第22回 アルフレッド・デュボワ(Alfred Dubois、1898-1949、ベルギー)

平林直哉(音楽評論家。著書に『クラシックの深淵』〔青弓社〕など多数)

イザイとグリュミオーの架け橋

 ウジェーヌ・イザイからアルフレッド・デュボワへ、そしてアルテュール・グリュミオーへと引き継がれたベルギー楽派の伝統。しかしながら、この3人のなかで圧倒的に知名度が低いのはアルフレッド・デュボワだろう。彼の名はマーガレット・キャンベルやヨアヒム・ハトナック、ボリス・シュワルツなど、ヴァイオリニストを網羅した代表的な書籍では扱われておらず、あったとしてもせいぜい「グリュミオーの先生」程度の記述しか見当たらない。比較的新しい『偉大なるヴァイオリニストたち――クライスラーからクレーメルへの系譜』(ジャン=ミシェル・モルク、藤本優子訳、ヤマハミュージックメディア、2012年)では珍しく単独で取り上げられているが、くくりは「番外編――クライスラー以前の巨匠、偉大なる教育者たち」である。
 デュボワは1898年11月17日、ベルギーのモレンベークで生まれた。両親は音楽家ではなく、彼が楽器を始めたきっかけは明らかではない。12歳のとき(1910年)にブリュッセル音楽院に入学し、アレクサンドル・コルネリウスに師事する。コルネリウスはアンリ・ヴュータンのアシスタントを務めていたユベール・レオナールに師事しているので、若きデュボワはヴュータン以来の伝統を叩き込まれたといっていいだろう。1920年にはブリュッセル市からヴュータン賞を贈られている。ソロとして活躍するのと同時に、25年からはベルギー王宮三重奏団を結成、27年にはイザイの後継者としてブリュッセル音楽院の教授に就任する。31年、イザイの葬儀で追悼演奏をおこなう。ベルギーでのデュボワの名声は高まり、38年にはアメリカに演奏旅行に出かけた。第二次世界大戦中、アルティス(Artis)弦楽四重奏団を結成し、弟子のグリュミオーが第2ヴァイオリンを担当する。49年3月24日、ベルギーのイクルで塞栓症のため急死。
 ビダルフのBID80172の解説でタリー・ポッターは「デュボワは1917年以降、定期的にイザイの指導を受けた」と書いているが、2023年に発売されたCD(ミュジーク・アン・ワロニー MEW2204)の解説には、デュボワがイザイから直接指導を受けたという証拠はないと記してある。ただし、彼がイザイが主宰する室内楽の演奏会に出演したこと、ジャック・ティボーの代役としてイザイと一緒にバッハの『2つのヴァイオリンのための協奏曲』を弾いたことがあったこと、若いころにはイザイと交流があったヴァイオリニストたちの指導を受けていたことも書いてある。イザイの後任として教授に就任したり、イザイの葬儀で演奏したりしたという事実なども含めて総合的に判断すると、デュボワがイザイからさまざまな恩恵を受けたことだけは間違いなさそうである。
 デュボワの演奏を紹介するとなると、さしあたりは現役のCDを優先しなければならないだろう。まず、ビダルフのBDF-ED85049-2で、モーツァルトの『ヴァイオリン協奏曲第6番』(1931年)とヴュータンの『同第5番』(1929年)、伴奏はともにデジレ・デファウ指揮、ブリュッセル王立音楽院管弦楽団である。前者は周知のとおり現在では偽作とされていて、最近の奏者は弾かなくなってしまった。この2曲は独奏が出ずっぱりの作風だが、これを聴くと、たいていの人がグリュミオーの音と似ていると思うだろう。明るく張りがあって、スコンと抜けるような美音は師弟に共通している。特にグリュミオーは弦楽四重奏団でデュボワの音を隣で聴いていたわけだから、師匠デュボワの音を身体全体で受け止めていたはずである。デュボワとグリュミオーとの違いは、デュボワはポルタメントを随所で効果的に使用しているところだろう。
 2曲の協奏曲のあとは、ソナタなどの室内楽作品が収められている。まず、ヘンデルの『ヴァイオリン・ソナタ第6番』。これは1947年の録音で、最晩年のものに属する(ピアノはジェラルド・ムーア)。2曲の協奏曲とはいささか異なり、古典的なスタイルを基本にしているが、随所にふっと香るような甘さをちりばめているところが魅力的である。
 次の4曲はデュボワが頻繁に共演し録音で同行していたピアニストで作曲家のフェルナン・フーエンス(つづりがGoeyensなので、ときどきゴーエンスという表記も見かける)のピアノ伴奏。ピエトロ・ナルディーニ(イザイ編)の『アリア』、ジャン=マリー・ルクレール(ヘルマン編)の『タンブーラン』、モーツァルト(ヘルマン編)の『メヌエット』、ヴュータンの『ロマンス』(1929年、31年録音)などだが、どれも自在で勢いにあふれた手さばきで、艶やかな美音と粋な表情を聴くことができる。
 最後の2曲は無伴奏で、イザイの『無伴奏ヴァイオリン・ソナタ第3番「バラード」』(1947年)とフリッツ・クライスラーの『レチタティーヴォとスケルツォ』(1929年)である。クライスラーも見事だが、圧倒的なのはイザイだ。力強く斬新な響きをくっきりと描くとともに、流麗でしなやかさがあり、歌心にもあふれていて、実に味わいがある演奏である。なお、これは『ソナタ第3番』の世界初録音らしい。
 次のCDは先ほどもふれたミュジーク・アン・ワロニーのMEW2204(2枚組み)。これにはデュボワの詳細な経歴が記されているだけでなく、写真も豊富で、資料としては非常に貴重である。ただ、CDの音質はいささかノイズ・リダクションがきつく、それがちょっと残念だが。
 ディスク1にあるヴュータンの『ヴァイオリン協奏曲第5番』とイザイの『無伴奏ヴァイオリン・ソナタ第3番』はビダルフのBDF-ED85049-2にも含まれていて、フランクの『ヴァイオリン・ソナタ』は後述するビダルフのBID80172にも収録されている。このCDでしか聴けないものの一つはイザイの『子どもの夢』(1929年、ピアノはフーエンス)である。これは美しい演奏だ。この甘く切ない音色は、弟子のグリュミオーを上回っている。
 ディスク2はフーエンスのピアノ伴奏で、フーエンスの『ユモレスク』『ハバネラ』、ジョセフ・ジョンゲンの『セレナータ』、アレックス・ド・タイエの『ユモレスク』、クレティアン・ロジステルの『リゼットに捧ぐセレナード』(1928年、29年、31年)など、ほかのCDではあまり見かけない作品が収録されている。しかしながら、内容は魅惑的なものばかりで、いかにも美音のデュボワが好んだ選曲といえる。また、ナルディーニ(イザイ編)の『アリア』はビダルフのBDF-ED85049-2にも入っている。
 次の2枚は廃盤になっているが、できれば早期に復活してほしい、重要なCDである。最初はビダルフのBID80172で、ベートーヴェンの『ヴァイオリン・ソナタ第7番』(1936年)、フランクの『ヴァイオリン・ソナタ』(1931年)、ドビュッシーの『ヴァイオリン・ソナタ』(1936年)で、伴奏はデュボワの長年のパートナー(主に1930年代以降)だったマルセル・マースである。
 まずベートーヴェンだが、ライブのような勢いにまずはっとさせられる。基本的には古典の枠組みをきっちり保持したスタイルなのだが、明るくどことなく漂う色香も感じさせる。ピアノのマースも、いかにも闊達だ。
 フランクの『ヴァイオリン・ソナタ』はミュジーク・アン・ワロニー盤にも入っているが、このビダルフ盤のほうがSPの味を伝えていて、聴きやすい。これまたベートーヴェン同様、生き生きとした息吹を存分に感じさせる演奏なのだが、ベートーヴェンではほとんどみられなかった、甘く夢を見るような温かさ、甘さ、しなやかさがあり、忘れがたい。スケール感も十分にあり、起伏や色彩感も見事で、名演の一つだろう。
 ドビュッシーの『ヴァイオリン・ソナタ』も傑作である。小気味よさと切れ味があるばかりでなく、粋で繊細な表情も抜かりなく描き出している。
 最後にはフォーグラー(ゲオルク・フォーグラー〔1749-1814〕のことと思われるが、CDには作曲家の名字のほかは何も明記していない)の『アリア、シャセとメヌエット(Aria, Chasse and Minuetto)』を収録。これもデュボワらしい、とてもきれいな演奏である。
 もう一つはバッハの『ヴァイオリン・ソナタ第4番』『第5番』『第6番』と、『ヴァイオリン・ソナタ第2番』より「アンダンテ・ウン・ポコ」(以上、すべて1933年)(ビダルフ BID80171)を収録しているものである。これらも、実に美しい演奏だ。端正で古典的なたたずまいのなかで気品がある音色で歌い上げ、いかにもヴァイオリンらしい甘さも感じさせ、胸にじんと響き渡る。こんな演奏を聴いていると、最近の古楽器演奏というものがいかに単一的で皮相なものかということを強く感じる。これらもすべてデュボワのよき相棒マースの伴奏だが、このCDにはマースの独奏が2曲、付録的に加えられている。
 いささかマニアックな情報も加えておこう。前出のフランクとドビュッシーそれぞれの『ヴァイオリン・ソナタ』はキャニオン/アルティスコのYD-3006(1977年発売)というLP復刻があった。この2曲の世界初復刻盤だったが、これが、なかなか優れた復刻なのだ。復刻の方法は「アートフォン・トランスクリプション・システム」とうたわれているが、実はどのようなやり方なのかは謎である。このLPの帯には「コルトー/ティボーと並ぶもう一つの決定盤!!」とあるが、これは決して大げさではないと思う。

 

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第21回 フアン・マネン(Joan〈Juan〉 Manen、1883-1971、スペイン)

平林直哉(音楽評論家。著書に『クラシックの深淵』〔青弓社〕など多数)

