第3章 コンピューターをめぐる同一化と恋着

小倉利丸(富山大学名誉教授。専攻は現代資本主義論)

目次
序章 資本主義批判のアップデートのために
第1章 拡張される搾取――土台と上部構造の融合
第2章 監視と制御――行動と意識をめぐる計算合理性とそこからの逸脱
第3章 コンピューターをめぐる同一化と恋着

[第3章構成]
3-1 コンピューターと無意識の位置
   ・行動主義の陥穽
   ・コンピューターの人間行動理解
   ・集団認識
3-2 集団心理
   ・「集団心理学と自我分析」
   ・同一化と恋着
   ・教会と軍隊
   ・支配的構造と集団心理
3-3 集団心理と無意識――監視社会の基層へ
   ・「集合的無意識」
   ・ネクロフィリアとしての資本主義
   ・ライヒのマルクス主義とフロイト主義の結合
3-4 資本主義的非合理性
   ・近代における非合理性の位置
   ・資本の無意識の欲動
   ・プライバシーと家父長制―集団心理を支えるもの
   ・コンピューター・テクノロジー/コミュニケーションと集合意識形成

3-1 コンピューターと無意識の位置

行動主義の陥穽

 現代のコンピューター・テクノロジー/コミュニケーション(CTC)に基く監視社会化を支えている考え方は、監視対象としての人間の外形的な行動や言語化された意識を分析し、将来の行動を予測することができるという仮定に基づいている。この仮定によって、支配的構造が意図するように人間の行動を制御することが期待されている。遺伝子科学の進展のなかで、クレペリン流の人間の性格を生得的な遺伝要因によって判断する傾向に再び注目が集まったりもしている。こうした作業で収集されるビッグデータが膨大に積み上げられ、より精緻になればなるほど人間の言動の原因や将来の行動を予測できるということになるとすると、人間の生物学的な性質を理由に、自由あるいは自由意志という概念そのものに疑問が投げかけられ、結果として自由を否定して社会の支配がもたらす人々への抑圧に科学を加担させる方向へと向かう可能性がある。
 行動主義やプラグマティズムは、制御の技術を正当化する思想として現在の支配的な人間観を構成している。こうした思想は経営実務や経済学のような分野で実践的な人間行動の制御テクニックとして普及してきた(注1)。品質管理のために開発されたPDCAサイクル(plan-do-check-act cycle)が資本内部での労働者の行動制御技術として利用される場合に最も典型的に現われるのだが、当初の目標を達成する上で最適の行動を組織化するために、人間個々人の内的な動機や意識に拘泥せず、人的資源をいかにして動員するかという点に大きな関心が寄せられた。こうした技法はいまでは政府にも採用されるようになってきた(注2)。
 本章では、こうした考え方がとりこぼした人間のもうひとつの要素、行動を支える非合理性に関わる心的な構造をとりあげることになる。非合理性の広大な領域がコンピューターに代表される現代の情報処理に基づく監視社会のイデオロギーと相反するとはいえない、という点を、フロイトに遡って検討することになる。CTCが支配的な時代の極右ポピュリズム現象をみれば容易にわかるように、権威主義やファシズムの現代的な傾向は、コンピューター科学やコミュニケーションツールを駆使する一方で、非合理な世界をも包含しうる構造のなかで起きている。フェイクニュースやQアノンの陰謀論が新奇な現象として注目されているが、虚偽や流言蜚語の言説拡散は、古くからある問題であって、新しいものではない。国策プロパガンダによる虚偽の流布、権力による流言蜚語はむしろ権力の歴史のどこをみてもありふれた出来事でしかない。陰謀論については、20世紀でいえばシオンの議定書のような有名な事例がすぐに思い浮かぶ。また、ナチスが論じられるときに、そのオカルト的な世界観が、アカデミズムからサブカルチャーまで、現代に至るまで興味を引いている。イタリアのファシズムの系譜のなかでも、その最右翼にあり、ムッソリーニをローマカトリックと妥協した日和見として糾弾したユリウス・エヴォラの思想は現代の極右思想の一角を占めている。戦前日本で、その近代国家と近代工業技術の合理性が「現人神」と共存して憲法と統治イデオロギーの中枢に据えられた事例も、フェイクと陰謀それ自体が近代国家の歴史的本質をなしていることを端的に示した例だといえる。新しい事態は、こうした旧来からある出来事が、個人による情報発信やコミュニケーション環境を介して社会全体を覆うような構造が登場したところにある。メディアの構造が変容し、個人の世界観が拡散力を増したことによって、西欧近代が公的な世界から締め出しながらも、個人の内面にしっかりと生息しつづけてきた欲望の露出回路が社会のインフラとなったという点が、これまでにない事態なのだ。

コンピューターの人間行動理解

 コンピューターが前提とする人間の行動は、とても単純なものだ。それは、外形的に把握可能な現象(態度、振る舞い、表情、言葉などに始まり諸々のセンサーや脳画像に至るまで)を、その限りで詳細に解析し、ここから人間の行動をカテゴリー化し、将来を予測し、行動変容のために必要な対策をとる、ということであり、コンピューターの情報処理能力が高度化すればするほど、この外部に表出した言動の解析が精緻化され、カテゴリーも細分化され、ここから人々の意識や感情が演繹される。かつては、抽象的な量として一括りにする以外に把握のしようがなかった集団の心理も、より小さな集団やさらには個人にまで分解されて、その特性を解析することが技術的に可能なところにまでコンピューターの処理能力が発達してきた。その結果として、人々は確実に、相互に識別可能な「個人」として扱うことができるようになった。生体情報を含めて、膨大な個人データの集積を前提として、そのつど必要に応じて、個人はテンポラリーに構築される存在になっている。コンピューターによるデータ処理の側からデータの集合としての個人を眺めたとき、もはや個人には、主体としての一貫性もアイデンティティと呼べるような統合された一体性もその根拠を失ってしまったかにみえる。もしそうであるなら、それでもなお、資本主義社会が延命しつづけている現在、この現代の資本の人格的表現とはいったい何なのだろうか。情報資本の人格的表現としての「資本家」というアイデンティティはどのような矛盾を抱えるというのか。反対に、この資本に抵抗する者たちはどうなのか。データ集合としての個人と、路上でデモをしたり、抵抗の意思表示を繰り返す人々とを繋いでいるのは、警察の監視カメラのネットワークと、その先に接続されている膨大な顔認識/認証データベースだとしても、だからといって、路上の民衆がデータの集積に還元できるとでもいうのだろうか。権力者たちはそうすることで弾圧の力を発揮するが、こうした権力に対抗して私たちは何をなすべきなのか。この新しい支配的構造の秩序を支えるデータの集積に基づく支配の弱点と矛盾はどこになるのか。彼らは私たちの何に焦点を絞って攻撃を仕掛けようとしているのか。

集団認識

 社会理論は、長らく匿名で均質な大衆なる社会集団を実体化して論じてきた。しかし、この匿名の大衆なる存在は、集団としての社会現象を分析しようとしたときに、こうした集団について、諸個人一人一人を識別して解析できるような技術がないばあい、匿名の個性のない人口の集合として具体的な人々の行動を観察する以外になかったという技術的な限界に起因するものと理解すべきだろう。ところが、そうとは理解せずに、それこそが集団の本質、あるいは実体だとされてきた(注3)。ここには、集団とみなされる人々への偏見や異なる価値観への拒否の感情が観察者のなかにもあるということが、ときには見落とされてもきた。このことは、本章で後にみるように、集団心理を扱ったル・ボン、フロイト、ユングらに、その立場は違っても共通している。他方で、集団を通じた社会変革を目指す社会主義運動の場合であっても、階級の概念に還元される集団を構成する一人一人の個人への関心は重視されなかった。意識の問題は階級意識として集約され、結果として、個人はその人格や存在をまるごと階級に帰属するものとして扱われる階級還元主義をもたらし、家族関係やジェンダーやエスニシティといった個人を構成する様々な要因が軽視されることになった。階級は従来のように属人概念としてではなく、構造として理解すべきことを明確にすることが必要なのだ。こうした理論の限界が人々の社会意識や社会認識として正当化されることを通じて、人々の意識もまた「大衆」といった観念を実体化して受け止めるようになる。階級意識や国民意識、民族意識あるいはジェンダー意識などもまた、同様に人口統計や量化された集団への理解のなかで、主に支配的イデオロギーによって肯定的にも否定的にも実体化される。
 しかし、こうした外部に現れない人間の内面の意識の領域に無意識が「発見」され、20世紀の社会理論は避けて通れない重要な課題を抱えこむことになる(注4)。個人の心的装置における無意識の存在は、さらに、集団としての人間の心理との関わりにおいても問われることになる。
 無意識はフロイトによって人間の心理における不可欠な領域として精神分析の主要な対象とされ、学説としての地位を確立した(注5)。 無意識の発見は、マルクスの剰余価値の発見とともに、実証主義を斥けながらも形而上学や哲学としてではなく、あくまで、人間や社会を批判的に分析する理論として、その本質を論じる方法を提起した。フロイトもマルクスも、その方法の核心において、人間であれ社会であれ、これらを構成する諸要因が形式論理的首尾一貫性をもつものではなく、相互に矛盾と対立を孕んだ存在であり、なおかつ、その基本的な性質そのものが当の主体の自己理解を超えたところで、成り立つために、経験や計測可能な数値データに還元できない構造をもっているということを重視した。社会や人間の理論は、この矛盾の理論的な記述になる(注6)。しかし両者の決定的な違いもあり、主な対象が家族と個人なのか、労働者と資本家なのかという違いの他に、とくに歴史認識に顕著に両者の違いが顕著にあらわれる。
 ウィルヘルム・ライヒがSex-Polで精力的にマルクス主義に関与した時代からドゥルーズ=ガタリが『アンチ・オイディプス』を書いた時代、つまり、大戦間期からケインズ主義終焉の時代までは、階級闘争を背景にしながらも大衆意識に消費生活(家族)が抑圧の重要な装置として機能していることが露わになった時代という意味では共通している。コミュニケーションの環境が資本の主要な投資領域となり、データが商品化するような大きな資本蓄積の構造転換はまだ到来していなかった。コンピューターが人工知能としての役割を担う時代になって近代の二分法に基づく現状維持の弁証法の世界――ヘーゲルの家族と市民社会の世界――そのものが内破しはじめた。プライバシーの権利を物理的に保護する制度が、支配的構造によって解体され監視社会の物質的土台がプライバシーの領域に形成され、「家族」も「市民社会」も、コミュニケーション・テクノロジーの浸透を通じて、もはやその本来の機能を大幅に逸脱しはじめ、結果として「個人」の概念それ自体が変容しはじめる。上述したデータの集積としての個人の誕生である。近代の世界理解そのものを支えてきた物質的土台がここでもまた上部構造を侵食しはじめているのだが、それは、物質的な私生活を介してではなく、コミュニケーションの回路を資本が押さえることを通じて、しかも双方向のコミュニケーション環境の占領を通じて、ということになる。データ化された個人には、もはやプライバシーは存在しない。隠されたデータは希少性をまとい市場で売買されるインセンティブを高めるために、次々に市場の餌食になる。こうした事態のなかで、唯一残された領域がある。それが無意識だ。しかし、この無意識には厄介な歴史がまとわりついてもいる。
 無意識の領域を含む人間の感情や意識が反資本主義の闘争課題とみなされることはほとんどなかった。たぶん、マルクス主義やコミュニズムへの回路を自覚してこの無意識が運動として問題化されたのは、ライヒのSex-polの運動がほぼ唯一だったのではないか。1929年にライヒがウィーンで設立した性的アドバイスと性的調査のための社会主義協会(Sex-pol)は貧困地区に6つのクリニックを開設している。その後、ライヒはドイツ共産党に入党して性改革運動にとりくみ、一時は4万人のメンバーを抱える組織にまで成長した(注7)。 ライヒは党内から繰り返し批判され離党し、運動は頓挫する。そして精神分析そのものは、スタリーン主義が支配的になるにつれて、主流の社会主義運動のなかで評価されなくなる。フランクフルト学派やサルトルらが精神分析への関心をもち、またフロムやラカン(この二人は真逆だが)の存在が西欧左翼の知識人や運動のなかにフロイトの記憶を維持する役割をになった。同時に、Sex-pol時代のライヒの活動は日本でも1960年代から70年代に翻訳され、雑誌「情況」が特集を組むといった時代があったが(注8)、こうした、無意識を含む情動の革命という課題は、その運動論組織論の構築という課題とともにいまに至るまで手つかずのままに放置されてきた。ライヒ自身がコミュニズムを放棄したこともその原因だが、それだけではないだろう。マルクーゼもまたある意味ではセクシュアリティとフロイトの理論の熱心な支持者だったし、現代でいえば、ガタリもしかり、ラカン派の左翼もしかり。しかし、一部の例外(注9)を別にして、こうした知的なサークルは、活動家たちの「趣味」にはなっても、運動にはならなかった。遠因はスターリニズムと近代ブルジョワ社会の科学主義への不徹底な批判しかもちえなかった主流のマルクス主義にある。一方で資本主義は、コミュニケーションを労働に組み込み、人間が労働対象とされるなかで、無意識への包囲網が構築されるようになり、ますます人々の情動が市場と国家によって包摂可能な事態へと追い込まれるようになってしまった。
 しかし、高度にコンピューター化された社会であっても、コンピューター制御の及ばない人間の無意識の作用が、CTCの思惑を挫折させるに違いないと私は考えるが、こうした考え方はもはや時代遅れとみなされることによって――マルスク主義同様に――黙殺されようとしているようにも思う。無意識はコンピューターによって適切に扱うことができない厄介な領域だ。支配的構造は、無意識という領域を科学や学問の世界から放逐して人間をコンピューターが解析可能な情報データへと還元し、コンピューターが人工的な「知能」として人間の「知能」に代替可能な存在へとのしあがることを可能にしようとしている(注10)。
 19世紀の機械は、マルクスの表現を借りれば人間の肉体労働が対象化された「死んだ労働」だったが、21世紀のコンピューターという機械は人間の精神労働を対象化したものとして、「死んだ労働」の新たな領域を生み出した。19世紀の労働者は死んだ機械に縛られることになったとはいえ、資本の機械体系の外部に自らの拠点を築いた。資本主義は機械によって労働者を文字どおりの意味で淘汰し絶滅させることができたわけではなかった。21世紀になって、精神労働がAIに置き換えられるという場合も同様であって、いかなる意味においても労働者を絶滅させることはできない。機械によって〈労働力〉を排除すると同時に、人口の規模と失業率と賃金水準といった量的指標とともに、人口の統治に必要な社会領域を市場として開拓することによって、この排除された〈労働力〉と量的に見合う新たな労働市場を形成せざるをえない。資本が肉体労働と精神労働の双方を機械に置き換えたとしても、その結果として人間社会が総体として機械に置き換えられるわけではなく、私たちは働かされて存在しつづけ、絶滅危惧種になることさえできない。肉体労働に代替する機械が映画や小説で擬人化して描かれたように、AIの擬人化も時代の流れのなかで当然のようにして進展してきた。そして、自動車にその典型を見出せるのだが、機械へのフェティッシュな欲望がAIにも成り立つことによって、情動の世界があたかも機械によって支配されうるかのように感じられる時代にさしかかっている。すでに私たちはAIフェティシズムの先駆として鉄腕アトムから『スターウォーズ』のR2-D2を人間並に遇してきた。そして現在、AIロボットは現実のなかにあって、介護ロボットのように、人間の感情を引き寄せうるものとして機能することが期待されるようになっている。フロイトが言う意味での「まやかし」「錯覚」の共通理解は、世俗化された近代にあっては、資本や国家が、そしてこれらを表象する機械やシンボルが、フェティズムの対象になったわけだが、本章が課題にする無意識の課題とは、この「まやかし」「錯覚」の問題であり、非合理的な事柄が合理的理性によっては駆逐しえないできた問題に取り組む場合の、コミュニケーションが労働となり商品となる時代にあって、その「外部世界」への出口を模索するための契機にまつわる議論である(注11)。 このまやかしはコンピューターやデジタルがもたらすまやかしではなく、アナログの世界においても発揮されてきたフェティシズムがデジタルの世界にも当然のこととして波及したというだけのことだ。ただし、デジタルの世界のフェティシズムは、後述するように、もっぱら人間の「脳」に関わる領域であることによって、フェティシズムはモノに寄生するのではなくより直接的に人間の精神世界に寄生するようになったために、意識に対する資本主義の支配がより直接的になりつつあるとみなければならない。繰り返すが、こうした資本主義的な意識支配は間違った前提にたったものであり、人間に固有の無意識を支配することはできないが、他方で、科学的な間違いは支配的構造を揺るがすことにはならないのであって、まやかし、誤認、誤解、不/非合理という批判は有効ではない。支配的構造の存立は科学的な正しさや間違いとは次元を異にする。
 こうして、一方に高度に合理的で数学的な世界によって解析された人間や社会についての認識があるなかで、ここから逸脱する不/非合理な領域が必然的にひとつの形をとってあらわれる。合理性と不/非合理性の相互補完的な構造が社会全体を構成するというありかたは、近代に一貫しており、これを、「科学」や「学問」、とりわけ人間の制御に寄与しようとする学問は、まず初めに人々を集団として扱い、人口として分類・分析すると同時に、人口を「国民」「民族」あるいは「階級」といったカテゴリーによって差別化しながら、この集団に固有の存在理由となる物語を構築してきた。CTC監視社会は、伝統的な人間類型を継承したうえで、この枠組を集団から個人へと解析の精度を高度化させながら、個別具体的な個人を識別し、彼らを集団として再定義するという方向をとるようになる。「国民」とか「民族」といった概念を継承していても、かつての概念とは異なって、個人を媒介するものとしてこれらの概念が再構成されるのがCTC監視社会の特徴だ。非合理性は、個人と集団の間で新たな機能を発揮するようになる。コンピューター化が果たしえない人間の非合理な欲動を、この時代から逸脱しないような新たな神話へと再編成するための堡塁となって高度な合理性の世界を覆う鎧のような役割を担うようになる。

