美術批評の魅力から始めて――『メルロ=ポンティの美学――芸術と同時性』

川瀬智之

『メルロ=ポンティの美学』のあとがきにも書きましたが、この本は私の博士論文を基にしたものです。博士論文を書いている間、苦労したことの一つは、もちろんメルロ=ポンティの哲学が難解だということでしたが、もう一つは論文というものをどうやって書いたらいいのかわからないということでした。
 多摩美術大学の学部時代、私が中心的に読んでいたのは、1970年代から90年代にかけての日本の美術批評でした。指導教員の峯村敏明先生や、ゲスト講師として授業を聞いたことがあった松浦寿夫先生が書いた批評に感動し、そこから刺激を受けて、「美術手帖」(美術出版社、1948年―)や「みづゑ」(美術出版社、1946―81年)のバックナンバーを古書店で探して読んでいました。卒業論文ではワシリー・カンディンスキーを扱いましたが、自分では論文というよりも批評を書いているつもりでした。
 学部在籍中には、彫刻家の黒川弘毅先生の、(いま思えばおそらく西洋やイスラムの中世思想を背景にした)授業を聞いて衝撃を受け、哲学にも関心をもちましたが、そのとき読んだものの一つは、書店で偶然見かけた井筒俊彦の『意識と本質――精神的東洋を索めて』(岩波書店、1983年)でした。当時、イマヌエル・カントの『判断力批判』なども読んでいたと思いますが、私のなかにいまも残り続けているのは井筒です。私は、井筒の強烈に神秘主義的な思想はもちろん、その文体にも魅力を感じていたのだと思います。井筒は、もちろん国際的に著名な大学者ですが、いま学術的な論文として受け入れられているものとは違う、パッションに満ちた書き方をする人でした。こういったわけで、当時の私のなかでは、学問的・学術的ということはほとんど意識していませんでした。
 その後、修士論文ではアルベルト・ジャコメッティの彫刻や絵画を扱いましたが、そのとき読んだ文献で論じられていたモーリス・メルロ=ポンティの名前が、美術家の李禹煥の著作にも登場していることに気づき、その思想に興味をもつようになりました。そして、これを研究しようと東京大学の美学芸術学研究室に修士課程から入りました。様々な意味で自由だった多摩美から東大に移って驚いたことの一つは、学術論文という批評よりもはるかに厳密な形式とその作法でした。特に、修士課程から博士課程に入って数年間は、学問というもの、そして要求されるレベルの高さに適応するために苦労しました。指導教員の佐々木健一先生や西村清和先生をはじめとして、東大美学芸術学研究室の先生方は、このような私に懇切丁寧に論文の書き方を指導してくれました。今度の『メルロ=ポンティの美学』はその成果です。「学術的」「アカデミック」になっているかといえば、足りないところは多々あるかもしれませんが、読者のみなさまに確かめてもらえたらと思います。

 

放送の自由を守るために――『政治介入されるテレビ――武器としての放送法』を書いて

村上勝彦

「文庫本を読むのにも1週間かかるのに、2日で読んだ。モヤモヤしていたものが消えた」「倫理規定とか義務規定とかというのは、学者の話と思っていたが、放送法の目的から説明があってはじめてその意味がわかった」
 本書を読んでくれた先輩や仲間の感想である。言いたかったことが伝わったと、素直に喜べた。
 実は私は放送局で長年仕事をしていたので放送法はある程度知っているつもりだったが、誤った理解しかしていなかった。放送法は放送局を規律するためにある、と思っていた。というのも、放送法第3条に「番組編集の自由」があるが、そのすぐあとの第4条に「善良な風俗」「事実はまげない」などの番組準則が続いているために、それに反すれば社内で処分を受けるのはもちろんこと、郵政省や総務省から注意されても仕方がないと単純に思っていた。放送は免許事業であるため、放送番組には一定の枠があり、その枠に触れるかどうかを判断する権限を行政はもっていると何の根拠もなく思い込んでいた。あたかも行政が司法判断をする裁判所であるかのように、である。
 しかし、放送法制定時の国会で辻寛一電気通信委員会委員長が述べた、軍や官僚が放送を握って軍事宣伝の道具にした歴史を繰り返さないために放送法を制定する、という委員会報告を読み、はじめてその出発点を知った。これで、視点と理解が百八十度変わった。そして、戦後に新聞紙法や出版法が廃止されたにもかかわらず、なぜ新憲法の下、放送法ができたのかがすんなり理解できた。つまり放送法は、放送が限られた電波を使っていて影響力が大きいために、権力の介入を許さず、それを防ぐために制定されたという、ごく当たり前のことを知ったのである。
 放送局で働く多くの人たちは、「放送の自由を守る」という思いをもっている。私もそうである。しかし「放送の自由」とは何か、何から何をどう守るのかということをしっかり考えることはなかった。ひと言で言えば、自由とは拘束されないことだ。拘束するには権限がいる。しかし放送法は、放送番組に関して拘束する権限を行政に与えていない。放送法は、放送局が自ら枠を決めて自ら律することを求め、その枠の基本を第4条に記しているのだ。そして自律しているかどうかの判断を政府や国家に許していない。その判断は放送局が自律的におこなうものであり、それを評価するのは視聴者である。
 この基本を知らないと、「放送の自由を守る」という言葉は、理論が伴わない単なるスローガンにしかならない。同時に、「自律」がとてつもなく重いものであることも十分には理解できないのである。
 本来ならば放送局で働く人が知っておかなければならない放送法のこの意味を、社内研修などでは残念ながら聞いたことはなかった。そのためか、「公共の電波を使うので規制が必要」といわれると、そうだろうなと思ってしまうのである。私はそうだったし、多くの仲間もそうである。それではいけないと思い、できるだけわかりやすく放送法の意味を伝えられないかとこの本にまとめたつもりだ。
 放送法を知っているつもりだった私があらためて放送法に関心をもったきっかけは、5年ほど前に、先輩の紹介で日本マス・コミュニケーション学会の会員になったことである。年に2回発行されている学会誌に投稿論文の場があり、それに投稿した。学生時代、リポートは書いたことがあるが、論文というものは経験がなく書き方の基本も知らなかった。
 最初の投稿は、番組への行政指導と放送局の自律という大テーマで、査読者もお粗末さにびっくりしたのだろう、参考文献をはじめ論文のイロハを丁寧に教えてもらった。そのおかげで、国会議事録を中心に一から事実を積み上げ、行政が放送法の解釈を変えてきたこともよくわかった。その際最も参考になった1つが『放送法を読みとく』(鈴木秀美/山田健太/砂川浩慶編著、商事法務、2009年)であり、「目からうろこ」だったのは、先に記した放送法制定時の辻寛一委員長の発言だった。今年初めの学会誌にようやく投稿論文が掲載され、自分の放送法の解釈に誤りはないと思い、青弓社の矢野恵二氏や社員のみなさんのお力で本にすることができた。
 現代は、真偽取り交ぜて様々な情報が飛び交い流布され、その一方で官邸を中心とした政府の情報統制が進んでいる。そんな時代だからこそメディアの真価が問われる。特に放送は放送法を理解し理論武装しないと政府にからめ捕られる恐れが強い。

 放送に携わる人たちをはじめ放送に関心がある人たちに、無知だった筆者の悔恨が詰まった本書を手にしていただければ幸いだ。そして、放送法を闘う武器としてともに生かせればと思っている。

 

