出版の動機と経過、そして反応――『美空ひばりという生き方』を書いて

想田 正

 中学生時代、隣のガキンコが「リンゴ追分」をいつも歌っていた。音楽といえば、家ではいつも、父が持っていたセミクラシックのレコードをかけていたから、これが歌謡曲に親しんだきっかけだった。当時の娯楽はラジオと映画ぐらいだったから、つけっぱなしのラジオから流れる歌謡曲に日々親しむことになった。
  筆者が入学した法政大学日本文学科では、アカデミックな官学に対抗し、対象を客体化して歴史的・社会的に研究する科学的方法を標榜しており、私たちはその薫陶を受けた。
  そのうち、全盛期を過ぎてきた歌謡曲がもつ大衆的意義を学術的に解明する試みが少ないことに思い至った。
  そうしたなか1996年に、竹島嗣学氏が設立した広域市民塾《美空ひばり学会》の存在を知る。この人は元新聞記者で、洒脱あふれる文章をものするだけではなく、弁舌・歌・楽器などどの分野も堂に入った器用人。拙著のカバー・扉にも、氏のイラストを使わせていただいた。
  この学会の目的は、「わが国を代表する天才歌手・美空ひばりの足跡を通して、その時代・文化・風俗・生活を幅広く研鑽する」とある。これは、歌謡曲を「学」として扱うべきと常々考えていた筆者にとってまことに共鳴するものだった。2001年の元旦に掲載された「朝日新聞」の紹介記事を見て直ちに入会。以降、学会ニュースに、歌謡曲を軸とした大衆芸能について、かつて学んだ方法に基づきながら思考した論考を持続的に掲載させていただいた。
  こうして蓄積されてきたものを、2008年に『美空ひばり歌謡研究』2分冊にまとめ、私家版として上梓。その後周囲の勧めによって、出版社に検討を打診し、サブカルチャー分野で定評のある青弓社の応諾を得て出版に至った次第である。
 
  本書に盛り込んだ筆者の意図は「ひばり歌謡学・序説」に尽くされているので、以下これを引く。
「国民歌謡の不在、歌謡曲の喪失が慨嘆されて久しい。それは昭和の終焉とほぼ軌を一にしていて、昨今昭和が見直されてきているものの、歌謡曲の喪失は、外来音楽の攻勢によってその存在が揺らいだことに起因しているだろう。
  結果、歌謡曲は「演歌」という限定された枠に押し込められることになるが、そのことは享受層を中・高年に限定することを伴っていた。とはいっても、若者たちがいつまでもポップスなどの分野に専心し続けるわけでもなく、行き場を失った彼らは、「フォーク=ニューミュージック」という新たなジャンルに求めていった。しかしこの世界は、折からの閉塞状況と相まって、ひたすら内部への沈潜・鬱屈の吐露となり、こうして世情と同様、歌の世界でも世代間の分裂は決定的になっていったのである。
  いま六十代以前の世代が往年の歌謡曲を口ずさむのは、単に懐旧の情だけではない。そこには生活・人生と一体となった「歌」があるからである。ニューミュージックや演歌にそうした役割は求め難い。われわれが「歌謡曲」の復権を願望するのは、こうしたかつて国民の実体と同化していて、昭和とともに喪失したまさに「国民歌謡」を欲するからにほかならない。
  しかしそれにしても、歌謡曲の黄金期を築いた歌手たちはたちどころに何人も挙げられるのに、なぜいま〈ひばり〉なのか。彼女がそれら群雄スターらのなかにあって、ひときわ輝く存在であり続けた要因は何だったのか。これを解明することは、スターとは何か、ヒットとは何か、はたまた彼女を支持し続けた大衆とは何かを問うのと同時に、昭和とはどのような時代であったかを照らし出すことにほかならない。そしてこれを解明することは、われらが切望する新たな「国民歌謡」を生み出すだろうと信じる」

