暴力のなかで生きた人・中村哲に思いをはせながら――『体罰・暴力・いじめ――スポーツと学校の社会哲学』を書いて

松田太希

 昨夜、出来上がった本書が手元に届いた。早速ページを繰ってみる。どういうわけか、自分が書いた書籍だとはうまく実感できなかった。夜、一人きりの家だったからかもしれない。今後、何らかの反響やコメントなどが届けば、きっと実感できるのだろう。
 当たり前のことだが、こういう本を書いたということは、体罰やいじめに関する研究者として見なされることになる。つまりこの本は、ある意味では、私の名刺である。しかし、そんな名刺をいったい誰が喜んで受け取るだろうか。多くの場合、警戒心を抱かれてしまうだろう。決して明るい話題ではないので、みんな、やはり難しい顔になってしまうのではないだろうか。
 ただ、本書でも繰り返し強調していることだが、私は、体罰やいじめを一刀両断に評価するのではなく、それらを徹底的に考え抜くために書いた。それは私の思考の可視化であり、それによる読者の思考の触発である。書籍は学術論文とは違い、一般の方にも届きやすい。困っている方々や、問題意識を共有できる人たちとの出会いを待ちたいと思う。
 本書では、「暴力をなくしたい」という直接的な表現を努めて控えたが、このコラムでは、その思いが思考の根底に強烈にうごめいていることをはっきりと表明しておきたい。
 とはいえ、このことを表明するのはずいぶん躊躇した。なぜなら、ある意味では素朴すぎるその願いが、場合によっては暴力現象の分析・考察を妨げ、あるいは、自分自身の暴力性を高める可能性があることを自覚していたからである。リード文に村上春樹の一文を引用したことには、その意味を込めている。しかし、結局はこうして表明したわけだが、その動機にはある日本人医師の悲劇的な死がある。中村哲の死である。
 私の実家はペシャワール会の会員だったので(現在は諸事情により会費を払っていない)、哲先生(彼の小柄な体格と人柄が私にこう呼ばせる)の存在は、昔から心の中にあった。その、アフガニスタンに身を捧げた人が、凶弾に倒れた。誤報か何かだろうと思った。しかし、そうではなかった。信じられなかった。そのとき、私は坂本龍一の「ZERO LANDMINE」を聴いていた。哲先生が建設した学校では、子どもたちが地雷の対処の仕方について学んでいる。坂本龍一は、「ZERO LANDMINE」の付録に、「人が殺されることのない世界を望むことは、果たして青くさい妄想なのだろうか?(略)全ては「希望する」ことから始まるのではないか?」と記している。そして、哲先生は、アフガニスタンの大旱魃とアメリカ軍ヘリからの機銃掃射というすさまじい暴力的状況のなかで、「武器ではなく命の水」を求め、現地の人々と日々、格闘していた。響き合う非暴力への願い。込み上げてくるものがあった。
 あるジャーナリストは、その記事で「哲先生が死に際して猛烈に悔しがっただろう」という趣旨の文章を記していたが、はたして本当にそうだろうか。「誰をも敵と見なさない」。哲先生は、あるインタビューでそう答えている。哲先生は、おそらく、静かにその死を受け入れたのではないか。「このときがきたのか」と。彼の『天、共に在り――アフガニスタン三十年の闘い』(NHK出版、2013年)を読めば、かの地に対する哲先生の深い慈悲があふれていることがわかる。悲しみは消えないが、哲先生はその死によって形而上的な存在になり、いつまでも天で私たちとともにあるだろう。ご遺族には不謹慎な言い方になってしまうが、凶弾に倒れたというその悲劇が、皮肉にも、その神話性を彩っているように感じる(こういう演出的解釈を哲先生は嫌うだろうが)。
 哲先生の死は、「暴力をなくしたい」という思いを、ここで私に表明させた。その思いは、長く続いた暴力研究のなかで、目に見える形で浮上することを許されていなかった。理由は既に述べたとおりである。しかし、暴力の解決のためになされない暴力研究などありえない。解決を目指さないのであれば、暴力研究など必要ではない。暴力の現実を、そのまま放っておけばいいのだから。
 暴力を解決しなければならない理由の一つは、それが命に関わるからである。体罰やいじめによって、既に若い命が失われている。ただし、私の実感では、「命の大切さ」という言い方が現代ではどうも響きにくい。基本的な安全が確保され、命があることが、ある意味ではきわめて自明のことになっているからだろう。それはすばらしいことではある。私たちがその尊さを自覚的に理解している限りで。
 形而上的・神話的存在となった哲先生は、日々の暮らしや命の大切さへの自覚を、私たちに促している。しかし、スポーツや学校で命が失われているという日本の現実。日々の暮らしの上に立つ、ある意味では過剰なものである文化や教育の現場で命が奪われている現実。この現実を乗り越えていくための神話が、私たちにはあるのか。
 キリスト教神学者の滝沢克己は『競技・芸術・人生』(内田老鶴圃、1969年)のなかで、スポーツの意味を日常生活の雑多な制約から解き放たれる点に認めている(滝沢は、『天、共に在り』で哲先生が参照しているカール・バルトに師事していた)。滝沢は日本のスポーツ哲学に大きな影響を及ぼした人だが、彼のこうした指摘を簡単に引用できなくなっているのが、現代スポーツの状況だろう。例えば、スポーツ推薦制度。授業料免除などの日常生活に恩恵をもたらすその制度は過剰な競争を駆り立て、滝沢がスポーツに見ていたような爽やかさを奪っているようにも見える。
 本書は、暴力を乗り越えていくための神話ではもちろんなく、神話、あるいは物語が要請されるような現実、そして、その現実を構成している人間存在のむごさを描き出している。しかし、なぜ神話・物語は要請されるのか。暴力の現実を徹底的に分析できたとしても、暴力の必然性が見えてくるだけ、と言えば、それだけだからである。
 本書でも指摘したが、どこまでいっても暴力の可能性は残る。それが現実なのである。だから、その厳しい現実に埋没しないために、私たちは神話・物語を求めるのだろう。しかし、価値観が多様化した現代で、私たちを包摂するような神話・物語は可能なのだろうか。もっとも、それは歴史だけが知るところなのかもしれない。私たちにできるのは、この生=時間を、日々、充実させていくことだけだろう。哲先生とアフガニスタンの人々が、護岸の石を一つ一つ積んでいくように。その結果として、河川がかの地の人々の暮らしを潤すように、私たちの日々の積み重ねが神話・物語へと昇華し、過酷な現実に希望という潤いを与えるように。

