変容

 伝統的なパラマーケットとは、市場の取引に付随して、市場にとって不可欠だがそのサービスを市場原理に即して対価を請求することができない、あるいはそうしないほうが資本にとって効果があるような情報データの流通回路だった(注9)。パラマーケットは商品の意味使用価値の形成を担い、直接的使用価値とともに使用価値そのものを支えるための回路であるという意味で、もっぱら情報データに関わるものといえた。マルクスは商品、貨幣、資本に対して、その所有者を単なる、これら市場の構成要素の人的な担い手にすぎないものとみなした。市場におけるモノの性質は人間に依存するのではなく、むしろ人と人との関係が物と物との関係として構築可能な物象化の世界を資本主義経済社会の基本的な性格とみなした。これが疎外論からの大きな転換とも解釈されたのだが、私は、むしろ、物象化は貫徹されることはできず、常に人間的な条件が残るところに資本主義の限界があることをこれまでも指摘してきた(注10)。労働者にとって労働力とは、労働への意欲の関数であり、労働の潜在的な可能性としてだけ存在するのであって、ここに労働者の抵抗の手掛かりもある。同様に、商品の売買過程が買い手の欲望を必須の条件としなければ成立しないということは、欲望を生成する使用価値の作用を把握できる理論的な枠組みが必要だということを意味している。
 使用価値の意味は、まさにこの点で買い手の欲望をターゲットにして構築されるものだ。大量散布型の広告であれターゲティング広告であれ、最終的な目標は、消費者個々人が「買う」という行動をとるように、消費者の欲望を操作しようとすることであり、この操作が、消費者の主観では「私」の欲望として感じとられるように、消費者の心理に組み込まれることが必要なのだ。パラマーケットは、もっぱらこうした消費者の心理に作用することも目的として生成された使用価値の意味が、商品本体とは別に伝達される回路だった。
 インターネット時代のパラマーケットは、この資本の回路に新たな機能を追加した。それは、意味の生成過程をインタラクティブに組み替え、同時に、これまでは推測の域を出なかった、個々の消費者を識別し、プライベートなデータに直接アクセスすることによって、欲望の操作をフィードバックのシステムになかに組み込もうとする機能である。マスとして没個性的な「大衆」を生み出すと批判された大衆消費社会とは逆に、インターネット時代のパラマーケットでは、人々は固有名詞をもった「個人」として個別化されたうえで、資本の都合に応じて柔軟にカテゴリー分けが可能な対象とされることによって、不確定な「消費」に対する柔軟性がある対応力を獲得するようになる。大衆消費社会の没個性、あるいは匿名性は、資本にとって本意だったわけではなく、情報処理技術の限界から消費者を数量化して「マス」として処理せざるをえなかったことにその原因がある。ここで核心となるのが、プライバシーの解体だ。パラマーケットはプライバシーの領域に風穴を開ける突破口となる。もともと資本の商品は、プライバシー空間を占領し、人々の私生活と日常を資本の物を通じて資本の意思に従属可能な外的環境世界として構築することまでは成功してきたが、コンピュータ・テクノロジー/コミュニケーション(CTC)に基づく支配的構造では、電力会社のスマートメーターやAIロボットなどIoTを組み込んだ生活手段がリアルタイムでプライベートな空間をモニター可能な装置となることによって、実際に個々の消費者の内面を解析し、行動を操作し、思いどおりにいかなければ何度でもプロファイルを再構築して思いどおりの結果になるように調整を繰り返すことが可能になった。
 パラマーケットは情報・コミュニケーションの回路が市場経済の取引に必要な機能として作用するところで成り立つ。パラマーケットと呼ばれるものが制度的に機能分化して存在するのではなく、コミュニケーションの回路のなかに、その他の様々なものと区別されないようにして入り込む。このことが、市場を介して調達されたモノが買い手の市場的なモノの編成のなかにシームレスに組み込まれて買い手の「生活」意識が構成される。市場で買ったもの、自分が作ったもの、他人からプレゼントされたもの、「私」のモノの来歴は様々だが、これらが渾然一体となって生活の意味空間を構成する。モノの意味は、来歴だけでなく、使用をめぐるモノの相互関係によって様々に変化する物語を構成する。資本にとっての関心は、こうした私生活のなかで自社の商品がどのような意味をもって消費されているのか、この消費を通じて消費者が再び自社の商品を買うという選択をするかどうかにあり、競合他社の商品を消費者が使用している場合は、どのようにしてこの競争相手を消費者の生活の場から排除するか、である。「排除」とは直接的使用価値だけでなく、その意味使用価値との結び付きを切り離し、その意味を希薄化させて否定的な意味へと追い込もうとする。こうした意味作用は、パラマーケットを通じて不断に繰り返される。それは広告によって組織的に展開される場合もあれば、口コミやSNSによる場合もある。モノの意味は直接的使用価値とは違って固定化しているわけではなく、コミュニケーションを通じて繰り返し生成され、さまざまなモノのとの関係づけの組み替えのなかで、その意味も変容する。この意味生成の「場」は市場の外で生じることだが、ここにパラマーケットが組み込まれていることによって、資本の介入が可能になる。20世紀がマスメディアを通じて実現したのは、この市場の外部の生活空間を制御する構造だった。 消費者は、このかぎりでは、商品の選択に関して、何が好きで何が嫌いかといった自己の感情の生成を商品のパッケージや広告といった可視的で知覚可能な情報を含む売り手とのコミュニケーションを通じて形成―再形成する。後述するように、CTCに媒介されたパラマーケットは、この知覚過程を迂回しながら消費者の情動に内発的な選好、内発的な意味生成であるかのような実感を生み出そうとする。
 問題は、生活の場にパラマーケットが組み込まれてモノの意味の生成の主体に資本が主要な機能を果たそうとする、その影響力の広がりである。資本は、市場での消費者の購買行動に影響を与えて自社の商品を買うように仕向けるだけでなく、生活の社会的な機能が〈労働力〉再生産にあることを踏まえてモノの意味を与えることが必要になる。生活を構成するモノの総体によって構成される生活の意味は、ライフスタイルとか生活様式とか、あるいは習慣や文化などと呼ばれるような、社会集団が全体として共有していると観念される共同性でもあり、これが〈労働力〉の担い手の意識の再生産を担う。モノの集合が意味を形成するわけだが、ここでのモノの意味は直接的使用価値や具体的な使用価値が指し示すいまここにある当のモノそのものを特定するような言語ではなく、こうしたモノを包摂する抽象的使用価値の言語である。ブランド名としてのモノではなく「小麦粉」「ハンバーガー」といった一般名詞であったり、「おいしい」「嬉しい」といった他のモノにもあてはまる感情表現であったりするような意味をになう言語の集合である。この集合の要素が相互にい結び付くあり方は、生活それ自身のなかでのモノが果たす機能や、フロイトが指摘したような無意識や「検閲」にも作用する。
 資本主義のなかで個人として構築されるアイデンティティの重要な核として、市場が供給する商品に随伴する抽象的な意味使用価値と具体的な直接的使用価値のある種の弁証法のなかで、資本の戦略としての直接的使用価値が意味使用価値を乗っ取り転倒させて、固有名詞としてのブランドによって一般名詞を代表させるような使用価値の物神性とでもいうべき現象をもたらすことが繰り返し試みられる。このような過程を含む生活の場での意味の集合が資本主義的な個人のアイデンティティが形成される。「私」が何者なのかは、生活を構成する無数の直接的使用価値が具体的・抽象的使用価値として「意味」世界に入り込み、抽象的な言語の意味内容を作り変える。意味するものと意味されるものとの相互関係を構築する社会的なコミュニケーション構造が資本主義では、資本によって編成される市場によって、そしてまた、この市場を通じて供給される〈労働力〉再生産過程での意味の構造によって規定される。言語の意味もその作用も資本主義的なそれとして歴史的に規定される。
 

図1

 
図の説明:消費者は常に、「意味使用価値」を通じてだけ商品の直接的使用価値と関わり、直接的使用価値それ自体に直接関わるのは、購買して実際にその商品を「消費」する時点である。しかし、そうであってもなお、消費の意味は意味使用価値に依存し、消費に伴う快感情もまた意味使用価値なしには決定されない。また、この意味使用価値の生産過程は、マルクスが資本の生産過程として定式化した生産手段と労働力の結合による新たな生産物の生産によっては論じることができないものでもある。意味使用価値としての生産物の生産は、物質的生産過程に還元できない。この問題は、人を対象とする非物質的生産過程にも関連するものとして、現代資本主義の身体性搾取にとって枢要となる。

選択の自由と操作的言語

 消費者は複数の商品からの選択の自由をもち、この自由に対して資本は消費者の行動をコミュニケーションの回路(パラマーケット)を通じて制御しようとする。制御とは消費者の意識に作用して、その行動の変容を促すことだから、資本の言語とは、常に操作的である。広告のような一方的なメッセージはその典型であり、これは、従来のマスメディアであれネット広告であれ、外形的には基本は変わらない。売り手と買い手の間の双方向のコミュニケーションとは対等な立場で、相互が同じ利害にたつコミュニケーションではなく、非対称なコミュニケーションであり、双方の思惑も同じではない。私たちは、買い手であることを市場ではほぼ強いられており、常に操作的なコミュニケーションに晒されていて、こうしたコミュニケーションを当たり前のものと感じている。大衆消費社会のなかで操作的コミュニケーションと広告の押し付けがましさへの問題が意識されるようになってきた。この構造は資本主義的な市場経済に固有のものであり、この固有性がコミュニケーションの性質を規定し、同時にコミュニケーションを通じて形成されるアイデンティティの構造にも影響すると考えていいだろう。
 ここで問題の中心をなすのはコミュニケーションだから、広義の意味での「言語」の機能が重要な役割を担うことになる。言語が他者に対して操作的であるかどうかは、文脈に依存する。たとえば「おなかが空いたね。ハンバーガーでも食べようか」「そうだね。マックにしようか」という会話が友人との間なのか、それともマクドナルドのコマーシャルの一シーンでの出来事なのかでは、この言語が果たすことが期待されている効果がまったく異なる。後者の場合は明らかに操作的な言語であることは広告の文脈から明らかだ。人はこの文脈を理解して操作的な言語表現の意味を組み立てる。この点で言語は、この言語が語られる言語以外の環境全体のなかでしかその意味を確定することができない。もし、そうだとすると、言語の操作性は言語の文法などの構造に依存するとはかぎらないことになる。資本が広告によって欲望を操作するような言語を含む表現を投げかけたときに、受け手の側がこれを、資本の意図に沿って解釈することができなければならない。広告の受け手が商品の固有名についての知識から市場での習慣や仕組みに至るまで、市場経済の言語と文法を知らなければ、操作的な言語はその機能を発揮できない。つまり、制度とそのルールへの理解が前提になる。そのうえで、情報の受け手は、このメッセージという刺激の「意味」を解釈するときに、操作的な言語だということを受け入れ、この刺激に対して情動を発動して購買欲求に繋げるかどうかを判断する。様々な欲望のなかでも「空腹」に焦点があてられ、さらに食べ物や食事といった一般的な使用価値のなかから「ハンバーガー」が選択され、このメッセージのそそのかしに乗るか拒否するかが判断される。市場は一般に消費者の欲望に関わるから、リビードのコントロールと結び付く以上、ここには、「検閲」が関与する。前章の大衆心理のありかたで述べた恋着や同一化が市場経済でも生じるが、市場で生じるこうした大衆心理ではモノへの恋着や同一化を媒介とした自己に回帰する同一化という特殊な構造をとる。ナルシシズムと呼ばれたりもするわけだが、商品を買うことを通じていまだ実現されていないその商品を使用することによって得られるだろう満足をイメージとして先取りする。このイメージはパラマーケットを通じたメッセージと自分自身が有する意味集合から生成される。消費者としての人間の側からすれば、自分の生活を構成している無数のモノは直接的使用価値の単なる集合ではない。これらが相互にどのように意味づけられて繋りをもつものなのかを直観や感性も含めた意識を通じて理解しうるものとして、その存在を認知している。「おいしい食べ物」といった一般化のなかに、マクドナルドのハンバーガーが登録されると、今度は、逆のルートを辿って、この一般化が個別具体性をもつ商品へと向かうようになると、消費者はリピーターになる。
 市場経済のなかで、言語が果たす役割、とりわけ売り手と買い手の間でのコミュニケーションは、人間相互の場合であれ、広告のメッセージによる場合であれ、最大限に操作的な性格をもってメッセージの受け手に作用することを意図したものになる。この言語環境は市場経済に固有のものだ。売り手は、商品を自分の意志だけで買い手に買わせることはできず、買い手は貨幣所有者としてどの商品を購買するのかについての主導権を握っている。言い換えれば、売り手の資本は、資本としての絶大な権力ももちながら、市場のなかでは、一介の消費者の行動を文字どおりの意味で自由にすることさえできない。だからこそ、消費者の行動を自由に制御するための力を、コミュニケーションを通じて発揮しようとする。このときに、資本がなすべきことは、自社の商品の意味使用価値がまとう具体的な意味に買い手を繋ぎとめることだが、繋ぎとめとは、買い手の情動を自社の商品にだけ接合し、他の商品を排除するような選択的な判断と行動を実践させるような方向づけをコミュニケーションのなかで実現することである。時間と空間によって一義的に規定される意味の具体性をまとった商品と貨幣との交換は、実際には、意味の抽象化作用を通じて、この具体的な意味が抽象的な意味のなかに位置付けられることを通じて、評価的な意味、つまり使用の価値性格が形成される。これは、直接的使用価値によっては成し遂げることができない使用価値の別の側面である。意味の抽象化を通じて、消費者はその意味をはじめて、意味という概念に即した内実をもって内面化できる。資本の使用価値をめぐるコミュニケーションがターゲットにするのは、買い手の抽象的意味使用価値の領域なのだ。言い換えれば、この個別具体的な商品をある種の普遍的な意味を担うカテゴリーの一角に押し込めるのである。こうした、たかが資本が金儲けために生み出したにすぎない使用価値が、買い手の生活のなかで、過剰な意味を担うものとなる。
 さらに、具体的な意味が抽象的な意味を乗っ取り、それ自体が抽象的な意味の地位を占めるようになる場合がでてくる。パソコンのプレゼンテーションソフトを「パワポ」(マイクロソフト社の商標名パワーポイントの略称)と呼んだり、オンライン会議を「ZOOM」と呼んだり、コピーを「ゼロックス」と呼ぶなどがそれだ。抽象的な言語の意味作用を言語の具体的な対象を指し示すための機能が代位する。多分市場経済の商品の意味使用価値の究極の目標は、自らの具体的な意味が抽象的一般的な意味の唯一の担い手になることだろう。マルクスが価値形態論で商品相互の交換関係を通じて、一般的等価物(貨幣)が社会的な共同作業として形成されるとした過程と同じ過程が、実は商品の使用価値世界でも繰り返されているのである。
 そしてさらにこの意味使用価値の生成過程は、生活過程そのものに及ぶ。販売の実現は意味使用価値の確定を意味しない。消費過程のなかで意味使用価値はその意味内容を変化させながら消費者に影響を与え続ける。実際の消費を通じて買い手は、購買した商品の意味を経験として実体化する。個別資本にとって、商品の使用価値は、「我が社の商品」としてその意味を構築することになるが、買い手にとっての意味使用価値は、当該商品を個別に取り出して、その意味を「消費」するわけではない。消費の文脈のなかでその商品の意味が様々に変容する。生活手段の集合は、ライフスタイルを構成する。ライフスタイルは生活を支える経済的な裏付けに左右されるだけでなく、価値観も反映する。総体としての生活手段集合のなかで個々の商品の意味使用価値が規定されるという点からすると、意味の二重性は、常に一致することはありえないとみるべきだろう。同時に、この生活手段集合こそが〈労働力〉再生産が担う具体的な〈労働力〉の「質」を規定するものにもなる。〈労働力〉再生産は、単に、労働者の肉体的・生理的な労働能力の維持だけでなく、「働く意味」を形成する重要な要素の一つとなる。言い換えれば、労働者のパーソナリティ形成の一翼を担うことでもある。 資本主義のイデオロギー作用は、こうした商品の意味使用価値が果たす買い手の意識への作用を抜きにしては論じることはできない(注11)。
 市場における操作的な言語は、教会や軍隊のなかでのコミュニケーションが生み出すだろう恋着や同一化と同様、商品の使用価値に対するある種のフェティシズムをもたらすのだが、このフェティシズムは、イデオロギー一般と同じく、単純な外部注入ではなく、モノの意味の文脈化を可能にする買い手としての「私」の(無意識を含む)意識との共同作業になる。
 以上の点を踏まえて、インターネットとコンピューター・コミュニケーションが支配的になる前と後でどのような本質的な違いが生まれているのかをやや図式的になるが整理しておこう。
 前述のように、具体性の世界、つまり人間が実空間のなかで「私」と呼ばれる身体的な実体をもって存在しているかぎり、この意味での私は、その身体性に制約された時間と空間の座標のなかに必ず位置づく。ある瞬間に存在する世界における私の場所は唯一の場所を占めるものとしての「私」である。この「私」は、同時に、実空間のなかでは、単純な同心円状の関係を形成する。最も親密な関係から、最も縁遠い未知の人々との、“関係”と表現していいのかさえ不明な関係までの広がりである。図式的にいえば、家族、友人、地域や学校、職場、そして都市空間で出会う誰かもわからぬ多くの人々がこの同心円のどこかにプロットされる。最も親密な関係が家族だというわけでは必ずしもない。家族との関係が最悪な場合には、物理的な距離の近さが、逆に関係を悪化させることになり、むしろ友人関係のほうがより親密だったりもする。こうしたこと自体が、私の身体性が物理的空間との関係のなかで、位置づいているからこそ生じる問題であり、同時に、家族制度や家族の権力関係に内在する矛盾や軋轢がもたらす問題でもある。こうした場合、「私」は親密な関係の再構築を試みる。既存の同心円に対して、これとは別の同心円の構造を持ち込もうと闘うことになる。いずれの場合も、同心円の構造そのものが揺らぐわけではなく、矛盾を通じて、同心円の再構成が試みられるというにすぎない。
 このような同心円がどのような範疇によって形成されるのかは、社会の歴史的な性格によって規定される。市場経済と国民国家という社会の枠組みをもつ現代資本主義は、この社会に固有の同心円の構造を人々の実空間のなかに形成することになる。そして人々は主として、空間のなかでこの同心円を知覚することができるから、人々は社会の秩序との関わりを意識的に理解する。

図2

 これまでたびたび論じてきたマスメディアやパラマーケットは、この実空間の構成のなかで、いわば、この同心円に対して楔を打ち込むようにして入り込むことによって、私の身体性に直接作用しようとしてきた。しかし、同時に私は様々なレベルでのコミュニケーションを通じて、メディアやパラマーケットを流れるコミュニケーションの「意味」の解釈を確立させようとする。メディア研究で論じられてきたように、人々はマスメディアを一方的に信じたり受け入れるわけではなく、親密な関係をもち信頼を寄せる人達の評価に左右されながらメディアの言説を受け入れる。広告のような商品情報は、物理的空間のなかで、実際の生活を通じて経験されるモノとの関係という経験も含めて解釈される。こうしたメディアとパラマーケットの情報は政治や社会などに及ぶが、基本的な解釈と受容の構造は同じだ。この構造は、現在のインターネットとコンピューター・コミュニケーションが支配的な世界では次第に解体されつつある。

4-3 空間の解体

プライバシーと空間 

 プライバシーは空間的な概念として成立した歴史的な経緯はよく知られている(注12)。他人に干渉されずに一人にしておいてもらう権利としてのプライバシーと、土地や建物の私的所有や占有の権利とは不可分の関係にあった。私の「場所」を私的所有や占有の権利がある空間として特定できるルールが確立することが前提であり、余所者の侵入を違法とし、国家権力による介入を例外として認めるための面倒な手続き(裁判所による捜索令状などの発付手続きによってだけ私権を制約できるとするのが近代法の基本原則だろう)も空間=場所への権利と不可分といえた。資本主義的な共有の空間として「公共空間」が論じられる場合も、プライバシー空間と資本や国家の占有空間の間にあるものとして「公共性」「公共圏」と呼ぶとしても、現実の地理的な空間のなかに「公共」と呼びうるものを実体化する存在――公園や路上、公共施設など――が不可欠なものとしてイメージされており、現実の公共的な場所なくして公共の実体もまた維持できないものであることはほぼ確実なことだった(注13)。
 場所を私的に囲い込むことによって排他的に自分だけの空間を確保して他人から覗かれないで一人にしておかれる権利を物理的に確保するという、このプライバシー権を保障する物理的環境は、二つの前提条件によって確保された。ひとつは空間の私的所有の確立である。土地の商品化といってもいい。この排他的な権利は、他者の侵入を違法とする法規範を通じて正当化される。もうひとつの条件は、この排他的な空間の占有や所有を侵害しないでプライバシーで保護されている場所を覗く技術がない、ということだ。後者については、遠距離の内密な通信のような場合に、通信の当事者がプライベートな空間にいたとしても、通信経路はこのプライバシー空間の外部にあり、プライバシー権を空間の所有や占有だけで保護することができないという問題が生じることになる。手紙は配送の途中で盗み見される危険性があったし、19世紀に発明された電信、そして電話もまた、回線が盗聴されるリスクが常にあった。言い換えれば、プライバシー権は、その出発点から決定的な脆弱性をもっていて、それが遠距離のコミュニケーションでは顕著だった。そして、この遠距離通信のリスクはインターネットの時代になっても変わることなく、脆弱なままなのだ。 この脆弱性を回避する唯一の手段はメッセージの暗号化だ。この問題については本連載のあとの章で言及する予定だ。
 空間を時間の関数だとみなすと、電話や電波による通信であれインターネットであれ、人間の身体感覚からするとほぼリアルタイムでのコミュニケーションが遠距離間で可能になることによって、空間の構造は明らかな変容を遂げた。物理的な空間は、この空間を移動するための技術によって大きく変容する。サイバースペースの広がりは、地理的・物理的な空間の属性のように時間によっては定義することができない。サイバースペースの大きさを測るには、移動に要する時間ではなく、ビット(あるいはバイト)で測定されるデータの大きさと、コンピューターのデータ処理能力だったりする。つまり、技術に依存する人工的な場所だが、これをスペースとみなすとき、そこには私たちが知覚する空間との類推がひそかに入り込む。サイバースペースの大きさは、誰にとっても同じではない。実空間のように入れる場所と入れない場所があるだけでなく、通信の回路は実空間の道路以上に、不平等であり選択的でもあるのだが、この人工的な不平等をあたかも「自然」なコミュニケーション環境だとみせかけようとする力がはたらく。人と人との直接のコミュニケーションが「自然」な関係に属していることが通信でのコミュニケーションの自然感覚を支え、直筆の手紙がメールやSNSのメッセージになっても、このコミュニケーションの自然感覚は維持される。機械によって擬似的に形成されたコミュニケーションが「場所」=スペースとして意識されることによって、これが視覚的に構成されると、コンピューターがディスプレー上に描き出す空間が本物の空間を凌駕して知覚に作用するようになる。仮想の空間はCTCの特徴ではない。人類の歴史を通じて、人間は、視覚によっては把握できない「空間」を脳の作用として自律的に生み出してきた。発話は単なる音声記号ではなく知覚作用をもつし、小説を読むことや、特徴的な匂いは視覚に作用するし、絵画は視覚に還元できない想像効果をもつ。
 実際の地理的空間上での行動をプロットすると、地図上の自宅、通勤経路、ショッピングエリア、職場、公共空間としての路上や公園など、場所ごとの色分けができる。それぞれの色に応じて私はその空間のなかで私の役割衣装を着替える。この構図は、私という人格を構成する重要な前提条件をなしており、一般に私という人格がただひとつの人格であるかのようにみなされがちだが、実際には私は複数の人格がひとつのものとして統合された存在でしかなく、しかもこの統合は理路整然とした繋がりによって一体となっているというよりも、生理的な身体に無理やりに繋ぎとめられているかのように、不安定で相互に摩擦や不具合をはらみながらなんとかひとつの存在として「私」が維持されているにすぎない。たぶん、私でさえ、この私の多面的なありかたを合理的に首尾一貫したものとして説明することは不可能だろう。
 

