妻にこそ読んでほしいのだが――『世界文学全集万華鏡――文庫で読めない世界の名作』を書き終えて

近藤健児

 私が購入する大量の本やCDの洪水に迷惑しているせいか、妻は私が書く本については、だいたいいつも冷淡に受け止めている。「そんな本、誰が買ってくれるの?」「また本を出してくれるなんて、青弓社ってほんとに奇特な出版社だね」と何度言われたかわからない。本当は身近な人にこそ励ましてもらいたいし、とにかくまず妻に読んでもらいたいものなのだが、ページさえ開こうとしないのである。今回も『世界文学全集万華鏡』を手に取ると、「ジョージ・エリオットの「ロモラ」しか読んだことがない。知らない本だらけだわ」と一刀両断されてしまった。
 世界文学全集の定番の作家といえば、フョードル・ドストエフスキー、レフ・トルストイ、スタンダール、ロマン・ロラン、アンドレ・ジッド、アーネスト・ヘミングウェイなどがすぐさま思い出されるだろう。これらの作家のものは文庫でも刊行されていて、代表作を中心にほぼ安定的に供給されている。原則的には古書か図書館に頼ることになる、往年の世界文学全集を探してわざわざ読む必要はない。もちろんあえて文庫ではなく世界文学全集の一巻で読む理由もある。より読みやすい訳者のものを選ぶことは大切だし、写真が多用された詳しい解説が魅力的な場合が多いからだ。ただ本書では、せっかく世界文学全集の一巻に所収され昭和の時代に世に出た作品でありながら、文庫化されなかったことも手伝って、研究者や熱心な読書家以外からは忘れられつつあるものに、再度光をあてようと選書した。その結果ほとんどの作品が文庫化されたこれら大物作家の本を加えることはしなかったのである。
 そうしたわけで、A級の大作家が入っていない目次になったが、一方では複数の作品を選書している作家もいる。ヘンリー・ジェイムズはただ一人、「アメリカ人」「ボストンの人々」「カサマシマ公爵夫人」の3作を選んだ。いずれも落とすことができない秀作と思うからである。2作を選んだのは、ジョージ・エリオット(「フロス河の水車場」「ロモラ」)、ジョゼフ・コンラッド(「ノストローモ」「勝利」)、トーマス・マン(「大公殿下」「選ばれた人」)、オノレ・ド・バルザック(「あら皮」「幻滅」)、エミール・ゾラ(「クロードの告白」「生きるよろこび」)の5人である。これらの人たちも先に挙げた作家に劣らぬA級作家であることは疑いない。どういうわけか文庫に恵まれないエリオットを除けば、代表作・主要作の多くが文庫で読める。だがこれらの作家はおおむね相当に多作なので、文庫ではほぼすべての作品をカバーするまでには至っていないだけである。先に世界文学全集の一巻として世に出て、そこで一定数の読者を獲得してしまったので、加えて文庫化するほどの需要が期待できなかったのも、ちょっと地味な作品が文庫化されない原因かもしれない。
 というわけでいまに至るまで、バルザック「あら皮」の文庫本は存在しないのだが、世界文学全集はたとえ必要な端本だけを買い求めたとしても置き場に困るし、不ぞろいは見栄えがいいとはいえない。だから文庫があるならそのかたちで手元に置きたいのが人情である。本文中にも書いたが、クラウドファンディングでバルザックの文庫未刊の小説を出すなんて話をもちかけられたら、日ごろからそんな空想をしている私なんかはうっかり騙されて、10万円をレターパックで送ってしまいそうなのである。そんなことになったら、ますます妻に(以下自粛)。

