中村 誠
湊かなえの小説に『山女日記』(幻冬舎)というのがある。結婚や離婚、生活・仕事上の悩みなど、人生の節目に直面したアラサーからアラフォー世代の女性たちが、様々な思いを抱きながら登山する物語である。山岳小説というよりは、直面する諸問題にどのように対処しようかとさまよう現代の女性群像を連作として描いたものといったほうがいい。言わば、山は舞台として配されたにすぎない。しかし、そういう舞台として山が設定されたということ自体が、山や登山が身近になったことを示している。数日前には、髙橋陽子『ぐるぐる登山』(中央公論新社)というのも書店で目にした。こちらは読んでいないのでうかつなことは言えないが、これも直接的な登山行為に絡む物語ではなく、状況設定に「山ガール」が一役買っているというもののようだ。いまや、家庭や職場などと同様に、山は女性作家が描く小説の場面として使われ、「山ガール」が登場人物の中心となりうるご時世なのである。
本書の校正を終えて久しぶりに出かけた鈴鹿山脈の御在所岳でも、センスがいい登山ウエアで身を固めた「山ガール」に何組も出会った。いつまで続くかは別として、現状ではこの現象は確かに定着しているようである。一方、そういう女性たちと共に中高年登山者も依然多い。「山の日」が制定される土壌として、このような登山の一般化・大衆化があったのだろう。山から遠いところにいるのは青年・壮年の男性たちだけのようである。
しかし、そういった登山隆盛と言える今日にあっても、登山関係の本に親しむ人はそう多くはない。入門書やハウ・ツーものは登山人口に比例して需要があるが、山や登山について考えたり、登山を通して自己を探求したりするような書物が読まれる状況にはない。無論、今日にあっても登山行為をテーマとした山岳小説は存在する。また、登山や山に関する映画や漫画も結構あるが、それらの多くはエンターテイメントとしてある。
今日では、山に登る意味などについて深く考える作業は敬遠されがちだということであるが、かつての登山者は山に登ることと同等の重みで著名な登山家の著作や遺稿を読み、自分の登山についても考えようとしていた。あるいは、そういった読書と登山体験を媒介として人生観をも深めていった。そういう山の書籍としては、例えば、大島亮吉の登山論や随想、槇有恆の紀行、今西錦司の山岳論、加藤文太郎や松濤明の遺稿……などがあり、これらは登山者共通の読書体験としてあったと言っていい。登山者は自分自身の登山とそれらの著作で描かれた山行の追体験を通して、登山行為と自分という存在について思い巡らせたのである。本書で取り上げた山の文芸誌「アルプ」や串田孫一・辻まことなどの山に関する書物も、そういう時代のなかで多くの読者を得ていた。
「アルプ」は1958年(昭和33年)に創刊され、四半世紀の間に300号を刊行し、1983年(昭和58年)に終刊となった雑誌である。「アルプ」の特色は、登山を単に肉体的な行為として終わらせず、登山が持つ精神性を文芸表現として昇華しようとしたところにある。その「アルプ」の終刊からすでに30年以上が経過したいま、そんな古い時代の山岳文学や山の詩について書いた本は陳腐で、いまさら「アルプ」でも串田孫一でもないと思われる向きがあるかもしれない。
しかし、たとえその30年の間に、登山がより大衆化し、その装備が機能的かつファッショナブルになり、登山の意味が変容したとしても、自然としての山岳が持つ存在感が薄れたわけではない。先にあげた小説で、様々な岐路に立つ女性たちが自らの思いを整理する場として山が使われたことは、山が日常生活の場とは異なる特殊な空気を有するという点でいまも変わっていないということを示している。そして、現代であっても、登山は精神的な行為に通じる要素が潜んでいるということも示している。したがって、現代の登山者が登山をレジャーととらえ、その行為に重い意味を置かなかったとしても、彼らが先にあげたような書籍や「アルプ」の作品を受け入れ、共感することは十分にありうる。本書で描いたような山岳文学の世界に未知だっただけであり、もしそれにふれる機会があるならば、どっぷりとはまるかもしれない。串田孫一の山に関する〈断想〉や辻まことの〈山の画文〉はいまでも十分“オシャレ”で、格好いい文体であり画風である。きっと、いまの若者も興味と関心を持つことができるものだと思う。
『山の文芸誌「アルプ」と串田孫一』では、串田孫一・尾崎喜八・鳥見迅彦をはじめとする様々な詩人たちの詩作品も扱った。山の本であると同時に詩(文学)についての本でもある。ぜひ、多くの方々がこの本を手にし、登山行為と表現行為を融合させて登山を芸術として結晶させた「アルプ」の豊穣な世界にふれていただきたい。