互いの理解が「いい音」を生む――『まるごとヴァイオリンの本』を書いて

石田朋也

 一般的なヴァイオリンのイメージはどうも高貴なものらしい。「白亜の大邸宅に響く音色」「深窓の令嬢が弾く楽器」のイメージがあるようだ。現実に、そのイメージを体現する形として絢爛豪華な音楽ホールが建設されるし、美人ヴァイオリニストが次々とデビューして使い捨てられていく。

 ところが、その高貴なイメージに似つかわしくない音色でのヴァイオリンの音は相当に聴き苦しいもの。漫画などでひどいヴァイオリンの音と揶揄されることがあるが、これは作品中での誇張ではなく多くの人にとって現実のこと。ピアノやギターならリズムが合っていれば音色のコントロールが乏しくともまずまず聴けるものだが、ヴァイオリンの場合は適切に楽器を響かせる音で弾かなければ、文字どおり聴くに堪えない「貧弱な音」が出る。

 生涯学習が唱えられて久しい。「大人の○○教室」は多く開講されているし、ヴァイオリンも大人を対象にした教室が増えている。わたし自身も大人向けのヴァイオリン教室を運営していて、この原稿を書いている前日もヴァイオリンのレッスンを9時間おこなった。子どものころに習っていたが大人になって再開することにした人、大人になってからヴァイオリンを手にするようになった人など、それぞれに事情と思いがありヴァイオリンを習っているのだと思う。

 大人になってもやりたいこと、欲しいものというのは、子どものころに憧れたこと、欲しいと思ったものが多いと思う。子どものときにかなわなかった夢を子育てや仕事から解放され、やっと実現できたという思いが大人にはあるのだろう。始めた年齢が高いほどその思いは厚く積もっていると想像する。その思いの深さを教室の運営側が理解し大切にしなければならないはずだが、現実には冷淡に扱われていることも多いようだ。

 一方、しばしばヴァイオリンを習う生徒側が先生を軽く見ていることがある。インターネットの掲示板やブログには、先生を評価する段階ではない生徒が簡単に先生の指導方針を評価してしまっていることがある。教室の先生がこれまでどれだけ苦労を重ねてきたか、また生徒に対してどれだけ期待をもって指導をおこなっているか、その思いを生徒側が理解し尊重する必要があると感じる。

 この連載を読む人の大半は、ヴァイオリンを弾いたことがないと思う。世間でのイメージと異なり、演奏者にとってヴァイオリンはとてもサディスト的な楽器といえる。演奏者にこれでもかと精神面、肉体面、金銭面に苦痛を与えるし、ヴァイオリン教育も音楽教育のなかで最も厳しいもののひとつだと思う。優雅に弾くヴァイオリニストのイメージとは裏腹に、ヴァイオリニストやヴァイオリンの先生は過去にいくつものの体の傷と心の傷を負って、そして大きな出費を強いられてきたことが多いはずだ。

 特に大人に対する教育では、先生は生徒を、生徒は先生を理解する必要があるだろう。相互理解の必要性はヴァイオリン教育に限ったことではない。小学校などでの学級崩壊も、先生と保護者を含めた生徒側との相互理解の不足に一因があると思うし、また、医者と患者、社長と社員なども同様の問題を抱えていると感じる。そして、互いを十分に理解し合っているときに、「いい音」が生まれるのだと思う。

 ヴァイオリンの場合には、先生と生徒の関係だけでなく、演奏者と楽器との関係もある。これも演奏者と楽器が互いを理解できたときに「いい音」が出るものだ。すなわち、演奏者がヴァイオリンに「いい音を出せ!」強要してもヴァイオリンは反発するだけで「いい音」は出ない。演奏者側がヴァイオリン側の声を聞くという視点があるとヴァイオリンから「いい音」を引き出すことができる。

 相手を理解しようと視点を少しばかり変えれば、ヴァイオリンはサディストからいい友だちになる。この視点のシフトが本書で示せていればと願っている。直接的にはヴァイオリンをいい音で奏でることができるために、最終的にはヴァイオリンを友だちにするためにごらんいただく本になっていれば幸いである。

バカバカしいからこそ――『妖怪手品の時代』を書いて

横山泰子

 子ども時代の一時期、手品を練習しては家族に見せていた。父はあまり家にいなかったので、母に見せ祖父に見せ祖母に見せ妹に見せ……と一通り披露したが、同じ芸をやっていると仕掛けがわかってしまうので何度もできないのがつらいところであった。
 そんなとき、祖母の弟(Oのおじさんとしておこう)が飲みにきた。彼は本当にお酒が好きなようで、酔っぱらってくると他人の家でも靴下を脱いでくつろいでいた。その日の私はいつものように「こんにちは」を言いにいったが、普段と違うのは手にトランプを持っていたことだった。同居人には披露ずみのトランプ手品を、お客さんに見てもらいたかったのだ。
私「こんにちは」
おじさん「ああ、こんにちは。かわいいねえ」
私「トランプ手品をやってもいいですか?」
おじさん「手品か、いいよ」
 といった会話が交わされたかと思う。私はトランプを出してよく切って、
「こちらに見えないようにして、一枚好きなカードを選んでください」
とカードを抜いてもらった。それをおじさんだけが見て、カードの山のなかに戻してもらった。さらにトランプを切った後、私はこれぞという一枚を選び出し、
「おじさんの選んだのはこれでしょう?」
と得意げに見せた。ところが、なんと彼は
「あれえ、これだったかなあ?」
と言うのだ。絶対に自信はあったので私は動揺し、もう一度やってもらった。しかし、何度やっても彼は、
「あれえ、これだったかなあ?」
と言う。どうやら、おじさんは酔っぱらっていてカードの絵や数を忘れてしまうのだった。
 このとき私は「酔っぱらいには細かい手品は不向きである」という教訓を得た。そして、子どもの移り気さゆえに手品に対する興味を失い、この日の教訓も忘れてしまった。
 
 新著『妖怪手品の時代』では、江戸時代に素人(しろうと)が宴会で楽しんでいた手品について取り上げた。当時はアマチュア向けの手品の解説本が作られていて、現代人にはなかなか考えつかないようなさまざまな芸が紹介されている。人がお化けに扮する方法などが記されていて、「ちょっとふざけすぎではないか」と思うようなくだらない仕掛けもある。調査を始めたころはあまりのバカバカしさにあきれていたが、突然Oのおじさんのことを思い出した。
 酔っぱらいには細かい手品は不向きなのだった。宴席でお互いに隠し芸を見せ合うようなときには、演技をする本人も酔っぱらっているかもしれない。演じる側・見る側の双方にとって、本格的な奇術よりも笑いをとる芸の方がふさわしいのではないか。江戸時代の奇想天外な手品は、そのバカバカしさゆえに酒宴を盛り上げるのではないか。
 そんなことを考えながら原稿を書いた。当時の手品がどんなに奇抜かは、ぜひ本書を手に取ってごらんいただきたい。