古川岳志
初めての著書『競輪文化――「働く者のスポーツ」の社会史』が出版され約4カ月がたちました。競輪の歴史を、競輪を取り巻く日本社会の変化と結び付けながら読み解く内容です。同じ公営ギャンブルの競馬と比べて、競輪は文化として語られることがきわめて少なく、本書は関係者以外が書いたものとしては初めての「競輪史」本になりました。そんな珍しさも手伝ってメディアで紹介いただく機会にも恵まれました(「日経新聞」2018年2月22日付夕刊「目利きが選ぶ3冊」、「西日本新聞」2018年3月4日付「書評」、「日刊スポーツ」〔西日本版〕2018年3月28日付「コラム」、「スポーツ報知」web2018年3月28日「スポーツを読む」)。読んでくださった方からは、SNS(ソーシャル・ネットワーキング・サービス)などを通して多くの好意的な感想をいただきましたし、ブログでとても丁寧な紹介記事を書いてくださった方もいます。また、自転車競技オリンピック元日本代表の長義和さん(本書第5章に登場します)は、ご自身のブログに長文の感想を書いてくださいました。たいへん興味深い内容です。みなさんにもぜひお読みいただきたいです。
本書の「あとがき」にも書きましたが、本書の原型は社会学の博士論文です。出版形式としては一般書ですが、学術書としての質も一定程度保ったものにしたいと考えました。とはいえ類書がないため、競輪世界への案内書・概説書としても読まれるだろうことも意識しました。現状では残念ながら競輪はマイナーです。「競輪って何だろう」と本書を手に取った読者に、まずは競輪を知って関心をもってもらわなければ、始まりません。競輪を知らない人にも、わかりやすく、かつ、競輪の魅力も伝わるように書きながら、研究書としてのオリジナルな考察も盛り込む、という、欲張りな目標を掲げて執筆しました。あらためて読み直してみて、また、読者のみなさんの感想を聞いて、ある程度は目標に到達できたのではないかと甘めの自己採点をしていますが、いかがでしょうか。
私が競輪の研究を始めたのは、大阪大学大学院人間科学研究科の修士課程在学時でした。所属していたのは社会学系のコミュニケーション論(当時の名称)研究室で、最初は井上俊先生が、先生が京都大学に転任されて以降は伊藤公雄先生が指導教官になりました。当時、日本スポーツ社会学会ができたばかりの頃でした。井上先生は初代会長でしたし、伊藤先生も会長をされたことがあります。テーマも未定のまま大学院に進学したのですが、先生方の影響もあってスポーツをテーマにするのも面白そうだなと思うようになりました。そこで注目したのが競輪でした。競輪との出合いについては、本書第1章に詳しく書きましたので読んでいただきたいのですが、別の言い方で付け加えておくと、競輪の境界的な性格に研究テーマとしての面白さを感じたのです。競技内容はスポーツなのに、社会的にスポーツ視されていない、という点。戦後以来、大規模におこなわれてきて日本オリジナルな要素があるユニークな競技なのに、そのわりに人々に認知されていない、という点。スポーツとは何か、スポーツと社会の関係は――そんなことを考えるのに格好の競技だと思いました。何と言っても、競技自体、競輪場という場所自体、とても魅力的なものに自分には見えました。
1990年代中頃のことです。競輪から生まれた「ケイリン」がオリンピック種目として採用され、メディアで取り上げられる機会が増えた時期でもありました。それもあって、自分の目に競輪が入ってきたのだと思います。競輪の歴史を「スポーツの近代化」の過程と重ね合わせて読み解くという修士論文を書き、「スポーツ社会学研究」にも論文を発表しました。おそらく、競輪を真正面から取り上げた初めての学術論文だったはずです。自分としては、それなりに面白く書けたように思いました。しばらくして「「青弓社ライブラリー」の一冊として出版しませんか」と声がかかりました。この「原稿の余白に」で他のみなさんも書いているように「青弓社ライブラリー」は挑戦的なテーマの社会学本を次々に刊行して注目を集めており、若手研究者にとって願ってもないうれしいお話でした。数年で刊行するという約束で、喜んで引き受けました。
