厚 香苗
できあがったばかりの本書を調査協力者に手渡すために、私は2012年2月24日、東京・墨田区東向島の地蔵坂を訪ねた。最寄りの曳舟駅の改札を出ると、完成を5日後に控えたスカイツリーがすぐ近くにあって、すでに航空障害灯が点滅していた。その白いLEDの光を見て、30年ほど前、曳舟駅前の大きな工場の屋根に群生していたタンポポの黄色い点々を思い出した。まず地蔵坂通り商店会会長の西村寅治さんを訪ねた。西村さんをはじめ、かつてお世話になった方々は変わりなく過ごしていて安堵した。しかし地蔵坂のほうはというと縁日なのに人がまばらで活気がない。
露店は3店舗しか出ていなかった。冬とはいえ少なすぎる。そのうちの1店舗では顔見知りの「テキヤさん」がたこ焼きを売っていた。私のフィールドワークにつきあってくれたのは東京会(仮名)のテキヤがほとんどだった。その方は東京会のテキヤではないけれども、彼が所属するテキヤ集団も東京会と同様に、おそらく近世以前から続く古い集団だ。あいさつをするとうれしいことに私を覚えていてくれた。東京会の方々から教えてもらったことをまとめたと伝えて本書を1冊手渡すと、「字が細かくてダメだ」とすぐに返された。読んではもらえなかったが、とりあえず地蔵坂で商いをする現役のテキヤに本を見てもらえたのでよかった。ではたこ焼きを買って帰ろう、そう思って私はたこ焼きの値段を尋ねた。すると彼は「いいよ」と言う。代金はいらないから、ひとつ持っていけということだ。いまは「新法」でテキヤが困っているから本を出してもらうと助かる、と感謝されたのである。この「新法」とは、2011年10月に施行された東京都の暴力団排除条例のことだろう。
地蔵坂に行った翌日、かつて地蔵坂の縁日のセワニンを務めていたが、すでにテキヤを引退しているS夫妻の千葉県にある自宅を訪ねた。8年ほど前に目印として教えられた県道沿いの看板はすでになく、さんざん道に迷った末に見覚えがある一軒家にたどり着いた。インターホンを押すと妻であるネエサンが出て、夫のSさんも在宅していた。2人とも久しぶりの再会を喜んでくれて、勧められるままに家に上がり込んで本書を差し上げた。そしてコーヒーをいただきながら思い出話に花を咲かせた。
Sさんは、かつて自分が所属していた東京会の近況を少し知っていた。最年長者だった大正生まれのオヤブンは数年前に亡くなり、その下の世代のオヤブンも何人かはテキヤを引退、別のテキヤ集団に「養子にいった」若いオヤブンもいるとのことだった。話の内容から、テキヤ社会の擬制的親族関係が現在でも崩れていないことがうかがえる。また本書で紹介した神農像は、Sさんがテキヤを引退するときに東京会の現役のテキヤに譲ったという。神農信仰も続いているようだ。
江戸=東京は人口が多く、年中行事や祝祭空間も豊富なので、ほぼ常店といっていいような安定した露店商いがおこなわれてきた。それをテキヤたちも自覚している。だから学術的な関心からテキヤの「伝統」を考察する本を出しても、イタリアのカモッラを題材としたノンフィクション・ノベル『死都ゴモラ』を出版したことで、警察の保護下にあるというロベルト・サヴィアーノのようにはなりえない――そんな確信のような思いが下町育ちの私にはあった。本人たちが「テキヤは3割ヤクザだ」と言うのだから、まったく何も心配していなかったといえば嘘になるが、フィールドワークというものは対象によらず、やってみなければわからないものだ。本書の出版からもう1カ月以上がたった。関係者に本を配り歩いて、喜ばれたり、呆れられたりしたが、身の危険は感じていない。「3割ヤクザ」だから「新法」に影響されたりするものの、やはりテキヤは第一に祝祭空間を彩る昔ながらの商人なのだろう。
西村さんに「Sさんの家を訪ねるつもりです」と言うと、「もしSさんに会えたら遊びに来るように伝えて」と頼まれた。Sさんにそれを伝えると「そうね。そのうち行ってみるか」と笑顔で答えた。しかし祝祭空間とは縁が薄い静かな郊外で暮らし、日帰りバスツアーに参加して神社仏閣めぐりを楽しむこともあるという、そろそろ古稀を迎える老夫婦が、引退したテキヤとして地蔵坂に出かけることはおそらくないだろう。西村さんもそれを承知しているような気がする。私も自宅の住所と電話番号をS夫妻に知らせてきたけれども、連絡はないだろうと思っている。