ギモン8:何を残すの?

難波祐子(なんば・さちこ)
(キュレーター。弘前れんが倉庫美術館アジャンクト・キュレーター。東京藝術大学キュレーション教育研究センター特任准教授。東京都現代美術館を経て、国内外での展覧会企画に関わる。著書に『現代美術キュレーター・ハンドブック』『現代美術キュレーターという仕事』〔ともに青弓社〕など。企画した主な展覧会に「坂本龍一:seeing sound, hearing time」〔2021, M WOODS Museum | 木木美術館、北京〕など)

作品のオリジナルを保存・展示するとは?

 前回のギモン7では、主に作品のコレクションを擁する美術館について、その目的や特徴などをいくつかの事例を踏まえながら見てきた。作品の展示がなければ、展覧会活動や美術館活動は成り立たないことも、これまでのギモンで見てきたとおりだ。今回のギモンでは、ギモン7の最後に少し触れた、形が残らない作品、残りにくい作品の保存と展示について、もう少しさまざまな視点から考えてみたい。
 そもそも、美術館でコレクションされる作品は、絵画であれ彫刻であれ、良好な保管環境を用意しながら、定期的に点検し、何か不具合があれば、修復などの処置をおこなうのが定石だ。美術館にある作品は、「できるかぎりオリジナルの状態で残すもの」というのが大前提にある。そうすることで、一度展示した作品も、再度展示したり、調査研究のために活用されたり、別の美術館などの展覧会のために貸し出せるようになる。
 ここで作品展示と保存のあり方について考えるうえで、札幌芸術の森野外美術館の常設作品の一つである、砂澤ビッキの『四つの風』(1986年)を紹介したい。砂澤は北海道出身の戦後日本の彫刻界を代表する作家の一人であり、自然と交感しながら木と向き合い、ダイナミックな木彫作品を数多く制作したことで知られている。『四つの風』は、屋外にそびえ立つ高さ5.4メートルの巨大な四本の柱状の木彫で構成されているが、1986年に設置されてから、長い年月をかけて一本ずつ倒壊していき、三本がこれまで倒れて、2022年現在は最後の一本を残すだけになっている。だが、これは美術館がメンテナンスを怠っていたからではなく、作家本人の遺志に沿って、あえて手を加えることなく経年による変化も含めてそのままの形で残しているものである。砂澤は、『四つの風』について次のように述べている。
「生きているものが衰退し、崩壊してゆくのは至極自然である。それをさらに再構成してゆく。自然は、ここに立った作品に、風雪という名の鑿(のみ)を加えてゆくはずである(1)」。このように砂澤にとっては、「風雪という名の鑿」によって生じる現象も含めてすべてが作品を形成する要素であり、美術館としては作家本人が考える「オリジナル」に忠実に沿って作品を保存・展示していることになる。実際、『四つの風』は、キツツキが巣を作り、キノコが生え、倒れた柱の周りには若い木が生い茂って常に新しい風景を生み出している。『四つの風』の事例は、美術作品にとって、何がオリジナルなのか、またどのように残していくことが作家の意図に沿っているのか、ということを考えさせる。

砂澤ビッキ《四つの風》(1986年)、アカエゾマツ
札幌芸術の森野外美術館
(2022年7月撮影)
photo: 吉崎元章

メディアアート作品のオリジナルとは?

 近年増加傾向にある映像作品やメディアアート作品などは、機材や記録媒体などの変化が目まぐるしく、オリジナルの形で残すことが難しくなっていて、多くの議論がなされている(2)。具体的に言えば、8ミリや16ミリフィルムの作品は、フィルムが製造中止になっていたり、映写機自体が希少である。ブラウン管テレビを使う作品も、テレビやそのパーツの確保のために美術館関係者や作家自身が奔走するという話もよく耳にする。映像ならば、フィルム作品をDVDなどデジタルデータに変換すればいい、と思われるかもしれないが、イギリス人アーティストのタシタ・ディーンのように、フィルムを切り貼りしながらつなぎ合わせることで作品を制作して、映写機自体もインスタレーションの一部として見せる場合などもあり、ことはそう単純ではない。さらに言えば、デジタルデータであっても、マスターデータをハードディスクに保存する場合、ハードディスク自体の耐用年数も使用頻度にもよるが、約5年と言われていて、永遠ではない。またコンピューターでプログラミングされたデータを使って展示する作品の場合、使用するコンピューターのOSがアップデートされると、プログラムを書き換える必要が生じてくる。
 韓国出身のビデオ・アーティストであるナム・ジュン・パイクの場合は、ブラウン管テレビの特徴を利用した作品や、数十台、数百台ものテレビを彫刻的に積み上げて構成する作品などで知られているが、ブラウン管テレビが生産中止になり、世界中の美術館関係者の頭を悩ませている。例えば、『マグネットTV』(1965年)は、ブラウン管テレビの上に強力な磁石を置くことで、磁力でモニタの映像がゆがんで映し出され、観客が磁石を動かすとそれに合わせて映像も変化するという作品だ。テレビが映し出す情報(映像)を観客がコントロールすることで、人々が普段、知らず知らずのうちにテレビから発せられる情報によって支配されている社会の構図が、逆説的に浮かび上がる。このブラウン管モニタのかわりに例えば液晶ディスプレイを用いても、同じ効果を物理的に再現することはできない。また仮に磁力によって変化する映像をコンピューターでプログラミングして擬似的に再現してみせたとしても、それは作家の意図に沿うことにはならないだろう。
 パイク作品のなかでも最大規模である、韓国の国立現代美術館所蔵の『The More, The Better』(1988年)は、1003台のテレビをバベルの塔のように積み上げた高さ18.5メートルの巨大な作品だが、モニタの交換など補修を繰り返したのち、2018年に火災発生の恐れがあるなど安全上の問題から作動を停止した。同作品は、1988年のソウルオリンピックに合わせて制作され、発表時には衛星生中継で世界各国の放送局を結んで映像を映し出した。次々と映し出されるその圧倒的な映像が、インターネット社会の到来を予感させる、情報化時代を象徴するパイクの代表作だ(3)。この作品については、その保存・修復方法が早くから議論されていた(4)が、その後国内外の専門家が調査と協議を重ねて、なるべく原型をとどめる形になるように努める、という方向性で2019年から三年がかりで修復され、22年に6カ月間の試運転を経て、公開されることになった(5)。修復では、交換できるパーツは中古品を購入して交換され、一部、タワー上部のモニタについては、液晶ディスプレイが用いられた(6)。
 オランダでメディアアートのアーカイブについて研究・実践してきたガビー・ヴェイヤースは、メディアアートの保存・修復に関する倫理と実践についてまとめた論考のなかで、いくつか重要な指摘をしている(7)。ヴェイヤースが述べているように、メディアアート作品も、ほかの美術作品と同様にそれが本質的には唯一無二のオリジナルであることには変わりないが、ビデオ作品をはじめとするメディアアートの場合、その多くがデータをコピーすることが可能であり、また再生機も作家による改変を加えた例外的なものを除き、量産されたものが多いので、物質的に「唯一無二のオリジナル」という考え方が当てはまりにくい。さらに、日進月歩のテクノロジーを用いるメディアアート作品は、そのテクノロジーの特性ゆえに絵画や彫刻などと比べると短命に終わってしまうという脆弱性をはらんでいる。メディアアート作品の保存・修復については、1990年代の終わり頃から盛んに議論されていて、基本的には「なんとしてでもオリジナルの技術を追求する」派と、「改造・アップデートした技術を用いる」派の2つのアプローチに大別されている。ヴェイヤースは、その双方のアプローチはどちらも有効であるとしながら、適切なアプローチは、その両極の間にあるのではないかと述べている。そしてメディアアート作品においても、ほかの美術作品の保存・修復の場合と同様に、「物理的、美学的、歴史的」な観点から、いかに作家の意図を汲みつつ、作品のオリジナルの形を尊重していくかという倫理上の問題を考えていくかが火急の重要な課題であると、具体的な事例を交えて論じている。ここでは個々の事例は紹介しないが、簡単にまとめると、次のような視点が求められると言える。
 現存する作品を成立させる機材や記録媒体などが使えなくなった場合、既存の作品データを別の媒体にコピーするだけでいいのか、それとも再生機を含めた作品の見た目や、その機材を使用すること自体が作品が成立するうえで重要なのか、そうでないのか。代替機器や手段を使えば、再生方法は異なっても、見た目だけはそのままにすればいいのか、あるいは見た目は遜色なくとも、そうした代替手段による展示は作品の意味を変えてしまうので一切不可として、作品の寿命とするのか。もしくは作品のコンセプトはそのままで全く新しく別の形で作品を作り直すのか、など。ここで先のパイクの『The More, The Better』についてあらためて考えてみると、ここでのブラウン管モニタの使われ方は、『マグネットTV』とは少し異なり、その彫刻的な外観や、パイクがこの作品を発表していた1980年代の時代精神や社会的文脈などを伝えることがその大きな役割となる。よってブラウン管テレビは、作品のコンセプト的にも美的にも重要な意味をもっていて、できるかぎり維持していくことが望ましいと言える。一方で、その時代時代の最先端のテクノロジーに関心を抱いて作品に積極的に取り入れていたパイクの作品制作のあり方に鑑みると、もしパイクが存命であれば、迷わず新たなテクノロジーを導入するであろうことを、パイクを知る技術者や美術批評家が口をそろえて証言している(8)。だが、液晶ディスプレイは、ブラウン管モニタよりもフラットな画面で形状が異なり、ブラウン管モニタほど画面が明るくないので、すべてを液晶ディスプレイにしてしまうと、作品の生き生きとした見え方が変わってきてしまう。よって『The More, The Better』の修復に液晶ディスプレイを最低限の数で一部用いる、という解決策は、まさにこうした作品の背後にある作家の意図や美的・技術的な観点などの倫理をキュレーターやコンサバター(保存修復家)たちが総合的に吟味した結果であると言えるだろう。このように作品をその作品として成立させるために必要な条件については、できるかぎり作家本人や作家の制作に関わる関係者と事前によく相談し、どのように再現展示するかなどについても、記録をとっておくことが必要になる。こうした展示や保存に関する作家との確認プロセスの重要性は、近年、増加しているパフォーマンス作品の収集と展示でも同じことが当てはまる。

パフォーマンス作品の収集と展示

 ギモン1では、1960年代から70年代にかけて、従来のホワイト・キューブの美術館の外に飛び出した作品についていくつか見てきた。これらは、もともと美術館での展示を想定していない作品であり、その多くは、当時、「モノとして市場で取引される作品」という商業主義的な考え方そのものに反旗を翻すものでもあった。なかでも、形に残らないイベントやハプニング、パフォーマンスなどの作品については、長年、美術館で収蔵する際には、それらを記録した写真や映像、チラシや案内状などを対象とするか、コンセプチュアル・アート作品のように指示書が残されるだけで、パフォーマンスそのものを収蔵する、ということはなかった。だが、近年、ギモン2で紹介した2019年のヴェネチア・ビエンナーレ、リトアニア館の『Sun & Sea(Marine)』のように、パフォーマンスを展覧会の枠組みのなかで展示する試みも増えていて、パフォーマンスが美術館のコレクションに加わる、といったケースも00年代から見られるようになった。
 これには、テートで長年保存・修復を担当してきたピップ・ローレンソンが指摘するように、1960年代や70年代に作家自身が演者・実行者であることが大半だったパフォーマンス作品が、90年代頃から他者によって演じられるスタイルになったものが増加し、パフォーマンス作品のあり方が変容していることが、大きな一因になっていると言えるだろう(9)。従来のように作家自身が演者であり、そのことが作品の成立にとって不可欠であるパフォーマンス作品であれば、その作家が不在の場合、あるいは亡くなった場合は、オリジナル作品は再現不可能となるが、作家以外の演者による作品であれば、作家が課する条件を満たせば、再現することができる。そして、それはほかの絵画や彫刻作品のように収集や貸し出しまでも可能にするのである。
 大阪の国立国際美術館は、日本国内ではいち早くパフォーマンス作品の収蔵や展示を積極的に取り入れている。同館が2016年度に最初に収蔵したパフォーマンス作品は、プエルトリコを拠点として活動している二人組の作家アローラ&カルサディーラの『Lifespan』(2014年)であった(10)。これは、展示室の天井から吊り下げられた小さな石をめぐって、三人のボーカリストが口笛と息で交信をする約15分間のパフォーマンス作品であり、展覧会の会期中は毎日実施される。三人のボーカリストは、この石を取り囲むように立ち、石に向かって交互に、あるいは同時に息を吹きかけたり、口笛を鳴らしたりする。また三人は、しばしその場に立ち止まったり、ゆっくりと石の周りを回ったりしてそれぞれの立ち位置を変えていく。その光景は「ときに激しく、ときに緩やかに変化しつつ、言葉が誕生する前のコミュニケーションの有様を想像させる(11)」。この作品でモノとして物理的に収蔵されているのは、石(40億年以上前の冥王代の石)とスコア(五線譜と言葉のインストラクションからなる楽譜)である。作品の展示にあたっては、スコアの作曲家であるデイヴィッド・ラングによる指導が必要とされていて、18年の開館40周年記念展である「トラベラー まだ見ぬ地を踏むために」で展示するにあたって、国立国際美術館でも実際にラングをアメリカから招聘し、パフォーマーたちがトレーニングを受けた。また美術館が作品を購入した際にギャラリーと交わした契約書にも、展示や運営に関する事項が多数盛り込まれていた。これに加えて、収蔵後に美術館側が作家にインタビューして聞き取った展示に関する細かな諸条件(パフォーマーの男女比、服装、展示室のしつらえ、照明など)も大変重要な参考資料になっている。スコアに表現されていない事柄が多いため、リハーサルや運営の記録や、展示条件を記した資料類は、館内に大切にストックされている。こうした資料は、次回、同作品を展示する際のさまざまな判断材料になる。またもし同作品を再展示する際には、18年の展示に協力してくれた主に関西圏在住のパフォーマーに再び協力依頼をすることになると想定される。このようにパフォーマンス作品の収集と保存、展示では、メディアアート作品の場合と同様にどう作家側と丁寧に対話を積み重ねて作家の意向を確認し、作品を成立させるための条件を共有し、展示に関する細やかな環境を記録しておくかがカギとなってくる(12)。
 一方でギモン3で紹介したティノ・セーガルは、作家以外の演者・実行者によって成立するパフォーマンス作品を多数発表している(13)が、セーガルの場合、写真や映像などの記録を一切残さないことを展示や収集でも徹底していて、アローラ&カルサディーラのようにはいかない。セーガルの『これはプロパガンダ』(2002年)は、2006年にテート・ブリテンで開催されたテート・トライアニュアルで展示され、テートの収蔵作品となり話題になった。しかしこの作品の収集や展示にあたっては、ほかのセーガルの作品と同様に、映像などで記録しておくことはできない。またスコアや指示書も存在しない。購入にあたっては、契約書も書面ではなく、口承で交わされる(14)。セーガルはもともと経済学とダンスを学んだ作家であり、彼の作品は、モノとしての作品のあり方を否定する彼の経済的批評の実践になっている。そのため『これはプロパガンダ』に関しても、ある踊りを知っているダンサーがそれを別のダンサーに踊ることで伝授するように、「身体から身体への伝達」になるようデザインされた作品になっている(15)。この作品の展示や収集にあたっては、作家や作家のスタジオからスタッフが派遣され、オーディションで選ばれたパフォーマー(16)と美術館のキュレーター、コンサバターなどに直接、身ぶりや歌が伝承されていく。セーガルの作品は、一見、収蔵には不向きと思われるかもしれないが、既存の形ある美術作品を扱う仕組みを作家が意図的に巧みに利用していて、展示や収蔵が可能となっている。例えば『これはプロパガンダ』は、展示の際には、会期中は展示室で最低1カ月間展示することが課されている。またエディションを切ったり、アーティスト・プルーフ(AP)もあり、版画や映像作品のように売買したり、貸し出したりすることができる。ちなみにエディションやAPとは、版画や写真、映像作品のように複製可能な作品を取り扱うときに作家やギャラリーが複製する点数を決めて、作品の価値・販売価格をコントロールする仕組みである。例えば、版画の場合、100枚限定で刷って、それ以上は刷らないと決めて、通し番号を1/100、2/100……のように振っていく。この100がエディション数となる。ある美術館はエディション15/100を収蔵し、個人コレクターはエディション23/100をもっている、というふうな具合である。その際に試し刷りなどで作家の手元にある数点をAPと呼び、通常は作家の手元に残して販売の対象にはならない。セーガルの作品に話を戻すと、『これはプロパガンダ』については、あるエディションがテートのコレクションになっていて、APが別の展覧会に貸し出されている。とはいえ、版画や写真、映像作品と異なり、こうした記録をとることができない、美術館内外の人々の記憶に頼る作品を美術館でコレクションとして長期的に保存・維持していくには、ローレンソンが指摘するように、作品成立に関わる美術館内外の人とのネットワークを保てるように、定期的に再現展示をしたり、貸し出しをおこなったり、美術館で検証する機会を設けたりすることなどが不可欠になってくるだろう。そのために適切なメンテナンスのサイクルは作品ごとに異なり、細やかな対応が求められていくことになる(17)。

変化していく作品

 先に見たパイクなどのメディアアート作品では、何をもってその作品の「オリジナル」とするか、ということが作品の保存と展示では問われると述べてきた。ここで、本ギモンのまとめに入る前に、最初に紹介した砂澤ビッキの『四つの風』のように変化していくことを前提にしている作品の事例として、もう一つ、タレック・アトゥイの『The Reverse Collection』(2016年)を紹介したい。
 アトゥイは、レバノン出身でフランス在住のアーティストで、音を使ったインスタレーションやパフォーマンス、さまざまな協働作業を伴うプロジェクトなど、ユニークな活動を展開している。彼の長期にわたるプロジェクトの一つである『The Reverse Collection』の収集・展示のあり方は、作品が成立してきた経緯とともに、一風変わったものになっている。この作品は、まず2014年にアトゥイが実験音楽のミュージシャンたちをベルリンのダーレム地区にある民族学博物館に招き、そこに収蔵されている素性や演奏方法が定かではない民族楽器を即興で演奏してもらったことから始まる。アトゥイはこのときの楽器ごとの演奏を録音した素材をもとに、これらの楽器のためのスコアを書き、そのスコアは同年のベルリン・ビエンナーレで演奏された。そして今度は、このときの演奏を録音した音源をもとに、視覚的な情報を排除し、音だけを手がかりとして、この音を奏でることができる楽器を複数の現代楽器制作者たちに作ってもらうよう依頼した。結果的には8つのオリジナル弦、管、打楽器が作られ、14年11月にメキシコ・シティの展覧会で展示され、これらの楽器を使って演奏もされた。そして16年には、新たに中国とフランスで作った楽器二つを加えて、先の8つの楽器とともにテート・モダンで展示され、これらを使って定期的に展示室で演奏された。アトゥイはこれをさらに録音して、一時間のマルチチャンネルのサウンド作品を作り、それもテート・モダンでの展示に加えられた。こうして、『The Reverse Collection』は、音を手がかりに楽器を作る、という楽器制作のプロセスをタイトルのとおり「Reverse(逆行)」させる作品となり、テートのコレクションになった。だが、この作品の再展示にあたっては、その複雑な成立過程のように、幾通りもの可能性があるという点で、ほかの作品とは一線を画している(18)。
 まず、『The Reverse Collection』は、2016年のテート・モダンでの展示のようにインスタレーション作品として、アトゥイのサウンド作品と一緒に展示することができるが、このとき展示する楽器は全部でもいいし、一つだけでもかまわない。また新しい演奏者や作曲家を招いてパフォーマンス作品として発表することもできる。そして万一楽器の一つが壊れてしまった場合は、音だけを手がかりに新しい楽器を作ることも理論上可能である。実際、『The Reverse Collection』は、テート・モダンの展示のあとも、世界各地の別の展覧会などで、新しいリサーチに基づいて別の楽器制作者が作った楽器を加えたり、アトゥイの別のプロジェクトと組み合わせて発表されるなどして次々と形を変えて展示・演奏されている。このように最終的な形態が定まらず、オープン・エンドな作品の保存と展示では、キュレーターもコンサバターも、常に新たに生まれ変わる可能性がある作品の成立に立ち会うことになり、臨機応変な対応が求められる。

変化していくキュレーター、コンサバター、美術館

 これまで見てきたとおり、メディアアート作品やパフォーマンス作品など、長期にわたって形が残りにくい作品の展示と保存では、いずれも何が作品の成立にとって本質的な条件なのかについて、作家との話し合いを重ね、きちんと記録しておくことが不可欠であるとわかるだろう。物故作家の作品の場合は、そのプロセスはより困難になるが、作家を知る関係者や遺族などへの聞き取り調査や、それまでの展示の記録などを丁寧に掘り起こすことで、可能になるケースもある。例えばアメリカ人アーティストで2016年に亡くなったトニー・コンラッドの『Ten Years Alive on the Infinite Plain』(1972年)については、作家の死後にテートに収蔵されたが、スコアは残されていない作品であり、テートが関係者への聞き取りや資料のリサーチ、再現ワークショップなど非常に根気強いプロセスを経て、コレクションを可能にした(19)。
 メディアアート作品の場合、機材などの生産終了に備えて、スペアの部品や機器のストックなど物理的な面での備えが重要だが、同時にこうした機材を扱える技術者など人的資源の確保も課題になっている。美術館内に専門の技術スタッフが常駐している館の数は世界的に見ても限りがあり、展示や保存に際しては、外部の専門家に協力を依頼することが多い。またパフォーマンス作品の場合も、ティノ・セーガルやトニー・コンラッドの例のように作品の記憶を美術館内外のできるだけ多くの人と共有し、定期的に検証・アップデートしていくことが求められる。このようにメディアアート作品やパフォーマンス作品の展示と保存については、必要な機材などの確保、技術者や外部協力者の確保と人的ネットワークの構築、作品の再現展示を検証するための場所の確保やコストなどさまざまな課題が山積していて、一つの美術機関の予算とネットワークだけでは難しいことは明らかだろう。この分野で先駆的な試みにいくつも取り組んできたテートも、研究費や助成金などの外部資金を複数の機関とときには国を超えて共同して確保し、協力しながらリサーチや検証を進めている。日本でもメディアアートに関しては、メディア芸術アーカイブ推進支援事業(20)として、文化庁が支援をおこなっているが、単体のプロジェクトに対する支援となっていて、美術館内外を横断するようなネットワークの構築には至っていない。パフォーマンスを含めたタイムベースト・メディアの保存と展示に関する美術館内外を結ぶ包括的で国際的なネットワークの構築は、今後ますます求められていくことだろう。
 展覧会は、一過性の作品を展示するだけではなく、こうした形に残りにくい作品や、再現展示が難しい作品を検証し、後世に伝えていくという重要な役割もある。そうした作品の展示を実現すべく、キュレーターやコンサバターは日々、試行錯誤している。作品のあり方が変化するにつれて、作品の展示や保存を取り巻く環境もアップデートされていく。それを支えるコンサバターもキュレーターも、そして美術館もまた、当然ながらそのあり方を変えていくことが必要だろう。

 さて、本連載ではこれまでさまざまな角度からキュレーターをめぐるギモンの数々を取り上げてきた。ここでウェブでの連載は一区切りとし、残り二つのギモン9「どうして「展覧会」を作るの?」とギモン10「キュレーターって何をするの?」については、書き下ろしで書籍にまとめ、これまでのギモンを総括しながら、あらためて考えていきたい。


(1)札幌市企画、札幌芸術の森編『札幌芸術の森野外美術館図録』札幌芸術の森、1986年、86ページ
(2)メディアアート作品を中心にしたタイムベースト・メディアの修復・保存については、京都市立大学が中心になってまとめた「タイムベースト・メディアを用いた美術作品の修復・保存ガイド」(https://www.kcua.ac.jp/arc/time-based-media/)を参照されたい。また海外では、ニューヨーク近代美術館(MoMA)とサンフランシスコ近代美術館(SFMOMA)、テートの三館によって2004年に立ち上がったMatters in Media Art(メディアアートの諸問題)が、メディアアートの保存・修復と展示について、有益なオンラインのガイドを公開している。「Guidelines for the care of media artworks」(http://mattersinmediaart.org
(3)Nam June Paik, “Wrap around the World,” Media Art Net(http://www.medienkunstnetz.de/works/wrap-around-the-world/images/8/
(4)2012年11月23日には「How to Conserve The More, the Better」という国際シンポジウムが韓国国立現代美術館で開催されていて、そこですでにブラウン管モニタを液晶ディスプレイで代替する修復方法も提案されている。平諭一郎「《The More, the Better》は「なにか」の乗り物である」、『ナムジュン・パイク《The More, the Better》に関するノート』所収、東京藝術大学、2015年
(5)韓国国立現代美術館「Ending Test Operation of Paik Nam June’s ‘The More The Better’」、2022年7月8日(https://www.mmca.go.kr/eng/pr/newsDetail.do?bdCId=202207080008320
(6)「ナムジュン・パイク作品 モニター修理し原形保存へ=韓国美術館」「KONEST」COPYRIGHTⓒ YONHAP NEWS、2019年9月11日15時19分(https://www.konest.com/contents/news_detail.html?id=40599)、Park Yuna, “Paik Nam-june’s ‘The More, The Better’ operates for six-month test run,” The Korea Herald, January 24, 2022, 08:48(http://www.koreaherald.com/view.php?ud=20220123000112
(7)以下の考察は、次の論考を参照した。Gaby Wijers, “Ethics and practices of media art conservation, a work-in-progress (version0.5),” August, 2010(https://www.scart.be/?q=en/content/ethics-and-practices-media-art-conservation-work-progress-version05
(8)前掲「《The More, the Better》は「なにか」の乗り物である」、YOON SO-YEON, “‘The More, The Better’ has a monitor problem: The screens on Nam June Paik’s biggest work are staying retro,” Korea JoongAng Daily, September 16, 2019(https://koreajoongangdaily.joins.com/2019/09/16/movies/The-More-The-Better-has-a-monitor-problem-The-screens-on-Nam-June-Paiks-biggest-work-are-staying-retro/3067963.html
(9)Pip Laurenson and Vivian van Saaze, “Collecting Performance-Based Art: New Challenges and Shifting Perspectives,” in Outi Remes, Laura MacCulloch and Marika Leino eds., Performativity in the Gallery: Staging Interactive Encounters, Peter Lang, 2014, p. 33
(10)アローラ&カルサディーラ作品については、植松由佳「トラベラー まだ見ぬ地を踏むために」(橋本梓/植松由佳/林寿美編『トラベラー まだ見ぬ地を踏むために』展覧会カタログ所収、2018年、国立国際美術館)13―14ページ、林寿美「アローラ&カルサディーラ」(同書所収)112ページ、ならびに同館主任研究員の橋本梓氏へのメールインタビュー(2022年7月19日)に基づく。
(11)同書112ページ
(12)パフォーマンス作品の収集について考慮すべき手順や項目については、下記のテートによるリストが有益である。“The Live List: What to Consider When Collecting Live Works, Collecting the Performative,” TATE(https://www.tate.org.uk/about-us/projects/collecting-performative/live-list-what-consider-when-collecting-live-works
(13)ただし、ローレンソンによれば、セーガル自身は自分の作品を「パフォーマンス」と呼ばれることに関しては否定的で、「生きた彫刻(living sculptures)」「構成された状況・経験(constructed situations/experiences)」と呼んでいる。Laurenson and Saaze, op. cit., p. 35.
(14)Louisa Buck, “Without a trace: Interview with Tino Sehgal,” The Art Newspaper, March 1, 2006(https://www.theartnewspaper.com/2006/03/01/without-a-trace-interview-with-tino-sehgal
(15)ピップ・ローレンソン氏へのメールインタビュー、2022年8月16日
(16)セーガル本人は「パフォーマー」と呼ばず、「解釈者/翻訳者(interpreter)」と呼んでいる。同インタビュー
(17)Laurenson and Saaze, op. cit., pp. 36-37.
(18)タレック・アトゥイ作品については、下記を参照。Tarek Atoui, Tarek Atoui: The Reverse Sessions/The Reverse Collection, Mousse Publishing, 2017, p. 1, 19. 再展示に関する詳細については、ピップ・ローレンソン氏の下記シンポジウムでの発表とメールインタビューに基づく。国際交流基金・水戸芸術館共同企画特別国際シンポジウム「プレイ⇔リプレイ――「時間」を展示する」水戸芸術館ACM劇場、2018年11月3日(https://www.jpf.go.jp/j/project/culture/exhibit/exchange/2018/09-01.html
(19)トニー・コンラッドについては下記のテートのウェブサイトを参照。“Reshaping the Collectible: When Artworks Live in the Museum,” TATE(https://www.tate.org.uk/research/reshaping-the-collectible), “Conserving Tony Conrad,” TATE(https://www.tate.org.uk/art/artists/tony-conrad-25422/conserving-tony-conrad
(20)なお、文化庁のメディア芸術アーカイブ推進支援事業については、次の文化庁の「メディア芸術の振興」のサイトを参照されたい。文化庁「メディア芸術の振興」(https://www.bunka.go.jp/seisaku/geijutsubunka/media_art/

 

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ギモン7:どうして美術館は作品を集めるの?

