藤田ひろみ『あなたと聴く中島みゆき』こうして私はなろうとして中島みゆきさんのライターになった

 中島みゆきさんの『夜会』のプラチナチケットが、今年は2回分手に入った。京都-東京間を二往復する間、新幹線の窓から富士山を眺めて、「偶然に富士山に登った人はいない。登ろうとした人だけが登ったのだ」という言葉を私は思い出していた。私は偶然に中島みゆきさんのライターになったのではない。なろうとしてなったのだ。
 3年ほど前になる。私が主催している女性のためのグループで、もし余命があと3カ月、6カ月、1年と宣告されたら、それぞれ何をするかという、自分の生き方が問われるワークショップをおこなった。余命1年の場合、私の答えは「中島みゆきさんの論文を書く」だった。
 どんなときも中島さんの曲と向き合って、自分にとっての意味を考えてきた。それが消えてしまわないために、ほかの人が読んでもわかる文章にして残そうとしてきた。それをまとまったものにしなければ死ねない、私は迷わずにそう思ったのだった。
 そのさらに2年ほど前のこと、本書でも紹介しているFMIYUKIが立ち上がったときのことだ。私は東京まで記念のオフに出かけて行って、臆面もなく「中島みゆきさんのライターです」と宣言をした。誰かから認められていたわけではなかった。でも私のなかでは、自明のこととして私は中島さんのライターだった。
 中島さんについてのエッセー(「中島みゆきと癒し」として本書に所収)をグループの通信に連載しながら、これがいつか本になったらすごいよねと夢のように考えていたが、本当に実現するとは思っていなかった。ただ、いま振り返ってみて思うことは、勝手にライター宣言した日から、私は一度も迷わなかったし、一度も後戻りしなかったということだ。自分の内的必要性に応じて、私は自分のペースで書きつづけた。
 学会誌「女性学」に投稿した論文は、いまから思えば私にとっての大きな転機だったが、それよりも私は『夜会 金環蝕』が伝える、女性の解放と連帯というすばらしいメッセージを多くの人に対して明らかにできたことがうれしかった。
 実は、「女性学」への投稿は最初『金環蝕』と『問う女』というふたつの『夜会』を扱っていた。それが選外となり、私は『金環蝕』に論点を絞って再挑戦したのだった。したがって『問う女』で私が取り上げたかった問題はそのままになってしまったので、今度は修士論文で取り組んだのだった。そして修士論文が今回の執筆に結びついた。余命があと1年になったわけではなかったが、私のなかでは機が熟していたのだと思う。
 こんなふうに振り返ってみると、自分のなかで常に変わらない姿勢がありながらも、一歩一歩階段を登るように今回の出版に自分で近づいていったのだと思える。そして私は書くときはいつもひとりだけれど、見守り支えてくれる仲間や家族がいて、関わりのなかで自分を見つめることができるから、書くことが血肉をもつのだと思う。その意味で、本書にも書いたとおり、中島さんが『誕生』に込めたメッセージを、私は出会えた全ての人たちに感謝の気持ちを込めて贈りたいと思う。
 こうして私はなろうとして中島みゆきさんのライターになった。山を登るように一歩一歩近づいていった。ところが、思いがけない出版ということで、最後の急坂は全速力で一気に駆け上がらなければならなかった。私はいまも息を切らしている。それにもかかわらず、次の山をめざそうとしている自分もいる。人生には流れに乗る勢いが必要なときもあるだろうと思っている。それはそれとして、自分の出発点を見失わないためにこの文章を記した。あとがきに代えて。

