若者とは何者か――『族の系譜学――ユース・サブカルチャーズの戦後史』を書いて

難波功士

  若者とは、いまだ何者でもない者のことだと私は考える。
  世に言うニートやフリーターのことだけを念頭においているのではない。どこかの学生であったとしても、それには時限がある。たとえ定職に就いていたとしても、それを生涯の職と、なかなかそう簡単に決めきれるものではない。
  唐沢なをき『まんが極道①』(エンターブレイン、2007年)などを読むと、マンガ家とはすべからく永遠の若者ではないかと思えてくる。一時売れたとしても、結局「消えたマンガ家」は枚挙にいとまがない。吾妻ひでおですら、マンガ家として復帰するまでの間、ホームレス、配管工、入院患者(アルコール依存症)などの日々をすごしていた。過去の印税だけで食べていける安定は、ほんの一握りの超大家だけのものだろう。
  そうした「若者群像」のなかでも、「第5話 母と子」は特に胸を打つ。篭目山トト治(45歳)は、母親のパート収入に生活を頼りながら、年3回同人誌即売会に出店し、10冊程度を売りさばく以外は、日がな一日、商業マンガ誌に掲載された作品やその作者に悪態をついてすごしている。母は泣きながら「お願いだよ まっとうに職についてくれ カタギになっておくれ」と懇願するが、トト治は「うるさいうるさい マンガ家なんだ俺は誰が何と言おうと」(母と話をするときのコツは大声でケンカ腰にまくしたてることだ)……。
  結局、ユース・サブカルチャーズの戦後史とは、「何者かであろうとした若者たち」の右往左往の足跡であり、あるユース・サブカルチャーの成員となりえたとしても、ほとんどの場合、それが持続可能な何者かではない以上、その歴史とは見果てぬ夢たちの航跡なのである。そうしたはかなさこそが、私がユース・サブカルチャーズに「萌えた」最大のポイントだったように思う。老眼にむち打ち作品を仕上げ、最後には自費出版業者に騙されるトト治(とその母)の切なさには言葉を失う。そして日々大学生を眼前にしている身としては、若者たちがすみやかに何者かになることを願ってやまない。
  だが、かくいう私も、「この子たちのお父ちゃん」という定住の地を得たのは、44歳になってからのことだ。トト治のことを、とやかく言えた義理ではない。また『族の系譜学』の「あとがき」にも記したことだが、43歳のときに教員組合の書記長をやってみて、「おらぁ労働者だぁ」と心底思える経験をした。大学教員は、ディレッタントであり訳知りであることが多く、「かかる社会的・経済的環境のもと、こうした大学経営の舵取りは一部やむをえないところもあり……」といった妙な評論家的物わかりのよさを示してしまいがちだが、最後の最後まで理事会サイドとは別の視点に立ちえた――要するに平行線を辿り続け、団交ではなんら互いに得るものがなかった――ことは、仲間に恵まれたとしか言いようがない。
  教員である以前に労働者である、「こちとら教員歴は11年だが、労働者歴は23年だ」と考えるようになって、大学生と接するのも楽になってきた。要するに私の場合、「君たち、とっとと労働者(ということばに抵抗があるむきには職業人)になりなさい」というのが基本的なスタンスなのである。文系学部教員としては、実務に直結する何かを教える気はないが(そんなことはできないが)、就職活動が「文章(エントリーシートや論作文)を書く」「人前(面接やグループ・ディスカッション)で話す」の繰り返しである以上、レポートや卒論を書くこと、ゼミで発表・討論をすることが、働き口の獲得にいくばくかは結びついてくるはずである。
  大学教員11年目にして思うことは、「大学生は、大学生でなくなるために、大学生をしている」のであり、「若者は、いずれ若者でなくなるがゆえに、若者である」という屈曲である。そうした思いのうち、後者に関しては『族の系譜学』を書くことで、少しは吐き出せた。前者に関しては、いずれどこかで展開したいと思っているのだが……。 
  要するに、ありがちな大学改革論でも、学問論・教養論でもない大学(教育)論です。この場は、編集者・出版関係者の注目もある媒体だと思うのであえて申し上げますが、『大学生は、大学生でなくなるために、大学生をしている』企画、いかがでしょうか。ニーズはあると思うのですが……。できるだけ平易に、面白く読めるものにします。けっこう部数は出るんじゃないでしょうか。お父ちゃんは、子どもたちに自転車を買ってやりたいんですけど……。

