「ノンフィクション」とは、「フィクション以外の文学」という意味である。換言すれば「記録文学」ということだろう。
現場で体験した客観的な事実を正確に筆録する「ルポルタージュ」。旅の見聞や感想などを記した「紀行文」。個人の生涯の行跡を綴った「伝記」。毎日の出来事や感想を記録する「日記」……など、あまりにも広い分野を総称して呼んでいる。
そんな「ノンフィクション」の取材術・執筆術を、第一線で活躍されるノンフィクション作家の方々に訊いて歩いたのが、この『10人のノンフィクション術』である。
十人いれば十通りのノンフィクションのスタンスがあり、その取り組み方は、それぞれの生き方にも似ていた。つまり「ノンフィクションの書き方」は、「ノンフィクション作家の生き方」だと、ぼんやりと思っている。
本書では、それぞれの書き手の作品から例文を引用し、インタビューでの言葉とシンクロさせての解説を試みた。また、これだけの著名ノンフィクション作家のノウハウが、一冊に納まっているのも珍しいのではないか。とりわけ、フィクションではないノンフィクションという広い分野で、みずからの身の置きどころを選択している方々の言葉には、取材活動という「実人生」を宿している迫力があった。
もちろん、ノンフィクションの取材術や執筆術は大切なことなのだが、ぼくがいちばん興味をもったのは、その人が、どのようなものに衝き動かされてノンフィクションを書くようになったか、である。この衝き動かされる「なにか」こそが、ノンフィクションを書くカギのような気がしてならなかった。
取材は緊張した。なにしろ、インタビューのプロ中のプロにインタビューするのだから……。その反面、楽しかった。本棚でしか見たことがなかった作家が目の前にいたからだ。
佐野眞一さん──「時代」を自分の言葉で後世に伝える──。
久田恵さん──メディアが落としていった事実を拾い集めて──。
鎌田慧さん──頑固なまでに志を貫くルポルタージュ──。
北島行徳さん──登場人物に愛されるように描く──。
足立倫行さん──人を描いてテーマを語る?現場報告の手法?──。
柳原和子さん──インタビューする相手を丸ごと好きになる──。
大崎善生さん──感情に支えられた心優しきノンフィクション──。
高山文彦さん──諦めずにいれば、書くチャンスは巡ってくる──。
後藤正治さん──ライターになるのではなく、ノンフィクションを書く──。
櫻井よしこさん──知りたい事実を解き明かすために書いていく──。
もちろん、「この十人」に出会うまで何人もの方々に断られた。「どこの誰だかわからぬやつ」に、自分の蓄積してきた「ノンフィクション術」を本にされることに抵抗を覚えても仕方がないことだ。けれども、というか、だからこそ、「この十人」に出会えた。「どこの誰だかわからぬやつ」に時間をさいてくれたノンフィクション作家は、かつてみずからも「どこの誰だかわからぬやつ」だったのかもしれない……、となんとなく思っている。それゆえ本書は、これからノンフィクションの書き手をめざす方々にとって、これ以上ない「十人の言霊」が詰まった書籍である。
本書がノンフィクション作家志願者のみなさまにとり、技術的な実用書となることはもちろん、その道程で迷ったときの指南書となれば……、と思う。また、もし「この本に登場してくれた十人のノンフィクション作家は、どんな人たちだった?」と問われたら、「大切な自分の想いの表現を諦めなかった人たちだったよ」と、答えてみたいと思っている──。
山本善行『古本泣き笑い日記』一書畏るべし
まさか自分が古本日記を書くことになるとは思わなかった。ただ、ひとの読む本、買う本が気になるほうで、ひとの日記を読むのはずっと好きだった。
たとえば、殿山泰司の『JAMJAM日記』や、小林信彦『1960年代日記』は何回も読んでいるし、木佐木勝『木佐木日記』は、図書新聞社版ではあるが、おもしろくておもしろくて読み終えるのがもったいないと感じたぐらいだ。現代史出版会の『木佐木日記』全四巻本は値段の問題でまだ持ってないが、ぜひ揃えたいと思う。書いていると欲しくなって、安く出ていないかネットで見てみたが、やはり三、四万円している。どこかの出版社、文庫にしてくれるとありがたいが。迂闊なひとは、そんなにいい本なら、四万円でも五万円でも買えばいいではないか、と思うかもしれないが、値打ちのある本はこれだけでなくいっぱいあるわけで、多少高くても、なんてのんきなことを言ってては、即破産まちがいない。
もちろん、経済状態の問題もある。わたしのところなんか、妻に、「必要なものでも買わないのが本当の節約だ」と言い聞かせているぐらい厳しい状況で、そんななかでの古本買いなのだ。だから、百円なら買うが三百円では買わないといったような、神経をすり減らすような、まるで、なにかの修行みたいになるのである。
自分で古本日記を書くようになり、古本屋で、これは日記に書けるぞ、とか思うのは、いいことなのかどうか。また、古本屋の店先に座ってごそごそ均一本を探していると、店主がそれを見てにやにや笑っていたりする。古本まつりの会場で知人に会うと、「百円均一どうでした」なんて聞かれる。「どうせわたしは安い本専門ですよ」と開き直るしかないのだろうか。
こんなわたしだけれど、はじめからこんなんではなかった。
わたしの周りに本が集まりだして、いつのまにか、二十五年ぐらいになるだろうか。思い出せば、はじめのころは私もかわいかった。新刊本屋でも売っているような文庫を古本屋で五十円ぐらいで探し出しては、友人に自慢していたのだから。
大学は出たけれど、就職せずに、京都三条のやっと首が出せるような窓しかないアパートに住んで、せっせと本を読んでいた。お金がなくなると、アルバイト。ライオンの歯磨きやシャンプーを店頭で冗談いいながら売っていた。実演だといって、その場で頭にシャンプーをかけ洗いだしたときには、さすがに店長に注意された。
時間だけがたっぷりとあった。いまから考えれば図書館を利用すればよかったとも思うが、当時からもう本そのものへの興味があったのだろう、お金はなくても、買って自分のものにして繰り返し読みたかったのだ。
仕事のほうは、そのあと友人の学習塾を手伝ったりしていたが、その友人が突然、「塾なんかやっててはあかん。これからの教育はシュタイナーや」という言葉を残して塾をやめると言いだした。いまから二十年ほど前の話だ。わたしはそのあとを引き継いでいまも続けているのだが、なんとか食べてこれたのは、そのシュタイナーのおかげだと思っている。仕事が夕方からだということもあり、昼間はせっせと古本屋めぐりの生活というのも、気に入っている。
書いてきて気がついた。わたしという現象は、はじめからあまり変わっていない、ということに。でも、自分でも不思議なのは、本への思いが、多少の波はあるものの、昔ながらの熱を持ちつづけているということだ。ますますのめり込んでいるのかも。古本が絡まないと、力が出ない。そこに本があれば、そこまで行けるのである。
気がつけば古本屋の前の均一台をながめている。買えるときはまだいいのだけれど、たいていはただ見るだけの繰り返しである。
近ごろよく言われるのは、「またこの前、古本見てたな、なんか恐くてよう声かけへんかったわ」。そうでしょう、そうでしょう、そんなときのわたしはきっと哀しそうな背中を見せているのでは、と思う。なにかから、逃げているのだ、と感じるときもある。
そんなわたしではあるが、「一書畏るべし」という気持ちで本を読みたいと思うし、自分の本についても、わたしなりの魂は入れたつもりである。