それから、このたびの刊行にこぎ着けるまで、なんと20年という長い時間がかかってしまったわけです。こう書くと、まるでコツコツと積み上げた地道な研究がようやく実を結んだ、というように聞こえるかもしれませんが、実情はそんな格好のいいものではありませんでした。気楽にOKの返事したものの、いざ、取りかかってみると、まったく先に進めることができなかったのです。それでも何とか書こうとする、すぐに壁にぶつかる、手が止まる、逃避する、自己嫌悪に陥る、何とかしようと再開するも、また同じことを繰り返す、さらに自分が嫌になる、という悪循環に陥りました。最初に指定された締め切りはすぐにやってきましたが、ほぼ白紙でした。その後、締め切りを何度も延長してもらいました。そのたびに、あれこれ理由をつけて謝りのメールを送っていましたが、やがて編集部からの問い合わせに返事もできなくなってしまいました。20年間の大半は「書かなきゃ」と思うだけで、何もできないという状況だったのです。
本当の「あとがき」にも、また本稿でも「書けなかった言い訳」をあれこれ並べてはいますが、何と言っても、私の努力不足、忍耐力不足、怠惰な生活態度がいちばんの原因です。粘り強く、少しずつでも地道に取り組んでいたら、遅くとも10年前くらいには何とか形にできてはいたでしょう。若い頃にいただいたチャンスをすぐに生かせなかったことは、自分の人生にとって大きなつまずきでした。30代という、どんな職業の人にとっても最も充実しているであろう時期を、逃避的に、しかし内面では原稿が書けなかった挫折感を抱えて悶々と過ごすことになってしまいました。お恥ずかしい話です。そんな日々のことを、本が出版された後に、このように振り返って書けていること自体、なかなか感慨深いものがあります。
この課題にもう一度向き合おうと思い直したのは、いまから3年くらい前でした。比較的待遇がよかった任期付きの仕事が終わり、非常勤講師で食いつなぐフリーター研究者に戻っていました。年齢的に人生の折り返し点はとうに過ぎ、将来の展望も何もないという状態でした。そんな状況でも、なるようになるさと悲壮感は抱かないようにしてはいましたが、現実的な話として数年後には研究と関係がないアルバイトもしなければ食べられないようになることが見えてきました。現状では、非常勤先の大学図書館を利用できたり、夏休みなどに自由時間がある程度確保できてはいます。いまの環境で無理なら、一生、本なんて書き上げられないだろう。ここは一つ、気合いの入れ時ではないか。競輪のほうでも、ガールズケイリンの復活や日韓戦の誕生など、展望がある書き方ができる状況が生まれていました。それも後押しとなり、もう一度出版に挑戦してみようと決意したのです。
こちらから不義理をした青弓社との10何年も前の約束が、まだ生きているとはさすがに思いませんでしたが、他社にあたるよりもまず、最初に声をかけてくれた同社に、もう一度お願いするのがスジだろうと考えました。とはいえ、一度失敗している以上、企画書を作り直してもちかけたところで信用度ゼロです。やはりある程度原稿をそろえてから、あらためて相談するしかないだろう。ということで、原稿を先に書き上げることにしました。約1年後、400字詰め原稿用紙換算で700枚分くらいの草稿ができあがりました。細かいことは気にしないようにして、もっている材料を、頭のなかにあるアイデアを、全部吐き出してしまうつもりで書き進めました。それまで全然書けなかったことがまるでウソみたい、とまでは言いませんが、自分としてはかなりスムーズに筆が進み、ちょっと不思議なくらいでした。