図3

 図3では伝統的な資本主義の典型的な空間構成のカテゴリーを円で示し、市場化の度合いを縦軸に、政府による干渉や介入の度合いを横軸に置いた。この図は、社会を構成する個人の立場に立ってプロットしたものだ。この場合、家族の空間のような親密な空間は、市場の外部にあり、同時に政府による直接の介入の外部にもあるので原点に最も近いところに配置される。これは、DVの場合を念頭に置くとわかるように、家父長制というこの図では明示的に示すことができていない条件に最も大きく影響されるだろう。路上や公園は利用の対価の支払いはなく、政府による規制も相対的に小さい。他方で、監獄は、市場原理がはたらきにくい一方で、ほぼ24時間看守によって監視される。赤い斜線が右上に移動するように描いているのは、時間の経過のなかで、市場化と政府による規制が拡大することを示している。こうした全体としての枠組に規定されながらそれぞれの場所ごとにそのルールを定めることが可能だ。縦軸の商品化の軸に沿ってみた場合、空間は商品化され私的所有に従属するから、空間の所有者の裁量が大きくなる。民間企業の職場は、この意味で資本の裁量が最大化する空間であり、逆に監獄は公権力の裁量が最大化する。いずれも、人々の個人としてのプライバシーも自由もわずかしか認められない空間になる。ショッピングモールや交通機関は、たとえそれらが民間あるいは公的機関の管理下にあるとしても場所における個人の自由あるいはプライバシーの権利は職場や監獄ほど小くはないといえる。
 監視をめぐる二つの権力、資本と国家――支配的構造――に対して諸個人が相対的に自由を確保するということは、この便宜的な図でいえば、原点に近ければ近いほど、この二つの条件だけに関していえば、自由度が高い空間になる。個人の自由は同時に個人がプライバシーを優先順位として高い位置に置くのか、それともプライバシー以外の権利を優先させるのかという選択の自由度が高いことを意味している。この図では、原点に近いところに、親密な人々によるか、あるいはまったく一人でいることが可能な空間を配置してある。こうした空間は支配的構造の直接支配を相対的に逃れている空間であればいいので、いわゆる家族のような制度を与件とする必要はない。 しかし先に触れたように、この図に家父長制の条件を加味した場合、まったく違う様相を示すだろう。プライバシーで保護され資本からも政府からも「自由」であるかのようにみられる家族や親密な空間でも暴力が存在し、これがプライバシーによって外部からの干渉が困難になる。
 斜め右上向きの矢印のように、空間の再開発が進展するにつれて全体が次第に原点から遠ざかる傾向をもつ。空間が支配的構造に管理されるとともに、原点に近い位置にあった親密な空間もまた右斜め方向へと移動する。図3を簡略化すると図4と図5のようになる。

図4
図5

 データがデジタル化されてビッグデータとしてコンピューターのアルゴリズムによって、その都度必要に応じて必要なデータの組み合わせが抽出されて使用されるようになると、監視を地理的な空間に沿って構造化することは意味がなくなる。図3で描いたようなカテゴリーごとの円を描くことは意味をなさなくなる(図4・5参照)。こうしてコンピューターの世界は、データの束としてすべての存在をネットワーク上にあるサーバーに溜め込むか、リアルタイムで生成されて短時間で消滅するような揮発性の高いデータとしてネットワーク上を移動しているといった類いのものを通じて、「サイバースペース」とみなされるような世界が描かれている。ハードディスクなどの記憶媒体のメモリ領域は「場所」といえば「場所」だが、こうした「場所」が実空間の「場所」に対応しているわけでは決してない。しかし、やっかいなのは、実際には物理的な場所も時間の流れも存在しないサイバースペースがコミュニケーションに介入することによって、実空間は歪みをもたらされることになる。私たちは、一方でSNSやウェブの情報に影響されながら実空間についてのイメージをそのつど作り替えながら実空間を移動したりする。空間の景観も実際の生身の人間関係もこうしたサイバスペース経由の情報によって影響を被るにもかかわらず、私たちは実空間の歪みを知覚できずに、素朴にこの「実空間」を疑わないまま受け入れてしまう。

図6

 それでは、こうした構造変化は監視社会との関係でどのような新たな問題を引き起すことになるのだろうか。第一に、監視の目的に沿って監視すべきターゲットを抽出し、ターゲットを再度ビッグデータをもとにして精査し、この段階で必要であれば実空間における監視のための手段が動員される、という実空間との相互作用のなかで監視社会が構成される。そもそも「サイバー」とか「リアル」といった二分法は現在の支配的構造における監視システムを説明するには適さない。CTCに基づく監視は、最終的には現実世界にいる私たちをターゲットにし、私たちのアナログの身体を標的にする。たとえば、アメリカ軍がドローンによってイラクにいる敵を攻撃する場合、現場のターゲットを現場でアメリカ軍兵士が実際に目視で確認するわけではない。データセットから一定のアルゴリズムによって抽出されたターゲットと実空間が交差するのは、ドローンを操縦する兵士がドローンのカメラを通じて目視する地上の映像だけだ。このときターゲットにされた人たちにできる回避策はほとんど存在しない。第二に、このプロセスの大半が(攻撃する側にあっても)知覚の外で起きる、ということだ。同じことは、スマートシティなどのような地理的空間をIoTと5Gネットワークなどによって網羅的に包囲する場合も基本は同じだ。コミュニティの主体であるはずの住民たちのコミュニケーションのなかに、人間の知覚では捉えられない別のコミュニケーションがまとわりつくようになる。こうした空間では民主主義的な議論が次第にその実態を奪われるようになる。住民の知覚しえない構造のなかで、討議の主体になりえないコンピューターがコミュニティの最適な「環境」を決定するからだ。
 こうしたデータによる網羅的な監視を前提としたターゲットの洗い出しが、これまで監視社会のわかりやすい事例とされた都市に配置された膨大な監視カメラのモニンタリングルームでの監視と異なるのは、不審なターゲットをモニタリングルームの監視員が発見したり、あるいは警報装置の作動で把握して、ターゲットを追いかける、というアナログではなく、あるカテゴリーで分類されたデータセットに該当するあらゆる人々を抽出して、そこから、ターゲットを予測するという方法をとっている点にある。まず最初に、監視カメラに怪しい人物が映し出されたことを監視員が発見したり、何か事件が置きたことで警察官が現場の物証を把握することで事件が構成されるということではなく、出来事に先立って、前科、住所、国籍、性別、職業、GPSやSNSなどのデータを組み合わせることによって、不審人物を人工的に構成して該当する者を監視する、という方法になる。この方法は、刑事司法の分野でいえば、令状主義の原則となる場所と被疑者を特定しての公権力の行使(家宅捜索などの強制捜査)が形骸化することを意味している。事実アメリカでは、こうしたデータによる網羅的な監視のための公権力の行使が先行する事例が発生している(注14)。
 ネットのコミュニケーションでは、実空間の同心円的な親密さのスケールが機能しない。だから、プライバシー空間のように、私の制御能力は限定的にしか機能しない。いわゆるプライバシー情報は「私」の管理下にはない。それは、私に帰属する空間が、実空間としては存在せず、仮想的にしか存在せず(多くの場合、私の能力や権限を超える)技術によってしか保護できないからだ。たとえば、SNSの「お友達」「フォロー」などの仕組みは、まったく未知の人たちと既知の親しい人たちの心理的距離をあいまいにする。サイト検索によってアクセス先を探す行為は、自分が住んでいる町の商店街を歩いたり、新聞や雑誌の情報から必要なモノを見つける行為と違って、キーワードを意識的に選択するという主体的な行為では、その結果として表示されるモノの位置や売り手と私との間の物理的な関係の構造が崩れる。ネットの大半の行動はパラマーケットを通じた行動になるが、そのほとんどをプラットホーム企業と呼ばれるGAFAなどが私たちから隠された仕組みを使って、私たちのデータを収集し解析することによって、これらを広告主や捜査機関などプラットーム企業のデータを利用しようとする者たちのニーズに応じてパッケージ化し、私たちの言動が監視や制御の対象にされる。私たちも小規模なビジネスを展開しようとすれば、こうしたビッグデータのお世話にならざるをえないだろうし、政治家たちも選挙に勝つためには、プライバシーの権利などおかまいなしにビッグデータにすがるようになる。
 しかも、ネットでの行動はビッグデータとして蓄積され、ターゲティング広告などによって、再帰的に「私」へとその情報が再構成されて返され、私の意識や行動に影響を与える。このフィードバックでは、「私」はデータ化され、このデータ化を元に、パラマーケットを介することによってコミュニケーションは、実空間の距離とは無関係な心理的な距離として私の内面で再現される。この一連の、どちらかといえば双方向を通じた「私」に対するパラマーケト経由の資本による制御のシステムが社会のコミュニケーション・システムの支配的な構造となりつつある。統治の伝統的な枠組のなかに「領土」があり、また人々の権利と権力の力が及ぶ範囲をめぐる権利と権力の関係の力学もまた「空間」によって表現されることが、経験的にも妥当な時代があった。しかしいまはそうではないのだ。

図7

 こうしたコミュニケーション構造を前提にしたとき、法的権利が及ばない領域が新たに形成される。法の限界は、権利を行使するためには、権利としての自覚をもつことが必要だという点にある。言い換えれば、権利侵害が自覚されない領域で進行していたとしても、そのことが発見されなければ、権利は侵害され続けるだけだ。プライバシーの権利も同様であり、だからこそ、プライバシーを意図的に侵害することを企図する者たちは、巧妙に侵害行為を隠蔽しながら遂行する。空間によって境界を区切ることができず、時間が防御の手段にもならないサイバースペースでは、プライバシーが実際にどのように侵害されているのかを知覚化することが困難なために、正確にプライバシーの「領域」が意識されることもまた困難になる。サイバースペースは、リアルタイムで通信をおこなうだけでなく、膨大な履歴や記録を蓄積することが可能でもある。可能性と現実性は別のことだが、この可能性を支配的構造は彼らにとっての利益に基づいて現実のものにする。こうして、私たちのコントロールの手を離れたサイバースペースは、従来であればプライバシーの権利として私たち自身が自らの力で保護することが可能だった事柄を私たちの意識が及ばない方法によって私たちのプライバシーを蓄積する場所として利用されている。
 サイバースペースのなかでは、時間はタイムスタンプとして、逐一記録可能であり、また消去も可能であり、さらには、特定の人にしかアクセスできないか理解できないような方法(暗号化)でデータを保持することも可能である。こうしたデータは、実空間を流れる時間のように一方向ではなく、タイムスタンプは押されていても、その並び順は、一義的ではない。ネットで検索してソートする場合の並び替えのように、古い順、新しい順、カテゴリー順などなどプログラムに応じて表示を変更できる。
 こうしたソートによる時間の柔軟な組み替えは、アナログのデータに対しても可能だが、その場合には膨大なカードを作成して、それを、組み替えるための面倒な作業が必要になる。検索エンジンを用いて膨大なデータのなかからキーワードによって抽出されたものを読む行為を通じて、時間は変容する。この変容は自律しているのではなく、実空間にいるわたしと接続することではじめて「意味」を生成することになる。だが、問題の核心は、こうして形成された「意味」は、誰が生み出したものなのかというところにある。人間が作成した分類カードとは違い、ここには分類の技法をめぐるブラックボックスが存在する。つまり一定の方法でコンピューター・アルゴリズムを介して収集されたデータセットや、このデータセットを処理するアルゴリズムに「意味」が依存するということだ。そしてこの「意味」によって私の理解、あるいは世界についての「意味」そのものが変容してしまう。私の思考や判断は、誰か他の人間とのコミュニケーションによって生成されたのだといえるのだろうか。先に「おなかが空いたね。ハンバーガーでも食べようか」「そうだね。マックにしようか」という会話が友人との間なのか、それともマクドナルドのコマーシャルの一シーンでの出来事なのかでは、この言語が果たすことが期待されている効果がまったく異なると書いた。しかし、会話の相手がAIのロボットだったとすると、どうだろうか。この場合、私は操作的な言語の罠を自覚的に認識できなくなる可能性が高くなる。つまり、AIロボットを人間とみなして会話することに躊躇しなくなる。情けないことに、こうした人たちが社会の大半を占めるようになるのは間近だろう。
 こうしてコンピューターの世界は、データの束としてすべての存在をネットワーク上にあるサーバーに溜め込むか、リアルタイムで生成されて短時間で消滅するような揮発性の高いデータとしてネットワーク上を移動しているといった類いのものを通じて、「サイバースペース」とみなされるような世界が描かれているのであって、スペースが実際に存在するわけではない。ハードディスクなどの記憶媒体のメモリ領域を「場所」といえば「場所」だが、こうした「場所」が実空間の「場所」に対応しているわけでは決してない。しかし、やっかいなのは、実際には物理的な場所も時間の流れも存在しないサイバースペースが介入しているにもかかわらず、私たちは実空間の歪みを知覚できずに、素朴にこの「実空間」もどきを疑わないまま受け入れてしまう。

空間の配置とパラマーケット

 資本主義に限らず、社会の支配が究極で実現しなければならないのは、社会の既存の秩序を前提として、その構成員の言動を制御することだ。この目的はたぶん、どのような社会にも共通する目的である。社会が歴史的に異なる構成をもつのは、この目的を実現するために社会がとりうる選択肢が一つではないということの現れだが、近代社会としての資本主義は、この目的を市場経済と国民国家というマクロな制度と、家族制度というミクロな制度によって構成しようとしてきた。これが人類史でベストな解決法でもなければ、これで人類の歴史の終着点に辿りついたわけでもない。家族、市民社会、国家というヘーゲルの見立てとこれを批判的に継承したマルクスの枠組みを私はその限りで受け継いではいるが、その意味内容は同じではない。とくに、本書の観点との関連でいえば、こうした制度が空間的なカテゴリー――小は自分のプライベートな場所から大は国境で区切られた「領土」まで――でもあることに注目したい。ここに個人の自由と平等といった理念を実現するためには、空間的な前提が必要だということが含意されている。近代の都市が市場経済と結合して形成されてきた自由や、民主主義を成り立たせる空間へのアクセスの平等(都市への権利)は、空間概念の重要性を示している。
 空間の配置は、いわゆるサイバースペースの形成によって、完全に別物になった。通信は、「交通Verker、traffic」概念に含まれうるとしても、空間との関係でいうと、電気通信が支配的になって以降、空間の特性としての時間の条件が「リアルタイム」を基準に据えて、そこからの遅れが「遅延」とみなされるように、時間に規定されない空間が理想のモデルとなるという奇妙な空間がサイバースペースの特徴となった(注15)。同時に、テレワークやオンライン授業のように、プライベートな空間が職場や学校のような自分に空間の管理権のない場所にリアルタイムに繋がるということは、プライベートな空間が職場や学校の管理空間に空間の隔たりを超えて統合され、その結果として、プライバシーの権利そのものが成立しにくくなる。従来のプライバシーの権利を保障していた空間的な距離と、それに伴う時間という壁が解体した。
 パラマーケットは商品売買そのものではないにもかかわらず、商品売買と有機的に結合して資本の生産過程と不可分一体化して、資本が明示的に構築する商品の意味の流通回路として、商品の意味使用価値を担う。コンピューター・コミュニケーションもまた市場の商品売買過程と不可分かつ不可欠でありながら、むしろ機械相互のコミュニケーションによって形成されるデータの集合からなる非知覚過程を構成する。パラマーケットと非知覚過程、そしてこれらを通じて再帰的にかつ常に消費過程そのものに密着しながら消費の意味を変容させようとして資本の監視下に置き続けられる商品の意味使用価値が消費者の生活そのものと区別をつけることが難しいものとなる。こうした生活世界の資本による実質的な包摂の構造が組み上がり、人間の意識を取り囲む内堀が埋められることになる。プライバシーの空間的防御はもはや意味をなさない。
 市場で商品が消費者とアクセスするとき、使用価値の意味構造は、直接的使用価値と意味使用価値、そして非知覚過程の機械的なフィードバックから構成される。だからといって、使用価値の意味構造は、社会構造のなかに局所的に存在して実証可能だというわけではない。使用価値は、非知覚過程を含めて全体として機能するからだ。広告などの市場のコミュニケーションは、それなしにでも商品の直接的使用価値の「モノ」それ自体は成り立つが、コンピューター・プログラムが商品の直接的使用価値の一部を構成するようになった商品(消費者向けでいえば、パソコン、スマートフォンなどからAIロボットやスマートメータなどのIoTやオンライン機能をもつゲーム機など)は、プログラムや通信機能なしには機能しない。しかし、このプログラムや通信機能そのものは、広告イメージによって消費者の欲望を喚起することはあっても、そのどこまでが直接的使用価値を正確に反映しているのかはもはや明確ではない。たとえばスマートフォンのGPS機能は、いまいる場所を知りたいときに教えてくれる機能としてユーザーのニーズに対応する機能かもしれないが、この位置データがGoogleのビッグデータの一部となってAIによる解析の資源となることは、消費者のニーズと対応しないだろう。ズボフが「剰余」として指摘したような性格がついてまわることになる。GPSはスマホの使用者の意図(消費者としての自覚的な消費行動)とは相対的に無関係に機能することができる。あるいは、OSを提供する企業(マイクロソフトやアップルなど)は、OSのセキュリティ・アップデートなどの自動更新を実施することができるように、ユーザーのデバイスにアクセス可能な仕組みをもっている。これは購入した自動車の車検の仕組みと似ているが、決定的な違いは、車検が市場でのサービスとして商品化されているのに対して、ソフトウェアのアップデートは通常支払いは発生せず、市場の外部で機能する、つまり、直感的には「タダ」でおこなわれているようにみなされるということだ。コンピューターを内蔵したデバイスの場合、消費者が何を「消費」しているのかが直感的に把握できない膨大な領域が存在している。そして、消費者の立場で判断する場合と、何らかの方法で製品の行動を追跡したりする機能を組み込んだりする商品のメーカーの立場で判断する場合とでは、「消費」の意味はまったく異なる。消費過程は、資本から独立した広い意味でのプライベートな行為ではもはやなく、むしろ資本による生産過程の延長になっている。消費過程とは〈労働力〉の再生産過程のことだから、資本はようやく〈労働力〉再生産過程を包摂するための技術的な道筋をつけはじめたともいえる。この点で、コンピューター・コミュニケーションが生活過程で関与する主体が資本なのか、政府なのか、それとも私たちなのかで、生活過程そのものに本質的な違いが生まれる。この場合でも、消費者/ユーザーが自らの行動を総体として知覚―意識の層で把握できない非知覚過程のなかで意味の構築がおこなわれる。貨幣が介在しない領域が非知覚過程とパラマーケットを介して支配的構造に私たちの私生活を直接・間接に組み込むことになるが、しかし、他方で、私たちはある種の主体として、この生活過程が支配構造との間に構築してきた回路を遮断してオルタナティブな回路を構築することは、マスメディアによる大量散布に時代に比べると、その可能性はむしろ拡がっており、いくつもの選択肢が可能な段階にある。