難波祐子(なんば・さちこ)
(キュレーター。東京都現代美術館を経て、国内外での展覧会企画に関わる。著書に『現代美術キュレーター・ハンドブック』『現代美術キュレーターという仕事』〔ともに青弓社〕など。企画した主な展覧会に「坂本龍一:seeing sound, hearing time」〔2021, M WOODS Museum | 木木美術館、北京〕など)

コレクションをもつ美術館

 美術館に行くと企画展や特別展といった展示のほかに、「常設展」「コレクション展」「収蔵品展」などの名称でその美術館が収蔵している作品が展示されているのを目にしたことはあるだろうか。もしくは、美術館の中庭や外庭などにいつも同じ彫刻作品が置かれていることに気づいたこともあるかもしれない。あるいは、逆にその美術館に行けば必ず見ることができる、著名な作品を目当てに美術館に行くこともあるだろう。ルーヴル美術館に行けば、レナルド・ダ・ヴィンチの『モナ・リザ』を必ず見ることができる。東京国立近代美術館に行けば、横山大観、梅原龍三郎、萬鉄五郎、岸田劉生、藤田嗣治など美術の教科書で一度は見たことがあるような日本の近代美術の代表作を鑑賞できるだろう。また金沢21世紀美術館に行けば、レアンドロ・エルリッヒの、上から水面下にいる人々が見える内と外をつなぐ不思議な作品『スイミング・プール』がいつでも出迎えてくれる。
 ギモン1で見てきたように、美術館、あるいは博物館の成り立ちから考えても、貴重な美術品のコレクション(収蔵品)を一般の人々に広く展覧するのは美術館の重要な役割の一つである。そもそも美術館はなぜ作品を収集するのだろうか。現代の美術館のなかには、常設展示室などを企画展示室と別に設けてコレクションをもつ館と、それらをもたない館があるが、コレクションはなぜ必要なのだろうか。また、館所蔵のコレクションの展覧会(常設展)とコレクションを用いない企画展には、何か違いがあるのだろうか。本ギモンでは、コレクションをもつ美術館に着目して、作品の収集と常設展示が果たす役割について考えてみたい。

作品の保管・保存と活用

 ここであなたがアーティストだと仮定してみよう。あなたがある展覧会に向けて作った作品は、展覧会が終わったら、通常、どこに保管するだろうか。画廊などでの展覧会では、作品がめでたく売れてコレクターの手に渡ったりすることもあるだろうし、美術館での展覧会をきっかけにその館が収蔵してくれることもある。だが、必ずしも全部の作品が手元から離れるわけではなく、スタジオの隅に立てかけられたり、十分なスペースが確保できずに額から外されてキャンバスだけの状態で重ねられたり、あるいは彫刻作品の場合は、賃料が比較的安価な街中を少し離れた場所に倉庫を借りてそこに置いたりすることも多いだろう。そうした場所は、必ずしも24時間、温湿度管理されている場所とはかぎらないので、保管状態が悪いとカビが発生したり、虫に喰われたりすることも少なくない。その点、収蔵庫をもつ美術館であれば、温湿度管理が徹底されていて、こうした作品のダメージは最小限に食い止めることができる。また個人の美術コレクターのなかには、こうした温湿度管理ができる倉庫を所有していたり、あるいは美術輸送会社の美術倉庫を一部借りたりして、作品のマネジメントをしている人もいるが、そうしたコレクターはごく一握りである。またコレクションも個人の場合、保管場所が足りなくなったり、本人が亡くなったりするなどした場合、こうした個人コレクションを美術館に丸ごと寄贈することもよくある。同様に作家本人が亡くなった場合にも、遺族が美術館に寄託(1)、あるいは寄贈を依頼するケースも多い。このように美術作品をコンディションが良好なままで長期間保管することは、個人レベルでは難しいため、美術館が最終的な作品の受け皿になることはよくある。
 博物館法が定める「博物館」の定義は、「歴史、芸術、民俗、産業、自然科学等に関する資料を収集し、保管(育成を含む)し、展示して教育的配慮の下に一般公衆の利用に供し、その教養、調査研究、レクリエーション等に資するために必要な事業を行い、あわせてこれらの資料に関する調査研究をすることを目的とする機関(2)」となっている。美術館はこの博物館に分類されるのだが(3)、「芸術に関する資料」である美術作品を収集し、保管し、展示することや、それらを調査・研究することは、美術館にとってはその活動の根幹をなすものだと言えるだろう。よって、美術館は外部からの寄託や寄贈を受けるだけでなく、自らも積極的に購入したり、寄託・寄贈へのはたらきかけなどをして収集活動をおこなっている。展覧会は作品がなければ始まらない。コレクションをもつ美術館は、こうして収集した作品をきちんとした環境で保管し、それらの調査・研究を深め、さらに展示して活用する、という活動を総合的におこなっている。もちろん、コレクションをもたない美術館であっても、企画展をおこなうために一時的ではあれど、作品を他館や個人のコレクターから借用したり、作家に現地制作を依頼したりすることで、作品をその期間だけ、会場に集めてくる。ただし当然ながら、企画展の場合は、展覧会終了後に作品は各々の場所に返却されたり、解体されたりして、美術館には残らない。一方で、コレクションをもつ美術館は、一度収集した作品は基本的には何十年でも、極端な話、何百年先でも保管し活用していくことを考えてコレクションを形成していく。こうしたコレクションをもつ美術館では、どのようなことを基準に作品を収蔵していくのだろうか。

何を収蔵するのか

 コレクションをもつ美術館では収集方針を定めていて、館のウェブサイトなどでも見ることができる。各館の収集方針を見ると、それぞれの館の特徴がよくわかる。例えば、現代美術を扱う館では、第二次世界大戦以降(1945年以降)の美術という方針を挙げていたり、あるいは地方にある美術館の場合は、その館が所在する地域の歴史的な文脈などを反映したり、地元の作家の作品を収集したりするなどして、地域の特性を生かした方針を挙げているところも多い。
 国内初の公立の現代美術館として1989年に開館した広島市現代美術館では、次の3つの収集方針に沿って作品収集と保存をおこなっている(4)。

1. 主として第二次世界大戦以降の現代美術の流れを示すのに重要な作品
2. ヒロシマと現代美術の関連を示す作品
3. 将来性ある若手作家の優れた作品

 同館では、1989年から3年に一度、「ヒロシマ賞」という「美術の分野で人類の平和に貢献した作家の業績を顕彰し、世界の恒久平和を希求する「ヒロシマの心」を現代美術を通して広く世界へとアピールすることを目的とした」賞を創設している。これまで三宅一生、ロバート・ラウシェンバーグ、クシュトフ・ウディチコ、ダニエル・リベスキンド、シリン・ネシャット、蔡國強、オノ・ヨーコ、アルフレッド・ジャー(5)など11人の国内外のアーティストが受賞している。ヒロシマ賞受賞作家は、同館での授賞式のほかに受賞記念展を実施しているが、このヒロシマ賞受賞作家の作品も同館のコレクション形成に大きく寄与している。このようにコレクションにあたっては、その館で実施された企画展などを契機として購入や寄贈などに結び付くケースも多い。
 また、伝統工芸で知られる金沢市に2004年に開館した金沢21世紀美術館では、以下の3つの柱を収集方針として挙げている(6)。

1. 1980年以降に制作された新しい価値観を提案する作品
2. 1の価値観に大きな影響を与えた1900年以降の歴史的参照点となる作品
3. 金沢ゆかりの作家による新たな創造性に富む作品

 このうち、3番目の金沢ゆかりの作家の作品(7)については、主に次の2つの観点から工芸作品を中心に収集されている。1つ目は、金沢出身、あるいは金沢在住経験がある作家、ならびに金沢美術工芸大学や金沢卯辰山工芸工房出身者の作品の収集である。2つ目は、伝統工芸の保護と育成に力を入れている金沢市が主催する国際工芸コンペの入選作や、新たな創造性に富む工芸作品を収集している。
 また同館では、美術館の建築の設計段階から、6つの作品がコミッションワーク(制作委託)として、設置場所を想定して美術館のために新たに制作されることがあらかじめ計画に組み込まれて、恒久展示されていることが特徴的である。冒頭に紹介したレアンドロ・エルリッヒの『スイミング・プール』はその一つである。このほか展示室の天井を四角く、くり抜いて、空の移り変わりを眺めるジェームズ・タレルの『ブループラネット・スカイ』や、アニッシュ・カプーアの覗き込むと吸い込まれそうな巨大な穴に見える『世界の起源』など、建物と一体となった作品が設置されている。
 このように各地の美術館では、それぞれが独自の収集方針に基づき、その美術館ならではのコレクションを形成しているケースが多い。もっとも、近年は収集予算が大幅に削減されたり、凍結されたりした館も少なくないのが現実だ。だが、そうした館も、展覧会予算で制作した作品を寄贈してもらったり、長年の丹念なリサーチを重ね、作家やコレクター、またその遺族などと信頼関係を築いたうえで、寄贈や寄託に結び付け、コレクションを充実させている館も多い。
 反対に現在所蔵しているコレクションを保管しておく収蔵庫のスペースが手狭になり、倉庫を別途確保するのに苦労している館もある。美術館のコレクションは、基本的に国公立の場合は、大きく言えば市民の税金から購入することになるので、一度収蔵すると国や都、市などの財産になり、売却などして手放すことはない。よって収集方針に沿って慎重に収集計画を立て、予算をにらみながら収集をおこなっていく必要がある。また収蔵した作品は温湿度管理が行き届いた収蔵庫で保管することはもちろんのこと、定期的に点検などをして、必要に応じて修復などをおこなわなければならない。近年は、保存修復を専門とする学芸員を置いている館も増えたが、そうしたスペシャリストがいない場合は、外部の保存修復家を定期的に呼んで、点検・修復をおこなっている。また、海外の展覧会などに長期で貸し出す場合は、事前にコンディションに問題がないかをチェックし、何らかのダメージが見つかった場合は、作品に負担がかからない輸送方法を考えたり、修復などの処置を施したりすることもある。このように経済的・物理的な制約を受けつつも、各館が掲げた収集方針に沿ってさまざまな検討やリサーチを重ねながら、作品が収集・保管され、美術館のコレクションを形作っている。

美術史の編纂

 ギモン1でも少し見てきたように、ニューヨーク近代美術館(MoMA)では早くから写真、映画、デザイン、建築などが展覧会で扱われてきただけでなく、それぞれの分野に独立した部門を設けてキュレーターを配し、これらの新しいジャンルの作品・資料も絵画や彫刻と同様にコレクションに加えてきた。いまでこそ写真や映像、建築、ファッションや家具などのデザインなどを美術館の展示で目にすることは当たり前のようになっている。だが、美術館の枠組みで何を展示するか、またコレクションに何を加えるかということは、すなわちこれらの多様なジャンルの作品を美術史のなかにどう位置づけるかという問題と直結している。例えば建築などの場合、一口に「建築をコレクションする」と言っても、絵画や彫刻と異なり、建物そのものをコレクションすることは難しいので、図面や模型、ドローイング、写真、映像など美術館で保管・展示できる形態で、かつ、その建築家、あるいは建築物の特徴をいかに捉えて後世に伝えていくかを考えていく必要がある。また建築物そのものは、築年数の長いものは年月とともに老朽化が進み、取り壊しになったり、建築家本人が他界して建築事務所が解散し、資料が散逸したりするケースもあるため、最終的にはこうした美術館などに収蔵された図面や模型などの資料が、そのオリジナルの建築物などを知る重要な手がかりになることもある。
 東京都写真美術館は、日本で初めて写真の専門的総合美術館として1995年に開館した。名前だけ見ると「写真」だけを扱っているように思われがちだが、同館では写真だけではなく広く映像表現や映像文化についても扱い、写真・映像作品を中心にしたコレクションを擁し、企画展もおこなっている。また2009年から毎年、美術館全館を使って、周辺施設とも連携しながら、「恵比寿映像祭」というフェスティバルを実施していて、展示、上映、ライブ・イベント、講演、トークセッションなどを複合的におこないながら、映像表現をあらゆる角度から取り上げ、広く共有する機会としている(8)。よって写真だけではなく、映像作品やメディア・アート作品、あるいは同館コレクションの一部である写真機材や初期の映像装置(レプリカや模型も含む)など、各年のテーマに沿って幅広い写真・映像作品が紹介され、その定義を常に問い直し、拡張・成長していく場になっている。
 東京都美術館は、その前身の東京府美術館の時代から本格的な収集はおこなわず、主に貸会場として美術団体の展覧会を長らく実施してきたが、老朽化に伴って館を建て直して1975年に再出発した。その際に学芸員が入り、本格的にコレクションを形成して、戦後の美術史を積極的に体系づける方向に大きく舵を切った。76年の「戦後の前衛展」を皮切りに、80年代には「現代美術の動向」というシリーズで「一九五〇年代――その暗黒と光芒」(1981年)、「一九六〇年代――多様化への出発」(1983年)、「一九七〇年以降の美術――その国際性と独自性」(1984年)など、戦後の日本の美術史を十年ごとにまとめながら振り返るような企画展を次々と打ち出していった。そして95年に東京都現代美術館が開館する際に、こうした展覧会を通して収集されてきた東京都美術館のコレクションが、東京都現代美術館に移管されていくことになった。
 韓国、中国、台湾などアジアと古くから交流が深い福岡市にある福岡市美術館は、開館年の1979年からアジア美術を紹介する「アジア美術展」を開催し、以後、約5年ごとに同展を実施すると同時にアジアの近現代美術をコレクションしてきた。そして99年には、そのコレクションを基に福岡アジア美術館が開館した。そして「アジア美術展」は「福岡アジア美術トリエンナーレ」という形で継承されている。また福岡アジア美術館は、アジアの作家や研究者を数多く招聘して、滞在制作やアジア美術研究に関する講演会・展覧会を開催するなど、交流事業も息長くおこなっている。福岡市美術館と福岡アジア美術館のこのような取り組みは、アジアの美術をどのように美術史全体に位置づけていくか、日本にアジアの美術をどのように紹介していくかという重要な役割を担っている。
 これまで見てきたとおり、何をどのようにコレクションしていくかは、美術館にとってはその館の性格を決めるものであり、作品にとってはそれが「美術作品」として美術史のなかにいかに位置づけられていくかを決めるものとなる。なかでも現代美術の場合は、作家が展覧会に向けて新たに制作した作品を収集することができる、というそれ以前の時代の美術作品とは大きく異なる一面がある。もちろん近代美術以前の美術でも、忘れられていた作家を調査・研究して発掘し新たな光を当てるという作業や、長年の研究に基づいて従来の解釈とはまったく異なる形で作家や作品を紹介するという作業はある。だが、現代美術の場合は、その表現手段や領域横断性も多様化の一途をたどっていて、そうした新しい評価が定まっていない作家や作品の評価をすることに常に直面することになる。美術館のコレクションにその作家の作品を収蔵することは、美術館にとって非常に慎重な判断が求められるが、それはコレクションするという行為自体が、作品や作家、そして美術館の存在意義においても試金石になってしまうからにほかならない。コレクションするということは、美術史全体をどう編纂していくのか、そして後世にどのようにそれらのコレクションを残していくのかという大きな問いに、美術館が日々、向き合っていることを意味するのだ。

コレクションの展示について

 各館で収集したコレクションは、収蔵庫にずっと眠ったままにしておくのではなく、調査・研究したり、実際に展示されたりして活用されていく。大抵の館は、常設展示室に収まりきれない点数の作品を数多く所蔵しているので、すべてのコレクションを一度に見せることはできない。また作品によっては、長期展示をしたあとはしばらく作品を休ませることでメンテナンスなどをおこない、より長期的に将来も保存・活用できる状態に保つことができる。
 コレクションをもっている館では、館の学芸員が常設展示室でコレクションを活用した展覧会を企画したり、また他館の展覧会にコレクションの貸し出しをおこなったりする。近年は、常設展示でもコレクションを活用して、企画展と同様に企画性が高い展示が多数おこなわれている。だが、一昔前は、常設展示室と言えば年代順・時代順に時系列でコレクションを見せることがごく一般的だった。その大きな変革の契機になったのは、2000年に開館したロンドンのテート・モダンの常設展示だった。
 旧火力発電所の建物をリノベーションして作られた7階建てのテート・モダンは、一フロアを有料の企画展示室、二フロアを無料の常設展示室としてスタートした(9)。その際に、常設展示室ではそれまで一般的だった年代順の展示ではなく、17世紀のフランス・アカデミーが確立した風景、裸体、静物、歴史という主題のジャンルに想を得たテーマ別の展示とした。開館時には、「風景、事物、環境」「静物、対象、実物」「ヌード、行為、身体」「歴史、記憶、社会」という四つのセクションに分けてコレクションが紹介された。このような展示方法は、観客の混乱を招くなどの批判を浴びた。なかでも、「風景、事物、環境」のセクションに展示されたクロード・モネの『睡蓮』の絵の前にランド・アートで知られるリチャード・ロングが石を円状に床に並べた作品『Red Slate Circle10(10)』を並置し、さらに同じ展示室内にテートが開館にあわせてロングに制作を委託した、泥で描いた壁画『Waterfall Line11(11)』も展示され、その斬新なアプローチは物議を醸すことになった。このように「風景」という主題を現代の環境問題や土地の歴史などと結び付けたり、「ヌード」というテーマを人体への関心やアクション・ペインティングとつなげて見せたりするなど、それぞれの主題を拡張しながら展示してみせることで、時系列・年代別ではなく、近代と現代を柔軟に交錯させながら美術史の多様な解釈を可能にしたテート・モダンの手法は、コレクションの新しい見せ方の一つの規範になった。

コロナ禍の常設展示

 この2年間、コロナ禍で、特に海外からの物流や人の移動が滞る事態になり、国内外の作品をほかから借用して実施することが難しくなった。緊急事態宣言などの影響で、美術館自体が休館になる期間も長く続いた。企画展の実施が中止や延期を余儀なくされるなかで、コレクションをもっている美術館はそのような状況を逆手にとって、創意工夫を凝らしてコレクションを活用した展覧会を企画してきている。東京都現代美術館では、2021年の3月から6月にかけてオランダ生まれでベルギーを拠点に活動しているマーク・マンダースの個展「マーク・マンダースの不在」を企画展で実施したが、緊急事態宣言が発令されてその会期の大半を休館せざるをえない窮地に立たされた。だが、開催期間の短縮を受けて、作家や所蔵者などの協力を得て、作品返却までの間、同年7月から10月にかけて同館の常設展示室の「MOTコレクション」で、3階部分を特別展示という形で、マーク・マンダースの企画展の出品作品の一部(同館のコレクションも含む)を用いながらも、企画展とは異なる展示構成で展覧会「マーク・マンダース 保管と展示」を実施した。また常設展示室の1階では、「Journals 日々、記す」と題して、人々の日常を一変させたコロナ禍や震災などの災害、オリンピックなどを背景に制作された作品と、日々の日常性から生まれた作品をあわせて展示した。

多様化する現代美術作品の収集

 ここまでは、絵画や彫刻など形が比較的はっきりしている作品の収集と保存、活用について主に見てきたが、現代美術の場合、その表現手段や使用する媒体も多岐にわたっていて、作家のインストラクション(指示書)に基づいた行為などを作品化するコンセプチュアル・アートなど、厳密な意味でモノの形をとらない作品も数多くある。例えば、東京都現代美術館の外庭にあるオノ・ヨーコの『東京のウィッシュ・ツリー(願かけの木)』は同館のコレクションだが、普段は紅葉の木が1本生えているだけで、そうと知らない人にとっては作品とは気づかれないことがほとんどだ。年に1回、ジョン・レノンの命日にあたる12月9日になると、白い願い札(願いごとを書く短冊)が用意され、来館した人がそれぞれの願い札を紅葉の木に結び付けて下げていくという作品である。この願い札はオノ・ヨーコのもとに送られ、アイスランドのレイキャビクにあるジョン・レノンに捧げた作品『イマジン・ピース・タワー』に納められる。つまりこのコレクションは、毎年12月9日に人々が願いごとを書いて参加し、それを送り届けるところまでが作品となっている。
 また、東京国立近代美術館のコレクションである冨井大裕の『 roll(27 paper foldings)』は、色とりどりの折り紙を1枚ずつ、くるっと丸めて両端をホチキスで留めてつなげた彫刻作品シリーズだが、その素材表記には「折り紙、ホチキス、指示書」とある。これは、市販の27色セットの折り紙を上から順に1枚ずつ使ってロール状にしていき、4本のロールを真四角状に組むなど立体的に組み合わせたものであり、作品ごとに折り紙27枚の組み合わせ方が異なる。折り紙の組み合わせ方は、全部で15通りあるが、このうち5通り分である5点が同館の所蔵となっている。折り紙に関する細やかな指定や組み合わせ方などは作家からの指示書に記されていて、展示するたびに新たに作ることもできる。つまり、折り紙そのものは代替可能であり、指示書そのものがコレクションの重要な一部を構成しているのだ。また基本的には、作家以外の人がその指示書に沿って作ることもでき、再制作に対して回数も制限されていないので、誰がどのタイミングで作り直すのかなど、所蔵者(この場合は美術館)にその判断を委ねられているユニークなコレクションである(12)。
 さらには、近年はギモン2で見てきたようなパフォーマンス作品なども収蔵の対象になっていて、そういった作品の収集・展示に対してさまざまな試みがなされてきている。次回のギモンでは、映像作品やメディア・アート作品など、機材や記録媒体などの変遷により保管や再展示に大きな影響を受ける作品や、パフォーマンス作品などの形が定まらない作品の収集や展示、再現展示などについて詳しくみていきたい。


(1)ちなみに寄託とは、ある一定期間(通常1年、ないし2年、また延長もあり)作品を美術館に預けることを指す。寄託期間を終えて、美術館と所蔵者との信頼関係が築かれてから寄贈となることも多い。寄託期間中でも、展覧会で展示したり他館への貸し出しを認めていることが大半である。
(2)「博物館法」第2条(https://www.mext.go.jp/b_menu/shingi/chousa/shougai/014/shiryo/07012608/001.htm
(3)厳密には、国立館(独立行政法人)は、博物館法が定める「博物館」からは除かれているので、博物館法上は、東京国立近代美術館、国立西洋美術館、国立新美術館、京都国立近代美術館、国立国際美術館の5館は、「美術館」という名称を用いているものの、博物館ではなく「博物館相当施設」である。この制度上の歪みは、現在も是正されていない。これは現行の博物館の登録の所管が教育委員会であり、国立館の設置主体が独立行政法人であることに起因しているが、1952年施行の博物館法の改正は、70年近くたったいまなお議論の途上である。
(4)広島市現代美術館ウェブサイト(https://renovation2023.hiroshima-moca.jp/about/
(5)第11回ヒロシマ賞受賞者のアルフレッド・ジャーについては、現在、広島市現代美術館が改修工事で休館中のため、2023年に同館での授賞式と記念展が予定されている。
(6)金沢21世紀美術館ウェブサイト(https://www.kanazawa21.jp/data_list.php?g=97
(7)金沢ゆかりの作品、ならびにコミッションワークについては、『金沢21世紀美術館収蔵作品図録』(金沢21世紀美術館、2004年、p.Ⅴ)を参照。
(8)恵比寿映像祭については、ウェブサイト参照。「恵比寿映像祭とは」(https://www.yebizo.com/jp/information
(9)7階建ての建物は、開館当初は1階から7階と表記され、2012年の拡張時に0階から6階に改められた。開館当初の企画展示室は4階、常設展示室は3階と5階だった。また16年には、通称スイッチ・ハウス(Switch House)と呼ばれる10階建ての新館が併設され、そこでも常設展示や企画展示、教育普及プログラムをおこなっている。
(10)テート・モダン「Richard Long, Red Slate Circle」(https://www.tate.org.uk/art/artworks/long-red-slate-circle-t11884
(11)テート・モダン「Richard Long, Waterfall Line」(https://www.tate.org.uk/art/artworks/long-waterfall-line-t11970
(12)冨井大裕の作品については、東京国立近代美術館のMOMATコレクション(2021年10月5日―22年2月13日)の出品作品リスト、展示室内の作品解説テキスト、ならびに同館研究員の三輪健仁氏へのメールインタビュー(2021年10月27日)に基づく。出品作品リスト:「所蔵作品展「MOMATコレクション」」(https://www.momat.go.jp/am/wp-content/uploads/sites/3/2021/10/R3-2MOMATCollection_list_J.pdf

 

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ギモン6:赤ちゃん向けの展示ってあるの?(第2回)

難波祐子(なんば・さちこ)
(キュレーター。東京都現代美術館を経て、国内外での展覧会企画に関わる。著書に『現代美術キュレーター・ハンドブック』『現代美術キュレーターという仕事』〔ともに青弓社〕など。企画した主な展覧会に「坂本龍一:seeing sound, hearing time」〔2021, M WOODS Museum | 木木美術館、北京〕など)

