落合真司『中島みゆき・円環する癒し』プロの境界線

 わたしはプロの音楽ライターではない。たとえばコンサートリポートを書く場合、プロの音楽ライターなら「ブレイクするきっかけとなったシングルの『○○○』をステージでどのように唄うかが、今回コンサートを観るわたしのテーマだった」といった筆の運び方になると思う。
 わたしはそれがどうしても許せないのだ。そのライターの考え方はわからなくもないが、どこか押しつけられているようでいやなのだ。その歌を唄っているときの表情と声はどんなだったか、ライトはどのようにステージを染めて、サウンドが客席にどう響いていたかをスケッチしてくれたほうがよほどうれしい。
 それに、書き手がそのアーティストに深く惚れ込んでいることも重要だ。プロというのは、ファンと一緒になって興奮していては話にならない。一歩ひいた冷静な観察が必要だろう。
 しかし、わたしはそれも許せないのだ。ファンと同じ心拍数で熱く語ってくれなければ、書かれた文章に共鳴できない。実にわがままな読者だ。
 わたしは、もし自分が読者ならこんなアーティスト論を読みたいというわがままな理想のもとに中島みゆき論を書きつづけてきた。だから、書くことで食べているいないに関係なく、プロとは言えないのだ。
 アマチュアというより単なるド素人のわたしが青弓社の門を叩いたのは、バブルがはじける直前の1990年1月のことだ。1冊の本がいったい何枚の原稿から成るのかも知らなかったわたしが、原稿のコピーを持ち込んだ。それが中島みゆき論のスタートとなった。
 出版すると思った以上に読者から反響があり、手紙などを通してファンの交流が広がっていった。シリーズ6冊目となった今回の『中島みゆき・円環する癒し』には、そんな多くのファンの声を掲載している。
 11年のあいだに時代は大きく動き、ファン同士の意見や情報の交換はインターネットによっていとも簡単に実現してしまった。一ファンの立場からみゆき論を展開しているホームページも多数立ち上げられている。もうわたしが本を出版する必然性はなくなったのかもしれないと迷いかけたこともあった。
 そんなとき、つぎの本はいつ出るのですかといった手紙を数人の読者からいただき、涙が出そうになった。待ってくれている人がいるんだ。しかも、何カ月もかけてつくる書籍というきわめてローテクな媒体を待ち望んでいる人たちがいる。そこにわたしは愛情を強く感じた。
 アナログだからこそ伝わる言葉のぬくもりがある。言葉は質量のないデジタル記号ではなく、手ざわりも匂いも表情もある生き物なのだ。言葉には治癒力がある。中島みゆきが言葉と表現の可能性にこだわり、言葉による癒しを放射しつづけているからこそ、これはもうなんとしても体温の伝わるアナログで語らなければと決意を新たにした。
 その結果、わたしひとりの力ではなく、書籍としてのみゆき論を待ち望んだ多くのファンの協力によって本は完成した。とくに2000年末のコンサートでは、ステージを観終えた夜の11時から朝の5時半まで友人と激しく議論し、やっと互いに納得できる結論を導き出せたときは本当に快感だった。おかげで遅筆な自分に大きな浮力がついた。
 そう、わたしはおそろしく遅筆である。執筆するために、まるまる3カ月も仕事を休む。そして書くことだけに専念して、やっと300枚書きあげるといったペースだ。仕事をしながら、あいた時間に少しずつ書きためるということができない。
 しかし今回初めて、仕事をしながら原稿を書いた。それも、2冊同時進行で執筆した。自身では革命的なできごとだった。これもすべてあたたかい読者と、青弓社との信頼関係があったからだと感謝している。
 セルフライナーノーツとしては少々力の入りすぎた文章になったが、プロになれないド素人の力みとお許し願いたい。

 著者  miss-m@osb.att.ne.jp

     http://member.nifty.ne.jp/island-miyuki/