スペインの巨匠ヴァイオリニスト

 フアン・マネンはこれまで複数のヴァイオリニストと組み合わされたLPやCDしか発売されていなかったが、スペインのラ・マ・デ・ギドからマネン単独の2枚組み(LMG2170、2021年?)が発売されていたのには驚いた。早速、取り寄せようと思ったが、ヨーロッパでは中身がCDRである場合が散見される昨今である。しかし、届いたものは、幸いにもプレスされたCDだった。しかも、解説書も非常に充実していて、これまでほとんど知られていなかったマネンの経歴についても、かなり詳しく書かれている。以下に記す略歴は、LMG2170から抜粋したものである。
 バルセロナに生まれたマネンは、父によって育てられたといっても過言ではなかった。優れたアマチュア音楽家だった父は息子に4歳になるまでにソルフェージュとピアノを習わせた。5歳になるとマネンはヴァイオリンをヴィセンテ・ネグレヴェルニス、7歳のときにはクレメンテ・イヴァルグレン(ジャン・デルファン・アラールの弟子。アラールの師はエクトル・ベルリオーズと交遊があったフランソワ・アブネック)に学び、急速に上達する。この間、マネンは学校になじめず、わずか3カ月しか通っていないという。
 1893年、父からバレンシアに連れ出され、初めて公の場で演奏を披露した。そして、マネンが10歳になると、息子を全面的に支援するために、父は仕事を辞める。93年から96年まで父と子はアメリカ・ツアーを敢行、95年1月には初めてカーネギー・ホールで公演をおこなう。94年、ベルギーの巨匠ヴァイオリニスト、ウジェーヌ・イザイが私的な場で神童マネンの演奏を聴き、「非常に素晴らしいが、誰か手ほどきをする人物が必要」だと父に述べたが、彼は「私の耳が間違いを見つけたら、息子は解決します」と答えたという。また、ジェノヴァでパガニーニの唯一の弟子といわれたカミロ・シヴォリが若きマネンを聴き、「好きなようにやらせなさい。彼は生まれながらにしてヴァイオリニストだから、道筋は自分で発見するでしょう」と言ったという。このころからマネンは他人に頼らずヴァイオリンの腕を磨くとともに、数々の自作曲を書き連ねていった。
 1898年、マネンはベルリンに移住、そこでオットー・ゴールドスミスと出会う。ゴールドスミスはかつてサラサーテの秘書をしていた人物で、マネンは彼からさまざまな知識を得ると同時に、オイゲン・ダルベール、レオポルド・アウアー、アントニン・ドヴォルザークなどの音楽家と接し、のちにマネンの作品を出版するジムロック社のフリッツ・ジムロックとも知己を得た。ベルリン・フィルとも共演し、1900年にケルンでのリヒャルト・シュトラウスのピアノ伴奏によるものなど数々のリサイタルをおこなった。
 1904年11月、マネンはパガニーニの『「神よ王を救いたまえ」による変奏曲』を弾いた。これが大評判になり、ドイツ国内はもとより、広くヨーロッパに認知されて、パガニーニの後継者と見なされるようになる。イエネー・フバイは自作曲をマネンに捧げ、母国スペインのエンリケ・グラナドスやホアキン・ニンはピアニストとしてマネンとベートーヴェンのヴァイオリン・ソナタを共演した。バルセロナではパブロ・カザルスのオーケストラに参加し、協奏曲ではブルーノ・ワルター、ヘンリー・ウッド、ウィレム・メンゲルベルク、エルネスト・アンセルメなどの名指揮者たちとプログラムにその名を並べた。
 マネンのレパートリーはパガニーニ、パブロ・サラサーテ、ヘンリク・ヴィエニャフスキ、ラフ、バッジーニ、サン=サーンスらがその中核にあり、モーツァルトやベートーヴェン、セザール・フランク、ブラームスのヴァイオリン・ソナタは一部しか演奏していなかったようだ。また、協奏曲のレパートリーも限定的であり、モーツァルト(『第4番』)、ベートーヴェン、メンデルスゾーン、サン=サーンス(『第3番』)、マックス・ブルッフ(『第1番』『スコットランド幻想曲』)、ヴィエニャフスキ(『第1番』)、パガニーニ(『第2番』)程度だったという。
 マネン自身はレコード録音は決して好きではなかったようだが、それでもベートーヴェン、メンデルスゾーン、ブルッフの録音が残っていたのは幸いだった。
 マネン最後の公開演奏は、1958年とのこと。亡くなったのは生地バルセロナ。
 さて、ラ・マ・デ・ギドの2枚組みだが、正規録音はもとより、ドイツやアメリカに保管されていた放送録音までもがすくってある。曲によって若干ノイズ・リダクションがきつすぎると思われるものもあるが、約40年間(1914年から54年)にわたる録音を網羅していて、マネンの実像がくまなく捉えられている点は高く評価されるべきだろう。
 まずはベートーヴェンの『ヴァイオリン協奏曲』。これは1916年に録音されたもので、最初の完全全曲録音であるイゾルデ・メンゲスよりも先に敢行された準全曲盤だった。ただ、このSPは世界的な珍品として知られている。世界的なコレクターだったクリストファ・野澤から直接耳にした話によると、屈強のコレクターたちであっても番号の欠けなくSPを持っている人はおらず、仮に彼らのコレクションを一カ所に集めたとしても、全部はそろわないということだった。この2枚組みでは第1楽章の最後の部分、マネン自身のカデンツァから、終わりの部分が収められている。自身のカデンツァを弾いているのは、多数の作品を残したマネンならではといえるだろう。なかなか聴き応えがあるカデンツァなので、たまにはほかのヴァイオリニストでも聴いてみたい。カデンツァが終わって、美しくしなやかなソロが少しだけ聴ける。
 このベートーヴェンだが、第2楽章だけがイギリスのパールの『THE RECORDED VIOLIN VOLUME Ⅰ』(BVA1〔3枚組み〕)のディスク2に収録されている(ここでは1922年ごろの録音と記されているが、16年が正しい)。この程度の録音でも、神秘的な雰囲気を漂わせる独特の音色をはっきりと認識できる。一日でも早く、全部のSPをそろえたうえで聴きたいものだ。
 1921年に収録されたメンデルスゾーンの『ヴァイオリン協奏曲ホ短調』の第3楽章は、マネンの個性が明瞭に聴き取れる逸品である。テンポはかなり速いが、その軽やかさ、独特の音程の取り方、そして絶妙なテンポ・ルバートなど、ほかの多くのヴァイオリニストとは全く違う弾き方なのだ。伴奏はジョージ・W・ビング指揮、HMV交響楽団とある。資料をよく調べると、これまたベートーヴェンと同様、ほぼ全曲そろっている録音の第3楽章だけを収録したようだ。さらにベートーヴェンと同じく、SPは世界的な珍品なのだろう。
 もう一つ気になったのは、CDに記された1921年12月20日という録音データである。CDに表示されたSPのマトリクス番号を参照すると、クロウド・G・アーノルドの労作『The Orchestra on Record, 1896-1926』(Greenwood Press)では、このメンデルスゾーンは1916年1月発売とある。これまた有名なカタログで、ジェームズ・クレイトンの『Discopaedia of the Violin』(Records Past Publishing)では「1917年」と記されている。録音データの不一致は、次のマックス・ブルッフにも存在する。
 ブルッフの『ヴァイオリン協奏曲第1番』はベートーヴェンやメンデルスゾーンとは異なり、完全な全曲録音である。データは1921年12月19日、伴奏はメンデルスゾーンと同じくジョージ・W・ビング指揮、HMV交響楽団とある。これまた非常に美しい演奏で、メンデルスゾーン同様にしなやかさと独特な音程の取り方、弾き崩しのうまさ(特に第2楽章後半)に感心させられる。この復刻は、第3楽章で面が切り替わる箇所でダブった音をカットせずにわざわざトラックを分けてある配慮はいいと思うが、第1楽章冒頭のティンパニーの弱音のトレモロを編集ミスで収録し忘れ、いきなり管楽器の旋律から始まっているのはいただけない。ラッパの吹き込みで収録してもノイズに埋もれて聴き取れないから、初めからカットしたのではないかと言っていた人もいたが、それはありえないと思う。
 このブルッフの協奏曲だが、前出のアーノルドのそれと比べると、SP番号、マトリクス、録音データなど、CDの表記と全く一致しない(アーノルドの『The Orchestra on Record, 1896-1926』では伴奏は単に管弦楽伴奏とあり、指揮者名はない)。CD化に際しては、当然だが現物から音を採っていることは間違いない。そうなると、仮に録音データが正しくなくても、少なくともSP番号とマトリクスの表記はCDのほうが正しいと考えるべきだろう。
 放送録音では1937年に収録された3曲が聴き物である。有名曲だから、マネンの個性を多くの人に納得してもらえる内容だ。まず、バッハ(ヴィルヘルミ編)の『G線上のアリア』。これが実に摩訶不思議な演奏である。マネンはSP時代のほかのヴァイオリニスト同様に、ポルタメントを使用しながらも実に自由に弾いているのだが、そのテンポの揺らし方や間の取り方に類例が見いだせないのだ。もちろん、この曲のすべての演奏を聴いたわけではないが、いままで聴いたなかでも最も個性的であることは確かである。 
 モーツァルトの『ヴァイオリン・ソナタ第40番K.454』から第1楽章が収録されている。テンポの取り方はオーソドックスといえる。しかし、その独特のポルタメントというか、瞬間芸のようにふっと空中に舞うような音のすべらせ方はマネン独特である。全曲ないのが惜しい。
 シューベルトの『アヴェ・マリア』も異色の演奏。テンポは非常に遅い。それだけではなく、途中ではテンポがさらに遅くなり、夢のなかにどんどん溶け込んでいくような気分にさせられる。
 マネンはヴァイオリン用の作品を数多く残したことでも知られるが、この2枚組みにも1930年代、50年代の自作曲が含まれている。曲そのものの豊かな色彩に魅せられるとともに、特に50年代(60歳代後半から70歳ごろ)であっても依然として技巧は確かだったことも確認できる。たまたま気がついたことだが、ラ・マ・デ・ギドに収録されているマネンの自作曲2曲『コンチェルト・ダ・カメラ』と『エチュード作品A8、No.2』(以上、1950年録音)が、クレイトンのカタログでは希少盤として知られるトマス・クリアのLP(TLC-2586/3枚組み)に含まれていると記されているが、実際は前者だけである。
 最晩年の録音は1954年のフランソワ・シューベルトの『蜜蜂』である。もう70歳を超えているときのものだが、実にしっかりとした表現力が感じられ、やはり並の奏者ではない風格がある。
 その他のCDでは、サラサーテと一緒になった英シンポジウムの『The Great Violinists Volume ⅩⅩⅠ』(1328)にマネンが9トラック分入っている。曲目の大半がラ・マ・デ・ギドの2枚組みとダブっているが、そのなかに同じくメンデルスゾーンの『ヴァイオリン協奏曲』の第3楽章が収録されている。これはラ・マ・デ・ギドとは別演奏のようだ。しかし、このシンポジウムのCDにはマトリクス番号しか記されておらず、録音データや伴奏者についての情報がなく、不親切。フェルディナント・エロールの歌劇『プレ・オ・クレール』やモーツァルトの歌劇『羊飼いの王様』からのアリアがあり、CDには歌手名がヘドヴィヒ・フランキロ=カウフマンとあるが、伴奏者は明記していない(クレイトンではWeyersberg指揮、ベルリン交響楽団とある)。これはこのCDでしか聴けない貴重なものだが、ここではマネンは伴奏者、準主役といったところだろう。
 同じくラ・マ・デ・ギドから2004年ごろに発売されたエドゥアルト・ドルドラ、フアン・マッシアと一緒になったCD(LMG3061)を持っていたのを、すっかり忘れていた。このなかでフランソワ・シューベルトの『蜜蜂』は2枚組みと同一の演奏である。SP復刻によるマネンの『リート』(おそらく作品A8、No.1、CDには表記なし)、サラサーテの『ホタ・アラゴネーサ』はこのCDでしか聴けないもののようだが、マトリクスの表記はなく、おまけにクレイトンのカタログとは番号が逆になっていて(067921と067922)、どちらが正しいのかがわからない。1954年の録音であるサラサーテ(マネン編)の『セレナータ・アンダルーサ』も、このCDでしか聴けないようだ。
 CDのいちばん最後には、1948年にどこかの音楽祭で収録したマネンのスピーチが入っている。最初にしゃべっている人物が「マエストロ、フアン・マネン」と言っているので、おそらくは2番目にしゃべっているのがマネンだと思われるが、現地語の表記しかないので(解説書にある英文の解説は、短い履歴しかない)、詳しいことはわからない。
 ヨーアヒム・ハルトナックの『二十世紀名のヴァイオリニスト』(松本道介訳、白水社、1971年)にはマネンに関して以下のように記している。「マネンのヴァイオリニストとしての腕は、もっぱら前世紀後半のサロン様式の影響下にある音楽料理にささげられていた。彼の偉大な模範たるサラサーテは、少なくとも部分的には成功さえしていたのだが、マネンは、優雅なサロン風ヴィルトゥオーソに終わってしまった」。マネンのレパートリーや、彼が書き残した作品などを俯瞰すれば、この言葉は全く的を射たものであるだろう。しかしながら、それでもなお、個人的には非常に気になるヴァイオリニストの一人であり、それは今後も変わらない。

