『精神病の日本近代』というゴール、そして新たな地平へ――『精神病の日本近代――憑く心身から病む心身へ』を書いて

兵頭晶子

  小学生の頃、家族で六甲山に近い公園へ遊びに行った。広々としてあまり人もいないその公園は、ゴルフ場と住宅地に囲まれていた。住宅地には公園から見えるように白い大きな垂れ幕が下がっていて、そこには「精神病院建設反対」と書かれていた。その一角だけが、緑豊かでのどかな景色には馴染まず、ある違和感を放っていた。
  たいていの子どもにとって(あるいは大人でも)、病院はあまり行きたくない場所だろう。待ち時間は長いし、注射でもされようものなら痛いうえに、薬は苦い。でも、幼い頃から体が弱かった私にとって、病院は点滴や薬で病気を治してくれ、助けてくれる場所だった。だから、どうして病院を建てることに反対するのかよくわからず、隣にいる父に尋ねた。父が何と答えたのか、いまではもう覚えていない。

  縁というのは不思議なもので、十年後、私は公園の隣にできた高校に通い始めた。近くに広い公園があるのが気に入って、その高校に決めたようなものだった。もっとも、在学中は友達とのおしゃべりや勉強に気を取られて、公園まで足を延ばすことは結局ほとんどなかったけれど。かつて精神病院建設が反対された土地は、老人ホームになっていた。
  そして。
  阪神・淡路大震災が起こる数カ月前、ひとりの男性が自殺した。──彼が大学時代からうつ病に罹っていたことを、通夜の席で、遺された子どもたちは初めて知った。

  その頃、「うつ病」という言葉が持つ響きは、いまとはかなり違っていた。だから、子どもたちがもう少し成長してから話そうと思っていたのかもしれない。それに、彼は単身赴任で各地を転々としていたから、ゆっくり話す機会もなかったのかもしれない。
 でも、もしこれが違う病気だったなら。子どもにもわかるように説明したのではないだろうか。たとえ一緒に暮らす時間が少なくても、確かに家族だったのだから。
 ではなぜ、彼は、うつ病という病気を伏せたまま死を選んでしまったのだろう。

  高校を卒業して大学生になった私は、たまたま同郷だった一つ年上の先輩から研究会に誘われた。研究会に参加するようになった私は、卒業論文のテーマを精神病にしようと思った。すると、被差別部落について研究していた先輩は次のようなことを言った。
「精神病は難しいと思うよ。部落と違って、「実態がある」から」
  なにしろ十年前の記憶なので、特に「実態」という表現が正確かどうか自信はないが、とにかく、そういう意味の指摘だったことは覚えている。

  だが。
  精神病と呼ばれる病気が実在することは、病気に悩む当事者や家族への差別を正当化するのだろうか。「間違っている」部落差別の対極に、「正しい」差別なんてあるのだろうか。この世の中に、「あっていい」差別など、はたして存在するのだろうか。
  だから私は精神病をテーマに選んだ。部落差別でもなく、ちょうどその頃、国が隔離政策の誤りを認めたハンセン病でもなく、いまなお差別が続いている精神病についてこそ研究しようと心に決めた。
  ──本書の始まりは、このような原風景のなかにあった。

  現在、私は、学習院大学と大阪大学で非常勤講師として二つの授業を担当している。学習院のほうは病気で入院された先生の代講なので、テーマが既に決まっていた。そこでほぼ十年ぶりに、被差別部落の問題を調べ直すことになった。そして、本当にあきれた話だが、部落差別がいまなお続いていることを知り、心の底から驚いた。
  確かに小学校や中学校で、うろ覚えながらも同和教育を受けたし、現在進行形の問題だからこそ、先輩もいまなお研究し続けているのだ。それでも、なぜだか信じられなかった。
  大正期に喜田貞吉が歴史学の立場から部落差別の迷妄を説き、水平社も設立され、精神病とは比較にならないほどのおびただしい研究が重ねられてきたにもかかわらず、「いわれなき差別」の筆頭とも言える部落差別が21世紀になったいまも続いているなんて、そんなことあるはずがないと思った。
  ──つまり私は、「正しい」とされる差別を追究するあまり、「間違っている」と宣言された差別の側を見落としてしまっていたのだ。