資本主義における自己同一性

 たとえば、携帯の交通系アプリで自動改札を通過するとき、私が改札を通過できるのは、私の生身の存在ではなく携帯のアプリと改札のマシンとの間のデータ通信によって支払いの確認をとるからだが、このデータのやりとりには、私にとってはプライバシーに属するかもしれないクレジットカードの支払いや金融機関との取り引きや、あるいは交通機関の利用履歴なども含まれる。これらは、実空間でいえば、かつてはバラバラのプライベートな場所に個人情報として保管されていたものなのだが、これらが束になって公共空間のなかに差し挟まれることになる。しかし、こうした事態が引き起こす空間の歪みを私は知覚できない。
 あるいは、たとえば、職場に出勤した労働者は、自宅にいる自分とは別のアイデンティティで仕事をする。このことが端的に示されるのが、「私」がどのように呼ばれているのかとか、社員証や名札、あるいは工場や店舗などで着用する制服などだ。こうした一連のアイテムが私が何者であるかを知覚的に構成している。「同じ」私が自宅やプライべートな場所でくつろぐとき、私服に着替え、私についての呼称も親しみを込めたものになる。そして、通勤の途中や買い物での私はこのいずれとも違い、ほとんどのすれ違う人々は私の名前も住所や職場のことも知らない「他人」として、ほんのわずかの時間を共有するだけだ。私が、労働組合の集会に参加したり、デモに参加するといった活動をするときには、たぶん周囲にいる多くの人たちは私について、名前とかこれまでの活動ぶりとかを知っているかもしれない。ここでは「私」は単なる労働者ではなく、闘う労働者としてのアイデンティティをもって人々との関係を構築している。こうした空間的な切り分けが「私」というアイデンティティの重層的で複数の存在を支えていた。しかし、ここに、顔認識機能を備えた監視カメラが設置され、データベースを照合するような事態になると、空間による切り分けは意味をなさなくなる。つまり、空間は「私」を防御するシールド――これは私が知覚可能だからこそシールドとしての機能を果たすことができる――の役割を果たせなくなる。この複数のアイデンティティを串刺しするようにデータの新たな流れが構築されると、この流れを誰が何の目的で利用するのかよって、「私」の社会的存在そのものが変化する。にもかかわらず、多くの場合、私は、この空間の歪みがもたらす「私」の変化を知覚できず、相変らず、私は空間によって私のアイデンティティの複数性を使い分けることが可能だと感じてしまう。
 私がこの不安定な自己同一性の弁証法的な不統一の統一として存在するという問題は、資本の観点からみたときには別の光景が広がる。資本にとって、私は〈労働力〉というコストであり雇用契約の契約相手である。その限りでの私が資本にとっての私のすべてである。だからこそ逆に資本にとっての余計な要素こそ、私にとっては重要な武器になる。同様に、国家にとっての私は、国民としての私か、あるいは、外国籍であれば、国民としての権利や資格から排除された私である。誰もが、そのいずれかとして、私なるものを構築する。国家にとっては、この意味での「私」とは、権力の正統性を維持するために制御すべき対象である。こうした目的に、コンピューターの技術は、市場であれ統治機構であれ、領域を選ばずに共通の土台を提供する。経済だけでなく政治や文化といった領域まで横断して共通の技術が用いられるような事態は、人類史上なかったことだ。
 自分が自分である、という自己認識は多かれ少なかれ誰もがもっているハズのものだが、実感として、また直感的に私が認識する「私」という存在が、何なのかということになると、容易には説明しがたい。このことは、「私」を根拠づける確たるものの確証を私ではない第三者による確認、認証、承認などといったものによって「客観化」しようとする動機を生み出す。このこと自体は、たぶん人間が社会的な存在としての自己を一つの統一的な社会的役割に収斂させることができない複雑な社会を構成するにつれて生じてきたことだという面でいえば、いわゆる文明などと呼ばれるような巨大な社会組織の登場にまで遡れるものかもしれない。他方でアルカイックな社会では、多くの場合、人々の自己同一性は、年齢、性別に伴う役割の変化と親族構造のなかの位置によって、ほぼ固定されるように見える。このことは、アルカイックな社会が単純で理解しやすいという意味とはまったく別のことであって、文明の眼差しからすると、そのように単純にしか見えないとして軽視するのは、文明を鼻にかける進歩主義者の自己満足にすぎないのであって、実際には彼らの世界観や経験は非常に複雑だ。とはいえ重要なことは文明という没歴史的な概念に、この自己同一性の脆弱性を還元するのではなく、歴史的な構造のなかで、その特殊な自己同一性の脆弱なあり方を位置づけて、その矛盾と問題とともに、それぞれの歴史的社会に固有の矛盾の一時的な解決の方法とその限界を見定めることが必要だ。
 資本主義における自己同一性の脆弱さは、人々の生存のシステムそのものが複数の断層に沿って分断されながら、この分断を日常的に抱え込みながら日々を生きざるをえないというシステムの限界に伴って生じている。朝起きた私、通勤する私、会社で仕事する私、ショッピングする私、アクティビストとして活動する私、友人と酒を呑む私、こうした私の様々な局面を「私」という抽象的な存在がひとつのものとして統合しているわけだが、この「私」の抽象性という本質はほとんど自覚されることはなく、むしろ「私」はこの私に固有の風貌に端的に表現されているように具体的な存在だとみなされている。抽象的であること、具体的であること、そして社会のなかで様々な役割を交互に、あるいは重複して演じることとの間の構造と関係は、資本主義社会の構造そのものによってあらかじめ規定されている。そしてこの既定性が、私というパーソナリティの形成に関わることになる。
 抽象的な私は、本源的な私ではなく、社会システムが抽象に基づく複数の私のあり方を統一するための「方法」であって、抽象的な私の存在そのものが近代という社会の構築物である。個別具体的で時間と空間に限定された私を超える抽象的な私に対応する私の条件をなすものも構築される。こうした複数の個別的な私を繋ぐ私として、あるときは民族的な同一性が、またあるときは国民的な同一性が、そしてまたあるときは階級的な同一性やジェンダーの同一性が主張され、これらが同一性のメタレベルでのヘゲモニー構造を形成する。この領域そのものが政治的な闘争の枠組みをなしている。この生ぐさい領域を哲学は抽象的な人間を対象に、また古代ギリシャの哲学などを参照することを通じて脱臭してしまう。マルクスが終生闘ったのは、こうした哲学の機能を反動的で資本主義の支配的秩序に加担するものだと批判して、現実世界の変革を主張した。具体性はカール・コルシュが主張したように、それ自体が弁証法的でありかつ哲学に敵対する哲学だった。
 言うまでもなく、データ化された私は「私」そのものではない。このデータ化された私の外部に、私という主体を構成する核となる部分が存在する。この核は、決してデータ化されることはないが、しかしデータ化された私の部分を介してパラマーケットと相互の関係をとることを通じて、核そのものの変容ももたらされる。この変容は、人間に固有のフェテシズムと密接な関係をとる。パラマーケットが出来の悪いAIや機械学習などの仕組みによってますます影響を受けるだけでなく、このAIにフェティイシュな同調行動をとることによって、「私」にとって最も親密な位置を占めることになったパラマーケットの、とりわけSNSなどでのコミュニケーションを通じて構成される「世界」を「世界」そのものとして感じるようになる。そして、データ化された「私」を、私が、それこそが私そのものだと認知してしまう。こうして「私」はデータ化された私を予測して私を作り替えようともがくようになる。いかなるメカニズムを内包しているのかは謎のままだとしてもデータセットが私になるという転倒が生じることになる。
 データ化された私が私の自己同一性を規定し、私を乗っ取るのであれば、伝統的な監視社会が描くような画一的な人間モデルが支配的になり、私は限りなく社会の倫理規範を内面化した存在へと向かってもよさそうなものだ。しかし、ある面では、逆のようにみえる現象が起きる。
 人間の世界理解は、知識人や思想家たちのそれを別にすれば、多くの場合、先に述べたように、実世界で「私」を中心に同心円的に描くことができる人間関係と空間との関わりを通じて、形成される比較的単純な仕組みを基礎にしてきた。この仕組みが、コンピューターネットワーク上のSNSなどにとってかわられたときに、人々が心理的に経験することが可能な「世界」もまた、明らかな変容を遂げることになる。フェイクニュースや「ポストトゥルース」と呼ばれるような世界がSNSによって突然登場したわけではない。これまで、マスメディアや公的な教育、科学的に世界認識の背後に、むしろ親密な空間のなかで密かに流通していた世界理解の不合理な側面や荒唐無稽な理解が、もはや幾重にも重ねられた実空間のコミュニケーションのレイヤーに妨げられることなく、一挙にサイバースペースに拡散しうる構造が登場したにすぎない。もはや、お行儀がいいよそ行きの言説で自分の内面にある偏見やおぞましい欲望をごく親しい人たちにだけ吐露する必要はなく、誰とはわからないが、「お友達」になった人たちと共有することができるようになったというだけだ。
 問題は、近代の規範ともいえる人権や平等の理念が脆弱なまま放置され、なぜ親密な空間のなかで不合理で偏見に満ちた感情や暴力が横溢してしまったのか、である。こうした感情の根強さは、それが人間の本性に根差しているからではなく、それが近代の支配的構造の本性に内在する非合理性に根差しているからだというのが私の主張したいことになる。
 資本主義は、合理主義と非合理主義を一つのシステムを支える両面としてもつ(注16)。計算合理性や道具的理性など、資本による機械化からコンピューター科学までが一貫して、その基盤に据えてきた世界は、それ自体としてはその目的を内在的に創出することはできない。言い換えれば、資本には社会を形成する理念が内在していない。あるのは、最大限利潤を追求する商品経済的富の世界だけだ。この世界では、人間は〈労働力〉として常に機械に代替される潜在的排除の対象でしかない。これでは社会を統治する政治を実現できない。近代の理念を自由と平等という価値に基づくものだと仮定しよう。この二つの価値は、市場経済における競争をめぐる自由と平等という限られた条件のなかで資本が受け入れるにすぎないものであって、労働者の自由や、労働者が資本家とともに企業組織のなかで平等の権利を保持すべきだといった考え方はもたない。なぜなら〈労働力〉は商品だからだ。
 他方で、資本主義の世界観は、こうした市場の合理主義の世界からは導出できない。そもそも市場は共同体の外部にあって、共同体と共同体の「あいだ」に形成されるものであって、共同体をそれ自身として組織化することはできない。だから国家が必要になるわけだが、では国家の理念はといえば、それが自由と平等を徹底させた存在であったためしはない。なぜならば、国家は権力の制度でありイデオロギーだからだ。権力であることと、自由と平等の存在とは共存できないからだ。もちろん哲学者の頭のなかには、いくらでもその理念を体現する国家の観念は形成可能だが、現実の世界では、これは可能ではない。むしろ国家は本質的にイデオロギー的な存在であり、また、イデオロギーはその本質で非合理であることによって、科学や法の世界に収斂することのできないところにその意義がある。言い換えれば、科学も法も、その合理性をそれ自体によって成り立たせるものではなく、この合理性に社会にとっての意味づけを与えうるのは、社会の正統性の言説、つまり広義の意味でのイデオロギーである。イデオロギーでは、権力者が自由と平等の体現者を演じることに何の不都合もない。他方で、イデオロギーなき科学や法もまた存在しない。なぜならば、資本主義のなかで暮らす私たちが「商品」や「貨幣」のフェティシズムに気づくことは実は決して容易ではないし、日常生活でフェティシズムを受け入れることなしには生活そのものが成り立たない。このフェティシズムを前提にして、道具主義的な科学的合理性に基づいて商品開発がなされ、工場が稼動する。こうして、フェティシズムそのものが、資本主義の意味の世界を、あるいはまたイデオロギーを構成すること通じて、商品の生産過程を支え、消費生活を支え、労働者は「国民」としての文化的一体性を内面化し、資本の利潤と国家の正統性を支えるというある種の転倒に根拠を与えることになる。

4-4 非知覚過程

モノの回路とコミュニーションの回路

 資本による人間に対する予測や制御は、機械化の時代から一貫して資本が追求してきた人間を支配するための人間理解の基本にあったものだ。この点は19世紀であれ21世紀であれ変わらない。しかし、コンピューターによる予測―制御の高度化は、この目的を、支配的構造による一方通行の過程ではなく、その結果がフィードバックされ、調整され、より確度が高い予測と制御の実現へと向かうように国民〈労働力〉の行動の直接制御を実現する方向で技術のイノベーションを促しているのだが、この過程では二つのことが起きている。ひとつは、資本が予測―制御の対象としている人間についての「意味」の生成である。「意味」はあらかじめ固定された与件として生成されるのではなく、そのときどきの目的に沿ってそのつど生成される。同時に、日常的に追加されるデータによって「意味」生成の前提となるデータベースが更新され、人々の行動の結果もまたフィードバックされる。しかし、他方で、こうした柔軟性がある予測と制御――資本主義的レジリエンス――を通じて国民的〈労働力〉を再生産するという構造そのものは、近代という歴史的な時代を一貫する。人間の社会的な存在としての「意味」もまた資本にとっての意味であり国家にとっての意味をまとうものとしての人間がその存在理由の核心を構成することになる。膨大なデータベースを前提にして構築されるプロファイリングは、テンポラリーに目的に応じて人間を動機づけ行動に駆りたて、自分がとる行動についての意味づけを(曲りなりにも)自己確認しようと努め、こうして行為の意味があたかも自分の内面から生成したかのように感じられるようになる。
 意味生成の過程を個人に即してみた場合、最初から支配的構造の意味を内面化した存在として個人が生成されるわけではない。意味は重層的かつ相互に干渉し矛盾しあう幾重にも折り重なったものとしてあり、これが次第に支配的構造の意味へと収斂しながらこれに抵触する様々な意味を抑圧し、ときには無意識へと追放する。この過程は弁証法的な意味構造であって、これが人間の行為や思考、感情、意識下あるいは無意識に内在する矛盾した理解の同時協働的作用をもたらすのであって、こうした過程を通じて行為や発話として表出する振る舞いは、行動科学が想定しコンピューターが予測―制御することを通じて実現したとみなす人間の振る舞いとは、結果が同じであっても、そのメカニズムはまったく異なるものだ。
 資本を中心に構成される意味の世界はパラマーケットを通じたコミュニケーションの複雑で混沌とした領域に依存するが、同時に、人々の私生活を資本の商品によって埋め尽すことによって、商品の使用価値の意味作用もまた人々の世界観や行動を左右するために、予測―制御の過程は複合的になる。商品の直接的使用価値、つまりモノそれ自体が否応なしに人間との関係のなかで、人間の側にもたらす意味と、パラマーケットを通じて人間が重層的なコミュニケーションを通じて構築する意味、この二つの意味が交差する座標軸が、とりあえず支配的構造が人間との接点を通じて主導権をとって生成する意味の場になる。CTC分野の資本は、データを大量に抽出して、さまざまなニーズに応じるプロファイリングを可能にするが、他方で、こうしたデータをもとに組み立てられた「私」に還元できない文字どおりの意味での私が、こうしたデータの抽出に対してどのように向き合う(対峙する)か、という別の問題が生じるのも、この交点でである。かつてマルクスは剰余労働を資本が搾取することによって引き起こされる問題、とりわけ労働者階級の貧困の問題を、抽象的人間労働と商品経済的な価値という量の問題に焦点を当てて資本主義批判として組み立てた。この批判は間違いではないが、限界があった。その限界が使用価値論の分析の不十分さにあった。資本主義的な商品の使用価値が素朴で単純な時代でしかなかった19世紀には、複雑で高度に発達した現代の使用価値の世界を予想することは不可能だったから、マルクスのこの限界を補う使命は私たちがなすべき課題である。市場で売買される直接的使用価値と、パラマーケットが生成する矛盾に満ちた錯綜し混沌としたコミュニケーションの場を通じて生成される意味の重層的なレイヤーによって形成される意味使用価値は、いずれにせよ、これらを受け止める主体である私たち一人ひとりのなかに生成される。これが、資本による具体的有用労働の意味の剥奪と再構築という問題であり、労働とされる人間の行為の総体――必要労働であれ剰余労働であれ――がもたらす労働する身体それ自体がもたらす抑圧という問題、つまり身体性搾取という問題だ。

資本に有機的に組み込まれたパラマーケット

 データの抽出と、これを商品として収益を挙げる過程は、意味と労働とコンピューターという三つが関わる領域になる。ここで意味の生成は、コンピューターが介在することによって非知覚的な過程になる。これが目的意識的な行為とみなされてきた人間のコミュニケーションを本質的に転換するひとつの要件となる。
 たとえばショッピングサイトにアクセスして衣料品ショッピングサイトでシャツを買う場合を例にとってみよう。実空間での買い物の場合、店員にサイズや自分の好みを伝えて、似合いそうな服があるかどうか相談する。店員は要望を聞きながら、何着か推薦してくれる。そのなかに気に入ったものがあれば買うし、そうでなければ、あれこれ質問しながら、品定めをするか、他の店に移動するだろう。この一連のコミュニケーションとほぼ同じことをネットショッピングでも実現することは可能だ。メールやチャットで質問するとか、サイトの検索で気に入りそうな商品を絞り込むことができる。体験的には非常に似たものになるが、全体を制御している仕組みはまったく異なる。 とりわけ、サイトの背後で作動している仕組みの不透明性は実空間でのショッピングにはない特徴的な領域になる。私のパソコンのブラウザがショッピングサイトとの間でおこなう機械相互のデータのやりとりの大半は私の実感にはとらえられない。コンピューターが相互にコミュニケーションを確立しショッピングの間中この接続を維持し続け、つねに接続している「私」が「私」であることを確認する一連のプロセスは、実空間で店員が私と面と向かって「私」を確認する方法とは根本的に異なる。ネットでの買い物の最中にショッピングサイトが送信する「クッキー」の存在を実感することはできないが、これなしには、私との接続は維持されない。買い物は現金では不可能だから、売買の成立は、同時に私の個人データの提供を不可避とし、ここには、ショップと私だけではなく、クレジットカード会社、銀行、信用機関などが関与する。買い物の過程でサイト側が提案する様々な商品は、私の購買履歴やサードパーティが提供する私についてのデータが利用された高度に個別化されたターゲティング広告であるかもしれない。この仕組みの大半が私から隠されたブラックボックスである(注17)。
 コンピューター・テクノロジーが支配的な現代では、パラマーケットの主要な回路がコンピューター・コミュニケーション・ネットワークとして構成されるようになっている。これが従来の実空間のパラマーケットとどのような点で本質的に異なり、それが資本に有機的に組み込まれた過程になるのだろうか。このことを知るためには、そもそものコンピューター・ネットワークの基本的な仕組みを理解しておく必要がある(注18)。
 先に、ネットショッピングと実空間で店舗で買い物をする場合を比較したことからもわかるように、焦点となる論点は、売り手による買い手についての把握が質的に異なる点だ。言い換えれば、伝統的な市場経済が匿名性の高い貨幣を媒介として売買を成り立たせるために、売り手にとって買い手は基本的には匿名の存在であり、購買に至る経緯もその後の消費過程も売り手にとってはブラックボックスにならざるをえない、という市場経済の性質に関わる問題だと言ってもいい。
 買い手が何らかの方法でショッピングサイトを探しあてて、買い物行動をとるところから話を始めよう。たとえば、仮に、ショッピングサイトのURLを https://www.nandemodepart.com と仮定しよう。このサイトにアクセスできたかどうかは、自分のパソコンの画面に当該サイトのページが表示されたかどうかで直感的に判断することになる。コンピューターは、この時点で、いくつかの舞台裏の作業をこなす。つまり、
・自分のコンピューター:nandemodepart.comに対して接続のリクエストを送信する、
・相手のコンピューター:接続のリクエストを受け取り、許可する場合は、必要なデータを送信する。必要なデータとは、ページを構成している画像やテキスト、レイアウトなど私が画面で見る内容のデータ一式である。
・自分のコンピューター:相手のデータを受け取り、これを指示どおりにディスプレイに表示させる。実空間であれば、私が店に入店した状態に該当する。
 実空間では、入店した私は買い物を始め、目当ての商品を見つけてレジに持参して支払いをして、店を出る。ネットでは、私が操作するコンピューターが私の分身となって、相手のサイトにアクセスし、希望の商品を探して、支払いを処理することになる。最後に店を出ることで、店との通信が切断されたと私は実感するが、コンピューターにはその後も継続して店との関係を維持する仕組みが組み込まれているかもしれない。
 この一連の行動は、nandemodepart.com側からは同一の人物による行動であると確認できなければならない。アクセスから切断までの一連の流れを「セッション」と呼ぶ。店側はこのセッションを管理することで、アクセスしてくるユーザーを把握することになる。たとえば、NTTコミュニケーションズのIT用語の解説では次のように説明されている。
「セッション管理は、Webサーバー上でサービスを提供するといった際に、アクセスしているユーザーの識別や処理の状態を管理するために必要になります。セッションを管理する方法はいくつかありますが、たとえばセッションを識別するためのID(セッションID)を生成し、その内容をCookieに保存します。このセッションIDにユーザー情報や処理状況を紐付けておき、通信時にCookieに保存したセッションIDを読み取ることで、その通信がどのユーザーからのもので、どういった処理状態にあるのかを把握することが可能になります(注19)」
 ネットショッピングでは、「私」とショップの間のコミュニケーションは実際には、私のコンピューターとショップのやりとりで成立する。ネットでの店員とのチャットやメールでの問い合わせも同様だ(実際には人間の店員ではなくAIが対応しているケースが増えている)。この過程を私が自分のコンピューターを操作して制御する。しかし制御とは、コンピューターのディスプレイに表示されている画像やリンクをクリックしたり、文字をキーボードから入力するというレベルで自覚されているにすぎず、その背後でコンピューターがどのようなデータの処理をしているのかは、コンピューターの技術者でなければ、知覚できない。
 実際にこのコンピューター・コミュニーションが成り立つためには、相互のコンピューターが間違いなく接続を一定期間継続し、商品を品定めしている「私」、チャットで質問している「私」、買い物籠に商品を入れる行為をした「私」、支払いをする「私」などがいずれも同一の人物(実際には同一のコンピューター)であることが確認されるように通信が維持される必要がある。これが上で引用した「セッション管理」だが、これはある種のつきまといを伴う。このつきまといなしに買い物をして決済を済ますことは不可能だ。ネットショッピングでは、こうした私の行動を確認しながら買い物の利便性を確保するために、セキュアな通信を確保したうえで、クッキーと呼ばれるコンピューターが相互に接続され続けていることなどを確認できる小さなプログラムが用いられてきた。クッキーだけでなく、私のコンピューターの様々なデータ(たとえば、OSの種類、使用しているブラウザ、言語、ディスプレイの解像度、IPアドレス、ハードウェアのMACアドレスなどなど、これらをフィンガープリントという)も相手に把握される。こうしたデータのやりとりがなければネットにおける「私」のコミュニケーションも成立しないから、このコンピューターの機械的なコミュニケーションも私のコミュニケーションの必須の一部をなす。この械的な必要としておこなわれる通信は知覚できない。つまり、私にとっては意識されないが通信=コミュニケーションにとっては必須の部分を構成する。もちろん、ウェブの開発者、ある程度ネットのセキュリティや仕組みに精通していたり、関心をもったりする人たち、あるいはネットショッピングでビジネスを展開する企業(決して少なくないが、人口の多数ではない)にとっては、これらは顧客を知るうえで必要なデータの一部をなすから、無関心ではないし、その知識に応じて、こうした機械的な通信も知覚可能な過程として制御の道具となる(注20)。しかし、圧倒的に多くの人たちにとっては非知覚的な過程であり、さらに、この過程を透明性のある過程にしようとする傾向そのものが、現在のコンピューター・コミュニーションの支配的な技術にはみられない。つまり、自分のコミュニケーションなのだが、実空間で買い物をする場合のように、とくに努力する必要なく、そのコミュニケーションの構造を直感的に理解できるようには作られていない。
 買い手にとっては理解しがたいこの非知覚的な過程でおこなわれるコミュニケーションが、データの抽出と行動の制御の回路として利用される。非知覚過程では、店の商品のどれにマウスを重ねたり、クリックしたのか、どのページを訪問したのかといった逐一の行動が記録できる。さらに、後述するように、店を離れて別の店に行ったとしてもクッキーが私の挙動を追跡している可能性――サードパーティクッキーと呼ばれている(後述)――があり、こうして蓄積されたデータから私の好みなどをプロファイルして、私の行動に影響を及ぼすことを意図した広告が私に送られ、私の行動変容へと繋るという一連の過程が構築可能だ(注21)。つまり、コミュニーションが人の行動や考え方に影響を与えるという場合、コンピューター・コミュニーションはこれを非知覚過程を通じて実現しうる可能性をもっている、ということでもある。さらに、もし私が広告に何の関心も示さなかったとしたら、このこと自体もまたひとつの「データ」として次にはより的確に私の行動を変えさせるような広告を送り込むための反面教師として利用されることになる。そのためには、無関心な私が何に関心をもっているのかを把握しなければならない。ストーカーが、自分に無関心な相手が何に関心をもち、どうすれば自分のほうに関心を向けてくれるかを考えながら、24時間相手を監視しつづけ、ときには監禁さえしてしまう心理と、ターゲティング広告やトラッカーと呼ばれる非知覚過程で資本がおこなう動機との間には本質的な差はない。ストーカーは資本の欲望の現れであり、資本主義の産物である。
 非知覚コミュニーションは、それ自体が商品化されているわけではない。またビッグデータとして長期にわたって蓄積されるともかぎらない。きわめて揮発性が高いデータである場合もある。こうしたデータが長期に蓄積されるデータと組み合わされてリアルタイムに私の挙動に対して反応するようなコミュニケーションが機械的に構築される。この過程は、同時に「私」というターゲットが何者なのかが形成される過程でもあるが、次第にコンピューターがこの判断過程で主導的な位置を占めるようになり、人間の判断の関与の余地が狭くなりつつある。つまり、機械によるデータ処理が支配的になることによって、データ処理の生産性が、人間のデータ処理能力の限界によって制約されることがなくなり、その結果としてビッグデータとして収集されるデータがより有効に活用可能になっている。これがAIが実現してきたことでもある。これは、パラマーケットが主に担ってきた「意味」の領域が機械化されるということでもある。
 この機械化がもたらしたのが、非知覚的な回路という新しいパラマーケットの構造である。広告産業などが密かに消費者に知られないように画像を細工するサブリミナル広告のような一方通行で、なおかつあまりアテにならない(フロイトの無意識の理論のプラグマティックな転用)仕組みとはまったく違い(注22)、確実に、コンピューターのプログラムによって生データを収集することに始まるフィードバック機構である。 間違った前提や理論を用いてもフィードバックは成り立つ。人の情動についての間違った判断が医学などの権威によって「正しい」ものという社会的評価を獲得する可能性がある。裁判における鑑定や求職活動などでの性格判断などに応用されると深刻な問題を引き起すことは間違いない。
 だから、コミュニーションの主体である人間が実感できる知覚領域だけを切り取って「コミュニーション」として論じたり分析することは、コンピューター・コミュニケーションの領域では、間違いとは言わないまでも不十分だ。また、フロイトの無意識のように人間の側にある非知覚過程の問題ではなく、外部のコミュニケーション環境の基盤に非知覚過程が組み込まれているという問題である。この外部の非知覚過程は、当然のこととして私たちの知覚による制御を迂回する。こうした仕組みのなかで形成される偏見や差別は、従来とは異なる性格をもつことは間違いない。私という存在が社会関係のなかで構築されるとする場合、この社会関係と私との関係意識の構築のなかにコンピューターによるコミュニケーションが介在することによって、従来の「私」の再定義は必須となる。機械が担う非知覚コミュニケーションを通じて、私たちの行動が「データ」として蓄積される領域を明確に組み込みながら、「私」の理論構築が必要になる。