 

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第20回 ルネ・シュメー(Renee Chemet、1887または1888-?、フランス)

平林直哉(音楽評論家。著書に『クラシックの深淵』〔青弓社〕など多数)

宮城道雄とも共演したフランスの逸材

 1932年4月7日、フランスのヴァイオリニスト、ルネ・シュメーと、ピアニストのアンカ・セイドゥロヴァを乗せた浅間丸が横浜港に到着した。シュメーは国内で数々のリサイタルをおこない、日本の箏曲家・作曲家の宮城道雄と共演し、レコード録音までおこなった。そのため、シュメーは日本にとって忘れがたい演奏家の一人である。
 シュメーは1888年、フランスのブローニュ=シュル=セーヌ(現ブローニュ=ビヤンクール)に生まれた。最初は声楽を学び、のちにヴァイオリンに転向、パリ音楽院でアンリ・ベルトリエに学んだ。のちにコロンヌ管弦楽団のソリストになり、ロンドンではヘンリー・ウッドが指揮するプロムナード・コンサートに出演、「ザ・チャーミング・アンド・スタイリッシュ・シュメー」と称される。ベルリンでは アルトゥール・ニキシュ、ウィーンではマーラーに認められ、ウィレム・メンゲルベルクとも共演している。1920年代から30年代がシュメーの全盛期だったようで、その後の活動については全く知られていない。なお、英語の「ウィキペディア」には1887年1月9日に生まれ、1977年1月2日に89歳で亡くなったと記されているが、真偽については不明。
 1930年代までがシュメーの実質的な活動期間だったためか、彼女の録音は基本、小品しか残っていない。しかし、あらためてシュメーの録音をまとめて聴いたのだが、思った以上に底力があるヴァイオリニストだと痛感した。彼女単体のCDがこれまで発売されていないのは(LP復刻も同様だったと思う)、全く不当な扱いといえる。
 以下は主にSPを聴いたもので、過去に何らかの形でCD化されたものはその旨を記してある。聴いたなかで最も古いものはガエターノ・プニャーニ(フリッツ・クライスラー編)の『序奏とアレグロ』(HMV 3-07920、1920年)である。ピアノはマルグリート・デルクール。序奏は間を大きめにとり、リズムはえぐるように力強い。ポルタメントも濃厚。アレグロに入ると、そのスピード感としゃれた崩し方が録音の古さを超えて伝わってくる。この曲の演奏でも、最も個性的な部類だろう。
 同じくラッパ吹き込み(アコースティック)の逸品はエドゥアール・ラロの『スペイン交響曲』だ。これは第1、2、5楽章だけを片面(裏面は空白)に強引に収録したもので、カットはあるし、ピアノ伴奏ということで状況的には不利だが、演奏内容はかのジャック・ティボーにも匹敵する(HMV 3-07936、3-07937、3-07938、1921年)。最初このSPを入手したとき、てっきり「半端物(全曲そろっていないSP盤はこのように呼ばれる)」かと思っていたら、この3つの楽章しか録音されていないということだった(のちに別の曲と組み合わせて、SP盤2枚4面で再発売されている)。いずれにせよ、この遊び心と変わり身の早さは並みのものではなく、カットなしの全曲があればどんなによかっただろうと思わざるをえない。シュメーはティボーの演奏を聴いて影響を受けたかどうかは全くわからないが、両者を比較するとシュメーのほうがずっと男性的で力強い。なお、この片面盤のSPにはピアニスト名は記されていないが、HMVのカタログにはハロルド・クラクストンとある(再発売盤DB473、474にピアニスト名があるかどうかは未確認)。また、手元にあったプログラム(1932年5月28日、神戸)にもラロの『スペイン交響曲』が挙がっているが、このときは第1、4、5楽章が演奏されていた。
 ここから先は電気録音。サン=サーンスの『序奏とロンド・カプリツィオーソ』(HMV DB887、1925年)もピアノ伴奏(クラクストン)ながら、両面にカッティングされていて、ラロのようなカットだらけのストレスはない。序奏は呼吸が深く、押し込むようなポルタメントがいかにもシュメーらしい。ロンドに入っても軽やかな身の運びと、濃淡を使い分けた甘さが実に見事。このSP盤は未入手で、「フランス・ヴァイオリンの粋を聴く」(CPCD-2006)(「クラシックプレス」第13巻付録、音楽出版社、2002年冬)を聴いた。
 同じくSP盤は聴いたことはないが、『フランスのヴァイオリニスト』(グリーンドア GDCS0027)というオムニバス盤にシュメーが1曲だけ、ヴィエニャフスキの『華麗なるポロネーズ第2番』(1925年。録音年はCDではなくHMVのカタログによる)がある。これまた技巧の確かさと表現の多彩さがいかんなく発揮されていて、逸品だろう。ピアノはクラクストン。
 チャイコフスキーの『夜想曲』、ハイドンの『メヌエット』がおさまったSP(HMV DB910、1925年)もシュメーらしさが十分にうかがえる2曲である。ピアノはハリー・コーフマン。
 フランツ・ドルドラの『スーヴニール』(HMV DA811、1926年)は、シュメーの録音のなかでも屈指の出来栄えではないだろうか。開始早々、振り子のような絶妙なテンポ・ルバートに乗つた甘味音満載の旋律をちょこっと聴いただけで、体がとろけてきそうである。名曲だから録音も非常に多いが、シュメーの演奏は極私的3本指の一つだ。同じSPに含まれるポルディーニ(クライスラー編)の『踊る人形』(同じく1926年)もすばらしい。ピアノはともにデルクール。なお、『スーヴニール』は前述のCPCD-2006にも含まれる。
 メンデルスゾーンの『春の歌』(無言歌より)も、いかにもシュメーらしい傑作である(日本ビクター VE1037、1926年)。この甘く切ない表情は『スーヴニール』と同等といっていい。ファリャの2曲を収めた『ムーア人の衣装』(7つのスペイン民謡)、『ホタ』(HMV DA814、1926年)も聴きもの。ことに前者のむせかえるような情緒は印象的だった。
 エンリコ・トセッリとガブリエル・ピエルネの、それぞれ『セレナード』(日本ビクター VE1302、1927年)を収めたものもよかった。特にトセッリの柔らかく、ささやくような歌は一級品である。
 モーツァルト(クライスラー編)の『ロンド』(日本ビクター VE7253、1929年)も傑出した演奏として記憶されるべきものである。主部は非常に勢いがあってスリリングであり、中間部は一転して上品な甘美さにあふれ、この対比が全く見事。この『ロンド』は『ヴァイオリンの名演奏家達――女性編』(ARC T20P503)で聴くことも可能(ただし、廃盤で入手が難しいかも)。
 ヴィクター・ハーバート(ともにシュメー編)の『揶揄』『スウィート・ハーツ』抜粋(日本ビクター VE1498、1930年)は、曲としてはそれほど有名ではないが、録音がかなり明瞭であり、シュメーの個性が非常によく聴き取れる。『揶揄』はかつてシュメーと来日したセイドゥロヴァの伴奏。『スウィート・ハーツ』はオルガンや鐘が入り、ちょっと面白い響きがする。 
 録音データは判明できなかったが、『懐かしいヴァージニア』(日本ビクター VE1552)も音質がよく、シュメーを楽しむのには好適である。ピアノはセイドゥロヴァ。
 シュメーが宮城道雄と録音した『春の海』(日本ビクター NK3002、1932年、LP復刻、CD復刻多数)は、聴きえたなかでは最も後年の録音ということになる。演奏は、和と洋がまことに美しく調和、融合されていて、シュメーの録音のなかでも独特の魅力をもっている。
 この録音セッションが組まれたのは、おおむね以下のような経緯だった。シュメーが琴に興味があることを知った評論家の須永克己は、このことを宮城道雄に話をし、後日、須永はシュメーを連れて宮城の自宅を訪問した。シュメーは宮城が演奏する琴に非常に感銘を受け、特に『春の海』を気に入り、彼女は宮城にヴァイオリンと琴のための編曲を申し出た。宮城はこれを快諾、楽譜をシュメーに手渡すと、彼女は一晩で編曲版を完成させたという。後日、再度シュメーは宮城宅を訪れ、この編曲を2人で試奏、たった一度でぴたりと合ったという。この『春の海』のシュメー版の初演はシュメーの告別演奏会だった5月31日に日比谷公会堂でおこなわれ、アンコールされたという。
 シュメーと宮城の共演盤は7月に10インチのSPで発売されたが、日本ビクターは値段を安く設定した効果もあって、当時としては破格の1万数千枚売れたという。のちにフランスやイギリスでも発売されたこの演奏だが、不思議なことに収録に関する情報(日付や場所)が全く得られない。唯一判明したのは、3通りのテイクを作って試聴し、そのなかで最も出来がいいとされたものが発売されたということ。複数の資料によると、別テイクが発売されたと記したものもあるが、これについても、よくわからない。私見では、一種類だけが市販されたような気がするが。

 

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第19回 ミゲル(ミケル)・カンデラ (Miguel〔Miquel〕Candela、1914-?、1877-1957?、フランス)

平林直哉(音楽評論家。著書に『クラシックの深淵』〔青弓社〕など多数)

