第22回 アルフレッド・デュボワ(Alfred Dubois、1898-1949、ベルギー)

平林直哉(音楽評論家。著書に『クラシックの深淵』〔青弓社〕など多数)

イザイとグリュミオーの架け橋

 ウジェーヌ・イザイからアルフレッド・デュボワへ、そしてアルテュール・グリュミオーへと引き継がれたベルギー楽派の伝統。しかしながら、この3人のなかで圧倒的に知名度が低いのはアルフレッド・デュボワだろう。彼の名はマーガレット・キャンベルやヨアヒム・ハトナック、ボリス・シュワルツなど、ヴァイオリニストを網羅した代表的な書籍では扱われておらず、あったとしてもせいぜい「グリュミオーの先生」程度の記述しか見当たらない。比較的新しい『偉大なるヴァイオリニストたち――クライスラーからクレーメルへの系譜』(ジャン=ミシェル・モルク、藤本優子訳、ヤマハミュージックメディア、2012年)では珍しく単独で取り上げられているが、くくりは「番外編――クライスラー以前の巨匠、偉大なる教育者たち」である。
 デュボワは1898年11月17日、ベルギーのモレンベークで生まれた。両親は音楽家ではなく、彼が楽器を始めたきっかけは明らかではない。12歳のとき(1910年)にブリュッセル音楽院に入学し、アレクサンドル・コルネリウスに師事する。コルネリウスはアンリ・ヴュータンのアシスタントを務めていたユベール・レオナールに師事しているので、若きデュボワはヴュータン以来の伝統を叩き込まれたといっていいだろう。1920年にはブリュッセル市からヴュータン賞を贈られている。ソロとして活躍するのと同時に、25年からはベルギー王宮三重奏団を結成、27年にはイザイの後継者としてブリュッセル音楽院の教授に就任する。31年、イザイの葬儀で追悼演奏をおこなう。ベルギーでのデュボワの名声は高まり、38年にはアメリカに演奏旅行に出かけた。第二次世界大戦中、アルティス(Artis)弦楽四重奏団を結成し、弟子のグリュミオーが第2ヴァイオリンを担当する。49年3月24日、ベルギーのイクルで塞栓症のため急死。
 ビダルフのBID80172の解説でタリー・ポッターは「デュボワは1917年以降、定期的にイザイの指導を受けた」と書いているが、2023年に発売されたCD(ミュジーク・アン・ワロニー MEW2204)の解説には、デュボワがイザイから直接指導を受けたという証拠はないと記してある。ただし、彼がイザイが主宰する室内楽の演奏会に出演したこと、ジャック・ティボーの代役としてイザイと一緒にバッハの『2つのヴァイオリンのための協奏曲』を弾いたことがあったこと、若いころにはイザイと交流があったヴァイオリニストたちの指導を受けていたことも書いてある。イザイの後任として教授に就任したり、イザイの葬儀で演奏したりしたという事実なども含めて総合的に判断すると、デュボワがイザイからさまざまな恩恵を受けたことだけは間違いなさそうである。
 デュボワの演奏を紹介するとなると、さしあたりは現役のCDを優先しなければならないだろう。まず、ビダルフのBDF-ED85049-2で、モーツァルトの『ヴァイオリン協奏曲第6番』(1931年)とヴュータンの『同第5番』(1929年)、伴奏はともにデジレ・デファウ指揮、ブリュッセル王立音楽院管弦楽団である。前者は周知のとおり現在では偽作とされていて、最近の奏者は弾かなくなってしまった。この2曲は独奏が出ずっぱりの作風だが、これを聴くと、たいていの人がグリュミオーの音と似ていると思うだろう。明るく張りがあって、スコンと抜けるような美音は師弟に共通している。特にグリュミオーは弦楽四重奏団でデュボワの音を隣で聴いていたわけだから、師匠デュボワの音を身体全体で受け止めていたはずである。デュボワとグリュミオーとの違いは、デュボワはポルタメントを随所で効果的に使用しているところだろう。
 2曲の協奏曲のあとは、ソナタなどの室内楽作品が収められている。まず、ヘンデルの『ヴァイオリン・ソナタ第6番』。これは1947年の録音で、最晩年のものに属する(ピアノはジェラルド・ムーア)。2曲の協奏曲とはいささか異なり、古典的なスタイルを基本にしているが、随所にふっと香るような甘さをちりばめているところが魅力的である。
 次の4曲はデュボワが頻繁に共演し録音で同行していたピアニストで作曲家のフェルナン・フーエンス(つづりがGoeyensなので、ときどきゴーエンスという表記も見かける)のピアノ伴奏。ピエトロ・ナルディーニ(イザイ編)の『アリア』、ジャン=マリー・ルクレール(ヘルマン編)の『タンブーラン』、モーツァルト(ヘルマン編)の『メヌエット』、ヴュータンの『ロマンス』(1929年、31年録音)などだが、どれも自在で勢いにあふれた手さばきで、艶やかな美音と粋な表情を聴くことができる。