赤ちゃんと一緒に楽しめる展覧会

「こどものにわ」は、テーマパークのようなイメージのこども向けの展覧会ではない。テーマパークには遊び方に答えがあらかじめ用意されているが、美術館の展覧会に「正解」はない。訪れた人々が、それぞれの楽しみ方を主体的に探して、それぞれの答えを見つけてもらうことが必要になってくるので、ある意味、不親切だ。そのかわり、小さなこどもでも親しみやすいように、視覚的にインパクトのある作品や体全体で感じる作品、参加型の作品を中心に展示した。一口に「こども」と言っても年齢によって大きく差があり、特に乳児などは、月齢によって発達段階も非常に大きく異なる。そこで、それぞれの発達段階に応じて、必要であれば、大人がこどもに声をかける、こどもと一緒に何かを体験するなど、さまざまな年齢層の人たちが関わりをもちながら鑑賞できるような作品を参加作家と話し合いながら具現化していった。
 展示は、大巻伸嗣の作品から始まる。大巻は、空間全体を生み出すような作品を通して、日常と非日常の境界を創り出す。展示室に入ると、絶滅危惧種の花を白の修正液と水晶の粉で球体に描いた『Echoes-Crystallization』が神秘的な空間を構成し、鑑賞者を静かに異世界への入り口へと誘う。そして、白い薄布をくぐると、床一面に色とりどりの花模様『Echoes-INFINITY』が広がる。美術館の絵は壁に展示してあるものが一般的だが、大巻の絵は、こどもの目線により近い床一面に広がる。絵を踏みつけるというタブーは、大人でもそうそうある機会ではないので、新鮮な体験だ。床一面の花は、柔らかな白いフェルトの上に顔料で描かれているので、時間の経過とともに踏まれて、その輪郭は次第にぼやけていく。また、部屋の奥に進んで振り返ると、柱の一面に床と同じようにフェルトに描かれた作品がアクリルのパネルで額装されて展示してあり、展覧会が始まる前の時間を留めている。
 出田郷は、視覚などの人間の知覚、身体と空間の関係などをテーマにきわめてシンプルな手法で、しばしば光を用いて作品を作っている。縞模様は、理由はわかっていないが、赤ちゃんが好むことで知られ、乳児の視覚実験などに用いられている(28)。『lines』は四面の透過性スクリーンに映し出すアニメーションの作品で、白黒の縞模様が幅を変えたり、伸び縮みしたり、縦縞から横縞へ変化したり、回転したりする。四方を囲まれた空間のなかにいる人は、周りの空間の視覚的な変化によって、自分が浮遊するような錯覚にとらわれる。『reflections』は、約8,000枚のアクリル・ミラーが埋め込まれた6メートル四方のウレタンマットの床面を歩くと、光の反射が万華鏡のように壁や天井に広がる作品だ。自分の動きにしたがって、影もキラキラとうごめく。赤ちゃんの明るさに対する感度は、色の識別よりも早く、生後2カ月から5カ月の間にすでに大人と同等の高度なレベルをもつとわかっている(29)。
 サキサトムは、日常生活でのなにげない一コマや異文化での所作、習慣の違いなどを映像やインスタレーションを通して表現してきた。「こどものにわ」では、異世代の差異に着目し、乳幼児の視覚世界を再現することを試みた。『ガーデン』は、作家が住むロンドンの夏の庭で、半径3メートルというごく狭い世界を16ミリフィルムで撮影した映像作品だ。庭に咲く花や焦点が合っていない事物の断片的な映像は、自分の周りの世界を少しずつ知り始めるこどもの認識世界や、非常に限られた自分の身近な世界が、世界のすべてだった頃の時間を象徴するようだ。一方、『メーヤの部屋』は、誰もいないはずのこども部屋で無機質なビニールの青い筒が動くことで繰り広げられるファンタジーを映像化し、床に置かれた2台のモニターで時間をずらして映し出す。最近の実験で、10カ月の赤ちゃんでも、テレビ映像と実物の区別をしていることがわかってきた(30)。モニターのなかで、生き物とそうでないもの、現実世界と空想の世界、映像世界と実世界が交錯する。サキの映像世界は、こどもがリアルタイムで経験しているこどもの時間と、その視覚世界や心象風景をある種懐かしく思い起こす大人の時間を詩的に重ねていく。
 広場のような高さ19メートルの広い吹き抜け空間で、KOSUGE1-16は、見知らぬ者同士の間でコミュニケーションが生まれる仕掛けを3つの作品で表現した。まず初めに目に飛び込んでくる高さ約6メートルの『大きな木(小)』は、木陰で休む要領で木の根元に集うと、カラフルな毛糸の毛虫が上下する。中央に設置された『AC-MOT』は、両手で遊べる卓上用のサッカーゲームが、一人一選手で操作するまでに拡大され、総勢12人で遊べる巨大なサッカーボードゲームだ。選手を操作する棒が重いので、小さなこどもが遊ぶには、大人の助けが必要になる。3つ目の作品『サイクロドロームゲームDX』は、身体能力が異なる大人とこどもが真剣勝負できるユニークな作品だ。大人用自転車1台とこども用自転車2台、三輪車が1台設置されていて、それぞれが自転車や三輪車をこぐと、ペダルからシャフトとチェーンで動力が伝わって、小さなサイクリストの人形が周りのコースを猛スピードで駆け抜ける。
 建築家の遠藤幹子は、KOSUGE1-16の作品の周りに、親子が一緒に楽しめる交流型の空間『おうえんやま』を創り出した。壁沿いに広がる「おおやま」と、その前に「こやま」が2つそびえ、ところどころに巨人の足のイメージのクッションが配されている。「おおやま」と「こやま」は黒で塗装され、チョークで自由に落書きができるようになっている。また「こやま」にはところどころに丸い穴が開いていて、その周りには、巨大人間の身体が描かれ、穴から顔を出すと、あたかも自分が巨大人間になったように見える。巨人の足のクッションは、こどもにとっては遊具となり、大人にとっては一息つく場所になる。

遠藤幹子《おうえんやま》(2010年)とKOSUGE1-16《AC-MOT》(2006/2010年)
東京都現代美術館「こどものにわ」展(2010年)における展示風景
撮影:森田兼次、写真提供:東京都現代美術館

「こどものにわ」から「みんなのにわ」へ

「こどものにわ」がオープンしてしばらくすると、特別支援学校から来館の問い合わせが多数入るようになった。ベビーカーに優しい展示は、車椅子利用者にも優しい。また赤ちゃんが楽しめる展示は、知的障害をもつ人にとっても楽しめる展示だったのだ。異世代が自由に交流しながら楽しめる展示は、普遍的なデザインである、ユニバーサル・デザインの考え方を想起させる。ユニバーサル・デザインは、「年齢、性別、能力、環境にかかわらず、できるだけ多くの人々が使えるよう、最初から考慮して、まち、もの、情報、サービスなどをデザインするプロセスとその成果(31)」を指す。赤ちゃんから楽しめる展示を考え始めると、結局はほかの世代の人々、多様な背景をもつ人々が楽しめる展示について考えさせられる。もちろん、デザインと違ってアートという嗜好性に左右される分野ですべての人に受け入れられる展覧会というのは、不可能に近いのかもしれない。だが、一つの展覧会でも、さまざまな世代によって楽しめ、かつ、その楽しみ方が異なる、という展覧会のあり方を模索することは、パブリックな場としての美術館の役割を問い直すことにつながる。ニコラ・ブリオーは、『関係性の美学』のなかで、開かれた展覧会のあり方が必ずしも凡庸になるとはかぎらないと述べ、「あるイメージを前にして感じるこどもらしい純真な驚きと、そのイメージが引き起こすさまざまなレベルの解釈の複雑さ」の間にある理想的なバランスを探ることの可能性を示唆している(32)。作品に対峙してその美しさに感動したり、作品に込められたメッセージを読み取ったりすることは、美術に触れるうえで大切な経験である。そして同時に一緒に作品を観ている(あるいは、一緒に参加している)他者との関係を築くことを許す美術や展覧会の方法論は、小さなこどもや、こども連れの大人を優しく招き入れる。人々が集うアートの庭で、さまざまな人が関わりながら、単に鑑賞するだけでなく、互いに交流するきっかけになれば、子育て支援の観点からも美術館という場がもつ可能性が広がるだろう。アートが、日常とは異なる自由な空間と時間を生み出し、人々にこれまでとは異なる形での交流を促す。
 乳児は、近年、「人間の心の起源を科学的に研究する上で重要な研究対象とみなされるようになってきている(33)」。日本では、2001年に日本赤ちゃん学会が創設され、これまで脳科学、発達心理学などそれぞれの専門分野で扱われてきた乳幼児の心や体に関する研究を、医療や心理学だけでなく工学、社会学などさまざまな分野から多角的に考えていく「赤ちゃん学」が徐々にその成果を積み上げている(34)。美術に関しては、08年の小学校の図画工作の学習指導要領の改訂で、これまでの「表現」に加えて「鑑賞」にも重点が置かれるようになった。就学前の乳幼児に関しても、赤ちゃん学などと今後連携して美術鑑賞が赤ちゃんに与える影響などが研究できれば、赤ちゃん学にとっても美術教育のうえでも、新しい発見をもたらす大きな可能性を秘めていると言えるだろう。

「こどものにわ」を実施してから4年後の2014年に「ヨコハマ・パラトリエンナーレ2014(35)」(略称:パラトリ)という障害者と現代アート作家による協働プロジェクトの美術部門のキュレーターを務める機会に恵まれた。それまで障害がある方と身近に接する機会がほとんどなかった私にとっては全く未知の世界で、当然ながら新たなチャレンジの連続だった。なかでも最初のつまずきは、「協働/コラボレーション」というコンセプトだった。背景が異なる者同士が「みんなハッピーにコラボレーション」などとなるはずはなく、表現と表現のガチ勝負、個性と個性のぶつかり合いで、予定調和とは程遠い異なる価値観、世界観を共時的に提示するのが精いっぱいといった企画だった。しかしだからこそ、それまでになかったユニークな表現が数多く生まれたことも確かだった。パラトリに参加したギリシャ人アーティストのミハイル・カリキスは、特定の人が「disabled(「障害」の訳語で、不能、能力が欠如しているの意)」なのではなく、私たちは皆、「differently abled(異なる能力をもつ)」であると表現すべきではないか、と述べたが、非常に的確な指摘だと思う。また日用品から驚くほど小さくて精巧な作品を生み出すことを得意とする岩崎貴宏は、制作のリサーチのために織物の作業をおこなっている福祉作業所や特別支援学校を訪れた。そしてそこで求められている丁寧に織り目がそろった織物には目もくれず、糸の太さや色の組み合わせがバラバラな大胆な織りや、はみ出した糸が未処理のままにしてある織りに興味をもった。織り目がそろった織物は、バッグやポーチなどほかのものに加工して販売しやすいので、作業所ではこうしたものが推奨される。だが、福祉の世界では少数派である、織り手の個性や、そのときどきの心の動きがそのまま反映されている自由な織りのほうが、岩崎の琴線に触れたのだった。施設や特別支援学校に日々通う障害者の多くは、社会への適応を最終目標としている。だが、さまざまなこだわりやはみ出した織り目こそ面白い、美しいと評価する現代アートの価値観は一石を投じる。アートを通したパラトリの取り組みは、障害者を社会に適応させるのではなく、障害者が生きやすい場所になるように社会のほうを変えていくためのヒントを見いだすきっかけになったはずだ。

崎野真祐美×岩崎貴宏 《Out of Disorder》(2014年)
撮影:麻野喬介、写真提供:ヨコハマ・パラトリエンナーレ2014(横浜ランデヴープロジェクト実行委員会)

 これまで本ギモンでは、赤ちゃん向けの展示があるのか、ということについて見てきたが、その答えは「ある」と「ない」の両方と言えるかもしれない。東京都現代美術館では、「こどものにわ」をきっかけとして、現在に至るまで、乳幼児を対象とした企画展がシリーズ化され、各学芸員の関心と独自の視点を反映させながら、発展的に継承されている(36)が、それは「ある」の何よりの一つの証拠だろう。一方で、乳幼児を対象とした展示が特別支援学校の生徒にも受け入れられた例からもわかるように、一つの展示が企画した本人も予期しない形で新しい方向に広がっていくこともある。またそれが展覧会の醍醐味でもあったりする。パラトリでもアーティストと障害者の協働を通して、社会的包摂について、キュレーター、アーティスト、福祉施設職員、障害者自身やその保護者など、それぞれが思いも寄らない学びと刺激を受けることになった。展覧会は、異質なものを受け入れる寛容さを知る場でもある。展覧会に行く、ということがもっと身近なこととして、あらゆる世代のあらゆる背景をもつ人々の生活に根づいていくとき、「こどものにわ」は「みんなのにわ」へとのびやかに解放されていくだろう。


(28)前掲『赤ちゃんは世界をどう見ているのか』130ページ
(29)同書133ページ
(30)旦直子「乳児における映像メディアの認識の発達」KAKEN 2004年度実績報告書、東京大学(https://kaken.nii.ac.jp/ja/report/KAKENHI-PROJECT-02J07003/02J070032004jisseki/
(31)関根千佳『ユニバーサルデザインのちから――社会人のためのUD入門』(Nextシリーズ)、生産性出版、2010年、140ページ
(32)Nicholas Bourriaud, “Relational Aesthetics,” (for the English translation), Les presses du réel, 2002, p. 58.
(33)前掲『乳児の世界』1ページ
(34)「日本赤ちゃん学会」(https://www2.jsbs.gr.jp/
(35)「ヨコハマ・パラトリエンナーレ」(https://www.paratriennale.net
(36)「こどものにわ」の後にこども展シリーズとして企画された同館の展覧会に「オバケとパンツとお星さま――こどもが、こどもで、いられる場所」(2013年)、「ワンダフルワールド――こどものワクワク、いっしょにたのしもう みる・はなす、そして発見!の美術展」(2014年)、「おとなもこどもも考える――ここはだれの場所?」(2015年)、「あそびのじかん」(2019年)、「おさなごころを、きみに」(2020年)がある。

 

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ギモン6:赤ちゃん向けの展示ってあるの?(第1回)

難波祐子(なんば・さちこ)
(キュレーター。東京都現代美術館を経て、国内外での展覧会企画に関わる。著書に『現代美術キュレーター・ハンドブック』『現代美術キュレーターという仕事』〔ともに青弓社〕など。企画した主な展覧会に「坂本龍一:seeing sound, hearing time」〔2021, M WOODS Museum | 木木美術館、北京〕など)

乳幼児を対象とした展覧会

 2010年の夏、東京都現代美術館で「赤ちゃん(1)から大人まで楽しめる」参加型・体感型の展覧会「こどものにわ(2)」がオープンした。同館では、それまで教育普及プログラムの一環として、乳幼児を対象にしたワークショップやギャラリーツアーを実施していたが、展覧会として実施するのは、これが初めてだった。結果的には約2カ月の会期中に8万3,000人を超える入場者があり、展示室入り口のベビーカー置き場は、連日ベビーカーであふれかえることになった。この展覧会は、卑近な例で恐縮だが、私自身が4年越しで準備して実現した展覧会だった。
 展覧会は通常、館の学芸員による企画会議で各学芸員からのプロポーザルなどと年間のプログラムの予算、同時期開催予定の展覧会同士の内容のバランス、実施のタイミングなどをもろもろ検討しながら決まる。この展覧会に限って言えば、実施が決まるまで3年、実施決定から展覧会オープンまで1年を要した。3年間、企画会議で却下されるたびに、何度も案を練り直し、ブラッシュアップした企画書を作成し続け、その根拠となるための調査研究を進めた。なかでも、上司から言われたいちばんの却下理由は、「赤ん坊にアートを見せても、わからないのでは? 展覧会に連れてくる意味があるのか?」というものだった。そう、そもそも赤ちゃんにアートを見せても、わかるのだろうか。赤ちゃん向けの展示というものはあるのだろうか。ギモン5「日本人向けの展示ってあるの?」では、日本人向けの展示に関するギモンを入り口として、キュレーションを取り巻く文化の表象の問題について考えてみた。本ギモンでは、同じ日本人でも世代が異なる場合、特に乳幼児を対象とした展覧会のケースについて、まず前半となる第1回で、近年の乳幼児の認識能力に関する研究についてひもといていきながら、赤ちゃんと美術館の関係について考えていきたい。また後半の第2回では、「こどものにわ」を具体的な事例として取り上げながら、世代や背景が異なる人々に対する展覧会や社会的包摂のことを考えた展示について、その可能性を探っていきたい。

「こども向け」の展示とは?

 もういまから15年以上前の話だが、当時2歳になったばかりの息子をベビーカーに乗せて、広島市現代美術館で開催されていたシリン・ネシャットの展覧会(3)に行った。息子は、親の仕事の都合上、0歳児の頃から美術館には連れ回されているのだが、その日も、たまたま帰省先の広島で開催中のシリン・ネシャットの展覧会に息子連れで訪れた。シリン・ネシャットはイラン出身の女性アーティストで、イスラム世界の女性の存在などをテーマにした写真や映像作品で国際的に活躍している。扱っている写真や映像は、黒いベールを被った女性や儀礼の様子、イスラム社会の男女の対比を描くものなど、深刻で重い内容のものがほとんどである。息子には悪いが、完全に親の趣味で行った展覧会だった。だが、『パッセージ』(2001年)という映像作品の部屋で息子が釘付けになり、ほかの展示室を回った後も、その部屋に戻って何度も観たがり、ほかの展示室はそそくさと後にして、ずいぶん長い時間、その部屋で過ごすハメになった。作品自体は埋葬の儀礼が題材になっていて、前半は、黒いスーツ姿の男性たちが海辺から砂漠へと屍を運んでくるシーンと、黒装束の女性たちが砂漠で埋葬用の穴を手で掘り進めるシーンで構成される。最後に屍が運び込まれて、大地が激しく燃え上がる圧巻の映像と、ミニマル・ミュージック(4)で知られる作曲家フィリップ・グラスが書き下ろした崇高なサウンドで締めくくられる。そんな作品にベビーカーに乗った息子が反応するとは思いもよらなかったのだが、この話はここで終わらなかった。家に帰ってしばらく自分の部屋にこの展覧会のチラシをうれしそうに貼っていた息子だったが、美術館に訪れた際に予約受け付け中だったカタログが後日、自宅に届いたときに事件は起こった。包みからカタログを取り出して、息子に「広島で行った展覧会のカタログが届いたよ」と話しかけたところ、「◯◯(自分の名前)の!」と言ってそのカタログを持ち去って、お気に入りの某きかんしゃキャラクターの絵本などが並ぶ自分の部屋の本棚にしまい込んでしまった。私は1ページもカタログを読む暇もなく、あっけにとられてしまった。それまで「こども向け」の本やイベントやテレビ番組などはカラフルで楽しげなもの、といった先入観にどっぷりハマって子育てしていた私にとって、お世辞にも「楽しい」とは言えない、かなり渋いシリン・ネシャットのカタログが息子にとっては、展覧会を観て、しばらく時間がたっていても、忘れ難いお気に入りの思い出の品になっていたことは、まさに灯台下暗しの、目からウロコの事件だった。そこから、大人が勝手に考えている「こども向け」展示ではない展覧会の可能性について、真面目に探求してみようとリサーチを始めることになった。

乳幼児の世界観

 1970年代頃までは、1890年にアメリカの心理学者ウィリアム・ジェームズが「咲き誇るがやがやとした混乱(5)」と形容したように、乳幼児が知覚する世界は混沌としている、と多くの発達理論家が考えていた。生まれたばかりの赤ちゃんは目が見えない、痛みの感覚が鈍い、何もわからず何もできない、といった無力な赤ちゃん像が一般的だった(6)。しかし、近年の脳科学をはじめとする諸分野の研究成果から、乳幼児はいままで考えられていたよりもさまざまなことを認識し、感じていることがわかってきた。例えば、赤ちゃんは胎児のときから音を聞き、生まれたばかりの新生児でも目が見える。ただし視力は悪く、新生児は0.001程度で、生後半年までに急速に発達し、その時点で0.2程度(7)、4、5歳になってようやく大人並みに見えてくる。しかし、そのようなぼんやりとした視覚世界にいる生まれたばかりの新生児でも丸と三角の形を区別できるし(8)、人の顔も早い段階から認識し、特に母親の顔は生後数日でも注目することができる(9)。また、こうした乳児の視覚、聴覚、触覚などの個々の感覚は、関連することなくばらばらに独立して機能していると思われていたが、近年の研究で、乳児の個々の感覚は、生まれたときから調和してはたらき、統一された世界を知覚することがわかっている(10)。さらに、赤ちゃんは、外からの刺激によって反射的に動いているだけではなく、生まれた直後からすでに「意識的に四肢を動かしている」ことも明らかになっている(11)。このように赤ちゃんは、高度の認識能力を備え、能動的に行動していることがわかってきた。さて、ここで「赤ちゃんはアートをわかるのか?」という初めの問いに戻ると、美術館や展覧会に来た赤ちゃんは、少なくとも全く何もわからないわけではなく、むしろ、普段とは違う環境に置かれて、かなりさまざまな刺激を受けている可能性が高いと言えるだろう。特に現代美術の場合、視覚だけでなく、聴覚や触覚、ときには嗅覚など、五感を使って感じる作品も多い。しかし、公園に出かけるのと、美術館に出かけるのとでは、赤ちゃんにとって何か違いはあるのだろうか。

作品を観る行為と他者への共感

 これまでのギモンでも見てきたが、あらためて美術館、あるいは展覧会という場所を特徴づけているものは何か、と考えると、美術館は、美術作品が展示してあり、それを鑑賞する場、ということが挙げられる。作品は、一般的な事物と異なり、多くの場合、作家やキュレーターが、その作品をほかの人に鑑賞してもらうことを前提として制作・展示したもの、という人の意図が込められている。他者の意図を汲み取ること、あるいは作家やほかの鑑賞者の思いに共感することは、乳幼児にとって(そして大人にとっても)美術を鑑賞する行為をほかの日常的な営みとは異なる特別な体験とする重要な要因になっていると思われる。
 これまでに、2歳児でも、意図的に作られたものは絵と認めるが、偶然できたものは認めない、という興味深い実験結果がいくつか報告されている。例えば、男性の形に見える絵を見せて、一方のグループには、それが意図的に描かれたことを伝え、もう一方にはそれが偶然の産物だと伝える。つまり、一方には「ジョンがお絵描きの時間に、先生にあげようと絵の具で絵を描きました。それはこんな感じでした」と伝え、もう一方には、「ジョンのお父さんが壁にペンキを塗っていたときに、ジョンがうっかりペンキを何滴か床に落としてしまいました。それはこんな感じでした」と伝える。そして、その後、それぞれに「これは何かな?」と質問すると、意図的に描かれた絵だと説明を受けたグループは「男の人」など描かれた対象を答える傾向が強く、偶然できたものと説明を受けたグループは、材料の「ペンキ」と答えることが多かった(12)。さらに年齢が低い0、1歳児だと、言葉によるコミュニケーションが難しく先のような実験はできないが、別の実験や観察から、少なくとも他者の意図を汲み取ったり、他者の感情を理解したりすることは、かなり早い段階からできることが明らかになっている。
 乳児は、生後1年間の間に自分と他者を区別し、またさらに他者や自分以外のモノとの関係性を徐々に培っていく。生後2カ月頃には、大人がほほ笑みかけると、それに応じて乳児がほほ笑む、という「社会的微笑」と呼ばれる現象が現れ、自分と他者を区別して知覚する人-人の二項関係が成立し始める(13)。また生後5、6カ月には事物に関心が向かうようになり、見せられた物をつかんだり、振ったり、口に入れたりなどするようになり、人-物の二項関係も成立する。この頃から、他者が見ているものを目で追うことができる「共同注意」と呼ばれる現象も見られ始める(14)。さらに生後9カ月頃には、自分が遊ぶオモチャを大人に見せてその反応をうかがう、など乳児-物-他者の三項関係が成立するようになる(15)。また乳児は、成長するにつれて、自分の情緒について経験するだけでなく、他者の情緒に対しても共感したり理解するようになっていく。もっとも初期の他者との情緒の交流の形として、新生児に大人の「喜び」「悲しみ」「驚き」といった表情を見せると、大人と同じ表情を模倣する「新生児模倣」が知られている(16)。新生児模倣は、その後、成長すると観察されなくなってしまうが、生後2カ月には、先に述べた社会的微笑が観察されるようになる。さらに、生後7カ月頃から、乳児は周りの状況を判断する際に、母親などの信頼できる人の様子をうかがいながら自分の振る舞いに適用するようになる(17)。このような現象は、「社会的参照」と呼ばれている。有名な実験に、生後12カ月の赤ちゃんを見せかけの断崖である「視覚的断崖」に載せると、断崖の向こう側にいる母親が見せた表情によって行動が変わるというものがある。この視覚的断崖は、深さ約30センチの溝の上にガラス板が渡してあり、見た目は断崖だが、ガラスの上を渡ることができ、また断崖の向こう側には魅力的なおもちゃが置いてあるという装置である。この実験で赤ちゃんは、母親が否定的な表情や不安そうな表情を示すとガラス面の上を渡ろうとはしないが、母親がほほ笑むなど肯定的な表情を見せると大半が渡ることがわかった(18)。また、共感に関するメカニズムは、1990年代以降、脳のなかに他者の経験を自己に鏡のように写し取るようなミラーニューロンシステムと呼ばれるものがあることが明らかにされている(19)。例えば、快または不快な刺激を受けた他者の表情を知覚すると、観測者自身が同様の快・不快の刺激を知覚したときのような神経活動が脳内で生じる(20)。ミラーニューロンシステムについては未解明の部分も多いが、近年の実験で、6、7カ月の赤ちゃんも成人と同様に他者の行動を見るだけで、他者と同じ運動関連部位の脳活動が見られることがわかっている(21)。
 乳幼児の美術鑑賞に関しては、美術教育の分野でも比較的最近になって扱われるようになった分野であり、科学的な研究の方法論が確立されているわけでもない。そのため、あくまで推論にすぎないが、これまで見てきたような乳幼児の高い認識能力を考えると、「作品」として認識し始めるのは2歳ぐらいからだとしても、二項関係が成立しはじめる0歳児からでも、ある程度の大人の関わりなどがあれば、それぞれの年齢や発達段階に応じて美術鑑賞を楽しむことはできそうである。公園や家などの日常的な場所と異なり、美術館では、まず何よりほかの人が作った作品を「観る」という行為が特徴的である。乳幼児にとっては、美術館という場所は、新奇なモノがたくさんあること自体が興味の対象であるとともに、大人が観ている行為や、大人の反応や心の動きも、自らがそのモノをどう判断するかの基準になっていることだろう。大人が楽しそうに観ていれば、その気持ちが伝わってくるし、逆に自分が面白いと思ったものに対して、大人がそれを共有してくれることはこどもにとって喜びとなるだろう。また、気になった作品に手を伸ばしたときに大人に咎められれば、触らずに大切に観なければならないものがある、など、美術館での鑑賞のルールも成長に応じて徐々に理解していくだろう。

子育て支援と美術館

 赤ちゃんを連れて美術館に行くことは、赤ちゃん自身だけでなく、一緒に行く大人にとっても普段の生活では気づかない、さまざまな発見や驚きを得られる機会になる可能性を秘めている。考えてみれば当然のことだが、赤ちゃんが自らの意志で美術館に来ることはない。赤ちゃんを美術館に連れてくるのは、たいていお母さんをはじめとする周りの大人たちだ。子育て中の母親などの育児者が、普段の生活のなかで行ける場所はスーパーマーケットや公園などに限られがちだ。だが、子育てをしていても、文化的な刺激を受けたいと思っている人はたくさんいるはずだ。小さなこどもがいても、映画やコンサートにだって行きたいし、美術館にも行きたいかもしれない。近年は、赤ちゃんを連れて鑑賞できる映画館も増えたし(22)、0歳児からの音楽会も開催されている(23)。では、美術館はどうだろうか。
 日本では、核家族社会での子育て中の母親の孤立化について、1980年代頃からその問題が指摘されてきたが、90年代に入ってようやく行政も子育て支援施策を本格的に展開するようになった(24)。また、それまでこどもを預けてまで仕事をしたり、趣味に興じることは親のわがままである、と否定的にとられていたが、現代の子育て事情をふまえて、「親子が心身ともにリフレッシュする時間を持つことの重要性から肯定的に受け止めることも必要(25)」であると、これまでの母性観の転換がみられるようになった。確かに一昔前と違って、最近の傾向として、こどもを預けて大人だけで何かを楽しむのではなく、こどもと一緒に楽しむ、また母親だけでなく、父親もさまざまな催しに参加する姿が見受けられる。中谷奈津子は、子育て家庭のための「継続的・定常的な「縁側」のような地域の居場所づくりへの支援」の必要性を説いているが、その際に行政主体の「預かる」「教える」子育て支援、遊びや遊び場の提供型支援だけでなく、子育てをする母親自身が主体的に組織や活動に「参加」するよう促進していく必要性を指摘している(26)。美術館は、自らが主体的に美術を鑑賞することで、こども自身だけでなく、周りの大人もさまざまな感性を呼び覚ますことができる場となりうる。特に現代美術では、これまでのギモンでも見てきたとおり、観客の主体的な参加を促す作品やプロジェクト型の作品が近年増加して、美術と社会の関係について広く議論されている(27)。美術館を地域社会により開かれた場としていくことで、美術館が地域の子育て家庭にとって、既存の提供型支援施設とは異なる第三の「居場所」になれる可能性は高い。
 一昔前までは、美術館の「こども向け」のプログラムと言えば、教育普及事業の一環として開催される小学生以上を対象としたギャラリー・ツアーやワークショップが主流だった。だが、美術館での赤ちゃん向けプログラムは、赤ちゃんが保護者と一緒に展示を観て回るギャラリー・ツアーなどを中心に近年、増加傾向にある。ただし、それらへの参加は、運営上の制約などもあり、人気があっても人数や回数が限定されることが多い。また、小さなこどもを連れて遠方に出かけるのは至難の業なので、子育て家庭が、ベビーカーだけで移動でき、いつでも気軽に行けるプログラムをもつ美術館が自分の住んでいる地域にないと参加しづらい。
 こうした状況をふまえて、2010年に開催された「こどものにわ」では、まず、それまで美術館を訪れたことがない美術館近隣在住の子育て家庭が美術館に来るきっかけになるように、美術館がある東京都江東区の協力を得て、展示に先駆けて区内4カ所の子ども家庭支援センター、児童館、保育園などの子育て関連施設で乳幼児とその保護者を対象としたワークショップを展覧会に参加する作家のKOSUGE1-16とおこない、その成果を展示の一部とした。また会期中に近隣の商店街と美術館をつなぐ形で乳幼児とその保護者を対象としたワークショップを同じく参加作家の大巻伸嗣とおこなった。そして、美術館では、ワークショップやギャラリー・ツアーなどのように一過性で終わるものではなく、小さなこどもを連れた家庭がよりいつでも気軽に美術館を訪れることができるように、約2カ月半の会期で開催する「展覧会」という形式のプログラムを実現した。次回は、「こどものにわ」で展示された作品についてもう少し具体的に見ていきながら、「赤ちゃん向けの展示」がもたらしたものについて、掘り下げて考えていきたい。