ヴァイオリン美の化身

 拙著『クラシック名曲初演&初録音事典』(大和書房、2008年、絶版)をしたためるためにサン=サーンスの『ヴァイオリン協奏曲第3番』の世界初録音を調べていたとき、ミゲル・カンデラの独奏、フィリップ・ゴーベール指揮、パリ音楽院管弦楽団のSP盤に出合った。自分が手に入れたのは日本コロムビア盤(J-7739/42)だったが、盤質もよくて非常に聴きやすく、それ以上にカンデラの絶妙なソロにたちまち魅了されてしまった。ほどなく、これは1928年(1929年説もある)録音と判明したが、これをなんとか形にしたいと思い立ち、季刊「クラシックプレス」(第13巻、音楽出版社、2002年冬)の付録CD(CPCD-2006)として、自分の手で初めて復刻した。
 とにかく、ヴァイオリンはいうならば、甘く弾いてナンボの楽器である。それを、とてもうまく表現したのがカンデラの独奏である。言い換えれば、どう弾けば聴衆がうっとりしてくれるか、そのツボを知り尽くしているような感じだ。ポルタメントの使い方も、あまたの奏者のなかで最もなめらかで堂に入っていると思う。
 ところで、このカンデラは一般的には1914年、パリ生まれとなっている。弦楽器の世界的な権威であるタリー・ポッターもイギリスPearlから発売された『THE RECORDED VIOLIN VOLUMEⅡ』(BVAⅡ)の解説書で「1914年生まれで、サン=サーンスの『ヴァイオリン協奏曲第3番』を録音した」としている。没年はインターネット上に2000年と記したものを見たことがあるが、これが正しいかどうかはわからない。
 しかし、現在では閉鎖されてしまったパリ音楽院のウェブサイトに、「ヴァンサン・ミシェル(ミゲル)・カンデラ、1877年パリ生まれ、1957年没。1907年、パリ音楽院管弦楽団に加入、1937年に引退。数種の録音で独奏を務めた」と記してあったのを見たことがある。つまり、同姓の親子ヴァイオリニストが存在したようなのだ。実際、後述するMelo ClassicのCDの解説には、息子の最初のヴァイオリンの先生は父だと記してある(カンデラのSPのレーベル面には名前のミゲルMiguel、そしてスペイン風のミケルMiquelの2つが混在しているが、理由は不明である)。
 もしも1914年生まれの息子が上記のサン=サーンスを録音したとなると、13歳から15歳のときということになる。神童に協奏曲の全曲録音を、しかもそれまでに誰一人として収録していない作品を託すということは、絶対にありえないとはいえない。だが、この手練れのような熟した大人の雰囲気がたっぷりの独奏を聴いていると、1877年生まれの父の壮年期(50歳前後)の記録としたほうがぴたりとくるような気がする。それに、今回あらためて聴き直して感じたのは、右手の運弓の加減によってわずかに音が薄くなったり、切れが鈍かったりする箇所が散見されたことも、父の演奏ではないかという思いにつながる。若い奏者だったならば、音の粒立ちはもっと明瞭なはずである。
 ただ、別の疑問も浮かび上がる。カンデラのもう一つの大物録音にはグラズノフの『ヴァイオリン協奏曲』(フランス・コロンビア LFX645/7)、ロジェ・デゾルミーエール指揮、ピエルネ管弦楽団が存在する(この音源はインターネット上にはあがっているようだが、この種のものは信用していない)。これは1943年録音とされるので、そうなると37年に引退したという記述とかみ合わなくなる。むろん、引退は公的な場での活動であり、ヴァイオリンを弾くことはやめていなかったとも推測できなくはないが。
 残念なことに、過去にCD化されたカンデラの録音は非常に少ない。先ほど触れたPearlのCDにジュゼッペ・タルティーニの『グラーヴェ』(1937年録音、ピアニスト不詳)が含まれている。これも非常に美しいが、サン=サーンスでのソロに比べると、若干個性が薄い。
 放送録音ではパガニーニの「「こんなに胸さわぎが」による序奏と変奏曲」(『タンクレディ』より)(Melo Classic MC2016、1955年、モノラル、ピアノはシモーヌ・グア)がある。これは現在知られているなかではカンデラの最も後年の録音にあたる。これも透き通った美音が印象的な演奏だが(音質も良好)、タルティーニ同様、それほど濃厚な演奏とはいえない。
 カンデラの小品のSPは、手元に2枚ある。ともに10インチで、マスカーニの「シシリエン」と「間奏曲」(『カヴァレリア・ルスティカーナ』より)(フランス・サラベール 325)と、イサーク・アルベニス(クライスラー編)の『タンゴ』、ショパン(クライスラー編)の『マズルカ 作品67』(フランス・コロンビア LF32、ピアノはともにモーリス・フォーレ)である。
 マスカーニの2曲は聴いた感じではアコースティック(ラッパ吹き込み)録音のようだが、サン=サーンス同様、甘さをこれでもかとまき散らした演奏である。音はさほどよくないが、カンデラの強烈な個性ははっきりと聴き取れる。
 アルベニスとショパンは電気録音で、音質は格段に明瞭になっている。おそらくは1920年代の後半の録音だろう。2曲ともに2分弱の短い演奏だが、その魅惑は時間以上に充実した喜びを感じさせてくれる。
 なお、サン=サーンスとLF32のSP番にはミケルMiquelと表示してあるが、サラベールのSPでは姓のカンデラだけが表記されていた。
 今回は手に入れにくい音源を中心に原稿を進めてしまい、申し訳ない気持ちもある。しかし、サン=サーンスの『ヴァイオリン協奏曲第3番』を聴き直していて、この録音が少年のものとはどうしても思えないのである。こんなことはまずありえないとは思うが、カンデラと表示された録音のなかで、ひょっとしたら父と息子の演奏が混在しているのではないかとさえ感じる。
 古い録音をたどっていく場合、フランス関連のものは糸口がつかみにくい。したがって、これを書くことによって情報が少しでも拡散し、何らかの新情報が明らかにされることへの期待もある。

 

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第18回 ジャンヌ・ゴーティエ (Jeanne Gautier、1898-1974、フランス)

平林直哉(音楽評論家。著書に『クラシックの深淵』〔青弓社〕など多数)

知る人ぞ知る、フランスの表現巧者

 パリ音楽院でジュール・ブーシュリのもとで学んだヴァイオリニストにはジネット・ヌヴー(1919年生まれ)、ミシェル・オークレール(1924年生まれ)、ジャニーヌ・アンドラード(1918年生まれ)、ローラ・ボベスコ(1921年生まれ)、アンリ・テミアンカ(1906年生まれ)、ドゥヴィ・エルリ(1928年生まれ)などがいるが、その門下生のなかで最も先輩格だったのがジャンヌ・ゴーティエである。このなかでは今日、ヌヴーが特に神格化されているが、ゴーティエはそのヌヴーにも劣らない底力があるヴァイオリニストだったように思う。
 ゴーティエは1898年9月18日、パリ近郊のアニエールに生まれる。4歳でヴァイオリンを始め、7歳のときから正式にレッスンを受ける。パリ音楽院でブーシュリのクラスに入り、1914年に一等賞を得た。翌年からソリストの活動を開始し、各地を訪問。39年にオーストラリアを訪れ、大戦中はメルボルンに住む。45年、フランスに帰国、52年(1950年説もある)からは、ピアニストのジュヌヴィエーヴ・ジョワ、チェリストのアンドレ・レヴィらと「トリオ・デ・フランス」を結成した。並行してリヨン音楽院で後進の指導にもあたる。63年、フランス政府からレジオン・ドヌール勲章を贈られる。74年1月6日、ヌイイ・シュル・セーヌで死去。以上がおおまかな経歴だが、人間性についての話は、残念ながらわかっていない。
 ゴーティエの正規録音はSP時代の器楽、室内楽の分野に限られていて、LPに復刻されたものも、ほとんどなかったように思う。したがって、私自身もゴーティエを意識しはじめたのは比較的最近のことである。
 ゴーティエ単体で正規録音をまとめたCDはグリーンドア音楽出版から発売されたGDCS-0026が唯一である。これにはおもにフランス・オデオンで発売されたものを中心に復刻したものだ(特に明記していないもの以外は、ピアニストは不詳)。CDはまず、作曲家ホアキン・ニン自身のピアノ伴奏によるニン(パウル・コハンスキ編)の『20のスペイン民謡集』から4曲で始まる。ゴーティエの音色はいかにもしゃれていて、明るくしなやか。これら4曲に全くふさわしい弾き方である。次は名曲、ジュール・マスネの『タイスの瞑想曲』。テンポは素っ気ないほどに速いが、上品な甘さと横揺れの巧さが光る。フリッツ・クライスラーの『中国の太鼓』はおそらく最もテンポが速い部類に属するだろう。その果敢な勢いは胸をすくようだが、中間部の歌い方が、これまた実に堂に入っている。ガブリエル・フォーレの『子守歌』、決してべたべたしないのだが、その柔らかさとほのかな甘さは最上質だろう。フランソワ・シューベルト(シュベール)の『蜜蜂』は、その滑らかさが絶品。ヴァイオリニストの音色を決めるのは右手といわれているが、その技巧の確かさがここにも現れている。クライスラーの『愛の悲しみ』も歌い方が実に独特で、やるせなさをしっかりと表現していると思う。そのほか、イェネー・フバイの『そよ風』、ドビュッシーの『レントよりおそく』なども粋な雰囲気にあふれた演奏だが、ジョージ・ガーシュウィン(サミュエル・ドゥシュキン編)の『短い話』のユニークな表情も忘れがたい(以上の小品は1927、28年の録音)。
 いちばん最後にはイヴォンヌ・ルフェビュールがピアノ伴奏を務めたモーリス・ラヴェルの『ヴァイオリン・ソナタ』(1950年録音)が収められている。この曲はゴーティエにぴったりの曲といえるが、なかでも第2楽章「ブルース」は強烈だ。背筋がぞくぞくするような、粘り気たっぷりの妖艶さであり、ゴーティエの真骨頂かもしれない。
 なお、グリーンドアのCDの解説書には、このラヴェルは音質を考慮し、Le Chant du Monde のLP(LDY8115)復刻ではなく、あえて同レーベルのSP(5056-7)を使用したとある。インターネット上では、これらのSPとLPは別音源とする記述もあるが、おそらくその可能性はないと判断している。
 また、ゴーティエにはチェリストのレヴィと演奏したラヴェルの『ヴァイオリンとチェロのためのソナタ』(Le Chant du Monde LDZ-M8145)もある。これはたしか、まだ復刻盤はなかったように思う。LPを聴いてみたいとも思うが、現在の中古市場では30万円前後の値段がついていて、手を出せない。
 2024年になって、ゴーティエの本丸ともいうべき録音が発売された。それはメンデルスゾーンの『ヴァイオリン協奏曲』(Spectrum CDSMBA-149、ピエール=ミシェル・ル・コント指揮、リリック放送管弦楽団、1958年)の放送録音である(音声はモノラル)。響きは乾いていて、オーケストラはかなり荒っぽいが(ソロとずれる箇所が散見される)、ゴーティエのソロはきれいに捉えられている。演奏は、これまで聴いたことがない傾向のもので、それがいちばんうれしい。第1楽章、テンポはかなり速く、いかにも挑戦的という感じだ。しかし、随所でささっと甘い音色をまき散らすのが、いかにもゴーティエである。第2主題はいくらかテンポをゆるめ、期待どおりの優美さを演出する。跳ね上がるようなリズムも素晴らしいが、第1楽章の最後はものすごいスピードで突進し、伴奏が全くついていけていない。第2楽章も、きりりと引き締まったスタイルと、キラリと輝くような甘さがうまくバランスされている。第3楽章の最初のアンダンテは、先行する楽章でほてった体を冷ますかのように、ゆったり、しっとりと甘く歌う。しかし、アレグロに入ると第1楽章同様に一気にエンジンがかかり、最高の切れ味を発揮しながら突き進んでいくが、その合間にこぼれ落ちるような魅惑をしっかりと描いている。この見事な対比は、やはり尋常ではない。ゴーティエの写真はそれほど多くは残されていないが、それらを見ると、彼女はどうやら男装の麗人のような感じがする。そのせいかどうかはわからないが、このあふれんばかりのエネルギーは男性アスリートの力強い演技をほうふつとさせる。
 同じCDの次の3曲はユゲット・ドレフュスのチェンバロの伴奏によるクライスラーの『パヴァーヌ』『プニャーニのスタイルによる前奏曲とアレグロ』、トマソ・アントニオ・ヴィターリの『シャコンヌ』(1956年録音、モノラル)。楽器がマイクに近いせいか、非常に気迫にあふれた印象を与える。グリーンドアのCDにも同じ『プニャーニ』の別演奏が含まれるが、こちらはきわめて熾烈な演奏で、その集中力と気迫はヌヴー顔負けだろう。
 最後にはジョワ、アンドレ・レヴィとのフランツ・シューベルトの『ピアノ三重奏曲第2番』(第1楽章・第2楽章だけ、1960年録音、モノラル)が収録されている(リハーサルの音源?)。このSpectrum盤の難点は出力レベルがそろえられていないこと。つまり、最初の『ヴァイオリン協奏曲』に出力を適正にすると、次のチェンバロとの3曲は異様に音が大きく、さらに次の三重奏曲は非常に音が小さくなり、そのたびにアンプのボリュームを調整しなければならない。
 現在、ゴーティエの協奏曲録音で唯一ステレオで聴けるのが、ベートーヴェンの『ヴァイオリン、チェロとピアノのための三重協奏曲』(Spectrum CDSMBA021、2枚組み、シャルル・ブリュック指揮、フランス国立放送管弦楽団、1960年ライヴ)である。この作品は3つの独奏楽器が三人四脚みたいに音楽が進行するので、個人プレーを堪能するという点ではいささか物足りなさはあるが、演奏全体は非常にうららかで新鮮である。この曲の名演の一つに数えていい。
 ゴーティエの音色をもっと楽しみたい人には、同じくステレオ録音であるラヴェルの『ピアノ三重奏曲』(Spectrum CDSMBA-013、2枚組み、ピアノはジョワ、チェロはレヴィ、1965年録音)がおすすめである。ここでは、小品やメンデルスゾーンの協奏曲で聴けるゴーティエの妙技が聴き取れる。
 そのほか、協奏曲の分野に属するものとしてはバッハの『ヴァイオリン協奏曲第2番』(ハンス・ロスバウト指揮、南西ドイツ放送交響楽団、1951年録音、モノラル)、アメデ=エルネスト・ショーソンの『詩曲』(ハンス・ロスバウト指揮、フランクフルト帝国管弦楽団、1937年録音、モノラル。以上、Melo Classic MC 2038)、ラヴェルの『ツィガーヌ』(Melo Classic MC 2016、ハンス・ロスバウト指揮、フランクフルト帝国管弦楽団、1937年録音、モノラル)もある。音質はどれも悪くはなく、ゴーティエのソロもきちっと捉えられているが、ほかの多くの演奏と比較すると、彼女らしさがいまひとつ希薄なのが残念だ。強いていえば、バッハの第2楽章が秀逸か。
 いまとなっては入手は難しいかもしれないが、季刊「クラシックプレス」(第13巻、音楽出版社、2002年冬)の付録CD(CPCD-2006)にゴーティエが2曲、ドヴォルザークの『ユモレスク』とニンの『スペインの歌』(これは、グリーンドアのCDにも含まれる。1927、28年録音、モノラル)が収録されている。ドヴォルザークはわずか2分弱の演奏だが、ゴーティエの魅惑がしっかりと刻まれていて、貴重である。
 手元にあるSPではピエトロ・マスカーニの『間奏曲』(歌劇『カヴァレリア・ルスティカーナ』より)と、ニコライ・アンドレイェヴィチ・リムスキー=コルサコフの『インドの歌』(フランスOdeon 166.018、1927年録音、モノラル、ピアニスト不詳)がある。2曲ともドヴォルザーク同様、いかにもゴーティエらしい逸品であり、遠からず復刻盤がほしい。
 モーツァルトの『ヴァイオリン・ソナタ第23番』『第21番』『第26番』(Spectrum CDSMBA 009、2枚組み)にもふれておこう。これらは1953年、56年録音(モノラル)で、なかでは『第26番』にいちばんゴーティエらしさが出ていて、聴いておいて損はないと思う。ただ、このCDは楽章間、曲間が極端に短いのが難で、しかもCDの表示があいまいでこの3曲のピアニスト(ラザール・レヴィ、レリア・グッソー)と録音日の識別ができにくい。