 さて、本書を出版したことを周囲に紹介すると、共通の対応を受けることに気が付いた。それは、ほとんどの人が、まず小生の堅いイメージと作物にそぐわないとばかり爆笑することである。そして、「美空ひばりってお好きだったんですか?」と聞くのである。
  このような反応は、2つのことを示していると思う。第一に、世にいう学者先生は大衆歌謡などを扱うはずがない、と思われていること。第二に、対象が「好き」であることが前提だと思い込まれていること。小生がいっぱしの学者に見られているらしいことは汗顔の至りだが、それはともかく、インテリが大衆芸能を扱うことの戸惑いは、本書の「まえがき」で触れたように、竹中労が受けた半世紀前の経験と現状はなにほども変わっていないことを示すものだろう。
  そして、学問研究は対象にのめり込むのでなく突き放し客体視することから始まる、ということが、どうも一般に定着していないようなのである。そのことは巷に繁盛している「カルチャーセンター」の在り方を見れば容易に頷けることである。

 以上のことは、小著を刊行して痛感させられた思わぬ副産物だった。

ライトノベルという問題――『ライトノベル研究序説』を書いて

久米依子

 3年にわたるライトノベル研究会の成果として、一柳廣孝氏と共編著で本書を刊行することができた。ここ数年注目を集めているライトノベルとその周辺現象に、主として文学研究の立場から切り込んだ試みである。若い書き手が多いこともあって、それぞれが自分自身とライトノベルとの距離感を測りながら考察を進めるような、熱気を帯びた論集となった。
  研究会自体も、ライトノベルを「研究」する視座を開きたいという学生たちの願いから始まっている。当初は少人数で開始したが、いつの間にかさまざまな大学の友人・知人が集い、20人以上の会となった。脱会(?)するメンバーがほとんどいなかったのも特色である。サブカルチャーについて少し知的に語り合いたいという欲求は、若い世代に共通してあるらしい。
  3年間、研究の基盤を整えるために種々のアプローチを重ねたが、その間懸念していたのは、急速に発展したライトノベルの勢いが鈍り読むべき作品も減って、研究の意義が失われるのではないかということだった。しかし、どうやらそれは杞憂に終わった。現在のところライトノベル作家には新しい才能が次々と参入し、アニメ、マンガ、ゲームとのメディアミックス展開も活発で、書店のライトノベルの棚は明らかに拡張している。各国語に翻訳される例も出始めた。かつてマンガやアニメが戦後文化として認められていった道筋を、ライトノベルもたどる……かもしれない。そうなれば〈動物化〉した世代の〈データベース消費〉小説、といったこれまでの単純な裁断だけでは論じにくくなるだろう。本書はそのような動向への期待と、しかしこの現象がいったいどこに行き着くのか、という危惧と不安(!)も込めた1冊になっている。読者の方々にも、現在の「ライトノベルという問題」をともに考えていただければと願っている。
  本のなかで明言はしなかったが、こうした青少年向けサブカルチャー研究の可能性が広がったのは、やはりカルチュラル・スタディーズのおかげである。旧来のアカデミズムでは扱いにくかった大衆的な言説文化研究の方向を、カルチュラル・スタディーズから見出すことができた。娯楽的な文化が爛熟している日本社会では、ますます応用されるべき理論・方法だと思う。本書も題材はライトノベルながら、分析姿勢はハード&ヘビーを目指したつもりである。
  研究会の活動は出版によって一区切りついたが、今後はライトノベルだけでなく、現代の多様な文化にまで対象を広げて分析しようと話し合っている。ライトノベル現象そのものも調査を重ねなければならないし、メディアミックスが常態であるジャンルの特質を考えるためには、ミックスされる他ジャンルへの探究が欠かせない。
  再び研究会の成果を問う日がくるかどうかは未知数だが、今回の1冊を大切な指標として、若い会員の意欲的な取り組みが新たな研究シーンを開くことを待望している。
  さて、本書のカバーは印象的なイラストで飾られているが、これも本書に執筆した研究会の女性メンバーの労作である。カバーについては青弓社の矢野未知生さんにリードしてもらいながら、細部まで執筆者たちで話し合い、意匠を凝らした。書店で見かけたらぜひお手に取って、袖のイラストまでお目通しいただきたい。そこに描かれている矢野さんのイラストを見たうえで、「矢野さんはもっともっとハンサムではないか?」といった愛あるご批評などは、絶賛受け付け中です。