草稿が完成し、いよいよ青弓社に連絡することになりました。大阪大学で実施していた共同研究プロジェクト(GCOE)で知り合った宗教学研究者の永岡崇さん(『新宗教と総力戦』〔名古屋大学出版会、2015年〕の著者)のアドバイスで、宗教学・民俗学の川村邦光先生に仲介のお願いをすることにしました。私は社会学が専門なので、競輪的にいうと「別ライン」なのですが、先生中心の飲み会によく参加させてもらったり、何かとお世話になっていました。先生は、青弓社でデビューし(『幻視する近代空間』1997年)、その後も多くの編著書を青弓社から出しています。事情をお話すると二つ返事で引き受けてくださり、私が渡した草稿、企画書、経緯説明文に、推薦文を添えて編集部に送ってくださいました。
青弓社から、すぐに好感触の返信がありました。矢野未知生さんとお会いすることになり、晴れて出版に向けて再び動き出すことになりました。矢野さん曰く、内容は面白いが、いかんせん長すぎる、とのことでしたので、200枚分くらい圧縮することになりました。あらためて、約半年後に締め切りが設定され、書き直しにかかりました。若干の遅れはありましたが、だいたい予定どおり脱稿できました。カットした部分には、坂口安吾事件に関することや、旧女子競輪のより詳しい歴史、田中誠『ギャンブルレーサー』(講談社、1988―2006年)以外の競輪マンガ紹介などを書いていましたが、それらについてはまたの機会にふれたいと思います。
そんなこんなで、なんとか刊行にまでたどり着きました。人生の重い宿題になってしまっていた仕事を、それなりに満足できる形で片づけることができて、心からホッとしています。一時期は、自分にはもう書けないものだと諦めていたものですから、何となく夢のような気もします。そして、こうして本になったものを手に取って見ていると、何でもっと早く書かなかったのか、もっと早く書けていれば人生違ったかもしれないのに、という後悔の念がやはり湧いてきます。その一方で、自分の能力ではこれくらいかかっても仕方なかったのかもなぁ、と感じたりもしています。
本を書くにあたって、気になっていたことはいろいろありますが、なかでも大きな心理的ストッパーになっていたのは、はたして競輪ファンが納得するようなものが書けるだろうか、という不安でした。競輪は、広い意味でポピュラーカルチャーの一つです。ファンがいます。ファンはもちろん多種多様で、楽しみ方や思い入れも、人それぞれではあるでしょう。ですから、どんなファンにも受け入れられるような書き方など無理に決まっていますが、少なくとも好意的に読んでくれた競輪ファンに、こいつは何もわかっていないな、と思われるような書き方だけはしたくないと思っていました。
私は、思い入れがあるジャンルに関する本が出るとぜひ読んでみたいなと思う一方で、警戒心のようなものも抱く性分です。「ロクにわかってないやつが、ナニ学だか何だか知らないが、自分の業績にするためのネタ探しにやってきて、ファンなら誰でも知っているようなことを書き並べ、コケオドシの専門用語で分析してみせているだけの本じゃないのか?」――そのような疑念をまずはもってしまうのです。取り立てて関心がない世界についての本なら、へぇ、そうなのね、と素直に読めますが、自分にとって大事なもの、に関しては、どうしてもそうなります。自分には「全然わかってない!」と感じられる記述が、そんなものだと世間に受け入れられ、そんな本の書き手が、その世界を知る代表者のような顔をして語ったりしているのを見るのはたいへん不愉快です。ああ、なんて器の小さな人間なんだろう、とわれながらあきれますが、観察し、分析し、記述するという行為には、書かれる側にとって、少なからず暴力的な側面があるものなのです。
出版の話をもらったのは、競輪というテーマが珍しいものだったからなのは間違いありません。類書がない以上、一般の方への競輪イメージ形成に、よくも悪くも一定の影響を与えることになるはずです。書くことの暴力性から、完全に逃れることはできません。だとしたら、せめて競輪の魅力について、そして競輪そのものについて、ちゃんとわかったうえで書いている本だな、とファンの多くに感じてもらえるように書きたい、と強く思いました。