 

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第17回 巖本真理 (Mari Iwamoto、1926-79、日本)

平林直哉(音楽評論家。著書に『クラシックの深淵』〔青弓社〕など多数)

持って生まれた音色をもった巫女

 日本の楽壇で、最初に天才として認められたヴァイオリニストは諏訪根自子(1920-2012)である。そこから、やや時間が経過したころに注目を集めたのが巖本真理だった。諏訪と巖本の最も大きな違いは、前者はソロ活動だけをおこなっていたが、後者は活動の大半を弦楽四重奏に費やしていたことである。実際、残っている録音のほとんどは巖本真理弦楽四重奏団のものであり、巖本がソロを受け持ったものはごく一部に限られている。巖本は1970年の「FM fan」(第11号、共同通信社)のインタビュー「室内楽にすべてを傾注」のなかで、基本的にはソロ活動をやらないと公言していたように、ある時期以降は室内楽が自分の使命と考えていたようである。しかしながら、量的には少ないソロの録音であるのだが、そこから聴き取れる妙音はただならぬ妖気を放っていて、今日でも非常に根強い人気がある。
 巖本真理は1926年1月19日、東京の巣鴨でアメリカ人の母、日本人の父との間に生まれた。最初の名前はメリー・エステル。6歳のときに小野アンナ(諏訪根自子も同門)に学び、38年、12歳のときに第6回日本音楽コンクールで第1位を獲得。翌39年11月、レオ・シロタのピアノ伴奏で最初のリサイタルを開催した。42年、カタカナ追放によって、名前を真理と改める。44年、井口基成、斎藤秀雄とピアノ三重奏を始め、以後、室内楽への活動が増える。50年6月、アメリカに渡り、ニューヨークのタウンホールでリサイタルを開き、約1年後に帰国。この間、ジュリアード音楽院でルイス・パーシンガー、ジョルジュ・エネスコに師事。66年、初めて「巖本真理弦楽四重奏団」を名乗り、以後、日本を代表する四重奏団としてその名を広めた。77年、乳がんの手術を受ける。一時的には回復するも、その後転移が認められ、79年5月11日、53歳で他界。
 巖本の才能は、ある意味、特殊な環境で育まれたといってもいい。小学校時代、彼女は病弱であり、医者は学業とヴァイオリンの両立は難しいとさえ言った。それに加え、巖本は「あいのこ」(ミックスルーツの人は当時、こう呼ばれていた)とはやしたてられ、ときには身の危険を感じるほどいじめられたという。学業よりもヴァイオリンを優先し、いじめから逃れるためにも学校をやめることが許された。しかし、父から与えられた条件は「1日6時間の練習」である。父は真理の監視を女中に言いつけ、帰宅するたびに娘がその日のノルマを達成したかどうかを確かめた。そのころ、真理は小説を読むのに夢中になっていた。さすがに6時間も練習すると、本を読む時間が取りづらかったので、彼女はある方法を考え出した。それは、練習する曲を暗記してしまい、それを弾きながら本のページをめくって小説を読破したのである。つまり、ずっとヴァイオリンの音が出ていれば、女中にもばれなくてすんだのである。この方法によって、暗譜をする能力が鍛えられたとされる。
 巖本真理の録音はソロ、弦楽四重奏団を問わず、ときどきカタログに浮上してはいつの間にか消えるということが繰り返されていた。現在でも現役盤は非常に少ない。
 巖本の、最もまとまったソロ演奏集は『巖本真理 ヴァイオリン小品集』(山野楽器 YMCD-1083)だろう。1曲を除いては1960年の録音で、モノラルながら音質は非常にいい(ピアノは坪田昭三)。ディスクはシャルル・グノーの『アヴェ・マリア』で始まるが、非常に訴求力が強い、熱い血潮を感じさせる音色に、たちどころに心を奪われる。シューベルトの『子守歌』も、これほど内容の詰まった演奏も珍しい。フランツ・リストの『愛の夢』は全19曲のなかで、巖本らしさがしっかりと刻印されたもののひとつである。これほど物悲しく憂いを帯びた音がほかにあるだろうか。マヌエル・ポンセの『小さな星』(エストレリータという表記も多い)も傑作だ。歌い方が実に多彩であり、この曲の最も優れた演奏のひとつである。
 ステレオ録音(1960年録音)で巖本のソロを聴きたい人には、『巖本真理の芸術』(キングレコード KICC788/9)のなかに、付録的に数曲収録されている。ここにはチャイコフスキーの『アンダンテ・カンタービレ』、フランティシェク・ドルドラの『思い出』などがあり、さすがにモノラル録音よりも音がふくよかで透明感が強い(余談だが、この2枚組みの帯に記された巖本の履歴には、渡米年や享年などの間違いが多い)。
 ほかにCD化されたなかで重要なものは、ギヨーム・ルクーの『ヴァイオリン・ソナタ』(ロームミュージックファンデーション RMFSP-J006/011)がある。これは1949年ごろに録音されたもので、日本コロムビアのSP(G33/6)から復刻されたものだ(ピアノは野辺地勝久)。この日本コロムビア盤に限らず、ビクター、ポリドールなどの巖本のSP録音は戦中・戦後の物資難の時代におこなわれていたため、盤質が非常に悪いものしか残っていないのが残念だ。このルクーも雑音が多くてちょっと聴きづらいが、演奏は絶品である。第1楽章の冒頭を聴いただけでも、巖本がほかの奏者とは全く違った、非常に個性的な弾き方をしているのがはっきりとわかる。第2楽章も雑音成分が多いのがうらめしいが、巖本の繊細さは伝わってくる。第3楽章も、誠に雄々しく、感動的だ。また、野辺地のピアノ伴奏が、巖本の意図をすごく理解したように弾いているのにも注目したい。これは、セットに入っていて見つけにくいので、単独で聴けるディスクがほしい。
 最近、巖本の協奏曲録音が発掘された。ひとつは、バッハの『2つのヴァイオリンのための協奏曲』(キングインターナショナル KKC2516)。これは先輩の諏訪根自子が第1ヴァイオリンを担当、第2ヴァイオリンを巖本が弾くという、夢の共演である(伴奏は斎藤秀雄指揮、桐朋学園オーケストラ、1957年4月収録)。これはしかし、猛烈に音が悪い。2人の個性を聴き取ることはできないわけではないが、鑑賞用というよりは、記録用だろう。
 もうひとつはハイドンの『ヴァイオリン協奏曲第1番』(キングインターナショナル KKC2519)。これは山田一雄指揮、オーケストラは短命に終わったNFC交響楽団(在京団体の首席クラスが選抜されたもの)、1961年にニッポン放送で放送されたもので、モノラルながら音質は鮮明である。曲の性格からか、巖本としては正攻法に弾いた感じだが、第2楽章は特に感動的だ。この、胸にじーんとくる音は、彼女ならではである。
 以上の協奏曲録音は諏訪根自子、山田一雄がそれぞれ主役ディスクなので、うっかりすると見過ごしてしまう。
 以下は現時点で聴くことができたSP盤である。先ほどもふれたように、どのSP盤も状態が悪いが、そのなかでも最も聴きごたえがあるのがチャイコフスキーの『カンツォネッタ』(日本コロムビア B161)だ。伴奏は金子登指揮、コロムビア・シンフォニック・オーケストラで、珍しく黛敏郎の編曲。いずれにせよ、チャイコフスキーの『ヴァイオリン協奏曲』の第2楽章がほとんど全部入っているので、貴重だ。演奏は素晴らしい。歌心にあふれ、艶やかで熟した音色は、たまらない。これを聴くと、短縮版でもいいから第1、3楽章も聴きたかったと思う。
 ベートーヴェンの『ロマンス第2番』(日本ビクター VH4092、1944年発売)もチャイコフスキーと並ぶ傑作だろう。伴奏は斎藤秀雄指揮、東京交響楽団だが、巖本の独特の節回しや、聴き手の心をぐっと引き寄せるような強さがひしひしと感じられる。なお、これはロームミュージックファンデーションから発売されたCD『日本の洋楽1923~1944』(RMFSP-J001/005)のDisc4に収録されている。
『ロマンス第2番』と同じころに発売された『ロマンス第1番』(日本ビクター VH4091、伴奏者同じ)も聴くことができた。『第2番』ほどの味の濃さはないものの、やはりこの独特の音色は聴きものだ。
 SPの小品ではバッハの『ガヴォット』、アルマス・ヤルネフェルトの『子守歌』(日本コロムビア B306、ピアノは鷲見五郎、1953年7月新譜)、イサーク・アルベニスの『タンゴ』、チャイコフスキーの『カンツォネッタ』(日本コロムビア 100651、ピアノは谷康子)を聴くことができた。これらはピアノ伴奏のせいか、盤質の悪さが上記のオーケストラ録音よりも目立たず、巖本のソロがより明瞭に感じられる。どれも、彼女ならではの美演奏が堪能できる。なお、アルベニスが入ったSPのレーベル面には「巖本メリー・エステル」と表記されているので、1941年以前の収録だろう。
 なお、以下は「グッディーズ」(https://goodies.yu-yake.com/)からCDRで市販されているので、参考までにふれておく(これらのCDRには再生できない場合もあると記されていて、実際、まれではあるが、再生できないこともあると聞いている)。バッハ『シャコンヌ(無伴奏ヴァイオリン・パルティータ第2番より)』(78CDR-3200)、ルクーの『ヴァイオリン・ソナタ』(78CDR-3486)、バッハ『G線上のアリア』(33CDR-3469)、『アヴェ・マリア』(33CDR-3470)、ベートーヴェンの『ロマンス』(33CDR-3479)、以上である。
 このなかでは、現時点でほかでは聴くことが困難なバッハの『シャコンヌ』とステレオで収録されたベートーヴェンの『ロマンス第1番』『第2番』(33CDR-3479、上田仁指揮、東京交響楽団、1960年ごろ)が貴重かもしれない。33CDR-3469と3470の大半は、最初にふれた山野楽器のCDと重複している。
 未聴のSPで最も気になっているのは、ブルッフの『ヴァイオリン協奏曲第1番』より第1楽章(日本ビクター J54491)である。これはピアノ伴奏(安倍和子)だが、第6回日本音楽コンクール優勝記念であり、1939年に発売されたものだった。
 巖本真理の動画は「YouTube」でも見ることができるが、映画『乙女の祈り』(佐分利信監督、松竹、1959年)のなかには、かなり長く巖本がヴァイオリンを弾いている姿が見られる。

