書けますか?/賭けますか?――『脚本を書こう!』を書いて

原田佳夏

  恋人はサンタクロースと歌った人がいた。私のサンタクロースは、青弓社の編集者だった。……誤解を招きかねない文章だ。こんな紛らわしい導入部を書くハラダは本当に物書きなのか? その自問自答は、去年、2003年のクリスマスから始まった。
 「本を書きませんか?」――去年のクリスマス、とてつもないクリスマスプレゼントが青弓社から舞い込んできた。
  文筆で身を立てたいと一念発起して東京に飛び出してきてはや幾星霜。小説への夢はひとまずおいて、二十歳まで映画を10本も観たことがなかったのに脚本家としての道を選んでしまったハラダ。経理担当者として会社員を続けながら、夜のお仕事と称して舞台台本や映画脚本を書きつづけてきた。制約の多いなか、人とかかわりながら作品を作り上げていく脚本家という仕事のよさもつらさも体験してきた。そんなハラダに、脚本を書くための作法本を書かないかとお誘いがあったのだ。
  これは夢だろうか。いや夢にちがいない。そうだよな、きっと「本を出してあげるから、100万円用意しなさい」と続くのではと、眉に唾をつけながら話をうかがった。ところがどうだ。どうやら、青弓社の編集者は、本気でハラダに本を書かせようとしているらしい。ハラダと書いて「ムボウ」とルビを振ると常日頃吹聴していたが、青弓社と書いても「ムボウ」とルビを振るのだとそのときに知った。
  「かけますか?」ということばが「賭けますか?」に聞こえたのは、たぶん気のせいだと思う。筆の遅さだけはどこに出しても恥ずかしくないほどの大御所ぶりだが、幸いにもその評判は青弓社には届いていないようだ。しかし、よくよく考えるに、年に1、2本の舞台台本で四苦八苦、映画の企画書で七転八倒しているようなハラダが、こともあろうに「脚本を書こう」という作法本を書くなんて。しかも、ご丁寧にタイトルの最後に「!」がついている。正直、悩んだ。「!」について悩んだのではない。この業界で若輩のハラダごときが、作法本を書いていいのだろうかということについて悩んだのだ。しかし、こんな奇特な話はめったにないにちがいない。青弓社が「あ、しまった。ほかにもっといい人がいた」と言いだす可能性は、ハラダが痩せてナイスバディになるより高い。ええい、これも何かの思し召しだ。青弓社の酔狂に乗っかってしまえ。悩んだわりには、二つ返事で執筆をOKしてしまったハラダ。「書くのは早いです」(提出はいつも遅いですとは伝えなかった……)。「1時間で原稿用紙10枚は書けます」「じゃあ、楽勝ですね。350枚、来年の4月刊行をメドにお願いします」
  ――日本には四季がある。思い返すに、今年はその四季の移り変わりを愛でることはなかった。かわりに、移り変わりを恨めしく見送ったのだった。サクラが散り、4月はあっという間に過ぎていった。近刊案内の日付が「6月刊行予定」にさりげなく差し替えられていた。
  そして、ハラダは知ったのだった。物語を作ることと作法本を書くこととの大いなる相違について。知ったなどというなまやさしいものではない。思い切り、いわゆる「ライターズブロック」に陥ってしまったのである。物語はいくらでも書けると自信があった。しかし、人に何かを教えるための文章、自分のことをまとめることがこんなに困難だとは思わなかった。書けない。とにかく書けない。会社から帰ってきてパソコンの前に10時間以上座って、座りつづけて、朝になっても最初の一行が書けない。本当に書けないときのつらさを何に例えればいいのやら。そうだ。バトンを渡せば走るのを止められるのに、バトンを渡せず延々と走りつづけるリレー選手のような気分といったらわかっていただけるだろうか。ちなみに、50メートルを14秒で走るハラダにリレー選手の経験はない。そんなこんなで、のたうちまわりながらも、書き直しを繰り返して、少しずつ原稿の量は増えていった。
  そして近刊案内はいつしか「11月刊行予定」に、それがさらに「12月中旬」に差し替えられるころ、これ以上赤くはできないというほどの赤字が入ったゲラ刷り(印刷するときの元になる試し刷り、校正刷りのこと)が届けられたとき、冒頭の自問自答にエコーがかかった。「本当にぃぃぃ、ハラダはぁぁぁ、物書きと言えるのかぁぁぁ」――酒を飲んだわけでもないのに真っ赤なゲラ刷りは、青弓社にお願いして手元に置かせてもらうことにした。これから文章を書くとき、必ず読み返して、少しでもまともな文章を書けるよう、自らを戒めるために。
  「続けることが才能」――そのことば一つを頼りにここまでやってきた。青弓社には今回の出版まで多大なるご迷惑をおかけしたが、いい本に仕立てていただいたと思う。「こんなハラダでも書けるんだから、私だって脚本が書けるはず!」と多くの人が早合点して脚本に手を出してくれたら、新しい才能がたくさん出てくるやもしれぬ。そのキッカケになれたら幸いである。
  これからも遅々とした歩みかもしれないが、それでも人の心に何かしら届くものがある物語を紡ぎつづけていきたいと思うハラダであった。

