クロマチックハーモニカ時代の到来――『まるごとハーモニカの本』を書いて

山内秀紀

 昨年(2012年)暮れ、執筆依頼状が届いた。ハーモニカの本を出版することなど、まったく頭になかったが、「クロマチックハーモニカを主体にしたハーモニカの本でいい」ということだったので、気持ちにスイッチが入った。年明けの1カ月は、資料を集めたり、ハーモニカメーカーに取材をしたり、海外資料の翻訳作業やインターネットなどでの情報収集で、あっという間に過ぎていった。秋にはコンサートが控えていたので、遅くともそれまでに出版が間に合うようにスケジュールを立て、短期集中型の私は、4カ月程度でほとんど書き終えた。文章を見直したり、校正作業などで9月刊行になったが、なんとかイベントにも間に合いホッとしている。
 ハーモニカという楽器は、誰でも知っているが、ハーモニカのなかで楽器としての完成度がいちばん高いクロマチックハーモニカについて知っている人は少ない。「ハーモニカは、おもちゃのような楽器であり、ヴァイオリンやサックスと同じレベルで語るなんて、とんでもない」と多くの人は言うかもしれない。しかし、そんな人にこそ、クロマチックハーモニカのすばらしさを伝えたいとの思いで本書を書いたので、ぜひ読んでほしい。そして最近は、インターネットで誰でもクロマチックハーモニカの音色を聴くことができるので、その音色も聴いてほしい。きっと、ハーモニカのイメージが変わるはずだ。15年前、私が感じたように……。
 さて、本書の内容だが、まずはハーモニカがどんな楽器であるかを理解してもらうために、第1章では起源や歴史について書いてみた。いろいろ調べていくと、まったく関係ないと思っていた事柄が実はどこかでつながっていたりと歴史はなかなか面白い。自分で執筆しながらハーモニカの新たな魅力も発見できた。本書は、これからクロマチックハーモニカを始める人や興味をもった人が主な対象だが、楽器やハーモニカメーカーの歴史や、奏者の生い立ちなどは、すでにクロマチックハーモニカを始めている人でも十分楽しめるだろう。第2章では、クロマチックハーモニカの魅力や可能性、奏者の紹介から日本で発売されているクロマチックハーモニカをすべて紹介している。さらに吹き方の基礎からメンテナンスや楽しみ方までも取り上げて、ここまで盛りだくさんの内容を1冊にまとめた本はいままで出版されたことがない。クロマチックハーモニカの情報をまるごと詰め込んだ、文字どおり「まるごとハーモニカの本」に仕上がったと思う。
 本書を読んでいただいた演奏家の方々からも過分なるお褒めの言葉をいただき、また発売の次の日には、読者から感謝のメールが届いた。
 ハーモニカのなかでクロマチックハーモニカは、いままであまり注目されていなかったが、そろそろ主役の番が回ってきてもいいころだ。クロマチックハーモニカを吹いている人も、なぜいままでこのハーモニカの専門書がなかったのかと感じているにちがいない。何より、私自身がこんな本を探していたのだから。
 本書の執筆作業などで肝心のハーモニカの練習がおろそかになってしまったが、クロマチックハーモニカの歴史や背景、楽しみ方を知る前と後では、演奏するときの気持ちも変わってくるだろう。楽器は、音を奏でてなんぼだ。
 クロマチックハーモニカの魅力を知ってもらうため、10月には出版記念コンサートも企画している。本書を執筆したことが私自身の演奏に反映すると信じているし、読者のみなさんの演奏力向上に少しでもお役に立てば幸いである。