 

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第16回 キャスリーン・パーロウ(Kathleen Parlow、1890-1963、カナダ)

平林直哉(音楽評論家。著書に『クラシックの深淵』〔青弓社〕など多数)

カナダが生んだ異形のヴァイオリニスト

 2023年になって、イギリス・ビダルフからキャスリーン・パーロウの2枚組みが発売された(85036-2)。ジャケット下にはわざわざレオポルド・アウアーの顔写真入りで「ジ・アウアー・レガシー」と記されているように、従来は「レオポルト・アウアーの優れた弟子の一人」といった程度の扱いしか見ることがなかった。たとえば、ボリス・シュヴァルツの『グレート・マスターズ・オヴ・ザ・ヴァイオリン』(邦訳なし)では、アウアーの弟子の一人としてごく短くパーロウにふれているだけで、ヨーアヒム・ハルトナックの『二十世紀の名ヴァイオリニスト』(松本道介訳、白水社、1971年)やマーガレット・キャンベルの『名ヴァイオリニストたち』(岡部宏之訳〔Music Library〕、東京創元社、1983年)のなかに彼女の名前は見いだせない。パーロウは戦後まで元気に活躍していたが、レコードの世界からは早々に手を引いてしまったせいか、ひどく古い人のような印象を与えている。
 パーロウは1890年9月20日、カナダのカルガリーに生まれた。ヴァイオリンを始めたきっかけや年齢は定かではないが、習得速度はめざましいものがあり、その才能を育むためにパーロウが5歳のとき、一家はサンフランシスコに移住する。6歳のときには最初のリサイタルを開き、ルイ・シュポアの弟子だったヘンリー・ホームズに師事した。その後、パーロウはミッシャ・エルマンの演奏を聴き、アウアーに弟子入りを切望。1906年、ペテルブルク音楽院に最初の外国人として、また最初の女性としてアウアーのもとでエルマンやエフレム・ジンバリストとともに学んだ。アウアーはパーロウを気に入り、「スカートをはいたエルマン」と呼んでいたそうだ。09年にはノルウェーの作曲家ヨハン・ハルヴォルセンがパーロウのためにヴァイオリン協奏曲を書き、活躍の場はヨーロッパやアメリカに及んだ。しかし、20年代後半からソリスト活動を制限するようになり、36年に短期間ニューヨークに住んだあと、41年にはカナダに戻り、トロント大学で後進の指導にあたるとともに、チェロのザラ・ネルソヴァ、ピアニストのアーネスト・マクミランらとカナディアン・ピアノ三重奏団を結成、パーロウ弦楽四重奏団の活動も並行しておこなっていた。63年8月19日、死去。
 ビダルフの2枚組みのメインはHMVとアメリカ・コロンビアの全録音である。すべて小品で1909年から16年の収録、すべてアコースティック(ラッパ吹き込み)録音である。最初はパガニーニの『常動曲(無窮動) 作品11』、これはテンポが速く、あざやかであり、なおかつ何とも言えない香気を振りまきながら一気に進んでいく。あいさつがわりの一発目としては、まことに鮮烈である。2曲目のバッハの『G線上のアリア』(ヴィルヘルミ編)では一転して、ゆったりと、おおらかに歌う。パーロウに協奏曲を献呈したハルヴォルセンの小品が2曲『ヴェスレモイの歌』『ノルウェー舞曲第2番』とあるが、ことに前者はなでるようなポルタメントが効果的に使用され、印象的。ショパンの『夜想曲』は『作品27の2』と『作品9』の2の2曲が収められていて、ともに甘い雰囲気に満ちたものだが、後者はいっそう味が濃い。ベートーヴェンの『メヌエット』はゆっくりと先を急がず、のんびりと、なつかしさいっぱいに弾いている。
 フリッツ・クライスラーの『愛の喜び』は軽やかさと、ささやくような歌い回しが絶妙に対比されている。同じくクライスラーでは『中国の太鼓』もあるが、これも個性的だ。中間部でたっぷりと甘く歌うのは予想どおりだが、速い部分で突然減速するのは異例だろう。また、ヘンリク・ヴィエニャフスキの『庭園の情景』、ピエトロ・マスカーニの『間奏曲(カヴァレリア・ルスティカーナ)』、チャイコフスキーの『メロディ』、ヨハン・スヴェンセンの『ロマンス』などは甘くたっぷりと歌うパーロウのうまさを堪能できる逸品である。
 以上、一部ピアニスト名は判明しているが、大半は不詳のピアノ伴奏と管弦楽伴奏付きである。
 1925年以降の、いわゆる電気録音による正規盤が存在しないパーロウにとって、以下の放送録音は非常に貴重であり、この2枚組みではむしろこちらがメインと言っても過言ではない。まず、メンデルスゾーンの『ヴァイオリン協奏曲』、41年の放送録音(ジェフリー・ワディントン指揮、CBC交響楽団)で、全曲を収録している。第2楽章だけの録音(1916年)もこの2枚組みに収録されていて、これもまことに美麗で魅惑的だが、さすがに全曲のほうは聴きごたえがある。
 音質も1941年ながら明瞭であり、なかでも第1楽章が最も個性的だ。最初は楚々と、いかにも物憂げに歌い始めるのだが、急に獲物を狙うような険しい目つきになる。そして、それまでは低空を飛行していた鳥が一気に高いところへ行き、急降下や旋回を繰り返すような自由闊達さを振りまく。この曲で、こんなに大胆に描き分けた演奏は、そう多くはないだろう。第2楽章以降もすばらしいが、第2楽章は前述の16年録音よりもだいぶ甘さが控えめになっている。これはパーロウが意識的に変えたのか、あるいは、室内楽のような合わせ物が多くなった関係でそうなったのか、それは判断がつかない。
 なお、同一の演奏はケンレコード/ウィング WCD59(こちらは1950年頃と表記)からも出ていたが、音質はほぼ同等ながらも、こちらはピッチが高すぎる。
 同じく1941年の放送録音ではグリーグの『ヴァイオリン・ソナタ第2番』から第1楽章がある。燃え上がるような、非常に闊達な演奏であり、技術的な衰えなどは全く感じない。全曲ではないのが惜しまれる。ピアノはマクミラン。
 残りの2曲はバッハ、1957年の録音で、パーロウが最も高齢でのものになる。最初は『無伴奏ヴァイオリンのためのソナタ第2番』からの第3楽章アンダンテ。これも味わいがある演奏で、全曲はないのかとぼやきたくなる。感動的だったのは『無伴奏ヴァイオリンのためのパルティータ第2番』の全曲。これはまず最初の「アルマンド」で心をガシッとつかまれる。テンポはかなり速く、挑み込んでくるような気迫がある。次の「クーラント」以降も非常に力強く、自在で、しなやかさも十分。最後の「シャコンヌ」も表情はきわめて多彩であり、非常にスリリング。技術的にも気力的にも、衰えなどは一切感じない。これは『パルティータ第2番』としても最も注目すべき演奏であり、もしもパーロウによるバッハの『無伴奏』が6曲そろったならば、それはそれで全く独自の地位を確保するにちがいない。ほかにもパーロウの放送録音が残っていたら、ぜひとも聴いてみたい。
 末筆になってしまったが、パーロウは1922年に来日し、ニッポノホンに10インチで14面分の録音をおこなっていることにふれておく。このなかで8曲が前記ウィングのCDに収録されているが(曲の大半はビダルフの2枚組みと同一で、解釈も酷似している)、あまりにも古色蒼然とした音質で、これではかえって誤解を招いてしまう。手元にパーロウのニッポノホン盤SPが1枚あるが、いくらラッパとはいえ、もっとましな音がする。海外で発売されたものはビダルフのような海外レーベルが復刻するだろうが、日本録音はやはり国内で制作されるべきものだろう。適正な音質補正によるパーロウの「コンプリート・ニッポノホン・レコーディングズ」が待たれる。

 

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第15回 ノーバート・ブレイニン(Norbert Brainin、1923-2005、オーストリア→イギリス)

平林直哉(音楽評論家。著書に『クラシックの深淵』〔青弓社〕など多数)