3-2 集団心理

「集団心理学と自我分析」

 資本における集団の問題を、人間集団そのものを対象に論じたフロイトの「集団心理学と自我分析」(1921年)を手掛かりにしてみたい。
 フロイトの「集団心理学と自我分析」は、その問題意識の多くをル・ボンの『群集心理』から示唆を受け、これへの応答といった趣で議論を展開している。フロイトは、心理学による個人としての人間の素質、欲動、動機、意図、行為、そしてこれらと身近な人びととの関係が解明された場合であっても「もう理解できたと思ったはずの個人が、特定の条件の下では、その人から予想されるのとはまるで違った風に感じ、考え、行為するという驚くべき事実を、心理学は説明せねばならない」とし、人間が集団のなかで獲得する特性としての「心理的な集団」に着目する。そして「個々人の心の生活にそれほどにも決定的に影響を及ぼす能力を、集団は何によって獲得するのか。そして、集団が個々人に強いてくる心の変化は、どの点に存するものなのか(注12)」と自問する。この自問は、フロイトの精神分析の基本的なパラダイムと本質的に抵触する可能性を秘めた問いでもあるが、いまはこの点には深入りできない(注13)。このように、集団のなかには、個人を対象とした心理学では想定しがたい個人の心理作用が存在するというフロイトの指摘は、私たちの日常体験のなかでも見いだせる。とくに、私からみて、いわば他者の集団であり、価値観や文化を共有しているとはみえない人々の集団に対して、私たちは予想外の言動を目撃するかのような感覚をもつことがある。逆に、私もその一員をなしている集団になると、フロイトが上で述べているような予想しえない言動をそのなかに見いだすことは稀であり、むしろ集団の行動と私の心理との間には一貫した連続性があるように感じられる。たぶんこの感覚は、集団を論じる場合に非常に重要なものであり、この主観的な情動には多かれ少なかれある種の偏見が忍び込んでいる。しかし同時に、この心理的な遠近感には集団相互が抱いている世界観の相違がその背景にあるともいえる。いずれにしても、既存の支配者にとっては、こうした諸々の集団を束ねることを可能にするメタレベルでの集団心理の構築なしには統治の安定性は維持できないし、逆に、反体制運動が大衆的な基盤を持つことができるとすれば、支配的な世界観からは理解しえないが様々な大衆の間で共通して理解を獲得することが可能な世界観の構築が不可欠になる。多くの人々は、このような錯綜し、輻輳した対立する集団の網の目のなかでしか自己のアイデンティティを形成することはできない。 しかも、問題は、こうした集団の結束を可能にしているものが、理性的な判断に基づくとは限らず、むしろ様々な感情によって左右される、という点にある。
 フロイトが議論の叩き台にしたル・ボンは、近代社会がもたらした「群集」現象として労働運動や社会主義運動を念頭に置く。彼が「群集の勢力が生まれたのは、まず、人心に徐々に植えつけられていたある思想が普及したため」だと指摘していることからも明らかだが、次のように具体的に群集行動の内容に言及する。
「群集は、どんな権力もその前では屈服するような企業組合を起こし、また労働紹介所をはじめた。この労働紹介所は、経済法則を無視して、労働と賃金との条件をとかく支配しがちである」 「〔群集の要求は〕現在の社会を徹底的に破壊して、文明の黎明依頼のあらゆる人間集団の常態であった、あの原始共産主義へこの社会を引きもどそうとする。労働時間の制限、鉱山、鉄道、工場および土地の没収、生産物の均等な配分、民衆階級のために上層階級を除去すること、等々。これらが、その要求である(注14)」
 ここで「労働紹介所」と呼ばれているのはフェルナン・ペルーチエらが組織していた労働取引所連盟の活動を指すのだろう(注15)。少なくともル・ボンに『群集心理』を書かせた前提となる群集の集団は、文字どおりのいかなる制御も効かない一過性の暴徒だとはとうてい言いがたいにもかかわらず、ル・ボンを含めて支配階級からは、統制のきかない集団としてしか理解しえなかった。第1章で指摘したように、ここには支配的な階級の世界観からは理解しえない資本主義的支配秩序への抵抗運動によって構築されるパラレルワールドがあり、ル・ボンらの関心はこれを再度資本の世界に引き戻すことにある。
 ル・ボンは、たった1世紀前には民衆階級は何らの政治的な力ももちえていなかったにもかかわらず、現在では「近代の最高主権者である新たな勢力」にまで成長し、「支配階級に次第に変りつつある」こと、そしてこの「群集」の登場が「西欧文明の最終段階を画し、新社会の出現に先立つあの雑然とした混乱期への復帰」だとみなし、これは社会の道義力の喪失であり、また「野蛮人ともいうべき狂暴で無意識的な」群集による社会の瓦解を招くものだとて慨嘆する。

「群集が支配するときには、必ず混乱の相を呈する。およそ文明というもののうちには、確定した法則や、規律や、本能的状態から理性的状態への移行や、将来に対する先見の明や、高度な教養などが含まれている。これらは、自身の野蛮状態のあままに放任されている群集には、全く及びもつかない条件である(注16)」

 こうした群集の近代西欧文明への拒否の心理の根源にあるのが、現代人にまで遺伝的に受け継がれてきた「種族の精神を構成する無意識的要素」であって、ここに集団としての個人の類似性をもたらす遺伝的な根拠があるともいう。つまり個人の性格の一般的な性質は「群集」のなかで次のようになるという。

「〔個人の性格は〕無意識に支配されるものであり、かつ一種族に属する常人の大部分が、ほとんど同程度に所有するものであるが、これこそが、まさしく群集に共通に存在する性質なのである。集団的精神のなかに入りこめば、人々の知能、従って彼等の個性は消えうせる。異質なものが同質的なもののなかに埋没してしまう。そして、無意識的性質が支配的になるのである(注17)」

 労働運動や社会主義運動は、こうして高度な知的な能力を発揮するどころがむしろ「野蛮人」並みの「本能のままに任せる」運動だとしか理解されていない。
 ル・ボンとは対照的にフロイトは、個人が集団に同調する心的メカニズムを個人の心理に即して論じることから始める。個人心理学や、親密な人間関係だけを念頭に置いて分析された人間の心理が、「特定の条件の下」、つまり心理的な集団のなかでは当てはまらないという問題に関するフロイトのアプローチの方法は、個人の心理と集団心理のある種の弁証法なのだが、正確には、個人とその周辺にあって誕生から成人になるまでの生育期にあって最も大きな影響を与える親、とりわけ父親との関係を含む私的な人間関係と、大きな社会集団との関係である。ここでフロイトが持ち出すのが「同一化」と「恋着」だ(注18)。
 同一化も恋着もこの家族関係を前提として形成される。同一化と恋着の議論では、集団のなかで個人の固有性が大幅に奪われる事態があることを認めながらも、そうであっても個人の固有性としての心的なメカニズムの働きが作用しつづけることを主張しようとしている。心理的集団は常に、個人を心理的に動員しようと試みるのだが、こうした集団の側の個人に対する心理的な力の存在そのものが、個人の側には集団心理に還元できない固有性が消え去ることなく存在しつづけていることを示している。

同一化と恋着

 フロイトによれば、同一化とは「他の人格への感情的拘束の最も初期の発現」であり、父親を自分の理想として一体化しようとする、あるいは父になりかわりたいという欲望を抱く心理状態をいう。この欲望は母親への性的な対象備給としてあらわれるから、これがエディプスコンプレクスを生むことになる。
「母親を得ようにも父親が邪魔していることに気づく。父親との同一化はいまや敵対的な色調を帯び始め、母親に対する関係においても父親に取って代わりたいという欲望と一つになる。要するに、同一化は始めから両価的[アンビバレンツ]なのであって、情愛の表現に変わりうると同様、除去への欲望にも変わりうる(注19)」
 同一化は「模範」となる他者の自我に自らを似せることで自らの自我を形成しようとする。この同一化の契機となるのは、男の子の母への性欲動である。この性欲動は、自分が父となることによってしか満たせないから、父になりかわろうとすることで同一化が生じる。しかし父になりかわることは不可能であり、挫折とともに母への性欲動の無意識への抑圧のなかで人格形成がおこなわれる。女の子は逆に、母への同一化と父への性欲動の挫折、無意識への欲動の抑圧となる。同一化とは、自分の自我が同一化の対象となる人物の性質を帯びること、あるいは、同一化は自我のなかに対象を取り込むことによって自我の変容をもたらすことだが、この同一化のきっかけは、性欲動を必須の条件とするわけではない。「対象を自我のなかに取り込む」ことによって何らかの欲動が充足できるのであれば、同一化が生じる。この同一化をもたらす心的機制は、対象や欲動の内容が変化しても、そのメカニズムは成人になっても維持される。また、同一化の対象は、実在の人間である必要もない。架空の存在や人間以外の何ものかであってもよい。たとえば、神、民族、国家といった観念への同一化が可能であるということだ。それが自分の欲動の充足をもたらすとみなされる限り同一化の過程が生み出される。(注20)
 集団のなかの個人は、この同一化を通じて、自我のなかに、集団を構成する他者を取り込むことを通じて、私は集団のなかの他者に拘束される。他者の自我もまた私を取り込むことによって拘束される。この関係が二者間だけではなく多数者の間で生じることを通じて、集団への個人の拘束が生じ、同一化の過程を通じて異なるはずの人格の同一性が現象する。個人の自我が集団のなかに溶解し、あたかも喪失したかのようにみなされる状況が生み出されることになる。これは法や制度が個人を縛るような形式的な集団への強制力ではなく、むしろ個人を集団に帰属させるより内面的な機制だといえる。
 このとき、三者以上の諸個人相互の同一化をもたらす情動の共通性はどのようにして生み出されるのだろうか。つまり、集団の誰もが自らの自我に取り込もうとする共通した他者の存在が必要になる。「この共通点は指導者に拘束されることの内に存在するものだ、と推測することができる」とフロイトは指摘する。まったく平等な諸個人が相互に同一化の過程を通じて他者の自我を取り込むという場合、AがBの自我を取り込み、BがCの自我を取り込み、という自我の取り込みの連鎖だけでは、集団が共通した自我を形成することはできない。このジレンマを解決するには、多くの人たちがその自我を取り込もうとする共通した誰か、あるいはその誰かが体現している何らかの理念の存在が必要になる。このような誰かは、集団の指導者となる人物・理念ではあるが、後述するように、この人物・理念がどのようにして形成されるのかをフロイトは理論的に論じることには失敗している(注21)。さらに言えば、フロイトの議論には、集団の指導者となるべき存在とその理念に関する民主主義的な合意形成の議論も存在しない。このことがフロイトの理論の限界だと指摘することもできるが、むしろ私は、集団心理に関する民主主義の限界に自覚的でなかった民主主義の政治運動にこそ、その限界があると考えたい。
 容易に想像できるように、この一人の指導者の自我あるいはこの自我を介する理念に収斂するまでの過程こそが集団にとって不安定な内的な競争や闘争の過程になる。複数の指導者・理念相互の主導権争いは、フロイトの観点からすれば、自我の取り込みをめぐる闘争ということになる。この過程は、組織内の闘争が、合理的あるいは理論的な闘争の体裁をとって展開しているとしても、その背後にはむしろ欲動の充足に関わる同一化の過程が存在することを示唆している。集団心理をめぐる最もやっかいな問題は、こうした指導者が形成される過程に、一方で、理性的・理論的な主張が、他方で、リビードが関与する情動に基づくある種の好き嫌いの感情が渾然一体となって表出するという点であり、このことにとりわけ民主主義を擁護する政治運動が無自覚なままだったために、理性の限界を自覚できず、ファシズムの情動・情念の政治を凌駕することができなかった。ある意味でフロイトはこうした問題の存在を示唆したのだ。
 さて、一旦この指導者が確定することになると「集団化した個人の相互の拘束は、重要な情動的共通点に基づくそのような同一化を本性とする。そしてこの共通点は指導者に拘束されることの内に存在するものだ、と推測することができる」 ということになる。
 これは心理学でいう「感情移入」であり「他の人格の中に自我にとってよそよそしい部分を理解する上で最も重要な出来事なのである(注22)」。フロイトは、自我がこの同一化によって、他者の自我に乗っ取られるメカニズムのなかに「自我理想」の役割をみる。心的装置には自我から派生していわゆる快欲動を実現しようとする自我と対峙する自我に批判的な「自己観察、道徳的良心、夢の検閲、そして抑圧に際しての主要な影響をその機能(注23)」とする自我理想が自我を裏切る。自我理想は、集団あるいはその指導者への同一化を、それこそが「自我」の理想だと唆す。自我理想が理性的な判断を麻痺させ、自我の土台をなす無意識の抑圧と抵抗を自我理想は解除し、対象への同一化こそが快欲動最大化の実現であるように心的メカニズムを調整することによって同一化が促されるともいえる。集団的な心理の構造では、奇妙なことに、無意識と自我理想が結託して自我を集団的な情動へと誘導するのだと私は考えている。こうした集団心理の機制があるとした場合、本稿の問題意識との関連では、この自我理想と監視社会(監視の集団心理)との関係が重要な論点になる。監視を外部、他者からの眼差しだけではなく、他者と同一化しながら自我理想によって内面からの監視の心的な構成が形成される。監視は抑圧だが、この抑圧は積極的に肯定されるような抑圧であり、これに自我理想が加担する。監視社会批判の観点で手薄なのは、この自我理想に拠点を置く内面からの監視の問題だ。 言い換えれば、誰もが多かれ少なかれ持っているマゾヒズムを監視社会は巧妙に味方につけているといってもいい。
 集団心理を検討する際にフロイトが注目するもうひとつの心的な情動が恋着だ。この恋着は同一化とは逆方向で自我に作用する。つまり、自我の犠牲である。恋着は対象に呪縛される状態、あるいは「恋の奴隷状態」であり、かつ性的充足が得られない状態が持続するときに典型的にみられるという。愛の対象への過大評価が生じ対象に対する理性的な評価や判断が後退し、理想化される。
 一般に、子ども期の両親に対する性的欲動とその目標制止の状態は、無意識のなかに保存されて維持される。思春期になるとこの欲動は親ではない他者へと向けられる。ここで制止されない欲動と制止される欲動の双方が「共働」し、欲動制止のなかで恋着が生じるが、これが対象に対する錯覚や理想化をもたらす。
「自我はどんどん無欲になり、謙虚になり、他方、対象はどんどん偉大に、価値あるものになる。最後には、対象は自我の自己愛をすっかり獲得するに至り、そこから、自我が自己を犠牲にすることが自然な帰結となってしまうほどだ。対象が、言うなれば自我を食い尽くしてしまったのだ。へりくだり、ナルシシムズの制限、自己毀損といった特徴が、恋着にあってはいずれの場合も顔を出す(注24)」
 日常生活のなかで恋愛感情がもたらす恋着によって、自己犠牲的に対象に奉仕するような振る舞いがみられることはよく知られているし、多かれ少かれ誰もが経験したことでもあるだろう。恋着の心的メカニズムが集団心理にも作用する場合、権威主義を支える心的メカニズムとなる。理想化された対象の価値は、実際のそれ以上に増殖する。対象は現実を超越するわけだが、対象は、ある種の現実の対象には還元しえないような観念をまとうようになり、こうした超越的な観念の体現者が現実に眼の前にいる対象だという転倒した情動にとらわれる。キリストへの愛、軍隊における自己犠牲的な国家への愛、つまり愛国心は、現実の教会や国家・政府の具体的なありようを基礎にしているのではなく、現実を超越した観念が現実にとってかわることによって生み出される。ここには、恋着に伴う制止され逸らされた性欲動の作用があるのだが、これが性欲動の制止=抑圧の帰結だということは自覚されない。情動のレベルでいえば、神への信仰も国家への忠誠も、対象への愛も自我の「献身」だ。いずれの場合も対象は理想化され、自我は対象に対して自立した「力」を発揮するこができない。

「自我が対象に「献身」するようになると、抽象的な理念への昇華された献身とさえもはや区別不可能になり、同時に、自我理想に割り当てられた諸機能は全面的にその無力さをさらけ出す」「対象がなすこと、求めることはすべて正しく、非の打ちどころのないものになる。対象に都合好く起こることには、良心は全く提供されなくなる」「対象が、自我理想の代わりに置かれたのだ(注25)」

 監視社会のなかの集団心理が恋着に基づく行動をとるとき、自らが恋着する対象に対して危害を加えたりすると思われるものへの過剰な監視が正当化される。監視カメラの蔓延を許容する人々の心理は、集団心理のなかの恋着に基づく過剰な防御の典型だろう。すべて正しく、非の打ちどころのない私たちの社会に対して、逸脱した行動をとるであろう者を許容できない心理は、「私は決して間違ったことはしないし、隠し事もないから監視カメラがあっても気にならない」といった心理を生み、同時にこの心理は、この「正しい」社会のルールに違反する者の存在を理解しえず、ただ排除すること以外の手段を見いだせない人々を生み出してしまう。
 フロイトは、同一化と恋着が集団心理に果たす役割がどのようなものなのか、特にその相互関係について論じているわけではない。しかし、前述したように、この二つは一つの過程として、結果として集団心理を構成することになるのは明らかだろう。
 集団形成の端緒は、親密な関係にはない人々が、同一化の過程に入るなかで、多くの人々が共通して同一化しようとする人物の登場によって集団への第一歩が始まる。他方で、人間は、出生してから自立するまでの間に、家族と呼ばれる親密な人間集団のなかで育つ。家族の形態は多様とはいえ、資本主義に固有の家族の機能と性格があり、そのなかで原初的な性格構造が形成される。フロイトが同一化と恋着を論じる前提になっているのは、こうした人間の家族関係がもたらす自我の形成なのだが、他方で、人がこうした与件としての集団ではなく、ある集団を選んで参加するとか、自ら集団を形成しようとする場合こそが、集団心理を形成する重要な場面となる。
 いわゆる「群集」の問題は、家族とは異なって、まだ輪郭もはっきりしない集団以前の人間の集合が次第に、「集団」と呼びうる性格を形成する過程の問題でもある。この過程を通じて、多くの人々が同一化の対象とする人物が、恋着の対象となることによって、集団の指導者として確立される。この一連の過程で、指導者となる人物の「権威」を支えるのは、彼/彼女の個人的なパーソナリティとともに抽象的な理念や思想あるいはこれらを体現する表象群である。たぶんこの構造は民主主義にも独裁制にも共通する集団を構成する集団心理の基盤をなすという意味で、民主主義のアキレス腱になりかねない。統治機構一般に共通する権威の存在は、人々が心理的な自由を獲得するうえで、言い換えれば、抑圧的な社会が形成する超自我によって自我の検閲がおこなわれ、無意識に抑圧された性欲動が道徳や倫理として「私」の言動を縛る一連のメカニズムを視野に入れない政治と社会の変革は、結果として制度を変えても権威主義を支える心理を変えることには繋がらない、ということである。先にも述べたように、フロイトは集団心理を論じるときに、集団の意思決定の民主主義のありかたには全く関心を寄せていない。しかも前提となる家族関係の構造のなかで、父の子どもへの性的欲動といったエディプスの逆三角形とでもいうべき関係が排除されているために、権威と支配の問題に内在する暴力の質もまた見逃された。これは、フロイトの欠点というよりも、民主主義が集団に果たす役割の限界――近代社会は、民主主義と家父長制の共存を前提としているというある種の欺瞞――として理解すべきことだと思う。同一化と恋着を民主主義はどのように「解決」できるのか、言い換えれば、理性的な討議を通じた合理的な集団的意思決定という民主主義の建前と集団心理における同一化と恋着がもたらす集団へのアイデンティティ形成とでは、そもそもの成り立ちが本質的に異なるのだ。この問題を自覚せず、未解決なまま放置するかぎり、民主主義は権威主義とほとんど同義だとみなしていい(注26)。
 心的装置がとる人間集団との関係のなかで生じる自我、無意識、自我理想の関係は、それ自体が相互に整合的なメカニズムをとっていない。同一化と恋着では、「私」という主体は、対象との関係のなかで、対象を自我に取り込むのか、自我が食いつくされるかという、自我に対して正反対の影響を与えるのだが、この二つは全く別々の現象ではなく、同じ集団のなかで同時に起きることでもある。集団のなかの「私」にとって、指導者は成就できない愛の対象であり、集団となる仲間との間には仲間意識や同胞愛などと呼ばれる同一化が起る。この二つの心理は相互に軋みながら私の心的装置のなかで共存することになる。自我は、取り入れと放棄という相反する情動のなかに置かれることになる。こうした情動の構造が集団内部の力学を生み出す。
 フロイトにはもうひとつ重要なル・ボンの議論との決定的な違いがある。「集団心理と自我分析」における主な例示にフロイトは、軍隊と教会といった制度化され長期にわたってその存続が安定して維持されている集団を取り上げている点だ(注27)。とりわけ宗教は、フロイトにとって、解決されなければならない重大な「まやかし」「錯覚」だった。フロイトと精神分析をとりまく当時の時代状況を考えたとき、彼の問題意識の背景には、第一次世界大戦の惨劇があり、また、精神分析の優れた後継者と目されていたユングによる宗教への肯定的な関心に対するフロイトによる厳しい拒絶があり、これらが軍隊と教会という例示へと結び付いたのではないか。