ユーザー追跡技術

 ウェブにアクセスしてくる者をサイトが追跡してその挙動を逐一把握する仕組みとしてクッキーが利用されるようになって久しいが、クッキーの利用に代表されるユーザー追跡技術の歴史的な経緯をみると、資本主義市場経済における資本の側がいかに消費者の行動と心理の把握に執着してきたのかを理解することができる。
 インターネットの技術的な仕様に関する基本文書(RFC)に、第三者主体(third-party )クッキーについて次のような記述がある。
「UA[ユーザーエージェント、本章の文脈ではショッピングサイトにアクセスする消費者] は、 HTML 文書を具現化する際に、他のサーバ(広告ネットワークなど)からのリソースを要請することが多い。 これらの第三者主体サーバは、利用者がサーバを直に訪問したことが一度もなくても、利用者の追跡にクッキーを利用できる。 例えば、利用者が第三者主体が供する内容を包含しているサイトを訪問した後、同じ第三者主体が供する内容を包含している別サイトを訪問した場合、その第三者主体は、2つのサイト間で利用者を追跡できる(注23)」
 このなかで「利用者がサーバを直に訪問したことが一度もなくても、利用者の追跡にクッキーを利用できる」とある箇所に注目しよう。ウェブにアクセスした者に対してクッキーは、アクセス先ではない別のアクセス先と利用者を関係づけることが可能だということだ。本来であれば、AとBの二つの店を訪問する客がいるとして、実空間ではAとBの店からみたとき、自分の店に来た客がBも訪問したかどうかを知るためには、客を尾行するなど厄介なことをあえてやらなければならない。しかしネット上では「サードパーティクッキー」がこの役割を果たしてくれる。このサードパーティクッキーは、単一の買い物だけでなく、利用者が複数のサイトの訪問を把握することができるために、消費者行動を網羅的に把握する手段になりうる。
 そもそもクッキーと呼ばれる小さなプログラムは、ウェブにアクセスするユーザとのセッションを維持して効果的なコミュニケーションを維持するための手法として、ウェブの技術が普及する初期(1990年代後半)に導入された。これをユーザーの挙動を把握するための手段に転用しようという発想は、資本が消費者の行動を知りたいという欲求なしには生まれないし、こうしたニーズが背景にあってクッキーの技術が当初の目的から逸脱して発展してきた。クッキーの技術はさほど高度なものではなく、ウェブサイトの開発者であればその実装に必要な技術の基本は理解できるし、ウェブ技術の入門書にも言及されているが、そうであっても、ネットの利用者の圧倒的多数はこの技術がもたらしてきたプライバシー上のリスクについて認識の共有はできているとは言い難い。とはいえ最近になって、プライバシーへの関心が高まり、クッキーを規制するルールの導入が進みはじめた。また、ウェブブラウザのプライバシー設定を見直したり、よりプライバシーの配慮したブラウザに切り替える動きがやっとでてきた(注24)。
 パラマーケットの観点からみたとき、クッキーは現代のコンピューター・コミュニケーション産業が支配的になり上部構造が土台化した時代の特徴を端的に示している。クッキーは商取引それ自体とは関係しないバックグラウンドで機能する。消費者はこのプログラムを知覚できないからほとんど意識することはない。売り手は、クッキーのプログラムの技術そのものを知る必要はないが、その明らかな効果を容易に可視化してくれるGoogle広告(注25)など様々なサービスを利用することによって、ターゲットとなる消費者を把握できる。とくにサードパーティクッキーは、消費者の行動を追跡して、自社の広告を消費者に対して的確に発信するいわゆるターゲティング広告にとって必要な技術になる。
 広告産業全体のなかでは、従来型の広告から離れて、ネットにおけるターゲティング広告やリターゲティング広告など、いわゆるユーザー・トラッキング技術を用いた広告への移行が顕著になっている。かつてのマスメディアを介した大量散布型の画一的な広告が衰退しつつあり、消費者一人ひとりの行動を把握して最適化した形での広告を打つことが当たり前になりつつある。しかも、この場合、ネット広告が注目するのは、ネットショッピングで商品を実際に購入した人たちだけではなく、アクセスしたが何も買わない人たちを追跡して買わせることにある。実空間でいえばウインドーショッピングをしている人たちを尾行して、その行動から何に興味をもっているのかなどを推測して、巧みに商品を買わせるといったことを、ネットでは、クッキーや本人認証などの仕組みと機械学習あるいは深層学習などと呼ばれる機械アルゴリズムを組み合わせることで年々より簡単に実現できるようになってきた。FacebookやGoogleはこうしたトラキングやターゲティング広告を組織的に展開して莫大な利益をあげてきた。
 商品市場でモノを購入するという取引行為そのものをめぐる現在の状況は、この購買行動を前後して生じるパラマーケットにおけるデータ流通が劇的に変化しているということだ、この変化はビッグデータの形成によって量的な増大を背景に、人々の行動の予測と行動変容に必要なアプローチの組み合わせを通じて、市場の実際の売買行動に影響を与えることがシステムとしての目的であり、それ自体が産業のビジネスチャンスになっている。つまり、ビジネスがターゲットにしているのは人々の市場における欲望の制御であり、欲望を操作可能な対象とみなすことが可能なようになっている、ということでもある(注26)。たとえば、Googleの「データセグメント(リマーケティングと呼ばれていたもの)」の機能について、次のような説明がなされている。
「収集したデータを利用して、過去にモバイルやパソコンでお客様のブランドやサービスと接点をもったユーザーに繰り返しアプローチします。このセグメントに該当するユーザーが Google やパートナーのサイトを閲覧しているときに、広告が表示されます(注27)」
 上のターゲットにされているのは「過去にモバイルやパソコンでお客様のブランドやサービスと接点をもったユーザー」である。いったんショップを離れた場合でも、追跡が可能であることを「売り」にしている。サイトを訪問したユーザーの98パーセントは何も買わないといわれており、こうした客を再度呼び戻すためにリターゲティング広告が用いられるわけだが、従来型の広告の10倍の効果があるともいわれている(注28)。
 パラマーケットは、実際の市場での取引を規定するだけでなく、買い手の心理過程に介入して行動変容を促す技術が組み込まれたシステムになることによって、市場そのものを逆に規定するものになっている。社会構造における位置付けが逆転しつつあるのだ。
 コンピューター・テクノロジー/コミュニケーション(CTC)によって構成されたパラマーケットは市場で行動する人々の動静を把握するある種の感覚器官のような働きをしている。しかし、AIやビッグデータを駆使した解析と、これに必要なデータ収集の機構はまだ出発したばかりであり、成熟した状態にあるとはいえない。しかし、確実にいえることは、技術開発を動機づけているのは消費者(ユーザー)の行動予測と行動制御、つまり資本にとって最適な消費者としての行動をとるように促す能力の獲得にあることは間違いない。この意味で、技術は資本の利害に沿って発展しており、人々がこうした技術を受容し内面化し、さらには技術のフェティシズムによって人間と機械との関係そのものを組み替えるような世界観が共有されるようになることによって、パラマーケットは資本と人々の私的な内面を直接繋ぐ役割を担うようにもなる。こうして、プライバシーとして観念されてきた近代社会の私的空間における自由は資本に包摂されることになる。こうした構造は総資本の利害を反映するものであり、実際の消費者の行動と資本の関係は、市場の競争を背景として、予測と行動制御に複数のベクトルが作用し、複雑な競争関係を前提とした消費者行動の予測と制御の技術がますます高度化するきっかけを作ることにもなる。
 個人を識別可能な仕組みはクッキーだけではない。いわゆるフィンガープリントと呼ばれるデバイスやブラウザの付随する固有の識別子も有力な個人を追跡可能なものだ。パラマーケットを流れる情報の流れは、こうした様々なユーザー追跡技術を組み込み、コンピューター・ネットワークではコンピュータが双方向の通信(コミュニケーション)をとりながら、しかも、消費者の知覚に即していえば、データの大半がほとんど実感を伴わない意識外の回路を通っている。伝統的なメディアでは視聴者から資本へのデータの回路はほとんどない。これに対して、現代のパラマーケットは積極的に消費者のデータを取得することによって追跡するように作動する。消費者はある種の情報データの資源になっており、この資源を徹底して採掘するためのユーザー追跡技術がパラマーケットの支配的な技術になっている。

監視システムとしてのパラマーケット

 クッキーはもはやトラッキング技術として古くさいものになりつつあるが、クッキーをめぐる技術の応用の歴史は、支配的構造が技術をどのような方向に転用するのかを知るうえで教訓に満ちている。資本主義における技術は、消費者に利便性や快楽を与える一方で、市場経済の匿名性を剥ぎ取り、個々の資本にとっては断片的なデータでしかない消費者の人物像を「全体」として再構築しうる方向へと開発を進めてきた。資本主義の市場経済を背景とした技術は確実に、その匿名性に基づく自由(市場経済的な自由であって、自由そのものではない)を奪う方向をとってきた。
 市場での商品売買そのものは、貨幣を対価とする取引だが、貨幣を支払う消費者にとって、広告もパッケージも自分が需要する商品の直接的な使用価値ではない。しかし、他方で、消費者にとっての意味使用価値は、確実に広告やパッケージなどに影響されるが、だからといってより多くの広告を受け取った消費者が、広告の量に応じて支払いを増やすということにはならない。この意味で商品をめぐる情報は、市場経済と連動しながら市場の価格メカニズムと接合しながらもその外部で機能するパラマーケットを構成することになる。
 クッキーのようなユーザー追跡技術はパラマーケットの機能を本質的に転換させた。ユーザー追跡技術は、消費者を「大衆」としてではなく、「個」として相互に区別して把握可能なものにした。消費者の自覚を伴わない領域でおこなわれる消費者行動の追跡は、パラマーケットに、不可知の空間を組み込むことを可能にした。売り手は商品を売るだけではなく、追跡することが可能になったのだ。

ユーザー追跡技術への批判と抵抗

 ネットを中心としたマーティングが本質的に有している人間を個別に識別して、個別に管理・制御しようという支配的構造がもたらす技術がクッキーに体現されてきたのであって、クッキーが規制されることで問題が解決するわけではなく、個人を追跡・識別しようという支配的構造に内包されている権力の欲望の存在そのものが問題の根源にある。人間の行動を解析して提供する独自の市場が「アナリティクス市場」として論じられるようになり、地理空間、業種など様々なカテゴリーによる行動分析それ自体が利益を生むようになっている。Googleアナリティクス(注29)などのサイト分析ツールを使っていないショッピングサイトを探すほうが難しいくらいかもしれない。
 クッキーは、資本主義における技術開発の「進歩」やイノベーションがいかに資本の利害を体現したものであるかを象徴しているが、同時に、そこには一定の抵抗や抗議などの運動との力関係も存在してきた。サードパーティクッキーの問題を中心に、クッキーの目にあまる個人データ収集への批判が高まるなかで、人々からデータを収集してプロファイルする技術を支えてきた背景にあるイデオロギーそのものが反省されてきた(注30)。しかし技術の方向が根本的に転換するという方向をとっているわけではない。むしろ批判をかわしながら個人をターゲットとしたプロファイリングはより巧妙になりながら、プライバシーの閾値をめぐる闘争が展開されてきた。19世紀が労働日をめぐる闘争として、過剰な労働の搾取がもたらす心身への破壊を抑制するための社会的な歯止めが自覚化される一方で、相対的剰余価値の生産を促したように、20世紀から21世紀にかけた現代資本主義では、個人データをめぐる闘争は、過剰なデータ収集とプロファイリングがもたらす心身への破壊を抑制しながらも、より非侵襲的な技術の高度化を促してきた(注31)。しかも、土台と上部構造が融合している現状にあっては、民間資本の個人情報収集に規制をかける法制度があっても政府が収集する個人情報が民間と連携する構造がますます強固になっているために、支配的構造が全体として把握可能な個人情報そのものが個人の権利を優先させる有効な制度を構築する方向に向かっているとはとうていいえない。

政府による非知覚過程の利用

 同様の非知覚過程は、市場以外にも広範に見いだせる。たとえば、COVID-19(新型コロナウイルス)感染者接触アプリなどにも非知覚過程が付随する。こうしたアプリを用いて利用者が実感できるコミュニーションと、彼らにとっては非知覚領域で機械のプログラムが処理するデータの間には差がある。COVID-19の流行初期から位置情報追跡アプリ、隔離強制スパイウエア、免疫パスポートなど様々な試みが各国政府や企業によって画策されてきた。感染者との接触の有無を判定するアプリは、政府が直接管理する中央集権型もあれば、Bluetoothを使い極力データの集権化をもたらさないように工夫されたものまで様々だ。たとえば、GoogleとAppleが連合を組んで開発したGoogle Apple Exposure Notice(GAEN)は、一時的でランダムな識別子(Rolling proximity identifiers、RPID)と呼ばれるランダムな識別番号をユーザーの携帯電話保存するが、ユーザーが陽性と判定されると、一般にアクセス可能なデータベースに識別子をアップロードされる仕組みになっている(注32)。しかしこうしたプログラムは非知覚過程でそのほとんどが機能するので、ユーザーは常に追跡されているとは自覚しない。GAENは、トラッキング情報を常時保健当局などに送信するわけではなく、「陽性」あるいは「濃厚接触」という条件になったときに、データベースと連携される。この過程は実際にはかなり複雑だ。たとえば、電子フロンティア財団のサイトには非専門家向けの解説で、次のように述べている。
「Apple社とGoogle社の提案のように、診断キーの公開データベースとユーザーのデバイスのRPIDを照合する近接追跡システムでは、感染者の連絡先が、遭遇した人の中でどの人が感染しているかを把握する可能性があります。例えば、友人と連絡を取っていて、その友人が感染したと報告してきた場合、自分の端末の連絡先ログを使って、その友人が病気であることを知ることができます。極端に言えば、悪質な業者がRPIDを一斉に収集し、顔認証などの技術を使ってIDと結び付け、誰が感染しているかをデータベース化することも可能です。EUのPEPP-PTやフランス・ドイツのROBERTのように、中央のサーバーで照合を行うことで、この種の攻撃を防ぐ、あるいは少なくとも困難にすることを目的とした提案もありますが、これはプライバシーに対するより深刻なリスクをもたらします(注33)」
 RPIDの背後で機能しているメカニズムはブラックボックスのまま、友人が感染したという通知だけが、人間に理解されるメッセージで通知される。他方で、「悪質な業者がRPIDを一斉に収集し、顔認証などの技術を使ってIDと結び付け、誰が感染しているかをデータベース化することも可能」という記述は、RPIDがなぜ第三者によってアクセス可能なのか、これらと顔認証とIDを結び付けて目的外のデータベースが構築可能だというあたりの記述は、技術的な知識がなければ、理解しえない領域の話になる。こうしたデータベースに誰がどのような動機で関心をもつのかを考えたとき、公権力は政治目的で、資本は営利目的で、こうした技術を公衆衛生を隠れ蓑に、官民共同で転用することが可能だ。すべての人たちがこのプロセス全体とリスクを理解することができるとすれば、そもそもGAENのような仕組みは誰も望まないだろう。繰り返すが、この一連の過程はデータ流通の過程でもあるが、ここでデータの受け渡しに関与する者たち、たとえば接触アプリをインストールした人々は、非知覚過程での送信データに対して対価を支払われるような市場の取引をおこなっているわけではなく、その先にある目的外使用を目論む者たちもまた、最終生産物が商品として販売される前のデータ収集や加工の過程でデータのやりとりが商品化されるとは限らない。とりわけ政府は資本とは異なる動機をもってデータを転用しようとするだろう。
 この感染接触アプリの発想は、私たち一人ひとりの動静を把握できる何らかのデバイスを装着させてデータを収集し、このデータに基づいて、必要なときに必要な措置をとることができるように、私たちを常時追跡する、という資本主義の支配的構造の特性に由来する。こうした発想は公衆衛生や感染症に限定された考え方ではなく、かなり汎用性がある発想だという点に注目する必要がある。つまり、個別の課題に個別に対応するために具体化されているようにみえる技術の背後には、権力のより一般的な動機が隠れている。
 こうしたケースは他にも様々ある。技術の仕様は異なるが、ほぼ同じ動機――ターゲットを常時追跡して動静を把握しようとすること――をもって開発されてきたもののうち、イスラエルの軍事技術企業のNSOグループのスパイウェア「Pegasus」は、iPhoneをハッキングしてスパイするもので、様々な政府に売り込んでいたシステムだが、政治家や反体制派を追跡するより巧妙なシステムだった(注34)。また、APPLEがiPhoneに子どもの性的虐待動画の把握のために組み込もうとした仕組み(注35)や、Youtube、マイクロソフトなどが連合を組んでネットのテロ対策(注36)のために採用している技術の基本的なコンセプトは、土台と上部構造の融合の典型例であり、公衆衛生の分野での人の行動や接触の把握のそれと変わらない。だから技術の転用がきわめて容易なのだ。
 実際、この追跡とデータ収集を私たちの日常生活で用いる情報通信デバイスに組み込むという発想は、特に対テロ戦争のなかで利用されてきた古い技術でもある。いわゆるスパイウエアと呼ばれて各国の諜報機関などが治安対策や軍事目的で利用してきたものも、その基本的な発想は同じだ。古典的な手法はマルウエアを何らかの方法でターゲットとなる人物のデバイスに組み込み、このデバイスを通じて行動や通信をリアルタイムで把握するというものだ。これは、アラブの春の弾圧で実際に中東諸国で広範囲に利用された。いわゆるエシュロンに代表されるような冷戦期の通信監視(注37)と決定的に異るのは、こうした監視技術と私たちの接点が私たちの日常生活に欠かせないデバイスを利用して、移動をも捕捉し、かつ、プライベートな空間か公共空間であるかにかかわらず機能するということだ。人間が尾行する時代から、本連載で取り上げたように、ナチスがパンチカード方式の計算機で「最終解決」を実践するときに権力者が抱いた動機はいまに至るまで、個人の動静を把握しようとする権力の欲望には一貫したものがあり、これは、ファシズムや独裁国家であれ、民主主義国家であれ、いずれにも共通した権力の基本的な性格である(注38)。インターネットが社会インフラとなって以降も、技術の開発傾向はかつてと変わることなく一貫し、コンピューターの情報処理能力と資本の投資機会の二つの条件もまたこうした権力動機を背景に展開し、私たちの動静をより詳細に把握する方向をとってきた。これがすでに10年を優に超えており、この方向は資本主義の政治的・経済的な構造に組み込まれてしまったとみるべきだろう。
 第1章で述べたように、パラマーケットの有機的構成の高度化とでもいうべき事態が、上部構造と土台の融合をもたらしたのだが、これは、土台と上部構造のやっかいな齟齬や摩擦を回避する資本主義的な弁証法的な歴史の展開を示している。文化が産業化され、コミュニケーションが商業メディアによって担われ、文化やコミュニケーションが資本の支配的蓄積様式となる。こうした資本主義の歴史的な発達は、マルクスによる資本主義批判をかわすだけでなく、反資本主義運動への応答でもあった。
 この新たな構造は、生産にコミュニケーション領域が統合され、結果として、コミュニケーションによって構成される政治過程が資本主義的な生産過程と有機的に接合され、経済と政治というカテゴリーそのものをもはや成り立たないものにした。同時に、コミュニケーションに含まれるプライベートな領域にネットワークデバイスが容赦なく入り込むことによって、プライバシーを支えてきた物質的な障壁がきわめて脆弱になった。公共空間と私的な空間という概念的な区別の妥当性が揺らぎ、結果としてプライバシーの権利を支えてきた現実世界の実体そのものがネットワーク・コミュニーションを通じて揺らいでいる。また、法を理解できないコンピューターが、意思決定に不可欠なデータとその解析に無視できない役割を担うことによって、法の支配もまた揺らいでいる。この技術の特性を警察や軍隊が法による規制をかいくぐるための手段として利用する傾向にある。サイバー犯罪の取り締まりを口実に、実際には反政府運動の活動家を「テロリズム」などとみなして弾圧するケースが各国で頻繁に起きている(注39)。その結果として、民主主義や統治機構そのものが行使する物理的な権力が、人々にとって正統性あるものとみなされる根拠もまた希薄化し、合理的な判断よりも、ブラックボックスに入っている理解を超える仕組みを通じて出される「解答」を超越的に正しいものとする直感的で感性的な判断の影響力が強くなってきた。一方に計算=道具的な合理性の世界があるとすると、同時に、非合理で説明を超越した世界がパラレルワールドとして私たちの日常を二重に支配するようになっている。