  いまなら、もっと違う本が書ける気がする。
  部落差別も、路上生活者の強制排除や日雇い労働者の住民登録削除に体現される非定住への排斥も、喜田や、同時代に民俗学を樹立した柳田国男が説いたような、前近代の残存などでは決してないことを。そうした差別をいまなお正当化し続ける原理が日本近代の基底にあり、その一環に精神病への差別も含まれているということを。
  もちろんそれは、本書を書き上げたからこそ見えてきた問題に他ならない。

  こうして、『精神病の日本近代』というひとつのゴールは、同時に、新たなスタートラインとなった。
  上記のような本を書き上げたとしたら、次は、どんな新しい扉が開くのだろう。
  ──その扉を開くのは、本書の読者であるあなた自身かもしれない。

1930年代の新聞の魔力――『近代日本の国際リゾート――一九三〇年代の国際観光ホテルを中心に』を書いて

砂本文彦

  この本は、戦前の新聞をずっと読み込んで見えてきたことに記述の多くを依っている。
  東京や大阪で発行された新聞はもちろんのこと、仙台、新潟、栃木、横浜、静岡、長野、松本、豊橋、名古屋、大津、広島、呉、新居浜、高知、佐賀、柳川、熊本、長崎、そして植民地だった京城(ソウル)、大田、釜山。こうした地方紙は現地に行って見る。授業の合間をぬっては各地の図書館を訪ね歩き、閲覧室にこもってせっせとめくる。
 1年は365日。新聞を5年分、10年分と見ていく。新聞のページ数にもよるが、例えば、1930年頃の「京城日報」は、朝から晩まで見ても2カ月分見るのがせいぜい。1年分を見ようとすると、単純に考えて1週間かかる計算だ。万事この調子なので、ずっと見ていると気絶しそうになる。だから、いつ読み終わるとか、そんなせこい計算はしない方がいい。
  最近は、新聞記事がデータベース化されているものもあって便利だが、これは案外もれていたりとか、それこそ文字でデータベース化されない広告やマンガ、タイトルがあいまいな写真は落ちていたりとかで、頼りすぎると足をすくわれる。記事の「余白」に思いがけない発見もあるから、やはり、ここはローテクでも、攻めの気持ちでがんがん新聞はめくりまくるべし。
  大学院生の頃からちまちまと新聞を見る根気が続いているわけは、新聞記事そのものがおもしろいからだ。とくに関心をもった1930年代は、20年代よりもページ数が増すとともに(それはそれで頭が痛いのだが)、内容も充実。1面の政治、外交、経済からめくって社会、文化、スポーツ、芸能、マンガ、そして広告はかなりおもしろい。さらに、どこそこの帝大生がカフェーの姉さんに入れあげて町の話題になった云々の痴話話なんかは、もう、笑うしかない。当時は、男は女に対し、女は男に対し、神秘的なものを感じていた。そのせいか「男の甲斐性とは?」「女も○△なの?」のような、異性を妙に意識した変な連載も真面目に堂々と出てくる。記事の根拠もそうあるわけではないようで、噂話も多くて、「そんなわけないだろう!(笑)」とひとりつっこみをしながら見ていた。この硬軟織り交ぜた紙面構成は、当時の雰囲気を味わえて、かなり笑える。

