この本は、シャーロック・ホームズ物語をまだ読んだことがないか、あるいは子どものころ読んだことはあるがその後はひもといたことがないという方々を対象に、シャーロック・ホームズの世界のおもしろさと奥の深さを少しでも感じ取ってほしいという思いから書いたものである。
作者のコナン・ドイルはみずからの本領は歴史小説にありと考えていたが、皮肉なことに生活のために書きはじめたシャーロック・ホームズ物語の成功によって作家としての地位が固まり、シャーロック・ホームズの創造者として名を残すことになった。いったいなぜこのようにドイル本人にとって不本意なことになってしまったのだろう。
いろいろな見方はできるだろうが、一つには、ドイルが自分の本命と思って取り組んだ歴史小説には力が入りすぎたのではないだろうか。一篇の歴史小説を書くについても時代考証や関連資料の読破など、ドイルの事前準備は徹底したものだったらしい。その結果、作品は正確かつ精緻ではあっても、息の抜けない重苦しいものになってしまったのではないだろうか。
それにひきかえシャーロック・ホームズ物語のほうは、ドイルがパンを得るための副業として書いたものであるから、自分の力量を世間に問おうなどと肩ひじを張る必要もなく、ただひたすら売れること、読者に受けることを考えて自由に書いた。しかし作家としてのプライドと技能まで捨てたわけではないから、そこにはストーリー・テラーとしてのドイルの天分が存分に発揮され、続々と傑作が生まれたのだろう。
気楽に書いたのはいいが、困ったことに、このシャーロック・ホームズ物語はあちこちにつじつまの合わないところがある。それらの矛盾点がいまもなおシャーロッキアンのあいだで議論の種になっており、ああでもないこうでもないとシャーロッキアンを悩ませ、かつ楽しませている。ドイルは『花婿失跡事件』のなかでホームズに「リアリズムの効果を出すためには、ある程度の取捨選択が必要なんだ」といわせているが、壮大かつ精緻に組み立てられたドイルの歴史小説よりは、シャーロック・ホームズ物語のほうが、少々つじつまは合っていなくても、人生の真実をいきいきと捉えているのかもしれない。
副業で書いたとはいいながら、博覧強記といわれたドイルの歴史、古典、『聖書』などに関する蘊蓄は物語の随所にきらめいている。彼のディレッタントぶりは主人公のホームズそのままである。その知的好奇心の広さには目を見張るものがあり、本書の第1部「シャーロッキアンの気ままな世界史漫歩」で取り上げたテーマにしても、ホームズ物語に出てくる歴史上の人物・事物のほんの一部にすぎない。たとえば歴史上の人物で、第1部のテーマとして取り上げたのは31人だが、ホームズ物語に登場または関係する歴史上の人物は全部で220人を下らない。
いまや世の中は情報の洪水である。書物以外にも各種のメディアに取り囲まれており、とりつくシマが何かないと、情報の波にのまれてしまいそうな感じさえするが、シャーロック・ホームズ物語が世界を眺めるための一つの視点を与えてくれることは確かである。比較の基準になる物語の背景が19世紀末というのがまたいい。百年という単位の物差しで現在を眺めるということは、よきにつけあしきにつけ、現状の問題点と今後あるべき姿が、ホームズの虫眼鏡で見るように、かなりはっきりと見えてくる。
ところで、シャーロッキアンの楽しみ方のなかに「ザ・ゲーム」という因果なお遊びがある。彼らが「聖典」と呼んでいる60篇からなるホームズ物語は、ドイルが40年間にわたって書きつづけてきたものだから、ドイルも人間である以上、なかには記憶違いや勘違い、あるいは誤植など印刷上のミスもないとはいえない。いや必ずあるはずである。にもかかわらず「ザ・ゲーム」のルールというのは、ホームズやワトソンなど登場人物をすべて実在の人物と信じて疑わないこと、物語相互間あるいは物語の記述と歴史的事実とのあいだに一見矛盾するようなところがあっても「聖典に誤謬なし」を原則とすること、そしてそこには何らかの合理的な理由があるはずと考え、これを追究することである。本書の第2部「シャーロック・ホームズのタイムマシン」はその矛盾追究の一例である。ご一読賜れば幸いである。(了)
カテゴリー: 原稿の余白に
著者が執筆の苦労や刊行後の反響、「あとがき」ではつづらなかった思いを書く「あとがきのあとがき」。