4-5 コミュニケーション労働と非知覚過程

コミュニケーション労働の実質的包摂へ

 これまで人間の行動を消費者の観点から述べてきたが、以下では、労働者の観点、とりわけコミュニケーション労働に焦点を当てて述べておきたい。
 前章で述べたように、19世紀の機械制大工業が労働者の労働を単純化し機械に従属する位置に置くことによって、熟練を解体し、不特定多数の単純〈労働力〉への置き換えを可能にした。こうして、資本が労働現場の支配権を実質的に確立することになった。労働行為をめぐる意思決定が労働者から奪われ、意思決定から疎外されることによって、労働の意味の剥奪と資本による再構築が物質的労働の現場のあたりまえの環境になり、次第に、この単純〈労働力〉そのものが機械へと置き換わり、労働者そのものが駆逐されるようになる。
 肉体労働の機械への置き換えは、〈労働力〉の人口構成を物質的労働から非物質的労働へと移動させ、やがて20世紀後半になると、コミュニケーションそれ自体が労働として再構成されるようになる。資本の下で労働が果たす役割は、労働対象にはたらきかけて、資本の計画に沿って加工する対象操作的な性格をもつ。労働者は資本の意図を「理解」して、資本の一部として労働対象としての人間をコミュニケーションを通じて制御する。会話は、コミュニケーションの相互性を装いながら、実際には、非対称的な基盤の上にたっている。サービス産業の労働者が消費者との間で交すコミュニーションの前提にある基盤は、一方が資本循環の一環に組み込まれた生産過程であるのに対して、消費者の前提にある基盤は資本に外的に接合された消費過程(〈労働力〉再生産過程)であるという違いは無視できず、コミュニケーションが相互性の外観を鵜呑みにすることはできない。
 その後、資本主義の歴史は、コンピューターの介在によって、コミュニケーションそのものの制御の主導権を労働者から機械へと移行させるようになる。こうしたコミュニケーション労働の意思決定過程の主導権の移行は、具体的には、意思決定や判断の根拠をコンピューターが処理するデータやデータに基づく予測アルゴリズムを「信じる」ということを意味した。ここでは経験や主観とコンピューターのアルゴリズムの間で主導権争いが起きるが、これは労働者と資本のどちらがコミュニケーションの意思決定で主導権を握るか、という問題でもある。
 資本主義のコミュニケーションで支配的な位置を占める操作的なディスクールをそのままに、これまでは、労働者が資本家意識を内面化させられたりしながら、その「手先」を演じさせられて、相手(顧客、同僚、部下など)の意識にはたらきかけ、その行動や情動に意図したとおりの影響を与えようとするコミュニケーションが、コンピューターにとってかわられることによって、相手はより一層行動選択を拘束(その自覚のあるなしにかかわらず)されるようになる。人間はコンピューターを介在させたコミュニケーションの補助作業になる。オンラインショッピングの売買の大半がコンピューターと顧客の間のコミュニケーションだとすると、このコミュニケーションでは解決しえないクレームなどの問い合わせがサポートデスクの担当者の労働になる。それもまた、AIによって定型的な質問、問い合わせが処理されるようになり、よっぽどのことがないかぎり顧客は人の声を聞くことが難しくなり、直接会ってクレームや相談をすることなどはほぼありえない世界になっている。行政も同様であり、役所に出向いて権利行使することは容易ではない。こうした事態が、コロナ・パンデミックを契機に一気に普及したが、これはコロナに原因があるのではなく、それ以前からの傾向が加速化されたにすぎない。コールセンターであれ行政の窓口であれ、通話は録音され、メールもまたそのヘッダも含めて記録される。住所や電話番号を入力しなければ問い合わせフォーム自体がエラーになる。匿名の選択の余地などはほぼないといっていい。
 あるいは、たとえば、学校現場にデジタル教材が導入され、生徒の成績がコンピューターによって解析されるようになると、教師の労働は、こうしたコンピューターの判断に依存するようになる。生徒の学習を教師が主体的に担うのではなく、次第に、コンピューターが主体となり教師はこれを補助する位置をとるようになる。ここでは生徒の個人データを教師が手作業で処理できる量を圧倒的に凌駕する膨大なデータを駆使して、生徒のプロファイルを実施するシステムが介入することになる。生徒の学習能力が、生身の人間の教員による教育と比べて向上するかどうかがここでは問題の核心をなすのではない。核心となる問題は、こうした過程のなかで生徒たちがコンピューターのアルゴリズムに即して自らの学習能力を最適化するように行動しようと努力するようになり、同様に教師もまたコンピューターの判断を基準とした教育を受け入れるようになり、結果としてコンピューターのフェティシズムが成立する。ダマシオの言い回しを借りれば、情動から切り離された「理性」もどきの機械が「理性」の手本になり、こうしてデカルトが正しいということになるような世界が生まれる(注40)。学校の権威は、教師の人格からAIへと移行し、コンピューターによって媒介されたシステムのフェティシズムが再構成される。たぶん現在はこの過渡期にある。こうしたコンピューターフェティシズムの否定が旧来の学校教育への回帰の主張によってなされるのであれば、国民国家と資本の構造のなかで制度化された「教育」それ自体からの人間の解放という課題を果たすことにはならない。学校というフェティズム、その背後にある支配的構造のフェティズムからの解放、言い換えれば、意味の剥奪と支配構造による意味の世界からの解放は、復古主義的な回帰によっては果たせない。
 こうしてコミュニケーションが労働に組み込まれるとして、それでは資本や国家のコミュニケーション労働の回路のもう一方の側、顧客や学校の子どもたちのコミュニケーションもまた労働なのだろうか。
 コミュニケーション労働は、賃労働と家事労働同様、賃金を支払われる領域と支払われない領域にまたがっている。店舗で働く労働者が顧客と接するとき、顧客は単なる労働対象なのではない。顧客と店員との間のコミュニケーションを通じて商品の意味使用価値が形成され、この意味は顧客が認識する商品の意味として顧客に意識される。商品の意味使用価値は直接的使用価値のように資本が一方的に形成できるものではなく、店員と顧客との間のコミュニケーションという共同作業の結果である。この意味で、顧客のコミュニケーションは資本が供給する商品の生産過程に――意味使用価値の生産――無償で関与することになる(注41)。顧客、つまり消費者は、コミュニケーションを通じて、資本とともにモノの使用価値の意味の生産に関与させられつづけるということでもある。消費者が〈労働力〉再生産過程にあっては労働者(シャドーワカー)(注42)でもあるという従来の構造にコミュニケーション労働が関与することによって、消費=〈労働力〉再生産への資本の関与が質的に転換することになる。商品の意味使用価値は、消費行為そのものの遂行の現場で繰り返し生成されることになる。コミュニケーションの労働化は、〈労働力〉再生産過程を資本に繋ぎ留められた人間の行為、つまり労働過程として直接関与できる仕組みだとみる必要がある。そして、この商品売買過程にとってパラマーケットを介した情報が商品の意味使用価値を形成することと上述した店員と顧客のコミュニケーションは相互補完的な関係をもつことになり、ここに非知覚過程がコンピューター・コミュニーションによってフィードバック機能をもちながら関与することになる。

コミュニケーション労働とデータ化する「私」

 コンピューターが介在するコミュニケーションでは、この相互性の基盤にコンピューターが相互に通信する過程が人間の知覚の範囲外で新たに形成される。この非知覚過程は、コミュニケーションの不可欠な一部をなすにもかかわらず、当事者がそのすべてを正確に把握して自覚的に制御することはほとんどできない。しかし、コンピューターのコミュニーションは、ターゲット(消費者、労働者、子どもたちなど)をトラッキングしたり、他のデータベースを参照して、本人を認証してカテゴリーに分類して選別するなどといった作業が資本や政府の側ではおこなわれる。同じことがターゲットにされる側ではおこないえないという非対称性がもたらす一方的なデータの収集(データの搾取)を通じて、ターゲットの非合理性的側面を含むパーソナリティの支配構造による一方的なプロファイリングがおこなわれる。
 言い換えれば、純粋に技術的な観点からすれば、私たち一人ひとりが、資本や政府をトラッキングして彼らをプロファイルすることを可能にする技術は存在可能なのだが、これを駆使することが不可能なようにコミュニケーション・インフラが設計されるか、あるいはこうした逆方向のトラッキングは犯罪化され、支配構造の側が一方的に私たちのデータを収集することが宿命であるかのように制度化されているのだ。この非対称的なコミュニケーション過程は、とくに非知覚過程が構造化されることによって物質化される。こうした傾向を最も端的に示しているのが人工知能(AI)が関わる領域になる。
 人工知能が技術開発の中心的な課題になっている現代資本主義は、人間の力学的な制御という近代社会の本質の究極の形態だろう。人間は機械ではないが、機械は人間によってある種のフェティシズムの対象となる。フェティシズムの一般的な性格には対象となるモノに対して自我そのものが同一化しようとするところがあり、まさに、人工知能はこの意味で、人間の脳の機械への同化現象をもたらしているわけだが、こうした傾向は、脳科学がコンピューターに媚を売るような学問の構成をとることによって、脳の「情報処理」がコンピューターの情報処理と本質的に異なるところがないだけでなく、脳は出来が悪いコンピューターにまで格下げされかねない議論が登場し、これが「世論」を誘導するようになっている。
 これまでにも指摘してきたように、こうした傾向をもたらした背景にあるのは、社会の支配構造が、マルクスの有力な資本主義批判と、その現実的な力としての階級闘争に対して、人間を社会の主体の地位から引きずり下ろし、〈労働力〉として労働市場に投入される「資源」とみなすことによって資本主義経済を防衛しようとする20世紀の戦略が限界にきたことを意味している。これでは人間を総体として資本の価値増殖に組み込むことはできない。なぜなら人間はそもそも資本ではないからであり、人間の総体を資本は必要とはせず、〈労働力〉としてだけ必要とするからだ。これに対して、コミュニケーションの労働化は、資本が発見した新たな人間の特性を〈労働力〉として価値増殖に媒介するものだ。これは資本主義にとっての最後のフロンティアだ。既に述べたように、コミュニケーションの労働化の前提にあった思想は、行動主義であり、道具的合理主義の伝統であり、この文脈の延長線上にコンピューターによって解析可能なデータ化された人間の断片の膨大な集積としてのビッグデータと機械学習やAIのテクノロジーがあるわけだが、この技術の流れの精緻化が、結果として構築する「人間」(データ化された「私」などと呼ばれるわけだが)は、文字どおりの意味での人間としての地位を次第に確立するようになっている。この過程で、AIは「私」を理解しえるかどうかといった問題が論争化する、しかし、問題の核心は、機械の側にあるのではなく、人間の側が機械によるデータ化された「私」を真実の「私」として受け入れるかどうかというところにある。大方の人々は、データ処理された「私」を真の「私」として受け入れることにさほどの抵抗感をもっていない。目の前の私をさしおいて「本人確認書類」(運転免許証、保険証、最近はマイナンバーカードとか)が「私」の座を奪う事態は日常のなかにしっかり根を下ろしている。人々は「私」がデータに還元されることを奇妙な事態とは感じていない。 むしろデータによってお墨付きを与えられることを期待さえしている。
 しかし、この「私」をさしおいて主人公の位置を占めるデータに還元された「私」に対して、支配者たちの側が懐疑的になっている。データ化された「私」に基づく制御が思うようにうまくいかないからだ。それは本当の「おまえ」なのか? この懐疑がもたらしたのは、データ化されない「わたし」のなかにいくばくかのバグがあるという転倒した認識だ。他方で、詐欺師たちもまた巧妙にデータ化された「私」を偽装することによってある種の利益を得ようとする。資本家たちは〈労働力〉を買い叩けるように、データ化された「私」をジェンダーや人種などのファクターに偏見を織り混ぜたアルゴリズムによって、経済的搾取の特権を維持しようとする。資本の戦略は人間の最もやっかいな心理、「不安」を武器にする。まず「私」を認証してくれる何者かをもたない「私」を不安にさせる。この不安につけこんで「あなたの指紋さえあればあなたであることが証明できますよ」という生体認証の誘惑の罠を仕掛けたり、「国があなたにかわってあなたであることを証明しますよ。そのためにはマイナンバーカードを取得してください」といった誘惑だ。「私」が何者なのかを認証しなければならないような事情は、大抵の場合、作為的に資本や国家の都合で作り出された必要でしかない場合が大半だ。
 もうひとつの事態は、人間の側が機械による「私」を真実の「私」として受け入れるかどうかという問題と表裏一体をなす事態で、人間の側が機械をもはや機械ではなく、ある種の人間とみなすという問題だ。コンピューターに「人工知能」という名称を付与するときにすでに予定されているのは、この「知能」が限りなく人間の知能に近付くことであり、そうであれば、「人工知能」をある種の人間と同類の「知能」とみなしてさしつかえないだろうという類推が流布することになる。汎用的なAIが構想された時代は、まさに人間並の「知能」の可能性が追求されたが、現代ではむしろ介護ロボットからメタバースまで、特定の用途に特化する形で部分的に人間(あるいはそれ以上)を演じるこようになっている。部分的に人間のある部分を演じることによって人間になりかわるのはフェティシズムの特徴だが、これは、人間の認識(心理というべきか)が機械を部分的に人間とみなすフェティシズムであって、技術至上主義が率先して社会の共同意識として形成しようとしている側面だ。人間もコンピューターもどちらも、計算させれば同じ答えを出す。コンピューターと脳とは、一方はデジタルであり他方はアナログだというその本質的な仕組みの差異を論じることそのものを却下してしまう。
 コンピューターが介在するコミュニケーションの場合、人工的に構築されたコンピューター相互の通信の領域があり、その多くが私とあなたの意識やコミュニケーションで意図されているメッセージとは相対的に異なる領域にあり、しかも、この通信の領域なしには私とあなたのコミュニケーションそれ自体が成立しない。この非知覚的な構造は膨大な広がりをもっており、誰もその全体を把握することはできない。この非知覚過程のなかで、私とあなたが誠実に自分の感情や理解に沿った会話をおこなうとしても、この世界は私とあなた二人だけでできているわけではなく、私が語る話題の多くは、ネットの他の情報を介して得た知識だったりする。あなたにしても同じだ。何度も述べているように、ターゲティング広告から巧妙なAIによる入れ知恵まで、私の知識そのものがそもそも非知覚過程からの影響を免れていない。そして私とあなたの会話がSNSのチャットであったりしたとき、この会話そのものがビッグデータの一部に追加されて、私が何者なのかを判断する材料の一部をなすことになる。さらに悪い冗談かもしれないが、いま対話している「あなた」が人間なのかどうか私には確認の方法がないかもしれないが、Googleのような企業にはそれが可能かもしれない(注43)。
 こうして、私が何者であるのかが他者を媒介として(他者とは、自己のなかの他者と、文字どおりの意味での他者とがあるから、そもそも複数だが)、私と呼ばれる自己の同一性が構築されるという場合、ここに、コンピューターを介したコミュニケーションが介在することによって、この自己の同一性それ自体が本質的な変更を被ることになる。人間は社会的な動物だから、私というパーソナリティが社会を構成する他者との関係のなかで構築されるというだけでなく、私は、コンピューターを介してAIが構築する私をも私のパーソナリティの一部に意識されない形で受け入れ、その結果、私がこれに反応して引き起す言動が再帰的にデータ化されてデータとしての私の一部を構成しながら、他の人間の私についての理解に影響することになる。だから、データ化された私と、そうではない私を明確に区別することはできないのだ。私が認識し感じるあなたについての私の受け止めの何らかの部分は、データ化されたあなたを含んでいるのだが、それがどのような部分なのかを正確に言い当てることは不可能だ。
 非知覚過程は、人と人のコミュニケーションが、たとえ遠距離であっても、コミュニケーションの内容に影響を与え、しかもフィードバックによって再帰的その影響が自分にもはねかえるだけでなく、直接のコミュニケーションの相手を超えて、双方がとりむすぶコミュニケーション関係全体からの間接的な影響がコミュニケーションの意味内容それ自体に干渉する。こうした従来にはなかったコミュニケーションの構造が生み出された結果、言語活動は人間に固有であることに変りはないのだが、この言語活動や象徴的な行為を支える人間の他者と自己についての理解を生み出す意味の集合にコンピューターのアルゴリズムが目的意識的に関与することになる。重要なことは、当事者である人間たちは、このコンピューターを介して実行される言語活動への干渉に必ずしも自覚的ではないが、他方で、コンピューターのアルゴリズムを組み込む側――支配構造がその主な主体となる――は、目的意識的に関与しているという点にある。
 このような非知覚過程が目指そうとしているのは、人間の情動をコミュニケーションを通じて、とりわけ意味の世界を通じて、操作可能なものへと転換しようとすることにある。ここには、機械が人間を排除して置き換わるという機械化が引き起す問題とは異なって、人間は排除されるのではなく、機械とは異なるそのアナログな脳の言語活動の前提となる意味の世界に機械が介入することを通じて、機械による人間の支配、マルクスの言い回しを借りれば、死んだ労働による生きた労働の支配、あるいは人間労働の実質的包摂がコミュニケーション労働の世界を舞台に展開されはじめているということだ。

コンピューターと身体性

 会社で働くときとオフでくつろぐとき、人は服装から話し方までを変える。なぜ変える必要があるのだろうか。会社が「自由」であることを演出するために、あえてラフな服装を推奨する場合がある。しかし実際には労使関係に縛られた不自由な関係が偽装されるだけなのだが。そしてCOVID-19パンデミックのなかで、テレワークで自宅のパソコンの前でオンライン会議に臨むとき、プライベートな場所がオフィスになり、スーツに身を包まざるをえなくなる。職場のドレスコードがプライベートな場所を侵食し、コミュニケーションの流儀も変わる。これをプライバシーの侵害だと理解する人はあまりいないが、バウマンのいう監視社会の液状化とはこういうところに露出する(注44)。
 こうした知覚可能な領域に加えて非知覚過程の作用がコンピューター・コミュニケーションでは顕著になる。パソコンのような仕事の道具を多くの人たちは私生活でも使い続ける。私たちのプライベートな生活はすでに市場を媒介にしてモノの意味作用の集合によって構成されているが、これにコミュニケーションの道具が加わるわけだが、その機能の多くが非知覚過程を通じてインタラクティブに私たちの情動を捉える。私たちの意識を構成していることがらのなかには私が抑圧して無意識に押し込めた「何か」が作用するかもしれないし、私たちが「判断」と呼ばれる過程を通じて、抑圧を制御することは知られていたが、私が操作するコンピューターを介して可視的なデータとしてディスプレイに表示される内容が私を密かにプロファイルしたりつきまとって取得したデータに基づいて私の言動を意図的に操作しようという底意をもっているなとどいうことは、これまでにはなかったコミュニケーション構造だ。私たちが外部環境との間で開かれた関係をとることを通じて私の身体性が構築されるという意味で、身体性は社会的・歴史的に規定されたものとして「意味」を与えられるわけだが、私と外部とのインタラクティブなコミュニケーションでありながら、人工的な機構として機械化されて私の意識にはのぼることがないが、私とのコミュニケーションは確実に実行されており、このコミュニケーションの影響から私は逃れることができない。インタラクティブであること、ある種のでっちあげではない実際の私の動静を何らかの手法でデータ化して「客観性」を装った証拠を伴なってフィードバックのメカニズムが介入していること、こうして私たちは否応なくこのプロセスの共犯者に仕立てあげられている。
 誰もが少なからずもっているフェティシズムが、コミュニケーションを制御するコンピューターが作り出す「世界」に対して形成されることは、それがコミュニケーションを構成する他者を巻き込んで自己のパーソナリティに影響を及ぼす場合であっても、それを、コンピューターによって外部から与えられた意識されない刺激による非本来的なパーソナリティなのだ、などということはどのようにして説明することが可能だろうか。むしろパーソナリティそれ自体が関係の産物であることを踏まえれば、この関係が出生から大人になるまでの生育期に周囲の親密な人間関係によって影響されるように、あるいは、マスメディアの大衆文化によって影響されるように、私を取り巻く様々なモノによって影響されるように、スマホや家庭内のIoTやAIロボットによって影響されるとしても不思議なことはひとつもない。スマホそれ自体であれ、SNSの「お友達」であれ、ゲームのキャラクターであれ、実在か非実在かを問わず、対象に対するある種の恋着は、双方向性の精度が高度化すればするほど、これがある種の転移の対象となり、フェティシズムが強固な基盤をもつようになるだろう。こうした過程が社会的な規模で、多くの人々のパーソナリティの基盤を形成するようになると、ますますこのフェティシズムへのとらわれからの解放は難しくなる。コンピューター・コミュニケーションの双方向性は、多くのSF小説が予感しているように、より一層深く人間のパーソナリティに影響を与えるだろう。
 デバイスは私の身体の延長として、プライベートな場所を共有するモノでもある。かつてのデスクトップパソコンよりもラップトップの方が可搬性が大きいために、身体との結合は強固だが、スマホはこの傾向をさらに推し進めた。この身体との一体性は、アップルウォッチやFacebookのスマートグラスのようなウエアラブルデバイスやメタバースのように、ビッグデータによって構築されたバーチャルな私の「分身」としてのアバターが構築されるといった方向へと技術開発が一挙に進んでいる。そして、こうした傾向の究極の姿が脳とコンピューターを直接接続する脳・コンピューター・インターフェース(BCI)関連のデバイスということになるだろう。この方向に内在されているのは、デバイスが私たちのプライベートな場所(その究極の場所が脳そのものだ)に組み込まれ、24時間密着することを通じて私たちの言動を細部にわたってデータとして取得することによって、「私」とは何者なのか、その特異性をプロファイルしながら行動や意識そのものを制御しようという思惑が資本や国家にはある。この過程は、表層にある私とデバイスを媒介したコミュニケーションの可視的なレイヤの下に、非意識的な過程があり、ここでは技術のレイヤとして、私が自覚しない私に関する膨大なデータが動員される。消費者としての私、有権者や「国民」としての私を制御したいという欲望をもつのは、私ではなく、やつらだという自明のことが見落とされがちになる。しかしこの彼らの戦略の未来は所期の目的を達成できないだろうと思う。
 このように私たちのプライベートな空間に入り込む当の装置は、私たち人間のアナログで矛盾に満ちた判断の流儀とはまったく異なる意思決定の方法を持ち込む。このシステムのアルゴリズムは、目標設定の前提をなす動機の是非については判断停止し、マニ教的な二分法を通じて実行されながら、システムは自壊することなく自己再生産すべきものとして維持される。私たちは、このシステムを操作する主体であるのではなく、このシステムが操作する対象でしかないが、同時に、ある種の共犯者に仕立て上げられもする。これは、私が無媒介に私に対してよそよそしい存在になるというふうにしか実感できないという意味で、疎外の究極の姿だろう。支配構造は、このような非知覚過程に統合された私がパーソナリティとして破綻せずこれに適応するという最悪のシナリオを希求する以外に自らの延命の道がないところまで追い詰められている。
 フィードバックを「内臓化」させたプログラムは、制度の支配者たちが本能的に欲望する不死であり永遠の権力生命の実現をシミュレートしているのかもしれない。支配的イデオロギーの永遠への願望には必ずといっていいほどフィードバックすべきいま現在に直接連なる「過去」や「神話」「伝統」――その多くが偽造されたものにすぎないのだが――への回帰が伏在している。支配者たちが権力の正統性の口実に伝統を持ち出すとき、彼らが権力の私物化を企図しはじめたことの兆候だ。コンピューター・プログラムのアルゴリスムの窮屈な世界と、伝統や神話への回帰による再生を通じた自己維持のカタルシスをある種の超越――この場合は、コンピューター・技術によってグローバル化した「近代の超克」――への唯一の道だとみなす伝統主義との間には、共通した世界感覚と、問題解決の振る舞いがある。最先端を標榜する技術を携えた芸術が同時に「伝統」をも携えて自らの正統性を誇示するありようは、国策としてのメガイベントに回収されたクリエーターたちの無意識のナショナリズムが繰り出す過剰な技術至上主義芸術に端的に示されている(注45)。個人としての人間も社会も、外部に開かれた開放系としてしか成り立たないし、そこには、固有の始まりと終わりがあり、人間にとっての時間=歴史は、均質で無限に続く時間を前提としてはいないにもかかわらず、この歴史的な宿命を彼らは受け入れたがらないのだ。
 このような奇妙に見える事態がありながら、実際に社会の権力として歴史的な一時代を画すことがんぜ可能だったのだろうか。合理主義の政治的な形態としての法による統治が人々の生活の隅々にまで波及するようになるにつれて、人間が本質的に有している非合理的な側面をもてあますようになったからだろうか。私たちは、合理的な判断によって言動を制御するコンピューターのような意思決定に支配されているわけではない。プライバシー空間を解体・侵食して繁殖するSNSの言説空間は、非合理性を公共における言説のあり方とすることによって、事実上の言説のヘゲモニーを握りつつある。これは、まだこれから起きるであろう出来事の序盤戦にしかすぎないように思う。
 GAFAのようなプラットフォーム企業は、伝統的なマスメディアのリテラシーのプロフェッショナリズムによって排除されてきた大衆の死の欲動や破壊衝動に新たなビジネスチャンスを見いだし、大衆の欲望の直接的な表出を可能にする舞台を設定することによって、言説空間市場を拡張しようとしてきた。この意味でいえば、巨大な多国籍企業が大衆のプライベートなコミュニケーションを市場化する争奪戦のなかでプライバシーが解体しつつあるということができる。ヘイトスピーチや偏見は、プライベートな言説の内部で密かに温存されてきた支配構造のイデオロギーを大衆が、新たなコンミュニケーションのプラットフォームを通じて漏出させたものであって、資本や国家に倫理や責任を期待することはおかど違いだ。
 AIの是非論争が活発だった1980年代に、反AIの急先鋒の一人、哲学者のヒューバート・ドレイフェスは人間とAIとの本質的な違いとして、日常的な経験のなかで柔軟な判断や行動の術を直感的に体得する点を強調した。たとえば、自転車の乗り方を習得するという場合、これを口で説明して理解しても、乗れるようになるわけではない。ドレイフェスは次のように言う。
「自分が自転車に乗れるからといって、その経験から具体的な法則を引き出して、他人に乗り方を教えることができるだろうか。転ぶ時にも角を曲がる時にも自転車は傾くが、ここまでなら大丈夫という微妙な感覚を言葉で説明できるだろうか?」「答えは「ノー」だ。自分が自転車に乗れるのは、時には痛い目にあいながら練習を積んで、「コツ」を身につけたからである。学んだことを言葉でいい表わせないという事実は、何を意味するのか。それは、データと法則をいくら集めても「コツ」は身につかないということである(注46)」
 しかし、残念ながら、二足歩行ロボットは自転車に乗ることができるようになってしまった(注47)。ロボットが人間の「コツ」を習得したわけではない。ロボットに自転車を操縦させる方法は、「コツ」に頼り、練習を積むという人間がやってきた方法以外のいくつもの方法のなかで機械に可能な方法を選択したからだ。機械(自転車)を機械(ロボット)によって制御するには人間とは別の機械工学的な方法をとればいいだけのことだ。鳥のように空を飛べなくとも、別の方法で飛ぶことが可能なように。ドレイフェスが勘違いしたのは、自転車に乗ることが可能なロボットの制御という課題を、人間の「コツ」なしに自転車には乗れないにちがいないと思い込み、自転車を制御するという課題を「コツ」の話にずらしてしまったところにある。データと法則を集めてやるべきことは「コツ」を身につけることではなく、自転車を操作可能な力学的なプロセスを設計することだ。
 さて、問題の重大なところは、ドレイフェスの勘違いが、ロボットが自転車に乗れるようになるという現実に直面すると、別の勘違いを生み出す。それはロボットが人間と同じような「コツ」を習得して自転車に乗ることができるようになった、という勘違いだ。この勘違いは、自転車に乗れるようになる方法は「コツ」以外にないという思い込みを前提にして、ロボットも「コツ」を体得したかのように錯覚してしまうところにある。この錯覚が錯覚として自覚されないとき、人間はロボットにある種の人間的な性格を読み込んでしまうことになる。つまりフェティシズムである。人間もロボットも同じ結果を達成したことから、結果を導いたプロセスを人間の思考や行動がとるであろう機械の力学的なメカニズムには還元できない人間に固有と信じられているプロセスになぞらえる間違いをおかすことになる。もちろんドレイフェスはこのプロセスの違いを重視しているのだが、言葉にできない曖昧さや合理的判断に還元できない柔軟さに基づく行為の帰結に対して、AIの研究者たちは、コンピューターのアルゴリズムによって同じ結果を導くことができるような迂回路の研究を重ねてることで、この難問を解決してきた。自転車に乗れるか乗れないか、とかチェスでどちらが勝利するかとかは、結果の是非が明確な例だが、私たちがAIに判断を委ねて何事かを決定するという場面は、是非の判断そのものが不分明な場合がますます増えており、そのときに、AIに対してある種の感情移入ができるかどうかが、AIの決定を受け入れるかどうかの重要な要素のひとつになる。ネットショッピングで、あの商品を買うかこの商品を買うか迷っているときに、アレクサのようなAIロボットに相談して、買う商品を決めるという行動をとったとき、このAIのアルゴリズムが私の購買行動に影響を与えたといえる。こうした場合、この決定は私の決定ではあるが、純粋に私の決定とはいいがたく、その一部がAIによって左右されるわけだが、伝統的な広告で自分のお気に入りのアイドルに引かれてつい商品を買ってしまうという行動と共通するところがあるが、他方でAIとの間にはコミュニケーションが介在しているという点が決定的に異なる。AIと私の間のコミュニケーションが私の情動に影響し、私の一部になる。これはフェティシズム一般の特徴がAIにも妥当するというだけなのだが、AIはそれ自体が巧妙に人間を演じるネットワークに繋がったインタラクテイブな存在だという大きな(深刻な)違いがある。