大巻伸嗣《Echoes-INFINITY》(2010年)
東京都現代美術館「こどものにわ」展(2010年)における展示風景
撮影:森田兼次、写真提供:東京都現代美術館
出田郷《reflections》(2009/2010年)
東京都現代美術館「こどものにわ」展(2010年)における展示風景
撮影:森田兼次、写真提供:東京都現代美術館


(1)母子健康法では「赤ちゃん」を次のように定義していて、本稿でもそれに準じて各用語を用いる。新生児:出生後28日未満の乳児、乳児:1歳未満のこども、幼児:1歳から小学校就学前までのこども。
(2)「こどものにわ」2010年7月24日―10月3日、東京都現代美術館
(3)「第6回ヒロシマ賞受賞記念 シリン・ネシャット展」2005年7月23日―10月16日、広島市現代美術館
(4)ミニマル・ミュージックは、音型の反復や持続などで構成される現代音楽の形式の一つ。1960年代から70年代にかけてアメリカを中心に隆盛し、世界的な音楽文化にも影響を与えた。
(5)原典はWilliam James,‘one great blooming, buzzing confusion,’The Principle of Psychology, Macmillan, 1890.
 スイスの発達心理学者のジャン・ピアジェも「赤ちゃんは無力な存在である」と唱えた。またオーストリアのジークムント・フロイトをはじめとする精神分析の理論家は、乳児は「混乱しているというより、最初は周りの世界と関係していない」と考えていた(P・ロシャ『乳児の世界』板倉昭二/開一夫監訳、ミネルヴァ書房、2004年、32ページ)。
(6)榊原洋一「赤ちゃん理解の急速な進歩と赤ちゃん学」、産経新聞「新・赤ちゃん学」取材班『赤ちゃん学を知っていますか?――ここまできた新常識』所収、新潮社、2003年、346―351ページ
(7)山口真美『赤ちゃんは世界をどう見ているのか』(平凡社新書)、平凡社、2006年、17―18ページ
(8)小西行郎『赤ちゃんと脳科学』(集英社新書)、集英社、2003年、37ページ
(9)山口真美『赤ちゃんは顔をよむ――視覚と心の発達学』紀伊國屋書店、2003年
(10)前掲『乳児の世界』34-35ページ
(11)前掲『赤ちゃんと脳科学』110ページ
(12)ポール・ブルーム『赤ちゃんはどこまで人間なのか――心の理解の起源』春日井晶子訳、ランダムハウス講談社、2006年、109―113ページ
(13)岡本依子/菅野幸恵/塚田-城みちる『エピソードで学ぶ乳幼児の発達心理学――関係のなかでそだつ子どもたち』(新曜社、2004年)129―130ページでは、二項関係の成立を生後3、4カ月頃と紹介しているが、P・ロシャは、2カ月としている。三項関係の成立については、ロシャも同じく9カ月としている(前掲『乳児の世界』194―198ページ)。
(14)前掲『エピソードで学ぶ乳幼児の発達心理』146―148ページ
(15)同書129―130ページ
(16)同書121―122ページ
(17)前掲『赤ちゃんは顔をよむ』105―106ページ
(18)同書106―107ページ、前掲『エピソードで学ぶ乳幼児の発達心理』50―51ページ
(19)福島宏器「他人の損失は自分の損失?――共感の神経的基盤を探る」、開一夫/長谷川寿一編『ソーシャルブレインズ――自己と他者を認知する脳』所収、東京大学出版会、2009年、192―195ページ
(20)同書194ページ
(21)嶋田総太郎「自己と他者を区別する脳のメカニズム」、同書所収、66―70ページ、嶋田総太郎『脳のなかの自己と他者――身体性と社会性の認知脳科学と哲学』(日本認知科学会編「越境する認知科学」第1巻)、共立出版、2019年、146―149ページ
(22)TOHOシネマズは2003年から赤ちゃん連れで楽しめる「ママズクラブシアター」を展開している(〔https://www.tohotheater.jp/theater/009/info/mamas_club_theater.html〕)。
(23)代表的なものにソニー音楽芸術振興会の「Concert for KIDS 0才からのクラシック®」がある(〔https://www.smf.or.jp/concert/kids/〕)。
(24)中谷奈津子「地域子育て支援施策の変遷と課題――親のエンパワーメントの観点から」、国立社会保障・人口問題研究所編「社会保障研究」第42巻第2号、国立社会保障・人口問題研究所、2006年、168ページ(〔http://www.ipss.go.jp/syoushika/bunken/data/pdf/18095307.pdf〕)
(25)同論文168ページ
(26)同論文170ページ
(27)日本での具体的な事例のドキュメントとして、例えば荻原康子/熊倉純子編『社会とアートのえんむすび1996-2000――つなぎ手たちの実践』(ドキュメント2000プロジェクト実行委員会、2001年)など参照。

 

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ギモン5:日本人向けの展示ってあるの?(第2回)

難波祐子(なんば・さちこ)
(キュレーター。東京都現代美術館を経て、国内外での展覧会企画に関わる。著書に『現代美術キュレーター・ハンドブック』『現代美術キュレーターという仕事』〔ともに青弓社〕など。現在、キュレーションした坂本龍一の個展「坂本龍一: seeing sound, hearing time」が北京の木木美術館〔M WOODS Museum〕で開催中〔2021年8月8日まで〕)

「他者」の表象と日本の現代美術の表象

 ギモン1の「美術館と展覧会の歴史的背景」のところで少し述べたが、「美術史」と言えば、長年「西洋美術史」を示すことが欧米社会だけでなく、それ以外の地域でも一般的な認識だった。だが、1980年代末の冷戦の終焉と90年代の物流や経済のグローバル化、テクノロジーの発達による情報化の波を受けて、文化の面でも変化を余儀なくされ、そのなかで非欧米地域の美術史についての検証と理論化が進められてきた。現代美術史も長らく単線的な西洋美術の歴史の延長線上に位置づけられてきたが、90年代にポスト・コロニアル(ポスト植民地主義)の議論が盛んになるにつれて、複眼的な視点から、これまで美術史の外に置かれていたアジアやアフリカなど多様な地域の美術も含めて美術史を編み直す動きが見られた。国際的なビエンナーレやトリエンナーレでも非欧米地域の現代美術とその表象が大きなテーマとして各地で積極的に取り上げられるようになった。そこでの議論の中心になったのは、「他者」の表象を取り巻く言説だった。
「他者(the Other)」という英語表記で大文字の「O」を用いる言葉は、ポスト・コロニアルの言説でしばしば用いられる特殊な哲学用語である。「他者」とは、要は、異性愛者の白人男性から見た「他者」であり、有色人種、女性、そして近年よく耳にするLGBTなどの同性愛者やトランスジェンダーといった社会的少数派、マイノリティーを指す。こうした「他者」は、歴史的にも政治・経済・社会活動で表舞台から排除され、社会的弱者としての立場を余儀なくされてきていて、現在もその不均衡はまだまだ是正されきっていないのが現実である。美術の世界でもその傾向は同じであり、例えば一般的な美術史の教科書に名を残すような女性アーティストの数は、国や文化によって多少の差はあるものの、歴史的に見れば男性アーティストの数よりも圧倒的に少ない。また欧米諸国のアーティストに比べて非欧米諸国のアーティストは、1990年代に入るまでほとんど欧米で紹介されることがなかった。それが、グローバル化と情報化の流れを受けて、一気に世界中が簡易に移動できたり、瞬時にネットワークでつながるような動きが加速し、美術の世界でもこれまで知りうることが困難だった遠方の地での情報がリアルタイムで入手できるようになった。こうした状況に伴って、これまで文化的にも「周縁」とみなされてきた非欧米地域の美術が90年代に入って一気に紹介される機会が増大した。またこうした非欧米地域の美術を紹介する展覧会は、主に欧米のキュレーターが欧米の観客のためにキュレーションする、という帝国主義的・植民地主義的手法が長く主流を占めてきた。だが、そうしたアプローチに批判が高まってきたのも90年代であった。
「表象」という言葉についてもここで少し補足しておきたい。「表象(representation)」という言葉は、「他者」同様、記号論や人類学などで用いられる哲学用語である。文字どおり訳すと「(何かや誰かの)代わりに示す、表現する」という意味になるが、美術の場合だと、作品をある文化的な特徴を「表象」するものとして捉えたり、あるいはある特定の国や地域の美術を紹介する展覧会のことを、その国・地域の美術を「表象」する事象として扱う。例えば、日本の現代美術作品を集めた展覧会は、日本の現代美術を表象するもの、ということになる。このように「他者」の表象というのは、現代美術の場合、非欧米地域の文化や美術をどのように作家やキュレーターが表し、紹介しているのか、という意味で用いられている。
 先に述べたとおり、1990年代に入って、非欧米地域の美術を欧米のキュレーターが欧米の観客に向けて紹介するという植民地主義的な展覧会への批判が高まった。それに対して、当該地域出身のキュレーターであれば、よりオーセンティックな、本物らしい、その地域の美術を表象できるのではないか、という期待が、欧米の美術関係者のなかでも寄せられていた。例えばアフリカの美術の展覧会ならアフリカ出身のキュレーター、アジアの美術ならアジア出身のキュレーターのほうが、欧米出身のキュレーターよりもより忠実にその地域の美術を理解し、欧米出身のキュレーターにはできない視点からよりオーセンティックな展覧会を作れるのではないか、と思われたのである。先に紹介した戦後の日本美術を紹介する2つの展覧会が実施されたのは、そうした論争が盛んになった時期でもあった。

ディアスポラなアーティストとキュレーターの登場

 グローバル化が進むなかで、同時に台頭してきた世界的な傾向が、グローバルとは対極にある「ローカル」を志向する流れであった。欧米中心主義で画一的なグローバルに対して、自分たちが住む国、地域、地元ならではの個性、良さ、価値観、文化を大切にして、それを外に向けてアピールするような流れである。美術の場合はそれが先に述べた国際展などで顕著に現れた。またこうした国際展も、それまではヴェネチア・ビエンナーレやドクメンタ(ドイツ)、あるいはホイットニー・バイエニアル(アメリカ)など欧米を中心として開催されていたが、1990年代に入って、光州(韓国)、上海、台北、横浜、アジア太平洋(ブリスベーン、オーストラリア)などアジアを中心とする非欧米地域で新しいビエンナーレやトリエンナーレが次々と立ち上がった。こうした新興の国際展は、欧米のそれと差別化を図るうえで、その土地ならではのローカルな文脈を強調したり、その地域・国らしさを売りにする戦略が多く見られた。そしてこれらの国際展で台頭してきたのが、非欧米地域出身のキュレーターやアーティストだった。これらの国際展では、それまでの欧米の国際展では紹介されてこなかった、その開催地域出身のアーティストが、同じく開催地域出身のキュレーターによって数多く紹介された。だが、こうした非欧米地域出身のアーティストやキュレーターの多くは、実は欧米で教育を受けたディアスポラなアーティストやキュレーターが大半を占めていたことで、この「本物らしさ」や「その国・地域らしさ」をめぐる表象の問題はより混迷を深めることになった。
 ここで「ディアスポラ」という聞き慣れない言葉が突然登場してしまったので、少し説明しよう。「ディアスポラ」とは、ギリシャ語で「離散」を意味する言葉で、もともとはパレスチナを離れて世界各地で暮らすユダヤ人のことを指していた。それが転じて近年は、政治的・思想的な理由で国を離れ、自国以外の場所を拠点として活動をおこなう者のことを意味する。現代美術の世界では、1989年の天安門事件をきっかけとして、多くの中国人アーティストやキュレーターがほかの知識人とともにニューヨークやパリへと移り住み、ディアスポラなアーティストやキュレーターの先駆けとなった。また90年代は、アジアやアフリカの富裕層の子弟や国費留学生などが欧米に留学することが一般的になり、彼らが大学卒業後に自国に戻って活躍する機会が増えた。例えばタイでは、主にアメリカの大学や大学院に留学したアーティストやキュレーターが、タイに戻ってアーティスト・ランのスペースを設立して運営したり、アートプロジェクトを企画するなどの動きが活発化した。こうした欧米で教育を受けたディアスポラなアーティストやキュレーターは、英語、フランス語、ドイツ語などの欧米の主要言語と、アートの専門用語(ジャーゴン)という二つの特殊な「言語」を駆使することに長けていて、欧米の専門家に対して、わかりやすく非欧米の表象について語ることができるという、ある意味、特権的な立場にいた(28)。つまりこうしたアーティストは欧米の美術関係者に対して、わかりやすいオーセンティックな「ローカル」の作品を提示することを得意としたのである。またキュレーターは、そうしたアーティストを、「グローバル対ローカル」や「グローカル」「ハイブリッド」などのはやりの言説を巧みに用いながら、その地域の美術を代表するものとして積極的に紹介する役割を果たした。だが、こうした他者の表象の立役者だった彼ら自身が、それまで欧米出身者が主流だった「スター・キュレーター」「スター・アーティスト」と呼ばれる国際展の常連組に同じように名を連ねるようになるには、時間はかからなかった。皮肉なことに結果的には、世界中どこの国際展に行っても、同じディアスポラなスター・キュレーターが選定する同じくディアスポラなスター・アーティストの顔ぶれによる企画が散見されることになった。そしてこうした非欧米地域の美術についての展覧会は、同じく非欧米地域出身のキュレーターの手によるほうがよりオーセンティックな表象になる、という一種の幻想的な期待が欧米・非欧米双方の美術関係者のなかで徐々に崩れ始めていった。

共同キュレーションによる新しい試み

 2000年代に入って、こうした他者の表象をめぐる議論は、世界各地で盛んにおこなわれた共同キュレーションなどの試みによって、新たな方向性を模索していくようになった。そこでは誰が誰をというよりは、お互いがお互いに対話を通して新しい表象の可能性を切り開くというスタイルが主流になっていて、その傾向はいまも続いている。日本では、国際交流基金アジアセンターが主催した「アンダーコンストラクション――アジア美術の新世代」展がその好例の一つになった。この展覧会は、インドネシア、インド、韓国、タイ、中国、日本、フィリピンから9人の若手キュレーターが、アジア各地でリサーチして、アジアの表象について共同で模索する、という一大プロジェクトだった。このプロジェクトでは、2000年から参加キュレーターによる調査とセミナーがおこなわれ、01年から02年にかけて、アジア7都市で単独あるいは共同でキュレーションした展覧会を実施し、最終的には東京でそれまでのローカル展を総括する展覧会を開催した。このプロジェクトをきっかけにして構築されたアジア人キュレーターやアーティスト、美術関係者のネットワークは、その後の日本国内外のアジアの表象をめぐる展覧会にも大きく貢献することになった。
 また2013 年に森美術館で開催された「六本木クロッシング2013 アウト・オブ・ダウト――来たるべき風景のために」もオーストラリア人のキュレーター、ルーベン・キーハンとアメリカ人キュレーターのガブリエル・リッターが森美術館の片岡真実と共同でキュレーションをおこなった。「六本木クロッシング展」は、同館で04年にスタートした3年に一度開催される、日本における多様なジャンルのアーティストやクリエーターを紹介する展覧会である。4回目となった13年は、海外から日本の現代美術に精通している2人のゲストキュレーターを迎え、若手作家だけではなく、異なる世代の作家や海外在住の日本人作家なども加えて、日本の現代美術を多角的に検証する機会とした。ここで大切なのは、キーハンが述べているようにこの展覧会が、「日本美術とは何なのか、何だったのかという問いではなく、日本美術がどうなりうるか、そして何ができるのか」を日本に対して、それも「単に約1億3,000万人の住む列島という場ではなく、何十億という人々がその意味を共有し、協議している日本という考え、概念に対して何ができるのか(29)」と問題提起している点である。

「日本の」現代美術

 さて、ずいぶんとまわり道をしてしまったが、「日本人向けの展示というのはあるのだろうか」という今回のギモンを発端にして、ある特定の国や地域の美術を表象することについていろいろと考えてきた。ここでいちばん考えたかったことは、日本の現代美術は、誰にとって、誰が発信する「日本らしさ」「日本文化らしさ」なのだろうか、というギモンと、現在の日本人にとって、あるいは世界の人々にとってその国らしさを表象するということはどういった意味をもつのだろうか、という大きな問いだ。というのも、一国の文化をプロモーションするというのは、それが誰に向けたものであれ、第二次世界大戦中のナチス・ドイツの一大文化プロパガンダや、戦時中の日本の文化統制などを彷彿とさせるナショナリズムな動きと切り離して考えることができない、危険と背中合わせの行為だからである。異文化はもとより、LGBTや障害者など多様な背景をもつ人々に対する社会的包摂(インクルーシブ)が必要とされる現代社会で、ある特定の文化を表象することについて、私たちは注意深くあるべきである。
 また、ここでこれまで当たり前のように用いてきた「日本の」現代美術が規定する「日本」や「日本らしさ」は、実は一定の決まりきった概念ではなく、時代によっても、また個々人によってもその定義は揺らいでいるものであることには留意する必要がある。日本は長らく単一民族による単一国家であるという幻想があったが、近年のアイヌや琉球文化への見直しや、日本に長期滞在している日系ブラジル人やアジア人労働者などの地域コミュニティとの関わりへの眼差しなどは、そうした考え方に一石を投じている。
 また、同じ「非欧米地域」の「アジア」ではあっても、例えば日本の現代美術の国内外での紹介のされ方と、植民地支配を経験したほかのアジア諸国の現代美術の紹介のされ方を同一視することはできない。もっと言えば、「東洋」というコンセプト自体も、西洋側に規定されてきたものであり、そのことを忘れて十把ひとからげに「アジア」の美術とか、「日本」の美術という言い方をすることは、非常に乱暴な態度である(30)。したがって「日本の」現代美術の展覧会が開催されるときに、それが誰によって、誰のために開催されているか、というその背景にある文脈によって、その定義は常に流動的であることは頭の片隅に置いておく必要があるだろう。
 先に登場した「他者」や「表象」といった言葉も、もともとは英語の「the Other」「representation」という欧米の知識人層で用いられる専門用語である。そもそもこれまで見てきた展覧会や美術館という枠組みそのものや、現代美術というカテゴリー自体が西洋生まれの概念だった。明治の時代に翻訳された「美術」という用語が日本でなじみがなかった概念であったように、文化や地域によって「美術」や「現代美術」の定義そのものも統一されたものではないことは、ローカルの文脈を考えるうえで大切な要素だろう。
 国を挙げて推進されてきた東京2020の文化プログラムに関連する展覧会の多くは日本で実施され、コロナ禍の影響によって当初想定していた海外からのインバウンド客ではなく、日本国内の観客がその主たる対象になった。これらの展覧会を鑑賞する側から見れば、政府や組織委員会の思惑とは裏腹に、それが外国人向けに作られようと日本人向けに作られようと、もはや結果的には大差がないように見受けられる、というか比較検証することも物理的にできない、というのが正直なところだ。これらのプログラムの多くは、主には「海外」の観客に向けて日本文化を発信するものだったが、「海外」と一口に言っても、それは日本人や日本文化の定義が一様ではないように、「海外」を「日本以外」とした、かなり大ざっぱで漠然とした定義であると言えるだろう。先に見てきたように多言語化対応で中国語と韓国語が英語に加えられたことは、想定されていたインバウンド客のなかでもアジアの観客を意識したことは推察される。だが、ここで言う「アジア」も正確には東アジアの観客で、ここには西アジアや東南アジアは含まれていない。

コロナ禍における文化の表象

 ある特定地域の美術の表象が1990年代に問題になったように、それを享受する観客についても、単純に「日本」の観客、「アジア」の観客と一括りにすることは、このグローバルな現代社会で、時代錯誤的な発想であると言わざるをえない。むしろコロナ禍という特殊な状況で、どこの国のアーティストもキュレーターも、そして観客も自由に移動することが制限され、自国にとどまることを余儀なくされたことで、この問題はまた新たな局面を迎えているのではないだろうか。
 例えば、コロナ禍で展覧会や美術関係のシンポジウムもオンラインのプログラムが増えて、どこにいても、世界中のプロジェクトやプログラムを自宅にいながらにして享受できるようになった。そうしたプログラムでは世界各地をリアルタイムで同時に結ぶものも多い。そうなった場合に、対象となる観客の居住地域はもはや重要な要素ではなく、開催されるプロジェクトのテーマや内容に関心がある層であれば、言語や時差の問題はあるかもしれないが、基本的には誰でもどこからでも参加できる。そこでは何がオーセンティックなのか、ということはもはや問題にされないし、逆にいまを生きる私たちに何が必要なのか、またそれを異なる文化や社会に生きる各自がどう受け止めるか、それぞれの状況でどう対処しているのかを互いに学び、共有し合うことのほうが喫緊の課題になっていると言えるだろう。それは、キーハンらが提起した日本の現代美術に対する問いと共通する姿勢ではないだろうか。
 これまで見てきたように日本の現代美術の表象は、時代とともに変化し続けている流動的なもので、今日のグローバルな文脈では、日本の現代美術も、ほかの地域の美術の表象と同じく複眼的に思考されることが求められていると言える。一方で、本ギモンの冒頭で少し例示したように、「日本の現代美術」と言われて、私たちが何となく曖昧にそれらしく思い描くもの、があることも事実である。それが東京2020の文化プログラムでは、よりはっきりと極端な方向性をもって可視化されることになった。だが、そもそも「日本人」にしかわからない「日本の現代美術」の展示などあるのだろうか。「日本人」のアイデンティティや定義が揺らぐなかで、同じ日本人でも年齢や住んでいる地域、生きている時代、自らの関心の対象によって、現代美術の受け止め方もそれぞれであるにちがいない。そして展覧会で「わかる」ことは重要なのだろうか。次のギモンでは、こうした問いについてまた一歩考えを進めていくために、赤ちゃん向けの展示があるのかという問いを通して、展覧会の観客について、また別の観点からあらためて考えていきたい。


(28)ディアスポラの知識人については、香港出身のレイ・チョウ『ディアスポラの知識人』(本橋哲也訳、青土社、1998年)を参照されたい。
(29)ルーベン・キーハン「喪失の構造、解放の構造」、森美術館編『六本木クロッシング2013 アウト・オブ・ダウト――来たるべき風景のために』所収、平凡社、2013年、212ページ
(30)タイの美術史家であるアピナン・ポーサヤーナンは、こうした「西洋」に対するアジアの単一的な「東洋化」や「アジア化」といった見方に対して異を唱えている。Apinan Poshyananda, “Roaring Tigers, Desperate Dragons in Transition” in Apinan Poshyananda eds, Contemporary Art in Asia: Traditions/Tensions, Asia Society Galleries, New York,1996, p. 24.

 

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ギモン5:日本人向けの展示ってあるの?(第1回)

第1回 現代日本の美術とは?