そのうえで、競輪に詳しいファンが読んでも新しい知見が得られるような、自分の好きな文化について違った角度から見る楽しみを与えられるような、そういう本にしなければならない、とも考えました。競輪を知らない一般読者を意識して書いたとしても、実際のところ、最初に手に取ってくれるのは競輪ファンですから。
このように、いろいろ自分に縛りをかけていました。書きあぐねていた頃の自分には、そんな書き方ができる自信がほとんどありませんでした。若いうちに書くモノなんて未熟なものに決まっているのだから、エイヤッと形にして、批判を受け止める覚悟をもつべきだったな、といまとなっては思います。自分で自分の首をしめて何も書かないより、下手でも何でも書いてみたらいいじゃないか、そのほうがずっとましだよ、と若い頃の自分にアドバイスしてやりたいくらいです。私には、評価にさらされる勇気が不足していました。もっとも、こんなふうな理屈をつけて、手がかかる仕事から逃避する言い訳を探していただけかもしれませんが。
今回、実際に執筆するにあたって採用した方法・方針は本書の「あとがき」に記述しています。外部からの観察者であり、かつ競輪ファンでもある、という自分自身の視線の偏りを自覚しながら、資料に基づき客観的に競輪と社会の関わりをひもといていくことをめざす、というきわめてオーソドックスなものです。章ごとに、都市文化やスポーツの近代化、ジェンダーやナショナリズムなど、社会学的なテーマ設定をして記述しています。そして、競輪運営団体や選手、スポーツ新聞記者など、利害関係者が書くなら避けて通るかもしれない事象についても、ある程度踏み込んで記述しています。それによって、競輪界の「中の人」からは見えない、競輪の社会性のようなものを浮かび上がらせられるのではないか、と考えてのことです。
しかし、執筆方針が明確になったのは、書き進んでいくなかでのことでした。「あとがき」は、実際に原稿ができあがった「あと」で書きました。方向性が確定したから書けるようになった、というわけではないのです。では、どうして、以前はまったく書けなかったものが、何とか書けるようになったのか。状況的に追い詰められて、こだわっていられなくなった、とか、いろいろ要因はあるでしょうが、決定的なのは、私が競輪を見始めて20年という時間が経過した、ということだと思います。何とも当たり前の話ですが、20年前より、私は、競輪に詳しくなりました。そして、競輪に対する思いも深まりました。
最初の締め切りの頃に書き上げていたら、おそらくもっと内容的に薄っぺらいものになっていたと思います。いかにも「研究者が調べて書きました」というような。今回できあがった本も、研究者が調べて書いたものにはちがいないのですが、もう少し地に足がついた感じで書けているように自分では思います。詳しくなった、と言っても、いまでも当然わからないことだらけです。SNSなどを通じて熱心なファンの方々を知るようになると、自分より詳しい人など星の数ほどいるなぁと痛感しています。車券も全然当りませんし(これは別の話ですが……)。それでもしかし、20年たって、自分なりの見方で書いても、ファンの多くの人に納得してもらえるだろう、という、何となくの自信をもてるようになったのです。
ときどき、無性に競輪場に行きたくなります。楽しいから、面白いからであるのはもちろんですが、競輪場という空間に身を置いていたいという気持ちが、まずあるように思います。競輪場にはいろんな人がいます。自分の力で賞金をもぎ取って生きる選手たちを、自由で飾らないファンたちが取り囲んでいます。競輪場には、どんな人間でも受け入れてくれる寛容さがあり、かつ、お互いの金を取り合う場所らしい、一定の距離感もあります。あくまでも私の場合は、という話ですが、人生があまりうまくいっていないときにこそいきたくなるような場所でもあります。