アマデウス弦楽四重奏団の顔として活躍

 ノーバート・ブレイニンの名前に反応できなくても、アマデウス弦楽四重奏団の第1ヴァイオリン奏者と言えば、たいていの人はすぐにわかるだろう。アマデウス弦楽四重奏団は何度か来日している(初来日は1958年)が、ブレイニンがソリストとしての来日はなかったように思う(ただし、音楽祭とか、マスタークラスの講師として招かれた例があったかもしれないが)。
 ブレイニンは1923年、オーストリア・ウィーンに生まれた。若き日の履歴は知られていなかったが、アマデウス弦楽四重奏団の第2ヴァイオリン奏者、ジークムント・ニッセルの妻ミュリエル・ニッセルが著した“Married to the Amadeus: Life with a String Quartet”(Giles De LA Mare Pub Ltd.)のなかにいくつか情報が記されていた。それによると、7歳のときにヴァイオリンを始め、ほぼ同時に父が他界。最初の先生はいとこのマックスという人物で、彼は子どもにヴァイオリンを教えながら、ナイト・クラブでヴァイオリンを弾いていたという。ウィーン音楽院でウィーン・フィルのコンサートマスター、リカルド・オドノポゾフに師事し、ヴァイオリンのほかピアノ(ブレイニン本人は、へたくそだったと言っている)、対位法を学び、ローザ・ホホマン=ローゼンフェルトからは室内楽、ウィーン風のスタイルなどの手ほどきを受けた。
 1938年、イギリス・ロンドンに移住する直前に母も他界。ロンドンではカール・フレッシュ、続いてマックス・ロスタルに師事している。46年、ギルドホール音楽院主催のコンクールでカール・フレッシュ賞を獲得、翌47年、ブレイニン弦楽四重奏団を結成する。48年1月、名称をアマデウス弦楽四重奏団と改めて再出発、87年にヴィオラのピーター・シドロフが他界して解散するまで不動のメンバーで活躍した。60年、大英帝国勲章を授けられる。
 ブレイニンが初めてピーター・シドロフに会ったとき、シドロフもヴァイオリニストだった。両者の間でどのようなやりとりが交わされたのかは不明だが、シドロフは弦楽四重奏団を始めるにあたり、自身がヴィオラに転向した。かくして、弦楽四重奏団の性格を決定づける最も重要な役割である第1ヴァイオリンは、ブレイニンに託されたのである。ブレイニンはウィーン風の柔らかい音色と力強いダイナミズムをもっていて、非常に表情豊かだ。弦楽四重奏団とソリストを兼ねたヴァイオリニストというと、アドルフ・ブッシュや巌本真理を思い出すが、この2人に比べると、ブレイニンのソロ活動はずっと割合が低かったようだ。
 ブレイニンがソロ奏者として録音したものはさほど多くはないが、昔から知られているものとしては、盟友シドロフと共演したモーツァルトの『ヴァイオリンとヴィオラのための協奏交響曲K.364』があり、彼らはこの曲を以下のように3回録音している。ハリー・ブレック指揮、ロンドン・モーツァルト・プレイヤーズ(HMV、1953年)、デイヴィッド・ジンマン指揮、オランダ室内管弦楽団(EMI、1967年?)、アレキサンダー・ギブソン指揮、イギリス室内管弦楽団(シャンドス、1983年)。このうち手元にあるのが1回目(テスタメント SBT1157)と3回目(シャンドス CHAN6506)のCDである。2つの録音には約30年の隔たりがあるものの、明るくよく歌うという点では全く同じと言っていいだろう。全体的に1953年録音のほうが全体的にややテンポが速く、両ソリストの音もいっそう若々しいが、83年録音はステレオ(デジタル)ゆえに、一般的にはこちらのほうが好まれそうだ。
 ブレイニン単独のもので、最もまとまっているのはベートーヴェンの『ヴァイオリン・ソナタ全集』(プライザー PR90703、3枚組み)だろう。これは1989年から90年にかけ、ドイツ・フランクフルトでセッション録音されたものである。この録音はすでに弦楽四重奏団の活動を終えたころのものなので、シドロフがもう少し生きていたら、もしかしたら実現しなかったのかもしれない。
 ブレイニンの音は柔らかく人懐っこい音色は変わらないものの、音の粒立ちが若干甘くなったり、あるいは美感を損ねてでも激しい感情の高ぶりを見せたりしている。従って、きちっとこぎれいに整えられた演奏を好む人には、いささか抵抗があるかもしれない。だが、このこぼれ落ちてくるような豊かな情感は、そうした細かなキズを忘れさせてくれると思う。
『第1番』から『第3番』のような初期の作品は、いかにも若々しく瑞々しく歌われるが、それぞれの緩徐楽章がことさら味わい深いのが印象的だった。これは、全10曲すべてに共通するといえる。約40年にわたり、弦楽四重奏のアンサンブルで培った経験がにじみ出ているのだろう。『「運命」交響曲』にもたとえられる『第7番』、対照的に穏やかな『第10番』など、それぞれの曲の性格を巧く弾き分けているが、極端に走らぬように配慮されているのも感じられる。
 ブレイニンの個性が最も発揮されているのは『ヴァイオリン・ソナタ第5番「春」』と『同第9番「クロイツェル」』だろう。前者の第1楽章は、通常はさらりと流れるように弾くのとは正反対に、場面によってはかなりメリハリを付けている。第2楽章は晩秋のような風景で、これまた独特である。第4楽章では歌い方は多少ぎこちないけれども、暖かい音色が日差しのように飛び込んでくる。
 後者はすべての演奏のなかでも、最も特色があるだろう。第1楽章は最初の重音の弾き方からして実に独特で、主部が非常に遅い。口が悪い人は、速いテンポで弾けないからだろうなんて言いそうだ。しかし、テンポを伸縮させ、さまざまな表情を作るブレイニンのやり方には、この遅さは必然なのである。第2楽章は開始部分が、これまた非常にテンポが遅い。しかし、続く各変奏は決して先を急がず、それぞれの性格を慈しむように描き分けられている。以上の2つの楽章に比べると第3楽章は平均的な解釈に近いが、それでもこの気迫に満ちた表現はいかにもブレイニンらしい。
 言うのが遅くなってしまったが、ギュンター・ルートヴィヒなるピアニスト、これがなかなかすばらしい。ブレイニンの音楽にぴたりと同期しているだけではなく、タッチも明確、音もきれいである。音質も非常に良好。
 モーツァルト、ベートーヴェン、シューベルトの作品を収めた2枚組みLP(BBC Records & Tapes REF313)も紹介しておこう。これらは放送用に収録されたもののようで、1964年から67年にスタジオで録られたものだが、音声がモノラルなのがちょっと惜しい。
 きっと多くの人が聴きたがるのは2枚目、名花リリー・クラウスと共演したものではあるまいか。曲目はモーツァルトの『ヴァイオリン・ソナタ第32番K.376』、シューベルトの『ソナチネ第3番』、ベートーヴェンの『ヴァイオリン・ソナタ第8番』である。モーツァルトはクラウスの小粋なピアノに乗って、ブレイニンものびのび歌っている。シューベルトはピンと張った清新な表情が心地いいが、モノラルのせいか、いささか地味に響くのが残念(蛇足ながら、モノラルのLPなので、モノラル用のカートリッジで聴くことを推奨したい)。
 ベートーヴェンはジャケットとレーベル面には2つの楽章しか収録されていないと表記されているが、実際に聴いてみると、ちゃんと全曲入っている。演奏は全集に入っているものと比べ、いっそうテンポが速く、若々しい。
 1枚目はラマー・クラウソンがピアノ伴奏を受け持ったもので、すべてモーツァルト。『ヴァイオリン・ソナタ第28番K.304』、『同第33番K.377』、『同第42番K.526』の3曲。クラウソンだって腕達者であり、特にクラウスと見劣りがするわけではない。どれもブレイニンの音色が生きたいい演奏だが、色々なワザや工夫が多々ある『第33番』が最も聴き物だと思った。
 この原稿書くにあたり、もうひとつの重要な録音であるブラームスの『ヴァイオリン・ソナタ全集ほか』(Ducale CDL015、2枚組み)が、どうしても手に入らなかったことが悔やまれた。あちこち、さんざん探し回ったが、とうとう出てこなかった。

 

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第14回 ユーディス・シャピロ (Eudice Shapiro、1914-2007、アメリカ)

平林直哉(音楽評論家。著書に『クラシックの深淵』〔青弓社〕など多数)