教会と軍隊

 フロイトが特に注目して論じている教会も軍隊もともに「高度に組織化され持続的で人為的な集団」であって、自然発生的に生まれる「群集」ではない。高度に組織化された近代社会でその正当性を誰もが承認している組織をフロイトは「まやかし(錯覚)がまかり通っている」典型例として挙げている点は注目すべきだろう。
 まやかしとは、集団の構成員を等しく愛する指導者という錯覚のことだ。集団の存続はすべてがこの錯覚にかかっている。フロイトは、この錯覚を手放してしまえば、教会も軍隊もたちまち崩壊してしまうという。
 フロイトはこの錯覚の謎を解く鍵が催眠術にあると考えた。被験者は自らの意識への統制を失って催眠術師の制御に服するという関係の延長線上に、集団への一体性が生まれるプロセスを見出せるというのだ。
「催眠術師は催眠に導入するために、しばしば眠るようにという指示を与えるが、そうすることで彼は両親になり代わっている」とフェレンツィの指摘を肯定したうえで、「催眠において眠るようにという指示が意味するのは、一切の関心を世界から逸らしなさい、そして催眠術師の人格に集中しないさいという要請以外の何ものでもない」とし、このことを催眠術をかけられる側=主体もまた理解しており、こうして催眠術師に自らの自我を預けることを、自我理想もまた承認し、主体は催眠術師の暗示に支配されることを主体的に選択する。問題は、フロイトが被験者の心に生じる変化を次のように解釈している点にある。

「こうして催眠術師は、その処置を通して、主体が原始から相続してきた遺伝的資質の一部を主体のもとに呼び戻す。その資質は、両親に対しても現われていたもので、父親に対する関係の内で個人的再生を経験していた。すなわち、父親はきわめて協力で危険な人物として表象され、この人物に対しては人は受動的・マゾヒズム的な態度をとることしかできず、この人物に触れると人はその意志を失わずにはすまなくなり、この人物と二人きりになり「さしで向かい合う」ことは、容易ならざる冒険であるように思われたのである。原始群族に属する個人が原父に対してとっていた関係を思い描くとすれば、例えばそのようにするしかあるまい(注28)」

 進化論や遺伝学がまだ草創期ともいえる時代であったことを差し引くとしても、父とのマゾヒスティックな関係が原始群族の時代の「原父」なる存在を現代にまでひきずってきた結果だということにフロイトはかなりの確信を抱いた。しかし根拠が示されているわけではない。この「集団心理学と自我分析」のなかの集団と原始群族の節でもその冒頭でもダーウィンを引き合いに出しながら「人間社会の原型は一人の強力な雄のほしいままな支配を受けた群族だった(注29)」という。

「この群族の運命が、人間の遺伝的継承の歴史の中に破壊し去ることの不可能な痕跡を残してきたこと、特に、トーテミズムが宗教と倫理、社会の構成化の端緒を含んでおり、その発展は、首領の暴力的殺害と、家父長的群族の兄弟的共同体への転換に関連するものだったこと(注30)」

これは「仮説」にすぎない。近代社会が個人の人格の自立性を際だたせる社会であったとしても、この近代的な個人が集団のなかで、その人格を消失させ「思考や感情が同じ方向を向きがちになること」、情動性と無意識の心の動きが優勢となって理性的な抑制が効かなくなる傾向は、近代的個人のなかにその根拠は求められないとフロイトは考えたにちがいない。ここからフロイトは一挙に「どれをとっても、他ならぬ原始群族についつい帰したくなるようま原始的な心の活動への退行という状態に相応するもの(注31)」と理解した。しかし、私はこのフロイトの仮説には与しない。理性的な抑制が十分に機能しないのは、資本にそもそも理性が備わっておらず、その人格的表現としての資本家もまた理性によって自我を統御するような存在ではないという、資本主義に固有の性格構造に由来すると考えるからだ。のちに述べるように、これは家族関係で、とりわけフロイトがエディプスコンプレクスと命名した性欲動の制止に伴う現象であると私は考えている。
 近代にあっても、集団化した人間は、原始群族のなかに見いだされるような情動が支配的になるというのフロイトの推論は、人間が完全な個人の集合体として存在することはできず、何らかの集団を形成するかぎり、「原始群族が存続しているのを、われわれは認める」「集団の心理とは最古の人間心理である、われわれはそう結論づけねばならない(注32)」というように、集団と個人の関係を前提にしている。
 ただし、フロイトは個人心理が原始群族には存在しないのではなく、集団心理と同等に古くから存在する心的なありようであって、この個人と集団という二つの心理が最初から人間のなかには存在するという。つまり、「集団の中の個人の心理と、父親、首領、指導者の心理」である。ここでの「個人」――主に男性が念頭に置かれている――には、父親に体現される個人と、父親に従属する個人という少なくとも二種類の個人の存在がなければならない。父親としての個人は、自由であり、自我はリビード的に拘束されず、「彼は自分以外の誰も愛していなかった」のであり愛するとしても「彼の欲求に役立つ限りでしかなかった」といった存在だという。ニーチェになぞらえて、こうした父親は「超人」だともいう。主人として、ナルシス的であり、自信に満ち、自立的でもある。これがフロイトがいう「原父」である。同時に集団の諸個人は「指導者によって等しく愛されている、というまやかしを必要としている(注33)」という。
 一方に他者を愛さない指導者=「父」がおり、他方に「父」によって「公平に愛されている」と錯覚する集団の構成員がいる。「まやかし」という概念は、フロイトの集団心理と個人心理の構造の核心をなしている。フロイトは、錯覚とも呼ばれるこの社会の支配的な人間関係を構造化する心的なメカニズムのなかから原父の「神格化」が生み出されるという。集団のなかの一個人でしかなかった父の息子(いちばん下の息子)が父の継承者になるために、集団心理を個人心理に変換する何らかのメカニズムが必要であり、これを可能にする唯一のプロセスが以下のようなものだという。

「原父は、息子たちが直接の性的追求を充足するのを妨げていた。彼は息子たちに禁欲を強要し、その結果、制止された性的目標の追求から生じうる感情の拘束を、彼らと自分との間に、そして彼ら同士の間に強要した。原父は息子たちを、言うなれば集団心理へと強要したのだ。彼の性的嫉妬心と非寛容が、最終的には集団心理の原因になった(注34)」

 では、こうした原始群族の人間関係と近代社会のなかの集団とはどのような関係があるのか。教会と軍隊の例で、次のように言う。

「軍隊や教会の例では(略)指導者はすべての個人を等しく公平に愛しているというまやかしがその工夫だった。しかしこれは、原始群族の置かれた状況を理想主義的に改作したもの以外の何ものでもない(注35)」

 この原始群族と現代を繋ぐ「まやかし」を説明するために、氏族制度とトーテム信仰に言及し、家族の自然な集団形成の強さは父親の等しい愛という必須の前提を必要とするという。では、フロイトが催眠術で指摘した自我の放棄とこの原始群族にまでさかのぼる心的な構造とはどのように関わるのか。ここでフロイトは催眠に付随する「何か直接的に不気味なものという性格」の想起を読者に促し、これこそが「何か古くて馴染みのもの指し示して」おり、この不気味なものが催眠術師の「秘密の力」ともいうべきものであって、「原始人たちがタブーの源泉とみなした力と同じもの」「王や首領たちから発し、彼らに近づくことを危険なことにする力(マナ)(注36)」と同類のものだと指摘する。首領の眼差しを危険なものとして忌避することのなかに神の眼差しが、首領へと転移される表れであるとみなす。
 この集団における原父に起源をもつまやかしとしての平等は教会では次のように現れる。

「個々人に向けられる要求はすべて、キリストのこの愛から導き出される。一定の民主的な特徴が教会を貫いているのであって、それはまさに、キリストの前では皆が平等であり、皆が彼の愛の等分の分け前に与っているからである」キリスト教の教区が家族的なものとなり、信者相互が兄弟姉妹とされる。「それぞれの個人がキリストに拘束されていることが、彼ら相互の拘束の原因でもある(注37)」

 神の前での平等は、日本であれば天皇の赤子としての臣民相互の平等であった。ワーグナーもまた封建制を否定しながらも君主制を肯定する際に持ち出す理屈が君主の下での臣民の平等だった(注38)。教会に言えることは軍隊の「リビード構造」にもいえる。異なっているのは、位階構造をもっており、隊長を父とし、部下を子とする関係が重層的に繰り返される点であり、一方が欺瞞とはいえ隣人愛を説くのに対して、他方が、殺人を肯定しうるほどに強固な同一化と恋着を再生産しうるある種の破壊や死の欲動に直接支配されている点だ。

支配的構造と集団心理

 一般に集団形成を論じる場合には、集団の理念や思想を構成員を拘束する重要な要因とみなすが、フロイトは、軍隊の場合であっても祖国や国の名誉などの理念は「存続にとって不可欠というわけではない(注39)」とし、リビードを重視する(注40)。この指摘は重要な観点であり、集団に帰属する個人ひとりひとりの心理に即したとき、教会であれ軍隊であれ「一方で指導者(キリスト、隊長)に、他方で集団内の他の個人たちにリビード的に拘束されているという点を心にとどめておこう(注41)」と指摘しているように、個人がストレートに神や国家への愛に拘束されているということではなく、むしろ組織内部の人間関係への拘束が決定的要因となり、そのうえで神や国家への恋着が可能になる。
 ただし、この個人の人間関係の核をなす構造を重視することは、組織が総体として表象する理念やイデオロギーを軽視していいということではない。たとえば、個人の主観のなかでは「自分はファシストではない」と思う者が組織の過半数を占め、ファシズム思想を確信犯として抱いている者が少数であるような組織が、それを理由にファシストの組織ではない、というふうには即断できない、ということだ。少数の思想が組織全体を体現することはむしろ一般的にみられることだ。組織の過半数が非ファシスト意識だったとしても組織がファシズムを体現していることを容認してるのは、組織への同一化が人間関係に拘束されてよいという大衆心理の構造のなかで、実は、ファシズムが全体のイデオロギーとしてのヘゲモニーを握ることになる。
 先に述べたように、この集団心理を資本主義におけるそれとして検討するのであれば、教会と軍隊という例示は重要だが、同時に、あるいはそれ以上に重要なのは、資本の組織、つまり労働組織における集団心理をこの同一化と恋着によってどのように説明することができるか、そしてまた、近代国家の構成員=国民としての集団性をどのように説明することが可能なのか、という問題は私たちに残されることになる。同時に、親密な集団としての家族についても、現代の家族関係における同一化と恋着が資本主義的な家父長制をどのように再生産するのかという観点もまた、残された課題になる。近代組織が、その合理主義の側面で諸個人を組織に拘束するときの基礎をなすのは法と契約である。しかし、フロイトが集団の心理的側面で重視した同一化も恋着も契約に還元することはできない。組織や集団と個人の関係について社会科学がもっぱら契約を重視したことを踏まえれば、同一化と恋着、一言でいえば「愛」の側面が極端に軽視され、結果として、愛国心や郷土愛といったファシズムを支えた情動を捉えそこなった欠点を補ううえで重要な観点なのだが、形式合理性としての法と契約との関係もまた問われれるべき課題として残された。とりわけファシズムとこれにつらなる集団心理は法と契約を超越する「愛」の優位を――その裏面としての敵への憎悪を――特徴としていることを想起する必要がある。
 軍隊と宗教は現代でも世界の暴力と不寛容を構造化する要素であり、しかもこれらは、いずれも、個人主義と人権、世俗的近代の統治という構造のなかで、これらの理念を裏切る側面と、逆にこれらを補完する側面を同時に示しながら、むしろその存在理由をより強固に固めつつある。集団的な殺人行為の正当性を軍隊はどのようにして維持できるのか。科学的世界観や合理的な価値判断と超越的で非合理を肯定する宗教的な世界観とがなぜ、どのようにして人々の心理に無視できない作用をもたらしているのか。こうした問いが、現在でも十分意味をもっていると私は考えるが、この問いを、さらに、本書の主題でもあるコンピューター化された監視社会の時代で支配的な人間のデジタルデータ化とその商品化の世界のなかに置きなおして再考する必要がある。
 集団を構成する諸個人が相互に一体感を覚え、指導者や指導理念に共感する構造は、現代のSNSやネットを介したコミュニケーション環境の場合であっても、同一化と恋着の機能の重要性は変わっていないと思う。つまり、集団が掲げる方針や目標などが情動のレベルで人々を繋ぎとめる要因を人々の合理的な判断に還元できないということでもある。現代の集団心理は、SNSのような情報通信ネットワークの影響力が大きくなっていることを前提にしたとき、同一化と恋着の心的メカニズムを形成する過程は、マスメディアを背景として人と人が直に顔を合わせることを通じて形成されるそれとは本質的に違うものをもっているとも思う。その違いは、個人の双方向コミュニケーション能力の獲得にある。インターネットが個人の情報発信力を飛躍的に強化し、商業メディアや政府の発信力と遜色がない水準を獲得したことによって、同一化と恋着が形成されるプロセスが根本的に変化し、これまで親密な人間関係のなかでしか実現しえなかったような類いの同一化と恋着が、グローバルに(ただし言語の壁にははばまれるが)実現可能になった。
 プライバシーの権利が保護されるための物質的な基盤として、一人になれる部屋や敷地など、他者による介入を排除できる空間的な条件が必要になる。通信は、この空間的なバリアを突破する技術でもあった。電話はその典型であり、だから電話の盗聴は、プライバシーの権利問題を論じるうえで重要な争点でもあった。もうひとつのプライバシーの空間的なバリアを突破する技術が電波によるメディア、ラジオやテレビだったが、これらは不特定多数のプライベートな空間に一方通行で介入するメディアだ。このことが、電話とは異なって、大衆消費社会の広告宣伝におけるマスメディアに固有の心理効果をもたらすものとして注目された。つまり、プライベートな空間にいる「私」が武装解除した状態にある情動に直接介入しうるメディアとして重宝がられた。プライベートな空間は個人の心的装置の超自我による検閲を弛緩させて快原則を最大化させる効果があり、ここにマスメディアが介入することによって、人々の情動に作用しようとしたともいえる。これは、同一化と恋着を効果的に生み出す装置にもなった。前述したように、同一化や恋着の過程で複数の人々が誰の自我を取り込み、誰に自我の放棄を委ねるのかという一般的な集団心理形成過程を大幅にに効率化した。
 インターネットによる不特定多数が双方向のコミュニケーションを実現できる技術は逆に、同一化と恋着が収斂する過程をより複雑にした。市場が貨幣を媒介にして商品の売買を効率化するときに、人々の欲望が貨幣という共通した価値物に収斂することが必要であったように、集団の凝集力と安定の獲得もまた、情動と理念における「一般的等価物」を求めようとする傾向をもつ。民主主義はそのための有力な意思決定プロセスだが、双方向で不特定多数がネットワークするSNSのようなメディアを通じて、これを実現するという場合、参加者がプライバシー空間のなかで超自我の検閲が緩む状態でオープンなコミュニケーション環境に参加することによって引き起こされる情動の発現は、資本主義の支配的なイデオロギーに内在する偏見や差別の感情をそのまま表出させる回路にもなる。大手マスメディアによる放送・出版コードのように、レイシズムなどの差別を公的な表現空間のなかで制度的なフィルタリングがかけられて抑制される従来のメカニズムは、個人の無意識へと抑圧された差別の情動まで消し去るような効果をもつことはできなかった。無意識へと抑圧された情動がプライベートな空間のなかで緩んだ超自我の検閲をすりぬけて表出し、一次的にはプライベートな空間のなかで発現し、これにネット上の人々が同一化と恋着を繰り返すことによって、これまでにはみられなかったようなネットによる集団心理の回路が形成されるようになった。
 無意識のなかで保持されつづける差別や偏見、あるいは他者への憎悪といった感情は、フロイトやユングらによれば、その根源を探れば太古の原始群族にまで遡ることができるある種の遺伝的な根拠をもつものとされかねない。こうなれば、差別や憎悪はむしろ「自然」な人間の感情として肯定されることになるだろう。ここに、集団としての「民族」や、ジェンダーなどのカテゴリーの網が被されることによって、民族やジェンダーが実体化されることにもなる。こうなった場合、問題となる制度や法を改廃しただけでは人々の集団心理の問題は解決せずに、無意識に潜在してしまう。マスメディアの時代には、こうして潜在化した情動が不特定多数へと漏出する回路が不在だったが、インターネットがこの回路を開いた。
 同時に、問題は、フロイトが例示した軍隊と宗教に即していえば、これらの「まやかし」の組織を解体するためには、集団心理を構成することになる同一化、恋着、そして群族への回帰をどのように処理すべきか、ということになる。私は、フロイトが論じたこれら集団心理をもたらす諸要因についての議論に社会と歴史認識が欠落していることが決定的な限界をもたらしており、ここにマルクスの資本主義の歴史認識が不可欠になると考えている。
 一般に、制度としての集団を廃棄するようには集団に対する情動を廃棄することはできない。無意識のなかに膨大な源泉をもちながら人間が生み出し、記憶し、知識や経験として蓄積され、諸個人の情動の一部を構成する集団を、自らの意思で廃棄するのか、あるいは外的な要因で廃棄された結果を受動的に受け入れるのかでも事柄は異る。少なくとも、暴力や神的な超越性を否定する大衆運動が本来であれば正面から問うべき情動に埋め込まれた記憶を、集団の廃棄のなかで文字どおりの意味で過去のものとして始末をつけることは、形式的な制度の廃棄で片づくわけではない。物を捨てるように、無意識にも根を張る記憶や知識を捨てることはできない。
 他方で、あらゆる軍隊、あるいは集団による武力の行使が悪であるということもできない。フロムが主張しているように破壊欲動には防衛的な欲動に基づくものがあり、あらゆる合理的な理解を超越するところに成り立つ情動をまやかしや錯覚だとみなすこともできないのだ(注42)。抑圧された者たちが、非対称の支配者による暴力に晒されているときに、集団的な抵抗の暴力を行使することは、ある意味では全く正しい(注43)。「ある意味」という留保が重要なのだが、暴力と超越的な事柄の廃棄という課題の難しさがここにあり、同時にこの難しさが言い訳となって、支配者によってその暴力や神信仰が正当化されることが繰り返されてもいるし、抵抗の暴力への寛容がポスト革命の社会の統治に深刻な後遺症を残す結果を何度も経験している。人類社会の未来を構想する力のなかには、合理的な判断がややもすると陥りがちなのが現状への妥協と現状の改良で満足すべきだという誘惑である。こうした誘惑を断ち、不可能にみえる理想や希望を行動の駆動力にすることのなかに、いまだない社会の可能性を想像する力を私たちはもつことができなければならない。同時に、集団心理を検討することのなかには、私たちが将来社会で希望の創造となりうるように集団性を構想するという場合にも同じように、制度的な集団の枠組や意思決定の手続きが集団の性格のすべてを決定するわけではなく、集団に参加する一人ひとりの個人が、個人としての固有性を最大限発揮するための必要不可欠な制度としての集団とはどうあるべきか、という課題を検討するうえでも、集団心理の問題は極めて重要になる。この場合、同一化と恋着を生み出す心的メカニズムの形成に家族が深く関わっているとするならば、同一化と恋着が支配的なイデオロギーの体現者としての組織やその指導者あるいはそれらが担う理念や思想に拘束されずに、別の道をとること、あるいはこうした既存の集団の「まやかし」からみずからの自我を解放するための戦略は、制度をめぐる闘争だけでは十分とはいえないことは明らかだろう。
 集団的な拘束から個人が解放されるとき、パニックや個人の不安をもたらす場合がある。「彼にとって危険を低く抑えていた情動的拘束が働かなくなってしま(注44)」うことがあり、「パニック的不安は集団のリビード的構造が緩んでしまったことを前提とし、その弛緩にもっともなやり方で反応(注45)」するとき、そこには、新たな予期せぬ「集団」の形成がみられるかもしれない。こうした集団が、果たして解放の集団的な萌芽となるのかどうかは、同一化と恋着を生み出す性格構造を再生産する家族関係が維持されていれば、私たちが期待するような方向へと集団が創造されることはまずない、といっていいだろう。とすれば、自然発生的な解体によるパニックを招来させずに、目的意識的に集団の解体を追求することが可能でなければならない。しかし、フロイトのように、集団とその指導者の存在を太古の原父の遺伝的な継承とみなしてしまうと、宿命論になってしまい、私たちに残された自由の可能性はきわめて狭いものになる。