 
『世界文学全集万華鏡――文庫で読めない世界の名作』試し読み
 

『図書館を学問する』本はどれくらいの図書館に所蔵されているのか?――『図書館を学問する――なぜ図書館の本棚はいっぱいにならないのか』を出版して

佐藤 翔

『図書館を学問する』などという書名の本であるからには、きっと日本中の図書館が購入し、所蔵(図書館が受け入れ、利用可能な状態にすること)してくれるにちがいないと期待するのは、著者として自然なことでしょう。本書中でも頻繁に引用する『日本の図書館 統計と名簿』(日本図書館協会)という資料の2023年版(執筆時点での最新版)によれば、2023年時点で、1,359以上の市区町村に図書館があり、1自治体に複数の図書館があることもあるため、市区町村立図書館の総数は3,246館にものぼります。そのほかに47都道府県すべてに都道府県立図書館があります。また、約800の大学、約300の短期大学にも図書館があり、こちらも1大学が複数の図書館をもっていることもあるため、その総数は1,800館以上。加えて全国1万8,000校以上の小学校、約9,900校の中学校、約4,800校の高等学校にも、法律上すべて学校図書館が置かれているはずです。そのほかに国立図書館や専門図書館など、世に「図書館」とされる存在はあまたあります。さすがに学校図書館が本書を買ってくれるかはわかりませんが(中学生・高校生ならぜひ読んでほしいところです。図書館学を志す人口を増やすためにも!)、市区町村立などの公立図書館や、大学の図書館ならば、きっとその多くが買ってくれるにちがいない。分館まで含めてすべてに置かれるのは無理でも、各自治体・大学で1冊ずつ買ってもらうだけで3,000冊くらいにはなるはずで、「まいったなあ、これはきっとすぐに増刷がかかることになるぞ」などと、出版前にはもくろんでいました。いわゆる捕らぬ狸の皮算用というやつです。
 その後、出版から約1カ月が過ぎましたが、いまのところは増刷のお声はいただいていないようです(1月23日の執筆時点。ところが、おかげさまで2月6日に2刷ができました!)。「おかしいな、いまごろすべての図書館が買っているはずでは?」と疑問を抱き、本書の趣旨にものっとって、さっそく各図書館の所蔵状況を調べよう……と思ったのですが、実はこれが意外に難しい。大学図書館については簡単で、全国ほとんどの大学図書館の所蔵資料をまとめて検索できる「CiNii Books」というサービスが存在します(いずれ論文や研究データなどを探せる「CiNii Research」という仕組みに完全統合される予定)。そこで所蔵を調べてみると……2025年1月23日時点の所蔵図書館は10館。10館!? 何かの間違いではないでしょうか。筆者の所属の同志社大学にも入っていないし、図書館情報学研究の拠点である筑波大学とか慶應義塾大学、愛知淑徳大学とか九州大学とかにもないではないですか。え、実はみんな僕のこと、嫌いだった……? ただ、たまたま現地にうかがって、蔵をこの目で確認した大学図書館なども、「CiNii Books」上ではまだ所蔵していないことになっているので、データの反映が遅れていたり、購入・準備に時間がかかったりしている大学もあるのかもしれません。そうであってほしい。
 公立図書館のほうはどうかというと、大学図書館に比べると所蔵を調べるのが容易ではありません。「CiNii Books」のような、多くの図書館の所蔵状況をまとめた蔵書目録「総合目録」が、公立図書館の場合には存在しないからです(一部の図書館だけ入っているものはありますが)。大学図書館の場合は、自分の図書館でもっていない雑誌に掲載された論文のコピーを依頼するとか、もっていない本をほかから取り寄せたいという要望が頻繁に発生することもあって、総合目録が発展してきた歴史があるのですが、公立図書館の場合は地域のネットワーク内で完結したり、国立国会図書館を頼ることが多いこともあって、全国的な総合目録が発展してきませんでした。そのためこういうときは不便だったのですが、2010年に「カーリル」という、全国の図書館がオンラインで公開している検索システムを横断的に検索して、所蔵状況をまとめて閲覧できるサービスを株式会社カーリルが運用開始し、全国の所蔵状況を調べることができるようになりました。ただ、総合目録がデータ自体、統合して作られているのに対し、横断検索はつど、各図書館の検索システムに問い合わせをかける負担が発生することもあってか、カーリルでは全国をまとめて探すことはできず、都道府県ごとのブロックでしか所蔵を調べることができません。したがって、仕方がないので47都道府県分、自分の本があるか検索してみました。エゴサーチここにきわまれり。
 カーリル検索の結果、1,359自治体、3,246館の市区町村立図書館中、本書を所蔵していたのは220自治体、252館でした。自治体単位での所蔵率は16.2%、図書館単位では7.8%。思ったほどには伸びていないかあ……もうちょっと所蔵しているものかと思ったのですが。ちなみにカーリルでは各図書館での貸出状況もわかるのですが、本書の貸出率は56.0%でした。新刊書のわりには低いともみるか、ノンフィクションのわりには高いとみるか。著者本人としては後者の立場をとりたいです、けっこう借りられているようだしぜひ所蔵しましょう!>図書館関係者各位。
 もっとも、出版から1カ月を待って調査してみましたが、おそらく買うつもりがないから所蔵していないのではなく、単にまだ納品あるいは準備ができていないだけ、という図書館もありそうだと思っています。そうでないと、都道府県別にみたときの京都府の所蔵率が低すぎます。21市町村中、2自治体しか買ってくれていない。なんなら日頃、図書館司書課程の教員としていろいろとお世話になっている、具体的には毎年ご挨拶にいっている図書館とか、研修事業を担当したことがある図書館とか、審議会委員をやったことがある図書館とかで、買ってくれているのが1館しかない。さすがにそこまで嫌われているということはないだろうと思うので……思いたいので、おそらくこれは新刊が図書館で提供されるスピードに、図書館によって差があるのではないか、という仮説が成り立ちます。発注から納品・受け入れ手続きにかかる時間に差があるのではないかとか。それを検証しようと思うと、例えば同じ時期に出た別の本の場合はどうなんだろうとか、もう所蔵している図書館/いま所蔵がない図書館で何か差があるのだろうかとか、もし検索システムで本の受け入れ日がとってこれるなら、個別の図書館の検索システムを使って受け入れ日のデータを取得してみて、館によって刊行→受け入れまでに系統的な(たまたまじゃなく、毎回発生する)差があるのかを調べる、なんてことが考えられます。
 そんな感じで、発端はごく素朴な疑問(自分の本って図書館にどれくらい所蔵されているのか)であっても、実際に調べて傾向をみているうちに様々な仮説が浮かび、それをまじめに検証していくと、いつの間にか図書館に関する研究・学問になっていくわけです。この場合は刊行から所蔵・提供までにかかるスピード(期間)とそれを左右する要因という、図書館サービスの品質に関するトピックになってきました(品質といっても、早ければ早いほどいいわけではなく、提供に期間がかかるところは慎重に選んでいるという結論になることも大いに考えられます)。似たようなことを様々なトピックについておこなっているのが本書『図書館を学問する――なぜ図書館の本棚はいっぱいにならないのか』でして、本稿を読んで興味をもった方は、ぜひご一読いただければ幸いです。
 もちろんこんな書名の本ですから、図書館で借りてもらうのもいいのではないでしょうか。お近くの図書館に所蔵があるかどうかも、カーリルで簡単に調べられますよ!
 
『図書館を学問する――なぜ図書館の本棚はいっぱいにならないのか』試し読み
 

ニュルンベルクのクリスマス市――『ナチス・ドイツのクリスマス――ナチス機関紙「女性展望」にみる祝祭のプロパガンダ』を出版して

桑原ヒサ子

 冬のドイツ観光といえば、定番は有名なクリスマス市を巡る旅だろう。クリスマス市はドイツ各都市で、旧市街の中央広場を会場にアドヴェント期間、すなわちクリスマスの4週間前から通常クリスマスイブまで開かれる。クリスマスイルミネーションに照らされる市場では、レープクーヘンやシュトレン、シュぺクラティウスといったクリスマス菓子や焼きアーモンド、焼き栗が売られ、カラフルなガラス玉やアドヴェントの星、ラメッタなどのツリー飾り、エルツ山岳地方の木製の煙出し人形のほか、さまざまな雑貨の屋台が200近くも並ぶ。体を温める飲み物といえばグリューヴァインで、これは温めたワインにシナモン、レモンの皮、チョウジ、ウイキョウを混ぜ、甘味を加えたものだ。
 この時期、ドイツ観光局、ドイツ大使館、さまざまな旅行会社はこぞってクリスマス市を紹介し、ドイツへの旅行を提案する。ドイツの3大クリスマス市といえば、世界最大のシュトゥットガルト、世界最古のクリスマス市の一つドレースデン、それに世界で一番有名といわれるニュルンベルクのことで、ニュルンベルクだけでも世界中から200万人から300万人もの観光客を引き付けている。このエッセーでは、ニュルンベルクのクリスマス市に注目してみたい。