難波祐子(なんば・さちこ)
(キュレーター。東京都現代美術館を経て、国内外での展覧会企画に関わる。著書に『現代美術キュレーター・ハンドブック』『現代美術キュレーターという仕事』〔ともに青弓社〕など。現在、キュレーションした坂本龍一の個展「坂本龍一: seeing sound, hearing time」が北京の木木美術館〔M WOODS Museum〕で開催中〔2021年8月8日まで〕)

 突然だが、あなたは「日本美術」と聞くと、何を思い浮かべるだろうか。日本画や絵巻物、掛け軸、屏風絵などの墨や岩絵の具を使った絵画、浮世絵などの版画、あるいは漆器や陶磁器、金工、竹細工などの工芸品だろうか。仏像や寺院を思い浮かべる人、着物などの染色や織物を思い浮かべる人もいるかもしれない。では、「日本の現代美術」と聞くとどうだろうか。水玉で埋め尽くされる草間彌生のインスタレーションや、アニメのキャラクターを想起させる村上隆の作品などは、アートに普段なじみがない人でも、目にしたことはあるだろう。これらの「日本の現代美術」には、何らかの共通項があるのだろうか。また「日本の」現代美術は、世界のそのほかの地域の現代美術と何か異なるのだろうか。「日本」というキーワードをめぐる美術作品やその展示というのは、現代の瞬時につながるネット時代のグローバル化した世界でどういった意味をもつのだろうか。また、そうした「日本の現代美術」作品を展示するキュレーターは、日本人である場合とそうでない場合に、何か違いはあるのだろうか。そして「日本の現代美術」の展示を鑑賞する観客が日本人の場合とそうでない場合に、その受け止め方にどのような違いがあるのだろうか。あるいは、そういったことは大差がないことなのだろうか。そもそも日本人向けの展示というものはあるのだろうか。
 ギモン4で、ミシェル・フーコーの言葉を手がかりに作者と作品の関係を考えた際に、「作家」や「作品」をめぐる言説はそれを取り巻く社会的なシステムと結び付いていて、その背景となる時代や文化によって多様な姿を見せている、と駆け足で述べた。本ギモンでは、この点にもう一度立ち返り、日本の文化や歴史、社会的背景と日本の現代美術の関係に焦点を当て、いままでとはまた別の角度から作家、作品、展示、キュレーター、観客にまつわるギモンを捉え直す。そして「日本の現代美術」を日本人のキュレーターが日本の観客に向けて展示することについて、国内外である特定地域の美術に焦点を当てた展覧会のキュレーションの動向なども踏まえながらあらためて考えてみたい。

東京2020と文化プログラム

 東京2020オリンピック・パラリンピック競技大会(以下、東京2020と略記)の開催が決まった2013年頃から、「インバウンド」というカタカナ言葉をやたら耳にするようになった。インバウンド(inbound)とは、もともとは「本国行きの」「市内行きの」など外側から内側へ向かう移動を意味する英語だが、日本では、もっぱら海外から日本を訪れる旅行、すなわち訪日外国人旅行のことを指す。日本は、07年に観光立国を目指して観光立国基本推進法を制定し、翌08年には観光庁を設置した。これを受けて、ビザの緩和や免税措置などさまざまな振興策が功を奏し、05年に670万人だった訪日外国人旅行者数は、15年には1,973万人を超えるまでに急増した(1)。また20年のオリンピック開催に向けて4,000万人まで全世界からの誘客を目指し、18年から3カ年計画での一大プロモーションが観光庁の旗振りのもとに計画された(2)。
 一方、東京都と文化庁でも、東京オリンピック・パラリンピック競技大会組織委員会と緊密に連携をとりながら、それぞれ東京2020に向けて展覧会事業や公演事業などの各種文化プログラムを推進すべく、さまざまな政策をとってきた(3)。2020年春には、新型コロナウイルス感染症の世界的な拡大によって東京大会が21年に延期され、それに伴って各種文化プログラムもその計画の多くは21年に延期され、さらにこの原稿を執筆している時点(2021年5月)でも、3回目となる緊急事態宣言が6都府県に発出され(4)、不透明な状況へと変更を余儀なくされていて、関係者の胸中を察するに余りある事態になっている。だが、この東京2020を契機として進められた文化・観光面での政策やプログラムの数々と、今日のコロナ禍が世界各地の美術展事業にもたらす影響は、現代美術の展示での「日本」というキーワードをめぐるあれこれについて考えるうえで、いくつかの有益なヒントを与えてくれると思われるので、ここで少し詳しく見ていきたい。
 はじめに、そもそもオリンピック開催がなぜ文化プログラムの推進と関係があるかについて疑問に感じた方もいるかもしれないので、まずは簡単におさらいしておこう。国際オリンピック委員会(IOC)が定めた近代オリンピックに関する規約であるオリンピック憲章では、その根本原則でオリンピズムを「人生哲学」と位置づけ、「肉体と意思と知性の資質を高めて融合させた、均衡の取れた総体としての人間を目指すもの」としている。そして同憲章の第5章第39条に、オリンピック競技大会組織委員会は、オリンピック村の開村期間に「複数の文化イベントのプログラムを計画しなければならない」と定めている(5)。つまり、文化プログラムの実施は、オリンピック開催国の義務になっているのだ。また近年の文化プログラムは、オリンピック開催期間を超えて長期化・大規模化していて、なかでも東京2020関係者の多くが参照している第30回のロンドン大会(2012年)での文化プログラムは、開催年に向けて4年間にわたるカルチュラル・オリンピアードという公式プログラムが過去最大規模でロンドンだけでなくイギリス全土で約17万7,000件以上が実施され、観光産業やクリエイティブ産業に大きく貢献したことは記憶に新しい。特にオリンピック開催中を含む12週間にカルチュラル・オリンピアードの締めくくりとして実施されたロンドン・フェスティバルは、200以上のプログラムが美術や音楽、映画、障害者芸術などの多岐にわたる分野で実現され、2,000万人が参加した(6)。
 こうしたロンドンでの大きな成功事例を踏まえ、東京2020でも、文化プログラムをオリンピック開催前から長期にわたって日本国内各地で実施することが東京2020の基本方針にも位置づけられた。また2016年には国の文化審議会で、文化庁の移転や、東京2020を契機とした文化プログラムの推進による遺産(レガシー)の創出という2つの課題を踏まえて文化政策の機能強化について審議され、16年11月には、「文化芸術立国の実現を加速する文化政策(7)」という答申がとりまとめられた。このなかで、東京2020を世界が日本に注目し、日本から世界に文化発信をする好機と捉えている。さらに東京2020終了後も、そのレガシーの創出までを政策のなかに位置づけて、メディア芸術などを含めた幅広い分野での新たな文化芸術活動への支援や人材育成、基盤整備を進め、「文化芸術立国」を目指すとしている。つまり、この東京2020が契機になって、観光立国と文化芸術立国という国の政策が文化プログラムを通して推進されることになったというわけである。

日本らしさと日本文化発信

 こうして東京2020を取り巻く文化政策は、日本人が考える日本文化をさまざまな文化プログラムを通して海外に向けて発信することを目的として進められている。まず、インバウンドを促すには、ビザの緩和などの法的な整備に加えて、日本の良さ、日本でしか味わえない魅力、日本らしさを海外に向けてアピールすることが肝要であることは言わずもがなだろう。こうした魅力を備えた、いわゆる観光資源のプロモーションのなかで、日本文化が果たす役割は大きい。美術の分野で考えると、文化財などのほか、日本美術のコレクションを擁する美術館や博物館も重要な観光資源である。例えば、東京2020に向けて、公共交通機関や文化財が所在する観光地などに加えて、美術館や博物館も国立博物館・美術館を皮切りに2015年前後から多言語化対応が進められてきた。日本語、英語はもちろんのこと、特に近年急増したアジアからの観光客を意識して中国語、韓国語も含んだ4カ国語による作品解説やキャプション類は、いまでは国立の博物館・美術館では、常設展示だけでなく企画展示でも対応している。解説の文字情報が多い場合は、QRコードから各国語の言語の解説を観客がスマートフォンで読み込んでダウンロードする、といったケースも少なくない。またこうした他言語への翻訳は、外部の翻訳会社などの翻訳者に発注するだけでなく、国立の博物館では各言語を母国語とするスタッフを採用したり、日本美術を専門とする外国人スタッフを採用するなどして、こうしたスタッフが多言語対応にとどまらず、海外の美術館・博物館との人物・学術交流や、国際的な展覧会事業のコーディネートなどを務めている(8)。
 また文化プログラムの一環として、文化庁主催の博物館や芸術祭などの展覧会を開催年に先立って国内外で開催しているほか、東京をはじめとする日本国内各地で、文化庁が中心になって「日本博(9)」という一大文化事業が企画されている。日本博は、総合テーマである「日本人と自然」のもとに「美術・文化財」「舞台芸術」「メディア芸術」「生活文化・文芸・音楽」「食文化・自然」「デザイン・ファッション」「共生社会・多文化共生」「被災地復興」という8つの分野にわたって「縄文時代から現代まで続く「日本の美」を国内外へ発信し、次世代に伝えることで、更なる未来の創生」を目的としている。これには文化庁が主催するもの、美術館や博物館と共催するもの、また地方公共団体や民間企業の事業を補助する事業などがあり、2021年現在もコロナ禍によってさまざまな会期・内容変更などがあるものの、実施・計画されている。
 この「日本博」が掲げるテーマと各分野は、現在の日本人が考える日本らしさ、日本の文化、日本の美術を海外から日本に来る外国人に向けて発信する一連の事業であり、各分野でどのような事業を展開しようとしているかという「日本博」のウェブサイトでの説明(10)と、実際にどのような事業が実施・採択されているのかを見渡してみると、大変興味深い。なかでも特に近年現代美術の領域として展覧会が実施されている機会が増加する傾向にある「メディア芸術」が、「美術・文化財」とは切り離されて一つの独立した分野になっているのは、長年「文化庁メディア芸術祭(11)」を実施してきた文化庁や、経済産業省が中心となって官民が連携して推進している「クールジャパン」戦略(12)と無関係ではないだろう。また全体のテーマは縄文時代から現代まで続く「日本の美」を国内外に発信、継承していくことを謳っているが、これはあたかも日本の美術が縄文時代から現代にいたるまで、単線的に発展してきたかのような印象を与える。だが、いまの日本の美術を形成している要素の多くは縄文時代よりもずっと後になって中国大陸や朝鮮半島からもたらされた文化の影響が大きく、さらに明治時代の近代化による西洋文化の影響や戦後のアメリカ文化の流入など、さまざまな要素を折衷的に取り入れてきたという事実を、日本のオリジナリティを強調するために都合よく排除しているようにも思われる。
 このように今回の東京2020を契機とした海外に向けて発信する「日本らしさ」や「日本美術」というものは、国を挙げて戦略的にプロモーションされたものだった。この「日本らしさ」や「日本美術」というコンセプトや枠組みは、現代美術の文脈では、日本の現代美術が海外、特に欧米で紹介される際にさまざまな物議を醸してきた。ここで少し時間を巻き戻して、1980年代、90年代の欧米での日本の現代美術の紹介のされ方について、特に現代美術に焦点を当てて見てみよう。

1980年代から90年代の欧米での日本の現代美術の紹介

 海外での大々的な日本美術の紹介はギモン1でも少し触れたが、古くは19世紀の万国博覧会が大きな役割を果たした。これを戦後の現代美術の分野に絞ってみると、日本の場合は、1952年に初参加したヴェネチア・ビエンナーレをはじめとする国際展への参加が主な舞台だったと言えるだろう。その後も66年にニューヨーク近代美術館で開催された「新しい日本の絵画と彫刻(The New Japanese Painting and Sculpture)」展などいくつか日本の現代美術に焦点を当てた展覧会は開催されたものの、その評価は「日本の現代美術は欧米の模倣である(13)」という見方を長く欧米の美術関係者に印象づけるものだった。それが80年代に入って、日本がバブル経済で国際的な経済大国として注目を浴びるようになった時期と同じくして、日本の現代美術を紹介する展覧会が欧米の美術館で盛んに実施されるようになり、そのなかで日本の現代美術に対するアプローチも多様化した。日本の現代美術を海外で紹介することについては、72年に外務省の監督のもとに国際文化交流事業を通して国際相互理解の増進と国際友好親善の促進をおこなうことを目的に設立された国際交流基金のはたらきも大きい。ここでは紙幅の関係上、詳細は割愛するが、国際交流基金は、現在もヴェネチア・ビエンナーレ日本館の主催者であり、また特に80年代から90年代にかけては、海外の美術館などと共催して日本の美術を紹介する展覧会事業を数多く手がけてきた(14)。なかでもパリのポンピドゥー・センターで86年に実施された「前衛芸術の日本 1910-1970展(Japon des avant-gardes 1910-1970)」は、戦前から戦後にいたる日本の美術を絵画や彫刻、インスタレーションのほか、建築、デザイン、工芸、写真など多岐にわたるジャンルの作品を通して包括的に紹介した大規模な展覧会であった。また94年に横浜美術館で開催され、その後グッゲンハイム美術館やサンフランシスコ近代美術館に巡回した「戦後日本の前衛美術展 空へ叫び(Japanese Art after 1945: Scream against the Sky)」は、約100人の作家による絵画、彫刻、写真、ビデオ、インスタレーションなど180点の作品が展示されるという、戦後日本の前衛美術の流れを展観するニューヨークでは過去最大規模の日本美術展になった(15)。研究者の光山清子は、その著書『海を渡る日本現代美術』で戦後から95年までの日本の現代美術の海外での受容について、欧米で実施されてきた展覧会を詳細に分析・考察している。ここでは光山が取り上げたなかでも、欧米の日本美術研究者にいまでもよく参照されている「前衛芸術の日本」と「戦後日本の前衛美術」の2つの重要な展覧会について、彼女の分析と考察を参照しながら、少し見ていこう。

「前衛芸術の日本」展での日本の美術とその受容

「前衛芸術の日本」については、そのキュレーションについては、「展覧会は国際交流基金との共催であったが、このような包括的なもの〔視覚芸術だけでなくそれと関連した領域を取り込んだアプローチ:引用者注〕を提案し、全行程を通じてイニシャティヴをとったのはポンピドゥー・センター」であり、こうした包括的アプローチは「企画当初からの重要な原則であった(16)」という。この展覧会に先立って、ポンピドゥー・センターでは「パリ―ニューヨーク 1908-1968」(1977年)や「パリ―モスクワ 1900-1930」(1979年)などパリを中心とするフランスと他国の都市とのある時代の文化的関連に焦点を当てるような展覧会を催していた。したがって「前衛芸術の日本」も、日本がどのように西洋の前衛運動と関わったかを検証することを目的としていた。だが、そのアプローチは、特に日本の批評家や美術関係者からは、ヨーロッパ中心主義であるとの批判を受けることになった。この展覧会で扱う年代の区切りである1910年から70年という設定は、あくまでも国際的な前衛運動に対して設けられたものであり、日本のそれとは関係がない。またこの展覧会では、彼らが用いた「前衛」の概念に基づいて、ヨーロッパ的な観点からの日本美術紹介になったことが問題視された(17)。ここで興味深いのは、光山が指摘するように、こうした日本での批判に対して同展に関わった高階秀爾と千葉成夫が「この展覧会はフランスのイニシャティヴによってフランスの観客のために企画されたものであると述べてこれを擁護している(18)」ことである。つまり、フランス人のキュレーター(19)たちは、この展覧会がフランスの観客にとっては初めて20世紀の日本美術を包括的に紹介する展覧会となることを重要視し、観客が「慣れ親しんだヨーロッパ前衛美術運動の歴史に沿うかたちをとること」で、「日本美術には不案内な観客にも参照事項を与えられるだろうと考えた(20)」。しかし結果的には、こうしたキュレーター側の意図とは裏腹に、観客の大半は、この展覧会を通して、日本の前衛美術はヨーロッパの前衛美術の模倣であると受け止める結果になった(21)。

「ガイジン」のキュレーションによる「戦後日本の前衛美術」

 1995年は、第二次世界大戦後50周年を迎える節目の年だったが、それに先立つ1年前の94年に「戦後日本の前衛美術」展が横浜美術館で企画され、その後94年から95年にかけてニューヨークとサンフランシスコに巡回した。この展覧会のキュレーションを担当したのは、当時ニューヨークと東京を拠点に活動していた20世紀の日本美術研究者でインディペンデント・キュレーターであったアメリカ人のアレクサンドラ・モンローだった。本展でモンローは日本の前衛美術がいかに「西洋美術の範疇で分類されることを拒み、理論の構築を「自己」の内に求めた(22)」かを描き出そうとし、日本国内の美術関係者のなかでもそれまでになかった視点を持ち込み、日本で大きな論争を引き起こした。それに対してモンローは、この展覧会が「ガイジン」によってキュレーションされたという「誤解」があったと弁明し、そうではなく、主催者である横浜美術館の学芸員との協議を踏まえながらキュレーションをおこなったと主張した(23)。だが、この点については、光山も指摘するように、本展のカタログに記載された主要テキストの大半を執筆したのはモンロー自身であり、「日本側がコンセプトのレヴェルで展覧会に本質的な貢献をしたとは考えにくい(24)」。光山は、モンローの高い日本語能力と日本文化に関する豊富な知見に根ざしたキュレーションによる本展とそれを支えてきた研究について、「戦後日本美術史の構成・修正に大きく寄与するところがあった(25)」と高く評価している。例えば、書や陶芸など、いわゆる伝統美術の分野で活動する前衛作家は、日本国内でも、戦後美術史の文脈のなかで見落とされてきていたが、この展覧会では墨人会(26)や走泥社など前衛書家や前衛陶芸家のグループに属する作家たちの作品も紹介され、こうした動きを再評価した。つまりこの展覧会は、日本のことをよくわかっていない「ガイジン」ではなく、日本研究を専門とするアメリカ人キュレーターが企画したものであり、日本美術の展覧会企画で、必ずしも日本人だけが優れた企画、より日本美術の実態に忠実なオーセンティックな(本物らしい)企画ができるとはかぎらないことを立証することになった。
 このように海外で日本の現代美術を紹介した記念碑的な2つの展覧会である「前衛芸術の日本」と「戦後日本の前衛美術」は、性格は異なるものの、いずれも欧米出身のキュレーターが主導した展覧会であり、これまでにない切り口とスケールで欧米の観客に日本の現代美術を紹介することになった。しかしその手法に対して、現地だけでなく、(後者は横浜美術館で展覧されたこともあるが)、日本国内の美術関係者が物議を醸したことは興味深い。そこには、やはり日本美術のことは欧米人よりも日本人のキュレーターのほうがよりオーセンティックな企画ができるという幻想があったように思われる。それは、特に1990年代にアジアやアフリカなどの非西洋、非欧米地域(27)の現代美術を欧米に紹介する展覧会で、当の欧米諸国でも美術関係者の間でさまざまな物議を醸した動きとも関係している。そこで議論の中心になったのは、誰が誰(あるいは何)を誰のために表象するのか、といった問題だった。これは展覧会の場合で言えば、どこの国や地域出身のキュレーターが、どの国や地域の美術をどこの国や地域にいる観客に向けて企画するのか、という問題である。第2回では、ある特定の国や地域の美術を紹介する展覧会で、特に90年代に現代美術関係者の間で大きな問題になった「他者」の表象に関する論争から見ていこう。


(1)JTB総合研究所「インバウンド」「観光用語集」(https://www.tourism.jp/tourism-database/glossary/inbound/
(2)観光庁「訪日旅行促進事業(訪日プロモーション)」(https://www.mlit.go.jp/kankocho/shisaku/kokusai/vjc.html
(3)本稿では、詳しく紹介できなかったが、東京都が進めている文化プログラムについては、「Tokyo Tokyo FESTIVAL」事業を参照されたい(https://tokyotokyofestival.jp)。
(4)東京都、大阪府、京都府、兵庫県の4都府県に2021年4月25日から5月11日まで発出。5月12日からは愛知県と福岡県も加わり、5月31日までの延長が決まった。緊急事態宣言に追加される県は2021年5月現在も増加傾向にあり、5月31日に解除される見通しも立っていない。
 また5月12日からの延長に際して、当初、東京国立博物館、東京国立近代美術館、国立新美術館、国立科学博物館、国立映画アーカイブの国立館5館は開館、都の美術館・博物館は31日まで臨時休館延長となり、国と都での対応が異なるというちぐはぐな状況が生じた。これについて都からの要請を受けて、国立5館も休館を継続することが5月12日に決まった。
(5)オリンピック憲章と文化プログラムの関係については、文化審議会第14期文化政策部会(第2回)議事次第資料1-1文化庁説明資料参照。「文化プログラムの実施に向けた文化庁の取組について――2020年東京オリンピック・パラリンピック競技大会を契機とした文化芸術立国実現のために」(https://www.bunka.go.jp/seisaku/bunkashingikai/seisaku/14/02/pdf/shiryo1_1.pdf
(6)“Reflections on the Cultural Olympiad and London 2012 Festival”(http://www.beatrizgarcia.net/wp-content/uploads/2013/05/Reflections_on_the_Cultural_Olympiad_and_London_2012_Festival.pdf
(7)文化審議会第14期「文化芸術立国の実現を加速する文化政策(答申)――「新・文化庁」を目指す機能強化と2020年以降への遺産(レガシー)創出に向けた緊急提言」(https://www.bunka.go.jp/seisaku/bunkashingikai/sokai/sokai_16/pdf/bunkageijutsu_rikkoku_toshin.pdf
(8)例えば、東京国立博物館では、2018年の時点では中国人2人、韓国人2人、アメリカ人1人のスタッフが国際交流室という部署で業務にあたっている(東京国立博物館「多言語対応から感じた日本と中国の美意識」〔https://www.tnm.jp/modules/rblog/index.php/1/2018/06/29/多言語対応/〕)。
(9)日本博については、文化庁ウェブサイト「「日本博」について」(https://www.bunka.go.jp/seisaku/nihonhaku/pdf/r1413086_02.pdf)を参照のこと。「日本博」(https://japanculturalexpo.bunka.go.jp
(10)例えば、「美術・文化財」と「メディア芸術」のそれぞれの分野の説明を比較して読んでみると、「メディア芸術」が「美術・文化財」から不自然に切り離されているような印象を受けるのは、私だけだろうか。文化庁「美術・文化財」(https://japanculturalexpo.bunka.go.jp/about/field-8/art_and_cultural_treasures/)、「メディア芸術」(https://japanculturalexpo.bunka.go.jp/about/field-8/media_arts/
(11)文化庁メディア芸術祭は、「アート、エンターテインメント、アニメーション、マンガの4部門において優れた作品を顕彰するとともに、受賞作品の鑑賞機会を提供するメディア芸術の総合フェスティバル」であり、1997年から実施されている。詳細については文化庁「文化庁メディア芸術祭」(https://j-mediaarts.jp)を参照のこと。
(12)クールジャパン戦略については、内閣府の知的財産推進事務局による以下のウェブサイトを参照のこと。内閣府「クールジャパン戦略」(https://www.cao.go.jp/cool_japan/about/about.html
(13)光山清子『海を渡る日本現代美術――欧米における展覧会史 1945~1995』勁草書房、2009年、65ページ
(14)国際交流基金に関しては拙著『現代美術キュレーターという仕事』(青弓社、2012年)でも詳しく紹介しているので、参照されたい。
(15)両展覧会のデータについては、国際交流基金文化事業部編『国際交流基金展覧会記録――1972-2012』(国際交流基金、2013年)を参照した。
(16)前掲『海を渡る日本現代美術』158ページ
(17)同書159ページ
(18)同書161―162ページ
(19)同展では「コミッショナー」という呼称を使用しているが、キュレーターとほぼ同義なので、本文では便宜上、キュレーターと記す。
(20)前掲『海を渡る日本現代美術』162ページ
(21)同書162ページ
(22)同書167ページ
(23)同書166ページ
(24)同書166ページ
(25)同書168ページ
(26)墨人会は1952年に京都で結成された書家のグループ。走泥社は、48年に京都で結成された陶芸家のグループ。いずれもモンローが本展で紹介したことで、日本の現代美術史の文脈のなかに彼らの活動が位置づけられる大きなきっかけになった。例えば走泥社については、2019年に森美術館で特集展示が組まれ、本展示の共同企画者であったアーティストの中村裕太が、1950年代から60年代の現代陶芸に呼応する新作インスタレーションを発表するなど、ユニークな試みがおこなわれている。森美術館ウェブサイト「MAMリサーチ007:走泥社―現代陶芸のはじまりに」(https://www.mori.art.museum/jp/exhibitions/mamresearch007/index.html
(27)本稿では、便宜上、「西洋」「欧米」といった用語を使用するが、「西洋」や「欧米」といった場合に、同じ西洋のなかでも正確には特に西欧諸国、また北米だけを指しており、東欧や北欧、中南米は、アジアやアフリカ諸国同様に長らく周縁地域とみなされていたことに留意することは重要である。

 

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ギモン4:作品って何?

難波祐子(なんば・さちこ)
(キュレーター。東京都現代美術館を経て、国内外での展覧会企画に関わる。著書に『現代美術キュレーター・ハンドブック』『現代美術キュレーターという仕事』〔ともに青弓社〕など)

「作品」は誰が作るのか

 これまで美術館をはじめとする、「作品」を展示する環境と、その歴史的な成り立ち、また「作品」が展覧会での展示を通して「作品」として成立するうえでのキュレーターの役割などについて見てきた。これらのギモンでは、アーティストが「作品」を作り、キュレーターがそれを「展示」する、という大前提を基本にしていた。だが、ギモン1で少し触れた1990年代以降に急増した参加型の作品は、作品が成立するうえでアーティスト以外の複数の人が関わることが多く、こうした「大前提」にさまざまな問いを投げかけている。
 ところで、「作品」を複数の人による協働作業で作る、という行為自体は、美術史的に見れば、実は新しいものではない。ヨーロッパでは、特に中世からルネサンス期にかけて工房制度が長きにわたってあり、絵画の制作は、アーティスト個人の表現活動というよりは、工房で分業による集団作業でおこなわれていた。近代以降、師弟関係に基づく工房制度の時代とは、美術作品の制作のあり方も様変わりしたが(1)、現代美術では、単一の作者としてのアーティストという存在にかわって、地域住民や観客が作品の制作に関わることがごく一般的になってきた。例えばギモン1に登場したリクリット・ティラヴァーニャの「無題(デモステーション)」シリーズを思い起こしてみよう。展覧会の会期中、会場に用意された仮設舞台を、地元のバンドや俳優といった人たちが活用していき、そのプログラム自体が、作品の完成に結び付く。ティラヴァーニャは、作品のための設えを用意し、ファシリテーター的にそこでの出来事を見守る。このような展覧会においては、「作品」は誰が作ると言えるだろうか。そしてこうして作られた「作品」は、誰のものと言えるだろうか。またキュレーターは、こうした作品の「展示」に対して、どのような役割を担うのだろうか。
 今回のギモンでは、「作品」とは何かを考えるなかで、特に「作品」の作り手にまつわるギモンに着目し、近年盛んになっている参加型の作品や、アーティスト以外の人々との協働制作の形式をとるような作品を中心に、具体的な事例をいくつか見ながら、参加者・観客側の視点から考えていこう。またそれを受けて、あらためてキュレーターの役割についても考察してみたい。

「参加型」アートとは?

 ここで「参加型」という言葉の、本稿での位置づけを明確にしておきたい。そもそも展覧会は、観客が来て、作品を鑑賞する、という行為のもとに成り立っている。絵画や彫刻作品を観て、それについて観客が何かを感じる、ということも広義の「参加」にはなるかもしれない。あるいは、新型コロナウイルスの感染拡大による美術館休館ですっかりおなじみになった、オンラインでのライブ配信型の作品やVR(仮想現実)で撮影された展覧会を視聴することも「参加」と言えるだろう。逆に作品との直接的な接触などを伴ういわゆるインタラクティブ(相互作用的)な作品を思い浮かべる人もいるかもしれない。ボタンを押したら何かが動作するとか、観客が展示室に入るとセンサーが観客の動きを感知して映像のプロジェクションや音などに反映される、といったタイプの作品だ。極端な話、どの作品も、最終的には鑑賞者がいてはじめて作品が完成する、とも言える。だが、本稿で主に扱う「参加型」の作品は、観客や地域住民などが参加するプロセスそのものが、作品成立に深く関わっている類いのもの、そしてその結果を「展覧会」という枠組みのなかで展示する作品を論じることにしたい。例えば、台湾出身でニューヨーク在住のリー・ミンウェイは、1990年代から作家自身と参加者による直接の対話に基づくプロジェクトや、展覧会場を訪れた人が、リーの設えた環境で、何らかの作業や行為をすることを作品化したプロジェクトを数多く発表している。ニューヨークのロンバード=フレイド・ギャラリーで2000年におこなわれた「プロジェクト・ともに眠る(The Sleeping Project)」では、画廊のなかに作られた隣り合ったベッドをもつ寝室空間で、抽選により招かれたゲストがリーと一夜をともにし、さまざまな出来事を語り合う。ゲストは、普段、自分が眠る際に手元に置いている時計や写真立てなどの私物を持参し、ベッド脇のナイトテーブルに置いて帰る。会場を訪れた人は、ナイトテーブルの上に残されたものを見ながら、そこで交わされた会話などを想像する。この作品は、もともとリーが高校生のときに夜行列車でパリからプラハに向かった際に乗り合わせた年配のポーランド人男性と一晩を過ごした体験から着想を得ている。その人物はホロコーストの生還者で、当時の収容所での様子や体験などをリーに語り終えたあと、眠りについた。だがリーは、話を聞いて、その昔、もしかしたらいま、自分が乗っている列車と同じ線路のうえを走っていた列車に夜通し乗せられて、朝まで生きながらえなかった人もいたかもしれないなどと思いをめぐらせ、眠ることができなかった。この私的で強烈な体験をもとに、何年もたってから、「眠る」ことと、「(誰かと)ともに眠る」ことについて、作品にしようと考えたのがこのプロジェクトだったと彼は語っている(2)。このように自分以外の誰かと行為をともにすることが、リーの作品の根幹をなしている。その行為は、作家と直接協働作業をおこなう場合もあれば、展覧会場で観客の手に委ねられることもある。例えば「プロジェクト・手紙をつづる(The Letter Writing Project)」(1998年)では、会場内に障子の部屋を思わせる、すりガラスと木枠で三方を囲まれた3つのブースが設けられ、観客は、そのブースのなかに入って手紙を書いたり、読んだりすることができる。ブースのなかには机と便箋と封筒が置いてあり、観客は、誰かへの感謝、許し、あるいは謝罪の手紙を書くように促される。手紙を書き終えたら、持ち帰らずにブースの内側の壁に設えられた木枠に手紙を挟んでその場をあとにする。手紙の封はしてもしなくてもいいが、封をしていない手紙はほかの人が自由に読んでいいことになっている。そして封筒の表に送り先の住所が書いてあれば、作家か美術館スタッフがかわりに投函してくれる、というプロジェクトだ。ここでは、手紙を書く、あるいは読むという観客の参加、そしてその行為によってそれぞれが個人のストーリーに思いをめぐらすことが作品の重要な一部になっている。
 リーやティラヴァーニャのような参加型作品は、最終的な発表の場が美術館やギャラリーでの展覧会のことが多いが、こうした地域住民や観客の直接参加などを伴う作品は、1990年代後半から、リレーショナル・アート、コミュニティ・アート、あるいはソーシャリー・エンゲージド・アート(社会的な参加を伴うアート)といった名称で、地方自治体や学校でのアートプロジェクトやワークショップとして美術館やギャラリー以外の場所でも実施される機会も多く見られる。例えばイギリスのアーティストであるジェレミー・デラーは、何らかの共通項をもつ地域住民など特定のコミュニティと協働して作品を制作することで知られている。初期代表作の一つ、『アシッド・ブラス』(1997年)は、街中のブラスバンドと、電子音楽とクラブ・カルチャーに端を発するアシッド・ハウスという一見全く異なる音楽文化の間に奇妙な共通性を見つけたデラーが、イングランド北部の町ストックポートを拠点として活動するブラスバンドにアシッド・ハウスの生演奏を依頼したことから始まったプロジェクトだ(3)。『アシッド・ブラス』は瞬く間に人気を博し、イギリス各地で演奏されたほか、アルバムも発売されて、バンドのレパートリーとしても演奏される長期プロジェクトになった。この作品についてデラーは、自身の制作のターニング・ポイントだったと述べている。「モノ(オブジェ)を作らなくてもいいんだ、と気づいた。こんなふうにイベントをやって、何かを巻き起こして、それを人々と一緒にやって楽しめばいいんだ。乱雑で野放しでオープンエンドなプロジェクトをすることで、伝統的なアーティスト像にこだわらなくてもよくなった。ブラスバンドが僕を解放してくれたんだ(4)」。デラーのプロジェクトは、単なる音楽のコラボレーションの域を超えて、それぞれの背景にある社会史を浮き彫りにし、異なるコミュニティ同士の新しい出会いを生み出すなど、さまざまな広がりを見せるプロジェクトになった。このように参加型作品の多くは、絵画や彫刻などのように物質的な「作品」として残るのではなく、何らかの出来事が起こり、そのプロセスや結果が共有されることそのものが「作品」になることを特徴としている。よって作品の形態も美術館での展示だけではなく、街中などでおこなわれるパフォーマンスやイベント、あるいはコンサートや映画など多岐にわたるケースも多い。だが、こうした作品を実現するにあたっては、展覧会やアートプロジェクトなど、アートの枠組みがその背景にあることがほとんどである。
 デラーは、このような手法を国際展の場でも取り入れている。例えば、ギモン1で少し触れたミュンスター彫刻プロジェクトは、ドイツの中世の面影が色濃く残る街ミュンスターで10年に一度開催される大型の国際展だが、デラーは2007年に参加した際に次回開催の10年後である17年まで続く作品を発表した。デラーは、ドイツで盛んな「クラインガルテン」、あるいはクラインガルテン運動を広めたシュレーバー博士の名にちなんで「シュレーバーガルテン」と呼ばれる市民農園に着目した。そしてミュンスター郊外にある50以上のクラインガルテン協会に、各農園での四季折々の天候や植物の移り変わりの様子、各協会での社会的・政治的な活動などを10年間にわたって日誌に記録してもらうよう依頼した。10年後の17年には、そのうちの一つのクラインガルテン内にある小屋に、各農園の10年にわたる日誌約30冊を自由に閲覧できるスペースを設けた(5)。各日誌にはそれぞれの農園の個性が反映されていて、家族やメンバーで集まってバーベキューやパーティーをしたときの写真や、収穫された野菜の写真、新聞や雑誌の切り抜きなどが思い思いにスクラップされ、子どもたちが描いた絵やメンバーが書いた詩などとともにつづられていった。またミュンスター彫刻プロジェクトに訪れた人も、メッセージやイラストなどを記すことができるように、農園のメンバーが使っていたものと同じ様式の白紙の日誌も用意され、会期中次々と来場者によって書きつづられていった。
 クラインガルテンの活動自体は、デラーの呼びかけとは関係なくドイツで200年以上の長きにわたって市民に親しまれている営みである。そのため、それだけでは「作品」にはならない。だが、アーティストが展覧会という仕組みや仕掛けを使って、普段であれば、関わっている当事者たちも気がつかないような人々の市民農園での活動を、当事者たち、市民農園のことを知らない人々、国内外から集まる展覧会の観客に、目に見える形で提示、共有する場を農園のメンバーたちと10年という長いスパンをかけて作っていくことで、一つの「作品」になった。このように参加型アート作品は、それを通してさまざまな人々が有形無形のつながりをもつことが特徴である。また、参加型作品の大半は、長くても2、3ヶ月程度の会期の展覧会に向けて準備され、そのあとは終了してしまうのだが、『アシッド・ブラス』やクラインガルテンでのデラーの息の長い活動は、展覧会やアート作品の枠組みを横断しながら、それらを超えて、参加者側がその試みに自発的に参加し、ともに作り上げていると言えるだろう。また通常は、展覧会での発表が作品の最終的な完成形だと見なされがちな参加型作品だが、このように長期のプロジェクトでは、どこまで(いつまで)参加すれば、その作品が完成したと言えるのか、どこからどこまでが「作品」なのか、という問いを図らずも投げかけている。