私が初めて足を運んだ競輪場は、阪急ブレーブスの本拠地、西宮球場の仮設バンクで開催されていた西宮競輪場でしたが、2002年に廃止されました。同時になくなった甲子園競輪場とともに、私のホームバンクでした。いまではこの世に存在しない、これらの競輪場が懐かしくてたまらなくなることがあります。楽しい思い出がつまった場所、というより、どちらかというと、クサクサした思いを抱いて帰ってくることが多い場所でした。それでも、何とも懐かしいのです。
競輪は(その他公営ギャンブルとともに)、健全な娯楽ではないかもしれません。それでも、足しげく通っている人には、それぞれの思いがあるはずです。それを踏みにじらないような本を書きたいと思いました。私が、もっと有能な社会学者なら、インタビューやアンケートなど、いろんな手法を使ってそれをあぶり出す、ということができたかもしれませんが、自分には無理でした。そして、あまり積極的になれませんでした。ファンの気持ちを理解したいと思いながら、調査はしたくない、なんて考えていたら、そりゃ書けなくて当然です。しかし、20年という期間、ときに競輪場に足を運び、ファンと同じ空間の空気を吸い、レースを見て、車券を買って損をして、を繰り返していくうちに、自分の感覚で「ファン目線」を描いても、そんなにずれていないだろう、と感じるまでには「調査」が進んだのだと思います。あまり、調査とか、フィールドワークなどという大げさな言葉は使いたくないですが。実際は、車券を買って、レースを見て、遊んでいただけですから(これらの調査はすべて、当然ながら自費でやっています。念のため)。
最初に西宮競輪場の雑踏に紛れ込んだときの自分は、まわりから見たら「大学で論文を書くためにきた若者」感、丸出しの姿だったでしょう。いまでも、観察してやろうといういやらしい視線を自分がもっていることは否定できないですが、まずまずあの空間になじむようになってきたと思います。つるつるした顔で、きょろきょろまわりを気にしながらレースを見ていた兄ちゃんも、最近では予想紙の小さい文字を読むのにメガネをはずして、遠ざけて見ないとつらいようになりましたし……。競輪ファンの高齢化は進んでいて、競輪場では、自分でもまだまだ若手だったりもするのですが。ともあれ競輪が、私の人生の大きな部分をしめるものになっているのは間違いありません。
単著「デビュー作」の「あとがきのあとがき」にしては、何ともパッとしない話をしていますが、このような感じで、心を込めて書いた作品です。まだお読みでない方は、ぜひぜひ、ご一読くださいますようお願いいたします。
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長くなりましたが、あと2点だけ書きます。1つは、本書の「あとがき」には書けなかった選手のみなさんへの感謝です。特に、元選手の後閑信一さんには、お礼を申し上げたい気持ちでいっぱいです。直接取材させてもらったわけではありません。ですが、後閑さんが吉岡稔真さんとの対談(電投会員向け広報誌「Winning Run」2015年12月号)で語られた言葉によって、本書のサブタイトルにした「働く者のスポーツ」というテーマは、より明確になったと感じています。「競輪選手は肉体労働者だ、職人だ、そう思って頑張ってきた」。後閑さんは対談でこう語っていました。ファンのみなさんは、後閑選手らしい言葉だなと受け止めたと思います。私もそうでした。そして、この言葉によって、本書は完成させられるなと感じました。
「働く者のスポーツ」は、競輪創設者の倉茂貞助が、競輪の実現に向けて動いていたときに作った文書内の文言です。そんな競輪誕生に関わるキーワードが、70年の時を超え、現代のトップ選手の言葉とリンクして見えてきました。もともと「プロスポーツとしての競輪」については考えていたのですが、「働く者」「肉体労働」という言葉を使うほうが、よりリアルに「社会のなかの競輪」を捉えられると思いました。「選手には肉体労働の側面がある」と、私のような観察者が他人事として書くのと、選手本人が自分の信念を表す言葉として言うのとでは、重みがまったく違います。お礼を言われてもご本人は困ると思いますが、後閑さん、本当にありがとうございました。