3-3 集団心理と無意識――監視社会の基層へ

「集合的無意識」

 フロイトは、集団心理のなかの非合理性を太古から継承されたある種の宿命とみなす一方で、一貫して宗教の意義をはっきりと否定し、将来の人類が理性によってこの非合理性を抑え込むことができるようになることに期待を寄せた(注46)。
 これに対して、C.G.ユングは、人間の集合的無意識と宗教的な信仰を肯定した。ユングは性欲動と宗教への態度でフロイトと決定的に対立する。この対立もあってユングが反ユダヤ主義者でありナチスの同伴者であったかどうかが繰り返し議論になってきた。私は、彼のドイツ民族や宗教あるいはオカルトを肯定する態度のなかに、ナチズムを支える大衆的な心情とでもいうべき感情と共通するものがあり、おおかたのユンギアンとは逆に、反ユダヤ主義とナチズムへのシンパシーを抱いていたと判断する(注47)。
 フロイトが集団心理の情動と心的メカイニズムのなかに見いだした「原父」や原始群族、そしてトーテミズムの心理から宗教の「まやかし」を導こうとしたのに対して、ユングは、心的メカニズムを二分し、個人心理のなかには個人的に獲得されたわけではないが無意識を構成する部分があるとし、これを集合的無意識と呼んだ。この集合的無意識は「一度も意識されたことがなく、それゆえ決して個人的に獲得されたものではなく、もっぱら遺伝によって存在している(注48)」。個人の無意識がコンプレクスから成るとすれば、集合的無意識は「元型」から構成されているという。

「個人的な性質をもった意識的な「こころ」の部分(これに個人的無意識を付随物として付け加えたとしても)だけをわれわれは経験可能な「こころ」の部分であると信じているが、しかしそれとは別にこころ」には第二のシステムがあって、これは集合的普遍的で非個人的な性質をもっており、すべての個人においても同一である(注49)」

 この「元型」から構成される集合的無意識は、ヒトという生物学的な種が共通してもつ意識ではなく、民族や性による区別が持ち込まれる。ユングは「ヴォータン」と題されたエッセーのなかで「ドイツ的元型」に言及している。このエッセイの冒頭付近で、ドイツの若者たちのワンダーフォーゲル運動のなかに、ゲルマン神話の荒ぶる神ヴォータンの復活の予兆を見、それがのちにヒトラーを熱狂的に支持する大衆の心理へと成長したと指摘している。これは人々の無意識のなかにあったものが意識化された結果だという。ヒトラーとナチズムの登場を「ヴォータンほど、因果仮説としてうまく当てはまる神はいない」のであって経済的、政治的、心理学的に合理的な説明以上に「ナチズムというものをうまく説明している」ともいう(注50)。 そしてヒトラーが神格化されないとしても、ヴォータンという神が存在することを指摘し、ヴォータンをはじめとするゲルマン神話の神々は「疑いもなく心のうちなる激しい力の人格化」であり、しかもこの心の力は無意識に属するために、それが心の内側から生起したものだとは意識されない。「ヴォータンこそドイツの魂の基本的特性であり、非合理的な心の「要素」である(注51)」とし、「ゲルマン気質の根本的所与であり、とりわけドイツ国民の根底をなす特性の真正無雑の表現であり、優るもののない人格化」だとして、ヴォータンを元型だという(注52)。元型とは「あたかも水の枯れた川底のようなもので、どれほど長い年月を経ても、時至れば水はおのずから戻ってきて奔流をなす」ものであって、国家が水路を厳格に管理できる運河だとすると、民族の生命なす元型は人工的に管理することができない「原野の河」のようなものだともいう。国家や国際組織など、あるいは人間の支配を受けることなく、なおかつ人間を支配するもの、「人間という存在をはるかに凌駕する者」、これを「民族の生」だとして、この民族の生は「制御も受けず、導かれることもなく、ただもう無意識にボタ山をころげ落ちる岩塊に似て、よほどの障害でもない限り止まることを知らない(注53)」という。

「〔ヴォータンは〕自律的な心的要因として集団全体に効果を及ぼし、それによっておのれ独自の性情をあざやかに浮び上がらせる。ヴォータンは独自の生物学的原理に従っていて、個々の人間存在とは別物である。個々の人間は折にふれ、この無意識的制約の影響力に抵抗もならず縛られるばかりなのだ。(注54)」

 しかもユングは、「無意識の衝動的情緒面と、直観的霊感的な面とを併せ体現している」ヴォータンは、「一方で狂暴な怒りの神であり、他方ではルーン文字、神秘的前兆の解読者、運命の告知者である(注55)」とも指摘する。

「個人とはちがって群集は、いったん動き出せば人間の統制は及ばない。そしてそのとき元型が働きはじめる。それは個人にあっても、既知のカテゴリーでは片づけられない状況に出会ったときには生ずることなのだ。しかしこの動き出した群集に対して、いわゆる指導者[フューラー](総統)がどんなことをするかは、われわれは、わが国の南でも北でも、これ以上は望めないほどはっきりと見ることができる(注56)」

 私は、ユングの元型がナチスにとって利用可能な理論的枠組みをもっていると思う。ドイツがナチズムの到来を必然的にもたらす民族的に遺伝的な要因をもっていたということをユングが示唆したことは、彼がナチズムに批判的であったとしても、その批判は、ヴォータンを否定することにまでは至っておらず、ただヴォータンが呼び覚まされたことに問題を見いだしているにすぎない。この覚醒は、宗教を廃棄する社会主義運動やマルクス主義がもたらした社会的な危機あるいは民族的危機に対する無意識の抵抗の帰結であるとユングはみなしていたようにも思う。ナチズムを避けられない元型の帰結とすることによって、ナチズムの犯罪をある意味では免罪したともいえる。少なくともは近代法ではヴォータンなる神話の主体を戦争犯罪の主犯として裁くことなどできはしない。逆に、個人にとっては遺伝によって定められた不可抗力であるとなれば、戦争犯罪への免罪の理由さえ構成してしまう。ユングの議論の枠組みでは、ナチズムへの抵抗の可能性を民族としてのドイツ人のなかに見いだすことはできないことにもなる。また、この元型を廃棄することは考えられてもいない。宿命を生き、ヴォータンを蘇えらせるような出来事もまた、人間や集団の意思を超えた出来事とみなされているように思う。
 ナチズムだけでなくファシズム全般にみられる思想や世界観に共通する特徴は、剽窃や転用を通じて、自らの権力の再生産に寄与するようなイデオロギー装置のための原料とする態度だ。こうなるのは、彼らにとって最大の主題が、権力を支えるような大衆的な情動の統合にあり、この目的を達成することが可能なものであれば、あらゆる思想や理論を動員しようとする無節操さにある。

ネクロフィリアとしての資本主義

 ユング同様、フロイトの精神分析から出発したフロムが集団心理に対してとった態度はユングとはかなり対極的だ。フロムは、ライヒが史的唯物論とフロイトの精神分析を総合しようとする試みを高く評価していた。1930年代のフロムもまたほぼライヒ同様、ナチズムへと引き寄せられる大衆意識の謎を解く鍵をフロイトの精神分析に求め、フロイトが中産階級のブルジョワ的な個人主義という限界をもっていたところを、マルクスの資本主義批判によって克服しうるとみていた。

「今日まで、社会問題に対し精神分析を応用しようと試みたおびただしい研究は、分析的社会心理学に寄せられた要請に、ほとんどこたえていない。これらの研究の失敗は、家族の機能を評価することからはじまっている。彼らは、個人が社会的存在としてのみ理解され得ることを十分明瞭に認識していた。彼らはまた、本能の発達に決定的影響を与えるのは、子どもといろいろな家族のメンバーとの関係であることも理解していた。しかし彼らは家族自体の心理的、社会的構造や、その特有の教育目標あるいは情緒的態度が、これを包む総体としての社会的構造、そして(さらに限定されて)階級構造の産物であるという事実は、ほとんど完全に見落していた。いいかえると、家族はその成立基盤である社会および階級の心理的代替物であるという事実を見落としていたのである(注57)」

 こうしてフロムは精神分析の個人心理学を社会関係のなかで再定義する必要性を主張した。家族関係は、それ自身が社会構造の、つまり資本主義の産物であることを理解することなく、個人に対して家族関係が与える重大な心的な影響を正しく理解することはできないと考えた。

「社会心理学の扱う現象は社会―経済的状況に対して、本能の働きが能動的もしくは受動的に適応するプロセスとして理解されねばならないこと。ある程度基本的には、本能の働きそれ自体は生物学的な所与であるが、しかしそれは高度の可塑性をもつこと。これを変容する要因をもとめていくと、結局それは経済条件に帰着すること。家族は経済状況が個人心理を形づくるような影響を及ぼす際の媒体になること。社会心理学の課題は、社会的に意味があって共有される心的態度やイデオロギー――そしてとくにその無意識の底辺――を、経済条件がリビドー的衝動に対し加える影響の問題として説明することである(注58)」

 フロムは『破壊』の第12章「悪性の破壊」のなかでネクロフィリアと技術崇拝との関連に言及している。フロムの技術論はルイス・マンフォードの影響が大きいが、マンフォードが古代エジプトの巨大機械の最終的産物はミイラとなった死体の住む巨大な墓であり、ここに「<文明的>残虐行為の原型(注59)」があるという指摘に示唆されながら、現代の産業社会における機械の破壊性、と力を中心とする〈巨大機械〉について次のように述べている。

「人びと、自然、そして生きている構造を焦点とした関心を窒息させ、それとともに機械的で生命のない人工物にますます引きつけられることである。…妻よりも自分の自動車に対してよりやさしく、より大きな監視を持つ男たちがいる…車に愛称を付けてやる。彼らは車を観察し、ごくささいな機能障害の徴候をも気にする。たしかに車は性の対象ではない――しかしそれは愛の対象である(注60)」

 写真を撮ることは観る行為をカメラに代替させることであり、レコードで音楽を聴くことも機械への置き換えであるといった指摘は決して珍しいものではない。むしろフロムの指摘で興味深いのは「この種の行動が、生命への関心や、人間が与えられている豊かな機能を発揮することの代用となった時には、それはネクロフィラスな性質を帯びるのである」と指摘したところにある。「人工物への関心が生きているものへの関心に取って代わり、技術的な問題を杓子定規で生気のないやり方で扱う人びと」が存在することに問題があり、事実「私たちの時代が非常に多くの例を提供している技術と破壊性との融合の、より直接的な証拠」としてイタリア未来派、ファシストのマリネッティ「未来派宣言」を引用している(注61)。
 フロムは、ネクロフィリアの本質的な要素は、ファシズムを支えたイタリアの未来派宣言にあるように、「スピードと機械の崇拝、襲撃の手段としての詩、戦争の賛美、文化の破壊、女性への憎しみ、生きている力としての機関車や飛行機」であり、「革命的精神の華麗な宣言と、技術の崇拝と、破壊の目的のこの混合こそ、まさにナチズムを特徴づけるものである(注62)」と指摘した。
 技術と破壊性の融合の典型は、「大量殺戮のための飛行機の使用」である。空軍のパイロットたちは「殺すことに関心は持たず、敵をほとんど意識していなかった。彼らの関心は、細心に組み立てられた計画によって定められた方針に沿い、彼らの複雑な機械を正しく扱うことにあった(注63)」。彼らの行為が殺戮になることは観念的にしかわからず感性では捉えることはできなかった。だから罪の意識も希薄になる。こうしてフロムは、「現代の空襲による破壊が従う原理は、現代の技術的生産のそれであって、そこでは労働者も技術者も、彼らの仕事が生み出す製品から完全に疎外されて」おり、労働者たちは「それが有益な製品なのか有害な製品なのかを自問してはならない――それは、経営者が決めるべき問題なのである。しかしながら経営者に関するかぎり、〈有益な〉とはただ〈有利だ〉の意味」である(注64)。際限がない破壊と、無感動破壊が技術化され、自分がしていることへの感情的認識が排除されると「破壊性には際限がなくなる」。さらにフロムは「〈電子技術〉社会の精神をネクロフィラスと判断することには、根拠があるのだろうか(注65)」と将来に向けた示唆的な問いかけをしている。1970年代はじめの著作としては、非常に早い時期にコンピューターとネクロフィリアの関係に気づいていた。現代であれば、コンピューターとポストヒューマンとでも言い換えられるかもしれない主題だろう。そして、フロムにしては極めて珍しくネクロフィリアについて、フロイトの肛門愛やサデイズムの議論を参照している。
 ネクロフィリアは、サディズムでもなければ死の欲動でもない。サディストは他者に対する支配の欲望であって、他者への破壊と自己へのナルシシムズ的な(その意味では自己の死の欲動とは正反対の欲動なのだが)、「すべての生きているものを死んだ物質に変貌させること」「すべてのもの、すべての人間、しばしば自分自身をも破壊することを望む。彼らの的は生命そのものである(注66)」。資本主義におけるネクロフィリアはフロイトが指摘した口唇、肛門、性器といった性格分類のいずれにも該当せず「市場的性格」という新たな性格類型を用いる必要があるとした。市場的性格は、すべてのものが商品に変貌し、交換によって利益を上げることを前提にする。「すべてのものは商品に変貌する―物だけでなく、人間自身、彼の肉体的エネルギー、技能、知識、意見、感情、そしてほほえみまでも(注67)」ということだ。こうした市場経済の物象化的性格や感情労働の議論を超えて、彼はここにネクロフィリアを見いだしたのだ。死の欲動が生の欲動へと転化し、マルクスの言い回しをかりれば、死んだ労働になることを欲望する生きた労働、機械を偏愛し機械になれない自分に絶望して機械と同一化し機械に恋着するような自我の形成である。同一化と恋着が人間としての他者や、この他者を介した理念や観念(宗教の教義や不合理な陰謀論を信じること)へと収斂するのではなく、文字どおりの「物」的なものに同一化、恋着する。「電子技術社会」を代表する当時の議論でもあるサイバネティクスについてフロムは次のように指摘した。

「サイバネティック的人間はあまりにも疎外されているため、自分の肉体を成功するための手段としてのみ体験する。彼の肉体は若々しく健康に見えなければならないのであって、それはパーソナリティ市場における非常に貴重な資産として、ナルシシズム的に体験されるのである(注68)」