米村みゆき『宮沢賢治を創った男たち』読者にとってどうでもいいこと

 いわゆる研究書と呼ばれる書物を手にとると、まず最初に「あとがき」を見る人は結構多い。これは、どうやら、私と同じ“業界”に棲んでいる人たちにとりわけ多く見られる習性らしい。『宮沢賢治を創った男たち』を手にした同業者の何人かが、同書の「あとがき」を読んでびっくりした、と伝えてくる。最初に「あとがき」を見て驚いた、というのだ。
「あとがき」には、お世話になった先生方のお名前や、自分を支えてくれた家族の名前を連ね、感謝の意を書くこと、いわゆる謝辞を記すのが通例……とまではいえなくとも、とても多い。私がこの先達の轍を踏まなかったのは、お世話になった先生がいないとか、親族から追放の扱いを受けているから、とかいうわけではもちろんない。たとえば、学位論文を審査した大学教員の方々は、宮沢賢治の作品は大嫌い、であったとしても、大部の論文を一字一句骨を折って読んでくださっただろうし、そういう私もいま、クリスマスも大晦日もお正月も返上して学生の書いた卒業論文(の下書き)を読んでいる立場だから痛いほどわかる。数年来お正月に顔を見せないと文句を言う家族だって、昔はともあれいまは、絶縁するほどには私を恨んではいないはずだし、私だっておせち料理用のたしにと北陸名産かぶら寿司を贈っている(私は以前、金沢で暮したことがある)。
 ただ、私は「○○先生、ありがとうございました」「妻の○○へ、この本を捧げる」という特定の固有名へ向けられた語句を目にするとき、名指しされていない、同書物を手にとる読者の大半にとっては、蚊帳の外に置かれた気分になるのではないのか、と思っているのだ。この感じ方には個人差はあるかもしれない。しかし、やはり教員や家族への謝辞を書いていない筆者に理由を尋ねると、「そんなことは、読者にはどうでもいいことだから」という返答があった。あるいは、なかには家族への謝辞をパロディ化して、洗濯機の愛妻号ありがとう、という「あとがき」を記した研究者もいて、つい吹き出してしまった。
もちろん、先生を崇拝し、家族想いの著者であるというメッセージを伝えることはできる。しかし、多くの読者へ向ける言葉としてわざわざそんなパフォーマンスをするのは遠回りだ。また「あとがき」で固有名を出された人たちが喜んだり、その人のメリットになっているとは限らない。この著者とあの先生はお仲間なのね、とカテゴライズされたり、単に審査のために読んだだけなのに「○○先生ありがとう」と書かれて、その著者を後押ししていると誤解され苦笑いをしている人だっているのだ。 
閑話休題、この欄は「原稿の余白に」なので、『宮沢賢治を創った男たち』の書物には、綴らなかった私の個人的なことに少し触れたい。同書のプロフィールを見た人から、経歴に関する質問が多いからだ。私は、名古屋にある大学の外国語学部を卒業した。大学在籍中になんらかの“変節”があって、日本文学に転向したわけではない。不本意入学だった(英語の教師になってほしいと思っていた親が入学金を同大に納めてしまった)。しかし、大学生活に息苦しくなり、大学の姉妹校に留学をした。ある文学の講義では、教室が若い人から年配の人たちでいっぱいになり、熱心な議論を繰り返していたことが印象的だった。日本文学を学ぼうと進学した別の大学の大学院では、自分で学費を稼ぐ人が少なくなく、私も貯金やアルバイトで遣り繰りし、書籍代を捻出するため頭を痛めた。調査のために名古屋から東京へ、あいだに国会図書館をはさみ、さらに岩手県・花巻まで夜行バスを乗り継いで移動し、とても疲れたことを覚えている。数年、家賃が二万円に満たない下宿屋さんにお世話になった。コンセントも一つしかなかったので、冬は暖房機はあまり使えずとても寒かった。博士課程のときに韓国・ソウルに語学留学したのは、大学院に韓国からの留学生が多かったことが大きなきっかけだ。みんな、日本語を流暢に話せるのに、日本人の日本文学研究者たちは、韓国語を話せない、学ぼうとしないことに疑問を抱いていた。留学の経験のおかげで、いま、学生を韓国の研修に引率したりしている。