 わかった! 重要なのは、これだ。笑える感覚が1930年代にあったことだ。

 実は、『近代日本の国際リゾート――一九三〇年代の国際観光ホテルを中心に』も、そんな笑える感覚からできた分厚い本だ。あのとき、どうしてここまで「国際観光ホテル」をつくることが全国的なブームとなり、われ先と身銭を切ってまで外国人を呼ぼうとしたのか。当時のほとんどの日本人は、リゾートなんて見たことも行ったこともないのに。
  本書は、外国人向けの施設整備を始めてからのいきさつと利用の実態を記したが、実は、「外国人をわがまちに!」という類の話が新聞紙上に出てくるのを見るだけでも、充分におもしろい。「わがまちに、ホテルがいるんだ!」と熱にうなされる人々。そんな臨場感というか、高揚感というか、抑制が利かない「近代」というべきか。そういうことが、当時の新聞をめくるとダイレクトに伝わってくる。
  ただ、そんな新聞も、日中戦争ぐらいからあまりおもしろくなくなる。どの新聞をめくっても、わたしがほしい記事がぐっと減る。一時、落ち着いて持ち直すのだが、太平洋戦争開戦が近づくと次第に悲壮感が漂いはじめ、めくるこちらも気分が重い。
  鉄がない、木材がない、油がない。わたしの専門の建築で言えば、釘がないから家も建たない。竹筋コンクリートなんてものも開発される始末。そして1941年の秋頃から、ついに「この冬、暖をとる燃料はあるのか?」の記事まで出てくる。12月の真珠湾攻撃の数日前には、開戦不可避のような文字が挟み込まれ、開戦の翌日は、まさに教科書で見た「米英に宣戦布告」。こうなると、もう、観光やリゾート、住宅地開発とかの浮いた話は、出ようもない。このふたつの戦争の開戦で、新聞はその社会的な役割を大きく変質していったことを痛切に感じた。わたしの歴史文化的な研究の立場から言えば、一次資料としての価値が格段に弱まったことを意味する。
  あともうひとつ。当時の新聞は、新聞社によって編集カラーが全く異なる。現在の新聞は、新聞社としての「主張」は控えめに、支持球団の違いや経済面などの扱いに大小の差がある程度だが、当時の新聞は我田引水の極致というか、主張と噂だらけ。当時、人々は新聞に正しさを期待さえしていなかったのではないか? それよりは、新聞を通して読み手の力を試す社会、という感じか。地方紙はその傾向がもっと強くて、地元出身の誰それが東京で大活躍だとか、植民地で大事件だとか、あるようなないような話が紙面をところ狭しと躍る。新聞はスターを求めていた。そもそも当時の人々は、新聞に中立性なんか望んでもいなかったのだろう。
  そんな紙面構成だったせいか、新聞は戦中になってすべて右に倣うか廃刊に追い込まれ、戦後には改めて報道機関としての中立性が新聞に求められた。時代や紙面が異なれば、同じ新聞といっても、記事がもつ社会的な意義や、ときには正確性まで違ってくるのである。したがって、新聞を研究対象にするとき、字面を追うこと自体はほとんど意味をなさない。
  これではまるで、新聞が役に立たないような書きっぷりだが、決してそうではない。正確性はさておき、ともかくあちこちに散らばった記事を拾い集めると、それこそパズルを合わせるようにひとつの絵が見えてくるのである。多様な(雑多か?)報道があるからこそ、それを可能にしている。そもそもこうした異種格闘技のような新聞の雰囲気は、まるですべてをさらけ出す近所のおじさんのようで、人間臭くて、ある種の親しみをおぼえてしまう。とってもオープンマインドなのだ。
  人というのはいつも正しく倫理に忠実に生きているだけではない。わたしは、どうも、こうした訳のわからない新聞報道が許容された時代の方に、計り知れない魅力を感じてしまう。わたしが人として試されているような気もするのだ。どう考えるんだ?、お前、と。
  考える身体が自分にあることを問いかけ続けてくる1930年代の新聞。それを通してわが身の存在を21世紀のいまに感じられるのが、うれしい。みなさんも、この興奮を体験してほしい。