水崎雄文『校旗の誕生』「趣味的な研究」からスタートして

 校旗についての印象は人それぞれに違っているが、一般的にはいかめしいものとして受け止められているようだ。校旗の史料を求めて各地の図書館を訪ね、多くの学校史を調べてきたが、人を楽しませたり喜ばせたりするような、感動的でドラマチックな校旗に出合うことはなかった。こんなおもしろくない校旗を調べて歩こうというのだから、風変わりといわれても仕方がない。福岡県のある高校を訪ねたときに、校長が「何しているのだ」と言わんばかりの怪訝な顔をしたのを思い出す。退職教員と名乗るだけしか肩書がない素人研究者には、対応も冷たかった。
 とはいうものの、当初の私の調査はとてもずさんなものだった。校旗は学校創立と同時に誕生したものではないことを知っていたから、学校創立から校旗制定までどれくらいの期間が経過しているかを興味半分に調べるだけだった。高校教員を退職したあとの趣味としてはそれだけで十分だった。したがって、最初は貴重な史料もコピーせずに、持参した小さなノートに学校創立年と校旗制定年を簡単に筆記する程度でしかなかった。本格的に調べるようになってから当初のずさんな史料調査をおおいに悔やんだ。当時は校旗のデザインに興味がなかったのでコピーをとらなかったが、これも、いまとなっては残念である。
 ところで、私の大学での卒業論文は九州中世史だったが、そのとき助手だった瀬野精一郎さん(現・早稲田大学名誉教授) から「一等史料、二等史料」という言葉を聞いた覚えがある。三等史料という言葉を聞いたかどうかは覚えていないが、今回私が原稿を書くためにおおいに利用した学校史は、この三等史料なのである。中世史研究では、中世の原物は、文書だけではなく書画や器物にいたるまで残っていることは少なく、これらの史料は落書き、戯画の類まで一等史料なのである。これらを直接解読して論文を作成するのが最も理想的な研究であり、瀬野さんは、できるだけ一等史料を利用することを心がける方だった。この研究手法の正しさは近世や近・現代の研究でも言えるのだが、原物史料を直接手にすることができるのは限られた研究環境の人でしかない。二等史料は専門家が精緻さを心がけて解読し、それを公刊したものだが、まれに誤読している可能性がある。しかし、一点しかない原史料を多数の人が利用することはできないので、現在の研究の主流は二等史料利用ということになる。しかし校旗の研究は、それ以下の三等史料に頼らざるをえなかった。
 学校史を執筆するうえでまず大切なのは、一等資料に基づいて正しく過去の事実を伝えることだが、実情は、一等史料がないために過去に編集・出版された校友会誌などの記事を利用することが多い。また、執筆者の主観的な立場での史料の取捨選択や叙述は避けられず、その点でも学校史はまさしく三等史料である。今回の執筆にあたって手にした校史は、利用しなかったものも含めると400を超えると思われるが、内容は種々雑多だった。根本史料を丹念に収集して、それに基づいた精緻な考証がうかがえる優れた校史も多数あったが、その一方で、やたら史料を羅列した見かけ倒しの分厚い校史、あるいは、やや詳細な年表程度というページ数が少ない校史もあった。しかし、学校史の編集にかかわった経験がある私にはその苦労もわかり、これらを非難する気持ちにはなれなかった。とはいえ、著述内容を百パーセント信用することだけは避けたつもりである。
 そもそも、学校史は創立百周年や何十周年という記念事業の一環として発刊されるのだが、早くから事業の計画を立てて優れた執筆者と十分な資金を用意した場合は別として、一般には現職の教員が執筆・編集の中心になっているところが多い。私も日常の教職活動と並行して校史を執筆・編集したが、原稿完成までの半年間は連日大変だった。最後の3カ月は、授業の合間の10分の休憩時間にも原稿執筆に追われる毎日だった。公務のかたわら執筆する教員たちの校史に多大な成果を求めるのは酷なことである。それだけに、各地の図書館でほかと見劣りがする校史と出合っても、苦労が察せられた。校旗を制定した年月日だけしか記述されていない校史であってもありがたかった。たとえ1行でも校旗誕生についての記述があれば利用した。可能なかぎり多くの校旗誕生の事例を集めることによって、今回の著書はできあがっている。これらの校史の執筆にあたった各地の先生方にはこの場でお礼を申し上げたい。
 最近の公立図書館は地域の資料収集に力を入れていて、郷土資料閲覧コーナーや別室の郷土資料室を設置するところも多くなり、学校史の収集も進められている。しかし、まだ一部の図書館では学校史を三等史料として扱っている形跡がみられる。2001年11月に長崎県立図書館の郷土資料室を訪れたが、ここは近世長崎の研究資料が豊富で、そのときも多くの人が訪れていた。私の依頼に対して司書は閉架書庫のなかをいろいろ探してくれたが、学校史は一冊も出てこなかった。学校史を郷土資料として重視していないのである。私は九州に住んでいるが、著書のなかで長崎県の校旗に論及できなかったのはこのような事情によるものである。
 今回の著述に先立つ論文「近代日本史のなかの旧制中学校旗」(文部省科学研究費補助『戦後身体文化における日本・韓国比較研究』報告書所収)に対して何人かの先輩から「従来の研究の盲点を突いている」との指摘を受けたが、趣味的な研究から始まって専門家があまり利用しない三等史料の校史を各地で調査して収集したことが、このようなありがたい評価になったようだ。