 サイバネティックス的人間は感情ではなく頭脳によって方向づけられる。こうした傾向は、「事務員、セールスマン、技術者、医者、経営者、そしてときに、多くの知識人や芸術家たち―実際、都市に住むほとんどの人びと」にまでみられ、「頭脳的=知的アプローチは、感情的反応の欠如と共存」する一方で感情は野生のまま「破壊する情熱となって現われ、また性やスピードや騒音に対する興奮となって現われる(注69)」。そしてフロムは次のように書いている。

「ある特別な種類のナルシシズムで、その対象は彼自身―彼の肉体と技術―である。要するに成功の手段としての彼自身である。唯知的な人間は彼が造った機械の一部になり切っているので、彼の機械もまた、彼自身そうであるように、彼のナルシシズムの対象となる。実際この両者の間には、一種の共棲的関係が存在する。すなわち「一顧の個体が他の個体と(あるいは自己の外部のいかなる他の力とでも)結合した結果、それぞれが自己の全体性を失い、互いに依存し合うようになる。象徴的には、人間の母は自然ではなく機械である(注70)」

 人間がもつ感性的な側面が剥ぎ取られて、物化され、性愛も技術に還元され、愛の機械となる。生きている喜びも娯楽産業が提供する商品に依存する。

「世界は生命のない人工物の総和となる。合成食品から合成器官に至るまで、人間は全面的に、彼が支配すると同時に支配される全体的な機械の一部となる。彼は計画も、人生の目的も持たず、ただ技術の論理の決定によって彼がなさなければならないことをなすだけである。彼は彼の技術的精神の最大の達成の一つとして、ロボットを造ることを熱望している(注71)」

 こうしてフロムはネクロフィリアの性格が核武装、核戦争への傾向に見いだせるだけでなく 「全面的に技術化された生命なき世界は、死と腐敗の世界の別な形にすぎない」と結論する。ほとんどの人が自覚化しえていないこの事態は、フロイトがいう意味での抑圧の結果であって、それがしばしば「死と腐敗に魅せられる気持ち」として表出する。
 フロムは、「機械的――生命のない――肛門愛的」という図式で上記のような傾向を論じるのだが、現代社会の圧倒的多数がフロムがいうような機械に支配された世界を肯定し、機械化=近代化=進歩の幻想にとらわれているとすると、これを肛門愛的とみなすことは妥当ではないと思う。フロイトであれフロムであれ多くの精神分析家は、肛門愛と口唇愛を性器愛と比べて精神的な疾患の原因として指摘する傾向があるが、性器愛こそがむしろ、近代的人間の異常性の根源にあるとみなければ支配的な社会制度それ自体がネクロフィラスな状況に支配されていることの説明がつかない。つまり、正常な性欲動の抑圧のコンプレクス(その典型がエディプスコンプレクスだがコンプレクスはこれに限らない)の過程を経て抑圧と抵抗によってこの機械化の世界が強いるネクロフィラスな欲望による秩序に自らの身体を同一化・恋着し、そのことによってこそ性器愛を基礎として人口の再生産、つまり世代を超えてこのネクロフィラスな秩序を再生産する仕組みを構築しているのではないか。ネクロフィラスは死体となるべき生きた人間を必要とするという逆説を含む残酷な社会である。それこそがこれまでの資本主義を形成してきたのだ。
 ネクロフィラスな秩序こそがバイオフィラスな秩序を規定するということは、マルクスの言い回しでいえば、死んだ労働による生きた労働の支配であり、この支配が労働者の意識をも包み込み、この関係を介して、人間は〈労働力〉となり、この〈労働力〉が商品として物化へと引き寄せられながらも、完全には物化することはできないなかで、資本は〈労働力〉を物とみなすネクロフィラスな欲望によってのみリビードの備給を発動でき、この資本に同一化・恋着するように促すのが、労働者の日常生活をとりまく市場が供給する商品の象徴的な意味作用なのだ。しかし、資本のネクロフィリアは、法人格におけるそれであるという意味で、ミクロの集団心理の構造をもち、市場経済全体のメカニズムは市場経済のマクロな集団心理の構造をもつことになる。のちにみるようにネクロフィリアを皮肉にも生政治と呼びうるような事態がおとずれつつある。フロイトが死の欲動と呼び、戦争の欲望を否定しえないものとみなさざるをえなかった事態が、この残酷さを維持したまま生の欲動を支える可能性に資本が注目しはじめている。

ライヒのマルクス主義とフロイト主義の結合

 フロイトが無意識を「発見」したことによって、存在と意識の全体構造が再構築されなければならなくなる。ファシズムの時代に、この問題に最も真正面から取り組んだのがウィルヘルム・ライヒだった。精神分析の専門家として性格構造分析の重要な業績をあげながら、マルクス主義の方法をフロイトの心理学と統合するなかで、ファシズム批判を展開し、階級意識をめぐる特異な観点を提起した。ライヒは、マルクスがいう人間の存在とは、労働や生産関係だけでなく、人間としての存在総体を含むものであって、そのなかには必然的に人間の性格形成にとって不可欠な幼児期の家族関係も含まれるとみなした。労働者階級に属する者たちは、一方で、マルクスが主要な分析の舞台とした労働者として資本―賃労働関係という階級関係によって規定される意識の部分と、他方で、家族関係に規定される性格形成に基づく意識の部分があり、この二つの意識のずれを抱える存在が労働者個々人の社会的存在としてのありかただとみた。家族関係を媒介にしながら、階級意識に還元できない、伝統や民族的な意識などが形成される。そして、またここにフロイトが強調する性的な欲動によって規定され無意識のなかに抑圧されながら意識に作用する両価的な構造も存在することになる。ライヒは次のように言う。

「現実にそくして云うなら、平均的労働者は、二者択一で割り切れるほど革命的でも保守的でもないという事実を発見できたであろう。むしろかれ労働者は、一つの葛藤状態にある、というべきであろう。なぜならば、一方においてかれの心理構造は、かれのおかれている社会的立場から派生し、それゆえにかれを革命的にする。しかし他方、かれのおかれている権威主義的な社会環境から、かれを保守的にもするからである。こうしてかれの革命的傾向と保守的傾向は、たがいにせめぎあって葛藤状態を形成する。この葛藤状態を理解し、反動的な要素と革命的な要素が、労働者にどんな具体的形式で働いているかを発見するのが、決定的な重要性をもつ。同じことが、もちろん中産階級の成員にもあてはまる(略)。社会―経済理論がどうしても理解できないのは、中産階級の成員がすでに窮乏化の過程をたどっているのに、なぜ革新を怖れ極端な反動に走るのかという事実である。かれもまた、反逆の感情と反動のイデオロギーの相克に悩んでいるのである(注72)」

 労働者は革命的か反動的かという二者択一では割り切れないからこそ、ライヒは、労働者階級を保守的にする権威主義的な社会環境を取り払うことこそが、革命的な条件の形成にとって必須の課題だとみた。労働者階級が抱え込んだ葛藤は、個人的な問題ではなく、「あらゆる社会秩序も秩序の必要とする構造を秩序の成員がつくりだす」のであって、社会の成員でもある労働者がこの秩序にとって必要な構造を作るという関係なくして戦争など可能になるはずがない、とライヒは言う。経済構造と大衆の心理構造の関係は、支配的イデオロギーを論じるだけでは不十分であり、経済構造上の諸矛盾が大衆の心理構造に及ぶメカニズムを論じる必要があるとみたのだ。「可能なかぎり社会の諸条件と性格構造が形成される関係、わけても直接的な社会―経済的説明では不可能な思想、つまり非合理的な思想の把握が先決である(注73)」。ナチズムで、なぜ神秘主義が科学的な社会理論に勝つことになったのかは、こうした視点に立たなければ理解できない。
 ライヒは、この現実に対して主流のマルクス主義が労働者階級の葛藤を軽視し、経済決定論に傾いていることを強く批判した。労働者をこの葛藤から救い出して階級意識に基づく集団として組織化するには、葛藤を生み出す一方の要因、「権威主義的な社会環境」との闘いが不可欠になる。この側面の分析を担うことができるのが階級的な精神分析の役割だと考えた。
 ライヒが主張している観点は、階級という観点を別にすれば、フロイトが「大衆心理」で論じた自我と集団との間の葛藤の枠組みと一面では相通じる。フロイトが集団心理を探るなかで原始群族の心理へと回帰したのに対して、ライヒは、その根源を資本主義内部にあって大衆の性格構造の再生産を担う家族の機能に求めた。私はこの点でライヒの観点を支持する。資本主義的家族関係のなかで形成される性格構造が集団への同一化や恋着の前提にある。とすれば、権威主義的な環境、つまり資本主義的な家族制度から権威主義的な集団への同一化が容易に生まれることが想定できる。
 ライヒは資本主義における家族の位置を次のように述べる。

「家父長制社会における経済状況と性・エネルギー経済状況が、相互に絡み会っている社会制度を研究しなければならない。この制度の研究を抜きにして、性・エネルギー経済や家父長制イデオロギーの把握は不可能である。いかなる時代の民衆の性格構造―たとえば国民性や社会階層といったような―の研究も、社会―経済と性・エネルギー構造の組み合わせが、社会の構造的再生産と等しく、人生の最初の四、五年の内に、権威主義的な家族において発生するという事実を示している。教会だけがこの機能をのちのちまで持続する。こうして権威主義国家は、権威主義家族内に巨大な利益を育てる。つまり家族とは、国家の構造とイデオロギーの原因なのである(注74)」

 ライヒは家族関係に内在する対立を「国家権威の執行機関である両親」とこれに反抗する若者という構図で描いてもいる(注75)。ライヒは、ナチスの青年組織のような反動的な集団へと組織されるのか、あるいはスポーツなどの非政治的なレジャーへと情動が組織化されるのか、それともプロレタリアの解放運動に組織されるのか、つまり若者の自我が同一化と恋着によって方向づけられるとしても、その方向は相互に対立する集団の間の選択として現れるとみている。既存の権威に対する若者の反抗が、客観的な階級によって一義的には決まらず、労働階級の若者だから左翼の運動の担い手へと向かうばずだという仮定を置くことができるほど単純な構造にはない。若たちが求める理想は「自分自身の生活を把握し、この生活を自分自身の意志にしたがって形成すること」であり、こうした理想を目的意識的に追求しうる運動の構築が必要になる。指導者への無条件の服従や国益のために命を捧げるといったことを拒否すること、つまり支配的な組織や指導者への同一化と恋着からの解放を目指す運動だ。これは、集団心理の核心をなすこれらの条件から一旦リビードを引き上げ、自我を客観的な階級構造に沿って再建することであり、そのためには支配的なイデオロギーやまやかしの神話によって自らの内面に形成された超自我、つまり、オイディプス・コンプレクスによって生育期に親との関係を通じて内面に組み込まれて権力の手先となった性道徳の規範をなす自我の一部と闘わなければならない。「社会革命を発展させことができるのは、青年男女の諸必要と諸矛盾だけからである。これらの必要と矛盾の中心に位置しているのは、青年男女の性生活という巨大な問題である(注76)」。こうしてライヒはSex-Polの運動を立ち上げた。
 資本主義が、市場を支配する資本と近代国民国家による統治機構という二つの構造を通じて制度としての再生産を維持しようとするとき、人間それ自体の再生産の基本を資本も国家も直接みずからの組織では担うことはできないという限界を抱え込むことになる。ライヒの前述のような観点、そしてまたフロイトが指摘する個人の性格形成に与える幼児期の性的リビードの構造形成にとって重要な時期を家族に委ねざるをえず、また資本にとっても国家にとっても直接の制御が及ばない場所として抱え込まなければならない。家族関係の場所そのものが資本主義の制度的な限界をなしリスクでもあるからこそ、家父長制によるエディプスコンプレクスを通じた性道徳規範の形成は、権威への従属の性格構造を形成するうえで不可欠の条件をなす(注77)。
 家族が資本主義が家父長制的で権威主義的なものとして制度化されるという場合も、人間の性格構造の形成に対しては制度を通じた形式的な包摂しかなしえなかった。(注78)親に権威主義的な性格形成のための子どもの躾を委ねる以外になかった。これを学校教育が側面から補完し、年齢が上がるにつれて子どもの社会性の醸成のなかで権威主義的な性格を与える外形的な力を行使できるにすぎないともいえた。特に、学校教育は子どもの性的な欲動のありかたを直接制御するためのノウハウをもっていない。いわゆる禁欲的な教育を間接的にほどこすのが精いっぱいということになる。純潔教育はその典型だが、性的欲動はこうした抑圧を容易に回避して学校文化や学校の秩序から逸脱するサブカルチャーのなかで性的な関係の現実を子どもたちは習得する。子どもたちもまた権威主義的で家父長制的な性の秩序を模倣することになる。こうした模倣が可能になるのは、そもそもが、学齢期以前に家族が子どもに対してもつ親と子の関係のなかの性的抑圧の構造によるリビードの配置、あるいは超自我の分化の芽生えである。ライヒは次のように述べている。

「児童における自然な性欲、ことに性器性欲の抑圧は、権威主義的意味で、児童に、不安、内気、従順、権威についての恐怖、「よしとされる行為」、「適応の仕方」を教える。このような抑圧が、権威に反抗しようとする力を麻痺させるのは、いかなる反抗も、権威の挑戦に不安をもたらさずにいないからである。抑圧は、児童における性的好奇心や性的施行の制止により、思考や批判能力の一般的制止を招来する。要するに性的抑圧の目標は、権威主義的秩序の維持にあり、あらゆる貧困と退化の源泉であるにもかかわらず、抑圧に甘んずる人間をつくることにある。まず児童は、権威主義的な国家構造の縮図である家族に適応しなければならない。このことがのちに、普遍的な権威主義的支配体制にかれを隷属させる原因となる。権威主義的な支配構造の形成は、性的な欲求実現の禁止と性的不安で固定される場合に可能となる(注79)」

 ドゥルーズ=ガタリはライヒについて「欲望と社会野との関係という問題を最初に提起したひと」であり、また「唯物論的精神医学の真の創立者」として高く評価する一方で「欲望的生産の概念を十分に形成していなかったので、経済的下部構造そのものの中に欲望が介入すること、また社会的生産の中に欲動が介入することを規定するまでには至らなかった(注80)」と指摘している。ドゥルーズ=ガタリはライヒの問題意識を継承した稀有な立場をとったことは強調しておかなければならない。ライヒが欲望的生産に内在する資本主義批判を展開できなかったのは、マルクスが資本主義批判を商品の使用価値批判として、〈労働力〉再生産過程に踏み込んで展開するところまで至らなかったことに、その理論的淵源がある。ドゥルーズ=ガタリの『アンチ・オイディプス』は、この欠落を埋めるべくして書かれたものだという点を抜きにして彼らの資本主義批判を論じることはできないだろう。他方で、私は、再度マルクスの商品論における使用価値を再構成するところに立ち戻ってライヒの問題提起をCTCによる支配的構造に繋げたいと考えてきた。ドゥルーズ=ガタリや精神分析、精神医学が資本主義に果たしてきた役割についてはいずれ論じるべきときがくるだろうが、いまは最低限、このことだけを指摘しておきたい。

