失われた偽作・疑作を求めて――『クラシック偽作・疑作大全』を出版して

近藤健児

 妻は私と違って収集癖はないが、もう10年以上前に勤務医の仕事をいったん辞めたときに、当時熱中していた塩野七生の『ローマ人の物語』(全15巻、新潮社)に触発されて、退職金を原資にローマ時代のコインを買い集めだしたことがあった。メイン・ターゲットはデナリウスと呼ばれる直径1.5センチほどの銀貨で、同じ皇帝のものでも裏面のバージョンは多種多様でなかなかに集めがいがある。eBayに出品している海外の業者から購入するのだが、本物かどうかはなんともわからない。だが、もし真贋鑑定に出すとなるとコインの価格以上の費用がかかってしまう。それがどうにも気になったのか、原資が尽きたのか、ある程度集めたところで収集をやめてしまったようだ。
 絵画や骨董の世界では、ニセモノは一般に贋作と呼ばれる。これは欺く目的で悪意のもとに作られたもので、例えば同時代の絵にレンブラントのサインを加えたり、新しい陶器をわざと古めかしく汚したりしたものだ。真作と思って大枚はたいて購入したものが贋作と鑑定されることはしばしばあるが、これは当事者にとってはおおごとだ。そうとは知らずに美術館が自館の目玉として展示していたものが贋作ないし贋作が疑われる事態となると、展示をやめて倉庫に引っ込めざるをえないことになる。来館客数に響く大変な損失だ。なおかつ始末が悪いことに、いったんは贋作と判定された作品が、のちに真作とされる逆転事例もないわけではないから、恨めしい絵を邪険に捨てるわけにもいかないのだ。
 ところでクラシック音楽作品の場合にも、本書で取り上げたシューベルトの『交響曲ホ長調』(1825年)のように、悪意ある贋作もないわけではない。しかし偽作や真偽不詳の疑作の多くは、著作権の概念などなかった18世紀に、売らんがために有名作曲家の名前を勝手に楽譜に付けて売ったことから生じたもので、当時それなりの実力があった作曲家が真面目に書いたものだ。曲そのものの中身は聴くに値するものが少なくない。例えば、ハイドン作とされていた『おもちゃの交響曲』も、モーツァルト作とされていた『子守歌』も、いずれも他人による作曲と判明しているが、曲自体は名品であるにもかかわらず、偽作とわかったために演奏・録音される機会が少なくなってしまっている。ハイドンの弦楽四重奏曲集Op.3は、名曲「セレナーデ」を含んでいるにもかかわらず、偽作とわかると全集ボックス(エオリアン四重奏団盤)ではわざわざその曲を外して販売されるようになる始末だ。
 ちょっと待ってほしい。倉庫行きになった美術作品を本物とじっくり見比べる機会があってもよくはないか。それと同じように、真作でないとわかった音楽作品も、長らく有名作曲家のものと信じられてきたゆえんはどこにあるのか、自分の耳で確かめてみたいものではないだろうか。偽作や疑作となると、大作曲家の全作品事典や熱心な愛好家のウェブサイトに断片的な記載があるだけで、基礎的情報さえかなり苦労しないと集まらない。肝心の録音さえも、かつて真作と信じられていた時代に出ていた古い音源が相当探してやっと見つかるほどに限られているのが実情だ。それでもモーツァルトの交響曲やヴァイオリン・ソナタなどで、偽作ということで欠番扱いになっている前々から気になっていた曲に出合えたときの喜びは大きく、曲の出来栄え以上に満足感を味わった。そのほか全部が全部名曲だなどと言うつもりはまったくないが、真作と同じように愛聴すべき佳作も本書の執筆を通してたくさん見つけられた。
 転売するわけでもないので、真作でも偽作でも疑作でも、自分でいいと思ったものを楽しむだけだ。だから、妻のローマ・コインだってたとえ真贋不明のグレーゾーンのものでも、楽しみを与えてくれればすてきな宝物である。音楽も同じだ。本書を通して、私と同じように自分だけの名曲に出合える人が増えたらいいなと願っている。