「作品」は誰のものなのか

 さて、ここでいま一度考えたいのは、こうした協働制作などを伴う参加型作品は誰のものなのか、またどこまでが作家の手によるもので、どこからが参加者の手によるものなのか、というギモンである。それを考えるうえで、2000年にロンドン北部の小学校の児童がイギリス人アーティストのトレイシー・エミンと作った作品をめぐるエピソードを1つ紹介したい。この作品は、ロンドン北部と東部にある教会や礼拝堂などの宗教施設でおこなわれた「聖なるところにあるアート(Art in Sacred Spaces)」という著名な現代美術作家12人によるグループ展の一環として展示されたものだった。エミンは、小学校の8歳児12人に「美しいと思うものを教えて」というテーマで、言葉を募るワークショップをおこなった。そして「木」「日の出」「イルカ」「おばあちゃん」などの単語をつづったフェルトの文字が、子どもたちが持ち寄ったカラフルな端切れに子どもたち自身の手によって縫い付けられていった。最終的には、こうして制作したパッチワークでできたキルトを、地元の教会の祭壇に1週間展示した。ここまでは、よくある地元の子どもたちとのワークショップで協働制作された作品の話で、普段は自らのプライベートを暴くようなスキャンダラスな作品で知られるエミンの別の一面を見せるプロジェクトで終わるはずだった。だが、話はこれで終わらなかった。展覧会から約4年たった04年に、この作品をめぐる騒動が起きたのだ。作品を保管していた小学校が、この作品を長期間、安全かつ劣化しない形で保管するための方策として、アクリル製の展示ケースを製作してはどうかと見積もったところ、4,000ポンドかかるとわかった。そのような費用を捻出することが難しいと判断した学校が、苦肉の策として、同作品を競売にかけて、その売り上げ(3万ポンドから3万5,000ポンド相当の見込み)を同校の芸術棟を充実させるために有効活用しようとした。だが、オークションハウスで有名なサザビーズは、この作品をまずはエミン本人が自身の作品だと認めないかぎり、作品の価値は端切れ代程度にしかならない、と学校側に伝えた。これに対してエミンは、もし作品を競売にかけるのであれば、それを自分の作品だと認めることを拒否するばかりか、作品の返還も求めると言い出す騒ぎになった。最終的にはこの騒ぎの顛末は、展示ケースのための費用4,000ポンドをエミンが負担する、ということで決着がついた(6)。作品を実際に00年に制作したときには、エミンがコンセプトを考え、子どもたちとのワークショップにも立ち会い、エミンが参加するグループ展の一環として展示された。だが、このキルト作品が「トレイシー・エミンの作品」として、いざ評価額をつけるとなったとき、それは純粋に作家の作品と言えるのか、それとも協働制作者である子どもたちもまた作家と言えるのか、また作った作品は一体誰のものなのか、という作家と作品の曖昧な関係性を図らずも明るみに出すことになった。一口に「協働制作」と言っても、参加している側の作品への作り手としての意識や作品に対する思い入れ、そして作家自身の参加者や作品に対する考え方は、作家によって一律ではないし、同じ作家による同じ枠組みで実施されたプロジェクトであっても、関わる人々が変われば異なってくるかもしれない。ここで「作品」の作り手についての考察をもう一歩進めていくうえで、エミンのプロジェクトとは全く異なる参加型アートを実践している、藤浩志の「かえっこ/Kaekko」を紹介したい。

システムとしての「作品」

「かえっこ」は、藤浩志が2000年から始めたプロジェクトの総称で、家庭で不要になったおもちゃを交換するという仕組みそのものを作品化した、いわばシステム型の作品である。もともとは1997年頃に藤の家で生じたゴミ出し問題に端を発し、家庭内でゴミを排出せずに、ゴミを再利用して表現行為に転換する「家庭内ゴミゼロエミッション」プロジェクトが「かえっこ」へと繋がった。そこから2000年の福岡アジア美術館での開館1周年イベントの一環として開催されたアーティストフリーマーケットに、藤が自身の子どもたちと出店したことがきっかけになり、その後、子ども向けのワークショップとして国内外の美術館やアートプロジェクトの場で「かえっこバザール」などの名称で盛んに開催されるようになった。そのなかで、交換したおもちゃがかえっこバンクで「カエルポイント」として発行され、その貯まったポイントで気に入ったおもちゃを購入したり、オークションをおこなったりする仕組みが生まれた。また、おもちゃをもってこなくても、スタッフとして「かえっこ」の運営を手伝ったり、ワークショップの活動に参加するとカエルポイントがもらえるなど、おもちゃの交換をめぐってさまざまな活動が誘発される仕組みが整えられていった(7)。のちにこのシステムそのものを「Kaekko」というローマ字で藤は使い分けている。ここで注目したいのは、この「かえっこ/Kaekko」が、瞬く間に美術館やアートプロジェクトでおこなわれるアーティスト藤浩志のワークショップ型プロジェクトから、誰でも開催できるシステム型プロジェクトとして広まり、環境問題に関心があるNPOや子育て支援グループ、街づくりの関係者など、従来のアートに従事する層とは異なる団体などがこぞって開催するようになったことだ。「かえっこ」を開催するにあたっては、藤の妻である藤容子が担当するかえっこ事務局に連絡をすると、開催情報のウェブ掲載などの広報協力を受けることができるほか、カエルポイントを押すためのカエルスタンプやかえっこカードなどの開催に必要なツール、最初のおもちゃの貸し出しなどを受けることができる。だが、ここで「かえっこ」がほかの参加型作品と大きく異なる特徴的な点は、「かえっこ」の開催の規模や目的は、主催者の裁量に任されているということだ。つまり「Kaekko」は、システムとして誰でも使えるようになっていて、そこにはもはやアーティスト藤浩志の名前は登場しない。私も当初は「かえっこ」を藤のワークショップ型プロジェクトとして認識して、実際に美術館やアートプロジェクトの現場で開催された「かえっこ」を見てきたのだが、ある日、ローカルのニュース番組で「かえっこ」が取り上げられていたのを目にして、ちょっとしたショックを受けた。その番組では、とあるNPO団体(子育て支援系だったか、街づくり系だったかは記憶が定かではないが)の女性の主宰者が、「かえっこ」を開催していて、その活動について生き生きとした口調で語っている様子が取材されていた。そこに映る映像は、以前、藤のプロジェクトとして見ていた「かえっこ」そのものだった。おもちゃを交換する仕組みや、カエルポイント、運営をお手伝いする子どもたちなどが、レポーターにより「市民による素敵な取り組み」風に紹介されていた。だが、ニュースレポートはそこで完結し、それがもともとは藤浩志の発案だったことや、アート作品であることなどには全く言及がなく、当時、「え、これって藤さんの作品だよね? 著作権、大丈夫なの?!」とあらぬ心配をしてしまったことを覚えている。藤は「かえっこ」について次のように述べている。「《かえっこ》は最初から「仕組み」の表現作品だと考えていました。使う人がコンセプトやプログラムを決めることでどんどん変わっていくタイプの作品です(8)」。さらに藤は、このシステムとしての「Kaekko」をそこで終わりにせず、それを利用して『Happy Paradies(ハッピーパラダイズ)』というインスタレーション作品として再び一つの形ある「作品」として引き戻す作業をおこなっている(9)。『Happy Paradies』は、マクドナルドの子ども向けのおもちゃ付きセットで知られる「ハッピーセット」でもらえるおもちゃと、それに類似したおもちゃ約14,000個、おもちゃの一部や破片約250個、おもちゃで作られた『夢の鳥』や『Toys Saurus』などの複数のオブジェからなるインスタレーション作品である。これらの素材になった大量のおもちゃは、全国で開催される「かえっこ」事業の終了後に残ったおもちゃが返却される過程で、次の「かえっこ」へと循環して活用されることがない、いわば「子どもたちでさえ不要と思うおもちゃ」である。それらを色や形、大きさ、キャラクターなどによって数百種類に分類し、インスタレーション作品の素材として用いている(10)。さらにこの作品を展示する際には、「美術大学の学生との関係を尊重し、同じような、あるいは理想的にはもっと若い、まだ感性が柔らかい状態の学生」が、作家の指示どおりではなく、「自らの感性と意志で自由に並べること」を重視している(11)。このように「Kaekko」から派生した『Happy Paradies』もまた、形ある「作品」でありながらも、複数の他者の手による開かれた展示のシステムを提供している作品になっている。エミンの作品で争点になった協働制作による作品の「作家性」は、藤の「Kaekko」や『Happy Paradies』では軽やかに解体されてしまい、物理的なモノではなく、システムそのものに宿る。藤のこのような実践は、小説などの文学作品の作者と読者の関係を想起させる。小説などの作品を書くのは作者だが、その作品をめぐる多様な解釈は、実際に作品を読む読者一人ひとりの手に委ねられていて、作者自身の作品に込めた意図に必ずしも縛られることはない。ここで参加型アートにおける作家についての考えを深めるための手がかりとして、文学作品での作者と読者の関係をめぐる議論を少しのぞいてみよう。

参加型アートの「作者」とは?

 文学作品などの「作者」については、1960年代のフランスで、ロラン・バルトが『作者の死』(1968年)、ミシェル・フーコーが『作者とは何か?』(1969年)と相次いで論考を発表している。なかでもバルトは、「作者の死」という象徴的な言葉で、テキストをめぐる作者と読者の関係について論じていて、その考え方はアートの理論にも大きな影響を与えている。バルトは、「一遍のテクストは、いくつもの文化からやって来る多元的なエクリチュール〔引用注:「書かれた言葉」〕によって構成され(12)」た「引用の織物である(13)」と言う。そしてこの多元的なエクリチュールによって織物のように編まれた作品の「多元性が収斂する場」は、「作者ではなく、読者である」とし、次のように結論づける。「読者の誕生は、『作者』の死によってあがなわれなければならないのだ(14)」。つまり、作者が書いた織物のようなものである作品は、作者の手を離れて、読者によって自由に解釈されていくというのだ。それまで作者というのは、作品の意図や解釈を支配する神のような存在と思われていた。だがバルトの「作者の死」は、作者ではなく、作品の受け手である読者がその作品を読む行為によってそれぞれの意味を見いだすと説く。これは、従来の作者と作品の関係性を根本から問い直すような考え方だ。それは、まるで美術作品の唯一の作り手とされてきたアーティストと作品の関係性が、参加型アートの台頭によって揺らぐさまと呼応しているかのようだ。例えば、先に見た藤の「Kaekko」システムは、参加者・鑑賞者によって藤浩志という一人のアーティストの手から離れて、自由に運用され、享受されている。だが、このことは、「Kaekko」というシステム型作品を生み出した藤自身の存在を完全に消し去ってしまうわけではない。
 バルトが言う「作者の死」に対して、フーコーは作者について、実在するものとして異を唱えている。ただし、ある一冊の書物を記した一個人としての作者、という存在としてではなく、作者というものが果たす「機能」に着目し、作家と作品の関係性をさまざまな角度から分析している。例えば、ジークムント・フロイトというのは単に『夢判断』という本の作者であるだけではなく精神分析学の創始者であり、それによって精神分析に関するさまざまなテキスト、概念、仮説などの言説を生み出す機能をもっている(15)、と説く。フーコーは、「機能としての作者」は、「言説の世界を取りかこみ、限定し、分節する法的制度的システムと結びつく」と言う。そしてそれは、時代や文明の形態によって「一律に同じ仕方で作用するものではない」と指摘している。さらにフーコーは、こうして生まれた言説は、それを生み出した「ある現実の個人」に帰属させるのではなく、「複数の立場=主体を同時に成立させることができる(17)」と述べている。美術作品に当てはめて考えてみると、バルトやフーコーの「作者」と「作品」をめぐる論考は、参加型アートにおいて、非常に興味深い視点を与えてくれる。作家と鑑賞者が、それぞれ作品の「作り手」と「受け手」としてはっきりと分断されていた従来の作品と異なり、参加型アートの場合、鑑賞者も書き手になり、織物のように作品を作り出していく。ただしそこで作者はバルトが言うような「死」を迎えるのではなく、フーコーが言うように作者も鑑賞者も複数の作り手になり、多元的・主体的に作品を形成していく。それぞれの作家の作品は、もともとは作家の個人的な原体験などから着想を得て、生まれているが(リクリットの祖母の家での料理、リーの夜行列車での体験など)、それが参加者を招くことで、それぞれの参加者個人の体験や経験などと重なり合いながら、「作品」になっていく。そういった意味では、「作品」は作家一人のものではないが、作家自身の存在を否定するものでもないと言えよう。そしてフーコーが言うようにこうして生まれた「作家」や「作品」をめぐる言説は、それを取り巻く社会的なシステムと結び付いていて、その背景になる時代や文化によって、多様な姿を見せている。

参加型アートでのキュレーターの役割

 これまで協働制作を伴う参加型の作品における、作家と参加者・鑑賞者の関係について見てきたが、ここで少し視点を変えて、こうした作品でのキュレーターの役割についても考えてみよう。先に紹介したデラーのような実践は、ソーシャリー・エンゲージド・アート(社会的な参加を伴うアート)という枠組みで論じられることも多い。ソーシャリー・エンゲージド・アートというカタカナの用語は、特に2000年代になって日本でも使われる機会が増えてきた。これらの多くは、美術館のなかではなく地域のコミュニティなどで実践され、ときにその地域が抱える社会的な問題を解決するための手立て、あるいはそうした問題をあぶり出すためのツールとして、アートの手法を使っていることが多い。イギリスの美術史家クレア・ビショップは、こうしたソーシャリー・エンゲージド・アートの実践を著書『人工地獄』で、美術史や美術批評に照らし合わせながら、パフォーマンス、演劇、美術教育なども含めた幅広い参加型の実践を、多数のアーティストや参加者たちへのインタビューなどを交えながら多角的な視点から紹介し、分析を試みた。そこで彼女はキュレーターの役割について、次のような重要な指摘をしている。「各プロジェクトに責任を持ち、ときに――しばしばアーティスト以上に――一部始終に立ち会う唯一の存在となるキュレーターの手に、参加型アートの主な語り手としての権利が委ねられる」。ビショップは、そうした「キュレーターたちの語りにおいて、批評的な客観性が排されていること」に失望し、そのことが彼女の研究の重要なモチベーションになったと述べている。ビショップが言うとおり、プロジェクト全体を把握しているキュレーターや、それについてキュレーターの言葉を頼りに研究・批評する者にとって、特に「プロジェクトの中心要素に人間関係の形成があり、それが特定の主体によるリサーチに否応なく影響を与えてくるような場合」に「かかわりが深まるほど、客観的で居づらくなる(18)」ことは確かだ。こうした状況に対して、ビショップは美術史家としての立場からあくまでも客観的に分析を試みるが、そもそも、参加型プロジェクトで、当事者としてのキュレーターが参加者、アーティストとともに人間関係を形成していくのは、ある意味必然的な結果であり、逆にそうした人間関係が形成されなければ、しばしば長期にわたるプロジェクトを遂行することは不可能になるだろう。そのプロセスのなかで、キュレーターは、そのプロジェクトの推進者、アーティストや参加者の伴走者であることが求められる。同時に、最終的にはその結果を展覧会やアートプロジェクト、あるいはカタログや報告書として外に向けて発信していく役割も担う。そこでビショップが言うような客観性をどこまで担保する必要があるかは、プロジェクトの目的や、対象にする観客によっても異なってくるだろう。ここで最後に参加型アートにおいて、こうした作品は誰のために作るのかについてあらためて考えてみたい。

「作品」は誰のために作るのか

 協働制作を伴う参加型アートで誰がその作品を享受するのか、ということを考えると、一義的には、そのプロジェクトに直接参加したある特定の個人やグループ、コミュニティの人たち、ということになるだろう。だが、それがアートの文脈で語られるとき、作品はその一義的な参加者のためだけのものにとどまらない。作品の展示やパフォーマンスのお披露目、映像上映などで、それらを鑑賞するより多くの人々が、一義的な参加者たちの体験を追体験したり、各々の記憶や体験、人生のストーリーなどと結び付けたり、重ね合わせたりしていく。もちろん、プロジェクトの協働制作を直接担った参加者と、それを展示室などで鑑賞する鑑賞者が全く同じ体験ができるわけではないだろう。それでも、一つの「作品」として展覧会の文脈で発表され、多くの人に共有され、享受されることで、最終的には、広義の「参加型作品」が成立すると言える。また参加型作品の作り手は、作家一人にとどまらず、参加者、鑑賞者も主体的にそのプロセスに関わり、キュレーターも加わって、多元的な織物のような「作品」とそれを取り巻く言説を作り上げていく。

 あらためて、「作品」とは何か、というギモンに立ち返ると、「作品」を成立させる諸条件は、作品を取り巻く環境、歴史的背景、作品制作の方法論など非常にさまざまな要素が絡み合っていることがわかる。参加型の「作品」をめぐって、作品が一人の作家により作り出され、完成し、展示されるもの、という前提から大きくはみ出していくなかで、作家と観客の間にある境界線が曖昧になっていき、アーティストとキュレーターの役割も交錯していく。従来の作品を作る人=作家、見る人=観客、作品を選んでその場を設える人=キュレーターといった構図がより有機的・複合的に絡まっていることを、これまで見てきた事例からも垣間見ることができる。本ギモンの後半では、参加型作品をめぐる作家と観客、キュレーターの関係について少し駆け足で論じたので、消化不良を起こした方もいるかもしれない。それらについては、これから続くギモンでまた別の視点を交えながら、あらためて解きほぐしていきたい。


(1)ただし、こうした工房制度スタイルは、現代美術でいまでも一部健在であり、それについては近い将来、また別の機会に論じてみたい。
(2)“LEE MINGWEI: THE SLEEPING PROJECT, 2000”(https://www.perrotin.com/artists/lee_mingwei/550/the-sleeping-project/48708)。オリジナルの作品では、交わされた会話は録音され、会場で聞くことができたようだが、近年の再制作では、ゲストが持ち込んだオブジェがナイトテーブルに置かれるだけになっている。なお、本稿に登場するリーの作品の日本語タイトルは、すべて森美術館「リー・ミンウェイとその関係」展(2014年)に掲載されているものを採用した。
(3)『アシッド・ブラス』については、BBC2で2012年2月24日に「The Culture Show」で放映された「Acid Brass: Jeremy Deller」に簡潔にまとめられている。“Acid Brass – Jeremy Deller – The Culture Show (24/02/2012),” YouTube(https://www.youtube.com/watch?v=gBJxMQGYXM4
(4)“Acid Brass, 1997,” Jeremy Deller(https://www.jeremydeller.org/AcidBrass/AcidBrassMusic.php
(5)Skulptur Projekte Münster 2017カタログ、170ページ
(6)この事件については複数のイギリスメディアが報道しているが、本稿は以下のウェブサイトを参照した。“Blanket refusal,” The Guradian, March. 30, 2004(https://www.theguardian.com/artanddesign/2004/mar/30/art.schools),“Emin wants school quilt returned,” BBC News, March. 30, 2004(http://news.bbc.co.uk/2/hi/uk_news/england/london/3584273.stm),“Emin pays to show school’s quilt,” BBC News, April. 6, 2004(http://news.bbc.co.uk/2/hi/uk_news/england/london/3603787.stm
(7)「かえっこ」誕生の詳しい経緯については、「《かえっこ》から《kaekko》までトークバトル」(『「かえっこについてかたる。」――かえっこフォーラム2008記録集』所収、水戸芸術館現代美術センター、2009年)16―29ページを参照のこと。
(8)同書24ページ
(9)『Happy Paradies』についての考察は、同作品を収蔵した金沢21世紀美術館の野中祐美子による以下の論考を参照されたい。野中祐美子「藤浩志《Happy Paradies(ハッピーパラダイズ)》――拡張する作品概念」、「Я[アール]――金沢21世紀美術館研究紀要」第7号、金沢21世紀美術館、2017年、92―96ページ
(10)同論文92ページ
(11)同論文95ページ
(12)ロラン・バルト「作者の死」『物語の構造分析』花輪光訳、みすず書房、1979年、88ページ
(13)同書85―86ページ
(14)同書88―89ページ
(15)ミシェル・フーコー「作者とは何か?」『作者とは何か?』清水徹/豊崎光一訳(ミシェル・フーコー文学論集1)、哲学書房、1990年、53―55ページ
(16)同書50ページ
(17)同書50ページ
(18)クレア・ビショップ『人工地獄――現代アートと観客の政治学』大森俊克訳、フィルムアート社、2016年、20ページ

 

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ギモン3:何を展示するの?(第2回)

難波祐子(なんば・さちこ)
(現代美術キュレーション。著書に『現代美術キュレーター・ハンドブック』『現代美術キュレーターという仕事』〔ともに青弓社〕など)

 

コロナ禍に寄せて――「ギモン3:何を展示するの?(第2回)」の前に

 いま、コロナ禍のなかで展覧会やキュレーションについて考えることが非常に困難な状況となっている。
 この2カ月あまりの間に新型コロナウイルスの感染拡大により、文字どおり世の中が一変してしまった。ここで今回、これまでの連載の続きを掲載する前に、この場をお借りして、この状況下で展覧会やキュレーションに向き合うことについて、少しふれてみたい。書いたところでいますぐ何かの解決につながるわけではないのだが、とにかく私自身、本連載を続けるうえで、刻一刻と変わるいまの状況を備忘録的に書き留めながら、思考していくという以外にこれから先の原稿を書き進めるすべがない状況に陥っているので、このような脱線をお許し願いたい。またここで書いたことについては、今後も状況に応じてもともとの本連載全体の構成をアップデートしながら、連載後半の内容に反映していきたい。

 2011年の東日本大震災のあとも、しばらくアートについて考えることができない、あるいはすぐにアートを通じて何らかの行動を起こすことが難しいと感じる美術関係者は、私自身も含めて大勢いたと思う。もちろん、さまざまな芸術を通した救援活動やチャリティー、また津波被害にあった作品のレスキュー事業(1)などもおこなわれていたが、それは被災者支援、復興に向けた活動だった。現在進行中の世界的なパンデミックと9年前に東日本で起きた震災と放射能汚染では、単純に比較することはできないが、本連載でも追って危機的な状況に私たちの社会が陥ったあとのアートや展覧会のあり方などについて、考察していきたい。
 今回のコロナ禍について現時点(2020年4月末)で言えることは、1つの地域、あるいは1つの国にとどまらず、まさに地球規模で私たちが生きるということそのもの、また社会生活や経済活動に深刻な影響を及ぼしていて、しかもその「異常事態」が数カ月というごく短いスパンでもはや日常化しつつある、ということである。このような現況において美術の分野に限って簡単にこの2カ月あまりを振り返ってみると、中国を皮切りに韓国、ヨーロッパ、アメリカなど世界各国の美術館が2月から3月にかけて軒並み臨時休館に入り、多くの展覧会やアートフェアなどが中止・延期となった(2)。また私立美術館の多いアメリカでは、MoMAやメトロポリタン美術館をはじめとする名だたる館でスタッフの解雇が始まっている(3)。日本も首都圏など7都市を対象に緊急事態宣言が4月7日に発令される前から、大規模なイベント実施に関して自粛モードに入り、2月末からは美術館や博物館も床面積1,000平方メートル以上の館を中心に臨時休館に入っていたが、発令後には、細々と開けていたギャラリーも休廊を余儀なくされた。そして緊急事態宣言が4月16日に全国に拡大されてからは、実質的に日本国内の展覧会という展覧会が中止や再開見込み不透明なまま延期などに追い込まれている。
 このような状況下でも、なんとか芸術活動を続けようと世界各地でさまざまな試みがなされている。音楽や舞台芸術、パフォーマンスの分野で動画配信、ライブ配信などがおこなわれるのに続き、美術館でも、オンラインで公開するコレクションを充実させたり、展示したものの休館せざるをえなくなった展覧会をウェブサイト上で写真や動画を交えて紹介したり、カタログテキストをウェブサイト上で閲覧できるようにするなど、各館がしのぎを削っている。だが、展覧会というメディアは、本連載の冒頭でも述べたとおり、そもそもが非常にアナログなメディアであり、展覧会に観客が実際にいってなんぼの世界である。したがって、今回のような事態にすぐさま対応しろと言われても、そう簡単にはいかないのも事実だ。また今日の現代美術の展覧会は、国際的な協力のもとに成り立っているものも多く、作品を国内外に輸送することや、展覧会場に国を超えてアーティストやキュレーター、クーリエなどの人が移動することができない現状のなか、作品を展示する、という行為自体が不可能になっている。またアーティストやフリーランスのキュレーターなどについては、予定していた展覧会が中止や延期となり、収入が断たれる人も多い。ドイツ政府は、この事態のなかいち早く「アーティストは必要不可欠であるだけでなく、生命維持に必要な存在(4)」と断言し、フリーランサーや芸術家、個人業者に向けて500億ユーロという大規模な支援を約束した。日本では、ドイツのような国レベルでの動きは鈍いが、地方自治体が独自の支援策を打ち出したり、各芸術団体やアーティスト、民間企業などが、立ち上がって、基金を設立したり、クラウド・ファンディングや、各種の署名活動などが始まっている。
 明日の暮らしをどうするのか、を考えなくてはならない事態のなかで、こうしたいますぐ必要な支援や対応について、それぞれができることを考え、動いていくことは大事だ。だが、同時にポスト・コロナ、ポスト・パンデミックの世界について考え始めることも重要である。感染の収束にはまだ相当の時間がかかりそうだし、この状況によりさまざまな価値観の変容が否が応でも起こっていることは確かである。世界的にこの危機的状況を共有した(大半がまだそのただなかにあるが)あとのポスト・コロナの世界では、私たちの暮らしのあらゆる面で、従来どおりというわけにはいかないことは明らかだろう。それは、人間の文化活動でも当然同じであり、本連載の根本的なテーマである、展覧会やキュレーションとは何か、またどうあるべきか、という問いにもつながっている。