ファンのみなさんはご存じのとおり、後閑さんがトップクラスの実力を保持したまま現役引退を宣言したのは、2017年の年末でした。本書の原稿完成の後でしたので、校正のときに慌てて「元選手」に修正しました。一部、「後閑選手」という記述が残っているのは、その名残です。ちなみに、後閑さんは1970年生まれで、私と同い年です。自分が原稿を書けずに緩い生活を送っている間にも、厳しいトレーニングを続けトップクラスを維持してこられたのだと思うと、頭が下がります。競輪選手には長く活躍する選手も多く、20年前、私が競輪を見始めた頃に走っていた選手で、いまでも現役の方もかなりいます。なかには、後閑選手のようにずっとS級を維持してきたという方も。
劇作家の寺山修司は、競馬に関するエッセーで、ファンが馬券を買うのは自分自身を買うことだと表現していました。若い頃から努力して先頭を突っ走ってきた人は先行馬に、大器晩成を期する人は追い込み馬に自分の願いを込めるのだ、というように。競輪の車券購入にも同じような側面はあるでしょう。ただ、馬と違い相手は生身の人間です。競輪選手たちからは、競走馬よりはもっと生々しいメッセージが送られてきているように思います。「こっちは、自分の生き方を、さらして見せているけど、そっちはどうなんだ?」。選手は、客のヤジに言葉で反応することは禁じられていますから、あくまでも無言のメッセージです。同世代の選手がバンクで戦う姿を見て「自分はいったい何をやっているんだろう」と情けない気持ちになったことが、私には何度もありました。そして、ベタな表現で恥ずかしいですが、自分もがんばろう、という気持ちになったことも。
後閑さんとは面識はありませんが、直接、話を聞かせてもらった選手もいます。ただ本書の「あとがき」の謝辞では、選手の個人名をあげるのを控えました。もしかしたら、ご迷惑をおかけするかもと心配したからです。
私としては、誠意を込めて、競輪を応援する気持ちをベースに本書を書きました。微力ながら、競輪の認知度を高めることに貢献したいとも願っています(実際に、競輪を知らなかったという読者から、競輪に関心をもつようになったという感想もいただいています)。ですが、本書の記述内容は、運営組織が広報したい競輪像からは若干はずれたものになってはいます。それでなくては社会学者の私が書く意味がありませんから、それは当然だと思いますが、そのため、関係者からするとちょっとさわりにくい本なのかもしれないな、とも感じています。多くの方が仕事として関わる世界ですから、受け取り方は立場によってさまざまなのは当然です。
一ファンとしての私は、JKAを代表とする運営組織の現状や広報戦術について、いろいろ思うところがあります。こうしたら、ああしたら、と、「twitter」などで「文句」を言うこともあります。しかし、本書は、そのような短期的な問題意識からではなく、もっと広い視点に立って書いたものです。競輪PRにとって一見否定的に映る事例についても、競輪という文化を読み解くために必要だと判断したことしか扱っていません。ジャーナリズム的な視点からは読者を引き付ける要素になりそうなことであっても、本書の目的とは関係ないと判断しふれていない事象も多くあります。読んでいただいた人には蛇足だと思われますが、念のためその点を明確にしておきたいと思います。
本書の「あとがき」に書いたように、本書はファンの視点、観客席側から得られる情報だけで構成しています。次の本を出すチャンスがあれば、選手の視点にもっと踏み込んで書いてみたいと思います。バンクのなかからはどんな景色が見えるのか。教えてやってもいいという選手(現役、OB含め)がいらっしゃいましたら、ご連絡をいただければうれしいです。くしくも、今年は競輪誕生70周年にあたります。結果的に、アニバーサリーイヤーでの刊行となりました。未来に向けて、競輪の歴史を振り返る機会として、本書は『競輪70年史』が出るまでのつなぎの役割くらいは果たせるのではないかと考えています。関係者のみさんからの感想やご批判も、ぜひお聞かせいただきたいと願っています(編集部をとおしてでも構いませんし、「facebook」には本名で登録していますのでそちらでも大丈夫です。お気軽にご意見をお寄せください)。