 最後の2曲は無伴奏で、イザイの『無伴奏ヴァイオリン・ソナタ第3番「バラード」』(1947年)とフリッツ・クライスラーの『レチタティーヴォとスケルツォ』(1929年)である。クライスラーも見事だが、圧倒的なのはイザイだ。力強く斬新な響きをくっきりと描くとともに、流麗でしなやかさがあり、歌心にもあふれていて、実に味わいがある演奏である。なお、これは『ソナタ第3番』の世界初録音らしい。
 次のCDは先ほどもふれたミュジーク・アン・ワロニーのMEW2204(2枚組み)。これにはデュボワの詳細な経歴が記されているだけでなく、写真も豊富で、資料としては非常に貴重である。ただ、CDの音質はいささかノイズ・リダクションがきつく、それがちょっと残念だが。
 ディスク1にあるヴュータンの『ヴァイオリン協奏曲第5番』とイザイの『無伴奏ヴァイオリン・ソナタ第3番』はビダルフのBDF-ED85049-2にも含まれていて、フランクの『ヴァイオリン・ソナタ』は後述するビダルフのBID80172にも収録されている。このCDでしか聴けないものの一つはイザイの『子どもの夢』(1929年、ピアノはフーエンス)である。これは美しい演奏だ。この甘く切ない音色は、弟子のグリュミオーを上回っている。
 ディスク2はフーエンスのピアノ伴奏で、フーエンスの『ユモレスク』『ハバネラ』、ジョセフ・ジョンゲンの『セレナータ』、アレックス・ド・タイエの『ユモレスク』、クレティアン・ロジステルの『リゼットに捧ぐセレナード』(1928年、29年、31年)など、ほかのCDではあまり見かけない作品が収録されている。しかしながら、内容は魅惑的なものばかりで、いかにも美音のデュボワが好んだ選曲といえる。また、ナルディーニ(イザイ編)の『アリア』はビダルフのBDF-ED85049-2にも入っている。
 次の2枚は廃盤になっているが、できれば早期に復活してほしい、重要なCDである。最初はビダルフのBID80172で、ベートーヴェンの『ヴァイオリン・ソナタ第7番』(1936年)、フランクの『ヴァイオリン・ソナタ』(1931年)、ドビュッシーの『ヴァイオリン・ソナタ』(1936年)で、伴奏はデュボワの長年のパートナー(主に1930年代以降)だったマルセル・マースである。
 まずベートーヴェンだが、ライブのような勢いにまずはっとさせられる。基本的には古典の枠組みをきっちり保持したスタイルなのだが、明るくどことなく漂う色香も感じさせる。ピアノのマースも、いかにも闊達だ。
 フランクの『ヴァイオリン・ソナタ』はミュジーク・アン・ワロニー盤にも入っているが、このビダルフ盤のほうがSPの味を伝えていて、聴きやすい。これまたベートーヴェン同様、生き生きとした息吹を存分に感じさせる演奏なのだが、ベートーヴェンではほとんどみられなかった、甘く夢を見るような温かさ、甘さ、しなやかさがあり、忘れがたい。スケール感も十分にあり、起伏や色彩感も見事で、名演の一つだろう。
 ドビュッシーの『ヴァイオリン・ソナタ』も傑作である。小気味よさと切れ味があるばかりでなく、粋で繊細な表情も抜かりなく描き出している。
 最後にはフォーグラー(ゲオルク・フォーグラー〔1749-1814〕のことと思われるが、CDには作曲家の名字のほかは何も明記していない)の『アリア、シャセとメヌエット(Aria, Chasse and Minuetto)』を収録。これもデュボワらしい、とてもきれいな演奏である。
 もう一つはバッハの『ヴァイオリン・ソナタ第4番』『第5番』『第6番』と、『ヴァイオリン・ソナタ第2番』より「アンダンテ・ウン・ポコ」(以上、すべて1933年)(ビダルフ BID80171)を収録しているものである。これらも、実に美しい演奏だ。端正で古典的なたたずまいのなかで気品がある音色で歌い上げ、いかにもヴァイオリンらしい甘さも感じさせ、胸にじんと響き渡る。こんな演奏を聴いていると、最近の古楽器演奏というものがいかに単一的で皮相なものかということを強く感じる。これらもすべてデュボワのよき相棒マースの伴奏だが、このCDにはマースの独奏が2曲、付録的に加えられている。
 いささかマニアックな情報も加えておこう。前出のフランクとドビュッシーそれぞれの『ヴァイオリン・ソナタ』はキャニオン/アルティスコのYD-3006(1977年発売)というLP復刻があった。この2曲の世界初復刻盤だったが、これが、なかなか優れた復刻なのだ。復刻の方法は「アートフォン・トランスクリプション・システム」とうたわれているが、実はどのようなやり方なのかは謎である。このLPの帯には「コルトー/ティボーと並ぶもう一つの決定盤!!」とあるが、これは決して大げさではないと思う。