その後のPTA――『PTAという国家装置』を出版して2年

岩竹美加子

『PTAという国家装置』を刊行してから早くも2年たった。
 この間の変化の一つは、2017年に個人情報保護法が改正されて、学校が子どもの名簿をPTAに渡すことが問題とされるようになったことだ。PTAは学校に付随した組織なのではなく、学校からは独立した組織であること、学校の名簿をPTAに渡すのは個人情報保護上、問題があることが知られるようになった。PTAは、加入を希望する保護者の名簿を自分で作ることが求められるようになったのだ。
 二つ目は、PTAが任意加入であることを周知する動きである。これまでは子どもが小学校に入学したら自動的・強制的に加入するものと思われてきたが、実は加入は任意であることを保護者に知らせるようになった。
つまり、この二つの変化には任意加入という関連がある。
 しかし、加入が任意であることを周知することで、「会員がゼロになったらどうするのか」「PTAがなくなったらどうするのか」という恐れが常につきまとう。その結果、「任意であることを通知しても、こうすれば加入率は減らない」というようなノウハウが広く流布されている。
 例えば、 「できる人が、できることを、できるときに」や「やりたい人が、やりたいことを、やりたいときに」というシステムである。従来のように、仕事を休んだり、病気を押したり、幼児や病人の世話を人に頼んだりして、強制的にPTA活動に参加させられるのではなく、自分ができること、やりたいことを選べるシステムだという。これによって、 これまでの強制参加から希望参加制に、あるいはボランティア制、サポーター制に変わるとされる。非加入を避けるための工夫だが、結局「できない」「やりたくない」とは言わせない仕組みでもあるようだ。また、このシステムで「私はしているのに、あなたがしないのはずるい、許せない」という、PTA活動につきまとう感情を変えていけるだろうか。
 そのほかの改革案として、活動を年度始めに一覧にする、通年の活動と1度だけの活動を明確に整理して参加者を募集する、業務をスリム化する、不要な役職を減らす、手紙での連絡ではなくメール配信の導入を考える、個人情報に配慮する、などを挙げるPTAもある。「活動を年度始めに一覧にする」のは、会員自身が、自分たちに必要と考える活動計画を立てるのではなく、すでに決められていて、与えられる活動や行事をこなしていくPTAのあり方を前提にしている。しかし、一覧にすることで「改革」とされるようだ。
「業務をスリム化する」「不要な役職を減らす」は、1970年代頃にも言われていたことで、それがいまだに実施されていないことを示す。「メール配信の導入」と「個人情報に配慮する」のは、現在の社会では当然だろう。PTAは、その「不活性化」や「危機」「停滞」が危ぶまれ、数十年間にわたって「活性化」「改革」「再生」などの言葉で語られてきた組織である。任意加入の通知と個人情報保護という新しい要素は加わったが、現在の動きもそうした流れの継続として見ることができる。
 昨2018年10月、大津市教育委員会は「PTA運営の手引き」を公立学校の校長などに配布した。ほかにも「無理な役員選考をしないよう」「退会者の子どもへの扱いが変わらないよう」注意を促す通達や手引書を学校の管理職に対して発行した教育委員会もあるという。また、加入しないという選択肢も含めたPTA入会書のモデルを複数公表したり、PTAの違法・強制から保護者を守ってくれる教育委員会の「お助け通知」を公開したりしているインターネットのサイトもある。
 教育委員会がPTAの違法・強制から保護者を守ってくれるという考えは、信憑性があるだろうか。教育委員会は、PTAを維持しようとする教育行政の一部である。学校でのいじめ問題では、しばしば証拠隠蔽や改竄を繰り返し、いじめはなかったと公表する。また子どもの虐待問題では、必ずしも適切な判断や行動をしていないことが報道される。そうした組織が、PTA入会の問題で保護者を守ってくれるだろうか。
 現実には、非加入を選んだ保護者に対して、その子どもを登校班に入れない、卒業式に子どもが胸につけるコサージュをあげない、卒業記念品をあげない、などのいやがらせが各地でおこなわれている。私自身、同様の経験がある。PTA入会申し込み用紙には「入会する」と「入会しない」の選択肢があったので「入会しない」に印をつけて提出したところ、子どもをPTAの催しに参加させないという脅しを受けた。加入しないという選択肢も含めたPTA入会書のモデルを作れば、問題が解決するわけではない。
 最大の問題は、PTAがほぼ日本全国の学校にあることだ。保護者が、それぞれの場で自分たちの必要に応じた組織を形成、計画し活動するのではなく、PTAがすでに強固に存在して国家装置として機能し、保護者の動員に使われていることが問題なのだ。
 学校に行くことは「登校」、学校から家に帰ることは「下校」と言われる。学校は上位に、家庭は下位に位置付けられていて、学校と家庭は対等の関係にはない。また、日本の学校は入学式、始業式、終業式、卒業式など、式をことさら好み、卒業式の練習には多くの時間と労力を割く。文部科学省の「小学校学習指導要綱」は、学校行事で「厳粛」な気持ちを味わうことを規定している。また、日本の学校では運動会、謝恩会、最近では二分の一成人式などの行事が重視される。PTAはこうした学校行政の一部に組み込まれていて、それは保護者間の同調圧力を強化する仕組みにもなっている。
 広い意味でPTAのあり方は、最近、問題にされるようになったブラックな校則や部活動、先生の長時間労働などの学校の問題とも関連するものだ。日本の学校には問題が山積しているのだが、PTAが声を上げたり、一歩踏み出したりすることはない。
 日本は教育の公的支出が非常に少なく、 2018年の発表ではOECD加盟国中で最低である。憲法は、義務教育を無償とすると定めているが、PTA会費は学校予算にも回されていて、会費を自動的に引き落とす学校もある、しかし、保護者は学校に対する発言権をもたない。
 こうしたことが成り立って続いているのは、日本の公教育が義務を強調して権利を十分に教えず、近代国家での個人と行政のあるべき関係が知られていないことに一因がある。国民に権利を与えたくない国家と、国家が権利を侵害していることに気づくことができない国民の双方が、PTAを維持している。
 毎年、PTAに関して同じような不満が表明され、同じような「改革」案が出され、同じような議論が繰り返される。それは「仕方ないんだ」「みんな我漫してるんだ」といったあきらめの気分を醸成する効果がある一方、任意加入が周知されたことによって「徐々に空気が変わる」という期待もあるようだ。しかし、それは構造的な問題に切り込むものではない。「空気が変わる」のを待つのではなく、構造を変えていく必要があるだろう。

 

オカルト番組って……なくならないんじゃないの?――『オカルト番組はなぜ消えたのか――超能力からスピリチュアルまでのメディア分析』を書いて

高橋直子

「えっ、消えたの?……なくならないんじゃないの?」
 本書の刊行直前(2019年1月26日)のこと、見本のカバーを見つめたまま、T先生はそうおっしゃった。私は答えに窮した。現状でオカルト番組がまったく放送されていないわけではないし、本書はオカルト番組が消えると予想するが、消えるかどうかを問題としているわけでもない。どこからどう答えたらいいものか、尊敬する先生を前に逡巡してしまった。回答できずにいる私に、先生は「まぁ、読めということですね」とおっしゃった。恐縮至極。
 その家路、執筆時に考えたあれこれが思い浮かんでグルグル回り、ふと、フリードリヒ・エンゲルスのことを思い出した。教科書にカール・マルクスとセットで名前が出てくる、あのエンゲルスである。1870年代、交戦国同士がともに戦場で最新式の銃を使用したことに驚いた彼は、兵器がここまで進歩したからには、もうこれ以上は兵器改良の余地はないと考えた。隣国が軍備に力を入れれば、それと同等の軍備をもたなければならないという状況では、軍事費が増大して遠からず国家財政はもちこたえられなくなる、と予想したのである。この予想が無残に裏切られたことはいうまでもない。たしかに軍備競争は国家の出費を増大させたが、財政破綻を引き起こしはしなかった。反対に、戦争準備行動は、数々の工場を稼働させることで、ある種の経済問題を解決するのに役立ちさえした。工業の進歩の結果、戦闘の諸条件や技術は新たな次元へと突入していったのである。
「消えたの?」という問いかけは、「現状、消えてないよね?」という単なる疑問なのではなく、オカルト番組が消えるという予想は無残に裏切られるのではないか、という反論である場合が多いのではないかと思う。いまは下火といっても、また新たなスターが出現すればブームが起こるのだろうという見方は、馴染み深いものである。また、BS、CSとチャンネルが増えたことは、オカルト番組の出口が増えるということでもある。
 私がエンゲルスのことを思ったのは、この頃、ロジェ・カイヨワの『戦争論』(原題はBELLONE ou la pente de la guerre〔「ベローナ、戦争への傾斜」〕。ベローナは古代ローマの戦争の女神)を読んでいたから。カイヨワは戦争を礼賛する言論によって、戦争が人びとの心をいかに引き付けるかを考察して、「戦争と祭りはともに社会の痙攣である」と論じた。痙攣は、意志も反省も到達できない内臓の深みで起こる。戦争も祭りも、知性では理解することも制御することもできない、社会(集団)の根底にある恐ろしい力の沸騰・噴出のようなものである、というカイヨワのひそみにならえば、オカルトもまた社会の痙攣に連なる現象である。
 2019年1月29日、『オカルト番組はなぜ消えたのか』刊行。この書名の本が書店に並ぶことは、10年前ではありえなかったのではないか――いま、「なぜ消えたのか」と問うことが了解される(との前提で出版される)ということは、本書の内容にかかわらず、ある意味をもつものだと思う。
 デジタルメディアの長足の進歩の結果、オカルトがエンターテインメント化される諸条件や演出は新たな次元へと突入していくことだろう。そうであればこそ、いま、その歴史の一端を振り返る意味があると思う。
 本書は、かつてどのようにしてオカルト番組が成立し、オカルト番組を介したコミュニケーションがどのように変化してきたか、その経緯と現状を分析している。本書の分析が、新たな次元へ備える一助となるならば、たとえオカルト番組が消えなかったとしても、著者としてはこのうえなく幸せである。

 