 第二次世界大戦後の復興を経て、再びドイツの家庭はどこも同じようにクリスマスを祝うようになる。その定形は、『ナチス・ドイツのクリスマス』で明らかにしたように、ナチ時代に発行部数第1位だった官製女性雑誌「女性展望」がアドヴェント号とクリスマス号に掲載した記事が作り出したものだった。クリスマスがキリスト生誕の祝祭であるという理解はあるものの、クリスマスのルーツはドイツ固有の民族文化にあるという19世紀以来の「ドイツのクリスマス」という自負心がナチ時代に強化された。ナチ時代に周知された「家族のクリスマス」が戦後に復活したのと同じことが、ニュルンベルクのクリスマス市の復活にもみられるように思う。
 クリスマス市が立つ中央広場には、「美しの泉」(鉄柵の金の輪を握って願い事をするとかなうという言い伝えがある)やゴシック様式の聖母教会が立つ。ニュルンベルクのクリスマス市は「クリストキンドレスマルクト」と呼ばれ、金髪に王冠をかぶり、金色の天使の服を着た(子どもたちにプレゼントを与える)クリストキントに扮した若い女性が、2人の天使を伴って聖母教会のバルコニーに現れて口上を述べる一大イベントで始まる。クリストキント役は市内在住の16歳以上の若い女性から選ばれるが、それは大変な名誉となる。

 この広場の歴史をたどるのもなかなか興味深い。
 ニュルンベルクの町はペグニッツ川の両岸に広がっている。12世紀によそから追放されたユダヤ人がやってきて、川の湿地帯に入植することを許される。14世紀にニュルンベルクの市壁が完成すると、ユダヤ人地区は街の真ん中に位置することになった。当時、ヨーロッパでペストが蔓延してユダヤ人がスケープゴートにされるなかで、皇帝カール4世はユダヤ人迫害を阻めず、1349年にニュルンベルクのユダヤ人地区でも迫害が起こり、560人のユダヤ人が殺害されている。1498年にはユダヤ人はニュルンベルクから放逐され、以後1850年まで家を構えることができなかった。カール4世は空になったユダヤ人地区に聖母教会を建設する許可を出したのである。
 クリスマス市がいつ始まったかは不明で、残存する史料によるとその歴史は17世紀後半までさかのぼれるという。その後、18世紀にはニュルンベルクの職人のほぼ全員、約140人が市で商品を販売する権利を獲得している。しかし、19世紀末になるとクリスマス市はその意味を次第に失い、街の周辺に追いやられた。それが国民社会主義の時代になると、長い伝統があるクリスマス市は、ニュルンベルクに「ドイツ帝国の宝石箱」というイメージを与え、年間祝祭カレンダーに入れるように利用された。1933年12月4日、アードルフ・ヒトラー広場と改名された中央広場で、神々しいほどロマンチックなオープニングの祝祭がおこなわれて、クリスマス市は復活した。市立劇場の若い女優レナーテ・ティムがクリストキントに扮し、2人の天使を伴って聖母教会のバルコニーに現れ、郷土愛あふれる口上を述べると、子どもたちの合唱が続き、教会の鐘の響きで締めくくられた。
 戦時中は空爆が激しくなる1943年以降のクリスマス市の開催は不可能だった。戦後初のクリスマス市は48年だというが、ナチ党と関係が深かったニュルンベルクは連合国の激しい爆撃を受けてがれきの山と化していたから信じがたい話である。いずれにせよ、ニュルンベルクのクリスマス市は戦後早い時期に、ナチスが33年にクリスマス市を復活させたときのオープニングをそのままに再開した。68年まではクリストキントに扮するのは女優だったが、69年から公募制に変更された。アドヴェントの第一日曜日前の金曜日に聖母教会のバルコニーに2人の天使にいざなわれて登場する金髪のクリストキントは、現在のニュルンベルクのクリスマス市の一大イベントになっている。

『ナチス・ドイツのクリスマス――ナチス機関誌「女性展望」にみる祝祭のプロパガンダ』試し読み

 

本を書くというメディア実践――『ケアする声のメディア――ホスピタルラジオという希望』を出版して

小川明子

 私は小さいころ、父母にお話をしてもらわないと眠れない子どもだった。父が適当に話を終わらせようとすると、首根っこをつかまえて、ちゃんと納得するまでお話をしてもらわないと眠らないやっかいな子どもだった。自分で本が読めるようになると、布団にもぐって寝たふりをしながら、懐中電灯の明かりで、夜遅くまで物語を読んだ。眠くなってきて目を閉じると、襖の向こうから聞こえてくる両親の話し声に安心して、ようやく眠りに落ちる。子どものころの私が欲していたのは、物語だったのか、それとも父母の声だったのか。私の単著1冊目は物語を作って語ることをテーマにした(『デジタル・ストーリーテリング――声なき想いに物語を』リベルタ出版、2016年)。2作目になる今回は「声」がテーマだ。
 こうした子どものころの経験が影響してか、私はラジオが好きだ。中高生のころは深夜ラジオに社会や人生を教えてもらい、いまも朝から晩までラジオを聴いている。正確にはスマートフォン(スマホ)アプリのradikoとかポッドキャスト(Podcast)だけれど、ニュースでさえも声で聴くほうが落ち着く。ラジオや新聞、ネットでニュースを見聞きして大谷翔平が相当有名になってから顔や動きを知ることになって笑われたけれど、新型コロナウイルス感染症拡大のニュースはそれまでさほど怖くなかったのに、テレビで人工呼吸器につながれた若い人の映像を見た途端に怖くなってしまった。映像は良くも悪くも衝撃的だ。
 幸か不幸か、本書はコロナ禍に書くことになった。イギリスでのインタビューも、藤田医科大学での実践もコロナのせいで自由に調査できず、ずいぶん出版が遅れてしまった。しかしだからこそ、この間にあらためてラジオの力が見直されてきた。本書以外にも2023年から24年にかけて、これまでほとんど学術的なテーマとして扱われてこなかったラジオに焦点を当てた書籍が、日本で次々と出版されている。本書のテーマでもあるケアする声のメディア、イギリス発祥のホスピタルラジオにもメディアの注目が集まり、その意義があらためて見直された時期でもあった。
 ホスピタルラジオをめぐる書籍は、私が知るかぎり、イギリスにも見当たらず、ウェブサイトでホスピタルラジオの歴史をつづっていた(数年前に閉鎖されている)Goodwinを探し出してUSBで原稿をもらって教えを請うた。イギリスのホスピタルラジオに実際に行ってみると、ボランティア側がラジオで話したいという欲望も強く、聴いている患者のほうがボランティアをケアしているような側面もあって、本家イギリスでアカデミアの関心が得られなかった理由もおぼろげながら理解できた。
 人文社会系の学問がどんどんエビデンスや客観性を重視する時代になるなかで、学術的に扱うのが難しいテーマをなんとか書籍にして世に出したいと思ったのは、「声」がもつケア的な側面にもっと関心が寄せられてもいいのではないかと強く感じているからだ。社会人としてのスタートを放送局で始めた私は、専門家だけが読む小難しい本としてではなく、関心をもつ誰もが手に取ってもらえるような本にしたかった。そして、青弓社の編集のみなさんは期待以上の本にしてくださった。
 ありがたいことに、本書を取り上げる書評も現れ、NHKのラジオなどでもコメントをする機会を得た。そこからのつながりや動きも生まれ始めている。これまで「メディアを作ってちょっとだけ社会を変える」をモットーに、研究と実践の間を進んできた。単なる学術書として閉じるのではなく、現実をちょっとだけ変えていくような書籍になったら本望だ。本を出す、ということはメディア実践だとあらためて実感した。孤立状態にあって、誰かの温かな声を求めている人、そして声で誰かを励ましたいと思っている方々に届きますように。