 

Copyright Naoya Hirabayashi
本ウェブサイトの全部あるいは一部を引用するさいは著作権法に基づいて出典(URL)を明記してください。
商業用に無断でコピー・利用・流用することは禁止します。商業用に利用する場合は、著作権者と青弓社の許諾が必要です。
 

第21回 フアン・マネン(Joan〈Juan〉 Manen、1883-1971、スペイン)

平林直哉(音楽評論家。著書に『クラシックの深淵』〔青弓社〕など多数)

スペインの巨匠ヴァイオリニスト

 フアン・マネンはこれまで複数のヴァイオリニストと組み合わされたLPやCDしか発売されていなかったが、スペインのラ・マ・デ・ギドからマネン単独の2枚組み(LMG2170、2021年?)が発売されていたのには驚いた。早速、取り寄せようと思ったが、ヨーロッパでは中身がCDRである場合が散見される昨今である。しかし、届いたものは、幸いにもプレスされたCDだった。しかも、解説書も非常に充実していて、これまでほとんど知られていなかったマネンの経歴についても、かなり詳しく書かれている。以下に記す略歴は、LMG2170から抜粋したものである。
 バルセロナに生まれたマネンは、父によって育てられたといっても過言ではなかった。優れたアマチュア音楽家だった父は息子に4歳になるまでにソルフェージュとピアノを習わせた。5歳になるとマネンはヴァイオリンをヴィセンテ・ネグレヴェルニス、7歳のときにはクレメンテ・イヴァルグレン(ジャン・デルファン・アラールの弟子。アラールの師はエクトル・ベルリオーズと交遊があったフランソワ・アブネック)に学び、急速に上達する。この間、マネンは学校になじめず、わずか3カ月しか通っていないという。
 1893年、父からバレンシアに連れ出され、初めて公の場で演奏を披露した。そして、マネンが10歳になると、息子を全面的に支援するために、父は仕事を辞める。93年から96年まで父と子はアメリカ・ツアーを敢行、95年1月には初めてカーネギー・ホールで公演をおこなう。94年、ベルギーの巨匠ヴァイオリニスト、ウジェーヌ・イザイが私的な場で神童マネンの演奏を聴き、「非常に素晴らしいが、誰か手ほどきをする人物が必要」だと父に述べたが、彼は「私の耳が間違いを見つけたら、息子は解決します」と答えたという。また、ジェノヴァでパガニーニの唯一の弟子といわれたカミロ・シヴォリが若きマネンを聴き、「好きなようにやらせなさい。彼は生まれながらにしてヴァイオリニストだから、道筋は自分で発見するでしょう」と言ったという。このころからマネンは他人に頼らずヴァイオリンの腕を磨くとともに、数々の自作曲を書き連ねていった。
 1898年、マネンはベルリンに移住、そこでオットー・ゴールドスミスと出会う。ゴールドスミスはかつてサラサーテの秘書をしていた人物で、マネンは彼からさまざまな知識を得ると同時に、オイゲン・ダルベール、レオポルド・アウアー、アントニン・ドヴォルザークなどの音楽家と接し、のちにマネンの作品を出版するジムロック社のフリッツ・ジムロックとも知己を得た。ベルリン・フィルとも共演し、1900年にケルンでのリヒャルト・シュトラウスのピアノ伴奏によるものなど数々のリサイタルをおこなった。