日本食は伝統? じゃなくて伝説のお料理でした――『刺し身とジンギスカン――捏造と熱望の日本食』を出版して

魚柄仁之助

 和食って、そんなにエライんですかぁ? 世界文化遺産に選ばれたとか言って喜んでる人もいるようですが、和食がすでに滅び去ったものだから「遺産」なんですよね? 伝統の和食とかいわれてますが、引き継がれていてこそ「伝統」なんであって、遺産と化した和食なら、伝統じゃなくって「伝説のお料理」じゃないんですかぁ?
 あたしの実家は1918年(大正7年)創業の日本料理店でした。あたしが生まれた56年ごろは創業者の祖父と二代目の親父が店を切り盛りしていて、同年輩の同業者(日本料理屋、寿司屋など)のオヤジたちもよく出入りしていましたから、それら料理人たちの話を聞きながら育ちました。明治生まれ・大正生まれのオヤジたちの料理話といえば、「和食、エライ!」一色と言ってもいいくらい、和食自己愛に満ちたものでした。
「洋食や中華は素材の鮮度が悪いから香辛料を使ったり油で揚げたりするが、和食は鮮度も食材の質も世界一だから、余計な味付けも加工もしないのだ」という信念をもち、神代の昔からの伝統食がどれほど優れているのか、を自慢していたのです。
 そのような明治・大正料理人たちの「和食、エライ!」とは裏腹に当時の日本人は洋食とか中華料理を喜んで食べてるし、学校給食は米ではなくパン食でした。寿司屋のオヤジだって鮪のかわりにハムを鮓種にして握っていたじゃないかッ。その寿司を和食と呼んでもいいのかっ!てなことをオヤジたちに言ってみたら、「屁理屈こねるんじゃねーやッ」と怒られたものです。

 そこで、三代目を継がずに食の鑑識を始めました。

 神代の昔、とまでは言わんが、日本の近代化が進んだ明治以降、その伝統的で優れた和食はどのように引き継がれてきたのだろうか、いや、引き継がれずに洋食化していったんだろうか、和食そのものが変化したんだろうか。そもそも和食の定義ってナニ?
 このような疑問を解き明かそうと、明治から大正・昭和の料理本や雑誌を古本市で買いあさり、そこに紹介されている料理の分類と分析、そして試作と検証を始めたのでした。1970年代から古本屋で昭和の婦人雑誌付録の料理本などを買い続けた結果、雑誌付録の料理本だけで約200冊、和食・洋食・支那料理(当時は中華料理をこう呼んでいたんです)の単行本まで含めると優に1,000冊以上が手元に集まりました。そのほかに家庭料理ページがある婦人雑誌(「主婦之友」「婦人之友」「婦人倶楽部」など)、科学的に食料を取り上げていた科学雑誌や農業雑誌などが数千冊。これらから食に関するページをPDFにして分析の資料にしてきました。
 こうして食の鑑識を進めてきましたら、現在食べてる日本食というものの進化の過程と事実がわかってきした。すると、これまでいわれてきた和食の伝説などがウソっぽい、根拠がないものだと思うようになったのです。食のうんちくのほとんどが「また聞きか受け売り」でしかなかったんです。
 例えば――。
・刺し身とか寿司だって、昭和の初期にはすでに洋食や中華の要素を積極的に受け入れて進化してきたことがわかりましたし、今日ではごく当たり前の「刺し身には醤油」という構図が刺身の食べ方の一つにすぎなかったこともはっきりとしました。
・「鯨肉食は日本の伝統的な食文化」というのも、料理法を調べてみると1935年以前の鯨肉食にしか当てはまらないこともはっきりしました。
・また、日本のウスターソースとイギリスのウスターソースはその製法も異なるし使い方がまあ~ったく違うので、「ソースが洋食で、醤油が和食」とは言えないってことも明白になりました。
・中国生まれの水餃子を敗戦で引き揚げてきた日本人が焼き餃子にした……のではない証拠イラストが戦前の料理本にはたくさんありました。
・昔懐かしいおふくろの味=肉じゃがという構図は1970年代にマスコミが作り出したもので、そもそも「肉じゃが」という料理名のレシピが料理本に載るようになったのは70年代のことでした。
・マヨラーという言葉が生まれたのは30年くらい前ですが、そのマヨネーズだって日本では独特の進化を遂げていました。卵不使用のマヨネーズとか油不使用マヨネーズなどの時代もあったのでJAS規格で厳しい基準が設けられたのですが、いまになって、アレルギー対策、ダイエット対策でそのようなニセマヨネーズが求められるようになったというのも皮肉なもんだ……というようなこともわかったんですね。
・土用の丑の日には鰻の蒲焼きを――と思い込んでいたけど、日本人が日常的によく食べてた蒲焼きは「イワシ、サツマイモ、レンコン」なんぞが多かったというのが現実でした。

 魚肉ソーセージを使った料理レシピを集めてみるとその陰には原水爆実験との関連が見えてくるし、焼きそばのレシピを並べてみると戦後のアメリカ産小麦粉輸入と縁日のテキヤ稼業と即席めんとの関連が見えてくる。

 このように料理別の項目を立てて書き始めたらとんでもない分量になってしまい、途中段階の原稿を見た青弓社から「分けましょ。一冊になんて無理無理!」と言われましたの。
 そこで第1弾は和食の王道でもある「刺し身」と得体の知れない郷土食?である「ジンギスカン」、そして知る人ぞ知る謎の中華風アメリカ料理「チャプスイ」の3つに絞ることになりました。
 これに続きまして近代日本食に影響を与えた調味料「ウスターソース、マヨネーズ、カレー」を中心にした第2弾、そして第3弾としては餃子と肉じゃがの真実に迫ります。
 いま、麺棒で餃子の皮を延ばして、その厚さ、コシの強さなどを検証しているところです。
「皮、延ばしても、締め切り、延ばすなッ」を肝に銘じて……。

 

52年間ファンとして追いかけてきた記念品――『沢田研二大研究』を書いて

國府田公子

 2018年に、偶然のきっかけで私のことを「読売新聞」夕刊に5日間にわたって連載してもらいました。それが引き金になって「本を出版しないか?」という話が届きましたが、最初は頑なに辞退していました。売れないと思ったからです。しかし、重ねて説得されて、売れるかどうか半信半疑ながら出版を引き受けました。
 とりあえず、手元にあるファンクラブの会報をワープロで入力してプリントすることからぼちぼちと始めました。というのも、何十年も前の会報は手書きをコピーしたものだったのです。
 7月からジュリーのツアーが始まったので、原稿まとめと並行しながら、私が運営しているウェブサイト「Julie’s World」も更新していました。
 そんなとき、あのコンサートのドタキャン騒動が起こりました。ジュリーから理由を聞くまでもなく致し方ないと思っていたのに、マスコミは大騒ぎ。その会場にいた私は「さもありなん」と思ってすぐに帰宅しました。思わぬところでジュリーが取り上げられて、そのことにびっくりしていると、フジテレビの『バイキング』の担当者から「話を聞きたい」という依頼がきました。「私の気持ちを素直に話せばいい」と思って引き受けました。ウェブサイト「Julie’s World」を開設・運営するにあたって、匿名とかハンドルネームでは情報発信者としての責任がもてないと思って最初から実名・公子で通していたので、名前や顔を出すことに抵抗はありませんでした。
 ところが、私が取材を受ける直前にジュリーが記者会見を開きました。こんなことはこれまでになかったし、普段のジュリーの姿を見ることができて、ファンはとてもうれしく思いました。もちろん、キャンセルすることはいいことではありませんが、諸般の事情によってはありうるだろうと思っています。ジュリーの考えとドタキャンの理由がわかったので「私が出る幕はないな」と思ったのですが、取材は予定どおりにおこなわれて放送されました。テレビの影響力は強いもので反響は大きく、コンサート会場でたくさんの方から声をかけられるようになりました。
 そのほか、TBSの『あさチャン!』や『サンデージャポン』からも依頼をもらいましたが、実現しませんでした。騒動の次のコンサートでジュリーがドタキャンの事情を説明したのでファンとしてはこの問題は解決ずみだと思っていたのに、騒動はなかなか収まりませんでした。
 そして、今度は「週刊朝日」(朝日新聞出版)の編集者(ジュリーのファンです)から「これまでの報道を快く思っていないので、いま一度、ジュリーを記事にしたい」と取材依頼が届いたので、引き受けました。記事になると、次には「週刊文春」(文藝春秋)からも「話を聞きたい」と。ただこちらは、「あなたの趣旨に反する記事になるから掲載しないことにした」と事前に連絡がありました。
 そんな展開を迎えるなか、年末に原稿をまとめて青弓社に届けました。
 できあがった本書のカバーには大きな文字が輝いていました。うれしいような、気恥ずかしいような、複雑な気持ちでながめました。
 ジュリーの武道館での3間のコンサートも無事に終わって、代替えの大宮ソニックシティのコンサート前日の2月6日に、TBS『ビビット』から再度、密着取材の依頼がありました。これも引き受けて、コンサートが終わったあとには自宅でグッズなども撮影しました。インタビュアーが本にも注目してくれたためか、8日の放送では本が何度も大写しになっていました。
 反響はこれでは終わりません。出版して放送もされて少し落ち着いて銀座をブラブラしているときに、今度は街頭インタビューにつかまりました。「いま、何をしてますか?」などに答えていたら、突然、「平成最大のニュースは?」と聞かれたので、とっさに「本を出版したこと」と返事したら取材者の目がキラリと光りました。詳しく教えてほしいと言うので、顛末を話しました。4月後半に放送予定のNHK-BSの番組ですが、どんなふうな内容になるのかもわかりませんし、もしかしたらボツになるかもしれません。
 また、「週刊文春」では本書を紹介してもらいました。「誰かのファンで居続けることは、こんなにも尊い」と書いてもらい、うれしく読みました。
 こうした思いがけない展開に、私は「いったい、何がどうなっているの?」と少々戸惑っています。ジュリーのドタキャン騒動がなければテレビに出たり週刊誌に載ったりすることもなかっただろうと思います。
 ファンを52年やってきて、ウェブサイトの運営も20年過ぎ、毎月書いていた会報「LIBERY」は500号を超えたちょうどそのときの出版の依頼だったので、「いい記念になる」と思って出版した『沢田研二大研究』。ですが、私はカリスマファンだとかファンの代表だとは全然思っていません。ただの一ファンです。