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最後に、刊行後に気づいた点、ちょっとした後悔について書いておきます。これから本を出される方の参考までに。
20年前、最初に出版のお誘いを受けたのは、社会学選書シリーズ「青弓社ライブラリー」の企画だったのは既述のとおりです。このたび、再挑戦となった折にも、「青弓社ライブラリー」として出すかどうかという選択がありました。「青弓社ライブラリー」に入れるには、分量的にもっと削る必要があるとのことでした。カバーデザインも含め、通常単行本形式のほうが自由度が高く、広い読者に届くかもしれない、ということでこのスタイルを選びました。本の完成度を高める意味では正しい選択でした。ただ、読者層は、「青弓社ライブラリー」の一冊だったほうが広がったかもしれないなとも感じています。
本が出てすぐ、大阪梅田の紀伊國屋書店に足を運びました。いつも立ち寄る社会学関係棚には1冊もなく、あったのは「趣味/実用書」コーナーの「ギャンブル」棚の片隅でした。「競輪」と書いた仕切り板に挟まれていた数冊の予想ハウツー本の間に、ひっそりと(これは主観ですが)置かれていました。『競輪文化』が競輪の棚にあるのは、至極当然なのですが、正直ガッカリしました。これでは、競輪を知らない人に、偶然手に取ってもらう可能性はゼロに近いなと思ったからです。趣味を深めるという意味では「役に立つ」本だと自負していますが、一般的な意味での実用書ではありませんし。
ネット書店とは違う、リアル本屋さんのメディアとしての魅力は、何げなく立ち読みに来たようなお客さんと、未知の本とをつなげる点にあると思います。「青弓社ライブラリー」で出していたら、社会学の棚にも置かれたでしょう。青弓社から同時期に出た、笹生心太さんの『ボウリングの社会学』や、話題作になっている倉橋耕平さんの『歴史修正主義とサブカルチャー』の近くに置いてもらえていたら、どこかで意外な出合いがあったかもしれません。20年前に話をいただいたときの書名案は『競輪の社会学』でした。何となく、競輪ファンに誤解を与えるんじゃないかという懸念もあって(うまく理由が説明できないのですが)、今回は社会学を書名に入れない方向でいこう、と考えていました。不要なこだわりだったような気もします。内容に照らして、現在のタイトルと副題は、適切なものですし、シンプルでわかりやすくなったと思っていますが、書名に「社会学」が一言入っていれば、そちらにも置かれただろうことを考えると、ちょっともったいない選択だったかもしれません。まぁ、「小手先」の話ではありますが。
本書は、社会学、スポーツとしての自転車(「乗る自転車」ブームで紀伊國屋書店にもかなりの点数の本が並んでいました)、ノンフィクション、戦後史、サブカルチャー、などの棚と親和性の高い内容だと思います。もし、書店関係者でごらんになっている方がいらっしゃいましたら、いまからでも、ご一考くださいますよう、よろしくお願いいたします。
大学院時代の指導教官の伊藤公雄先生は、本を出すなら10年は読めるものを書くべきだ、と言っておられました。ちなみに、伊藤先生のデビュー作も青弓社でした(『光の帝国/迷宮の革命』1993年)。本書をそこまで長生きさせられる自信はありませんが、東京オリンピックに向けて競輪、自転車、スポーツ界でいろいろ動きがありますし、スポーツをめぐる社会問題が話題になることも続いています。また、カジノをめぐっていろんな議論もなされていますので、まだしばらくは、本書で考察したことの社会的な需要はあると思います。
さらなる出合いを期待して、長い「言い訳」を終わります。