 1904年11月、マネンはパガニーニの『「神よ王を救いたまえ」による変奏曲』を弾いた。これが大評判になり、ドイツ国内はもとより、広くヨーロッパに認知されて、パガニーニの後継者と見なされるようになる。イエネー・フバイは自作曲をマネンに捧げ、母国スペインのエンリケ・グラナドスやホアキン・ニンはピアニストとしてマネンとベートーヴェンのヴァイオリン・ソナタを共演した。バルセロナではパブロ・カザルスのオーケストラに参加し、協奏曲ではブルーノ・ワルター、ヘンリー・ウッド、ウィレム・メンゲルベルク、エルネスト・アンセルメなどの名指揮者たちとプログラムにその名を並べた。
 マネンのレパートリーはパガニーニ、パブロ・サラサーテ、ヘンリク・ヴィエニャフスキ、ラフ、バッジーニ、サン=サーンスらがその中核にあり、モーツァルトやベートーヴェン、セザール・フランク、ブラームスのヴァイオリン・ソナタは一部しか演奏していなかったようだ。また、協奏曲のレパートリーも限定的であり、モーツァルト(『第4番』)、ベートーヴェン、メンデルスゾーン、サン=サーンス(『第3番』)、マックス・ブルッフ(『第1番』『スコットランド幻想曲』)、ヴィエニャフスキ(『第1番』)、パガニーニ(『第2番』)程度だったという。
 マネン自身はレコード録音は決して好きではなかったようだが、それでもベートーヴェン、メンデルスゾーン、ブルッフの録音が残っていたのは幸いだった。
 マネン最後の公開演奏は、1958年とのこと。亡くなったのは生地バルセロナ。
 さて、ラ・マ・デ・ギドの2枚組みだが、正規録音はもとより、ドイツやアメリカに保管されていた放送録音までもがすくってある。曲によって若干ノイズ・リダクションがきつすぎると思われるものもあるが、約40年間(1914年から54年)にわたる録音を網羅していて、マネンの実像がくまなく捉えられている点は高く評価されるべきだろう。
 まずはベートーヴェンの『ヴァイオリン協奏曲』。これは1916年に録音されたもので、最初の完全全曲録音であるイゾルデ・メンゲスよりも先に敢行された準全曲盤だった。ただ、このSPは世界的な珍品として知られている。世界的なコレクターだったクリストファ・野澤から直接耳にした話によると、屈強のコレクターたちであっても番号の欠けなくSPを持っている人はおらず、仮に彼らのコレクションを一カ所に集めたとしても、全部はそろわないということだった。この2枚組みでは第1楽章の最後の部分、マネン自身のカデンツァから、終わりの部分が収められている。自身のカデンツァを弾いているのは、多数の作品を残したマネンならではといえるだろう。なかなか聴き応えがあるカデンツァなので、たまにはほかのヴァイオリニストでも聴いてみたい。カデンツァが終わって、美しくしなやかなソロが少しだけ聴ける。
 このベートーヴェンだが、第2楽章だけがイギリスのパールの『THE RECORDED VIOLIN VOLUME Ⅰ』(BVA1〔3枚組み〕)のディスク2に収録されている(ここでは1922年ごろの録音と記されているが、16年が正しい)。この程度の録音でも、神秘的な雰囲気を漂わせる独特の音色をはっきりと認識できる。一日でも早く、全部のSPをそろえたうえで聴きたいものだ。
 1921年に収録されたメンデルスゾーンの『ヴァイオリン協奏曲ホ短調』の第3楽章は、マネンの個性が明瞭に聴き取れる逸品である。テンポはかなり速いが、その軽やかさ、独特の音程の取り方、そして絶妙なテンポ・ルバートなど、ほかの多くのヴァイオリニストとは全く違う弾き方なのだ。伴奏はジョージ・W・ビング指揮、HMV交響楽団とある。資料をよく調べると、これまたベートーヴェンと同様、ほぼ全曲そろっている録音の第3楽章だけを収録したようだ。さらにベートーヴェンと同じく、SPは世界的な珍品なのだろう。