 さて、これから、何が起こるのでしょうか。5月9日から始まる「沢田研二LIVE2019 『SHOUT!』」に期待しながら過ごしています。

  

長いあいだ魅せられ続けて、一冊に――『風俗絵師・光琳――国宝「松浦屏風」の作者像を探る』を書いて

小田茂一

 制作時期も作者も不詳の六曲一双の作品『松浦屏風(婦女遊楽図屏風)』(国宝。大和文華館蔵)の画面には、遊女や禿など18人が、何人かずつのグループを構成しながら描かれています。筆者はこの『松浦屏風』に半世紀近くにわたって関心をもち続けてきました。『松浦屏風』が展示される季節には、時折、奈良の大和文華館へと足を運びました。そしてこれとあわせて、尾形光琳作品を鑑賞することを通じて、今回の著作の枠組みを形成している仮説の一つずつが時間をかけて積み重なってきたと言えます。一双の屏風に展開されている多様な意匠を、光琳との関連で解き明かせるのではと考察したのが、本書のベースとなる内容です。
『松浦屏風』の遊女たちの面立ちや手指の表情などは、同じ大和文華館所蔵の光琳作品『中村内蔵助像』(1704年)の、内蔵助の顔貌や指先の繊細な表現法に似通った描き方になっているように感じられました。そしてまた、一双の画面に何株ずつかの燕子花が組み合わされ、繰り広げられている光琳作品『燕子花図屏風』(根津美術館蔵)とも、『松浦屏風』は近似的な画面構成であるように見えていました。『燕子花図屏風』に描かれる燕子花の配列パターンは、金箔地に人物群を並置した『松浦屏風』の画面では、華やかな小袖をまとった遊女たちへと姿を変え、画面に強いメリハリをもたらしているように思われます。『松浦屏風』もまた、『燕子花図屏風』と一対になる作品として尾形光琳によって構想され、18世紀初頭前後の元禄期に相次いで描かれたのではないかと推察するに至りました。本書に記したそれぞれの仮説は、何かの拍子にふと感じ取った一つずつのイメージの積み重ねがベースになっています。
 晩年の光琳が画房を兼ねて京の街なかに建造した大きくゆったりとした住まいが、熱海のMOA美術館の敷地内に復元されています。これを見るとき、光琳がひとりの「風俗絵師」として、かなりの成功を収めていたことが感じ取れます。この住居の2階には、広い画室が設えられています。
『松浦屏風』と光琳の連関をたどっていく過程で最もヒントがほしかったのは、作品の制作時期についての絞り込みでした。作品が描かれたのは18世紀初頭前後の元禄期ではないかという推定の根拠は、『松浦屏風』の画面のなかにありました。作者はカルタをめぐって、粋な趣向を凝らしていたのです。本書では、このことが最後に気づいた事柄でした。画面に描かれているカルタは「天正カルタ」ですが、この「天正カルタ」に「三つ巴」マークが追加されることで「うんすんカルタ」へと変遷しました。そして作者は、「うんすんカルタ」に新たに加えられたのと同じ「三つ巴」を、カルタに興じる遊女がまとう打掛図柄に反復文様として描出しているのです。このことは『松浦屏風』の作者が、カルタのこの大きな変化に着目しながら、カルタに興じている人物の衣裳図柄として適用するアイデアを構想したものと推察しました。この事実は、作品が描かれたであろう時期を限定してくれると考えます。
 本書では、カルタをはじめ、江戸時代の「風俗」的事象についての把握が、論を進めるうえでの大きな要素になっています。しかし筆者にとっては、十分な理解を持ち合わせていない分野です。また「風俗」は、いわば生活文化を具現化したものといえ、大衆の営為でもあるがために、各時期のキーとなる情報や記録は、それほど多くは残されていません。しかし、風俗を反映させながら描かれているこの『松浦屏風』を解明していくにあたって、たとえば衣服や髪形の流行とその変遷、遊里の日常のありようなどへの知見は、描かれた時期と作者像をイメージするうえで多いに越したことはないと考えます。このような事情もまた、これまで『松浦屏風』について十分な議論がおこなわれてこなかったことにもつながっていると感じています。
『松浦屏風』の描写内容と光琳芸術とのつながりを積み重ねていく取り組みを続けているあいだに、世のなかのデジタル化は急速な進歩をとげました。一枚の画面に面差しが似た人物が繰り返し登場する『松浦屏風』の「異時同図」としてのありようや、尾形光琳作品との顔貌などの近似性といった事項の検証は、たとえば「顔認識システム」を援用しながら、より精緻にできるかもしれないとも感じています。IT利用による比較方法などについては意識しながらも、今回は触れることがありませんでした。本書での検証内容は、あくまで肉眼での見え方による評価に基づいたものなのですが、デジタル技術を用いた図像解析なども、今後の研究を進めるうえでの課題のひとつかもしれないと考えています。

 

棚田にも犬像にもその土地と切り離せない物語がある――『犬像をたずね歩く――あんな犬、こんな犬32話』を出版して

青柳健二

「青柳さんには、棚田の写真も犬像の写真も同じようなものなんですかねぇ?」
 ある新聞社から犬像の取材を受けたとき、記者からそう聞かれて、私はハッとしました。
 実は数年前、犬像の写真を撮るようになったとき、私の写真を見てくれていた人からは「犬像?」とけげんな顔をされたのです。それまで撮っていた棚田の風景写真と犬像の写真では、被写体として大きく違っていたからでした。
 ある雑誌に企画を持ち込んだとき、担当者が「犬像」の意味がわからないようだったので、「渋谷駅前にありますよね、忠犬ハチ公の像が。あんな感じの犬の像なんですが、全国にたくさんあるんです」と説明してようやくわかってもらえたのですが、しかし今度は、あからさまに、犬の像なんか写真に撮る価値があるのか?、それのどこがおもしろいんだ?というふうに感じているようでした。なので、企画は当然ながら没でした。
 それまで普通にあったもののなかに新しい価値を見いだすのが写真家の仕事だと思っていますが、その端くれでもある私は、他人にその新しい価値を知ってもらうのは難しいこともわかっています。
 実際、棚田を撮り始めたときも同じだったのです。いまでこそ、棚田という言葉も市民権を得てすぐわかってもらえますが、1995年頃は、棚田なんて10年もすれば全部なくなってしまう過去の遺物くらいに思われていたし、「棚田って何ですか?」と同じように聞き返されていた時代もあったのです。
 でも私のなかでは、棚田にも犬像にも、何か共通するものがあるとうすうすは気がついてはいました。それが言葉にならなかったのですが、他人に指摘されて、その思いは確信に変わりました。
 棚田にも犬像にもその土地と切り離せない物語がある、ということなのです。棚田の場合、その土地の歴史や地形が、雲形定規のような棚田の形を決めているといってもいいでしょう。犬像も、その土地と切り離せない物語をもっています。犬像が「そこ」にある意味が私には大切なのです。
 私は、その土地がもつ物語を探して歩くのが好きなようです。全国各地に点在する物語を探して、それをまとめるという作業は、棚田も犬像も同じかなと。
 ある犬像は、街のキャラクターになったところもあります。たとえば、静岡県磐田市のしっぺい太郎の物語から、ゆるキャラ・しっぺいが、奈良県王寺町の聖徳太子の愛犬・雪丸の物語からは、ゆるキャラ・雪丸が誕生しています。その土地独特の犬たちが、現代にゆるキャラとしてよみがえっているのです。何もないところから作り出されたフィクションの犬ではありません。もちろん誕生当時はフィクションの犬もあったかもしれませんが、それが何百年もの歳月をかけて、その土地の歴史に組み込まれています。
 だから、どこにあってもいい犬像(土地とのつながりがない犬像)には、あまり興味がわきません。今回の書籍での私なりの「犬像」の定義からは外れるからです。例えば、あの携帯電話会社の白い「お父さん犬」の像ですね。その土地に根差した物語がないからです(そもそも、これはコマーシャルなのですが。もちろん、「お父さん犬」も何百年かたてば歴史になるかもしれませんが)。
 だから犬像は棚田と同じように、町おこしに結び付きます。土地独特の魅力を、棚田や犬像が代表していると言ってもいいかもしれません。実際、「しっぺい」も「雪丸」も、町おこしに一役買っています。
 ところで、人の顔の判別には「平均顔」説というのがあります。例えば、日本人なら日本人の顔の平均を知っているので、そこからどれだけ外れているかの「差」で判別しているということです。外国人が日本人の顔がみな同じに見えるというのは、日本人の「平均顔」を知らないからで、反対に、日本人は外国人の「平均顔」を知らないので、みな同じに見えます。
 海外旅行すると、その国の滞在が長くなるにしたがって、その国の人の顔の区別がつきやすくなるという体験は私にもあるので、この説は説得力があります。
 多くの犬像を見て回ることで、その犬像の「平均顔」がわかってきます。そのとき、個々の犬像の全体における位置というのが客観的に見えてきます。今回の著書で、13章のカテゴリーに分けたのも、それが理由です。平均値がわかれば、個々の犬像の意味というか、性格もわかるということなのです。
 読者のみなさんには、本書を持って犬(忠犬・名犬)にゆかりがある場所をたずねる「聖地巡礼」をしてみてはいかが?、と提案します。
 多くを回ることで、先に言ったように、犬像の平均値がわかり、個々の犬像についてもより客観視できるようになるだろうし、こんなにもいろんな意味をもっている犬像があるのか、こんなにもバリエーション豊かな犬像の物語があるのかと、驚くことがたくさんあると思います。そこから、犬と人間の関係、もっと言えば、動物や自然との関係なども見えてくるのではないでしょうか。