『ケアする声のメディア――ホスピタルラジオという希望』詳細ページ

 

実存を懸ける――『野球のメディア論――球場の外でつくられるリアリティー』を出版して

根岸貴哉

「実存を懸けてやりなさい」
 これは、敬愛する師、谷川渥先生からいただいた言葉だ。

 2018年7月、猛暑の京都。壇上でぼくは博士論文の構想発表をしていた。このプロセスを通らないと、博論を提出することができない。

 ぼくが所属していた立命館大学の先端総合学術研究科、通称「先端研」の博論提出の要件。それは、前述した構想発表で認められることと、査読論文が3本以上あること、そして、既定の年数以上所属していることである。先端研は一貫制博士課程のため、1年次から入学していれば5年以上、3年次からの編入であれば3年以上、ということになる。
 先端研の人々は、この構想発表をおこなってから数年後に博論を提出している。博士論文とはなんだろう。ある人にとってそれはひとつの象徴的な通過儀礼かもしれないし、もしかしたら「ただの書類」かもしれない。しかしある人にとっては、それはひとつの到達点であり、集大成になりえるものだろう。
 建前をいうなら、そりゃあ「到達点」としてあるべきだ。だから、構想発表をしてから数年という時間をかけて書き上げる。そういうものなのだろう。では、ぼくの博士論文はどうだったのか。その評価は、博論をベースにした単著『野球のメディア論』を読んだ方々におまかせしたいと思う。いや、大幅に加筆・修正をした単著で博論の評価をあおぐ、なんてずるいだろうか。ならばあえて自己評価をしよう。端的にいってしまえば、ぼくの博論は急ごしらえで書いたものだ。なにせ、ぼくは構想発表の3カ月後には博論を提出していたのだから。
 本来なら数年かけて出すものを3カ月で書く。構想発表をしたあとすぐに書き始めていたわけではないから、実際にはもっと短い時間だったと思う。時間が圧縮されていた。もう一度やれ、と言われたら無理だと思う。後日、主査の先生にそんな話をしたら「博士論文なんて人生に一度だけだから」と言われた。そりゃそうだ。

 なんでそんなことになったのか。時を戻して2018年9月。ぼくは指導教員だった吉田寛先生の異動を知る。博論提出の締め切りまではあと1カ月しかない。ぼくからしたら、博論の提出も確かに人生一度だけだが、師事していた教員が突然来年度にはいなくなるなんてこともなかなかない事態である。さらに、 締め切り2、3週間前には、副査を務めていただいた木村覚先生も、来年度はサバティカルで日本にいないと知る。どうやったって、10月の締め切りがラストチャンスである。
 そこからのことは、もうあまり覚えていない。ただ、博論の書き下ろし部分、すなわち単著の序章と第5章、第6章はいずれもこの期間に書いた。形式や前後の章のバランスを整えたのも、もちろんこの期間で、である。 だから大幅な加筆・修正をして単著として出版することができたのは幸甚だった。
 口頭試問、それを受けての修正、そして公聴会やその他の書類処理をして、なんとか3月に修了し、博士号を取得した。その後、数カ月から一年間はずっとぼんやり状態だった。世の中がコロナ渦になっているなか、ぼくもまた燃え尽きて停滞。副査を務めていただいた竹中悠美先生から、先端研の研究指導助手のオファーをいただくまで、ぼんやりと研究を続けながら日々を過ごしていた。

 助手になった2023年、春。経済状況と自身のぼんやり状態がマシになってきて、ようやく出版に向けて準備を進め始める。吉田先生に連絡をして、紹介してもらったのが青弓社だった。出版に向けた打ち合わせの際にリライトのスケジュールを聞かれ、博論のときと同じ感覚で執筆計画を提案すると、「本当に無理をしないでください」と言われた。どうやら、ぼくの執筆スケジュール感覚は麻痺していたらしい。

 博論のリライトを進めていた2023年8月、ある日の夜のこと。目を閉じて、目を開けると、……黒いものが見える。黒カビが浮いた水のなかに、左目だけがあるような感じだ。急いで目を洗いにいくも、取れない。次第に黒カビはどんどん広がっていって、気づけば黒いカーテンの隙間から覗いて見えている程度の視界しかなくなってしまう。
 次の日の朝、急いで眼科に行くと、診断は「左目網膜剥離」。眼底出血がひどいらしく、翌日、大きな病院で診断を受けてください、とのこと。