 もう一つ気になったのは、CDに記された1921年12月20日という録音データである。CDに表示されたSPのマトリクス番号を参照すると、クロウド・G・アーノルドの労作『The Orchestra on Record, 1896-1926』(Greenwood Press)では、このメンデルスゾーンは1916年1月発売とある。これまた有名なカタログで、ジェームズ・クレイトンの『Discopaedia of the Violin』(Records Past Publishing)では「1917年」と記されている。録音データの不一致は、次のマックス・ブルッフにも存在する。
 ブルッフの『ヴァイオリン協奏曲第1番』はベートーヴェンやメンデルスゾーンとは異なり、完全な全曲録音である。データは1921年12月19日、伴奏はメンデルスゾーンと同じくジョージ・W・ビング指揮、HMV交響楽団とある。これまた非常に美しい演奏で、メンデルスゾーン同様にしなやかさと独特な音程の取り方、弾き崩しのうまさ(特に第2楽章後半)に感心させられる。この復刻は、第3楽章で面が切り替わる箇所でダブった音をカットせずにわざわざトラックを分けてある配慮はいいと思うが、第1楽章冒頭のティンパニーの弱音のトレモロを編集ミスで収録し忘れ、いきなり管楽器の旋律から始まっているのはいただけない。ラッパの吹き込みで収録してもノイズに埋もれて聴き取れないから、初めからカットしたのではないかと言っていた人もいたが、それはありえないと思う。
 このブルッフの協奏曲だが、前出のアーノルドのそれと比べると、SP番号、マトリクス、録音データなど、CDの表記と全く一致しない(アーノルドの『The Orchestra on Record, 1896-1926』では伴奏は単に管弦楽伴奏とあり、指揮者名はない)。CD化に際しては、当然だが現物から音を採っていることは間違いない。そうなると、仮に録音データが正しくなくても、少なくともSP番号とマトリクスの表記はCDのほうが正しいと考えるべきだろう。
 放送録音では1937年に収録された3曲が聴き物である。有名曲だから、マネンの個性を多くの人に納得してもらえる内容だ。まず、バッハ(ヴィルヘルミ編)の『G線上のアリア』。これが実に摩訶不思議な演奏である。マネンはSP時代のほかのヴァイオリニスト同様に、ポルタメントを使用しながらも実に自由に弾いているのだが、そのテンポの揺らし方や間の取り方に類例が見いだせないのだ。もちろん、この曲のすべての演奏を聴いたわけではないが、いままで聴いたなかでも最も個性的であることは確かである。 
 モーツァルトの『ヴァイオリン・ソナタ第40番K.454』から第1楽章が収録されている。テンポの取り方はオーソドックスといえる。しかし、その独特のポルタメントというか、瞬間芸のようにふっと空中に舞うような音のすべらせ方はマネン独特である。全曲ないのが惜しい。
 シューベルトの『アヴェ・マリア』も異色の演奏。テンポは非常に遅い。それだけではなく、途中ではテンポがさらに遅くなり、夢のなかにどんどん溶け込んでいくような気分にさせられる。
 マネンはヴァイオリン用の作品を数多く残したことでも知られるが、この2枚組みにも1930年代、50年代の自作曲が含まれている。曲そのものの豊かな色彩に魅せられるとともに、特に50年代(60歳代後半から70歳ごろ)であっても依然として技巧は確かだったことも確認できる。たまたま気がついたことだが、ラ・マ・デ・ギドに収録されているマネンの自作曲2曲『コンチェルト・ダ・カメラ』と『エチュード作品A8、No.2』(以上、1950年録音)が、クレイトンのカタログでは希少盤として知られるトマス・クリアのLP(TLC-2586/3枚組み)に含まれていると記されているが、実際は前者だけである。