 

構想20年……――『競輪文化――「働く者のスポーツ」の社会史』を書いて

古川岳志

 初めての著書『競輪文化――「働く者のスポーツ」の社会史』が出版され約4カ月がたちました。競輪の歴史を、競輪を取り巻く日本社会の変化と結び付けながら読み解く内容です。同じ公営ギャンブルの競馬と比べて、競輪は文化として語られることがきわめて少なく、本書は関係者以外が書いたものとしては初めての「競輪史」本になりました。そんな珍しさも手伝ってメディアで紹介いただく機会にも恵まれました(「日経新聞」2018年2月22日付夕刊「目利きが選ぶ3冊」、「西日本新聞」2018年3月4日付「書評」、「日刊スポーツ」〔西日本版〕2018年3月28日付「コラム」、「スポーツ報知」web2018年3月28日「スポーツを読む」)。読んでくださった方からは、SNS(ソーシャル・ネットワーキング・サービス)などを通して多くの好意的な感想をいただきましたし、ブログでとても丁寧な紹介記事を書いてくださった方もいます。また、自転車競技オリンピック元日本代表の長義和さん(本書第5章に登場します)は、ご自身のブログに長文の感想を書いてくださいました。たいへん興味深い内容です。みなさんにもぜひお読みいただきたいです。
 本書の「あとがき」にも書きましたが、本書の原型は社会学の博士論文です。出版形式としては一般書ですが、学術書としての質も一定程度保ったものにしたいと考えました。とはいえ類書がないため、競輪世界への案内書・概説書としても読まれるだろうことも意識しました。現状では残念ながら競輪はマイナーです。「競輪って何だろう」と本書を手に取った読者に、まずは競輪を知って関心をもってもらわなければ、始まりません。競輪を知らない人にも、わかりやすく、かつ、競輪の魅力も伝わるように書きながら、研究書としてのオリジナルな考察も盛り込む、という、欲張りな目標を掲げて執筆しました。あらためて読み直してみて、また、読者のみなさんの感想を聞いて、ある程度は目標に到達できたのではないかと甘めの自己採点をしていますが、いかがでしょうか。

 私が競輪の研究を始めたのは、大阪大学大学院人間科学研究科の修士課程在学時でした。所属していたのは社会学系のコミュニケーション論(当時の名称)研究室で、最初は井上俊先生が、先生が京都大学に転任されて以降は伊藤公雄先生が指導教官になりました。当時、日本スポーツ社会学会ができたばかりの頃でした。井上先生は初代会長でしたし、伊藤先生も会長をされたことがあります。テーマも未定のまま大学院に進学したのですが、先生方の影響もあってスポーツをテーマにするのも面白そうだなと思うようになりました。そこで注目したのが競輪でした。競輪との出合いについては、本書第1章に詳しく書きましたので読んでいただきたいのですが、別の言い方で付け加えておくと、競輪の境界的な性格に研究テーマとしての面白さを感じたのです。競技内容はスポーツなのに、社会的にスポーツ視されていない、という点。戦後以来、大規模におこなわれてきて日本オリジナルな要素があるユニークな競技なのに、そのわりに人々に認知されていない、という点。スポーツとは何か、スポーツと社会の関係は――そんなことを考えるのに格好の競技だと思いました。何と言っても、競技自体、競輪場という場所自体、とても魅力的なものに自分には見えました。
 1990年代中頃のことです。競輪から生まれた「ケイリン」がオリンピック種目として採用され、メディアで取り上げられる機会が増えた時期でもありました。それもあって、自分の目に競輪が入ってきたのだと思います。競輪の歴史を「スポーツの近代化」の過程と重ね合わせて読み解くという修士論文を書き、「スポーツ社会学研究」にも論文を発表しました。おそらく、競輪を真正面から取り上げた初めての学術論文だったはずです。自分としては、それなりに面白く書けたように思いました。しばらくして「「青弓社ライブラリー」の一冊として出版しませんか」と声がかかりました。この「原稿の余白に」で他のみなさんも書いているように「青弓社ライブラリー」は挑戦的なテーマの社会学本を次々に刊行して注目を集めており、若手研究者にとって願ってもないうれしいお話でした。数年で刊行するという約束で、喜んで引き受けました。

 それから、このたびの刊行にこぎ着けるまで、なんと20年という長い時間がかかってしまったわけです。こう書くと、まるでコツコツと積み上げた地道な研究がようやく実を結んだ、というように聞こえるかもしれませんが、実情はそんな格好のいいものではありませんでした。気楽にOKの返事したものの、いざ、取りかかってみると、まったく先に進めることができなかったのです。それでも何とか書こうとする、すぐに壁にぶつかる、手が止まる、逃避する、自己嫌悪に陥る、何とかしようと再開するも、また同じことを繰り返す、さらに自分が嫌になる、という悪循環に陥りました。最初に指定された締め切りはすぐにやってきましたが、ほぼ白紙でした。その後、締め切りを何度も延長してもらいました。そのたびに、あれこれ理由をつけて謝りのメールを送っていましたが、やがて編集部からの問い合わせに返事もできなくなってしまいました。20年間の大半は「書かなきゃ」と思うだけで、何もできないという状況だったのです。
 本当の「あとがき」にも、また本稿でも「書けなかった言い訳」をあれこれ並べてはいますが、何と言っても、私の努力不足、忍耐力不足、怠惰な生活態度がいちばんの原因です。粘り強く、少しずつでも地道に取り組んでいたら、遅くとも10年前くらいには何とか形にできてはいたでしょう。若い頃にいただいたチャンスをすぐに生かせなかったことは、自分の人生にとって大きなつまずきでした。30代という、どんな職業の人にとっても最も充実しているであろう時期を、逃避的に、しかし内面では原稿が書けなかった挫折感を抱えて悶々と過ごすことになってしまいました。お恥ずかしい話です。そんな日々のことを、本が出版された後に、このように振り返って書けていること自体、なかなか感慨深いものがあります。
 この課題にもう一度向き合おうと思い直したのは、いまから3年くらい前でした。比較的待遇がよかった任期付きの仕事が終わり、非常勤講師で食いつなぐフリーター研究者に戻っていました。年齢的に人生の折り返し点はとうに過ぎ、将来の展望も何もないという状態でした。そんな状況でも、なるようになるさと悲壮感は抱かないようにしてはいましたが、現実的な話として数年後には研究と関係がないアルバイトもしなければ食べられないようになることが見えてきました。現状では、非常勤先の大学図書館を利用できたり、夏休みなどに自由時間がある程度確保できてはいます。いまの環境で無理なら、一生、本なんて書き上げられないだろう。ここは一つ、気合いの入れ時ではないか。競輪のほうでも、ガールズケイリンの復活や日韓戦の誕生など、展望がある書き方ができる状況が生まれていました。それも後押しとなり、もう一度出版に挑戦してみようと決意したのです。