3-4 資本主義的非合理性

近代における非合理性の位置

 近代合理主義の支配と表裏一体をなして19世紀は近代ロマン主義をも成熟させる時代だった。これは近代合理主義の必然的な陰の同伴者であり、合理主義が取りこぼす人間の情動を捉える役割を果たした。工場の機械による秩序と都市の路上のあたかも「祝祭」であるかのような雑踏を「文化」が制御する。資本主義の歴史は、上部構造領域を土台を担う資本が侵食して土台化する過程であり、文化はもはや上部構造ではなく、文化産業の形成によって土台化する。この延長線上に、情報産業が形成され、これらが現代の資本蓄積の中枢を占めるようになった。この過程は、資本が上部構造領域へと拡張したともいえるから、土台の上部構造化でもあり、以下で述べるように、土台と上部構造の二階建ての構造が相互に融合するようになる、ということだ。この融合の構造は、政府の統治機構へのCTC資本の関与と生活過程への意味使用価値を介した関与という二つの経路をとって進展してきた。
 資本主義最大の問題は、資本の基本的な行動原理である速度と正確性とは本質的に抵触する「人的資源」を憎悪と敵意を隠しながらいかにして籠絡するか、にあった。機械化による〈労働力〉排除はその直接的な表現であり、「消費」過程を資本が供給する商品の使用価値によって編成することによって、生活様式を資本の価値観の枠に抑え込むこと、つまり欲望の形とその充足を資本の循環に組み込む方向で社会の「発展」や「進歩」が企図されてきた。
 しかし同時に、機械と接合する〈労働力〉として資本によってあたかも物であるかのように再構成・処理される人間類型からはみ出す部分に、マルクス主義者や社会主義者が階級意識の可能性が生み出したとすれば、ファシズムや右翼は伝統や太古への回帰を可能にするようなロマン主義の余地を見出そうとした、といえる。その時代に支配的な人格を構成するのは、マルクスが資本主義批判の方法として資本家を資本の人格的表現として扱ったように、支配的な階級を構成する人間集団に基づく集合的な人格である。しかし、マルクスは、資本という人格的な条件を欠いた価値増殖体に基づいていかなる「人格」が構築されるのか、という問題をさして重視しなかった。〈労働力〉商品の担い手としての労働者についても、その人格を人格そのものとしては扱っていない。少なくとも、『資本論』の執筆段階ではそういっていいだろう。
 いつの時代にも共通していることだが、その時代の支配的な意識は、人口の少数者でしかない支配層の集団的な意識によって規定される。また、そうであっても、この支配者の意識に対する抵抗の意識もまた形成されるから、こうした社会内部の複数の相対立する意識の存在をめぐる問題は説明を要する。資本主義の場合、人口の多数が〈労働力〉となるにもかかわらず、少数にすぎないブルジョワジーが身体性の主導権を握り、資本の人格的な表現を代表し、これを労働者階級にも浸透させて、社会総体の意識に定位する。時代の支配的な人間のありかたを情動領域も含めて、社会の規範・典型をなすものとして教化・訓育する制度が構築されることによって、この情動は制度的に、支配者たちに有利に再生産される。資本が供給する商品の使用価値から構成される日常生活の生活様式と、生産過程で資本の指揮監督のもとに従属する〈労働力〉が、労働者の意識を規定し、学校と家族は、こうした制度の中核をなす。しかし、19世紀にあっては、労働者の情動世界、つまり日常生活は、物としての商品の使用価値を通じて間接的に資本の世界に形式的に包摂されるにすぎなかった。労働者が見る世界の風景を、その内面に立ち入って制御する技術は存在しなかった。統治機構からも資本の管理からも相対的に自立した擬似的な「外部」からの眺めとして、資本家が眺める世界とは別の世界が見えていた可能性が大きく、この意味で資本は生活世界総体を包摂することはできなかった。民衆の抵抗は、支配的構造からは容易に理解しえない「世界」をある種の心象風景として共有できるかどうかにかかっている。抵抗の力は、このパラレルワールドから制度の間隙や亀裂を通じて表出する。支配的構造は、このパラレルワールドに楔を打ち込み、世界観の「標準化」を図り、民衆固有の世界を駆逐しようと繰り返し試みる。この過程が歴史的に繰り返され、少数の支配者の意識をあたかも社会の多数者の意識であるかのように束ねて維持するメカニズムが次第に支配の構造に組み込まれるようになる。20世紀の大衆民主主義が労働者階級を統治機構に参画させながらも資本主義の体制を維持しえたのは、数的には圧倒的に多数であるはずの労働者・民衆の意識を資本の世界意識に統合することを可能にする諸前提の成立が必要であって、これが19世紀末から20世紀初頭の資本主義が抱えた問題でもあった。 この構図のなかで資本は、不合理な人間的な側面を資本の秩序に回収するために、伝統主義を味方につけて、これをナショナリズムの支えとしつつ階級意識やジェンダー、エスニシティをめぐる社会的平等への攻撃拠点に据えた。この構造は、コンピューター・テクノロジー/コミュニケーションCTCの時代になって、コンピューターの合理主義を補完する形で、ある種のシリコンバレー・イデオロギーを構成することにもなった。
 20世紀前半の二つの世界戦争とロシア革命から「社会主義」の成立は――「社会主義」そのものの権威主義化、あるいは国家資本主義への退行という問題も含めて――近代合理主義と啓蒙主義の限界と破綻の現れだった。そうであっても資本主義が延命しえたのは合理性に収まりきらない残余としての、あるいは過剰としての人間を支配的構造のなかで制御するメカニズムを獲得してきたからだ。こうして合理主義と啓蒙主義を補完する思想や理論が20世紀の特徴をなすことになる。フロイトが臨床の現場で対応したのはまさにこの問題だった。アダム・スミスが、経済学という学問も存在しなかった時代に、資本主義経済を解明する基本的な枠組みを提起したのとほぼ同じ役割をフロイトは、人間心理の領域でなしとげた。スミスの後にマルクスが登場することによってスミスのパラダイムは止揚されるのだが、フロイトと精神分析の不幸は、こうした意味での止揚を実現することを可能にするような理論をいまだ見いだせていない、というところにある(注81)。しかし、そうであってもフロイトに戻って意識(無意識)の問題を考えておくことは必要な作業だ。この領域こそが支配的構造によって、事実上囲い込みの主要な標的になっていると同時に、行動主義からコンピューターサイエンスの方法では、この目的は達成できないことも間違いないのだから(注82)。
 資本主義における支配的な人格の合理性から逸脱する残余部分は、削除したり切り捨てることができない人間の本質的な部分である。だから資本の人格的な表現のなかにある合理性と非合理性の必然的な矛盾を内包したブルジョワ的な人間は、資本の時代に固有の人格的な矛盾を表出させることになる。これは階級間矛盾というよりも支配階級内矛盾として表出する。フロイトの精神分析は、このような矛盾が問題化した19世紀末以降の人間の心的次元での問題、主に彼の場合には様々な神経症を通じていわゆる正常とみなされている人々の心にも共通した特徴を見いだした。こうしてフロイトは、資本の人格的表現としての人間の心理とはどのようなものなのか、ブルジョワ社会の支配的な人格の再生産と、これを社会の秩序と調整するための心の科学としての側面を解明することになった。のちにみるように、フロイトの限界は、資本主義という歴史的社会のなかで形成される個人の生育を支える家族関係を、資本主義的な家父長制の帰結として理解することができなかった点だ。当時の人類学の業績に依拠したことにその限界があるとはいえ、人類社会に普遍的なものとしての家父長制を与件とする過ちを犯し、同時に、一貫した歴史認識を踏まえることも斥けた(注83)。
 第2章でとりあげた行動主義やプラグマティズムは、CTCを背景として現代の支配的なイデオロギーになっている。人間の行動を操作することへの過剰な関心は、もはや肉体的な人間の行動への関心から心的な情動が人間の言動(言葉と行動)に及ぼす影響へと関心が移動したなかで、イデオロギーはテクノロジーとより有機的に連携しながら、行動制御のメカニズムを構成するようになった。
 無意識を視野に入れたとき、機械化によって意識的な行為の制御が可能になったとしても、それは人間の行動に対する外形的制御にすぎない。資本にとっても国家にとっても人間集団を自らの支配下に置き、これを〈労働力〉として、かつまた国民として構成する場合であっても、「無意識」はこうした試みから確実に漏れる領域になる。支配的経済学が剰余価値や資本の搾取の存在を理解しえない結果として搾取をめぐる問題を、別の「理論」によって代替する以外の解決策を見いだせていないように、無意識という問題もまた、代替的な理論で対処する以外にない領域になる。
 しかし、資本の搾取理論を否定した支配的経済学が資本主義の矛盾を解決できないままでいるように、無意識の存在を無視するか否定し、意識と行為の連関のなかだけで人間を制御の対象として理解しようとする試みが、人間と社会をめぐる理論の主導権を握っている。予測の科学を道具として権力の正統性を大衆に受け入れさせようとする道具的合理主義は、その期待される結果を獲得するために、宗教やこれに類する非合理的な超越者(国家であれ資本であれ、あるいは独裁者であれ王室であれ)を必要としてきた、というのがこれまでの歴史が教えてくれた事実だろう。AIに代表されるコンピューター技術による監視社会が「解決」すべき課題は、このような意味での人間の非合理性をいかにしてアルゴリズムを介してシステムに実質的に包摂しうるかをめぐって展開されてきたということは、当然の歴史的帰結だともいえる。監視社会の争点の核心に無意識の問題があることを、彼らは経験的に理解しはじめている。しかし、彼らには、この課題を解決するための有効なテクノロジーが存在しない。なぜなら、無意識を排除した意識の科学としての心理学と行動科学によって情報科学の基盤を構築してしまったからだ。時計を1世紀巻き戻して、再度フロイトの助けを乞うことはもはやできない(注84)。
 同様の失敗は、20世紀の社会主義でもみられる。マルクス主義にとって、無意識の問題は、階級闘争と無意識の問題、あるいはプロレタリアートの無意識の問題として、資本とは別の次元で格闘を余儀なくされてきた重要な主題だ。しかし、この主題は、スターリン主義のもとでは1930年代には早々と放棄される。他方で西欧マルクス主義、とりわけフランクフルト学派やエルンスト・ブロッホ、あるいはフェリックス・ガタリのような異例の左翼がこの主題に挑戦することになる。たぶん、こうした見取り図は新しいものではないだろう。すでに述べたように、私はこれに、最も果敢にファシズムと対決しながら敗北の途を歩んだウィルヘルム・ライヒの亡霊を呼び覚ましたいと思っている。ライヒを介することによって、家父長制資本主義への批判の一つの可能性が見いだせると思うからだ。そして他方で、もうひとり、たぶんラディカルな左翼にとっては評判が悪いエーリッヒ・フロムにも既に着目してきた。とりわけフロムがフロイトの死の欲動をさらに一歩進めてネクロフィラスな資本主義的人間をバイオフィラスな人間と対置させて「悪性の攻撃」心理のなかで着目したことをマルクスの「死んだ労働」とフェティシズム論を踏まえながら、死体としての機械=資本の位相をコンピューターの再定義に取り入れたいと思う。マルクーゼはたぶんこの座標軸のどこかに位置付けることが可能だし、ドゥルーズ=ガタリは『アンチ・オイディプス』で繰り返しライヒに言及しており、学説の系譜学としてフォローすることも可能だが、これは本稿の課題を超える。

資本の無意識の欲動

 資本とは価値増殖を自己目的とした運動体だ。資本にとっての欲望は無限に増殖を繰り返す市場経済的な価値への欲望であり、その現象形態が貨幣で示される量化された富だ。貨幣は、市場に供給されているあらゆる商品に対して一般的等価物として交換の主導権を独占する。貨幣の唯一の限界はその量的限界だから、無限の価値増殖は、この量的限界を無限に突破しようとする果てしない運動であり、理論上、この欲望に上限は存在しない。通俗的に経済の「成長」と呼ばれている事柄が意味するのは、このことでしかない。資本の生産過程、つまり市場に供給される商品の使用価値は、その交換価値のフローに沿って構成される。商品の使用価値は、資本にとっては「他人のための使用価値」、つまり買い手にとっての使用価値であり自らにとっては価値の担い手にすぎない。ところが、市場のやっかいなところは、資本の生産物は商品として市場に供給されるために、買い手=貨幣所有者による購買の意思決定に従属しなければならず、買い手の意思は売り手(資本)にとっては自由にならない。たとえば、賃金を得た労働者が、この貨幣をもって市場に登場したときに、彼は貨幣というオールマイティの札によって売買ゲームのイニシアチブをとる。資本がこの過程を自らの支配下に置くためには、買い手の欲望を支配し、競争相手の他の資本を排除することが必要になる。後者は「独占」として市場の構造に組み込まれ、前者は消費者心理の調査と広告の技法によって大衆心理の操作技術の開発を促した。この過程は、資本の価値増殖欲望によって常に促される。貨幣に収斂される無限の欲望は、欲動の特殊資本主義的な現象形態であり、フロイトはこれを性的欲動の転移の体現とみなした。
 資本の人格的表現としての資本家の場合、本来であれば無意識のなかに抑圧されているはずの欲動が超自我の検閲を受けることなく自我を支配する。資本家の超自我とは、性の欲動を価値増殖欲望として全面的に肯定することにある。つまり超自我は無意識と共謀して自我を資本の価値増殖欲望に同調するように調整する。同時に、この価値増殖欲望を満たすための「生産過程」と市場による社会の解体と統合は、飽くなき破壊の過程としてあらわれる。工業化以降の経済における「生産」とは、不可逆的な自然の破壊による人間社会の維持であり、この側面からみると、ドスタール=マリスが指摘するように死の欲動の体現といえる(注85)。資本のリビードは欲望全体が貨幣的欲望へ、つまり資本の収益や利潤として、社会全体としてみるときには、景気の上昇や好況への肯定的な評価として現象するなかで資本は自らの生の欲動を〈労働力〉を死に追いやろうとする欲動によってのみ実現される。これは、サディズムというよりもむしろ死の欲動の特殊な発現形態、ネクロフィリアの欲動である。労働者の労働とは、この資本の死の欲動と同一化し恋着するように促される。これが資本という組織における集団心理の基本となる。資本主義における労働者は「破壊」の担い手になるのだが、これが創造的な行為として真逆の意味を与えられる。
 資本の価値増殖構造のなかに組み込まれた資本の人格的表現としての資本家にとって、無意識に抑圧されるのは、価値増殖を阻害するような欲動のうごめきだということになる。この抑圧対象となる最大のものが、〈労働力〉の人間的側面への配慮である。労働者は価値増殖体にとっては費用にすぎず、資本の効率性と制御可能性に服すべき存在でしかない。マルクスは、資本によって市場で買い入れられた生産手段を死んだ労働と呼び、資本は生産過程で、死んだ労働としての生産手段を介して生きた労働を支配し、その労働のなかから剰余価値を抽出するのだと指摘した。つまり、資本にとって「生きた労働」は必須の条件だが、資本の無意識の欲動は、この「生きた労働」を生産過程で生産手段と結合して、生産物に対象化された労働として固化し、死んだ労働へと転化させる。商品に対象化された労働は死んだ労働である。この剰余価値の抽出を可能にするには、生きた労働を一旦商品に対象化して死んだ労働として扱い、これを市場で貨幣に転化させることが必要になる。資本家は、死んだ労働による生きた労働への支配や、生きた労働を死んだ労働へと転化する過程としての生産過程に内在する人間に対する資本の否定的な情動を抑圧するだけでなく、これを「創造」的な過程として再定義する。
 労働者が資本ととりむすぶ関係は、労働市場で〈労働力〉の売買としてあらわれるわけだが、これをマルクスは、人と人との関係が商品と商品の関係としてあらわれると述べ、人間は商品、貨幣、資本の人格的表現となると指摘したように、物象化の構造が資本のメカニズムを支配する。死んだ労働による生きた労働の支配は、これにとどまらない。生活手段として販売された商品に対象化された労働もまた、家事労働という生きた労働を支配するだけでなく、この生活手段の消費過程は〈労働力〉再生産過程として、人間の生存を規定する。人は、商品の使用価値の「有用性」としての側面を生活過程に取り込むが、これは単なる生理学的な生存の維持を意味しない。あらゆる生活手段の消費の細部に至るまで、消費過程の人間関係と消費の意味の生成が、つまり、人間の意識の再生産に深く関与する。
 私たちは、私生活であれ労働の現場であれ、そこでの知覚作用の全てを、あたかもビデオカメラが録画する映像のように、どのピクセルも平等な権利をもって記憶しているわけではない。少なくとも記憶に直接表れない膨大な知覚が存在する。労働市場を通じて人間が〈労働力〉となる背景には、市場によっては制御しえていない過程があり、これが労働者の意識形成に影響しこの影響が労働過程に持ち込まれ、資本の指揮監督の影響する。
 労働者が〈労働力〉商品の人格的担い手として形成する意識は、資本家のそれとは対照的だ。資本は労働者の快原則を抑圧し、資本によって規定された現実原則を生きるように強いることになるが、その中核をなすのが労働倫理だ。快原則は消費過程のなかで、上限が定められた貨幣の制約のなかに抑圧される。快楽と禁欲は資本の〈労働力〉支配の従属変数になるから、資本主義は禁欲の道徳と消費の快楽による「豊かな生活」の謳歌との両面をいくばくかずつもちながら、心理的なバランスをとるように強いる。しかし、重要なことは労働者の側に形成されるこれらの情動は、資本の人間嫌い、あるいは機械に対するフェティシュな情動によって規定されているということだ。機械へのフェティスズムをさらに規定しているのは、相対的剰余価値の生産だから、究極においては、資本の価値増殖欲望が全てを支配することになる。資本自らの生の欲動が労働者と自然への死の欲動、つまり破壊欲動として現れる。資本主義に固有なのは、資本の組織で、資本家と労働者の集団の間に形成される同一化と恋着が、資本に対しては快原則の貨幣的なリビードの備給として形成される点にある。そして死の欲動が常にこの一連の過程の隠された資本のモチーフとして底流をなす。

