誰だってあるとき、「どうして私は勉強しなければならないのだろう?」「なぜ私はこの世にいるのだろう?」「自分は何なのだろう?」などという問いに、前触れもなく直撃されたことがあるはず。
あまりにも根源的なそんな問いに、もちろん絶対確実な答えが存在するはずがない。人は自分なりにさまざまな答えを出したり、あるいは問いを忘れたりすることで、生きていく。答えが見つからなかったり、問いを忘れられない人間は、頭がおかしくなったり、自殺したり、哲学者になったりする。
青弓社から発売されている私の音楽の本は、みな「クラシック音楽とは何なのだろう? オペラとは何なのだろう?」という根本的な問いから生まれた。この「何なのだろう?」という疑問が「オペラは1600年ごろイタリアで…」なんていう答えを期待していないのは、むろんのことだ。
べつに、そんな問いをみずからに向けてみる必要なんて、さらさらない。ただ音楽やオペラを楽しんでみたいだけなら。実際、世界中の多くの人は、こんな問いに悩んだりはしていない。
だが、幸か不幸か、私は音楽をたんに楽しむことができない。音楽の底によどんだ不気味な力が、私の感覚や頭をじくじくと刺激する。私はノー天気に音楽を聴いてヘラヘラしていられない性分なのだ。
あるとき私は、ひじょうに切実に「クラシック音楽とは、オペラとは何なのか」を知りたいと思った。それまでずっとクラシック音楽やオペラを聴いてきて、そんな問いが頭に浮かんだことがなかったのに。この問いに遭遇してみると、これこそは「誰それの演奏がすばらしい」だの「この曲はこういう状況で作曲された」だの「今度何々というフェスティヴァルが始まる」なんていう些末な情報よりも、はるかに大切なことに思えた。
残念ながら、こうした問いに一生懸命答えようとする本はほとんど見つからなかった。見つかっても、その内容に私は納得できなかった。そういうわけで、私は、いま試行錯誤しているのである。といっても、この試行錯誤は、けっして百パーセントしんどい仕事ではない。その途中に楽しい発見もあれば、人間との出会いもある。そういうわけで、私は大まじめに、しかし楽しく、本を作っているのである。
私が「クラシック音楽とは何なのか」という問いを抱えてしまった理由のひとつは、私が必ずしも高確率でコンサートやCDに満足できなかったことだ。「どうして、みんなはこんな演奏で喜んでいるのだろう?」「評論家は本当はわかっていないのでは?」という疑いが強くなった。そうして、私自身が評論なんぞも書く身になってみると、クラシック音楽業界というのは、とてつもなくレベルの低い世界なのだということがわかった。
録音技師は、作品のことをよく知らないし、コンサートにろくに行かない。評論家は、来日公演の限られた演奏だけで演奏家の評価をしている。雑誌は、メーカーやマネージメント会社と共犯関係にあって、都合のいい記事ばかり載せている。みんな、なあなあで仕事している。本当にあきれ果ててしまうようなひどさだ。要するに、誰も聴き手のことなど考えていないのだ。お金を払ってくれる聴衆がいなければ、クラシック音楽もオペラも存続できないはずなのに。
この現代社会のなかで、さまざまな隠蔽や嘘はあるにしても、商品は批評の対象となる運命にある。なかには、一部の自動車評論家だとか、雑誌だとか、相当厳しく商品を評価している人たちもいる。なのに、商品としてのクラシック音楽やオペラを正直に評価しようとする人はごく限られる。そういう点では、私がやっていることは、一種の消費者運動なのである。たぶん、メーカーの人などは私のことをよく思っていないだろうが、人からお金を取る以上、否定的な評価を受ける可能性があるのは当たり前のことだ。それがイヤなら、すべてタダにしてごらんなさい。演奏家も何も、みんなボランティアになりなさい。いいや、それ以上に、人を納得させるだけの音楽を提供してみなさい。
イヤなことに、すべてが、ただおのれが存続するためにだけ働いているように見える。けれども、すべては存続しなければならないのか? そんなことはない。クラシック音楽やオペラというジャンルそのものでさえ、無理に生かす必要はない。そう考えたとき、逆に、音楽の貴重さ、ありがたさがいっそう輝くのである。(了)
カテゴリー: 原稿の余白に
著者が執筆の苦労や刊行後の反響、「あとがき」ではつづらなかった思いを書く「あとがきのあとがき」。