4-6 フェティシュな人工知能

フィードバックの副作用

 人工知能をめぐる長い論争は、主に、コンピューターが人間の「脳」に代位しうるものかどうかをめぐる議論だったといっていい。アラン・チューリングの有名な論文「計算機械と知能」は「機械は考えることができるか」という問いから出発している。人間のように考える可能性を機械に委ねることがまったく不可能ではないという見通しがあるからこそこうした問いが立てられる。人間と機械=コンピューターによる情報処理の関係が、一方に人間が存在し、他方に機械あるいはプログラムが存在するという明確な外的対立の構図のなかで議論が展開されていた時代は、過去のものとなった。
 よくひきあいに出されてきたチェス競技における人間とコンピューターの対局を例にとって、考えるコンピューターが論じられてきた。コンピューターは確かにチェスという特定の競技に関してなら、人間を上回る能力をもつことがある。このことをもってコンピューターが人間と互角の「脳」をもつようになるのではないかというようなことはたぶん、誰も予想していない。人間の特定の能力だけをとりだして機械とその能力を比較するというのであれば、現代のデジタルコンピューターでなくても、多くの機械は既に人間の能力を超えている。スピードでは自動車が優り、空中を飛ぶことでは飛行機が圧倒的に優れており、建設用重機は人間の筋力をはるかに上回る能力をもっている。電卓や計算尺は大多数の人々の暗算の能力を凌駕する。だからといって、電卓は人間の脳の一部だとかとみなすことはない。
 機械がフィードバックの機構を備えて、人間とインタラクティブに対応できることが、たぶん、機械が人間の「脳」に近い存在だとみなされるひとつの条件になっている。このインタラクティブな関係、つまり、コミュニケーションを通じて、人間が世界に対して理解を構築する過程は、心理学的な過程であり、理論的あるいは理性的な過程に還元することはできず、経験や情動も動員される過程である。

恋着と同一化の対象としての人工知能

 こうしたコミュニケーション環境のなかで、人工知能が果たす役割は、かつての実験段階から実用化の段階に入ることによって、より具体的になってきている。人工知能の是非をめぐる論争については別に述べるが、これまでもっぱら議論されてきた人工知能問題は、機械に人間の意識や感情を理解できるのか、あるいは機械が感情をもつことはありえるのかといった観点に立つものだった。私は人工知能の普及のなかで起きている問題は、このような問題と立て方ではなく、人間は人工知能をどこまで人間とみなすようになってきたのか、というところにあると考えている。
 私たちは、AIが機械であるにもかかわらず、あたかも人間になぞらえることが不可能ではないような性格をもつものへと変貌する過渡期を経験している。いま起きているのは、機械が人間の「脳」を代位するようになる進化の過程を歩んでいるだけではなく、むしろ人間のほうが機械に歩み寄り、機械を人間のようにみなすことを積極的に肯定するようになってきた、ということだ。その結果として、機械がますます人間に近づいてきたようにみなされるが、そうではなく、人間が機械の「考え方」に近づいてきたといったほうがいいのだ。人間は機械のように考えることが求められており、機械のように考えるということは、意味を了解することなく、記号の配列から一定の結論を導くか、あらかじめ与えられた結論を不動の与件として、この結論を実現するための最適な手段をとること、つまり、結論や目的の「意味」が限りなく稀薄化され、この「意味」を問うという人間的な思考を喪失するようになってきたということでもある。19世紀以来、人間は機械に忖度し、機械を人間の理想型にさえ押し上げ、それが現代では「脳」をめぐる機械=コンピューターへと展開してきた。AIは人間になる必要はまったくない。歴史の教訓からすれば、人間のほうがAIに同調することのほうがよっぽど簡単なことだ。このコンピューター・フェティシズムこそ私たちが最も警戒しなければならない事態だが、商品、貨幣のフェティシズムにとらわれた経験からすると、社会の総体を覆うフェテイシズムから逃れる術は容易なことではない。機械なき時代の人間への回帰は、そのひとつの選択肢だろうが、それだけが選択肢なのではない。
 ダナ・ハラウェイがいう「サイボーグの神話(注48)」は、ある時期まで女性が機械と融合しながらも機械を制御可能ななかに封じ込めることによって、男性至上主義ポリティクスを覆えせる可能性がみえていた時代の問題提起だった。ハラウェイは、20世紀後半の機械は自然と人工、心と体の従来の境界を曖昧にし「自然とみなされている存在(略)の確実性が、掘り崩されている」とし、この曖昧ななかで「サイボーグが何者になるのかという問い」がラデイカルなものになると指摘した。
「アジアでチップを製造したり、サンタ・リタ刑務所でスパイラル・ダンシング(1980年代はじめに、アメリカ・カリフォルニア州のアラメダ刑務所で、看守と反核デモの参加者が連携して行ったスピリチュアルかつ政治的な実践)を踊っている不自然きわまりないサイボーグの女性たちこそが、構築された存在としての一体性/団結によって、有効な抵抗戦略を導き出す存在なのかもしれない(注49)」
 微小で遍在し「不可視」でもあり、ある種の「エーテル」ともいえる属性を備えたサイボーグは遍在性と不可視性を備えることによって、機械をめぐる経験が根底から覆され、しかも「小型化が権力に関わる」がゆえに、サイボーグには対抗権力の潜勢力があるともみなすことができた。このある種の神話的な問題提起は、残念ながら、コンピューター・テクノロジー/コミュニケーション(CTC)の非知覚過程が支配的構造によって構築され、この不可視の構造が家父長制的に編成された消費過程にある人々の意識と意味を制御するようになることによって、AIとの関係のなかで同一化と恋着が既存のジェンダー秩序を再生産し、開発過程そのものの深刻なジェンダー差別の構造のなかで、多くの再定義が必要になってしまった。ハラウェイの神話の復活のためには、なによりもまず非知覚過程を支配的構造から切り離すことが必須の前提条件になる。そのうえで、神話の再構築がはじめて可能性を帯びるのだろう。
 機械であれ自然であれ、「モノ」を人間はものそれ自体としては理解しない。理解には必ずモノの意味、つまりモノの言語化を介することが必要だ。ここにフェティシズムが関与することになる。いま私たちが注目すべきなのは、人工知能のフェティシズムである。人工知能を搭載したロボットやコンピュータープログラムが、あたかも人間に類するものであるかのように人々がみなし、さらに、人工知能による判断を間違いのない正しい判断の基準に据えるようになることである。
 たとえば、テレビ番組でAIを用いたカラオケバトルのような番組では、歌い手の評価をAIがおこなう。AIの評価は絶対だから、出場者たちはAIに評価されるように自分の歌い方を調整する。歌の情感の込め方などの感情面までAIが判定する。この番組ではAIが神であり、AIに疑念を挟むことは許されない。この番組を観ている視聴者もまたこのAIフェティシズムの世界にとらわれることになり、歌の巧拙を自分の感性で判断することを断念してAIに委ね、AIの判定と自分の判定に食い違いがあれば、自分の判断力に何か間違いがあるかのような錯覚に陥いる。AIによる歌の評価システムはカラオケで一般的に普及しているから、この番組が採用している評価システムは番組固有のことではなく、音楽文化のなかに一定程度定着しているものでもある。
 介護や福祉の現場でもコミュニケーションロボットと呼ばれるカテゴリーの製品に注目が集まってきている。
「一人暮らしで寂しい、アレルギーでペットが飼えない……。そんなときは、コミュニケーションロボットが癒やしの存在になるかもしれません。コミュニケーションロボットは、言葉や動きを通じて人間とコミュニケーションをとることを目的とした製品です(注50)」
 アニマルセラピーの代用として動物を模したロボットなども製品化されている。機械の音声認識が進化したことによって、ますます人間がロボットを人間であるかのように擬人化することに違和感をもたなくなってきた。家庭用のスマートスピーカーは呼びかけるだけで命令内容を判別して必要な操作をおこなうために、人間であるかのようにみなす感情が人間の側に生み出されている。
 いま起きていることは人間がロボットを積極的に人間であるかのように扱うという現象は、人間にとってはなじみ深い理解のあり方であり、これは個人の特異な嗜好ではなく社会的な現象だ。人々の社会的な共同作業としてAIフェティシズムが生成される。フェティシズムとしてのAIは、その機能の人間との類縁性とか精密性といった技術的な人間との近しさはさほど問題にならない。外観も人間と誤認されるような形状である必要もない。むしろ人間の側がAIロボットに同一化するか恋着するような心理の形成があればいいのだ。この過程は、集団心理における個人の自我の変容過程がAIをめぐって形成されるということを意味しているのだが、フェティシズムそのものが人間の情動や対象理解にとって珍しくない現象だということを踏まえると、AIフェティシズムは、AIだけのことではなく、社会の様々な局面に見いだせるフェティシュな現象のひとつとしてAIフェティシズムを位置づける必要がある。
 私たちのコミュニケーション相手には様々な人たちがいる。赤ん坊ともコミュニケーションするし、言葉が通じない外国の人ともコミュニケーションする。ペットとも話す(意思疎通できたつもりになれる)し、ときには育てている花や野菜とも話す。クルマ好きは自分の車に話かけたりもする。しかも、理路整然と文法どおりには話さないのが普通だ。このなかで、私たちは対話の相手が私の話を理解できているかどうか、また、私が相手の話を理解できているかどうかについて、繰り返し判断しながら相互の理解を確認しようとする。相手が私を理解できているかどうかを最終的に確認する方法は実はなく、まったく理解できない外国語の話者に対してあたかもわかったかのような態度をとってしまうように、コミュニケーションが成立していなくても、外形的には成立しているように振る舞うこともできるし、そうであっても、結果として私が望む目的が達成できてしまう場合もある。
 先にも言及したAI開発草創期に書かれたヒューバート・L・ドレイファスの『コンピューターには何ができないか(注51)』でのAI批判は、この曖昧でいいかげんなコミュニケーションがAI開発を利する結果になっている点には言及せず、また、人間の側がAIに擦り寄り、AIフェティシズムをコミュニケーション環境に織り込むようになることを想定できていない。これは言語に律儀な哲学が陥りやすい罠でもある。ドレイファスは一般的な人工知能の開発の無理を指摘して人間のコミュニケーションや理解を支えている背景にある複雑な文化的な文脈や感情全体をコンピューターが「理解」しうる余地のないことを繰り返し指摘した。しかし、私たちは、文化的な背景も文脈もほとんど共有できていない相手とも、適当に会話することが可能であり、相手が自分の背景や文化を知らないのであればそれなりの対応ができる。相手が機械であってもこうした様々な文脈のレベルに私が合わせることでコミュニケーションの場を構築することが可能だということをドレイファスは軽視したと思う。私たちは哲学者の思惑どおりには話さないし、生きてもいない。
 他方で、アラン・チューリングは「計算機械と知能(注52)」で、テレパシー現象などにも関心を寄せながら、機械が考えるという課題のさしあたりの出発点として、人間の子どもの心を模倣することを提案している。彼には子どもは白紙のノートのようなものだという通俗的な子どもの心についての理解しかない。 科学者が自らの専門外の領域を参照しなければならない場合、通俗的な常識をうのみにするという欠点がここには如実にあらわれている。
 こうした草創期の議論は、その後のAI開発のなかでその多くはもはや考古学としての意味しかもたなくなってしまったが、他方で、一貫して学者たちが軽視しているようにみえるのが、CTCが資本や政府が開発する技術であるという問題の背景に何があるのかというAI技術の開発と普及をめぐる支配的構造への批判的な捉え返しだ。

4-7 官僚制と法の支配の終焉

政治過程にコンピューターが介在するとはどのようなことか

 国家がもっぱら行使できて資本には行使できない「力」がある。それがこれまで法と呼ばれてきたものだ。法は奇妙な存在で、文字として書かれた一連のテキストを人間が行動の規範として理解し、あるいは実践する。テキストと行為が権力の枠組みを規定する。従来、資本がこの法を自らの自由にするためにとってきた戦略は政治的権力の担い手を資本家階級の利害代表となる政治家や官僚として組織することだった。現代の資本は、法ではなく自らが直接コントロール下に置くことができる技術によって、統治機構の行動を監視し制御する直接的な力をもてるようになってきた。ここでいう技術は、古典的な機械の技術ではなく、人間―機械の有機的なメカニズムをコンピュータープログラムで制御するようなメタ機械あるいはメタ技術である。
 官僚制は、法による統治機構の統制のための人的組織である。人間に理解できる言語で記述された法というルールブックを共通の参照枠とすることによって、統治の正統性を検証するプロセスが担保されてきた。このような組織が必要だった理由は、国家の人口管理に必要な情報処理が紙とペンによって人間の事務処理能力に依存していたからだ。法を制定する議会は、主権者の代表によって構成されることによって、法が民主主義に基づく正統な規範であるという形式を満たし、この法を理解できる執行者たち、つまり、内閣もまた直接間接に選挙で選出された者たちによって構成される。法の実体は、書かれた条文にあるのではなく、こうした法の制定から執行に至るすべての過程を担う集団が法を解釈し、実施に移すことで現実の世界を構成することになる、この一連の解釈と執行による出来事それ自体である。この過程は日常的に繰り返し様々なレベルで検証される。法は条文そのものとして実在することはありえず、常に解釈されたものとしてしか実在しないし、また、常に、社会を構成する様々な事象との関係のなかでしか、その意味をもたない。主権者としての私たちは、法の条文を現実の世界と対照しながら、現実の世界が法の規範を逸脱していないかどうかを判断しようとする過程を通じて、実際の法が効果をもっているかどうかを判断しているということを忘れてはならない。これは日々様々な状況のなかで、繰り返しおこなわれている日常的な判断だが、その判断の妥当性は、警察の裁量によって歪められ、裁判所によって正統性を与えられるのであり、私たちには解釈することはできてもその「正しさ」を通用させる力はない。こうした背景をもちながら、条文をめぐるレトリックが実体としての経済と政治に、あるいは日常生活の直接的使用価値に対する意味の生成に影響する。
 この一連の過程にコンピューターによる「解釈」「理解」が介入している場合、いわゆる法の支配が成り立つとすれば、コンピューターが人間と同様に法を理解できるという前提をたてる必要がある。コンピューターの法理解とは、そのプログラムが人間と同様の法「理解」を実装できるかどうかにかかっている。従来の人間だけが関与する意思決定の過程では、言語の問題を別にすれば、官僚であれ裁判官であれ議員であれ、彼らの意思決定過程は、ある意味で「私の意思決定」についての理解を参照しながら理解可能なものだが、コンピューターについては、出来事の処理過程はブラックボックスである。コンピューターの意思決定過程がブラックボックスであることによって引き起こされる混乱は、金融市場では何度も経験ずみであり、伝統的な金融の専門家よりも物理学者に注目が集まり、金融工学のような分野がもてはやされた。同じ現象は生物学でも起きてきた。現実の生き物そのものを相手にするのではなく、情報化された遺伝子が研究対象になり、生物学は情報科学の下位部門であるかのような様相を呈してしまった。コンピューター・サイエンスが市場とアカデミズムのパラダイムを揺るがしてきた状況と、私たちの統治機構とは無縁の話だと高を括ってきた伝統的な政治家たちや官僚が、ようやくその効用とリスクに気づきはじめ、知識が権力の源泉でもあることを熟知している彼らは、彼らがもっている既存の権力によってコンピューターによるデータ処理、つまり機械化された知識を権力科学の基盤に据えることで延命を図ろうとするようになった。これには資本主義内部の構造転換がもたらす摩擦を避けられず、現象的には「危機」の様相をみせるが、これが制度内危機に終わるのか、それとも制度それ自体の、つまり資本主義そのものの危機になるかどうかは、このコンピューターというテクノロジーをもたらしてきた歴史的な経緯それ自体を反資本主義の運動と思想がどのように評価するのかにかかっている。
 このように考えたとき、統治機構の情報処理とコミュニケーションにコンピューターに基づく意思決定が関与することによって、事態は本質的に変化する。コンピューターはある意味で、統治の執行機械となるが、その動作を制御するのは法ではなくコンピュータープログラムであり、さらに言えば、もはや法の支配に服するかわりにプログラムを自らの権力にとって都合がいいように構築することが可能になった執行権力が突出した権力を握ることになる。法にかえてコンピュータープログラムが妥当性判断を担うことになるという問題は、プログラマーの問題ではなく、プログラマーにある意図に沿ってコンピューターを作動させるプログラムを組むことを指示する権力構造の問題になる。
 適法にしか作動しないようにコンピュータープログラムを構築することは容易ではない(注53)。そもそも適法の概念そのものが政治的だからだ。憲法9条で戦争放棄が定められているから、武器を政府が購入できないようにプログラムを組むことができるだろうか。そもそも「戦争」「武力」などの概念をコンピューターのプログラムとして実行可能なように定義しなければならず、この定義そのものが政治的な論争の的である以上、定義は政治的な恣意性を免れない。こうなると、「コンピューターのプログラムが敵基地攻撃用ミサイルの購入をブロックしなかったので、適法な財政支出である」といった言い訳がまかり通るだけだろう。
 膨大なデータを処理するには、AIなどの仕組みを活用する以外にない。1日に収集されるデータはその日に処理されなければ積み残しが翌日に繰り延べされ、これが積み重なれば、結果として膨大なデータを効率的に処理できないままに放置することになる。現段階でいえばAIや深層学習などの仕組みはかなり信頼性に欠けるが、近い将来、誤認識は格段に減るだろう。それは、機械が賢くなったからだとばかりはいえない。むしろ人間の思考が機械に適応した結果、つまり人間が共犯関係を担うからでもあるだろう。このことを肯定的に受け入れるとすると、ますます膨大なデータを機械の処理に委ねるというデータ処理の拡大再生産をもたらす。これが資本の価値増殖と連動すれば、ここに資本の投資機会が生まれることになる。そして、政府はこの処理の結果を政策に取り入れることになる。 だからこそ、共犯にならないための自覚的なコミュニケーションの戦略が、現代の反資本主義運動にとっては必須の課題になる(最終章でこの問題を取り上げる)。
 立法府が審議過程で政府が用いるプログラムが法と整合するのかどうかを検証するという手続きはとられていない。こうした手続きをとることは不可能ではない。国会議員がプログラムのソースコードを読み、その実行行為が適法であるかどうかを判断し、必要があれば、より適切なプログラムを提案するといったことをすればいい。プログラムが法の支配のもとで書かれるというのはこういうことを意味しているはずだ。こうしたことを議会に義務づけることはできないだろう。ここに、議会=立法府の決定的な限界が露呈している。さらに、実際にプログラムを実装してみてわかる不具合がありうる。他のプログラムと組み合わると想定外の問題を起すかもしれない。あるいは、OSの更新によって想定どおりには作動しなくなることもありうる……。したがって恒常的に第三者による監査が欠かせない。要するに、立法府は、プログラム開発の組織になり、日常的にバグを修正するための協議をおこなえなければならない。しかし議員たちがソースコードと格闘することはもちろん非現実的だ。こうしたことが非現実的であるなら、結果としてプログラムを効果的に適法なものとしてチェックする機関が存在できないということを意味している。機械が下した決定の妥当性をうのみにするしかないことになる。こうしたプロセスが取り返しがつかない悲劇を生んでいることは、繰り返される無人爆撃機の誤爆をみればよくわかる。同じことは、警察が保有する顔認証データベースのように先進国の日常的なレベルに浸透している人権侵害にも見いだせる。これは、民主主義にとって深刻な問題だが、もっと深刻なのは、これが深刻な問題だという認識が共有されていないことだ。既存の権力者はコンピューターを自らの知の権力装置として駆使し、その中身をブラックボックスにしておく一方で、人々はコンピューターを擬似的な神のようにみなすフェティシズムにとりつかれてしまい、ブラックボックスの実体を曝露することを諦め、その結果を無条件に受け入れてしまっている。この現代の卓踊術によって、権力を握った者たちがプログラムを法による支配の外側で利用することが可能になっているのだ。
 たぶん、CTCによる支配的構造によって、法の機能は実質的な権力の抑制や権力行使の正統性を支えるものから、よりイデオロギー的な効果を意図したものへと形骸化するだろう。この形骸化は民主主義の形骸化を招く。私たちに残されている選択肢はいくつかあるが、私は、CTCを支配的構造から明確に切り離し、非知覚過程の可視化によって既存の権力の緩やかな衰退を導くことに期待している。

では、現行の法の支配のほうがマシなのか?