プライバシーと家父長制――集団心理を支えるもの

 前述したプロセスはあまりにも資本の生産過程にとらわれすぎた説明になっているかもしれない。労働者は、資本の生産過程と私生活を日々往還しながら生きる。つまり、〈労働力〉の消費と再生産は一人の人間を〈労働力〉として宿命化する必須のプロセスであり、一体のものだ。だから〈労働力〉の再生産過程――その中核を担うのが家父長制的家族である――についてもみておかなければならない。
 家族はプライバシー領域の中核をなす制度とみなされている。資本主義の支配的構造では個人のプライバシーよりも家族を優先し、男性にその権力を事実上委ねる家父長制プライバシーが事実上のデファクトスタンダードとなってきた。プライバシーが資本と国家からの自由の空間であるというのは、もっぱら男性にだけ当てはまるにすぎないものだった。そして、同時に、このプライバシー空間は、人間の生育の過程で家父長制的な性道徳を内面化させるための場所として、権威主義的パーソナリティ形成を担うことになる。
 性的な欲望とその発現のありかたは、近代社会の個人の権利とされてきたプライバシーの権利が実際には家父長制家族のプライバシーでしかないという特徴と密接に関わる。自分の内面にある欲望が社会の道徳とどのように関わるのかを、子どもの時代に親などから学ぶ。フロイトの理論を前提にすれば、口唇、肛門、性器性欲の多型性が性器性欲へと収斂するように促されること、親との間に形成される近親相姦の欲望が抑圧されて思春期に他者への欲望へと向かうこと、これらは、社会が要求する性道徳の基本的な枠組みに沿って後天的に子ども時代に学習することを通じて超自我として内面化される。しかし、同時に、この性道徳規範から逸脱した欲望は抑圧されるとはいえ消滅することはなく、ことあるごとに超自我の検閲をすりぬけて意識化される。フロイトはこのすりぬけを、夢や言い間違い、冗談や洒落の類いまで、様々な状況のなかにも見いだせるとしたわけだが、同時に、人々にとって重要なことは、この内面に抱えた道徳規範からの逸脱を解放する空間としてのひとりだけの場所、誰からも干渉されない場所が必要だということだ。そうであっても、とくに子どもや若者にとって、家族の空間が文字どおりの意味での監視の目にさらされない自由な空間であるわけではない。家族関係を通じて、子どもたちが生育の過程で学ぶのは、同一化と恋着の情動をどのように発動するか、誰に同一化し、誰に恋着し、自我を誰から引き受け、誰に対してなら自我を放棄してもいいのか、こういった一連の心的装置の作動のありかたを身に付けることになる。
 フロイトの議論を踏まえれば、性的欲望の身体的心理的な多型性と向き合い、そのあからさまで「不道徳」な欲望を肯定することが可能な場所こそがプライバシーが保護すべき場所の核心にあるものであり、これを男性がおおむね独占してきた。ライヒが性的抑圧が権威主義秩序の維持にあることを指摘した場合、性的抑圧のメカニズムは彼が考えていたよりも巧妙だったのだ。プライバシーの空間という性的抑圧の調整構造を通じて、不安、内気、従順、権威への恐怖、よしとされる行為や適応の仕方の学習が、文字どおりの抑圧として感じられない構造をつくることにもなる。ある状況のなかでは、特定の人々には許される「不道徳」があり、これが実は権威主義や道徳を強化する。
 しかし、家族だけがこうしたプライバシーの空間でありかつ権威主義的な心理の再生産の場であるわけではない。フロイトが「文化」の文脈で論じた事柄の多くが多かれ少なかれ、こうした性的欲動と社会の道徳規範との摩擦のなかにある。
 たとえば、ヒトラーが傾倒したワーグナーのなかには典型的な性規範からの逸脱への加担がある。『ニーベルングの指環』の登場人物たちは、近親相姦や不貞ともいえる関係をとりむすぶ。つまり近代社会の契約や規範よりも「愛」を上位に置くような現実原則敗北の美学が描かれる。この登場人物の振る舞いをポルノ映画に仕立てるとかなりハードな「変態家族」の物語になること請け合いだが、むしろ、ワーグナーは左翼の知識人(現代でいえばバディウやジジェクか)を含めて、その物語が聴衆に踏ませる踏み絵、近親相姦の愛(ジークムントとジークリンデの双子の兄妹、彼らの間にジークフリートが生まれる)をとるか、それとも法の掟をとるか、という二者択一を前にして、ほとんど例外なく近親相姦の愛をとるのだ(注86)。
『指環』は法・契約を超越する存在にあからさまに加担する物語だ。これが許容されるのは神話であってリアルな現代の物語ではないからなのだが、ワーグナーが19世紀の作家でありながら、ゲルマンの神話に題材を求めたその動機は、彼が生きた時代のなかにこそその答えがあるはずだということが忘れられがちになる。聴衆による作品への同一化あるいは恋着がもたらす効果がこれだ。劇場という空間やそこで展開される物語がもたらす集団心理の効果は、規範からの逸脱の物語を神話として表現することによって、この逸脱が時代を超越する人間の欲望のありかたをあたかも表現しているかのようにみなされ、そこに法や契約を超越する普遍的な運命が存在するような錯覚を集団的に形成する。これは伝統を背景として成り立つ文化に共通する集団心理形成の特徴でもある。エディプスコンプレクスもそうだが、資本主義の下での家父長制の性規範が人々の無意識へと抑圧した欲動が文化的な虚構の世界で欲動の向かう対象をずらすようにして無意識からの召喚を促すことで支配的な文化が権威主義と共謀する。
 私にとって興味深いのは、日常生活の現実の場面であれば決して許されないであろう規律違反が美しい愛の物語として賞賛されるという現実と虚構の間にある矛盾を、鑑賞者のほとんど誰もが気にもしていないか、あるいは芸術の美学によって一時的に規範を逸脱する快楽に浸ることを誰もが暗黙のうちに肯定していることだ。しかも、近親相姦の肯定という一見すると深刻な事柄を肯定的に受容させるところに物語の力がある。物語は、資本主義的家父長制の性規範からの逸脱を真に受けることなくやりすごすしながら、支配的な性規範の逸脱を現実の事柄としては否定するという二重基準を通じた欲動の弁証法になっている。虚構の世界への同一化と恋着がたくみに無意識の欲動の快原則を飼い馴らす一連の過程になり、現実の性規範との対立が文化の枠組みのなかで止揚される。文化的な虚構におけるその逸脱が現実の家父長制家族の規範と表面的な対立と矛盾をみせながらも実際には、この規範からの逸脱が虚構のなかで昇華されるように仕組まれている。観客たちは、現実の社会におけるタブーの規範を実際に破ることはないばかりか、社会の規範を守るべき立場の者たちもまた率先してこの近親相姦の愛の物語に陶酔する。劇場という公共空間のなかにあっても、聴衆は自らの性の規範を逸脱する快楽と愛の世界を堪能できるのは、そこには心理的なプライバシーの空間を構築できるような人格の構造があるからだ。
 ここには、イデロギーの違いがもたらす集団心理とは異なる別の集団心理が作用している。ワーグナー主義者がヒットラー主義者であるという等式は成り立たず、むしろ多くのワーグナー主義者たちは、ヒトラーがワーグナーに傾倒したことからいかにしてワーグナーを救い出すことができるか、という立場に立つことが少くない。ワーグナーの反ユダヤ主義がその楽劇や著作から明らかだったとしても、感性が理性的な判断に容易には従おうとはしない。同一化と恋着は重層的な構造をもって、人間関係、集団相互の関係のなかで、理性的な判断を凌駕して作用することが決して少くない。だからこそ、権力は、この情動を組織し動員することによって、批判的な理論の攻撃を無化して、非合理な行為を正当化しようとする。権力に抗う側もまた、この同じ誘惑のなかで権力のこの非合理と同じ手法で集団心理を構築しようとする罠に陥るとき、革命は悲劇となる。ライヒが直面したのはこの問題だった。
 同一化と恋着と集団心理の問題の核心が家族制度と不可分であるところから生まれるこうした問題が、プライバシーとその権利をめぐる問題と密接に関わることはこれまで議論されてはこなかった。無意識のなかに抑圧された欲動がプライベートな場所で解除されるのは、睡眠中の夢にその一端が表出しているように、物理的な空間が重要であるだけでなく、たとえ近代の個人生活のなかで普及してきたプライバシー空間が存在しない長い人類の歴史のなかにあっても、人々は、他者によっては覗くことができない私的な場所を心的なメカニズムのなかに確保することによって、超自我や現実原則の抑圧を調整してきたのではないか。近代社会は、さらに、私的な空間(これは土地の私的所有制度、つまり土地の商品化なしには成立しない)が確保されることによって、性をめぐる欲動が発動される構造が、現実原則と快原則の二重構造の矛盾を制度化するように、心的装置と客観的な制度の両方が構築されてきた。プライバシーの権利として主張されてきたことのなかには、性的欲動を構成する具体的な人間関係の日常的な振る舞いが、直接支配的構造の監視の外部にありながら、しかし、家父長制を通じた大人たちによる監視――特殊資本主義的な近親相姦の抑圧と、これに伴う特殊歴史的な無意識の形成――にさらされる構造が構築されたのである。ここでいう「監視」は刑務所のようなものではない。文字どおりの内面の欲動として外部に直接露出することがない欲望から家族内部のプライバシー空間のなかで発現される欲望まで、社会の道徳的法的な規範からの逸脱が制度的に可能でありながらそれが社会全体の規範構造を侵犯しないような歯止め、つまり、個人の内面に抑圧しながらもひそかに発現可能な環境と個人の限られた閉鎖的な空間において他者の干渉が排除された環境がプライバシーの権利の前提をなす。
 この「プライバシー」の主観的・客観的な環境は、20世紀以降、コミュニケーション・テクノロジー(電話からインターネットへ)と精神分析や精神医学を通じて、徐々に脆弱になってきた。私的な言動が外部へと漏出する回路が形成されるにつれて私的な言動や内面の欲動がそのままメッセージとして外部に漏出する可能性が高まり、社会規範や道徳、法と抵触するようになる。この漏出の回路は、コンピューター・コミュニケーションによって形成される非知覚過程によるデータ化されたプライバシーをめぐるフィードバックを通じて「私」の意識の社会との自己調整的な組み替えを含む。プライバシー領域で例外的に開放されていた欲動――その多くは直接・間接に性的な規範を逸脱することによってこそ発動される欲動――もまた漏出することになる。一方に、ある種のワーグナー効果とでもいえるような、情動による社会的な契約や理念からの超越現象が様々な形で表出する。いわゆるSNSにおけるヘイトスピーチや誹謗、フェイクニュースなどがあり、他方に、権力自らが法の支配を逸脱しうる力を行使できるところにこそ権力の権力たる正統性があるのだというカール・シュミットが指摘したような集団的な心理の権力的表現が存在し、この両者がともに資本主義社会を構成する集団としての人間をめぐる本質的な矛盾の二つの現れを構成している。監視社会の問題は、個人であれ集団であれ、無意識をめぐるポリティクス、権力作用がテクノロジーや資本蓄積様式を通じて社会を構成する人々を支配的社会に同一化と恋着によって包摂する問題なのだ。死やネクロファラスな欲望や不道徳とされる性的な欲望が個人の内面に封印しさえすれば資本主義の人権や自由の建前が維持できるといった二重基準を、コンピューター・テクノロジーが破壊してしまった。プライバシーの権利によって監視社会を批判する観点には限界があることはこれまでも指摘されてきたが(注87)、プライバシーのシールドを剥ぎ取られた資本主義的人間の内面にうずまく差別、偏見、憎悪やあるべきではないとされる性的な欲望やフェティシズムを、では、どうすべきなのか。資本主義はその答えをもつことができないのは当然としても、反資本主義からコミュニズムを展望しようという私たちはもまた、まだその答えを出しあぐねているようにみえる。私たちもまた、言葉にしないという道徳律を教育することがせいぜいであり、法による処罰が次の手段となるといった程度のことしかできないように感じている。しかし、権力者たちは、この近代のプライバシーの権利に保護されてきた家父長制家族が生み出してきた悪魔を飼い馴らすことを具体的に考えはじめているように思う。たとえば、ブレイン・コンピューター・インターフェース(BCI)のような技術への関心が急速に高まっていることにこのことが表われている。人間の心理の内面への直接の物理的介入である。私はこうした手法は失敗するだろうと思っているが、むしろ脳科学をコンピューター・サイエンスとして再構築したがっている政府や軍や研究者たちは、この方向をとることによって一気に監視テクノロジーの限界領域をほぼ無限大にまで拡張できると信じているように思う。

コンピューター・テクノロジー/コミュニケーションと集合意識形成

 さらに、ここで本論の課題との関連で述べておかなければならないのは、コンピューターを介在させたコミュニケーション(CTC)が支配的な現代にあって、フロイトの集団心理の議論をどのように理解すべきか、というもうひとつの課題である。同一化や恋着は、「私」と人間集団との間のコミュニケーションを通じて形成される。想定されている人間関係は、「私」対集団の間のあくまでも「人間」相互の関係である。この関係のなかに、同一化や恋着の感情が形成される場合に、メディアのプロパガンダが少なからぬ影響を与えることはありうるから、何らかのメディアが介在することはフロイトの時代であれば当然想定されていただろう。しかし、メディアの受け手である「私」がどのようにメディアを受容し、どのような感情を持つに至ったのかを直接知ることはできない。メディアは一方通行でしかないが、人間とのコミュニケーションは双方向的であり、この過程を通じて私の相手に対する認識や印象は修正されながら関係が調整される。会話であればリアルタイムで、手紙であれば時間的な遅延を伴う。学校や職場の管理者と管理される者の間の上下関係は対等な双方向性ではないが、支配‐被支配を含む双方向コミュニケーションを通じて調整される。この意味で人間の相互コミュニケーションはフィードバックを含む。
 CTCは、人間相互のフィードバックとはそのメカニズムを全く異にするが、マスメディアの時代にはなしえなかったフィードバックを折り込むことが可能になった。コンピューター・コミュニケーションでは、相手は、「私」を追跡し、「私」に関するビッグデータも参照しながら「私」をプロファイルし「私」の情動を制御しようとし、これがうまくいかないと判断されれば、制御方法を微調整しながら「私」につきまとうことができる。しかし、こうしたコンピューター・コミュニケーションが及ぼす私の情動に対する影響を「私」はコンピューターによる機械的な作用として自覚するのではなく、対象に対する「私」の純粋かつ率直な印象に基づくものだと直感する。他方で「私」に生起した同一性や恋着は、機械的に操作されフォードバックを通じて制御される隠されたコミュニケーションによって操作可能なものになりうるか、あるいはそうなる方向で技術開発が展開されるようになってきている。人間相互のコミュニケーションに、当事者が知覚しえないコンピューター・コミュニケーションの回路が付随し、これが再帰的に情動の制御を担う。私はこれを非知覚過程と呼ぶ。この非知覚過程を支えているコンピューター・コミュニケーションのネットワーク構造はグローバルで複雑なものであり、私たちが自らの意識や感情あるいは他者との相互コミュニケーションに人為的なメカニズムがこれほどの規模で関与するようなことは人類史のなかで初めての出来事だ。この問題についてはあとの章でより立ち入って検討する。
 集合意識はSNSが形成する諸個人が各自それぞれに形成する人間関係の集合の総和として星雲状に展開され、あたかも中心が不在であるかの印象を与える。そうであっても、多くのフォロワーをもつインフルエンサーたちとそうでない者たち、トピックによる偏り、人種差別的なメッージをめぐる明らかな賛否をめぐるAIによるマッピングが政治的な傾向(リベラルか保守かといった伝統的な分類であっても)と相関する傾向があったりもする。コミュニケーションの前提となる情報発信の手段がほぼ対等である場合であっても、こうした発信の影響力の差は、コンテンツに対する評価の差を表しているとしても、ここには、人々の意識的な評価に加えて、非知覚過程のコンピューター・アルゴリズムによって操作された要素が加味されている。最もわかりやすい例は、トランプ政権を支えた右翼の諸勢力によるCTCの戦略的な活用だろう。トランプに対して有権者たちが抱いた恋着と同一化のあからさまな心情吐露は、ネットならではのことであるというよりも、ネット以前からみられたショービニズムと私的な情動が、ネットという不特定多数と繋がるメディアを得ることによって公然化したものとみるべきだが、こうした集団が構成される背後には、ケンブリッジ・アナリティカがフェイスブックの膨大なデータを解析し、保守的な浮動票にターゲットを絞った選挙メッセージを集中的に発信するというこれまでになかった世論操作技術の結果が含まれている。(注88)つまり、SNSの時代にはそれなりの恋着と同一化の心理を生み出してもいるが、これが純粋に意識されたコミュニケーション過程に基づくとはいえない、ということだ。フロイトが軍隊と教会を例としたことは、国家と宗教への個人の心理的な関わりの問題として理解することができたわけだが、SNSの時代の集団心理は、AIや機械学習などによって構築された非知覚過程を抜きには説明できない。そうであっても、人々は、様々な情報やコミュニケーションを通じて、最終的には「自分の」意志で行動を選択したという実感につなぎとめられるところは変わることはない。同時にコンピューター・テクノロジーが支配的な時代を主導したアメリカのシリコンバレーの企業群には、カリフォルニア・イデオロギーと呼ばれる独特な価値観もまた蔓延した。(注89)いわゆるテック産業のプログラマーや技術職の労働者は、労働者ではなくクリエターなどと呼ばれ、階級意識を押さえ込むような価値観が支配的になる。このイデオロギーに抗してテック産業の労働者たちの運動が、非正規のマージナルな職種(つまり、清掃や食堂などハイテク産業の周辺で不可欠な労働を担っていた移民や女性の労働者たち)から広がりはじめる。数万人規模でGoogleで働く労働者が労働運動の伝統ともいえる職場放棄を敢行するまでになる。シリコンバレーの階級闘争の存在を視野に入れるとき、ケンブリッジアナリティカとFacebookやGoogleが加担してトランプと共謀した非意識過程の問題は、支配的構造をめぐる闘争でもあり、階級闘争の新たな地平を形成することにも繋るということを押さえておく必要がある。
 資本主義的な意味生成の過程は、非知覚過程が構造化されるにつれて、これまで形式的にしか包摂しえなかった個人の言語や象徴に収斂する表現行為にインタラクティブに介入できる道筋を見いだしはじめた。従来のメディアではなしえなかった消費者の能動的な行動、消費者とのインタラクティブな関係、たとえば、寝室やトイレに持ち込まれるスマホやIoT機器によるデータ収集機能は資本主義的な非知覚過程が私たちの身体と接する「端末」になることで可能になるのだが、日常的な行動のリアルタイムによる追跡と解析を通じて、生活世界総体の包摂が可能になってきた端的な表れともいえる。
 この観点からすると、商品の意味使用価値もまた変容することになる。たとえば、掃除ロボット・ルンバであれば、清掃の自動化が直接的使用価値であり意味使用価値もその周辺に形成される。電力会社のスマートメーターももはや電力消費量を測定することが主要な役割とはいえない機能を搭載している。新型コロナウイルス感染症で急速に普及した店舗などの体温センサーには、顔認識機能が搭載されていることも珍しくない。利用者は体温を測定するつもりでも、実は顔生体データまで取得されてしまう。こうした例は他にも随所に見いだすことができる。パソコンやスマホからクラウドと連携する家庭内のAI機器、GoogleアシスタントやAmazonのAlexa、AppleのSiriなどに至るまで、これらの機能は、商品売買を通じた所有権の移転の古典的なモデルはあてはまらない。AIが搭載される結果として、購入して「自分の所有」になったはずの商品が、実は売り手によって買い手の動静を把握するための端末として機能しつづけることが当たり前になってきた。
 消費者に半ば意識されながら完全には理解しえないかもしれない機能がこうして付随するのが非知覚過程が資本や国家によって構造化された現実的なあり方だ。こうして、直接的使用価値や意味使用価値には属さないデータがメーカーのクラウドに送信されて蓄積され、必要に応じて他のデータベースと照合されながら利用されたり、他のメーカーとデータ共有されたりする。消費者の利便性に関わる部分は意味使用価値を形成するが、そうではない部分は積極的には宣伝されずに隠される。「個人情報の取扱」といった文書のなかで言及されることがあったとしてもほとんどの消費者は気づかないかその内容を理解できないままスルーしてしまう。こうして、商品の使用価値は、プライベート空間での消費者の動静そのものを推測するための端末としての機能を担うための表向きの役割を担い、売り手の本当の狙いは、非知覚過程に密かに潜り込むことによって、寝室やトイレを覗くことを介して私たちの意識の内面を探ることにある。構造化された非知覚過程はプライバシーの権利を回避する巧妙な手口だ。
 そしてもうひとつ、私たちのコミュニケーション相手もまた、容易にプライベートな空間に入り込めるようになった。SNSでしか会話したことがなく、会ったことがない誰かと寝室で「会話」することが違和感なく受け入れられることによって、プライベートな会話の場所と不特定多数がアクセス可能な場所での会話の区別が実感として把握しづらくなる
 プライベートな空間では、抑圧された性的欲動が一定程度解放されうるが、プライベートな空間が成り立たない環境であるにもかかわらず、主観的にはプライベートな空間にいるかのように実感される場合、人はこの性的欲動を抑圧する検閲を解除してしまうともいえる。こうした事態が、人間関係にネガティブな影響をもたらすことは容易に推測できる。非知覚過程は、この混乱を把握しデータとして収集しながら、制御の方法を模索する過程になる。いま、ネットで起きている多くのコミュニケーション上の軋轢や炎上は、資本主義が制度として作り出しながらそれを抑圧すべきとした個人の欲動が、抑圧から解除される回路を得た結果ともいえる。
 こうして、私生活に持ち込まれる市場で購入した商品は、プライバシー空間に入り込み、プライバシーで保護されている場所で、人々は自ら能動的にプライバシーの権利を一時棚上げにして不特定多数とのコミュニケーション空間に参入し、資本は、スマホからIOT端末までを駆使してプライベートな場所にいる人々の動静を把握して膨大なデータを蓄積することになる。こうしてプライバシーは空間による保護を失うことになる。そして集団心理は、非知覚過程を通じたフィードバックを通じて消費生活のなかでリアルタイムに繰り返し生成されるモノの意味を通じて制御され調整されるようになる。同一化と恋着は個人と集団の人間関係ではなく、データ化された個人がAIによって制御された仮想的な集団との間で繰り返されるコミュニケーションを通じて形成される(注90)。この過程で、無意識のなかに抑圧されていた資本主義の支配的構造に内在する偏見や差別をはらむネクロフィラスなリビードが検閲をすりぬけてネットワークに放出される。これは支配的構造に内在する二つの矛盾する傾向、普遍的な人権を偽装した価値と身体性の搾取を維持する欲望との間で繰り広げられる支配の弁証法の現象であって、支配的構造を与件とする人権による差別と偏見の押さえ込みは一次的な効果しか生まない。