 こちらから不義理をした青弓社との10何年も前の約束が、まだ生きているとはさすがに思いませんでしたが、他社にあたるよりもまず、最初に声をかけてくれた同社に、もう一度お願いするのがスジだろうと考えました。とはいえ、一度失敗している以上、企画書を作り直してもちかけたところで信用度ゼロです。やはりある程度原稿をそろえてから、あらためて相談するしかないだろう。ということで、原稿を先に書き上げることにしました。約1年後、400字詰め原稿用紙換算で700枚分くらいの草稿ができあがりました。細かいことは気にしないようにして、もっている材料を、頭のなかにあるアイデアを、全部吐き出してしまうつもりで書き進めました。それまで全然書けなかったことがまるでウソみたい、とまでは言いませんが、自分としてはかなりスムーズに筆が進み、ちょっと不思議なくらいでした。 
 草稿が完成し、いよいよ青弓社に連絡することになりました。大阪大学で実施していた共同研究プロジェクト(GCOE)で知り合った宗教学研究者の永岡崇さん(『新宗教と総力戦』〔名古屋大学出版会、2015年〕の著者)のアドバイスで、宗教学・民俗学の川村邦光先生に仲介のお願いをすることにしました。私は社会学が専門なので、競輪的にいうと「別ライン」なのですが、先生中心の飲み会によく参加させてもらったり、何かとお世話になっていました。先生は、青弓社でデビューし(『幻視する近代空間』1997年)、その後も多くの編著書を青弓社から出しています。事情をお話すると二つ返事で引き受けてくださり、私が渡した草稿、企画書、経緯説明文に、推薦文を添えて編集部に送ってくださいました。
 青弓社から、すぐに好感触の返信がありました。矢野未知生さんとお会いすることになり、晴れて出版に向けて再び動き出すことになりました。矢野さん曰く、内容は面白いが、いかんせん長すぎる、とのことでしたので、200枚分くらい圧縮することになりました。あらためて、約半年後に締め切りが設定され、書き直しにかかりました。若干の遅れはありましたが、だいたい予定どおり脱稿できました。カットした部分には、坂口安吾事件に関することや、旧女子競輪のより詳しい歴史、田中誠『ギャンブルレーサー』(講談社、1988―2006年)以外の競輪マンガ紹介などを書いていましたが、それらについてはまたの機会にふれたいと思います。
 そんなこんなで、なんとか刊行にまでたどり着きました。人生の重い宿題になってしまっていた仕事を、それなりに満足できる形で片づけることができて、心からホッとしています。一時期は、自分にはもう書けないものだと諦めていたものですから、何となく夢のような気もします。そして、こうして本になったものを手に取って見ていると、何でもっと早く書かなかったのか、もっと早く書けていれば人生違ったかもしれないのに、という後悔の念がやはり湧いてきます。その一方で、自分の能力ではこれくらいかかっても仕方なかったのかもなぁ、と感じたりもしています。

 本を書くにあたって、気になっていたことはいろいろありますが、なかでも大きな心理的ストッパーになっていたのは、はたして競輪ファンが納得するようなものが書けるだろうか、という不安でした。競輪は、広い意味でポピュラーカルチャーの一つです。ファンがいます。ファンはもちろん多種多様で、楽しみ方や思い入れも、人それぞれではあるでしょう。ですから、どんなファンにも受け入れられるような書き方など無理に決まっていますが、少なくとも好意的に読んでくれた競輪ファンに、こいつは何もわかっていないな、と思われるような書き方だけはしたくないと思っていました。
 私は、思い入れがあるジャンルに関する本が出るとぜひ読んでみたいなと思う一方で、警戒心のようなものも抱く性分です。「ロクにわかってないやつが、ナニ学だか何だか知らないが、自分の業績にするためのネタ探しにやってきて、ファンなら誰でも知っているようなことを書き並べ、コケオドシの専門用語で分析してみせているだけの本じゃないのか?」――そのような疑念をまずはもってしまうのです。取り立てて関心がない世界についての本なら、へぇ、そうなのね、と素直に読めますが、自分にとって大事なもの、に関しては、どうしてもそうなります。自分には「全然わかってない!」と感じられる記述が、そんなものだと世間に受け入れられ、そんな本の書き手が、その世界を知る代表者のような顔をして語ったりしているのを見るのはたいへん不愉快です。ああ、なんて器の小さな人間なんだろう、とわれながらあきれますが、観察し、分析し、記述するという行為には、書かれる側にとって、少なからず暴力的な側面があるものなのです。
 出版の話をもらったのは、競輪というテーマが珍しいものだったからなのは間違いありません。類書がない以上、一般の方への競輪イメージ形成に、よくも悪くも一定の影響を与えることになるはずです。書くことの暴力性から、完全に逃れることはできません。だとしたら、せめて競輪の魅力について、そして競輪そのものについて、ちゃんとわかったうえで書いている本だな、とファンの多くに感じてもらえるように書きたい、と強く思いました。
 そのうえで、競輪に詳しいファンが読んでも新しい知見が得られるような、自分の好きな文化について違った角度から見る楽しみを与えられるような、そういう本にしなければならない、とも考えました。競輪を知らない一般読者を意識して書いたとしても、実際のところ、最初に手に取ってくれるのは競輪ファンですから。
 このように、いろいろ自分に縛りをかけていました。書きあぐねていた頃の自分には、そんな書き方ができる自信がほとんどありませんでした。若いうちに書くモノなんて未熟なものに決まっているのだから、エイヤッと形にして、批判を受け止める覚悟をもつべきだったな、といまとなっては思います。自分で自分の首をしめて何も書かないより、下手でも何でも書いてみたらいいじゃないか、そのほうがずっとましだよ、と若い頃の自分にアドバイスしてやりたいくらいです。私には、評価にさらされる勇気が不足していました。もっとも、こんなふうな理屈をつけて、手がかかる仕事から逃避する言い訳を探していただけかもしれませんが。

 今回、実際に執筆するにあたって採用した方法・方針は本書の「あとがき」に記述しています。外部からの観察者であり、かつ競輪ファンでもある、という自分自身の視線の偏りを自覚しながら、資料に基づき客観的に競輪と社会の関わりをひもといていくことをめざす、というきわめてオーソドックスなものです。章ごとに、都市文化やスポーツの近代化、ジェンダーやナショナリズムなど、社会学的なテーマ設定をして記述しています。そして、競輪運営団体や選手、スポーツ新聞記者など、利害関係者が書くなら避けて通るかもしれない事象についても、ある程度踏み込んで記述しています。それによって、競輪界の「中の人」からは見えない、競輪の社会性のようなものを浮かび上がらせられるのではないか、と考えてのことです。
 しかし、執筆方針が明確になったのは、書き進んでいくなかでのことでした。「あとがき」は、実際に原稿ができあがった「あと」で書きました。方向性が確定したから書けるようになった、というわけではないのです。では、どうして、以前はまったく書けなかったものが、何とか書けるようになったのか。状況的に追い詰められて、こだわっていられなくなった、とか、いろいろ要因はあるでしょうが、決定的なのは、私が競輪を見始めて20年という時間が経過した、ということだと思います。何とも当たり前の話ですが、20年前より、私は、競輪に詳しくなりました。そして、競輪に対する思いも深まりました。
 最初の締め切りの頃に書き上げていたら、おそらくもっと内容的に薄っぺらいものになっていたと思います。いかにも「研究者が調べて書きました」というような。今回できあがった本も、研究者が調べて書いたものにはちがいないのですが、もう少し地に足がついた感じで書けているように自分では思います。詳しくなった、と言っても、いまでも当然わからないことだらけです。SNSなどを通じて熱心なファンの方々を知るようになると、自分より詳しい人など星の数ほどいるなぁと痛感しています。車券も全然当りませんし(これは別の話ですが……)。それでもしかし、20年たって、自分なりの見方で書いても、ファンの多くの人に納得してもらえるだろう、という、何となくの自信をもてるようになったのです。
 ときどき、無性に競輪場に行きたくなります。楽しいから、面白いからであるのはもちろんですが、競輪場という空間に身を置いていたいという気持ちが、まずあるように思います。競輪場にはいろんな人がいます。自分の力で賞金をもぎ取って生きる選手たちを、自由で飾らないファンたちが取り囲んでいます。競輪場には、どんな人間でも受け入れてくれる寛容さがあり、かつ、お互いの金を取り合う場所らしい、一定の距離感もあります。あくまでも私の場合は、という話ですが、人生があまりうまくいっていないときにこそいきたくなるような場所でもあります。
 私が初めて足を運んだ競輪場は、阪急ブレーブスの本拠地、西宮球場の仮設バンクで開催されていた西宮競輪場でしたが、2002年に廃止されました。同時になくなった甲子園競輪場とともに、私のホームバンクでした。いまではこの世に存在しない、これらの競輪場が懐かしくてたまらなくなることがあります。楽しい思い出がつまった場所、というより、どちらかというと、クサクサした思いを抱いて帰ってくることが多い場所でした。それでも、何とも懐かしいのです。
 競輪は(その他公営ギャンブルとともに)、健全な娯楽ではないかもしれません。それでも、足しげく通っている人には、それぞれの思いがあるはずです。それを踏みにじらないような本を書きたいと思いました。私が、もっと有能な社会学者なら、インタビューやアンケートなど、いろんな手法を使ってそれをあぶり出す、ということができたかもしれませんが、自分には無理でした。そして、あまり積極的になれませんでした。ファンの気持ちを理解したいと思いながら、調査はしたくない、なんて考えていたら、そりゃ書けなくて当然です。しかし、20年という期間、ときに競輪場に足を運び、ファンと同じ空間の空気を吸い、レースを見て、車券を買って損をして、を繰り返していくうちに、自分の感覚で「ファン目線」を描いても、そんなにずれていないだろう、と感じるまでには「調査」が進んだのだと思います。あまり、調査とか、フィールドワークなどという大げさな言葉は使いたくないですが。実際は、車券を買って、レースを見て、遊んでいただけですから(これらの調査はすべて、当然ながら自費でやっています。念のため)。
 最初に西宮競輪場の雑踏に紛れ込んだときの自分は、まわりから見たら「大学で論文を書くためにきた若者」感、丸出しの姿だったでしょう。いまでも、観察してやろうといういやらしい視線を自分がもっていることは否定できないですが、まずまずあの空間になじむようになってきたと思います。つるつるした顔で、きょろきょろまわりを気にしながらレースを見ていた兄ちゃんも、最近では予想紙の小さい文字を読むのにメガネをはずして、遠ざけて見ないとつらいようになりましたし……。競輪ファンの高齢化は進んでいて、競輪場では、自分でもまだまだ若手だったりもするのですが。ともあれ競輪が、私の人生の大きな部分をしめるものになっているのは間違いありません。
 単著「デビュー作」の「あとがきのあとがき」にしては、何ともパッとしない話をしていますが、このような感じで、心を込めて書いた作品です。まだお読みでない方は、ぜひぜひ、ご一読くださいますようお願いいたします。

