既視感?――『戦時下女学生の軍事教練――女子通信手と「身体の兵士化」』を出版して

佐々木陽子

 いまから80年以上前、太平洋戦争が勃発した日の女学生たちの興奮や熱気が、元女学生の語りから伝わってきた。日米開戦を知ったとき、校庭に集まった生徒も教員も異様な熱気に包まれたとのことだ。なかには、裏付けがない勝利への確信だけではなく、漠とした不安を抱いた者もいただろうが、異様な熱気はこうした不安や混沌とした思いを吹き飛ばすに余りあるものだったようだ。あの異様な興奮を昨日のことのように思い出すと語った人もいた。
 戦争勃発によって平和は簡単に壊すことができても、戦争を終わらせ平和を再生することは難しい。2022年2月、ロシアのウクライナ侵攻で始まった戦争の泥沼化を見れば一目瞭然だろう。いま、日本では、北朝鮮によるミサイルの連続打ち上げ、中国による台湾への武力侵攻の恐れなどの不安定要素を理由に、日本の「専守防衛」が標語にすぎないことを明かすかのように、防衛費拡大のタガが外される方向へと動きだした。日本は「専守防衛」を掲げ「敵基地攻撃能力はもたない」と言明してきたが、自国を守るために「反撃能力」が必要だと叫び始めた。従来の規模からは考えられない防衛費の拡大を政府は打ち出し、いつの間にか、防衛費拡大の車輪が動きだした。こうした潮流を抑制することがどれほど困難かは想像に難くない。どうしてこうした変化が私たちの日常に忍び込んでくるのだろう。緊迫感漂う東アジア情勢のニュースが流され、「反撃能力」をもたなければ日本は危険にさらされると叫ばれる。私たちの政治への無関心や諦念や絶望、そして想像力の欠如の隙間に、こうした危機意識をもつことこそが現実的であるという言説が入り込んでくる。防衛費拡大の潮流ができてしまえばそれに流されていることにも気づかず、変節を変節と指摘することも困難になる。どこまで防衛費を拡大しても安全・安心が得られないことを、私たちの知性は知っているはずなのに。
 15年戦争では兵役を担う男性兵士だけでなく、本来は労働動員と無関係で学業を本業とするはずの女学生も動員が強制され、彼女らの身体は戦時国家に領有され収奪されていった。自分のものだったはずのこの身体は、いつしか当人のものではなくなっていった。だが、兵役にしても労働動員にしても、国家による国民の身体の「領有だ」「収奪だ」と叫べば「非国民」呼ばわりされる。同調圧力が強まれば、これに真っ向から抗うことは、困難にちがいない。本書では女学生の身体が軍国主義の潮流のなかでどのように変容していったかを追った。「ぜいたくは敵だ」「外地の兵隊を思え」といわれ、我慢競争のような日常へと切り替わっていき、極度な精神主義に塗り固められた教育現場では、日本が勝利することを当然視する空気が充満したという。「戦争なんか早く終わればいい」「一日でも早く家族が戦地から帰ってくればいい」という本音や実感は、いつしか語られなくなる。それどころか、戦死を名誉とみなし、靖国に祀られれば「英霊」「軍神」と称えられたが、「どうしてあれほどまでに多くの生命が軽んじられ犠牲にならねばならなかったのか」という問いは封印された。個性を失った死者は国家の名の下に祭祀対象とされ、個別のはずの死は「英霊」に総括される。本音や実感が禁句になり、「報国」「忠君愛国」という標語が満ちるとき、国家のために死ねる覚悟の国民創出に戦時国家が成功を収めたことを意味するのだろう。
 女学生の身体性が男性的なるもの・兵士的なるものに接近することが歓迎される時代が到来するとは、戦前には思ってもみなかっただろう。だが、戦争が総力戦である以上、女学生をも巻き込んで戦争は遂行された。軍事教練に励む女学生のなかには、体力第一主義の教育を嫌った者もいただろうが、一方で「女ならそんなことはするな」「女ならしとやかでいろ」という抑止的・静止的な身体性が、軍事教練などの実施によって変容していくことに解放感にも似た思いを抱いた女学生もいただろう。女性を排除した組織とされてきた軍隊にも、女性が軍属である通信手として参入し、男性通信手に代替して任務を果たした。過度な精神主義が合理的な思考、科学的知識を凌駕すれば、紋切り型の標語が充満し、実感や本音は葬り去られる。今日の軍拡の動きに照らすと、戦時下女学生の体験は、決して現在の社会と無関係なものとはいえないだろう。

 本書を一人でも多くの人に手に取ってもらい、時代に変容が生じ、いつしか潮流ができあがってしまえば、対抗が困難になることなど、現在の日本のありように思いをはせることにもつながればと願ってやまない。