(1)サリー・サテル、スコット・O・リリエンフェルド、『その<脳科学>にご用心』、柴田裕之訳、紀伊国屋書店、とくに第二章参照。
(2)「地方公共団体におけるPDCAサイクルの質の向上に資する政策(行政)評価参考事例集」富士通総研 https://www.soumu.go.jp/main_content/000536798.pdf
(3)インタビューによって集団のなかの個人の意識や心理を調査する手法はあり、本書の関心との関係でいえば、アドルノらが行なった権威主義的パーソナリティの調査『権威主義的パーソナリティ』(田中義久他訳、青木書店)や、エーロッヒ・フロムの『ワイマールからヒトラーへ 第二次大戦前のドイツの労働者とホワイトカラー』(佐野哲郎、佐野五郎訳 紀伊国屋書店)
(4)コンピューターに無意識は存在するのか、あるいは、コンピューターは人間の無意識を「理解」できるのか、あるいは、コンピューターが解析できない心はそもそも存在しないのではないか…などなど。たぶん、人間が人間として解放された未来の社会を目指そうとするときに、その最後の根拠地となりうる場所があるとすれば、それは無意識と呼ばれてきた場かもしれない。未だコンピューター科学によって囲い込むための方法を見出すことができていないフロンティアでもある。しかし、これまでこの無意識の領野は、合理主義的近代の裏面をなして、近代の正統性を支配者の歴史観に基づいて過去へと繋ぎとめるために利用されてきた非合理性の拠点でもあった。私たちの課題は、まず無意識の領域をファシストや極右から奪回するとともに、これを資本主義的なコンピューター科学による囲い込みから防衛することにある。
(5)無意識をめぐる学説については、アンリ・エレンベルガー『無意識の発見』、木村敏他訳、弘文堂、参照。
(6)無意識の存在は解剖学的に脳のある組織が担うといったかたちで立証されてはいない。フロイトの局所論や心的な場所の理論は、理論的に構築されたものであって、解剖学的な身体との対応を実証することはできない。これは実証主義からすると、検証不可能な仮説ということになる。フロイトの無意識の重要性は、この検証不可能であることが虚偽や単なる観念論ではなく、科学的な構築物であることを主張した点にある。
(7)Bertell Ollman ‘Introduction’, in Wilhelm Reich, Sex-Pol Essays, 1929-1934. Verso, p. xiii.
(8)『情況』増刊号、W・ライヒ特集 《性の抑圧と革命の論理》、1971。
(9)私が念頭に置いているのは、たとえば、マリー・ランガーらのラテンアメリカの精神分析運動である。Marie Langer, From Vienna to Managua, Journey of a Psychoanalyst, Free Association Books, 1989参照。
(10)しかし、人間がコンピューターによる分析が可能だと誤解することは十分にありうることで、この方が問題としては深刻だ。
(11)誤解なきように、補足するが、「まやかし」や「錯覚」を批判する私が一切の虚偽意識から自由になっているという高みからの批判をしようというわけではなない。「まやかし」「錯覚」への批判が別の「まやかし」「錯覚」をもたらすことはいくらでもある。あるいは人間が言語によって文化的な文脈を理解する枠組を持たざるをえないということのなかに、錯覚をめぐる歴史的に重層的な構造があり、ここから逃れる術を見出すこと自体が、人類前史からの出口を見出すことにも繋るといえるかもしれない。
(12)フロイト「集団心理学と自我分析」『フロイト全集』17巻、岩波書店、132ページ
(13)フロイトの文化等についての著作ではなく、本来の精神分析に関する見解においては、個人の前提をなす集団は、もっぱら家族関係であり、これを越えるものではない。本文で引用した「特定の条件の下では、その人から予想されるのとはまるで違った風に感じ、考え、行為するという驚くべき事実」というフロイトの驚きは、家族関係と個人の枠組によって予想されうる個人の情動や行動を越えた何かがあり、これが個人に影響しているとみているだけでなく、これが晦明されるべき重要な課題だと感じていたことを意味している。
(14)ギュスターヴ・ル・ボン『群衆心理』、桜井成夫訳、講談社学術文庫、16ページ
(15)労働取引所連盟については、ジラール/ペルーティエ『ゼネストとは何か?』(1895年) 猿虎日記 http://sarutora.hatenablog.com/entry/20100312/p1 参照。
(16)ル・ボン、前掲書、32ページ
(17)ル・ボン、前掲書、32ページ
(18)フロイトはこうした問題意識を彼がなぜ重視して課題にしようとしたのかをこの論文では明確には述べてはいない。かつて『トーテムとタブー』を書いたときに念頭に置いていのがヴントの『民族心理学』であり、この「集団心理と自我分析」ではル・ボンの『群集心理』であるように、当時注目されていた集団性をめぐる課題についての影響力のある学説への強い関心が背景にあったといえる。
(19)フロイト、「集団心理学と自我分析」、前掲書、174ページ
(20)この集団の構成員が一致して同一化する対象の存在を彼は、人類の過去へと回帰してアルカイックな世界における創造者としての「原父」にその起源を求めようとする。
(21) 付言すれば、このよく知られた枠組では、父、母の子どもへの性的欲望や男性の女性への暴力という問題が意図的に回避されている。子どもへの性的な支配の問題は、アンナ・Oへの分析の試みなど、初期のフロイトでは自覚されていた可能性がある。ジュディス・L・ハーマン、『心的外傷と回復』、中井久夫訳、みすず書房参照。
(22)フロイト、「集団心理学と自我分析」、前掲書、177ページ
(23)フロイト、「集団心理学と自我分析」、前掲書、179ページ
(24)フロイト、「集団心理学と自我分析」、前掲書、184ページ
(25)フロイト、「集団心理学と自我分析」、前掲書、184ページ
(26)エルネスト・ラクラウはポピュリズム分析の出発点にフロイトのこの論文を置いており、組織の指導者形成の論理のなかに、集団構成員に共通する特徴を特に際だた仕方で提示する者が指導者となるとすれば、こうした指導者は専制的でナルシス的とはいえず、また、構成員がこの指導者を承認する関係には、指導者の説明責任が含まれ、ここには、グラムシのヘゲモニー論に通じる、ある種の「民主的な指導力」の可能性があるとみている(『ポピュリズムの理性』、山本圭訳、明石書店、p.90)。ラクラウはフロイトの発生論的な方法も否定するが、むしろ個人のアイデンティティや文化の枠組みを集団との関係で分析するときには発生論的な観点と、これに伴う性的欲動の機制の問題は必須の観点だと思う。この点で、ライヒやドゥルーズ=ガタリの観点を私は支持したい。
(27)ル・ボンは逆に、いわゆる群集心理や暴動などと言われるような一時的に形成される集団を対象にしている。
(28)フロイト、「集団心理学と自我分析」、前掲書、202ページ
(29)フロイト、「集団心理学と自我分析」、前掲書、195ページ
(30)フロイト、「集団心理学と自我分析」、前掲書、195ページ
(31)フロイト、「集団心理学と自我分析」、前掲書、196ページ
(32)フロイト、「集団心理学と自我分析」、前掲書、196ページ
(33)フロイト、「集団心理学と自我分析」、前掲書、198ページ
(34)フロイト、「集団心理学と自我分析」、前掲書、198ページ
(35)フロイト、「集団心理学と自我分析」、前掲書、199ページ
(36)フロイト、「集団心理学と自我分析」、前掲書、200ページ
(37)フロイト、「集団心理学と自我分析」、前掲書、160-1ページ
(38)リヒャルト・ワーグナー『芸術と革命』、岩波文庫参照。
(39)フロイト、前掲「集団心理学と自我分析」、161ページ
(40)フロイトは、プロイセンの軍国主義は、このリビード構造を軽視したために敗北を喫したとも示唆する。戦争神経症の原因が上官による心ない仕打ちを受けたことが原因であるということもその証左だという。
(41)フロイト、前掲「集団心理学と自我分析」、162ページ
(42)エーリッヒ・フロム『破壊』(合本)、作田啓一、佐野哲郎訳、紀伊国屋書店、参照。
(43)正しさと、暴力を手段として選択するかどうかとは別の問題である。権力は力学的な構造をもっているわけではないから、理不尽な暴力に対してとりうる唯一の選択が暴力だということにはならない。権力が政治過程であることの意味がここにある。
(44)フロイト、「集団心理学と自我分析」、前掲書、163-4ページ
(45)フロイト、「集団心理学と自我分析」、前掲書、164ページ
(46)「宗教は、個々それぞれに、われこそが真理の所有者なりと争いあっていますが、私たちから言わせますと、宗教のもつ真理内容など、もとよりまともに扱うだけの価値はありません。宗教とは、私たちが生物学的ならびに心理学的な必然性に従って自らの内に育てあげてきた欲望の世界をもとに、私たちの住まっている感覚世界を制覇しようとするひとつの試みなのです。しかし、宗教にはこれをなし遂げる力はありません。宗教の教義には、それが生まれた時代の刻印、人類の無知な子供時代の刻印がこびりついております。宗教のもたらす慰めは、なんら信頼に値するものではありません。(略)宗教は倫理的要求にアクセントを置こうとしておりますが、倫理的要求というものには、むしろ宗教以外からの根拠づけが必要です。と申しますのも、倫理的要求は人間社会になくてはならないものでして、その要求の元首を宗教的敬虔というものに任せきるのは危険だからです。宗教を人類の発展過程のなかに組み入れて考えれば分りますように、宗教は永続的な不動の罪などではなくて、文化的人間なら誰しも幼年期から成熟してゆく途上で通り抜けなければならない神経症に匹敵する一過性のものにすぎないのです」「宗教的世界観にたいする科学的精神の闘争は完了しておりません。闘いは現在なお私たちの眼の前で進行中です」フロイト『続・精神分析入門』、220-222ページ
(47)ユングをナチスの同伴者として指摘している小俣和一郎『精神医学とナチズム―裁かれるユング、ハイデガー』、講談社現代新書、参照。Andrew Samuels,Jung And Antisemitism,https://sas-space.sas.ac.uk/4412/1/Jung_And_Antisemitism_by_Andrew_Samuels___Institute_of_Historical_Research.pdf も参照。
(48)C.G.ユング『元型論』林道義訳、紀伊国屋書店、11ページ
(49)C.G.ユング、前掲書、11ページ
(50)C.G.ユング 『現在と未来』所収、1936年、26ページ
(51)ユング、前掲書、28ページ
(52)ヒトラーのなかにヴォータン的なものを見出すとしても、それがユングの元型の証になるわけではない。ヒトラーのヴォータンは多分に、ワーグナーから継承したものとみるべきだろう。
(53)ユング、前掲書、34-35ページ
(54)ユング、前掲書、31ページ
(55)ユング、前掲書、33ページ
(56)ユング、前掲書、35ページ
(57)ユング、前掲書、35ページ
(58)フロム、前掲書、191〜192ページ
(59)フロム、前掲『破壊』、550ページ
(60)フロム、前掲書、550ページ
(61)フロム、前掲書、553ページ
(62)フロム、前掲書、556ページ
(63)フロム、前掲書、556ページ
(64)フロム、前掲書、557ページ
(65)フロム、前掲書、559-560ページ
(66)フロム、前掲書、561ページ
(67)フロム、前掲書、562ページ
(68)フロム、前掲書、562ページ
(69)フロム、前掲書、566ページ
(70)フロム、前掲書、567ページ
(71)フロム、前掲書、563ページ
(72)ウィルヘルム・ライヒ『ファシズムと大衆心理』、平田武靖訳、上巻、せりか書房、59ページ
(73)ライヒ、前掲書、61ページ
(74)ライヒ、前掲書、68ページ
(75)ウィルヘルム・ライヒ『階級意識とは何か』、久野収訳、三一新書、44ページ
(76)ライヒ、前掲書51ページ
(77)ただし、権威に従属する性格は性道徳の形成と密接に関わるが、だからといってエディプスコンプレクスを必須の条件とするというわけではない。規範と禁忌は、それぞれの社会に受容されている自由、平等、権利に関する理念がどのように実体化されているのかとの相関関係のなかで、虚構としての文化や民族の伝統なども動員されながら、結果として既存の権威を支える枠組のなかに収まるように設計される。エディプスコンプレクスはいくつかある選択肢のうちの一つにすぎない。
(78)資本主義家族に関する私の考え方はややユニークであるが、ここでは立ち入らない。詳しくは以下を参照のこと。小倉「一夫多妻制としての資本主義家族とラカンの『家族コンプレックス』」「売買春と資本主義的一夫多妻制」「性の商品化」いずれも『絶望のユートピア』桂書房所収。
(79)ライヒ、前掲『階級意識とは何か』、69ページ
(80)ドゥルーズ=ガタリ『アンチ・オイディプス』、宇野邦一訳、河出文庫、上巻、p.227-8。また同書、下巻、第四章第三節「精神分析と資本主義」も参照。
(81)このように断言することには若干の躊躇がある。後述するように、ライヒはフロイトの精神分析理論を社会主義革命へと媒介しようとした。全く異る文脈だが、マルクーゼも、ドゥルーズ=ガタリが『アンチ・オイディプス』などで目指していたのもフロイトの理論を資本主義批判へと接合するための重要な挑戦だった。マルスクには、スミスだけでなく、通俗的な教科書風の言い回しをすれば、ドイツ観念論、とりわけヘーゲルが、そしてフランスの初期社会主義思想が、マルクス主義の源泉として、つまり総体としての資本主義批判の源泉として必要だったように、まだ幾つもの源泉になりうる可能性のある何ものかが私たちには足りないのだと思う。
(82)マルクスの本源的蓄積の議論を想起する必要がある。資本主義初期の基軸産業であった羊毛工業の原料の調達のために、数世紀にわたる農業の構造変動が引き起こされ、工業原料のための羊毛生産への転換と、これに伴う農業人口のプロレタリア化が生じた。この時代に必要だった〈労働力〉は、主として工場における肉体労働だった。資本が供給する商品を生産するための人的資源がどのような性質をもつものなのかは、資本が生産する商品が何なのかによって変化する。現代の資本主義の場合、人間のデータを「原料」として「採掘」し、これを加工して商品にする。買い手は、商品を売り込みたい生活手段を生産する資本の場合もあれば、選挙運動で有権者の投票行動を操作したいと考えている政治家かもしれない。これまで資本にとっては市場価値を見出せなかった断片的な個人データの欠片が価値化されることになる。こうなることによって、データ領域が市場に統合されることになる。その時代の支配的な資本蓄積様式が必要とされる資源の採掘=搾取の領域を規定することになる。知識、情報、データといった領域が、人間の情動を含む心理的な領域にまで拡張されるところに現代の資本主義の資本蓄積様式に固有の特徴がある。
(83)フロイトはマルクスの歴史認識には「あやしげなヘーゲル哲学の澱が沈殿している」とし、階級闘争史観を否定して歴史とは「いくつもの人間群族のあいだで有史以来戦われてきた闘争にあると見なすのが、習い性になっております。社会的な力の差は、もともとは種族的ないし人種的な差異に由来するものだ、というのが私の昔からの考えです」『続・精神分析入門』、フロイト全集21巻、岩波書店、234ページ
(84)コンピューター・テクノロジーを駆使したニューロサイエンスやブレイン・コンピューター・インターフェース技術(BCI)は、商用利用が拡大されれば、今後急速に発展するだろう。しかしこれらの技術では無意識を把握することは不可能だ。たとえ、言語化されたとしても、カウンセリングの過程で語られた事柄を「分析」することもできない。なぜなら、機械もまたエディプスコンプレクスを経験し、性的な多型性から性器性欲へと収斂する個人史を経験としてもつことがなければ「分析」はできない。資本家が資本家のままで労働者とともに資本と闘うことができないように、機械は機械のままで無意識を抱くことはできない。
(85)G・ドスタール、B.マリス『資本主義と死の欲動』、斎藤日出治訳、藤原書店参照。
(86)掟破りはこでだけでなはない。神ヴォータンは妻がありながら、知恵の神エルダ(エルダもまた夫がいる)などの女神たち、人間の女性などとも関係をもつ。ワーグナーが題材としたゲルマン神話が形成されたのは10世紀前後といわれているが、ほぼ同じ頃日本では『源氏物語』が書かれる。この物語もまた、光源氏が自らの義母、つまり皇后でもある藤壺と関係し子どもまでもうけるという天皇家をめぐる近親相姦が重要なモチーフになっている。 あるいは、マルセル・プルーストが『失なわれた時をもとめて』のひとつのモチーフとした同性愛が、19世紀末から20世紀の貴族やブルジョアの間で、情報の秘匿と共有の鍵となるプライバシーとしてどのように構成されていたのかをみてみる上で参考になる。フェリックス・ガタリ『機械状無意識 スキゾ分析』、高岡幸一訳、法政大学出版局も参照。
(87)デヴィト・ライアンは、監視問題の重要な犠牲者はプライバシーではなさそうだとして、次のように述べている。「プライバシーの問題も無視すべきではありませんが、監視は公平や公正、市民の自由、人権の問題とも結びついています。その理由は、(中略)今日の監視が主に行なっているものが社会的振り分け(social sorting)だからです」(ジグムント・バウマン、デイヴィド・ライアン『私たちが、すすんで監視し、監視される、この世界について』伊藤茂訳、青土社、27ページ)
(88) クリストファー・ワイリー『マインドハッキング あなたの感情を支配し行動を操るソーシャルメディア』、牧野洋訳、新潮社、ブリタニー・カイザー『告発、フェイスブックを揺がした巨大スキャンダル』、染田屋茂他訳、ハーパーコリンズ・ジャパン、参照。
(89) the Tech Workers Coalition、”The California Ideology”https://sites.google.com/view/tech-workers-coalition/topics/the-californian-ideology
(90)AIは「人工知能」と訳されるから、本来であればintelligenceあるいは「知能」が、コンピュータ科学や脳神経科学などの分野でどのように定義されているのかを検討しなければならない。しかし専門家の間でも定義は定まっておらず総務省『情報通信白書』(2016年)では、12の定義を列挙している。本書では、人間の知能の一部を代替することを目的として開発されたコンピュータ・プログラムといった漠然とした意味あいで用いている。本書の問題意識は、AIが部分的な代替でしかないにもかかわらず、むしろ人間がAIに人間性を見てしまうというフェティシズムにある。

 

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