謝 黎『チャイナドレスをまとう女性たち――旗袍にみる中国の近・現代』旗袍をめぐるときめき

 チャイナドレスは中国語で「旗袍」(チーパオ)といいます。
 中国の服飾史で、名称を変えずに時代を超えてきたのは、「旗袍」が唯一の服といえるでしょう。私も、この旗袍のすごさに引かれ、実物の収集や研究を続けてきました。
 しかし、最初に日本にきたときには、観光地でみやげ用に売られているような旗袍にはちっとも興味がありませんでした。私が生まれた時代の中国は、ちょうど民国期の文化や歴史が批判されるときだったのです。そんな環境に育った私にとって、華やかな旗袍の歴史なんて、遠い昔の出来事にすぎなかったのです。
 ところが民国期の旗袍と出会ったときに、私はたちまち魅了されてしまいました。なんて美しいこと! しなやかで見たことのない生地や、エレガントなデザイン。窮屈な感じがしないのに体にフィットして、まるで着ていないみたいな着心地です……。
 それはまるで、現代の旗袍とは別物でした。なんで?……不思議に思いました。そんな旗袍がどのような歴史をもっているのだろう? 誰がどのような社会環境で着ていたのだろう? そこから私の旗袍に対する関心が深まっていったのです。
 私が民国の旗袍と出会い、その虜となり、着用する機会が増えてきてからのことです。日本から中国に帰国したある日のこと、上海の空港に父が迎えに来てくれました。私は上海にふさわしい服と思って、自分が気に入っている1940年代の灰色の麻の上着を着て帰ることにしました。しかし、私を見た父の反応は意外なものでした。「これ何?なんでこんな地味な服を着るの?」と疑問を投げかけられたのです。さらに家に着くと、今度は待っていた母が、「ここにいる間はお願いだから、こんな服を着ないで。近所の人にみられたら、みっともないよ」といわれました。
 私には、両親が何を言っているのかまったく理解できませんでした。この麻服は日本では好評で、それを着ていると、周りのみんながうらやましがってくれます。それなのにどうして両親は、こんなことを言うのでしょうか。
 その疑問を母に向けると、こんなことを話してくれました。「昔、このタイプの麻服は、金持ちの家で雇われていた女中さんが着るものだったのよ。昔の中国服を着るのはかまわないけれど、もっと華やかな服を着てちょうだい」と。
 私は旗袍の歴史や、それを着る人の社会背景について無知な自分を感じるとともに、母がまだ民国社会を引きずっていることを知りました。私たちにとって過去と思われる歴史は、いまの中国社会ではまだ生き続けているのです。 
 私はそのときには、父と母の気持ちを考えて麻服を上海で着ることはあきらめましたが、日本に戻ってきてからは逆に、このような「地味」な服がさらに気になるようになりました。いまの中国社会では忘れ去られようとしている服を通して、民国期の女性が何かを語りかけている気がするのです。
 それからは上海に帰るたびに、図書館で資料を探し、本屋では関わる本を買い、いろいろなところで実物を収集するようになりました。民国期の女性たちはどんな思いでこれらの服を着て、どんな生活を送っていたのだろうか。
 そんな調査を積み重ねていた、ある年の大晦日のことです。両親と年末年始をすごそうと上海に帰ったときにも、いつものとおり、上海図書館で資料を調べていました。中国では大晦日は家族全員で夕食をとるのが伝統です。ですから、夕方の時間帯にはみんなが一斉に移動をするためにタクシーがつかまらなくなってしまいます。
 私もその日は早めに帰ろうと思っていましたが、ついつい調査に熱中して、気がついたときには夕方になってしまいました。図書館のなかはガラガラです。タクシーなど、つかまるはずもない時間帯です。「どうしよう、家に帰れない……」と思ったときに、図書館の職員が大きな声で私の名前を呼んでいました。母が私の行動を予測して、上海図書館まで迎えに行くようにタクシー会社に電話してくれたのです。そのときはさすがに、母の愛と先見に感心しました。おかげで無事に大晦日を家族とすごすことができたのです。
 普段は日本にいることが多い私にとって、上海で調査をすることはほかの日本人と同様に、驚きやドキドキの連続です。でもそんな経験を通してさまざまなことを知り、多くの人と出会えることができるのも、旗袍の魅力のひとつなのでしょうね。これからも、この本をきっかけにして、たくさんの旗袍を好きな方と出会えるといいですね。

喜多村 拓『古本迷宮』本を愛する者がみる現実

 本はゴミだ、という断言が、この本には何回も出てきます。夏目漱石も芥川もゴミだと言い切る尊大さ。芥はゴミですが、芥川や漱石もかと言う方がいるかもしれません。この本を読んで、実に不遜な古本屋だと怒りだす読者もいるでしょう。実際、本がゴミにされる現場を見たことがない人に、この本から現実を直視してもらいたくて書きました。
 ペットブームの陰で、推定で年間五十万匹の動物たちが処分されているように、本は見えないところで大量虐殺されているのです。そのうちのひとりが古本屋なのです。毎週、筆者である古本屋のおやじは、処分を頼まれた純文学系の文庫本、文学全集、美術全集を車で捨てにいきます。芥川だけではない。ゴッホもセザンヌもゴミになります。最終処分場に捨てに行ったのは数年前のこと。リサイクル法が施行されてからは、古紙回収の業者の立て場に持ち込みます。千、二千冊ではきかない店の売れ残りの本も、ドドドドと本の山にぶちまけてきます。その現場を愛書家が見たら、きっと卒倒するにちがいありません。その本の山はブルドーザーで寄せられ、機械で四角い形に圧縮されて、ダンプカーでダンボール箱を作る工場などに運ばれていきます。
 本を愛してこの商売を始めた人にとっては、やがて時代とともに本が粗末にされていくのは見るにしのびない。いまや古本屋は、本が嫌いでなければ勤まらない。本に対して冷酷無惨、残虐なほど本を殺せる人でなければ、やっていけないのが現状になりました。
 この本に登場する北村古書店のおやじは、ホロコーストに遭っている本を救おうと、自分の店を本の駆け込み寺にします。その結果、増殖しつづける本に埋もれて身動きもとれなくなります。こんな本の受難の時代を、ブラックユーモアとして揶揄するだけではない。このまま突き進めば、世の中はどうなってしまうのだろうかという嘆かわしさから、近未来を予言してみました。
 それでも、本が売れないとボヤくのはまだ早いのです。読者がいないと諦めるのもまだ早いのです。これは、地方の一古本屋が四苦八苦しながら、あれやこれやとひとり格闘している涙ぐましい物語でもあります。いまこそ本を救わなければならない。そのために北村は立ち上がった……。
 と言うと、格好が良すぎますが、これは、その暇な古本屋が、暇にまかせて帳場で書いた、古本にまつわるバカげた話なのです。