 連載は、ギモン3の第2回を執筆当時(2月中旬)のままの原稿で以下、掲載するが、ギモン4以降はそうしたポスト・コロナ社会で求められる展覧会やキュレーションとは何か、といった問題も考えながら、あらためて執筆していきたい。なお、本連載の書籍化の際には、これまでの執筆分も含めて大幅に見直しが必要となってくる部分も出てくると思われる。というか、見直さざるをえない状況にいると言ったほうが正しい。こんな時期に展覧会やキュレーションのことを論じるのか、と言われるかもしれないが、こんな時期だからこそ、見えてくるものがあると信じて、今後の連載を継続したい。


(1)文化財レスキューの具体的な事例については、例えば東京文化財研究所の「被災文化財レスキュー事業 実施状況」などを参照のこと(https://www.tobunken.go.jp/japanese/rescue/110627/index.html)。
(2)なお、先に流行して早くから都市封鎖に入った上海の美術館は、3月中旬から再開、北京の美術館も4月下旬から再開している。イタリアの美術館も5月中旬以降、再開の予定となっている。
(3)「MOMA AND NEW MUSEUM AMONG NY INSTITUTIONS CUTTING JOBS TO CURB DEFICITS」「ARTFORUM」2020年4月3日(https://www.artforum.com/news/moma-and-new-museum-among-ny-institutions-cutting-jobs-to-curb-deficits-82681)、「METROPOLITAN MUSEUM OF ART LAYS OFF EIGHTY-ONE EMPLOYEES」「ARTFORUM」2020年4月22日(https://www.artforum.com/news/metropolitan-museum-of-art-lays-off-eighty-one-employees-82782
(4)モーゲンスタン陽子「ドイツ政府「アーティストは必要不可欠であるだけでなく、生命維持に必要なのだ」大規模支援」「ニューズウィーク日本版」2020年3月30日(https://www.newsweekjapan.jp/stories/world/2020/03/post-92928.php

 

 

第2回 展覧会に出す「作品」を選ぶ行為

 展覧会では、世の中にあまたある「作品」から、ある特定のものを選んで展示する。その特定のものを選ぶ基準を決めて、何をどのように展示するかを決めるのが、キュレーターの仕事とも言える。
 ギモン2の順路の話のところで少し触れたが、キュレーターは、一本の展覧会に通底するストーリー、あるいは展覧会のテーマ、企画のコンセプトを考え、それに基づいてアーティストとその作品を選ぶ。アーティスト自身が企画をする場合はキュレーターを立てないこともあるが、その場合でも、アーティストがキュレーターの役割を兼務することには変わりない。つまり展覧会は、キュレーターによってなんらかの価値基準の下で選択される作品で構成される、極めて恣意的なものである、ということだ。
 旧東ドイツ出身の哲学者・美術批評家であるボリス・グロイスは、著書『アート・パワー』のなかで、キュレーターやアーティストによってもたらされる展覧会の恣意性について次のように述べている。
「アーティストやキュレーターはこれら芸術の対象とされる物すべてを、純粋に私的で、個人的で、主観的な秩序に従って空間に配置する。このようにしてアーティストやキュレーターは、選択という私的な自己統治の戦略を公衆に表明する機会を得るのである(6)」
 グロイスの指摘は、半分当たっているが、半分は正直、首を傾げたくなる。確かに展覧会で何を展示するかは、キュレーターあるいはアーティストが決めるにせよ、「純粋に私的で、個人的で、主観的な秩序に従って空間に配置する」ことができるなら、世の中のキュレーターたちはこんなに苦労していないだろう。そんな思いどおりの夢の企画が実現できることは、まずないと言ってもいい。大抵は、予算の問題や物理的な制約、また人的・政治的要因などさまざまな軋轢があるなかで、それでも自分の理想とする展示に向けて、あらゆる創意工夫をして、多くの人の協力を得て、ようやくなんとか納得できる形に落とし込んでいく、というのがキュレーションの現場の実態に近いと思う。
 ただ、グロイスの指摘のうち、ここで注目したいのは、半分当たっているほうの部分の話だ。先に述べたように、キュレーターの仕事の根幹をなす部分は、展覧会のコンセプト作りとそれに基づく作品の選定にある。展覧会は、グロイスが言うとおり、「選択という私的な自己統治の戦略を公衆に表明する機会」にはちがいない。だが、それは単に自分が好きなものを展示して終わり、ではない。展覧会の規模や種類にもよるが、都内の美術館での大型展覧会となると、家が一軒買えるぐらいの予算を扱う。これが公立館の場合なら、その財源は市民や都民の税金ということになる。特に公金を投じるタイプの展覧会の場合、キュレーターがある選択をして展示する以上は、その作品をどのように美術や美術史の文脈に位置づけるのかについて観客に公的に説明する責任が生じる。一つの展覧会を作るときに、あるコンセプトやテーマを設定した場合、それに沿ってさまざまな選択のプロセスが生まれる。ときには、そのプロセスのなかでコンセプトやテーマそのものを軌道修正していくことも少なくない。なぜAという作家ではなくBという作家を選ぶのか、あるいは同じ作家の手によるものでも、なぜCという作品ではなくDという作品を展示するのか、など一つひとつの選択をしながら、その理由を展覧会の形で広く観客に向けて示していくことが必要になる。またなぜその会場で、このタイミングで、そのテーマの展覧会をやるのか、ということも問われるだろう。それでも、この「選択」という展覧会の宿命は、ときにキュレーターにある種の権力を生み出す危険性もはらんでいる。
「作品」は、作家の手で生み出されて、展覧会場に置かれて、観覧されることではじめて「作品」として多くの人が知ることになる。この「作品」を「作品」として位置づけるのがキュレーターだとすると、キュレーターがもつ責任は非常に重大だと言えるだろう。「作品」がなければ展覧会は始まらないが、キュレーターが選ばなければ、「作品」は日の目を見ることはない。ここでキュレーターは、その選定の根拠をしっかり説明する必要がある。ウォールテキストやカタログは単なる飾りや展覧会の付属物ではなく、展示だけでは足りない部分を言葉を使って補足する大切な役割を担っている。特に近年の多様化する現代美術の場合、見ただけではわかりにくく、その背景について説明を要する作品も多い。こうした展覧会に展示された作品を、その展覧会全体の説明や個々の作品に関する説明も含めて鑑賞した観客の反応、さらには美術史家や美術評論家といった人たちがそれらを論じていくことで、あらためてキュレーターのキュレーションや作品の意義や位置づけが問われていくのだ。

現代美術における作家とキュレーターの関係

 現代美術の場合、作家が現役で活躍していることも多いので、展覧会に合わせて新作を作ってもらう、ということもできてしまう。ときには、評価が定まっていない作家の作品を展示することもあり、若手の作家にお願いすることは、最後まで結果が見えないというリスクも大きい。これは近代美術までのキュレーションとの大きな違いである。既存のものを見いだし、ときには全く新しい文脈から光を当てて選ぶという行為までは近代美術までの美術も現代美術も変わりないが、現代美術の場合、それに加えて、新しく作り出すという行為が可能になってくるのだ。そうしたプロセスにおいて、まさに展覧会で「作品」を「作品」として位置づける行為は、ある種作家とキュレーターによる共同作業になっていくとともに、緊張関係を生み出す。
 1990年代に入って、特に現代美術の展覧会でキュレーターの役割が世界各地で急激に台頭してきたなかで、ヴェネチア・ビエンナーレやドクメンタといった大型の国際展を華々しく取り仕切るキュレーターは、「スター・キュレーター」ともてはやされた。そのスター・キュレーターに選ばれる作家はスター・アーティストと呼ばれ、国際展の常連組となり、作品が高値で取り引きされ、世界の名だたる美術館で展覧会が開催されていった。そうした国際的な舞台で活躍するにはスター・キュレーターのお眼鏡にかなう必要があり、そうしたキュレーターと「ワイン&ダイン(食事やお酒を一緒に飲んで仲良くする、の意)」するのが作家として成功への近道であるかのように揶揄されることも多かった。その一方で、そうした作家とキュレーターのパワーゲームに異を唱えるように特に2000年代以降、「アーティスト/キュレーター」と呼ばれるキュレーションを自ら積極的におこなうアーティストが登場したり、複数のキュレーターが一つの展覧会を作る共同キュレーションの試みなど、既存の一人のキュレーターがすべてを取り仕切る形とは異なる新しいキュレーションの方法が次々と実践されている。あるいは、従来の美術の展覧会の枠組みではなく、社会的な問題意識から、アーティストなどが自発的にプロジェクトを立ち上げるなど新たな方法論を模索する試みも近年増えている。例えばアーティスト集団のwah document(ワウ・ドキュメント)は、東日本大震災後の東北の被災地に赴き、子どもたちとワークショップを通してお手製の映画館を作った(7)。あるいは、詩人の上田假奈代が主宰するNPO法人のココルームは、日雇い労働者や路上生活者が多く住む大阪のあいりん地区・釜ヶ崎で「釜ヶ崎芸術大学」という名の地元の「おじさん」たちを対象とした狂言、書道、音楽、美術、天文学など幅広いジャンルを扱う市民大学、ワークショップを継続的に実施している(8)。
 こうしたさまざまな新しい試みは、「作品」を「作品」として位置づける行為が、これまでアーティストが「作品」を創り出し、キュレーターがそれを「展示する」という前提に成り立つ行為であったことを浮き彫りにする。と同時に、近年のキュレーションのあり方の見直しや、観客やコミュニティーが作品制作のプロセスに大きく関わるなかで「作品」を創り出し、それを「作品」として位置づける行為の主体者が必ずしもアーティストやキュレーターとはかぎらないという、現代美術ならではの状況が発生している。
 これまで見てきたとおり、展覧会は、確かに作品を「作品」と定義づけ、美術の文脈のなかに位置づける装置であったと言える。だが、その担い手については誰が「作品」を創るのか、という問いも含めて、あらためて考える必要がある。「作品」が「作品」として成立するときについて、本ギモンでは主にキュレーターの立場から考えてきたが、次のギモンでは、視点を変えて、観客とアーティストの立場からもう一度考えてみることにしよう。


(6)ボリス・グロイス「多重的な作者」齋木克裕訳、『アート・パワー』石田圭子/齋木克裕/三本松倫代/角尾宣信訳、現代企画室、2017年、151ページ
(7)詳しくは「wah in 東北 9日間の活動レポート」(「wah document」〔http://wah-document.com/blog/2011/07/wah-in-東北%E3%80%809日間の活動レポート/〕)を参照。
(8)釜ヶ崎芸術大学については下記を参照のこと。「NPO法人こえとことばとこころの部屋cocoroom」(http://cocoroom.org/釜ヶ崎芸術大学・大学院2019/)。なお、釜ヶ崎芸術大学は、2014年の横浜トリエンナーレに作家として参加している。

 

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ギモン3:何を展示するの?(第1回)

第1回 展覧会における「作品」とは?

難波祐子(なんば・さちこ)
(キュレーター。東京都現代美術館を経て、国内外での展覧会企画に関わる。著書に『現代美術キュレーター・ハンドブック』『現代美術キュレーターという仕事』〔ともに青弓社〕など)

 これまで「展覧会」という時空間についてさまざまな角度から見てきたが、ここで基本に立ち返って質問を一つ。展覧会では何を展示しているのだろうか。そりゃぁ、「作品」に決まってるでしょ、とおそらく大半の人は躊躇なく答えるにちがいない。そもそも人は「作品」を観に展覧会に行くわけだし、それは映画館に映画を観にいったり、コンサートホールに音楽を聴きにいくのと同じくらい自然なことのように思われる。だが、ゴッホやモネ、ルノアールなど近代美術あたりまで美術館や展覧会で当たり前のように鎮座していた「作品」の「当たり前感」が、現代美術では、デュシャンを機に著しく崩壊あるいは変容しつつあることは、本連載をこれまで読んでくださったみなさんにはもうおわかりいただいていることだろう。展覧会に「作品」を展示するというよりも、ある意味、美術館や展覧会に展示してあるから「作品」が「作品」として成立する、という一種の逆転現象が現代美術の場合、多発している。本連載の冒頭で、「作家が作品を作るように、キュレーター、あるいは学芸員と呼ばれる人たちは、展覧会を作る」とさらりと述べた。キュレーターの仕事の要になるのは、展覧会に一体何をどう展示するのか、ということに尽きるだろう。
 今回のギモンでは、作品はどのように「作品」となるのかについて、キュレーターの立場から考えてみよう。具体的には、美術の展覧会で私たちが普段、至極当たり前のように見ている「作品」について、なかでもとりわけ現代美術特有の事情を抱えた「作品」の展示について、主に次の2つのキュレートリアルな視点からあらためて考えてみたい。まず1つ目は、「作品」を「作品」として展覧会のなかで位置づける行為について、そして2つ目は、「作品」を展覧会のために選ぶという行為について考える。どちらも「作品」を展示するにあたってキュレーターが大きく関わる行為であり、それが特に現代美術の場合、近代までの美術の展示では見られなかったようなさまざまなギモンを呈する。さて、何がどう問題なのか、これから一つひとつ具体的に見ていこう。

「作品」が「作品」になるとき

 まずここであらためて私たちが普段、現代美術の展覧会で「作品」を鑑賞するときのことを思い起こしてみよう。近代までに制作された絵画や彫刻などなら一目で「作品」と判別できるのに、現代美術となると、「これが作品?」「え、これも作品?」と途端にわかりにくくなってしまうのはなぜだろうか。言葉は悪いが、正直、一見ゴミみたいなものも「アート」だったりすることも少なくない。展示室内にあればまだしも、屋外のインスタレーションを中心とした展覧会になってくると、一体どこに作品があるんだ、となかなかに紛らわしい事態が発生する場合もある。逆に無造作に道端に積まれたバケツなどの日用品が、その色合いや積まれ具合が絶妙な味を醸し出して「これって現代アートじゃん」と言われそうになることだってあるだろう。さらにモノの展示ならまだしも、ハプニングやイベント、パフォーマンスなど形に残らない作品の展示になってくると、混迷を極める。例えばティノ・セーガルの『This is Propaganda(これはプロパガンダ)』という作品は、展示室に観客が足を踏み入れると、看視員に扮した人がおもむろに「This is Propaganda, you know, you know.(これはプロパガンダ、知ってるでしょ、知ってるでしょ)」と歌う。こうなってくると、もう気づく人は気づくが、それが「作品」なのかどうかよくわからずに通り過ぎてしまう人が続出してもおかしくない。展覧会場で作品を鑑賞するというときに、私たちは一体どこでそれが「作品」だと判別しているのだろうか。
 MoMAが建築やデザイン、映画、写真などを美術館で展示してコレクションにも加えることで、それまでアートと目されなかったものがアートの文脈に位置づけられてきたことは、ギモン1ですでに見てきたとおりだ。このように美術館や展覧会で何かを展示するという行為は、それを「作品」として美術の文脈に位置づける行為になる。現代美術は、領域横断的な性格を近年ますます強めていて、視覚美術にとどまらず、音楽やファッション、建築などの他ジャンルの芸術、あるいは科学や人類学、社会学、工学、医学、福祉などの芸術以外の分野と横断・協働する作品や展覧会が増加の一途をたどっている。これらの試みのなかには、従来の絵画や彫刻といったモノによるアウトプットだけではなく、地域のコミュニティーを巻き込むようなプロジェクト型になっていたり、最終的な形にはこだわらず、そのときどきの行為やプロセスを重視した形がない「作品」もたくさんある。多様化する現代美術で、「作品」や「アート」の概念は常に再定義を迫られる宿命にある。そもそも現代美術自体、何が「作品」なのか、何が「アート」なのかを開拓、挑戦し続けていくことを本分としているようなところもある。良く言えば懐が深いのだが、下手するとなんでもアリになってしまう危険もはらんでいる。そうした状況のなかで、ホワイト・キューブという展示空間や展覧会という枠組みで「作品」を「作品」として位置づけるのが、キュレーターの大事な仕事の一つである。では具体的に、キュレーターはどうやって「作品」を「作品」として位置づけているのだろうか。

逆パルメザンチーズ再考

 ホワイト・キューブの展示空間の場合は、そこに置かれているだけで「作品」と認識されやすい、というのはギモン1でも見てきた。だが、「作品」はただ展示室にポンと置かれているだけで自動的に「作品」と認識されるとはかぎらない。デュシャン の『泉』を思い出してみると、単に男性用小便器を展示室に持ち込んだだけであれば「作品」とはならないし、あんな一大事件にもならなかった。便器が「作品」になったのには、まず「泉」というタイトルをつけて、制作年と作家によるサインを添え、「展覧会」に出品し(実際には出品されなかったわけだが)、展示台にひっくり返して展示をする、という一連のこまやかな展覧会での決まりごとを経て、さらにそれについて美術雑誌で評論を掲載する、というところまでを全部含めて「作品」が「作品」として美術史における歴史的大事件として位置づけられた。
 ホワイト・キューブという環境、あるいは「展覧会」という枠組みそのものは、「作品」を「作品」たらしめる一種の舞台装置である。この舞台装置で「作品」を「作品」として、よりわかりやすくする小道具がいくつかある。ここで本連載の初めに登場した「逆パルメザンチーズ」に再登場してもらい、作品の展示を構成していた小道具とその役割をいま一度整理してみよう。

「ほら、これ、なんか周り全部白いバックにして、白い台の上に置いて、ケースに入れて、その周りになんか紐みたいなの張って「入らないでください」とか「さわらないでください」って書いてさ、で、四角い紙みたいなのに「〇〇〇〇(自分の名前)」って書いて、「この作品は、現代社会をいままでの発想とは真逆の発想で捉えることを表している」とかって説明書けば終わりじゃん」

 まず「周り全部白いバック」が舞台となるホワイト・キューブ空間とすると、「白い台」と「ケース」がそれぞれ小道具の筆頭となる展示台と展示ケースになる。平面作品ならば、額も同じ部類の小道具と言える。これらは作品を保護すると同時に、壁や床に作品を展示することを可能にし、展示室内での作品の位置を明確に示してくれる。もっとも現代美術の場合は、額装されていない平面作品も多いし、展示台を使わないで床に直接配置するような立体作品も多い。次に「周りになんか紐みたいなの張って」いるのが「結界」と呼ばれるもので、ワイヤー状のものや金属製のバーなどがある。これも作品を保護したり、逆に作品によって観客がけがをしたり服を汚さないようにするなど観客を保護する役割がある。そしてこれらの小道具のなかでその最たるものが「四角い紙みたいなのに」あれこれ書いてあるキャプションだ。キャプションというのは、通常、白い四角いパネルなどに黒字で印字してあるもので、作家名、作品タイトル、制作年、素材・技法などを明記して作品のそばに掲示されている。ときには簡単な作品解説などのウォールテキストが別途添えられていることもある。屋外の展示の場合でも、立て看板のようになっているものや、長期的な展示の場合は、金属製のプレートなどで作られて台座などにしっかりと設置されているものもある。

キャプションをつける

「キャプション」という用語は知らなくても、ここまでの説明で「あぁ、あれね」と思い当たる人も多いだろう。あんな小さな四角い紙切れみたいなものが、そんな大事な小道具なのかと思う方もいるかもしれない。だが、おそらくいまこの文章をお読みになっているあなたも、作品だけを観て、キャプションにあるタイトルや作家名を確認せずに展示室を後にすることは少ないのではないだろうか。例えばルーヴル美術館で『モナ・リザ』の絵を観て、そこに「モナ・リザ」という作品名と「レオナルド・ダ・ヴィンチ」という作家名を記したキャプションを見て、「あぁ、いま、自分はあの『モナ・リザ』を観ているのだ」と確認する人は案外多いのではないだろうか。あるいは、近年日本でも人気が高まっているフェルメールの展覧会に行くと、そもそも現存する作品が30数点という寡作で知られるフェルメールの作品は、大抵フェルメール以外の画家の作品と一緒に展示されている。そこで人だかりができるのは、やはりフェルメールの作品だ。人々はキャプションをチェックして、似たような作風の同時代の他の画家の作品には目もくれず、「フェルメール」と記されたキャプションを確認して熱心にそのキャプションが示す作品に見入る。作家名をキャプションで認識するという行為、またそれが自分の知っている作家なのかどうかを確認する行為は、現代美術作品の場合でもよく見られる光景だ。いわば、私たちはキャプションとセットで作品を鑑賞している。こうした作家名や作品名など、作品にまつわる情報を一枚のキャプションの形で整えて展示室に作品と一緒に掲示するのは、キュレーターである。このキャプションは、作品を鑑賞するうえで多くの人がその解釈の手がかりにするものであり、作品が作品として展覧会のなかで位置づけられるプロセスを目に見える形で示す。このキャプションのなかに記されている一つひとつの要素をここで見ていきたい。

キャプションを構成する要素

 まずは作家名だが、通常は、作家名に加えて出身地や活動拠点、並びに生没年を添えることも多い。この情報だけで、その作家を知っているかどうか、ということだけでなく、その作品はどういった場所で活動した(あるいは活動している)作家の手によるものなのかがわかる。また制作年を見ながら、その作家が何歳ぐらいのときに作られたものなのか、どういった時代背景の際に作られたものなのか、といったことが明らかになる。
 そしてキャプションに記載された情報のなかでも、その作品を解釈するうえで最大の手がかりになるのが作品タイトルだ。作品タイトルをつける行為自体は作家によるものだが、キャプションにそれが示されることで、観客は目の前の作品とキャプションを見比べながら、それが何を表そうとしているのかをあれこれ想像することができる。作品の実物を先に見て、次にキャプションのタイトルを見てから、再びその作品の内容について考える人も多いだろう。

作品タイトルいろいろ

 作品とタイトルの関係については、古典的な例としては、ベルギーのシュルレアリスト画家、ルネ・マグリットの『イメージの裏切り』(1928―29年)を思い起こす人もいるだろう。喫煙具のパイプの絵の下に「Ceci n’est pas une pipe(これはパイプではない)」とフランス語の文章が添えてある一枚の油彩画である。絵柄としては「パイプ」だが、「イメージの裏切り」というタイトルが示すとおり、それはパイプではなく、一枚の絵にすぎない。マグリットのこの作品については、フランスの哲学者ミシェル・フーコーが著書『これはパイプではない』(1973年)で言葉と物の関係について主題的に論じているので、ここでは割愛したい。だが、作品の主題を読み解くうえで、言葉と物の関係は切っても切れないこと、また作品タイトルは実に多くのことを示唆することが、マグリットのこの一枚の絵からも想像できるだろう。
 現代美術作家たちも、作品に実にさまざまなタイトルをつけている。例えば、1970年に大阪万国博覧会のペプシ館を水を使った人工の霧で覆った『霧の彫刻』で有名な中谷芙二子は、これまで手がけた霧の作品タイトルに必ず「国際地点番号」と呼ばれる5桁のアラビア数字を付している。これは、世界各国にある観測所に一つずつ割り当てられた番号で、各地点で観測された気象情報は、この番号とともに各国気象機関の世界的なネットワークで共有される。例えば、インド洋に浮かぶ大小1, 200ものサンゴ礁の島々からなるモルディブ共和国の首都マレの国際地点番号は43555である。同地の国立美術館に隣接する緑豊かな公園に出現した作品は、『霧の彫刻#43555「モルディブの雲樹」』と命名された。霧は、風や人の流れ、温湿度、光などによってその表情を刻々と変化させる。筆者が2012年にモルディブで企画した展覧会では、中谷は現地の気象台を訪れ、年間を通したマレの温湿度、風向や風速などの精密なデータを調べた。そして年間平均気温が30度前後という気象条件で、霧を見ることがないモルディブで人工の霧を出現させた(1)。あるいは、08年の横浜トリエンナーレの際に横浜市内にある有名な日本庭園である三渓園で発表された作品は、その外苑のいちばん奥にある人工の滝がある場所に設置され、『「雨月物語―懸崖の滝」 Fogfalls #47670』と題された。自然の物語を語る風の化身として、変幻自在に舞う霧を「雨月物語」になぞらえ、最後に横浜の国際地点番号が付されている(2)。中谷の霧は、芸術であると同時に科学的な眼差しに貫かれていて、それはそのタイトルにも色濃く反映されている。
 一方で1950年代半ばから70年代初頭にかけて関西を中心に活動した前衛美術グループ、具体美術家協会(通称「具体」)の作家たちの作品タイトルには、「無題」や「作品」などほぼタイトルらしいタイトルがつけられていないケースが多い。これは文学的な題名を嫌ったリーダーである吉原治良の意向によるものということだが(3)、具体のメンバーたちの作品タイトルは、押し並べて「作品」「無題」といったものが多い。例えば、具体の主要メンバーの一人、田中敦子は、エナメル塗料でカラフルな円と曲線で構成された絵画を数多く制作したが、そのほとんどが「無題」か「作品」だけ、あるいは「作品 66-SA」「WORK 1964」など、「作品」や「WORK(英語で「作品」、の意)」という言葉の後に制作年を表す数字やアルファベットを付しただけのタイトルにとどまっている。その昔、田中敦子の個展(4)の展覧会カタログの編集のお手伝いをしたことがあったが、とにかく作品を同定するのが大変で、作品画像とサイズ、制作年を必死に照らし合わせる羽目になった。キャプションも「作品」というタイトルと制作年だけ、素材もほぼ同じであるため、間違わないようにつける必要があるが、キャプションがついたところで、観客にとっては、「無題」や「作品」のほかは制作年が異なるぐらいなので、ただひたすらに目の前の絵画に向き合うしかない。既成の絵画や彫刻の概念を解体しようとした具体の意図に鑑みれば、作品につきもののキャプションにタイトルを付さず、ただそこに表現された作品をなんの先入観も与えずに観客に提示するというのは、誠に理にかなってはいるものの、私たちがいかに普段、タイトルを手がかりに作品を鑑賞しているかをあらためて認識させられる。
 このようにタイトルがつけられていないキャプションというのは、鑑賞者にとってはなかなか手強い相手だが、これとは真逆で、岡崎乾二郎は、一編の詩のように長いタイトルをつけることで知られる。岡崎の絵画作品のなかに、2枚1組になっているアクリル絵の具で描いた抽象画のシリーズがあるが、同じ大きさのカンヴァスの左と右でそれぞれタイトルがついている。例えばセゾン現代美術館所蔵の2001年に制作された作品は、左が「平面ばかりつづいて家のひとつもない真一文字の道を猛スピードで走っていれば、なおさら気分も座ってくる。この道や行く人なしに秋の暮。日除けの陰で顔は緑に蔽われ、そのくせ眼の輝きはまっすぐ向こうを見つめている。野菜が少なかろうと海で魚がなかろうと恐れるにたりない。米を一粒播くとかならず三百粒の実をつける」、右が「それを辿れば間違いなく家に戻れる一つしかない煉瓦敷きの道をゆっくり歩いていれば、どっと笑いがとまらない。やがて死ぬ景色は見えず蝉の声。陽の光をさんさん受けた気楽な世界のただ中で影に包まれ、爪先だって歩いている。自分が茄子であるのか南瓜であるのか分らなくてもよい。一生のうちに一回きっと蝶は飛んでくる(5)」という具合である。描かれた絵画自体は、色とりどりの絵具をコテのような形状のペインティングナイフで画面にのせて押し広げたり、絵具の盛り上がりをナイフで丁寧に造形したりした痕跡がわかるようなリズミカルな画面となっている。左と右とで見比べると、同じようなパターンが色の組み合わせや大きさなどを変えたりしながら、左右の同じ位置や、異なる位置にそれぞれ配された画面構成となっている。タイトルのほうは、左と右の文字数は合わせてあるが、それぞれの文章は関連があるようで、ないようで、一つの物語と、もう一つ別のありえたかもしれない物語のように左右のタイトルの関係性について考えさせられる。二枚一組の絵と、左右で対になっているタイトルの文章を鑑賞者は見比べながら、しばし反芻する。岡崎の絵とタイトルは、このように同じような重きを持って鑑賞され、キャプションと言えど、それは単なるタイトルを示す小道具の域を超え、もはや作品の一部となっている。
 と、少々脱線したが、作品タイトルにかける(あるいはあえてそれを意識させないようにする)作家たちのこだわりは、それだけタイトルが作品で非常に重要な役割をもっていることを端的に示している。もっとも、現代美術の場合、展覧会に向けて新作を発表する作家も多く、オープンギリギリまでタイトルが決まらなくて、キュレーターは冷や冷やさせられることもしょっちゅうだ。また作家のほうも、やっと決まったタイトルを時間がたつと忘れてしまったり、あとから変更してしまうことも少なくない。と、なんとも悩ましいものではあるが、作品にとってタイトルは不可欠な存在であり、そんなタイトルも、キャプションがなければ、観客はその作品がどういうタイトルなのか、誰による作品なのか、皆目見当がつかない。つまり、展示室で、ただ作品が置かれるのではなく、キャプションにそのタイトルと作家名が示されることで、「作品」が「作品」として位置づけられることは間違いないだろう。狭い会場であれば、ときに壁にはキャプションをつけずに、会場マップを別途用意してそこにタイトルがまとめて付されていることも珍しくない。ただいずれにせよ、私たちは、普段、タイトルや作家名を見ることなく作品のみを見る、ということはしない。
 ちなみに先に紹介したセーガルの場合は、実は、展示室内にキャプションをつけること自体を許さない。さらに作品を写真や動画で記録することもご法度であることで知られている。これは、キャプションを軽視しているのではなく、展覧会や美術館という枠組みのなかで「作品」を展示する際にいかにキャプションというものが作品を作品らしく見せているか、また、そうした枠組みのなかで作品を展示するという行為そのものに対する痛烈なインスティチューショナル・クリティークとなっている。