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 長くなりましたが、あと2点だけ書きます。1つは、本書の「あとがき」には書けなかった選手のみなさんへの感謝です。特に、元選手の後閑信一さんには、お礼を申し上げたい気持ちでいっぱいです。直接取材させてもらったわけではありません。ですが、後閑さんが吉岡稔真さんとの対談(電投会員向け広報誌「Winning Run」2015年12月号)で語られた言葉によって、本書のサブタイトルにした「働く者のスポーツ」というテーマは、より明確になったと感じています。「競輪選手は肉体労働者だ、職人だ、そう思って頑張ってきた」。後閑さんは対談でこう語っていました。ファンのみなさんは、後閑選手らしい言葉だなと受け止めたと思います。私もそうでした。そして、この言葉によって、本書は完成させられるなと感じました。
「働く者のスポーツ」は、競輪創設者の倉茂貞助が、競輪の実現に向けて動いていたときに作った文書内の文言です。そんな競輪誕生に関わるキーワードが、70年の時を超え、現代のトップ選手の言葉とリンクして見えてきました。もともと「プロスポーツとしての競輪」については考えていたのですが、「働く者」「肉体労働」という言葉を使うほうが、よりリアルに「社会のなかの競輪」を捉えられると思いました。「選手には肉体労働の側面がある」と、私のような観察者が他人事として書くのと、選手本人が自分の信念を表す言葉として言うのとでは、重みがまったく違います。お礼を言われてもご本人は困ると思いますが、後閑さん、本当にありがとうございました。
 ファンのみなさんはご存じのとおり、後閑さんがトップクラスの実力を保持したまま現役引退を宣言したのは、2017年の年末でした。本書の原稿完成の後でしたので、校正のときに慌てて「元選手」に修正しました。一部、「後閑選手」という記述が残っているのは、その名残です。ちなみに、後閑さんは1970年生まれで、私と同い年です。自分が原稿を書けずに緩い生活を送っている間にも、厳しいトレーニングを続けトップクラスを維持してこられたのだと思うと、頭が下がります。競輪選手には長く活躍する選手も多く、20年前、私が競輪を見始めた頃に走っていた選手で、いまでも現役の方もかなりいます。なかには、後閑選手のようにずっとS級を維持してきたという方も。
 劇作家の寺山修司は、競馬に関するエッセーで、ファンが馬券を買うのは自分自身を買うことだと表現していました。若い頃から努力して先頭を突っ走ってきた人は先行馬に、大器晩成を期する人は追い込み馬に自分の願いを込めるのだ、というように。競輪の車券購入にも同じような側面はあるでしょう。ただ、馬と違い相手は生身の人間です。競輪選手たちからは、競走馬よりはもっと生々しいメッセージが送られてきているように思います。「こっちは、自分の生き方を、さらして見せているけど、そっちはどうなんだ?」。選手は、客のヤジに言葉で反応することは禁じられていますから、あくまでも無言のメッセージです。同世代の選手がバンクで戦う姿を見て「自分はいったい何をやっているんだろう」と情けない気持ちになったことが、私には何度もありました。そして、ベタな表現で恥ずかしいですが、自分もがんばろう、という気持ちになったことも。
 後閑さんとは面識はありませんが、直接、話を聞かせてもらった選手もいます。ただ本書の「あとがき」の謝辞では、選手の個人名をあげるのを控えました。もしかしたら、ご迷惑をおかけするかもと心配したからです。
 私としては、誠意を込めて、競輪を応援する気持ちをベースに本書を書きました。微力ながら、競輪の認知度を高めることに貢献したいとも願っています(実際に、競輪を知らなかったという読者から、競輪に関心をもつようになったという感想もいただいています)。ですが、本書の記述内容は、運営組織が広報したい競輪像からは若干はずれたものになってはいます。それでなくては社会学者の私が書く意味がありませんから、それは当然だと思いますが、そのため、関係者からするとちょっとさわりにくい本なのかもしれないな、とも感じています。多くの方が仕事として関わる世界ですから、受け取り方は立場によってさまざまなのは当然です。
 一ファンとしての私は、JKAを代表とする運営組織の現状や広報戦術について、いろいろ思うところがあります。こうしたら、ああしたら、と、「twitter」などで「文句」を言うこともあります。しかし、本書は、そのような短期的な問題意識からではなく、もっと広い視点に立って書いたものです。競輪PRにとって一見否定的に映る事例についても、競輪という文化を読み解くために必要だと判断したことしか扱っていません。ジャーナリズム的な視点からは読者を引き付ける要素になりそうなことであっても、本書の目的とは関係ないと判断しふれていない事象も多くあります。読んでいただいた人には蛇足だと思われますが、念のためその点を明確にしておきたいと思います。
 本書の「あとがき」に書いたように、本書はファンの視点、観客席側から得られる情報だけで構成しています。次の本を出すチャンスがあれば、選手の視点にもっと踏み込んで書いてみたいと思います。バンクのなかからはどんな景色が見えるのか。教えてやってもいいという選手(現役、OB含め)がいらっしゃいましたら、ご連絡をいただければうれしいです。くしくも、今年は競輪誕生70周年にあたります。結果的に、アニバーサリーイヤーでの刊行となりました。未来に向けて、競輪の歴史を振り返る機会として、本書は『競輪70年史』が出るまでのつなぎの役割くらいは果たせるのではないかと考えています。関係者のみさんからの感想やご批判も、ぜひお聞かせいただきたいと願っています(編集部をとおしてでも構いませんし、「facebook」には本名で登録していますのでそちらでも大丈夫です。お気軽にご意見をお寄せください)。
 