 上で述べた問題は、従来は法が果たしてきた役割が副次的地位に格下げされるという問題だ。法に基づく行政機関へのチェックのを嫌う官僚や政権を担う政治家たちがとる対抗手段は例外なく、「秘密」主義による隠蔽だが、統治機構の実態を巧妙に隠蔽する手法にコンピューターが介在する意思決定のブラックボックスが新たに加わると、法の支配の建前に抵触しないような抜け道としての技術が前面に登場する。
 こうして官僚制や政治家による統制をコンピューターの情報処理が補完するかのようにして、実態としてはコンピューターによるデータ処理によって政策の意思決定が支配されるような逆転現象が起きる。そして、このデータ処理とコンピューターネットワークインフラがICT産業によって担われることによって、従来官僚制がその権力の源泉としてきた情報の独占と制御の力を次第に失うことになる。しかし、他方で、民間IT産業は政府を最大の顧客とし、国家財政による投資なしには存続できないことにもなり、この点では、むしろ政府が民間資本の最大の顧客になることによって、資本に対して優位に立つ。こうして民間資本と政府が技術と資金を相互に依存させながら、さらに民主主義的な人事とはまったく相いれない手法で人的交流が実施されることによって、構造的な一体性を獲得するようになってきた。かつて、アメリカで典型的に発展してきた軍事産業と政府の癒着の構造が、人々の日常生活とコミュニケーションの領域全体を覆うものとして、どこの国でも形成されるようになってきた。こうした構造を可能にしたのが、市場の外部にありながらコミュニケーションの回路として形成されてきたパラマーケットの存在だ。
 政治的な権力が、その正統性を表明でき、同時に、社会の構成員がこの正統性を妥当なものとして承認する相互確認の手立てが近代国民国家では膨大な人口を基盤にして実現されなければならない。国家規模の合意形成が選挙、投票、マスメディアを通じた情報散布、有権者相互の「表現の自由」の権利保障といった一連の制度の枠組を前提にしており、この制度が可能としている範囲のなかで「合意」とみなされる事態が生成される。このシステムは、近代的個人主義の理念を背景にして、個人としての思想信条や表現の自由を保障するとはいうものの、インターネット以前には実際には、個人が自らの思想信条を誰に対しても表明する回路そのものが存在しなかった。理念は擬似的にだけ実現されているかの外面的な体裁をとってきただけであって、個人の自由な表現は基本的に身近な人間関係のなかに限定されていた。この意味で、近代資本主義の統治機構が自由と平等を理念として民主主義的な意思決定によって権力としての正統性が支えられているというのは明らかな欺瞞である。しかし、自由でも平等でもないコミュニケーションを自由であり平等であると思い込ませてきた支配者たちの数世代にわたるレトリックは今では通用しない。

個人の意思と集団の意思

 近代国家が代議制による統治機構を確立することと、億単位の人口を「国民」意識によって束ねて法規範の正統性を「主権者」に納得させるためのメカニズムの開発は、表裏一体の関係にある。印刷技術から電波も利用した大量の情報散布技術への「発展」が、同時に、国民統合のために必須の社会基盤形成でもあることの歴史的意義は大きい。このようなシステムは、人々の合意形成をある一つの文書への同意という形式をとって確認する以外にないシステムでもある。その典型が成文法になる。法として制定された文書は、憲法であれ下位の法律であれ、単数形でしか成立しえない。日本に複数の憲法が並立するなどということはそもそも想定しえないだけでなく、「日本」という国家それ自体が複数存在することもまた想像しがたいことだ。こうして唯一の準拠枠としての「法」と、この法を前提とした執行組織としての官僚制が国家権力の物質的な基礎をなしてきた。
 この唯一性は、一人ひとりの実際の法に対する評価や理解のあり方からすれば、ありえようのない無理なことでもある。たとえば、署名運動とか宣言や声明を集団の意思として表明するという古くからある方法は、諸個人が個人として不特定多数に対して意思表示する力をもちえていなかった時代のなごりである。ここに明らかな同調のメカニズムがあるわけだが、その同調の正当性を支えているものが何なのかによって、声明なり署名のイデオロギー的な価値判断が分れることになる。いずれにせよ、これまでの慣習では、概略賛同できれば署名したり声明文に賛同の意思を表明したりするわけだが、わたしの意思がこのことによってすべて署名用紙や声明文に書かれている内容に取って代わられるわけではないことは誰でも知っている。私が本当に主張したいこと、意思表示したいことは、わたしの言葉で表明する以外にない。このことを、インターネットやコンピューターコミュニケーションが存在しない時代に実現することはきわめて困難だった。私の意思と集団の意思の間にあるこの避けがたい齟齬を、これまでの意思決定のシステムでは私の意思を抑制して全体の意思を優先させることによって「解決」してきた。ここで全体の意思と呼ばれているものは、集団のなかの指導的な位置にある少数の者たちが代表できるものでしかない。そして、この集団のなかの指導者たちは、相互に顔を合わせて合意形成をとることができる規模の人数に絞られてきた。議会であれ内閣であれ裁判所であれ、社会の権力を握る人々の集団の規模はひとつの会議場に収まる規模になるのが普通だ。億単位の人口を有する「国民」という集団も、最終的には、相互に顔を会わせることが可能な規模の人間集団にその意思決定を委ねるために、人々が個人として抱いている固有の「意思」の固有性は削がれるとしても、人々の固有の意思が全体に意思に置き換わることが人々の意識のなかに生じるのではなく、人々は全体の意思と自分の意思のずれのなかで、自己の意思の正しさを主張して全体の意思に抗うこともありうる。いやむしろ一般に、そうした抵抗が様々に存在する動的な過程を通じて一時的に全体の意思を体現する法や制度が具体化されるにすぎないというべきだろう。この不安定だが決して根底から全体の意思の構造そのものが崩れることがないダイナミックな過程それ自体を制御する力こそが権力そのものだといってもいい。
 こうして意思表明の自由は、メディアを支配できるごく少数の権力者だけに許された特権だった。この特権を、民主制は特定の個人から「主権者」集団へと移しながら膨大な人口を束ねることを可能にする合意形成の枠組みとして議会制と官僚制の精緻な情報統制技術によって実現してきた。そしてこれまでは、この意思決定とその正統性の確認はもっぱら人間と人間が相互にコミュニケーションをおこなうことを通じて実現されてきた。コンピューター・コミュニケーションの環境、とりわけインターネットはこの前提を根底から覆した。個人が不特定多数に対してみずからの意思を表明する回路が実現したために、集団的な意思の統一的で一体化された外観が次第に崩れ、集団のなかの諸個人の固有性があらわになってきた。権力者と無名の一個人が同じSNSやブログの情報発信プラットフォームで競いあうような事態はこれまではありえなかったことだ。私たちは、こうした事態を前提として新たな統治の構造の可能性を、しかも私たちにとっては好ましいとは言い難い傾向をここに見いだす必要がある。
 上部構造と土台の融合が究極で目指しているのは、資本が政治的権力の担い手になることなのだろうか。その可能性はおおいにありうるし、すでにSFの定番ともいえるダークな未来社会の権力が得体の知れない巨大企業だったりするが、たぶん、資本とか国家といった従来の概念では説明がつかない経済構造と権力構造が融合したよりやっかいな構造の創出へと向かう可能性がある。「融合」と述べたが、正確には、ひとつの構造に収斂するのではなく、複数の構造が相互に分散しながら全体としての経済的・政治的な支配を形成するリゾーム型支配あるいは分散型集権制をとるようになるかもしれない。

4-8 ナショナリズムの再生産構造

ナショナルアイデンティティ

 近代資本主義の政治権力は、相互に見知らぬ人々を一つの「国民」として束ねることが可能であるという前提にたって成り立っている。この「国民」としての観念は、人々が市場で生活手段を購入して「生活」を維持する一連の過程のなかで必然的に形成されるわけではない。俗な言い方をすれば、経済的土台によって形成されるわけではない、ということだし、マルクスもそのようには言っていない。
 わたしが何者なのかについての自己認識のなかで、そのものの消費を通じて自己を社会のなかのどのような存在として再生産するのかという問題は、きわめて抽象的な自己意識の形成を伴う場合がめずらしくない。市場を通じて供給され商品は、そのモノを買い手のわたしが使用することを通じて消費し、その結果が何をもたらすのかを少なくともわたしは理解している。このことが自覚されるからこそ商品の使用価値に対して対価としての貨幣を提供するという交換の意思が生まれる。自分が買うモノの効果や帰結を何らかの形で意識できないようなモノに対して貨幣を手放すことはない。市場では、使用価値を貨幣という抽象的な量によってその価値を評価するが、市場の外部の消費過程ではモノの直接的使用価値は抽象的使用価値と結び付いて、個別具体的な私生活に社会集団と共通した生活様式理解を生み出す。「私の生活」は「私たちの生活」に、「私たちの生活」は地域、所得、エスニックグループ、学歴など様々なファクターの組み合わせのなかである種の社会的共通観念として「生活」を誰もが描くことになる。この意味での「生活」を構成する個々の要因の多くが市場由来であるとしても、これらが集合として描く「生活」の観念像は市場だけで形成されるものではない。
 ナショナルなアイデンティティは、諸々のアイデンティティの上に立つ特権的なアイデンティティとして、唯一のアイデンティティであることをもくろむ。これは、市場経済では貨幣に体現されてきたものだ。
 資本主義的自由は市場の自由を中心に構築されてきた。貨幣は身分に依存しない「金」という物質の価値を根拠に一般的等価性という社会の共同意識を構築することで成り立った。つまり、金の直接的使用価値とは関わりなく、その意味使用価値に一般的等価性を付与するものだ。市場経済の自由が関わるのはこの意味使用価値としての一般的等価性を「金」という実物で保障することによって、その所有者が何者なのかに関わることなく、貨幣性が担保できる仕組みになっているからだ。
 歴史的にみれば、市場経済が貨幣=金から銀行券を貨幣とみなすようになったのは、貨幣のフェティシズムの基本的な性格が、物本来の性格に対する社会的な意味付与、つまり、社会を構成する人々が共通して「貨幣」だと認識するあるモノの直接的使用価値ではなく、意味使用価値に一般的等価性を付与するというところにある。不兌紙幣は金の裏付けがなく国家による信用だけで支えられているように、貨幣のフェティシズムは発券銀行の信用から国家の信用(正確には国家の後ろ盾をもつ中央銀行)へと変化することができるのも、市場経済の必須の条件でもある貨幣の一般的等価性という抽象的な性格を、社会の構成員の「共同作業」によってあるモノの意味として付与することが可能なフェティシズムが機能するからだ。この点で、貨幣は、階級社会を構成する資本家も労働者もともに共同作業者として利害を共有することによってこの一般的等価性を支える。市場がナショナリズムと不可分な構造がここにはっきりと露出する。中央銀行が発行する銀行券が「貨幣」とみなされるということは、貨幣のフェティシズムが国家のフェティシズムに依存するということを意味しているからだ。この段階で、貨幣は世界性を喪失し、私たちもまた、円とかドルといった「国民通貨」を用いることを強いられる結果として、匿名の世界性も一部を失うことになる。本連載ではこれ以上立ち入らないが、仮想通貨は、この国家のフェティシズムではなくネットワークの暗号技術に依拠するというこれまでにないフェティシズムの新たな選択肢を生み出したという意味でいうと、資本主義がナショナルなアイデンティティへと収斂するように意味世界を構築してきたこれまでの歴史に質的な転換をもたらす可能性がある重要な「発見」である(注54)。
 市場は商品に着目すると、選択の自由に着目して、資本主義の「自由」を論じがちだが、貨幣に着目すると、選択の自由のないフェティシズムとナショナリズムが見出せるのだが、貨幣にナショナリズムという政治のイデオロギー作用を読むことができる経済学はほとんどみあたらない。
 貨幣に端的に示されているように、資本主義が自由や多様性を理念とするとしながら、実際には「国家」という枠組みに人々を押し込めるときには、選択の余地のない唯一性を人々の意識のなかに形成しようとする。人々の側も「国民」としての意識の唯一性を肯定する感情が形成される。移民や難民あるいはいわゆる多重国籍者たちは、この支配的なナショナルなアイデンティティの構造のなかで疎外されることになる。こうした意識はどのようにして形成されるのか。この意識の形成にとって、日常を支配する膨大な富の集積としての商品世界が果たす役割があるのだが、この役割を市場の側からではなく、パラマーケットを通じたコミュニケーションの側から、人々の意識が後天的に形成され再生産されるメカニズムとしてみる必要がある。
 ナショナルなアイデンティティは、生得的なものでもなければ、様々なアイデンティティのなかから意識的に選択することによって獲得されるものでもない。生得的という意味からすれば、ナショナルなアイデンティティは私の本質ではない。しかし、商品のように、外部から私の生活に入り込み、私の意思で選び取るようにして私の一部を形成するわけでもない。たとえば「日本人」という観念が商品の直接的使用価値となるような商品は存在しない。しかし、商品が意味使用価値に日本人という観念を組み込むことは珍しくない。オリンピックのような国際的なスポーツ試合のスポンサーになる企業が「日本人」意識を利用・喚起することによって、「日本人」に好意的に受け入れられるようなイメージを形成することを商品の売り上げや企業のステータスに繋げようとする。たとえその商品が外国由来の商品であってもだ。コカコーラが東京オリンピックのスポンサーとなってそのイメージを売り込むときに、コカコーラはアメリカのナショナリズムと結び付きながらも、「日本人」のオリンピック・ナショナリズムに訴えかけながら商品のイメージを形成する。コカコーラが日本で「日本人」という観念を抽象的な意味使用価値を具体的な意味使用価値に媒介することを通じて具体的な使用価値体としての飲料品を売るのだ。こうした戦略に莫大な資金を投じる理由は、ナショナリズムの情動が商品市場で無視できない効果を発揮するからだ。市場は唯一のナショナルなアイデンティティを形成することはできないが、唯一のナショナルなアイデンティティと自社の商品が意味連関として結び付くことによって、直接的使用価値に普遍性を付与しようとする。このときに「普遍性」としてのナショナリズムという擬制は、その唯一性を、選択の自由を前提としながらも、唯一だたひとつ選択する価値のある商品としてのイメージを消費者に訴えるうえで不可欠な役割を果たす。
 この意味で、市場経済は、社会の経済的土台でありながら、その構造的な展開=発展にとってナショナリズムの情動が果たす役割は重要である。ナショナルなアイデンティティは同時に、たとえ外国資本によって独占されていようとも、市場経済に国民経済という体裁を与え、欧米先進国由来の商品やライフスタイルに囲まれながらも、人々の意識をナショナルなところに繋ぎ留めることができるのは、こうした商品がナショナルな意識を商品の唯一性の証しとして利用しようとするからだ。この意味で、市場経済はいわゆる「国民国家」がもたらすナショナルアイデンティティを必要とするともいえる。このことが市場経済の側で端的に現象するのが、先にも述べたように、貨幣であり中央銀行券である。貨幣が商品の使用価値に対して交換価値、つまり量的抽象を体現するものとみなされてきたが、この量的抽象性は徹底されておらず、「国民経済」という貨幣流通圏という国家の政治的権力の空間に規定されたものであって、そのかぎりで、貨幣は抽象的意味としての国家観念を市場で体現する唯一の存在となる。貨幣は、この意味で市場を国家に繋ぎ留める役割を担う。この繋ぎ留めをナショナリズムの情動といったイデオロギーの濃厚な要素との関わりでどのように理解すべきかという点については、かなり多くの論ずべきことが残されているが、政治的権力が市場の経済的権力と接するところに貨幣が位置するという意味で、貨幣は純粋に市場経済に還元できない要素をもっていることだけは指摘しておきたい。

パラマーケットとナショナリズム

 ナショナルな意識は、後天的に集団的に形成されるが、家族や教育制度、地域社会や職場の人間集団から文化まで、その意識形成に関わる制度的要因をリストアップすることは可能だとしても、それがどのようにナショナルなアイデンティティの形成あるいは、アイデンテイティの構造といったほうがいいようなものを社会支配の必須条件として生み出すのかをみるとき、これら諸制度を共通に支えてナショナリズムに収斂するような意識を形成するある共通の構造がなければならない。この構造を担うのが実はパラマーケットだ。
 パラマーケットは、市場に接するが市場の商品‐貨幣の取引そのものの外部にあるコミュニケーションの領域だ。ここで市場の情報と非市場情報が交錯する。家族や政府の情報も市場の情報も、商品化されない文化的な契機もこのパラマーケットを通じて市場との回路を保ち、商品の社会的な意味作用あるいは抽象的な意味もこのパラマーケットによって形成される。従来のマスメディアの時代には、このパラマーケットを支配する構造としてマスメディアを指摘することができたが、インターネットをはじめとするコンピューターコミュニケーションの時代には、むしろパラマーケットの構造は肥大化しながら人々の私生活からさらに心理的な内面を外部に表出させる回路をもつようになる。
 パラマーケットにおけるメッセージの流通のなかで、商品の直接的使用価値には属さないようなナショナルな意味付けがなされることは珍しくない。資本にとって、自社の商品がナショナルな意味を担うことは、自社の商品が一国における普遍的な価値を担うかのような幻想を人々に与えることでもある。
 これを可能にするうえでマスメディアが果たした役割は無視できない。また、議会制民主主義の選挙制度もまた、大衆が統治機構の意思決定に参加するという幻想を構成するうえで必須の仕組みにもなった。いずれの場合であれ、人々が集団として政治的な統治権力を承認することなしには権力の正統性を支えることもできない。支配する者とされる者の非対称な関係ではなく、支配される者が常に支配する者の座に座ることが可能であり、この入れ替えが構造としての権力そのものの価値でもあるという民主主義を成り立たせるためには、社会の圧倒的多数が「主権者」としての観念を形成できなければならない。同時に、主権者が「国家」の観念の下に、他でもないこの国家の成員であることを受け入れることができなければならない。人々がどの国家に帰属するかを選択することは、理屈のうえでは可能だが、現実には、生まれた場所や、両親が帰属する国家に、否応なく帰属させられ、そこでの「国民」とされる。この選択の余地のほとんどない状態は、移民や難民のように、この選択を意識的に放棄するか、意識的に別の国家への帰属を求める人々を、国民国家の制度の周縁に追いやることになる。
 商品の意味使用価値は直接的使用価値によって実体が担保され、さらに価格(貨幣)によって、その価値の承認が客観的に確認できるが、ナショナルなアイデンティティや権力との関係は、こうした客観的な確認のメカニズムがない。常に政治的な意思表示は、政治的な是非の表明になり、それ自体が権力の正統性を揺るがす可能性を秘めることになる。市場経済では、ある商品を買わないという選択をしたとしても、そのことが当該資本にとっては死活だとしても構造が揺らぐわけではない。ここが決定的な違いになる。マックのハンバガーのかわりにモスバーガーを選択するように気軽には政権の移譲は起きないのだ。
 同じ場所と時間のなかで同一の人間集団が複数の統治権力を併存させることは近代のシステムでは想定されていない。つまり、権力はヒエラルキーが明確でなければならず、頂点に立つ具体的な権力機構や組織あるいは個人に人々が、抽象的で普遍的な概念をまとっている「国家」にまつわる「意味」を見いだすことが必要になる。具体的な人やモノは抽象的な意味の体現者であることによって、この具体的なものが普遍的な「意味」をまとうという一般的な理解の枠組みがここでも作用する。具体的な対象に抽象的で普遍的な意味を読み取るという解釈作業は、それ自体が社会的な共同事業となる。