1927年(昭和2年)の「クリスマスの催し」――『ホテル百物語』を書いて

富田昭次

 青弓社から『ホテルと日本近代』を出してちょうど10年。振り返れば、筆者の近代史への興味は、いつもホテルが入り口になっていた。昔のホテルの絵はがきやパンフレット、ホテルでの過去の出来事が筆者を日本の近代へと誘ってくれた。昨2012年の『ホテル博物誌』も、新刊『ホテル百物語』も、そんな流れから派生したものといえるだろう。
 ことに史料との出合いが出発点になって、調べることが多かった。
 そうだ、いい機会だから、書き漏らした素材をひとつ、俎上に載せてみよう。
 手元に『クリスマスの催し』と記された小冊子がある。帝国ホテルが1927年(昭和2年)に発行したものだ。この年、帝国ホテルは昼の部と夜の部に分けて「クリスマス祭」を催していて、それぞれ、食事や活動写真、漫談、音楽、舞踊などの企画が用意されていた。ダンスは夜の部に限られているが、午後8時から11時まで「表食堂」で楽しめるようになっていた。
 そして、当時の支配人・犬丸徹三が次のように呼びかけている。
「御子供様方の為めに  一日の御嬉遊
紳士淑女方の為めに  一夜の御清興
当日、独特の御献立、高尚な音楽、面白い余興、誠心こめたサンタクロースの贈物など、何卒御来館の程を御待申上げて居ります」
 また、小冊子の表4には、次の文が記されている。
「待ちにまった/クリスマス/帝国ホテルで遊びませう/父さま 母さま/兄様 姉様/サアご一しょに/まゐりませう」
 こういった文章を読むと、当時の子供たちが喜びで頬を紅潮させるさまが思い浮かび、こちらもその場にいるかのような浮き浮きした気分にさせてくれる。いや、郷愁の思いといったほうがいいだろうか。
 ところで、この史料を見て、ひとつの疑問が湧いた。クリスマスの一夜を楽しむ習慣は、日本ではどのような形で広まり、いつごろから盛んになったのだろうか、と。
 それで、手近の資料で調べてみた。
 石井研堂の『増訂 明治事物起原』(春陽堂、1926年)を見ると、初期のころはキリスト教信者だけが集まって贈り物の交換などをおこなっていたようだが、1888年(明治21年)ごろにはクリスマスカードの輸入が見られ、「三十四五年頃の絵葉書流行も手伝へて一般の趣味ハイカラに赴きクリスマスが自ら本邦年中行事の一となるに至れり」となったという。
 次に『明治ニュース事典 第七巻 明治36年―明治40年』(毎日コミュニケーションズ、1986年)を見ると、1904年(明治37年)12月17日付の「日本新聞」の記事が紹介されている。
「東京市内に於けるクリスマス飾りの率先者たる、京橋銀座二丁目のキリンビール明治屋にては、本年は皇軍戦捷と家屋増築の祝意をかね、例年よりはいっそう花やかに、去る十五日よりクリスマス飾りをなし、毎夜イルミネーションを点じつつあり」
 これらを読むと、明治も後半期を過ぎると、クリスマスは、キリスト教信者に限らず、広く日本人の間に浸透しつつあったことがうかがわれる。
 では、ホテルでは、どんな光景が見られたのだろうか。
『明治ニュース事典 第四巻 明治21年―明治25年』(毎日コミュニケーションズ、1984年)には、1888年に横浜のグランドホテルで開かれたクリスマス夜会の様子を報じる12月11日付の「東京日日新聞」の記事が掲載されていた。
「この夜会に連なる者は男女とも日本の衣類を着用する事となり、男は黒紋付に仙台平の袴、女は裾模様にシッチン、緞子その他思い思いの丸帯を〆め」
 仙台平とは絹地で礼装用の袴、シッチンとは繻子地に金糸・銀糸などで模様を浮き彫りにさせた織物のことである。当時、グランドホテルに出入りしていたのがおもに外国人だったことを考えると、一種の仮装パーティーが催されたということなのか。
 帝国ホテルではどうだったのだろう。詳しい記述ではないが、『帝国ホテルの120年』(帝国ホテル、2010年)には、大正時代のクリスマスの写真とともに、こんなキャプションが記されていた。
「大正時代初期の帝国ホテルでおこなわれていたクリスマス。この催しも、林愛作支配人が取り入れたアイデアで、多くの人たちにホテルに足を運んでいただく工夫であった」
 林愛作は、山中商会のニューヨーク支店に勤め、欧米の上流階級の生活様式に精通していた。なるほど、そういう人物だから、一種の販売促進として、クリスマス・パーティーが導入できたということなのだろう。先の写真は、家族が食事を楽しんでいる光景を映し出している。林支配人の策が見事、功を奏したようだ。
 さて、それから十数年後。1927年「クリスマスの催し」の夜の部では、水谷八重子が出演する舞踊が企画されていて、「三味線」や「長唄」の文字も見えていた。つまり、邦楽が演奏されたわけである。クリスマスに邦楽――こんな和洋折衷の組み合わせを見ると、この時期にはもうしっかりと、日本人らしいクリスマスの楽しみ方ができていたということなのかもしれない。

 なお、昭和2年(1927年)の「クリスマスの催し」は12月26日に開かれた。なぜかといえば、前年の12月25日に大正天皇がこの世を去り、昭和2年の12月26日が諒闇明けで、服喪期間が終わった日だったからだ。