「終わった」と思った。

 博士論文のタイトルは「野球視覚文化論」である。そう、「視覚文化」である。視覚文化の研究者が視覚を失ったらその資格も失う、なんて冗談でも笑えない。
 博論の副査を務めていただいた竹中先生からは「単著が出たら景色変わる」と言われていたが、まさかこんなかたちで景色が変わってしまうとは。
 次の日、京都府立医科大学付属病院にて、やはり「網膜剥離」と診断され、2日後には手術を受けた。
 まるで『アンダルシアの犬』(監督:ルイズ・ブニュエル、1928年)のようだな、と思いながら手術を受けた(めちゃくちゃ怖かった)。術後はしばらくうつ伏せで過ごさなければならない。ちょうど甲子園で高校野球をやっている時期だった。しかし、見れない。怖くて左目は使えないし、目が疲れてしまうから右目もなるべく使わないようにしていた。それでも結果は気になるし、入院生活でできることも少ないため、野球中継だけはつけていた。
「カッ」という音なのか「カッキーン」という音なのかで、こすったのか芯でとらえたのかがなんとなくわかるようになってきたあたりで、退院を迎えた。それでも、しばらく日常生活は不便なものだった。なんとか見えるようにはなったものの、とにかく左目は何を見てもまぶしく感じてしまう。左目にタオルを巻いて生活する日々だった。
 手術の前後はまったくリライトが進まず、提出が遅れてしまう旨を出版社に伝えた。これはもう間に合わない、だめかもしれない……と思いながらやっと完成した章を送ると、それでも「速いペースで進んでいる」とのこと。麻痺したスケジュール感覚は、まだ戻っていないようだった。それからも、順調なペースでリライトは進んだ。

 時はとんで2024年2月。校正が始まる。いろいろな事情が重なって、本来の校正スケジュールではなかなかありえないタイトなスケジュールとなった。 合間に助手の業務と自身の発表をこなしながら、校正は助手の同僚であった駒澤真由美さん、吉野靫さんの助力もあってなんとかなった。もちろん、編集者の矢野未知生さんや、青弓社の方々にも本当に助けられた。同時にカバーデザインにもちょっとした仕掛けを作ったりした。
 序章のタイトルを求められたのも、この時期だったと思う。大谷翔平選手が全国の小学校にグローブを贈った際の言葉「野球しようぜ」を少し変えて、「野球観ようぜ」とした。本当にギリギリの修正だった。
 博論のときと同じような切迫感、締め切りに間に合わないかもしれないという焦燥感を味わった。校正が終わってからしばらくダウンするだろうなあ、なんて考えていたら新型コロナウイルスに感染した。作業が終わったあとで本当によかったと思う。

 そして2024年3月、出版に至った。その直後、ぼくはまた肝を冷やすことになる。
 読者のなかにはお気づきの方もいるかもしれない。そう、大谷選手の通訳を務めていた、水原一平氏の事件である。いまでこそ、大谷選手は被害者だ、ということになっている。しかし、報道が出た当時は大谷選手も共犯が疑われたり、自身が野球賭博に関与している場合にはメジャーリーグから永久追放も……などと噂されていた。焦る。著作と人格は別物だといっても、まさかこんなことになるとは。いまから出版の差し止めなんてできるはずもない。信じて祈るしかできない。出版の実感が湧く前に、出版されてしまった、と焦ることになるなんて。

 思えば、修士論文に相当する博士予備論文の執筆時には喉を壊して、主治医から「今夜が峠だな」と告げられた。その後も比喩ではなく血反吐を吐きながら死線をくぐり、なんとか書き上げた。博論のときは、主査の異動に伴う圧縮されたスケジュールと締め切り。今回は、網膜剥離による「研究者活動」の死線と、相変わらずタイトになってしまった締め切りを乗り越えた。大きな締め切りのたびに実存を懸けて、そのつど――筋書きのない――ドラマが生まれる。
 タイトルをつけるなら、『デッドライン』。……いやいや、それじゃあ千葉雅也先生の小説じゃないか。あんなにすばらしい小説はぼくには書けない。できることはただ、締め切りと死線を、そのたびに実存を懸けて乗り越えることだけ。そんな成果物をぜひ読んでいただきたい。

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どうしよう、どうしよう……のフェミニズム――『分断されないフェミニズム――ほどほどに、誰かとつながり、生き延びる』を出版して

荒木菜穂

 青弓社をはじめさまざまな方々にお世話になりながら、書いている間、刊行されてから、私の頭のなかではいつも、いろんな「どうしよう」が渦巻いていました。思っていることを書きなぐるのではなく、どう伝えていけばいいのか、どう整理すればいいのか、そもそも本ってどうやって書くんだっけ、ちゃんと読んでもらえるだろうか、言葉足らずで伝わらなかったら、いや、伝えたいこと自体がフェミの人に受け入れられなかったらどうしよう……など。そういった「どうしよう」は、社会に文章を出す立場として、自分のなかで解決すべきなのはたしかです。
 しかしながら、それとともに、フェミニズムをテーマにする以上、落としどころがない「どうしよう」もあって、そういったグルグルとした揺れ動きはおそらく本書にも多く示されていると思います。
 まず、フェミニズムという名の下に書くということに、いろんな「どうしよう」がありました。本書は、フェミニズムの活動をしてきた方々にも、フェミニズムとあまり接点はないけれどジェンダーに関係しそうな日常のモヤモヤが気になる方々にも読んでほしいという思いがあったのですが、後者の場合、書名にある「フェミニズム」という言葉だけで抵抗感をもつ人もいるかもという不安がありました。例えば、いちおうフェミニズムの活動に(緩やかにではあるけれど)ずっと関わってきた私でも、本書を書いたことによって、親族やフェミ的なつながり以外の方々に「フェミ」バレするのが少し不安なところもあります。
 また、フェミニズムの名の下にさまざまな議論が巻き起こっていることも常に意識のなかにありました。さまざまな立場、それぞれの正義があるのだろうけれど、底知れぬ溝がそこにはあるように感じられることもあるし、ときとしてフェミニズムと真逆の方向に展開することもあったりする。そんな悩ましさとともに、もしかして『分断されないフェミニズム』って書名としてこの本、そんな状況をなんとかできる特効薬のようにみえてしまわないか、どうしよう!……という思いも湧いてきました。
 さらには今回、過去や現在の草の根フェミニズムについて、主に書き残されたものを中心に、そこで営まれてきたことの意義について、私自身の経験や肌感覚からリスペクトをもってつづったつもりではいますが、やはりどの立場から過去をとらえるかによって、それぞれの方が違った思いをもつこともあるかなという懸念もありました。
 とりわけ、この「どうしよう」には、今後の関係性のなかでぶちあたることが多くなると思っています。フェミニズムの活動はこんなもんじゃなかった、私の経験したことはもっとえげつなかった、そこにシスターフッドなんてキレイゴトはなかった、などのお叱りを受けることも多々あると思います。それらは、大いに心して受け止め、反省したいと思っています。しかし、おこがましくもあえて希望をもつなら、そこから本書が、あのころのフェミニズムには、いまのフェミニズムだって、こんな、あんなやりとりがあった、立場や主張が異なる者同士なんとか関係しようとする営みがそこにあった、と、さまざまな方々が思いをめぐらせ、語り合えるきっかけのひとつになればいいな、という思いもあります。
 ちなみに本書のサブタイトルは「ほどほどに、誰かとつながり、生き延びる」。フェミニズムの特効薬どころか、ここには一気に緩さが出ていていいな、と思っています。立場や考えが違っても、どうにかやってこられた「ほうの」フェミニズム、そこからの気づきや学びを残し、模索しながらもなにかしらの提案ができたらという。複数性やその調整、妥協、発想の転換、自身の問い直しなど、フェミニズム的活動のなかで示された揺れ動きやあいまいさをコンセプトに据えたのは、そこに政治があるから!という崇高な目的というよりは、私自身が、先ほどのような「どうしよう」のカタマリ、不安定な存在であることも大きいと思います。そんな緩やかでささやかな本書ですが、どうぞ手に取っていただけると幸いです。すでに関心をもった方は本当にありがとうございます。
 