多方面で活躍したアメリカの逸材

 最近、活動を再開した復刻盤専門レーベルのビダルフだが、そのなかで琴線にふれたのがユーディス・シャピロのCD(85025-2)だった。このCDに収録されたモーツァルトの『ヴァイオリン協奏曲第5番』が強烈だったので、この人に関して、全く突然に調べたくなったのである。
 シャピロはニューヨーク州バッファローの生まれ。幼いころから才能を発揮し、12歳でバッファロー・フィルハーモニー管弦楽団と共演。イーストマン音楽学校で学んだあと、フィラデルフィアのカーティス音楽院に入学、エフレム・ジンバリストのクラスに入る(シャピロは女性で唯一加入が許された)。一時期ニューヨークに滞在したあと、ロサンゼルスに移住、ハリウッドでの仕事を始める。ハリウッド・スタジオのオーケストラで初めて女性のコンサートマスターに抜擢され、のちにパラマウント・オーケストラのコンサートマスターも務める。RCAビクター交響楽団ではヤッシャ・ハイフェッツのセッション録音の際にコンサーマスターも務めたが、ナット・キング・コール、フランク・シナトラ、エラ・フィッツジェラルドら、ポピュラー音楽の大御所のバンドでも活躍した。
 アーロン・コープランドや ルー・ハリソン、ダリウス・ミヨーなどの現代作品を積極的に演奏し、イーゴリ・ストラヴィンスキーともたびたび仕事をしていた。さらに、彼女の夫でチェリストのヴィクター・ゴットリーブとともに1943年に結成したアメリカン・アート四重奏団の第1ヴァイオリン奏者としての任務も、シャピロにとっては非常に重要だった(1963年、ゴットリーブの他界とともに活動は停止してしまう)。
 以上のように、シャピロはソロ、室内楽、映画音楽、ポップスと多方面で活躍していたが、その活動は単に幅広いものではなく、常に一流の音楽家たちとのふれあいだった。
 冒頭でふれたモーツァルトの『ヴァイオリン協奏曲第5番』は1944年8月のライヴ(フランク・ブラック指揮、NBC交響楽団)であり、復刻の素材はアメリカ軍の慰問用レコードである。音は多少古めかしいが、ソロは鮮明に入っている。シャピロのヴァイオリンはヴィブラートが大きく、そして速い。実に伸びがある力強い音であり、ほのかな甘さもある。第1楽章、ぐいぐいと突き進むような覇気があふれる運びであり、とても濃い音楽だ。第2楽章も、広々とした空間に響き渡るような太くたくましい音色で、朗々と歌い尽くしている。最近は古楽器派の薄味演奏ばかり聴かされていたので、耳にはとてもいい栄養になった。第3楽章も、生き生きとした跳躍ぶりがいかにも楽しげだが、ふとテンポをゆるめ、ひと呼吸置く巧さにも感心した(同様の手法は第1楽章にもある)。
 解説によると、現在確認されているシャピロ唯一の協奏曲録音だという。こんなにすばらしいモーツァルトを聴いてしまうと、ほかの曲はどこかにないのか、とぼやきたくなる。
 協奏曲の次に収録されているのはアメリカン・アート四重奏団による小品が7曲。まず、最初のメンデルスゾーンの『スケルツォ』、この勢いと音の粒立ちのよさにはちょっと驚かされる。続くチャイコフスキーの『アンダンテ・カンタービレ(弦楽四重奏曲より)』やフーゴー・ヴォルフの『イタリア風セレナード』なども、シャピロの個性的な音が発揮されていて、ほかの演奏とはひと味もふた味も違っている。弦楽四重奏は4人の奏者の音色が平均化されているのが近代の主流だが、このシャピロのように、第1ヴァイオリンに個性的な奏者がいたほうが面白いと思う。以上の7曲は1953年の録音。
 最後の2曲はヴィクター・ヤング。ポール・ウェストンとそのオーケストラの伴奏によるムード音楽。1958年の録音で、これだけステレオだが、ムード音楽特有のエコーがかかった音である。したがって、シャピロの音は風呂場のなかで響いているような感じだが、彼女のうまさは十分に伝わってくる。
 同じくビダルフからは2枚組み(85026-2)もほどなく発売された。1枚目にはブラームスの『3つのソナタ(第1番―第3番)』とエルネスト・ブロッホの『バール・シェム組曲』(ピアノはラルフ・バーコヴィツ。1957年録音)を収録。ブラームスはともに力強くしなやかな演奏だが、なかでも最も成功しているのは『ヴァイオリン・ソナタ第3番』だろう。より自由な息吹が感じられる。ブロッホも、シャピロの個性がよく出ている。 
 2枚目にはベーラ・バルトークの『狂詩曲第2番』と『ルーマニア民俗舞曲集』、ミヨーの『ブラジルの郷愁』、モーリス・ラヴェルの『カディッシュ』(ピアニスト、録音データは1枚目と同じ)が入っているが、このなかでバルトークの『狂詩曲第2番』での切れ味と、ミヨーの表現の多彩さは特に聴きものだと思った。
 ストラヴィンスキーの『デュオ・コンチェルタンテ』『ディヴェルティメント(「妖精の口づけ」より)』は1962年のステレオ録音(ピアノはブルック・スミス)。ステレオの恩恵もあって、シャピロのよりいっそう透明な音色が楽しめるが、演奏自体はその昔に比べると落ち着きが感じられる。演奏、音質ともに『ディヴェルティメント』が傑出している。
 最後の2曲はムード音楽(ステレオ、1958年録音)で、フリッツ・クライスラーの『わが瞳に輝ける星』、ハインツ・プロヴォストの『間奏曲』(ともにポール・ウェストン編)、伴奏はポール・ウェストンとそのオーケストラ。全体的な音質や演奏内容は1枚ものの2曲よりも優れていて、この方面でもシャピロは一流だったことが聴き取れるだろう。
 以上、2点(CD3枚分)は協奏曲を除いて、すべて市販盤LPからの復刻である。LP特有のノイズはうまく処理されているが、なかにはちょっと音を削りすぎかと感じる曲もある。ただ、全体的には大きな違和感はなく、シャピロがどんなヴァイオリニストだったかを知るためには十分な内容だろう。
 なお、同じくビダルフからはアメリカン・アート四重奏団によるハイドンの『弦楽四重奏曲「ひばり」』、ベートーヴェン『弦楽四重奏曲第10番「ハープ」』、モーツァルトの『クラリネット五重奏曲』(ベニー・グッドマンのクラリネット)を収録したCD(BIDD85011)が発売されていることを付記しておく。

 

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第13回 シュテフィ・ゲイエル(Stefi Geyer、1888-1956、ハンガリー→スイス)

平林直哉(音楽評論家。著書に『クラシックの深淵』〔青弓社〕など多数)

バルトークに愛されたヴァイオリニスト

 シュテフィ・ゲイエルは戦前・戦後を通じて活躍したヴァイオリニストのなかでも屈指の実力を備えていたが、今日ではヴァイオリン関係の文献でさえも彼女の名前は見つけにくい。多くの人がゲイエルの名前に遭遇するのは、おそらくバルトークの『ヴァイオリン協奏曲第1番』の曲目解説だろう。『ヴァイオリン協奏曲』はバルトークがゲイエルのために書き上げたものの、ゲイエル、バルトークがともに他界してから公開されたことは周知の通りである。
 インターネット上にはゲイエルに関する様々な情報があるが、相変わらず根拠を示していない、思い込みのようなものが多いので、ここではイギリス・パールのCD“THE RECORDED VIOLIN VOLUMEⅡ”(BVAⅡ、3枚組み)に所収されている、タリー・ポッターの記述を引用しておく。
 ゲイエルは1888年6月23日、ハンガリーのブダペストに生まれる。名教師フバイに師事し、ヨーロッパ、アメリカで活躍し始める。1908年、師フバイの50歳の誕生日を祝い、フバイが書いた『ヴァイオリン協奏曲第4番』を演奏した。11年から19年までオーストリア・ウィーンに滞在、その後スイス・チューリヒに移住し、作曲家のワルター・シュルテス(下記のピアノ伴奏者と同一人物?)と結婚、スイス国籍を取得する。23年から53年までチューリヒ音楽院で後進の指導にあたり、パウル・ザッハーが主宰するチューリヒ・コレギウム・ムジクムにも加入、並行して弦楽四重奏の活動もおこなう。50年、フランス・プラードのカザルス音楽祭ではバッハの『ヴァイオリン・ソナタ』をクララ・ハスキルと共演している。56年12月11日、チューリヒで死去。
 バルトークが1907年から翌年にかけて最初の『ヴァイオリン協奏曲』を書いていたとき、バルトークがゲイエルに好意をもっていたことは明らかだったようだ。でも、なぜ、ゲイエルはこの協奏曲を弾かなかったのか? 単純に、ゲイエルは曲に対して完全に共感できなかったためと考えられる。また一方では、バルトークとの関係が密になるのを避けたいがために、ゲイエルはこの協奏曲を無視したのだと指摘する声もある。ただ、真相は不明だ。
 バルトークはその昔、ダラニ家の次女でありヴァイオリニストのアディラ・ファチリ(ファキーリ)に強い愛情をもっていた。実際、バルトークはアディラと一緒に演奏するために、ヴァイオリンとピアノのための小品を書いている。それでも、バルトークとアディラの関係は深まらなかった。すると、バルトークの関心は三女のヴァイオリニスト、イェリ・ダラニに移っていく。イェリはバルトークを優れた作曲家でありピアニストとして認識はしていたものの、バルトークにユーモアのセンスが欠けていたのがお気に召さなかったようだ。このように、バルトークは結局、3人の女性ヴァイオリニストにフラれたともいえる。
 話が横道にそれてしまった。SPにいくつかゲイエルの録音が残っているのは知っていたが、ゲイエル単独のCDは出ていないと思い込んでいた。ところが、つい最近、オークションでゲイエルのCDを見つけ、送料込み約1万円で落札した。これはフランスの復刻レーベル、ダンテのLYSシリーズ(LYS398)のものだった。このシリーズは発売点数は多かったものの、内容は玉石混交。しかし、“玉”のほうには唯一の復刻とされるものも多く含まれており、ここにゲイエルがあったのは驚きだった(ヴァイオリン関係に詳しい知人も、このゲイエル盤を知らなかった)。
 ゲイエルのCDは全7曲、すべてSP復刻である。最初はスイスの作曲家、オトマール・シェックの『ヴァイオリン協奏曲「幻想曲風」』(1912年、初演の詳細は不明)である。この協奏曲はバルトーク同様、ゲイエルに対するシェックの恋愛感情からの産物といわれる。これは1947年にフォルクマール・アンドレーエ指揮、チューリヒ・トーンハレ管弦楽団によって録音されているが、確かこの曲の世界初録音のはずである。音の古めかしさは多少感じさせるものの、甘く、叙情的な情感を実に見事に弾ききっているゲイエルのソロはすばらしい。バルトークとは違い、ゲイエルもこの曲に強く共感しているのも聴き取れる。CDもさほど出ていないし、演奏会でもほとんど取り上げられないが、この演奏を聴けば、多くの人がこの協奏曲を好きになるだろう。
 次はモーツァルトの『アダージョ』、パウル・ザッハー指揮、チューリヒ・コレギウム・ムジクムの伴奏(録音:1938年)。ゲイエルは非常にゆったりと、一つひとつを味わい、慈しみながら弾いている。柔らかくはあるが、とても透き通ったきれいな音だ。
 モーツァルトと同じ指揮者、オーケストラの伴奏で、ハイドンの『ヴァイオリン協奏曲第1番』(録音:1947年)がある。シェックの『ヴァイオリン協奏曲』では、かなりしなやかに、蠱惑的に弾いているゲイエルだが、ここでは古典的なたたずまいに徹していて、明るく冴え渡った音で弾いている。伴奏も、カチッとまとまっている。
 バッハには『無伴奏ヴァイオリンのためのパルティータ第3番』より「ルール」(録音:1930年)がある。これはハイドン同様に透き通った、いくらか硬質な音色ではあるが、品格とほのかな甘さが漂う逸品である。ゲイエルのバッハがこの曲しか残されていないのは、残念としか言いようがない。
 ゴルトマルクの『エアー』(録音:1927年、CDにはピアニストの表記なし。別資料ではW.シュルテス)はバッハよりもさらに甘く、柔らかい雰囲気が強い。あまり有名な曲ではないが、ゲイエルの個性がはっきりと打ち出されている。
 ドヴォルザーク(クライスラー編)の『スラヴ舞曲作品72-2』(録音:1927年、ピアノ:W.シュルテス)は、先ほどふれたパールのCDにも入っている。ややゆっくりめに弾き、テンポをゆらゆらと揺らしながら歌っている。このあたりが、いかにも古いヴァイオリニストである。
 最後はクライスラーの『美しきロスマリン』(録音:1930年、SP盤ではピアニスト不詳だが、このCDではW.シュルテスと表記)。この曲もテンポは気持ち遅め。普通は柔らかめに始まるのだが、ゲイエルはその逆。けれど、右に左にテンポは揺れ、少し強めのポルタメントも使用される。このように弾くヴァイオリニストは、最近ではまずいないだろう。
 以上、ゲイエルの主要な曲が収録されている単独のCDとして非常に貴重だが、ブックレットのSP番号、マトリクス番号の表記のデタラメさには驚き入ってしまった。
 手元にあるSPで、ダンテのCDには含まれていない曲が2つある。1つはマルティーニ(クライスラー編)の『アンダンティーノ』(英コロンビア LZ1/録音:1930年、ピアニスト不詳)。これはゴルトマルクと同様、柔らかく甘い雰囲気に満ちた美演奏である。もう1つはベートーヴェンの『ロマンス第1番』(英コロンビア LZX2/録音:1930年、ピアニスト不詳)。これまたゆったりと歌っており、ほどよいテンポ・ルバートと、ごく控えめなポルタメントを使用し、非常にうま味のある演奏を展開している。これだけを聴いても、ゲイエルの豊かな音楽性がしっかりと感じられる。なお、ゲイエルは『ロマンス第2番』は録音していない。
 ゲイエルの未発表録音があるとすると、スイスの放送局なのだろうか? メジャーな協奏曲を期待したいけれど、有名なソナタでもいいから、ぜひ聴いてみたい。

 

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