青柳健二
「青柳さんには、棚田の写真も犬像の写真も同じようなものなんですかねぇ?」
ある新聞社から犬像の取材を受けたとき、記者からそう聞かれて、私はハッとしました。
実は数年前、犬像の写真を撮るようになったとき、私の写真を見てくれていた人からは「犬像?」とけげんな顔をされたのです。それまで撮っていた棚田の風景写真と犬像の写真では、被写体として大きく違っていたからでした。
ある雑誌に企画を持ち込んだとき、担当者が「犬像」の意味がわからないようだったので、「渋谷駅前にありますよね、忠犬ハチ公の像が。あんな感じの犬の像なんですが、全国にたくさんあるんです」と説明してようやくわかってもらえたのですが、しかし今度は、あからさまに、犬の像なんか写真に撮る価値があるのか?、それのどこがおもしろいんだ?というふうに感じているようでした。なので、企画は当然ながら没でした。
それまで普通にあったもののなかに新しい価値を見いだすのが写真家の仕事だと思っていますが、その端くれでもある私は、他人にその新しい価値を知ってもらうのは難しいこともわかっています。
実際、棚田を撮り始めたときも同じだったのです。いまでこそ、棚田という言葉も市民権を得てすぐわかってもらえますが、1995年頃は、棚田なんて10年もすれば全部なくなってしまう過去の遺物くらいに思われていたし、「棚田って何ですか?」と同じように聞き返されていた時代もあったのです。
でも私のなかでは、棚田にも犬像にも、何か共通するものがあるとうすうすは気がついてはいました。それが言葉にならなかったのですが、他人に指摘されて、その思いは確信に変わりました。
棚田にも犬像にもその土地と切り離せない物語がある、ということなのです。棚田の場合、その土地の歴史や地形が、雲形定規のような棚田の形を決めているといってもいいでしょう。犬像も、その土地と切り離せない物語をもっています。犬像が「そこ」にある意味が私には大切なのです。
私は、その土地がもつ物語を探して歩くのが好きなようです。全国各地に点在する物語を探して、それをまとめるという作業は、棚田も犬像も同じかなと。
ある犬像は、街のキャラクターになったところもあります。たとえば、静岡県磐田市のしっぺい太郎の物語から、ゆるキャラ・しっぺいが、奈良県王寺町の聖徳太子の愛犬・雪丸の物語からは、ゆるキャラ・雪丸が誕生しています。その土地独特の犬たちが、現代にゆるキャラとしてよみがえっているのです。何もないところから作り出されたフィクションの犬ではありません。もちろん誕生当時はフィクションの犬もあったかもしれませんが、それが何百年もの歳月をかけて、その土地の歴史に組み込まれています。
だから、どこにあってもいい犬像(土地とのつながりがない犬像)には、あまり興味がわきません。今回の書籍での私なりの「犬像」の定義からは外れるからです。例えば、あの携帯電話会社の白い「お父さん犬」の像ですね。その土地に根差した物語がないからです(そもそも、これはコマーシャルなのですが。もちろん、「お父さん犬」も何百年かたてば歴史になるかもしれませんが)。
だから犬像は棚田と同じように、町おこしに結び付きます。土地独特の魅力を、棚田や犬像が代表していると言ってもいいかもしれません。実際、「しっぺい」も「雪丸」も、町おこしに一役買っています。
ところで、人の顔の判別には「平均顔」説というのがあります。例えば、日本人なら日本人の顔の平均を知っているので、そこからどれだけ外れているかの「差」で判別しているということです。外国人が日本人の顔がみな同じに見えるというのは、日本人の「平均顔」を知らないからで、反対に、日本人は外国人の「平均顔」を知らないので、みな同じに見えます。
海外旅行すると、その国の滞在が長くなるにしたがって、その国の人の顔の区別がつきやすくなるという体験は私にもあるので、この説は説得力があります。
多くの犬像を見て回ることで、その犬像の「平均顔」がわかってきます。そのとき、個々の犬像の全体における位置というのが客観的に見えてきます。今回の著書で、13章のカテゴリーに分けたのも、それが理由です。平均値がわかれば、個々の犬像の意味というか、性格もわかるということなのです。
読者のみなさんには、本書を持って犬(忠犬・名犬)にゆかりがある場所をたずねる「聖地巡礼」をしてみてはいかが?、と提案します。
多くを回ることで、先に言ったように、犬像の平均値がわかり、個々の犬像についてもより客観視できるようになるだろうし、こんなにもいろんな意味をもっている犬像があるのか、こんなにもバリエーション豊かな犬像の物語があるのかと、驚くことがたくさんあると思います。そこから、犬と人間の関係、もっと言えば、動物や自然との関係なども見えてくるのではないでしょうか。