 最後に、カバーイラストの希望をお伝えしたら、こんなかわいいカバーを作っていただきました。イラストレーターやデザイナーほかのみなさま、あらためてありがとうございました。

『分断されない女たち――ほどほどに、誰かとつながり、生き延びる』詳細ページ

 

「女子鉄道員」を深掘りして――『女子鉄道員と日本近代』を出版して

若林 宣

 私が「女子鉄道員」という言葉を最初に知ったのはいつごろだったか、記憶に間違いがなければ小学校高学年から中学生のころ、ということは1970年代の終わりから80年代初めにかけてだったように思います。たしか図書館から借りてきた、日本の歴史あるいは鉄道を扱った一般向けの本に書かれていたもので、そこでは「女子鉄道員」の存在は、太平洋戦争中にみられた戦時下特有の現象として扱われていたのでした。
 それ以来関心を持ち続けてきて……と書いたら、実はウソになります。そのとき少年鉄道ファンだった自分の主たる関心の対象は機関車や電車であって、そこで働く人々に目を向けるようになるのはもう少しあとのこと。そして「女子鉄道員」が気になり始めたのは、日々利用する鉄道の現場に女性の姿が見られるようになってからのことだったと思います。それはおそらく、今世紀に入ってからのことでしょう。というのも、女性労働者を深夜業に従事させることを規制してきた労働基準法が改正・施行されたのが1999年4月のこと。それ以降、駅係員や、また車掌や運転士として列車に乗務する女性の姿が各地で見られるようになりました。
 そのころのことをいまになって思い返してみると、不思議な気がします。たとえば女性の車掌や運転士の登場を報じるマスコミの視線には、珍しいものを前にしたときのような好奇な目もあったように思います。考えてみればそれはおかしな話で、そこで働いている人が女性だからどうだというのでしょうか。またそのことは、翻ってみれば、それまで女性が鉄道からどれだけ疎外されてきたかを示していたようにも思われます。
 などと書いてみましたが、しかし当時の私はそこまで言語化できていたわけではなく、何か違うなあと感じていた程度にすぎませんでした。ただ、そこからゆっくりと意識するようになったのは間違いありません。
 とはいっても、「女子鉄道員」についてすぐさま深く調べ始めたわけではないのでした。それでも、折にふれて社史をいくつか読むくらいのことはしたのですが、それらも至って記述が少なく、バスや東京市電を除けば戦時下にみられた事象という扱いがせいぜいで、「やはり戦争がもたらした特異な例にすぎなかったのかなあ」と思ったりもしました。
 しかし、突破口というのはあるものです。
「女子鉄道員」とは別のテーマで調べものをしていたとき、あることに気がつきました。各地で出版された女性史の本には、地方紙を参考にした記述があったり、また実際に働いていた人による証言が載っていたりします。そしてそこからは、少なからぬ女性が鉄道で働いていた様子も浮かび上がってくるのでした。そのことに気づいたときには、「なぜ最初からこっちを見なかったのか」と後悔しきり。女性の地域での生活や労働の歴史を明らかにしようとする活動への目配りが足りなかったのは、私がシス男性であるがゆえでしょうか。そのあたりは、もっと反省すべきかもしれません。
 その後は、鉄道書だけに頼ることはやめにして、女性史にあたって地域史にも目を向けて、そして日本各地で発行された新聞をチェックすべくマイクロフィルムをからから回すという作業を続けました。なお新聞は、現在ではコンピューターで検索できるデータベースもありますが、それは全国紙に限られますし、自分が思いついた限りのキーワード検索では取りこぼすおそれもあります。そして何より地方紙をこそ見たかったのです。
 成果のほどについては本書を読んでいただければと思いますが、その存在が何も戦時下に限られていたわけではないという事実について、あらためて確かめることができたのでした。そして同時に、「女子鉄道員」が当時どのように書かれ、あるいはどのような目をもって見られていたのかについてもうかがい知ることができたように思います。「女子鉄道員」は、これまで男性中心の社会から見たいようにしか見られてこなかった存在だったといまは考えています。また、かつての姿がよく知られていなかったとすれば、それは忘れられていたというよりも、社会が正面から向き合おうとしてこなかったと言ったほうが適切なのではないでしょうか。
 国立国会図書館の新聞資料室で一人静かにマイクロフィルムを回す作業は、いろいろな気づきを得られる楽しいひとときでもありました。そしていま、ひとまずこのテーマで一冊を出せたことに、ほっとしています。
 