 最晩年の録音は1954年のフランソワ・シューベルトの『蜜蜂』である。もう70歳を超えているときのものだが、実にしっかりとした表現力が感じられ、やはり並の奏者ではない風格がある。
 その他のCDでは、サラサーテと一緒になった英シンポジウムの『The Great Violinists Volume ⅩⅩⅠ』(1328)にマネンが9トラック分入っている。曲目の大半がラ・マ・デ・ギドの2枚組みとダブっているが、そのなかに同じくメンデルスゾーンの『ヴァイオリン協奏曲』の第3楽章が収録されている。これはラ・マ・デ・ギドとは別演奏のようだ。しかし、このシンポジウムのCDにはマトリクス番号しか記されておらず、録音データや伴奏者についての情報がなく、不親切。フェルディナント・エロールの歌劇『プレ・オ・クレール』やモーツァルトの歌劇『羊飼いの王様』からのアリアがあり、CDには歌手名がヘドヴィヒ・フランキロ=カウフマンとあるが、伴奏者は明記していない(クレイトンではWeyersberg指揮、ベルリン交響楽団とある)。これはこのCDでしか聴けない貴重なものだが、ここではマネンは伴奏者、準主役といったところだろう。
 同じくラ・マ・デ・ギドから2004年ごろに発売されたエドゥアルト・ドルドラ、フアン・マッシアと一緒になったCD(LMG3061)を持っていたのを、すっかり忘れていた。このなかでフランソワ・シューベルトの『蜜蜂』は2枚組みと同一の演奏である。SP復刻によるマネンの『リート』(おそらく作品A8、No.1、CDには表記なし)、サラサーテの『ホタ・アラゴネーサ』はこのCDでしか聴けないもののようだが、マトリクスの表記はなく、おまけにクレイトンのカタログとは番号が逆になっていて(067921と067922)、どちらが正しいのかがわからない。1954年の録音であるサラサーテ(マネン編)の『セレナータ・アンダルーサ』も、このCDでしか聴けないようだ。
 CDのいちばん最後には、1948年にどこかの音楽祭で収録したマネンのスピーチが入っている。最初にしゃべっている人物が「マエストロ、フアン・マネン」と言っているので、おそらくは2番目にしゃべっているのがマネンだと思われるが、現地語の表記しかないので(解説書にある英文の解説は、短い履歴しかない)、詳しいことはわからない。
 ヨーアヒム・ハルトナックの『二十世紀名のヴァイオリニスト』(松本道介訳、白水社、1971年)にはマネンに関して以下のように記している。「マネンのヴァイオリニストとしての腕は、もっぱら前世紀後半のサロン様式の影響下にある音楽料理にささげられていた。彼の偉大な模範たるサラサーテは、少なくとも部分的には成功さえしていたのだが、マネンは、優雅なサロン風ヴィルトゥオーソに終わってしまった」。マネンのレパートリーや、彼が書き残した作品などを俯瞰すれば、この言葉は全く的を射たものであるだろう。しかしながら、それでもなお、個人的には非常に気になるヴァイオリニストの一人であり、それは今後も変わらない。

 

Copyright Naoya Hirabayashi
本ウェブサイトの全部あるいは一部を引用するさいは著作権法に基づいて出典(URL)を明記してください。
商業用に無断でコピー・利用・流用することは禁止します。商業用に利用する場合は、著作権者と青弓社の許諾が必要です。