 さて、ここまでは「展覧会に一体何をどう展示するのか」ということについて、キャプションなどに象徴される作品展示にまつわる物理的な設えを中心として見てきた。だが、「作品」を「作品」として位置づけるうえでさらに大切なキュレーターの仕事がある。それは、その「作品」を美術の文脈のなかに位置づける、という論理的な設えだ。逆パルメザンチーズのエピソードで言えば、最後の部分、「「この作品は、現代社会をいままでの発想とは真逆の発想で捉えることを表している」とかって説明」を書く、という部分である。つまり、作品に関するテキストを書く、作品について論じるということである。テキストというとカタログを思い浮かべる人もいると思うが、カタログそのものについては、また追ってのちほど少し考える機会をもちたい。ここでは展覧会のためにある作品を選んで、それについて説明する、テキストを書くということについて次回考えてみよう。


(1)難波祐子「呼吸する環礁(アトール)――連なりの美学」、国際交流基金『呼吸する環礁(アトール)――モルディブ 日本現代美術展』所収、国際交流基金、2012年、59ページ
(2)『横浜トリエンナーレ2008カタログ――time crevasse』横浜トリエンナーレ組織委員会、2008年、197ページ
(3)加藤瑞穂氏へのメールによるインタビュー、2019年11月6日
(4)「田中敦子――アート・オブ・コネクティング」(2011―12年)、アイコンギャラリー(イギリス)、カステジョン現代美術センター(スペイン)、東京都現代美術館を巡回。
(5)岡崎の作品画像とタイトルは以下の記事を参照のこと。影山幸一「デジタルアーカイブを開始した美術家「岡崎乾二郎」」「artscape」(http://www.dnp.co.jp/artscape/artreport/it/k_0602.html

 

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ギモン2:展示の順番と見る順番は違うの?(第2回)

第2回 時間軸がある作品の展示

難波祐子(なんば・さちこ)
(現代美術キュレーション。著書に『現代美術キュレーター・ハンドブック』『現代美術キュレーターという仕事』〔ともに青弓社〕など)

 近年、現代美術の展覧会で、映像作品が占める割合が著しく増えている。これは映像を撮影するための機材や編集するためのコンピューターのソフトウエアなどの開発が1990年代以降、飛躍的に発展し、廉価でコンパクトで性能がいいものが急速に大量に出回るようになったことが大きい。展示の方法も、シンプルに壁にプロジェクターで投影したり、モニターで見せるほか、コンピューターのプログラムを介して複数の映像を同期させたり、空間全体を作り込むようなインスタレーションの形で見せるものも多い。このほか、音を使ったサウンド・インスタレーションやパフォーマンス、また光や音、映像、インスタレーションなどを総合的に組み合わせてコンピューターでプログラミングし、演劇のように見せるメディアアートなど、特定の時間軸をもつ作品の展示が、旧来の劇場やコンサートホール、映画館といったスペースだけでなく、美術の展覧会の枠組みのなかにも入り込んで盛んにおこなわれている。こうした時間軸をもつ作品が展覧会で展示されているとき、あなたは普段どのように鑑賞しているだろうか。先に考察した順路については、キュレーターの設定した順路に沿って見たり、逆に自分の好きな順路とペースで見ることが可能である。だが映像作品やパフォーマンス作品のなかには、起承転結がはっきりしていたり、始めから終わりまでの流れと長さが決まっているものも多く、そうなると途端に自分の見るペースが乱される。美術館で展示される映像作品の大半は、数分程度と短めに編集されていることが多いものの、上映時間のスタートが決まっているもの、あるいは長篇の映像の場合だと、どうしても作品の途中で展示をのぞくことになってしまう。展覧会の規模にもよるが、通常は、美術館で一本の展覧会を鑑賞する場合、1時間、あるいは長くてもせいぜい2時間程度で見終わることが一般的である。だが、近年の映像作品の増加によって、すべての映像作品を始めから終わりまできちんと見ようとすると、4時間近くかかってしまう展覧会も少なくない。こうなってくると、よっぽど覚悟を決めてかからないと、全部を消化するのは不可能になってしまう。その場合、何らかの取捨選択をしながら一本の展覧会を見ることになるが、その際にあなたにとっては何が決め手になるだろうか。

音楽を「設置」する展覧会

 ここで2017年の春にワタリウム美術館(東京)で開催された「Ryuichi Sakamoto async 坂本龍一設置音楽展(4)」(以下、「設置音楽展」と略記)を具体例として少し丁寧に見ていきながら、キュレーターがデザインする時間、作品がもつ時間、ならびに鑑賞者の体験する時間の関係について考えてみよう。「設置音楽展」は、17年にリリースされた坂本龍一のアルバム『async』を「立体的に聴かせる(5)」ことを意図した展覧会だった。展示は3フロアに分かれていて、2階からスタートして3階、4階と上がっていき、最後に地下1階のショップでアナログ盤の同アルバムなどを視聴できるような構成になっていた。
 2階の入ってすぐの部屋には、展示ケースのなかに坂本がアルバムを制作する際に着想のもとになった書籍や写真、メモ、譜面などが導入的に展示され、奥に進むと『async』の楽曲が5.1chの高性能スピーカー6台で流れる部屋へと続き、そこで四方から音に囲まれる。壁には、縦型に配置された8台のフラットなモニターに高谷史郎による映像がリアルタイムで生成される。3階にはアルバムの制作のために坂本が過ごしたニューヨークのスタジオとその周辺などを撮影した映像と音風景を、24台の iPhone と iPad でスケッチのように見せるニューヨーク在住のアーティスト・ユニット Zakkubalan によるインスタレーション、4階にはタイ人アーティスト・映画監督のアピチャッポン・ウィーラセタクンが同アルバムから着想を得て制作した映像作品が展示された。

「設置音楽展」(2017年)会場風景
Photo by Ryuichi Maruo
2017 commmons/Avex Eentertainment Inc.

 このように「設置音楽展」は、3フロアを通して、坂本とさまざまなアーティストとのコラボレーションによって『async』という一枚のアルバムがもつ世界観を多角的に展示する展覧会だった。だが、私はこの展覧会をかなりの時間をかけて見終わった後、なんとも言えない違和感を覚えて会場を後にした。その違和感について、展覧会が終わった後も事あるごとに何が原因なのかを考えることが多かった。その後、2018年の秋にソウルで坂本のデビューから現在までの40年にわたるさまざまな活動を音楽、映像、インスタレーションなどを通して振り返るような個展(6)を見る機会があった。同展では、映画音楽に始まり、1980年代のナムジュン・パイクとの実験的なビデオ作品や長年活動をともにしているミュージシャンのアルヴァ・ノトとのライブ映像、高谷史郎とのインスタレーション作品のほか、「設置音楽展」とはまた少し異なる形で『async』に関する展示もあるなど、盛りだくさんな内容だった。そこで3時間近くを過ごしたあげく、閉館時間になってしまいあえなく会場を出たが、久々に「時間」を忘れて一つの展覧会を堪能するという体験をした。そしてこの展覧会では「時間」が幾重にもなって大切な要素になっていると実感した。同時に改めて「設置音楽展」のことを思い出し、そこで覚えた違和感の背後に展示を取り巻く「時間」の問題が潜んでいるのではないか、とようやく思い当たった。特に「設置音楽展」のなかでも2階の展示は、アルバムの音楽を立体的に展示する、という同展覧会の中核をなす展示であるとともに、最も違和感を覚えた展示でもあった。どうやらこの展示に向き合うことが、特定の時間軸をもつ作品とその鑑賞体験の関係について、いくつか思考するためのヒントを与えてくれそうだ。そこでここでは、「設置音楽展」のなかでも、この2階のインスタレーションについてもう少し掘り下げながら読み解いていき、展示を取り巻く「時間」の問題を改めて考えてみたい。
 通常の映像インスタレーションやサウンド・インスタレーションでは、「出入り自由」であることが多く、「設置音楽展」でも3階と4階の展示については、各展示室を観客が比較的自由に自分のペースで見て回る姿がよく見られた。だが、2階のインスタレーションについては、整った音環境のなかで「一枚のアルバムを聴く」という行為が組み込まれていたがために、そこにいた観客のほとんどは、一度展示室に足を踏み入れると、退出することなく、かなり長い時間、音楽そのものを聴きながら高谷の映像を見ていた。高谷の映像は、坂本のニューヨークのスタジオにあるピアノや書籍、譜面、マレット(打楽器用の枹/バチ)、指揮棒、裏庭の植木鉢などさまざまな事物を撮影したものをベースに構成されている。モニターに映し出される映像は、右側あるいは左側のモニターから一定方向に徐々に時間差で変化していき、8台で一つの風景を作り出す(7)。無数の細い横線からなる画面は、左側からあるいは右側からゆっくりとスキャンするように1ピクセルずつ実写した動画へと変換されていく。動画は徐々に隣のモニターへとスライドしていくように流れ、動画の部分が終わると、その端から1ピクセルずつ順に画面上に固定されていき、静止画となる。こうして線の映像は動画へ、動画は静止画へと変換され、一つのイメージが織物を織るように生成されていく。8面の静止画のイメージができあがると今度は逆に、静止画のイメージが1ピクセルずつ引き伸ばされて、時間の経過とともにその痕跡が無数の横線になって堆積していく。こうして8面のイメージは徐々に分解され、最後には幾重にも積み重なった横線が再びすべての画面を覆う。そしてまたこれらの線が少しずつ変換され、新しいイメージが立ち現れていく。高谷の映像は、アルバムの音と同期しているわけではないが、刻一刻と表情を変え、アルバムの音が作り出す時間軸に並行して、潮の満ち干のように展示室に流れるもう一つの時間軸を視覚的に鑑賞者に強く印象づける。

「設置音楽展」(2017年)会場風景
Photo by Ryuichi Maruo
2017 commmons/Avex Eentertainment Inc.
「設置音楽展」(2017年)会場風景
Photo by Ryuichi Maruo
2017 commmons/Avex Eentertainment Inc.

 展示室内に「設置」された「音楽」を体感するという行為は、最初から最後までの時間を演者側がコントロールし、大勢の人が一斉に鑑賞するライブや映画、舞台とは何が異なるのだろうか。ここで、通常の音楽アルバムを聴く行為と、展示空間でインスタレーションという形で『async』というアルバムを鑑賞する行為について比較しながら少し考えてみよう。

音楽アルバムを聴くという行為

 レコードの登場は音楽の鑑賞体験に大きな革命を起こしたが、1970年代に普及したカセットテープはさらなる変化をもたらした。カセットテープは、ラジオやレコードの音楽を聴き手が自ら編集・録音することを可能にした。さらにコンパクトなカセットテープは、カーオーディオにも組み込みやすく、車で移動しながら自分の好みの音楽を聴くことを可能にした。またカセットテープのポータブルな再生機として開発された79年のソニーのウォークマンの登場は、音楽を文字どおり持ち歩くことを可能にした。現在では録音される媒体は、レコードやカセットテープからCDへと変わり、さらにネットから配信されたり、ダウンロードした音楽を iPhone などのスマホで聴くことが一般的になっている。
 カナダの天才ピアニスト、グレン・グールドは、1966年に発表した「レコーディングの将来」という評論で、録音音楽による演奏音楽家の役割の変化、編集技術者や作曲者、聴き手への影響などについて鋭く洞察している。なかでも、従来の「受動的な分析者」ではない編集意識をもった新しい聴き手の可能性を次のように予見している。「かれは協力者であり、将来といわず現在すでにかれの趣味、嗜好、傾向は、かれが注意を寄せる音楽経験の周辺部分を変えている。音楽芸術の未来は、かれのさらなる参加を期待している(8)」
 通常、一枚のアルバムを聴くという行為は、音楽ホールなどである特定の日時に生演奏を聴く行為と異なり、すでに録音された音楽を再生して聴く。したがってアルバムそのものは、作り手によってその一枚にバランスよく収まるように編まれているものの、その聴き方は、グールドが予見したとおり、聴き手の自由にかなり任されている。自分の好きなようにスキップさせたり順序を入れ替えたり、途中で止めたり、同じ曲を繰り返し聴くことも可能である。またアルバムを聴くシチュエーションも、スマホで通勤・通学時に聴いたり、自室で何か作業をしながら流したり、車を運転しながら聴いたり、と自分の好きなところ、好きなときに好きなペースで聴くことができる。そういった意味では、「演奏会」や「展覧会」という時空間でしか成立しない作品鑑賞のあり方と比べて、比較的自由な鑑賞を可能にする。
 もともと『async』のアルバムは、一般的なコンサートやライブなどステージ上で再現するのが難しいタイプの楽曲で構成されていて、録音されたアルバムの形で鑑賞することを前提として坂本が作り込んだものだ。そういう意味では、このアルバムは本来、アルバムとして通常の音楽アルバムと同様に鑑賞することが期待されている。だが同時に、このアルバムについて坂本は、次のような重要な発言をしている。それは、このアルバムをもともと「音を空間に配置するつもりで作った(9)」ということである。つまり、このアルバムは、アルバムという形を取りながらも、展示を前提とした音楽として考えられていたのだ。そして「設置音楽展」は、そのアルバムを「良質な環境で音楽に向き合ってもらえたら(10)」という坂本自身の思いからスタートし、自らが展示ディレクションを手がけた展覧会だった。

展示室に設置されたアルバムを鑑賞する行為

「async」というのは、そもそも「同期しない」「非同期」という意味である。これは普段、演奏や鑑賞において同期を前提としている音楽というメディアの本質を根本から問い直すような試みである。収録している楽曲も、いわゆるメロディーを追って聴くような楽曲だけでなく、坂本自身がさまざまな音を収集し、それらを配置・編集した楽曲で構成されている。林のなかを枯れ葉や小枝を踏みながら歩く足音、三味線の擦れる音、6月の裏庭の雨音、ピアノの弦をはじいたりこすったりする音など、それぞれの音が固有のテンポをもちながら、複層的な時間が流れる音楽となって「架空のタルコフスキー映画のサウンドトラック(11)」というコンセプトのもと、一枚のアルバムに編まれている。
 実際に展示室で流す際には、市販されている『async』のアルバムよりも少し長めに編集した音源が展覧会のために用意された。具体的には、収録曲のうちの一つをオリジナルの5分9秒の長さから6分5秒とわずかながら長めに編集し、また通常のアルバムには収録されていない曲をボーナストラックとして一曲加えて構成した。これは、「出入り自由」なインスタレーションの形で聴かせる展示を意識しながらも、アルバムを立体的に鑑賞させるという目的に軸が置かれていたため、「アルバムからあまり大きく離れないように少し長くする(12)」ことを基本とした結果であるという。最終的な全体の長さについては、坂本自身が現場で聴き比べながら判断して決めた。高谷の映像は、物語性を排除し、坂本の音とあえて同期しないことで、その世界観と展示空間で流れる時間を可視化する『async』のアルバムと不可分なインスタレーションになっていた。
 結果的に、この展示は、一見「出入り自由」な映像インスタレーションの体裁を取りながらも、実際には、ライブを鑑賞するように作品の時間軸に沿ってじっとその場で鑑賞する観客を多く生み出すことになった。これは、この展示が、一般的なアルバムの観賞よりもライブ体験に近いことを物語っている。同時にステージ上で再現することが難しい音楽アルバムを個人による鑑賞やライブ会場での鑑賞とは異なる手法で「立体的に聴かせる」には、展示室でのインスタレーション/設置の形が最良の手段だったと言えるだろう。そういった意味では、同展は、通常の一枚のアルバムを聴くという行為と、映像インスタレーションを鑑賞する行為、さらにはライブ鑑賞をする行為のちょうど中間に位置するような展示であり、一つのライブ・パフォーマンス的なインスタレーション作品として提示されていた。言い換えれば、今回の「設置音楽展」の2階のインスタレーションは、単なる音楽アルバムの鑑賞ではなく、「async」というアルバムタイトルが象徴するように、多様な時間の層が交錯する鑑賞のあり方の可能性を開く先駆的・過渡的な試みだったと言える。私が初めにこの展示に対して抱いた違和感は、一つの展覧会のなかに幾重にも絡まり合った時間が同期することなく提示されている、といういままで経験したことがない鑑賞体験に戸惑ってしまったことに起因しているのかもしれない。
 一枚の音楽アルバムを音楽と映像によるインスタレーションとして展示室に展開する手法は、音楽を「設置」するという行為が単に展示室の空間に物理的に作品を配置するだけでなく、展示室に流れる時間も配置していることを浮き彫りにする。展覧会、展示のための音楽のあり方は、コンサートやアルバムとは異なる非同期性を内包する音楽の新しい鑑賞の可能性を開く。一方で、展示室で音楽や映像作品を鑑賞するという行為は、スマホで音楽や動画を視聴するように、好きな順序で、好きなタイミングや場所で鑑賞する行為と異なり、あくまでも展覧会の時空間でしか成立しない作品鑑賞のあり方について改めて問いを投げかける。ここで、時間軸をもつ作品の鑑賞について、さらに考えを深めるためにもう一つパフォーマンスを「展示」した事例を見てみたい。

パフォーマンスを展示する

 2019年の第58回ヴェネチア・ビエンナーレ(13)で金獅子賞を受賞したリトアニア館の「Sun & Sea(Marine)」は、会期中の週2日だけ終日開催される新しい形の「オペラ・パフォーマンス(14)」だった。ビエンナーレ主会場の一つであるアルセナーレ(旧造船所)から少し離れた一角にある倉庫に、2階に上がる階段と上階部分をぐるりと取り囲むバルコニーが設えられている。2階に上がって薄暗いバルコニーから見下ろすと、1階部分がまるで一枚の巨大な絵画のように見える。そこでは明るく照らし出された人工のビーチが広がり、思い思いにくつろぐ水着姿の人々が目に入る。砂浜の上にタオルを広げて寝転がっている人たち、寝椅子に横たわって本を読む人、犬を連れて散歩をする人、ビーチテニスで遊ぶ子どもたち。そのうち一人の女性が寝転がったまま、おもむろに日焼け止めを手に取って、そのラベルを読み上げながらソプラノで歌い始める。やがて彼女のアリアにビーチにいる人たちが声を合わせて歌いだす。しばらくすると今度は別の男性が日々の仕事で過労ぎみだと歌い、周りがハミングしてハーモニーを奏でる。こうして約20人の歌い手が穏やかにゆっくりとしたリズムで順に歌い始め、それにコーラスが加わっていく。歌詞の一つひとつは、仕事や休暇の話、日焼けやビーチに捨てられたゴミなど、他愛のない個人の日常を取り上げたものから始まる。やがて彼らが抱えている現代生活のさまざまな歪みや不安を描き出し、さらには環境破壊や地球温暖化など、地球が滅びゆく最後の日がささやかな日常から静かに忍び寄っていること、そしてそのことに対して、ビーチに横たわる人々のように緩慢な態度であり続ける私たち自身の姿を示唆していることがわかる。
 パフォーマンスは約1時間でひとめぐりするが、特に終わりと始まりが明確にされているわけではなく、観客は自分の好きなタイミングでその場を後にすることができる。リトアニア館の試みは、上演時間が定められた既存のオペラとは異なる、展覧会の形で見せることを全面的に意識した、生きた絵画を見せるような作品として提示されていた。「設置音楽展」の『async』が、展示と音楽アルバムというそれぞれ異なる鑑賞形態に開かれた多面的な性格(15)を有していたのに対し、リトアニア館の「Sun & Sea」は、定められた時空間を有する展覧会の形でしか成立することができないタイプのパフォーマンス作品だったとも言える。

展示の時空間を主体的に鑑賞する

 これまで見てきたように、展覧会を鑑賞する行為は、展覧会がもつ物理的な空間と時間の両方を一人ひとりが鑑賞する行為であると言える。展示の順番や設えというキュレーターがデザインする展覧会の時空間、見る順番とペースという鑑賞者がデザインする展覧会の時空間、そして作品そのものが作り出す展覧会の時空間が交錯するなか、ストーリーやロジックを道筋の手がかりとしながら、どう歩くかは鑑賞者に開かれ、その主体性に委ねられている。つまり展覧会では、空間的な問題だけでなく、展覧会を体験する時間についても主体的な鑑賞が求められる。
 ただし、作品そのものがもつ時間軸を鑑賞者が経験することが必須のタイプの作品の場合、主体的な鑑賞者を招き入れながらも、作品がもつ時間に鑑賞者はある程度取り込まれ、その現象を包括的に直接肌で感じながら、自らのなかにリアルタイムで流れる時間や自身の過去のさまざまな体験や記憶などと照らし合わせて結び付けながら作品を体感することになる。絵画作品や彫刻作品の場合も、それらを作り出すために作家が費やした時間、さらにはその作家が生きていた/いる時代性などの歴史的時間が織り成されていて、ときにそれは絵筆の跡やのみの跡、あるいは主題とするモチーフなどから感じることもある。しかし、音や映像、パフォーマンスなどを用いた作品は、よりそのものがもつ時間軸が鮮明になり、鑑賞者の鑑賞体験の時間にダイレクトにリアルタイムで作用していく。ただし、コンサートホールや映画館での鑑賞と異なり、展覧会での展示はあくまで「出入り自由」なので、どの程度その作品がもつ時間のなかに自分の時間を重ねていくかは、あくまでも観客の手に委ねられている。
 一方で、時間軸をもつ作品の展示は、そういった作品を制作する作家やそれを展示するキュレーターの側にとっても、順路や時系列に従わない展示のあり方について再考を促す。そこではストーリーの組み立て方も起承転結型ではなく、オープンエンドな作品や展示のロジックも選択肢の一つに加えながら、展示の時空間をデザインしていくことが必要とされるだろう。
 このことは、展覧会という枠組みのなかで、個々の作品が成立するプロセスや、展覧会の時空間や体験をデザインする担い手について、作家、キュレーター、鑑賞者のあり方を改めて私たちに考えさせる。展覧会は、単に作品を「見る」空間を提供するだけではなく、体全体を使って感じ、思考し、作品と接する特定の時間を過ごす場なのだ。また作品は、いったん作家の手元で完成すると、作家の手から離れる。だが作品は、展覧会という時空間のなかにある文脈をもって設置され、鑑賞者が展示室に入ることで、個々の鑑賞者の鑑賞体験となって共有、解釈されていく。
 近年、現代美術の展覧会で映像作品と並んで増加している参加型・体感型の展示や、展覧会の枠組みのなかで実施されるパフォーマンス作品の展示は、作家、キュレーター、鑑賞者といったそれぞれがもつ異なる時空間の交錯の仕方、ならびにグールドが言う「新しい聴き手」としての主体的な鑑賞者のあり方が作品の成立に大きく関わっていることを示唆している。次のギモンでは、こうした作品が作品として展覧会のなかで成立する仕組みについて考えていこう。


(4)「Ryuichi Sakamoto async 坂本龍一設置音楽展」ワタリウム美術館、2017年4月4日-5月28日
(5)坂本龍一氏メール談。2019年6月2日
(6)「LIFE, LIFE: RYUICHI SAKAMOTO EXHIBITION」piknic(韓国・ソウル)、2018年5月26日-10月14日
(7)以下の映像の描写については、高谷史郎氏によるメールと電話での解説に基づく。2019年6月30日(メール)、8月24日(メール、電話)
(8)グレン・グールド「レコーディングの将来」、ティム・ペイジ編『グレン・グールド著作集2――パフォーマンスとメディア』野水瑞穂訳、みすず書房、1990年、162ページ
(9)NHK BSプレミアム『坂本龍一 ライブ・イン・ニューヨーク“アシンク”』(2018年3月11日放送)での坂本のコメント。
(10)ワタリウム美術館「坂本龍一 async 設置音楽展」展覧会概要(http://www.watarium.co.jp/exhibition/1704sakamoto/index.html)[2019年7月27日アクセス]
(11)『async』ライナーノーツ。アンドレイ・タルコフスキー(1932-86)は、ソ連の映画監督。
(12)坂本氏メール談。2019年6月2日
(13)第58回ヴェネチア・ビエンナーレ、2019年5月11日-11月24日。リトアニア館展示は2019年5月11日-10月31日。
(14)リトアニア館チラシ
(15)『async』は、その多面性を象徴するように展示とアルバムのほか、ニューヨークで2日間限定のライヴとして実施され、またそれが映画にもなっている。ライヴ:Ryuichi Sakamoto – async Live at Park Avenue Armory/Artists Studio、2017年4月25日、26日(各回100人限定)高谷史郎と共演。映画:『坂本龍一 PERFORMANCE IN NEW YORK: async』(原題RYUICHI SAKAMOTO: async AT THE PARK AVENUE ARMORY)、アメリカ・日本、監督:スティーブン・ノムラ・シブル、2017年

 

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