発達障害の子どもはおもしろい!――『がんばりすぎない!発達障害の子ども支援』を出版して

加藤博之

 本書の書名にある「がんばりすぎない!」には、私のいろいろな思いを込めています。出版後、ある人から「「がんばりすぎない!」ではなく、「がんばらない!」のほうがいいのではないか?」と言われました。語呂としてはそっちのほうがすっきりすると思ったのでしょう。しかし、それでは、私の本意を伝えることはできません。すでにがんばっている人たちのことを否定することにもなりかねませんから。
 そうです。発達障害の子どもと関わる親や先生たちはどうしても「がんばって」しまうのです。なぜでしょうか。障害が重い子であれば、かなりの割合でおおらかに接することができるでしょう。しかし、いざ発達障害の子どもを目の前にすると、そうはいかなくなってしまいます。がんばれば周りの子と同じようになるのではないか、という一種の幻想がつきまとってしまうのです。
 しかし、実際にはそうはいきません。一般の子育てで通用する方法がことごとく適用できないのが発達障害の子どもです。そうすると、諦めるかと思いきや、まだ足りないのではないかと思い込み、もっともっとがんばってしまう大人がいます。そこに大きな落とし穴があります。本書でも随所で述べているように、がんばることは逆効果になることが圧倒的に多いのです。そのため、何年もがんばってしまったあとに、やっとそのことに気づくというケースも少なくありません。
 そのような事情から、がんばっている大人に対して、がんばるのは確かに立派なことだけど、あまり「がんばりすぎないで」と言いたいのが、書名決定の由来です。ちょっと肩の力を抜いてリラックスすれば、それだけで子どもとの関係は変わってきます。私の好きな音楽に、大阪のブルース・バンド憂歌団の『リラックス デラックス』というアルバムがありますが、まさに、まずはリラックスしようじゃないかということが言いたいのです。

 出版後、いろいろな人たちからさまざまな感想をいただきました。なかでも、「この本は、発達障害のことを書いているにもかかわらず、一般の子育てにも十分通じるものがある」という内容が多いように思います。私は長年、障害がある子どもたちの臨床や教育、音楽療法に携わってきました。そして、子どもたちとの関わりのなかでつくづく感じることは、「子育ては、障害があろうとなかろうと、みんな同じだ」ということです。
 障害があるとどうしても、何か専門的なことをしなければならないと思われがちです。実際に、幼児期からせっせと訓練のようなものを求めるケースがみられます。それで、本当に子どもたちは幸せなのでしょうか。なぜ、障害があると、ほかの子よりも多くのことを求められるのか。もちろん、子どもへの配慮や対応の仕方を変えることは必要だと思います。しかし、子どもは誰でもまだ子どもなのです。

 もう30年以上前のことですが、私が公立学校の教員時代に大変お世話になった故・宇佐川浩先生(元・淑徳大学教授)から次のようなことを言われました。
「加藤くん、優れた障害児教育(療育)は、とても質が高い一般の教育につながるものだよ」
最近、この言葉の意味をかみしめることが多い気がしています。「そうか。そういうことか」と。きっと、何百人もの障害のある子どもたちが、「子育てとはこういうものなんだよ」と教えてくれているのだと思っています。

 ともあれ、発達障害の子どもは理屈抜きで面白い! 日々一緒に過ごしていて、ワクワクさせられる。「面白い」と感じ、いつもポジティブな見方で接していると、子どもはどんどん勝手に育っていきます。おそらく、一つひとつの行動を「面白い」と思っていればその子のよさが次々に発見でき、それは関わる大人を幸せにしてくれるのだと思います。幸せな大人がしょっちゅう近くにいれば、当然、子どもも幸せになることでしょう。それは、やがて子どもの自信につながり、自己肯定感にもつながっていくはずです。

 本書は、発達障害の子どもたちから学んだいろいろな知見をもとにしています。だから、本音を言えばもっともっとたくさん書きたかったと思っています。実際に、編集者から「多すぎます」と言われ、泣く泣く大幅に削除しました。その原稿は、パソコンのなかに眠っています。そして、日々増えていっています。字数の限りという壁には勝てません。そこだけが少しだけ無念ですが……。こんなに学べて、こんなに得をする職業が、はたしてこの世にあるのか、と日々思っています。

 発達障害がわかれば、どんな子どもにも対応できる。
 発達障害がわからなければ、子どもはよくわからない。
 

ここが第二のスタートライン――『音楽ライターになろう!』を出版して

妹尾みえ

「FMで『音楽ライターになろう!』が紹介されていたよ」と知人が教えてくれた。兵庫県西宮市のコミュニティFM・さくらFMの番組「cafe@さくら通り」(6月8日放送)の「本棚に音楽を」というコーナーで、木曜パーソナリティーを務める安來茉美さんが取り上げてくださったのだ。
 こんな本が出ましたよというインフォメーションだけかと思ったら、1時間近くたっぷりの紹介でびっくり。本のなかで取り上げたスティーヴィー・ワンダー、ベティ・ラヴェット、ルイ・アームストロングらの曲も流れた。音楽を聴きながらだと、原稿をつづったときの想いが立体的に浮かび上がってきて、自分の文章なのに胸が熱くなった。そうなのだ、原稿はいつも聞こえる音楽と一緒。こうして耳を刺激する文章をつづるのが音楽ライターの役目なのだ。どんなにそれらしくても文章のなかに閉じ込めてはいけない。

『音楽ライターになろう!』を書いてみて予想外だったのは、現役ライターからの反響だった。なり方も仕事のやり方も誰も教えてくれなかったから読みたいという人もいたし、原稿料だけでは食べていけない!とハッキリ書いてほしいという人もいた。
 そしてみなさん、ライター業だけでなく、音楽を取り巻く状況に何かしらの葛藤を抱いて仕事をしている。
「ライターを育てる気がない音楽業界に嫌気が差す」と業界の知り合いにこぼした知人は、ChatGPTを引き合いに出して「いまみたいな音楽ライターは必要なくなるんじゃないか」と言われたそうだ。
 AIも使いようによってはよき相棒になるようだが、私自身は「聴き、評価し、自分の言葉で表現する」音楽ライターの仕事がAIが取って代わられるとは思わない。こうしてみると音楽ライターって、いろんな意味でフィジカルと連動した仕事なのかもしれない。
 そんな話題も含め、音楽業界の未来や、後輩に手渡したいことについて、もっと話したり発信したりほうがいいのだろう。これから音楽ライターになりたいという人が夢をもてるような話もしてみたい。

 などとエラソーなことを書いているが、今回の執筆では編集のみなさんにかなりご迷惑をおかけした。表現の甘さも痛感し、潮時という言葉も頭をよぎった。
 それにググればマニアックな情報でも収集できるいま、これからの音楽ライターは生半可な知識では勝負できないだろう。「ライターと読者の知識の差がなくなっている」という厳しい意見も耳にする。
 その分、これからはいままで以上に、書き手が何を聴いて、何を感じて、何を己の言葉で語るのかが重要になると思う。例えば、現場に足を運んで伝える、自分の視点でガイドブックを編む、専門誌ではないメディアで音楽を紹介する――私にしかできないこともあるんじゃないか?
 愚痴っている場合じゃない。もうひと踏ん張りしてみよう。私にとって、この本は音楽ライターとしての第二のスタートラインになりそうだ。
 

