朝鮮映画黎明期の撮影技師・宮川早之助のこと、など――安鍾和『韓国映画を作った男たち――一九〇五―四五年』を翻訳して

長沢雅春

 本書は安鍾和著『韓国映画側面秘史』(春秋社、1962年)の全訳です。原書の刊行は半世紀以上も前のことで、紙面はいまでは珍しい縦書きで、ハングルに一部漢字を交えたものになっています。
 書名を「韓国」としたものの、内容は解放後の大韓民国映画史ではなく、日帝植民地下の「朝鮮」映画のことなので、書名を「韓国」がいいのか「朝鮮」がいいのか正直決めきれないところがありましたが、原書の「韓国」を踏襲することにしました。しかし「解題」では「朝鮮」と「韓国」を交ぜて使用しています。これは、「植民地」とすべきか「併合」とすべきかで筆者の立ち位置が大きく異なり、大きな決断を要するものだと思います。

 本書の「解題」にも書いたことですが、朝鮮映画(ここでは「朝鮮」としたい)作品のデータは混乱したものが少なくなく、どうも孫引きを続けるうちにどこかで尾ひれがつき、また固有名詞をハングル化したことで同音異字に混乱が生じている(あるいは校正ミス)のです。たとえば、ある映画史事典では、『アリラン』を制作した朝鮮キネマ・プロダクション主人の淀虎蔵を「老婆」としているが、本書ではわざわざ「老婆」だとする記述はありません。どういういきさつで「老婆」となったのか。もちろん、そういわれればそれを肯定も否定もする術はなく、では原資料をたどるためには当時の新聞や雑誌に当たればいいのですが、朝鮮戦争の戦禍によって資料は限られているし、また個人の作業でそれがどうにもなるものではありません。

 本書巻末には、本書や韓国で刊行されている多くの図書文献、韓国映像資料院が提供するデータベースなどを参考にして「朝鮮映画作品一覧 1903―45年」を作成して所収しましたが、これもすでに述べたような経緯によって人名や作品名、制作会社名などの固有名詞を決定するに際して決め手を欠いたものが少なくありません。これについては、門間貴志氏が本書の書評で「これまで韓国映画史は、さかのぼるほど不正確な記述が多いのが難点だった」(「図書新聞」2014年1月18日付)と書いていて、大いに勇気づけてもらいました。ちなみに、本書所収の作品データベースの件数は269作品で、これだけの数のデータ公開は、日本では本書が初めてではないかと自負しています。

 また、九州大学韓国研究センター主催の国際シンポジウムテーマ「植民地期および米軍政下の朝鮮映像・画像アーカイブ――映像・画像をいかに語らせるか」(2009年12月20日)で私と同様に報告者だった韓国映像資料院研究員の鄭琮樺氏に、「映像資料院のデータベースにも誤用があるようだが」とあとで電話でたずねたところ、やはり同じ問題を抱えていると苦笑していたのが印象的でした(鄭琮樺氏は「発掘された過去」シリーズの収集として、現在はロシアでの朝鮮映画の発掘を中心におこなっています)。
 韓国映画史における植民地期の研究には、こうした事情を一つひとつ埋めていく基本作業が強いられているといっていいかもしれせん。

 ところで、本書を翻訳刊行するずっと前、「佐賀新聞」の「ろんだん佐賀」に日韓関係についての論を7回にわたって書いたことがありました。その2002年9月2日付朝刊に、私は「韓国の街角で――辰野金吾が残したもの」という題目で、唐津出身の辰野金吾が建築したソウル市庁舎や釜山駅舎に触れるなかで、草創期の朝鮮映画について述べ、またその時期の日本人スタッフである撮影技師「宮川早之助」について触れてみました。まずはそれを引用してみます。
 
「歴史をひもとけば1919年10月27日、金陶山率いる新劇座は、この団成社で活動写真を挿入した連鎖劇『義理的仇討』(尾崎紅葉『金色夜叉』の翻案)を公演して大好評を博した。この作品で用いられたフィルムが韓国における活動写真史の嚆矢となったのである。
 この作品は団成社主人の朴承弼が製作して日本人の宮川早之助(おそらく天然色活動写真株式会社の技師)が撮影を担当し、フィルムの現像と編集は日本で行われた。以後、団成社は日本の浅草電気館のような活動写真の老舗として大衆娯楽の中心に身をおいてきたのである」

 すると、それからずいぶんたった2009年6月1日、「「佐賀新聞」の記事を拝見しました」という件名で私の職場アドレスにメールが届いたのですから私はたいへん驚きました。じつは私宛ての私信なので、この場で公開していいものかどうか躊躇したのですが、あとに述べる理由で「原稿の余白に」に転載することにしました。ご本人にはご承知いただければと思います。

「長沢先生初めまして
佐賀新聞「ろんだん佐賀」に寄稿された記事(2002年9月2日付)を拝見してメールしています。
携帯メールなのでレイアウトに失礼が有ると思われますがお許し下さい。記事「辰野金吾が残したもの」の中に祖父の名前を見付けました。私は宮川早之助の孫で敦子と申します。
祖父はどんな人だったのかなと何時も思っていました。
明治17年3月18日鳥取県で生まれです。
映画の仕事に就いたのは、明治41年梅屋圧吉と出会いMパテー商会に入社します。天然活動写真の撮影部に入社したのは大正2年。母親や弟をこの年に亡くして居るようなので人生の転機だったのかもしれません。
祖父が半島に渡るきっかけは大不況だったみたいです。太田さんと言う人の斡旋で大正10年5月に渡鮮します。
祖父は基本的に映画も半島もどちらも愛していたみたいで美しい京城の風景などの記録映画を沢山撮影していたらしいと言う事だけは、聞き及んでいます
私が幼い頃、記憶の中の祖父は病床につきずっと寝て居るおじいちゃんでしかありませんでした。
半島ではどんな人だったのだろうか。
もし、長沢先生がご存じなら教えて頂きたくメールしました」

というものでした。この携帯メールに出てくる「太田さん」とは、『月下の誓い』(1923年)で撮影を担当した太田同(ひとし)のことでしょう。このようなメールがあったことを、ちょうどその年の暮れにあった前述の九州大学でのシンポジウムで話をしたころ、韓国映像資料院の鄭琮樺氏が「ぜひその方に会いたいのだが、連絡はとれるだろうか」とたいへん興味をもち、氏からはそれからも「会えないか」と連絡があるのです。もちろん、私はメールをいただいたあとに折り返し敦子さんに返信メールをしていたのですが、どういうわけか、残念なことに連絡はいまもないのです。
 私が2009年6月1日に受けた敦子さんからの私信メールをこの場で公開することにしたのは、まだ詳らかでない朝鮮映画史の黎明期について、なんらかの事実が解明できるのではないかと思うからであり、また鄭琮樺氏もそれを韓国の遺産として期待しているからです。

 もし「宮川早之助の孫」でいらっしゃる敦子さんがこの「余白」をごらんになりましたら、私信を公開したお詫びをお伝えしたいとともに、早くに朝鮮に渡った撮影技師宮川早之助氏のことについて敦子さんからのご連絡を待つ韓国映像資料院との橋渡しをしたいと思っていますので、どうぞもう一度ご連絡をいただけますようお願いします。
 私のメールアドレスは以下です。
nagasawa〓asahigakuen.ac.jp
※メールをお送りいただく際は、お手数ですが、〓を@にしてください。