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 最後に、刊行後に気づいた点、ちょっとした後悔について書いておきます。これから本を出される方の参考までに。
 20年前、最初に出版のお誘いを受けたのは、社会学選書シリーズ「青弓社ライブラリー」の企画だったのは既述のとおりです。このたび、再挑戦となった折にも、「青弓社ライブラリー」として出すかどうかという選択がありました。「青弓社ライブラリー」に入れるには、分量的にもっと削る必要があるとのことでした。カバーデザインも含め、通常単行本形式のほうが自由度が高く、広い読者に届くかもしれない、ということでこのスタイルを選びました。本の完成度を高める意味では正しい選択でした。ただ、読者層は、「青弓社ライブラリー」の一冊だったほうが広がったかもしれないなとも感じています。
 本が出てすぐ、大阪梅田の紀伊國屋書店に足を運びました。いつも立ち寄る社会学関係棚には1冊もなく、あったのは「趣味/実用書」コーナーの「ギャンブル」棚の片隅でした。「競輪」と書いた仕切り板に挟まれていた数冊の予想ハウツー本の間に、ひっそりと(これは主観ですが)置かれていました。『競輪文化』が競輪の棚にあるのは、至極当然なのですが、正直ガッカリしました。これでは、競輪を知らない人に、偶然手に取ってもらう可能性はゼロに近いなと思ったからです。趣味を深めるという意味では「役に立つ」本だと自負していますが、一般的な意味での実用書ではありませんし。
 ネット書店とは違う、リアル本屋さんのメディアとしての魅力は、何げなく立ち読みに来たようなお客さんと、未知の本とをつなげる点にあると思います。「青弓社ライブラリー」で出していたら、社会学の棚にも置かれたでしょう。青弓社から同時期に出た、笹生心太さんの『ボウリングの社会学』や、話題作になっている倉橋耕平さんの『歴史修正主義とサブカルチャー』の近くに置いてもらえていたら、どこかで意外な出合いがあったかもしれません。20年前に話をいただいたときの書名案は『競輪の社会学』でした。何となく、競輪ファンに誤解を与えるんじゃないかという懸念もあって(うまく理由が説明できないのですが)、今回は社会学を書名に入れない方向でいこう、と考えていました。不要なこだわりだったような気もします。内容に照らして、現在のタイトルと副題は、適切なものですし、シンプルでわかりやすくなったと思っていますが、書名に「社会学」が一言入っていれば、そちらにも置かれただろうことを考えると、ちょっともったいない選択だったかもしれません。まぁ、「小手先」の話ではありますが。
 本書は、社会学、スポーツとしての自転車(「乗る自転車」ブームで紀伊國屋書店にもかなりの点数の本が並んでいました)、ノンフィクション、戦後史、サブカルチャー、などの棚と親和性の高い内容だと思います。もし、書店関係者でごらんになっている方がいらっしゃいましたら、いまからでも、ご一考くださいますよう、よろしくお願いいたします。
 
 大学院時代の指導教官の伊藤公雄先生は、本を出すなら10年は読めるものを書くべきだ、と言っておられました。ちなみに、伊藤先生のデビュー作も青弓社でした(『光の帝国/迷宮の革命』1993年)。本書をそこまで長生きさせられる自信はありませんが、東京オリンピックに向けて競輪、自転車、スポーツ界でいろいろ動きがありますし、スポーツをめぐる社会問題が話題になることも続いています。また、カジノをめぐっていろんな議論もなされていますので、まだしばらくは、本書で考察したことの社会的な需要はあると思います。
 さらなる出合いを期待して、長い「言い訳」を終わります。

 

博士論文を出版する――『ボウリングの社会学――〈スポーツ〉と〈レジャー〉の狭間で』を書いて

笹生心太

 本書は、自身の博士論文の内容を大幅に加筆・修正したものである。その内容は、本書の第2章、第3章に相当し、1960年代半ばから70年代初頭のボウリングブームを主題としている。
 博士論文を提出したのが2015年3月末のことで、本書の出版が17年12月末のことである。この2年9カ月の間に何があったのかについて、少し話をしたい。本書の「舞台裏」として楽しんでいただくほか、一般書(ないし平易な学術書)の出版を考えておられる若い研究者の方々の参考になれば幸いである。

 2015年7月、博士論文が電子公開された。電子公開とは、博士論文の全文を、PDFでインターネット上に公開するというものである(例えば私の博士論文は、一橋大学機関リポジトリ:https://hermes-ir.lib.hit-u.ac.jp/rs/handle/10086/27388 で全文を読むことができる)。そして電子公開の直後、大変光栄なことに、ある出版社から、ほぼそのまま学術書として出版するという話をいただいた。
 この提案についてどうすべきか考えている際、たまたまたどり着いたのが、青弓社の編集者である矢野未知生さんが「版元ドットコム」という本の情報サイトに書いていた「博士論文を本にする」という文章だった。興味深かったのは、博士論文の電子公開が進むこれからの時代に「博士論文を本にする」ことの意味やあり方についてだった。矢野さんの結論としては、「学術的議論は電子公開、その要旨をわかりやすく一般に公開する機会として商業出版」として使い分けるべきだとしている。
 この話は非常に参考になった。私自身のことを思い起こしても、大学生時代に「青弓社ライブラリー」シリーズにふれた経験は人生に大きな影響を与えていた。周知のように、このシリーズは「まだ誰も論じていない、面白くて社会的な意義があるテーマ」をコンセプトにしている。吉見俊哉ほかの『運動会と日本近代』や坂上康博『にっぽん野球の系譜学』、野村一夫ほかの『健康ブームを読み解く』など、「ありそうでなかった」テーマについて平易に論じられていて、大学生の私は知的好奇心をくすぐられ、研究の世界に憧れを抱くようになった。
 こうした経緯から、自身の博士論文も、やはり若い人たちの知的好奇心を喚起するような書籍にしたいという思いが強まり、青弓社に企画を持ち込んだ。これが2016年3月のことで、博士論文提出から丸1年後だった。そして打ち合わせ後、「青弓社ライブラリー」シリーズからの刊行を目指すことが決まった。

 だが、50年以上前のボウリングブームの時期だけを取り扱っていても、商業ベースに乗せるのは難しいようだった。そこで、追加で資料を集め、調査をし、ブーム以降のボウリングの動向を書籍に盛り込むことになった。それが、最終的には本書の第4章、第5章になる。
 ここで苦労したのは、資料収集や調査それ自体ではなく、得られた成果をどうまとめるかということだった。ボウリングブーム期を〈スポーツ〉と〈レジャー〉という視角から分析した以上、それ以降の時期も同様の視点で分析しなければ話が分裂してしまう。しかも、初学者にも興味をもってもらうような見方でなければならない。この点については、四六時中、まさに寝ている間にも悩まされた。
 2016年5月ごろ、突然頭のなかに閃光が走った。その際に思い付いたのが、本書の趣旨である「流行期にはボウリング業界全体が〈スポーツ〉と〈レジャー〉を柔軟に使い分けていたが、流行期以降はボウリング場単位で、〈スポーツ〉のボウリング場と〈レジャー〉のボウリング場に分化していった」というストーリーだった。
 正直、確固とした実証的裏付けがあったわけではなかったが、矢野さんも前述の文章で、博士論文を一般書にするならば、「「研究者に対する防御」より「積極的な意見表明」をする」べきだと書いていて、この言葉も大きな後押しとなった。

 このようにして、本書のおおまかなストーリーは固まった。このストーリーをベースにして企画書を作成し直し、青弓社から正式にGOサインが出たのが2016年9月だった。企画書の持ち込みから約半年である。
 そして、こうしたストーリーをより臨場感があるものにするために、ボウリング場の現場に向かった。これまで資料と格闘していた私にとって、現場の葛藤や舞台裏を知る作業は非常に面白く刺激的だった。なお、その成果は本書第5章に反映されている(個人的には、読者にはこの第5章から読んでいただきたいと思っている)。
 こうして、2017年3月にはほぼすべての調査が終了した。そこからはひたすらに書き、読み、直す、を繰り返していった。また、研究者仲間に草稿を読んでもらいアドバイスを受けた。こうして、第1稿を提出したのが、17年8月のことだった。それから校正作業を経て、17年12月に無事に出版できた。

 以上の2年9カ月は、本当にあっという間だった。その間、つらいと感じた瞬間はただの一度もなかった。それはやはり、孤独に打ち込んできた自分の研究成果が日の目を見るという大きな喜びがゴールにあったからだと思う。妻に「この研究に何の意味があるのか」「結論は何なのか」などと問い詰められながらここまできたが、ようやく一言言い返すことができそうである。

「原稿の余白に」の余白に、もう少しだけ付け加えたい。すでに述べたように、私は「青弓社ライブラリー」シリーズが好きで、特にあのシンプルなカバーに憧れていた。そのため、本書の刊行が決まった際には、「やはりボウリングのピンをイメージして、白地に赤線のカバーになるのだろうな……」などと妄想していたので、まったく異なるカバーイメージ案が出てきた際は驚いた。積年の憧憬にも似た思いが叶えられることはなかったが、それにも劣らぬ、いや、それをもしのぐ素晴らしいカバーで装ってあり、大変感謝している。
 また、写真の選択が素晴らしい。カバー画像をごらんになればわかるように、ボールがヘッドピン(先頭のピン)の位置からややずれている。ボウリングでは、ヘッドピンにまっすぐボールが当たってもストライクは出ない。斜めからえぐるように当たることで、ピンがよく飛び散るのだ。
 本書も、この写真のように、ボウリングという誰でも知っている題材について斜めから切り込むことで、大きな反響が生まれてほしい。そして何より、ボウリングのように長く、いろいろな人々に愛されるような本であってほしいと思っている。