人生はアップデート――書くことの原動力――『妾と愛人のフェミニズム――近・現代の一夫一婦の裏面史』を出版して

石島亜由美

 本書が刊行されてから数週間がたった。印刷に回るギリギリまで校正をして、見れば見るほど修正したい箇所が見つかり、自己嫌悪に陥りながらもなんとか締め切りに間に合うように作業の区切りをつけて原稿を送り出した。そのあとはできるだけ原稿のことは考えないようにして淡々と日常を送ろうとしたが、気持ちを切り替える間もなく、ついさっきまで握り締めていたと思っていた私の原稿は書籍という印刷物になって目の前に現れ、あれよあれよという間に書店に並んでしまった。ネットを検索すれば「Amazon」でも簡単に買えるようになっている。本書の「はじめに」もウェブ上で試し読みができるようになっている。私が書いたものが私のもとを離れて、一冊の本として社会に流通してしまった。不思議な気分である。カバーに印字された「石島亜由美」という著者名を確認して、私は石島亜由美で、これは私の本なのだ、私は本を出版したのだと、いまさら照れくさい気分にもなっている。

 本書のタイトルは『妾と愛人のフェミニズム――近・現代の一夫一婦の裏面史』である。「妾」と「愛人」という存在を取り上げるのは、やはり勇気がいることだった。妾や愛人と聞けば、「夫の浮気相手」として非倫理的な存在という認識が一般的にあるだろう。そんな女性をフェミニズムが擁護するのかという批判の声が聞こえてきそうだ……。
 本書の議論は、妻の立場に揺さぶりをかけている。一夫一婦の法制度とジェンダー規範が確立した近代以降の日本社会では、妻は正しい存在であり、フェミニズムでもその立場は夫と対等になるために称揚され、妻の役割を肯定的に語ることが長い間の関心事だった。本書では、そうしたフェミニズムの経緯に水を差している。一夫一婦を支柱とした妻の問題を、妾・愛人の議論から照射しているのである。したがって、フェミニズム内部からは、女性間の対立の構造を深めるのではないかという声も聞こえてきそうだ。フェミニズム内外から飛んでくるだろう批判の声を感じ、おびえながら私は原稿を書き上げた。

 そして現在、出版されて数週間のためか、主だった批判の声はまだ私の耳には聞こえてこないが、意外だったことがある。本書の「はじめに」で、私がこのテーマに取り組むことになったきっかけを述べているが、その理由の一つに私の母親との確執があった。私が選択した道を「正しくない」と言って批判したうちの一人は、実は私の母親だったのである。その母親が私の本を読んで、この出版を心から喜んだのだった。「はじめに」に書いたそのことについても自分のことが書かれているとわかったようで、そのうえで「あのとき言い合ってよかったね」と、信じ難いほど前向きな感想が母親の口からもれたのである。
 本書を出版することは事前に母親には伝えていたが、出版は喜んでもらいたくても、本の内容、中身までは知られたくないという気持ちが強かった。せめて書名とカバーだけを眺めて、あとは何も考えないでページをめくらないでほしい。そのまま実家の仏壇の前に置いておいてくれと祈るような気持ちだったが、見事にその期待を裏切り、母親は読んでしまったのだ。読んだら落ち込むだろうと思っていた。複雑な気持ちになって、過去にこじれた関係もそのまま墓場までもっていかれてしまうのではないかという恐れを抱いていたが、杞憂だったとわかった。本書を書く原動力の一つだった母親との確執、私が身体に刻んできた過去のトラウマの一つが、この一言で吹き飛んでしまうような出来事だった。書くことでネガティブな経験は乗り越えられるということを、身をもって実感した出来事だった。

 もう一つ、この出版で私が乗り越えることができたと思うことがある。それは、大学を離れても研究を続ける原動力を失わず、自分が腑に落ちる在野での研究スタイルを見つけられたことである。私は女性学専攻の大学院に入って博士号を取得し、そのまま大学の研究職に就いたが、8年あまりでその道を断念して鍼灸師に転職した。大学を辞めるとき、大学を離れても研究は続けることを自分に課したが、鍼灸師の資格を取るために今度は専門学校に3年通い、国家試験を受験して資格取得後は臨床の現場に出ていく(しかも2つの治療院をかけもちした)という状況下で、二足のわらじを履くというのはそう簡単なことではないと悟った。
 今回の出版に際して、SNSをエゴサーチしていると、私が「鍼灸師」であることに反応しているツイートがあった。人文の世界からすると、鍼灸師で書籍も出版していることが面白い経歴として見られるかもしれないが、治療の世界では中途半端な存在として扱われる。専門学校を卒業して同級生が正社員として就職、あるいは独立・開業して鍼灸師としての腕を磨いていくなかで、私はアルバイト生活を送ってきた。バイトに通うだけで精いっぱいで、周囲が修練に費やしている時間を、私の場合はすべて原稿を書く時間につぎこんだ。同級生とはこの2年、私が執筆にあてた時間の分だけ実力の差が開いてしまったが、とにかく私は自分の意志を貫いた。二足のわらじでもなんとかやっていくことができる。大学を辞めたという過去を乗り越える出来事となった。

 ネガティブな経験は書くことで乗り越えられる。それが本書を出版して、いま、私が感じていることである。最後にもう一つ、いまだから言えることがある。本書を出版した青弓社は筆者が憧れた出版社だった。私は学生のときに青弓社の就職試験を受けていた。本当は青弓社の編集者として仕事をしたかったのだ。しかし、見事にその試験に落ちていたという過去の傷がある。無鉄砲だった当時の自分に恥じ入る気持ちを抱えたまま時は過ぎたが、そのときの記憶は本書の出版によって「苦い思い出」として、人に対して語ってもいい出来事に変化していることに気づく。ネガティブな経験や記憶は完全に消えることはないけれども、新しいチャレンジによって書き換えていくことはできると思う。本書をつくってくれた青弓社のみなさんに感謝して、「おわりに」で書いたことをもう一度ここで言いたい。今日のこの日の気持ちを「20年前の自分に伝えてあげたい」と思う。