 

『日本人の疎開体験をめぐる文化史的研究』を『疎開体験の戦後文化史――帰ラレマセン、勝ツマデハ』へ

李承俊(イ・スンジュン)

 本書は、名古屋大学大学院文学研究科に提出した博士論文をもとに、一般書として書き直したものです。博士論文のタイトルは、『日本人の疎開体験をめぐる文化史的研究』です。これが、『疎開体験の戦後文化史――帰ラレマセン、勝ツマデハ』になったわけですが、大幅な改訂や修正をおこないました。特に、外国人の不自然な日本語を数回にわたってチェックしてくださった出版社の方々に、改めて感謝を申し上げます。
 本書に関する感想としてよく耳にするのは、「新しい」という言葉です。疎開に対するとらえ方が新しい、論じているテキストの選定が新しい、疎開体験の語りを戦後という枠内で読み解いていくという試みが新しい……など。研究のレベルでいえば、先行研究に対するリスペクトが見えない、ともなるでしょう。そのような声は謹んで拝聴したいと思います。
 もし本書が新しいとしたら、それは2019年現在、疎開体験者の声に耳を傾ける人々が増えることを願ってのことです。いままでの疎開に関する研究や体験者のさまざまな声は、津々浦々に届いて読み手・聴き手に何らかの感化を巻き起こしてきたと思います。現在、戦時期の体験としてもっともよく語られるのが、疎開体験です。一方で、いままでと同じ言い方、論じ方で同じ内容を繰り返すだけでより多くの方々に疎開体験について考えてもらうことができるかどうか、自問自答せずにはいられませんでした。そこで私は、人文学研究という領域では諸刃の剣である「新しさ」というものを、あえて、しかし徹底して追求していくことにしました。その成果である博士論文は、そもそも一般書になる運命を定められていたかもしれません。
「新しさ」を追求した結果ともなるでしょうか、本書には終章がありません。全体の議論をまとめて、できなかった点を反省し、今後の課題を提示するような部分がない、といっていいと思います。実をいうと、あえて書きませんでした。もしより学術的な方向性をもつような本だったら、終章にあたる部分は必要だったと思います。たとえば、戦時期の疎開体験が戦後に語られる際に主に3つの位相を呈する、第1は戦争体験とする語り、第2は戦争体験としない語り、第3は「田舎と都会」の出合いとしての語り、という具合になるでしょうか。こうまとめてしまうと、なぜか3つの位相がそれぞれ独立して存在しているような印象を読者に与えてしまうのではないか、ということを思わざるをえませんでした。
 本書は、まとめずに終えた、といえます。博士論文では以上のように整理し、それが現代社会の戦争という問題とどのように接続するのか、今後の展望のようなことを述べました。対して本書は、第9章「疎開を読み替える――戦争体験、〈田舎と都会〉、そして坂上弘」で終わります。ここでは、本書のそれまでの議論を取り入れてまとめていくかのようであって、第2部「戦争を体験しない疎開――「内向の世代」・黒井千次・高井有一」で取り上げた「内向の世代」の坂上弘をいきなり召喚します。1970年前後の高度経済成長期というコンテキストを下敷きに、坂上が自らの体験に基づいて書いた疎開体験の表象をどのように読み取ることができるのかに関して述べて終わります。
 第9章の後に終章を入れなかったのは、疎開というキーワードが、どこまで広がっていき、どの領域にまで接ぎ木されていくのかという「実験」のプロセスと結果を、より鮮やかに感じ取ってもらいたいという、私の勝手な願望によります。たくさんの読者に、一般書として本書を読んだことをきっかけに疎開をめぐって自由に想像の翼を広げてもらいたかったのです。終章の空白は、読者に向けて仕組まれた余白です。

 これらに対する評価も批判も、本書を手に取ってくださったみなさまの自由です。ぜひ聞かせてください。本書の扉を開くことで、疎開ということに関して改めて考えてみるという内向きの体験が生じ、それを機におじいちゃん・おばあちゃんの疎開体験はどのようなものだったのか、それがいまどのように語られているのか、といったような興味が湧くという外向きの体験が生じるのであれば、本書の役割は果たされたと思います。