(1)Shoshana Zubof, The Age of Surveillance Capitalism, Princeton University Press, p.8 訳文は筆者による。訳書は下記。ショシャーナ・ズボフ『監視資本主義』、野中香方子訳、東洋経済新報社。
(2)Zubof, ibid.
(3)人間は、モノを自己と同類の人間になぞらえる特異な対象理解を構築する能力をもっている。モノにそれ固有の客観的な機能や性格とは関わりがないある種の性格を読み込むことによって、そのモノに特異な意味づけを与えることができる。マルクスは金が貨幣の機能を担う市場経済の仕組みについて、金という物質のどこにも貨幣の本質をなす一般的等価物という性格は見いだせないこと、この性格は市場経済によって、社会の構成員のある種の「共同作業」によって付与される社会的な性格なのだが、このようには理解されず、あたかも金そのものに、一般的等価性が内在しているかのような錯覚を人々が抱くという転倒した現象が生じることを指摘した。これを物神崇拝、フェティシズムと呼んだ。
(4)「いろいろな商品のいろうろな使用価値は、一つの独自な学科である商品学の材料を提供する」『資本論』第一巻第一章。全集版、47ページ
(5)資本循環は『資本論』第二巻第一編で論じられている。
(6)ここでいう〈労働力〉の使用価値は、マルクスの定義とは異なる。マルクスは価値形成性をその使用価値としたが、ここでは商品の使用価値を形成する能力を〈労働力〉の使用価値として定義する。この定義は宇野弘蔵の定義を踏まえている。
(7)ここで論じたことは国家の「意味」生成にもあてはまる。国家の統治機構の直接的な意味は、法治国家であれば、憲法を頂点とした法によって規定されるが、国家の実際の行為は、法の条文に還元できないイデオロギー効果を伴う。政府の行為の妥当性を私たちは法律の条文を参照しながら評価しようとする。しかし、こうした評価方法の決定的な限界は、法という書かれたテキストによって現実の政府の執行権力を抑制するには、私たちの側もまた、現実的な力をもたねばならず、このことは書かれたテキストの力を超えることでもある、という点だ。この問題は、政府がCTCを駆使することによって、ますます鮮明になってきた。法はプログラムという現実にCTCを実行しうるテキストによって、事実上その効力が削がれてきており、法の支配は終焉を迎えつつあるように思う。
(8)ブランド商品をほしがる感情は、この意味の世界が転倒した典型例だ。直接的使用価値を意味使用価値が飲み込んでしまう。エルメスとかグッチが直接的使用価値であって、物それ自体の有用性は名目的なものになる。これが資本主義的商品が望む理想形なのだが、これは交換価値(価値)の世界だけを眺めていても見いだせない。
(9)市場経済の取引を支えながら、商品の価格への組み込みが明確でもなければ比例的でもない場合は多くみられる。公共空間や道路、港湾などはそれに見合う対価なしに利用できるし、公教育使医療福祉などのサービスもなどほとんどの公共サービスは、市場経済と不可分一体でありながら、市場の価格メカニズムに完全には組み込まれない。この意味ではパラマーケットと共通する。
(10)小倉利丸『搾取される身体性』青弓社、参照
(11)資本主義を批判する多くの活動家たちの活動を支える物質的な条件を資本の供給する商品に依存せざるをえないというパラドクスはきわめて深刻な問題だ。なぜならば、ライフスタイルにおける支配的なそれとの差異化そのものが運動の重要なイデオロギー効果をもたらすからだ。CTCに関連する分野でいえば、オープンソースのプログラムを選択する余地があるにもかかわらず、プロプライエタリなソフトウェアを無自覚に選択してしまうような活動家の行動は、彼らが影響力をもつ多くの人たちに深刻な誤解を与えかねない。たとえば、文書をワードで作成する、プレゼンテーションをパワーポイントでおこなう、会議をZOOMで実施する、検索をGoogleでする、共同作業をGoogle ドキュメントでおこなう、といったコミュニケーションの支配的なライフスタイルを活動家が自覚的に拒否して代替的でよりオープンな選択肢を意識的に用いるかどうかが、文化における彼らと私たちの間の境界設定を構築することになる。上記の例示に関していえば、これらをすべてオープンソースのソフトウェアに代替することは容易にできる。オープンソースそのものが左翼の道具だというわけではないし、政府機関、極右やファシストも使っているが、資本が営利目的で提供しているサービスを拒否して新たなCTCの構成を反資本主義として構想できるかどうかということ自体がひとつの闘争の領域をなしているという認識そのものがいま求められている。
(12)学説では、ウォーレン&ブランダイスの論文ではじめてプライバシーの権利を一人にしておいてもらう権利として提起したとされている。Warren and Brandeis “The Right to Privacy”,Harvard Law Review.Vol. IV, December 15, 1890, No. 5 https://h2o.law.harvard.edu/text_blocks/5660
(13)これはインターネットなどのサイバー空間とは実体的に異なるものだ。サイバー空間における所有と公共の関係はかなり複雑になるからだ。ネット上で不特定多数がアクセスできる「空間」は、実際にはプラットフォーム企業が所有するサーバー上のデータであり、そもそもアクセスが可能なのは企業側のサーバーの設定が不特定多数にアクセス権限を与えているからであって、アクセスする私たちが権利として公共空間にアクセスできる技術的な条件を有しているわけではない。しかもアクセスする上で必須の回線そのものもまた、アクセスプロバイダーのサービスに依存することになる。
(14)たとえば、次のような令状請求がアメリカでは問題になっている。「ジオフェンス令状geofence warrants」ジオフェンス[地図上でエリアを限定する仮想的な壁]で囲まれた地域にあるすべてのデバイスの開示を求める令状。「キーワード令状」特定のキーワード、フレーズ、または住所を検索したすべてのユーザーを特定するデータの開示を求める令状。「Re: 「ジオフェンス」と「キーワードワラント」の透明性向上の必要性。」https://www.alt-movements.org/no_more_capitalism/hankanshi-info/knowledge-base/geofence-letter/
(15)サイバースペースの時間の概念は、私たちの日常的な身体感覚でいえば、誤差の範囲とみなしていいような「秒」単位以下の時間を中心にしている。通信におけるデータの伝送単位bpsは、1秒間に1ビットの伝送を1bpsとする単位で、伝送の速さの単位とはいえない。伝送の速さはlatencyつまり「待ち時間」と呼ばれ、日本語では「遅延」とも言うように、たとえ数秒であっても伝送に時間がかかること自体が「待たされる」「遅い」という認識になる。伝送の速さは、伝送の遅さという認識で数値化される。英語ではコンピューターで時間を扱うときの最小単位ミリ秒は1秒の1,000分の一。遅延は、回線やサーバーの処理能力などに依存するが、それだけでなく、政府が望まないサイトへのアクセスを妨害するときにも人為的に遅延を発生させたりする政治的な技術に関連することがある。この問題は、インターネットの中立性問題としてコミュニーションの平等を議論するときに無視できない重要な問題である。サイバースペースの時間はそれ自体がコミュニケーションのガバナンスに関わる場合がある。
(16)たとえば、ファシムズは、この合理性と非合理性の二面性を、非合理性を前面に押し出して、イデオロギーによって合理性の世界を制御しようとするところにその大きな特徴があるといえる。それが、民族という観念によって主導されることもあれば、宗教によって主導されることもあれば、国家の観念によって主導されることもあり、その現象形態は多岐にわたりながら、本質的には非合理性が支配のヘゲモニーをとる体制だ。この非合理は、マスメディアによるプロパガンダや上からの大衆動員の組織化を通じて、非合理な「世界」観を物質化する。物質化とは、20世紀の前半であれば、植民地支配や民族浄化として統治機構のなかで具体化されることになる。総じて、軍事組織は、機械とロマン主義の弁証法的統一の産物であるところに端的に示されているように、不条理な「死」の組織化には合理主義はそぐわない。
(17)フランク・パスケール『ブラックボックス化する社会 金融と情報を支配する隠されたアルゴリズム』田畑暁生訳、青土社、参照。
(18)インターネットを念頭に置いた場合、コニュニケーションの技術的な仕組みは、電子メールとウェブでは被知覚過程の仕組みに違いがある。以下では主に、ウェブに関して論じている。
(19)https://www.ntt.com/bizon/glossary/j-s/session.html
(20)ブラウザの「開発者モード」とか「開発者ツール」でこうしたデータの一部を把握することが可能だ。
(21)ベネット・サイファーズ/ジェニー・ゲブハート『マジックミラーの裏側で――企業監視テクノロジーの詳細』電子フロンティア財団、JCA-NET訳。file:///home/toshi/Downloads/eff_report_201912_print.pdf参照。
(22)ウィルソン・ブライアン・キイ『メディア・セックス』植島啓司訳、集英社文庫、参照。現在では、ニューロマーケティングにとってかっわったといっていいかもしれない。脳科学のなかの脳画像によって人間の感情を読み取れるとする疑問の余地のある考え方をさらにビジネス向けに誇張するコンサルタント会社も存在する。サリー・サテル/スコット・O・リリエンフェルド『その〈脳科学〉にご用心』柴田裕之訳、紀伊国屋書店、参照。
(23)https://triple-underscore.github.io/http-cookie-ja.html 英語原文 https://datatracker.ietf.org/doc/html/rfc6265
(24)Googleは、無料で検索など様々なサービスを提供し、こうしたサービスの利用者のデータを広告主に売るネットの広告資本であり、利用者の動向を把握することは必須だ。これに対して、利用者の個人データを収集しない検索サービス、ブラウザなどに切り替えるネットユーザが増えている。検索ではDuckDuckGoなど。ブラウザではGoogle Chromeのかわりに、Firefox、Brave、Vivaldiなどを利用する。
(25)https://ads.google.com/
(26)What Is Fingerprinting? https://ssd.eff.org/en/module/what-fingerprinting ; Retargeting Statistics https://99firms.com/blog/retargeting-statistics/ ; Facebookのカスタムオーディエンスとは?効果や設定方法について解説 https://video-b.com/blog/facebook/facebook-custom-audience/ ; (Google)リマーケティングについて https://support.google.com/google-ads/answer/2453998?hl=ja
(27)https://support.google.com/google-ads/answer/2453998 オーディエンスターゲティングも参照のこと。 https://support.google.com/google-ads/answer/2497941
(28)前掲、Retargeting Statistics参照。
(29)https://marketingplatform.google.com/intl/ja/about/analytics/
(30)GDPR(欧州一般データ保護規則)はターゲティング広告やクッキーへの規制を強化している。また日本の個人情報保護法も個人に関連する情報の第三者への提供制限を定めている。こうした規制に対して企業側は法制度の枠内でどのようにして効果的なプロファイリングをおこなえるかという新たな技術開発に取り組むようになっている。企業向けに各国の法制度への対応をサポートするコンサルタント企業も多くある。たとえば、IIJのBizRis https://portal.bizrisk.iij.jp など。
(31)クッキーへの批判については、以下を参照。前掲『マジックミラーの裏側で:企業監視テクノロジーの詳細』「クッキーの起源」cookie-privacy.weebly.com、https://www.alt-movements.org/no_more_capitalism/hankanshi-info/knowledge-base/history-of-cookies/、「クッキーとは何か」https://www.alt-movements.org/no_more_capitalism/hankanshi-info/knowledge-base/technical-details/、「(EFF)オンライントラッキング会社があなたのオンライン行動のほとんどを知る方法(そして、ソーシャルネットワークが彼らを助けるためにしていること」https://www.alt-movements.org/no_more_capitalism/hankanshi-info/knowledge-base/online-trackers-and-social-networks_jp/
(32)日本の接触確認アプリ、COCOA もこの仕組みを基本としている。
(33)Apple and Google’s COVID-19 Exposure Notification API: Questions and Answers, https://www.eff.org/deeplinks/2020/04/apple-and-googles-covid-19-exposure-notification-api-questions-and-answers
(34)Bill Marczak, Ali Abdulemam1, Noura Al-Jizawi, Siena Anstis, Kristin Berdan, John Scott-Railton, and Ron Deibert、”From Pearl to Pegasus Bahraini Government Hacks Activists with NSO Group Zero-Click iPhone Exploits”、 https://citizenlab.ca/2021/08/bahrain-hacks-activists-with-nso-group-zero-click-iphone-exploits/ 日本語訳「パールからペガサスへバーレーン政府、NSOグループのZero-Click iPhone Exploitsで活動家をハッキング」 https://www.alt-movements.org/no_more_capitalism/hankanshi-info/knowledge-base/bahrain-hacks-activists-with-nso-group-zero-click-iphone-exploits/ NSOグループについては下記を参照。https://forbiddenstories.org/case/the-pegasus-project/
(35)(CDT)何が間違っているのか?エンド・ツー・エンドの暗号化を廃止しようとするAppleの誤った計画」 https://www.alt-movements.org/no_more_capitalism/hankanshi-info/knowledge-base/eff_covid-19_and_surveillance_tech_jp/
(36)マイクロソフトをはじめとするテック業界のリーダーたちが、マルチステークホルダー・ソリューションに向けて、国際的な政府連合と手を組む」https://blogs.microsoft.com/on-the-issues/2019/09/23/microsoft-other-tech-industry-leaders-team-up-with-an-international-coalition-of-governments-for-a-multi-stakeholder-solution/ 日本語訳は https://www.alt-movements.org/no_more_capitalism/hankanshi-info/knowledge-base/microsoft-other-tech-industry-leaders-team-up-with-an-international-coalition-of-governments-for-a-multi-stakeholder-solution_jp/?seq_no=6
(37)小倉利丸編『エシュロン――暴かれた全世界盗聴網 欧州議会最終報告書の深層』七つ森書館、2002年、参照。
(38)BBC, “Weapons of Mass Surveillance” https://www.bbc.com/news/av/world-middle-east-40531967
(39)UN Human Rights Council Forty-first session 24 June–12 July 2019, Rights to freedom of peaceful assembly and of association Report of the Special Rapporteur on the rights to freedom of peaceful assembly and of association https://documents-dds-ny.un.org/doc/UNDOC/GEN/G19/141/02/PDF/G1914102.pdf?OpenElement参照。
(40)アントニオ・ダマシオ『デカルトの誤り』田中三彦訳、ちくま学芸文庫、参照。
(41)マルクスが論じた資本の流通過程は、もっぱら生産物の直接的使用価値に即した概念であって、コミュニケーションが労働化し、意味使用価値が商品の使用価値の不可欠な要素になるにつれて、流通過程は生産過程の延長となり、その労働もまた生産的労働となる。
(42)I・イリイチ『シャドウ・ワーク――生活のあり方を問う』玉野井芳郎ほか訳、岩波現代文庫、参照。
(43)人間かどうかを確認する方法にreCapchaがあり、サイトにアクセスするときに表示された文字を入力させたり、画像から質問に該当する写真を選ばせたりする手法はよく知られている。しかし、Botの普及もありGoogleはさらに上をいくreCapchaを開発している。「reCAPTCHA v3 の紹介: bot の活動を阻止する新しい方法法」
https://developers.google.com/search/blog/2018/10/introducing-recaptcha-v3-new-way-to
(44)ジグムント・バウマンほか『私たちが、すすんで監視し、監視される、この世界について――リキッド・サーベイランスをめぐる7章』伊藤茂訳、青土社、参照。
(45)たぶん、万国博覧会のようなメガイベントや国別のパビリオンに固執するベネチアトリエンナーレのような芸術のなかに端的に見ることができるだろう。
(46)ヒューバート・ドレイフェス『純粋人工知能批判』椋田直子訳、アスキー、39ページ
(47)たとえば、右の動画を参照。https://tube.connect.cafe/watch?v=j6bNVqe_1xY
(48)ダナ・ハラウェイ『猿と女とサイボーグ――自然の再発明』高橋さきの訳、青土社、2000年、参照。
(49)ハラウェイ「サイボーグ宣言」、同書295ページ
(50)「コミュニケーションロボット」おすすめ3選 ロボットと過ごす新たな生活【2020年最新版】 https://www.itmedia.co.jp/fav/articles/2009/29/news092.html
(51)『コンピューターには何ができないか』黒崎政男/村若修訳、産業図書、参照
(52)『人工知能』開一夫、中島秀之監修、岩波書店、所収
(53)具体的に、どのようにうまくいかないかを補足する。たとえば、Facebookが導入している違反コンテンツ処理システムは多くも問題を抱えている。「Facebookが20億人のWhatsAppユーザーのプライバシー保護をどのように弱体化させているか」https://www.alt-movements.org/no_more_capitalism/hankanshi-info/knowledge-base/how-facebook-undermines-privacy-protections-for-its-2-billion-whatsapp-users/
(54)クレジットカードでも貨幣同様の一般的等価性に近い機能があるが、根本的に異なるのは、その意味使用価値=一般的等価性を担保しているのが、私の個人情報(私の銀行口座の預金残高、この口座が私の口座であることを証明する認証の仕組み)だという点である。仮想通貨(政府は「暗号資産」と呼び、その貨幣性を払拭しようと懸命だが、私は仮想通貨と呼ぶ)は、ブロックチェーンの仕組みを利用してサイバースペースの取引に再度匿名性を導入しようとする試みだ。匿名は市場の活動も巻き込んで市場のポリティクスの中心課題になっている。

 

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第40回 宝塚的『HiGH&LOW』と上演の意味

薮下哲司(映画・演劇評論家)

 新型コロナウイルス第7波のあおりで、宝塚大劇場の月組公演『グレート・ギャツビー』(脚本・演出:小池修一郎)が公演のほぼ4分の3が休演、東京宝塚劇場の花組公演『巡礼の年――リスト・フェレンツ、魂の彷徨』(作・演出:生田大和)もほぼ全公演が休演という形になってしまいました。社会全体はウィズコロナが定着し、徐々に元の生活に戻りつつありますが、収束したとはとても言いがたく、まだまだ油断できない状況です。
 そんななかでも宝塚歌劇は攻めの姿勢を崩さず、LDH JAPANと提携、近未来の荒廃した街を舞台に男たちの抗争を描いたバトルアクションシリーズ『HiGH&LOW』を、真風涼帆を中心とした宙組によって上演、「THE PREQUEL(前日譚)」(脚本・演出:野口幸作)として8月27日、宝塚大劇場で初日の幕を開けました。
 男たちがただただけんかを繰り返すだけのアクションシリーズが品格を重んじる宝塚歌劇の舞台に合うのか、これをどう宝塚的に落とし込むのか、今年でいちばん興味津々の舞台でしたが、けんかを歌とダンスに変えてテンポよく展開、知られざるコブラの純愛ストーリーを絡ませて、男役のかっこよさを際立たせ、野口演出の巧みさで、宝塚的『HiGH&LOW』の世界を現出させました。
 原作は、2015年に日本テレビ系の連続ドラマとして初放送されるや人気沸騰、20年までにシリーズ5作が放送され、16年からは映画シリーズも公開。音楽、コミック、ゲーム、SNS、テーマパークなどあらゆるメディアを巻き込んだ人気シリーズになっていますが、男たちがただただけんかを繰り返すだけのストーリーはドラマというよりゲーム感覚で到底大人の鑑賞には適さず、従来の宝塚の観客層の嗜好ともかけ離れていて、企画が発表された段階ではいったいどうするのだろうというのが正直な感想でした。
 宝塚版は、『HiGH&LOW』の数ある作品群にある謎の空白に着目し、その前日譚(THE PREQUEL)を新たに構想。抗争に明け暮れる男たちの影に咲いた純愛をテーマにもってくるという裏技を駆使、宝塚的『HiGH&LOW』に落とし込みました。
 ストーリーはざっとこんな感じです。近未来のとある大都会。かつてこの一帯を支配していたムゲンという伝説のチームが、ある事件をきっかけに突如解散。無数のチームが群雄割拠していた数カ月後、ROCKY(芹香斗亜)率いる「White Rascals」が開いた仮面舞踏会で「山王連合会」のリーダー、コブラ(真風)は幼なじみのカナ(潤花)と再会。久々の再会に胸をときめかせたコブラでしたが、カナには誰にも言えない秘密があり……。真風コブラを中心とする「山王連合会」、芹香扮するROCKY率いる「White Rascals」、桜木みなと扮するスモーキー率いる「RUDE BOYS」、鷹翔千空扮する村山良樹率いる「鬼邪(おや)高校」、そして瑠風輝扮する日向紀久率いる「達磨一家」に対して、それらを一気にぶっ潰そうとリン(留依蒔世)を頭とする苦邪組(クジャク)が暗躍、5つのチームVS苦邪組という対決の構図。「SWORD」結成前夜、守るべき女性、守るべき街との間で葛藤する男たちの物語です。
 宙組の男役が5つのチームに分かれてかっこよく登場するプロローグは、チームごとに大きな拍手が湧き、なんだか昭和の宝塚大劇場にいるような錯覚に陥ったほど。芹香チームが白づくめでかっこいいことこのうえなく、ほかのチームの衣装が薄汚く見えたのが難点ですが、それぞれ個性的な役割を担い、チームごとにスピンオフで新たなストーリーが作れそうな勢い。
 ノーブルな雰囲気が似合う真風ですが、ヤクザっぽい乱暴なセリフも堂に入り、けんか集団のリーダー、コブラにふさわしい貫禄。一方、幼なじみのカナに振り回される純情ぶりもほほえましく、コブラの知られざる一面を巧みに表現していました。ヒロインの潤も秘密を抱えながらも天真爛漫な明るさを最後まで押し通したカナをキュートに好演して魅力的。男役中心の殺伐とした舞台の清涼剤的役割を果たし、ハイローファンの男性客に人気の火が付きそうです。
 ROCKYの芹香は金髪、サングラス、純白のタキシード。これで目立たないわけはなく、真風コブラと男同士の友情でタッグを組む場面などまさに男役の美学のお手本そのもの。スモーキーの桜木も歌の表現力は5つのチームのなかでもピカ一、こういうところで実力を発揮できるのがさすがでした。
 とはいえ原作を巧みに宝塚的世界に落とし込んではいるものの宝塚としては異色の舞台には違いなく、5つのチームが掲げる崇高なテーマもなんだかこじつけのようで現実感がなく、崩れた男役の魅力だけが際立った感じの舞台。観ている間だけはそれなりに楽しめてもあとに何も残らないといった性質の舞台で、これは現在のどのエンターテインメントにも通じる浅さなのかとも思った次第。
 何が起こるかわからない現代、こんな刹那的な楽しみばかりがこれからも増えていくのでしょうか。ちょっと怖い気もします。宝塚歌劇は今後もさまざまな意欲的な新作が用意されていて、来年3月にはなんとイアン・フレミング原作、「007」シリーズの第1作『カジノ・ロワイヤル』の上演が発表されました。泣く子も黙る?殺しの番号007で知られるジェームズ・ボンドに真風涼帆が挑戦するのだそうです。初代ボンド役のショーン・コネリーから60年ですから、スパイものとしてももうクラシックではありますが、ひと昔前なら考えられなかった題材ではあります。コブラからジェームズ・ボンド、何も考えないこの振り幅の広さこそが宝塚なのかもしれません。宝塚こそ恐るべしかも。
 そんな宝塚ですが『宝塚イズム46』(2023年1月刊行予定)の準備がそろそろ始まります。宝塚でこんなものが見たい、そんな特集を組むのも面白いかもしれません。

 

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豊かな傍流への願いを込めて――『まるごとマンドリンの本』を出版して

吉田剛士

 初めての自著となる『まるごとマンドリンの本』の執筆にあたっては、自分がこれまで積み上げてきた経験と知識を再確認しながら、一つのまとまった形にしてマンドリン演奏のための総合指南書として広く活用してもらえるものを作り上げるよう努めました。また、マンドリンについて知りたい人が必要十分な知識を多面的に得られるよう配慮もしました。
 刊行後、ある親しい知り合いから「これでもういつでも安心して死ねますね」と言われましたが、確かにそういう側面はあります。マンドリンを演奏する人に伝えたいことは本書に一通りすべて書いたので、マンドリン弾きとしての私の遺言書といっても過言ではありません。
 ただ、300ページ足らずの本にすべてを書き記すことはもちろん不可能であり、むしろ何を削るかを選択する作業でもありました(とはいえ、それ以上長い本になると読むのが大変になるので、このボリュームは妥当だと思っています)。
 とくに歴史については、なんら目新しいことを記述していないと不満を感じる人もいるかもしれませんが、むしろここまでばっさりと簡略化したことを評価してほしいと思っています。その筋の研究家やマニアの知識は膨大なので私の知識などその足元にも及びませんが、それでも相当な部分を切り捨て、ざっくりとした概要を抽出したので、枝葉末節に惑わされることなく鳥瞰図を得やすいのではないかと思います。
 ところで、本書に所収したかったのですが権利上の問題で掲載できなかった図版が2つあります。1つはパブロ・ピカソが「20世紀最後の巨匠」と称した画家バルテュスの遺作『マンドリンを持つ少女』です。これはマンドリンを持ってベッドに横たわる少女が描かれたものです。バルテュスの遺作にして「未完成」だったということで、マンドリンが「未完成」な楽器であるという本書の論旨を象徴すべく配置したいと考えたのです。
 もう1つはマンドリン詩人(あるいは大空詩人)として知られる永井叔の写真です。インターネット上で見つけた1940年9月11日「星を見る会」の写真で、子どもが天体望遠鏡を覗き込み、その横で天文民俗学者の野尻抱影がアンタレスを指差し、その傍らにマンドリンを抱える永井叔がたたずんでいるというものです。とてもいい写真であることと、何か「マンドリンの未来を見据え、それに向かっていく」ようなイメージがよかったのですが、こちらも権利関係の確認が取れず断念しました。
 バルテュスも永井叔も私が個人的に好きなのですが、冷静に考えれば、もともとそれらの写真は本書のコンテンツとして本筋というわけではなく、まして必須とは言えませんでしたし、実際、ある方から「それは本流ではありませんね」と言われました。それは必ずしも否定的な指摘ではなかったのですが、確かにその通りだと納得した部分もあり、それらの掲載をあまり深追いせず断念したという経緯があります。
 その「本流」という言葉の意味するところは、マンドリン300年の歴史のなかで中心的な役割を果たしてきた人物や事物、つまり例えばヴィナッチアやカラーチェのような人物と彼らの楽器や作品、あるいは日本のマンドリン文化の中核を担ってきた流れ、つまり武井守成や中野二郎といった人たちが登場する世界の流れということだと思われます。
 確かにそれらがマンドリンの歴史の本流であることに私も異論はまったくありません。しかし、あえて言うならば、それは古典や合奏を中心としたマンドリンの1つのジャンルにおける流れにすぎないとも言えます。「本流」という言葉は、それ以外のジャンルや変わった活動を自分たちに関係ないものとして切り捨ててしまう排他的なニュアンスを帯びる危険をはらんでいます。
 大きな力があれば本流のなかで大成し、その流れをさらに太く大きく育て上げることができるのかもしれませんが、新しい流れ、画期的な流れというものはむしろ傍流から、あるいは本流と傍流の境目から生じるのではないかと私は思っています。また、豊かな傍流があってこそ本流が輝かしいものになるということもあります。本書は、そのような考え方のもと、本流を中心に据えながらも、それだけでなく様々な傍流が豊かに育っていくことへの願いを込めて書かれています。同様に、意識の有無にかかわらず、結果的に本流以外の活動に目を向けてこなかった人が興味の範囲を広げる1つのきっかけになることも願っています。

 以下、余談です。
 本書のなかでも簡単にふれましたが、今年で没後80年になる詩人の萩原朔太郎はマンドリンに傾倒していました。それは決して本流の出来事とはいえませんが、ひとつのアクセントとして日本のマンドリン史に輝かしい彩りを与えてくれています。そのような意味で、朔太郎が作曲したマンドリン曲「機織る乙女」も実に面白い存在ですが、実際に聴いたことがある人はどのくらいいるでしょうか。実は私も演奏しており、最近レコーディングもしたのですが、この曲をめぐっては様々な解釈があり、いくつかのエピソードがあります。そのあたりもぜひみなさまにお伝えしたいところですが、それはいずれまた別の機会にいたしましょう。
 まずは『まるごとマンドリンの本』をご高覧いただければ幸いに存じます。