執筆を終えたいま、振り返ると、あの夏の日のことが思い出される。――『光のプロジェクト――写真、モダニズムを超えて』を書いて

深川雅文

  1985年8月のある日、僕は、ハンブルクのギャラリーに付設された書店に並んだ本を見ていた。写真についての本を探していたところ、一冊の小ぶりの薄手の本に目が留まった。目立たない灰色の表紙には「Fuer eine Philosophie der Fotografie」と黒い文字でタイトルが印刷されている。Vilem Flusserという著者のことは全く知らなかった。ドイツ語で書かれた本を立ち読み始めて間もなく、写真の文化史的な革命性を鮮明に抉り出す考察であるとの直観が脳裡を走った。出版元のミュラー・ポーレ氏にすぐに電話をし、ゲッティンゲンの街を訪れて話し合い、なんの見通しもないのに日本語に翻訳したいとの希望を伝えた。若気の至りとはこのことだろう。出版のあてはなかったが、帰国後早々に翻訳に着手した。数年間の放浪生活の後、1988年、幸い美術館に学芸員として就職することになったものの翻訳の出版の可能性は見えなかった。その10年後、事態は一変し、同書の理解者を得て、勁草書房から『写真の哲学のために――テクノロジーとヴィジュアルカルチャー』として1999年に出版していただくことになった。『写真の哲学のために』の訳者あとがきは、本書の位置づけを説明してくれるのでその一節を引用しよう。

「『写真の哲学のために』は、「写真」をテーマにしているが、現代の文化状況に対するアクチュアルな哲学的批判がベースになっており、その意味では、たとえば、ベンヤミンの「複製技術時代の芸術作品」あるいは「写真小史」といった著作の系譜に連なるものである。したがって、室井尚氏が本書の「解説」で述べられておられるように、この書は”書店の「メディア論」や「写真」のコーナーにさびしく置かれるタイプの本ではない”だろう。(略)ここでは、そのテーマとなっている「写真」に立ち返り、写真論あるいは写真史という観点から、若干のコメントを加えておきたい。というのは、フルッサーの理論は、写真を考えるための新たな文化的視座と概念の枠組みを提示しており、それを写真に関する現実の現象や作品あるいは歴史的な事象において検証することは、写真に関する理解と歴史的な認識の深化を促すのみならず、写真という領域に限定されない、脱領域的な写真論の可能性も秘められているように思われるからである」(184ページ)

  本書で筆者が進めてきた考察は、上記の引用の最後の文章に書いた「検証」の作業の実践に深く関わっていた。こうした検証は、さまざまなかたちでなされることによって、その理論の妥当性と批判が進められると思う。筆者の考察はそのアプローチのひとつであり、さらにさまざまな歴史的・美術的事象からの検証が可能であるはずである。そういう意志をもつ読者は、ぜひ、さらなる検証にトライしていただきたい。そのために、本書でフルッサーの著作に関心をもたれた人には、『写真の哲学のために』だけでなく、村上淳一氏の名訳で出されているフルッサーの『テクノコードの誕生』『サブジェクトからプロジェクトへ』(いずれも東京大学出版会)の読書をお薦めしたいと思う。

  検証のためには、理論的考察にとどまらず実際の作品のイメージに照らし合わせることも重要である。考察の現場は写真が流通する日常の生活の場であるとともに写真に関する歴史的事象にあるからである。本書は、写真についての本でありながら、所収する写真は十指にも満たない。その代わりに、本文のなかに図版注を多数挙げて、実際の作品イメージとの参照可能なかたちをとることができた。これは、ひとえに、美術出版社の『カラー版 世界写真史』をはじめ同社のカラー版美術書など日本語の美術出版が充実してきているという事情によって可能になった。こうした図版に照らし合わせながら本書を読み進めていただければ、本書がたんなる理論の書ではなく、実践的な書であることを感じていただけるのではないかと思う。

  よほど力量のある執筆者の場合はさておき、本の出版は、自らの意志でコントロールできるものではないのではないか。この本も例外ではないだろう。出版をめぐるさまざまな条件・環境の変化が、この本の出版を遅らせた面もあり、また時間の経過によって逆に促進させ、時宜を得させた面もある。冒頭に記した夏のある日がこの夏の出版に繋がるとは筆者自身想像できなかった。そして、注として挙げるべき図版の環境の充実ももちろん予想できなかった。一冊の本が、さまざまな人々の思索と出版への努力とに結びついていることを強く感じ、本書がその無限のネットワークの末端に連なることに感謝したい。そして、願わくば、この本がさらなる人々のリンクを導きますように。