ソーシャルメディア時代の「模型」と「本」(「世界」あるいは「人」の媒介性)――『模型のメディア論――時空間を媒介する「モノ」』を書いて

松井広志

 安直な「時代診断」にくみするのは慎重でなければならないが、やはり現代ほど人々の「つながり」が重視される時代はないだろう。こうした傾向は、勤務校で日常的に大学生と接していると顕著であり、まさに「友だち地獄」(土井隆義)的なコミュニケーションの時代だなと思う。また、そうしたつながり自体をビジネスとして活用するインフルエンサー・マーケティングも盛んで、なるほど、単にSNSが普及しているというだけでなく、上記のような意味で現代は「ソーシャル(=人々のつながり)メディアの時代」かもしれない。
 そうしたなか、本書のテーマである「模型」は、一見レトロな対象に映るかもしれない。たしかに、戦前期からメディア考古学的に記述した(特に戦時下の重要性も強調した)本書の「第1部 歴史」については、そうしたイメージは的外れではない。ただ私は、本書を単なる「懐古趣味」の本にしたくないと考えていた。「第2部 現在」「第3部 理論」という他の部も含ませた構成や、特に「理論」の「「モノ」のメディア論」の章ではそのことを理論研究という(ある意味では難解な)かたちで書いたが、ここではエッセーという機会を借りて、別の方向から述べておきたい。
 そもそもメディアについての学術的な捉え方としては、(「こちら側」の主体をとりあえず「人」に限定するとしても)「人と人をつなぐ」場合と「人と世界をつなぐ」場合と、2つのパターンがある。「つながり」を求める時代とは、ある意味では、前者の「人と人をつなぐ」パターンのメディアが中心となった社会だろう。逆に言うと、現代社会では、後者の「世界とつながる」ような体験をもたらすメディアがマイナーになりつつあるのかもしれない。
 私はいまのところ「模型」や「ゲーム」といったメディアとそれをめぐる文化を主たる研究対象にしているが、これらに着目する理由のひとつは、「人と世界をつなぐ」ほうの媒介性を強くもっているからだ。
 もちろんこれらに「人と人をつながる」媒介性、例えばコミュニティーをつくる機能がないわけではない。例えば、ゲームの場合、「マルチプレイ」と呼ばれる多人数によるプレイとそれに伴うコミュニケーションが、魅力の片面を占める。
 しかし、もう片面では「シングルプレイ」の領域も大きい。ロールプレイングゲームやアドベンチャーゲームが形成する虚構世界(イェスパー・ユール)に一人で(ときに寝食を忘れて)没頭するのは、広く見られる振る舞いだ。私はこうしたシングルプレイの体験を、けっしてネガティブに捉えたくはない。それは、「人と人」のつながりを絶対視するメディア観では低い価値しか与えられないかもしれないが、「人と世界」をつなぐという視点から見たとき、メディアの、文化の、そして人間社会の、何か重要な部分領域を示しているように思えるからだ。そうした「別の時空間とつながる」メディア経験こそが、(やや強く言うならば)人間らしさのひとつなのではないだろうか。
 上記の視点に立ったとき、これまで(アカデミックな領域の)研究がほとんどなかった(少なくとも、それを主たるテーマにした単著レベルの研究書は存在していなかった)模型が、とたんにメディア研究の重要な対象として立ち現れてくるのである。
 模型は(もちろん他人と一緒につくる場合もあるが)基本的には「孤独」な作業で、一人で組み立てはじめて、独力で完成される場合が多い。こうした模型は「人と人」をつなぐメディアとしてはマイナーである。しかし、だからこそ逆に、ときに自己の内面と対話しながら「いま・ここ」とは異なる「時空間」を想像し、目の前にある具体的な「モノ」を創造していく模型が、「人と(異なる)世界をつなぐ」性質を帯びる。これこそ、私が模型をテーマとした理由だったのだ。
 *
 続いて後半では、本書の内容から少し離れて、本書自体を「メディア」と捉えた所感を述べておきたい。
 前述したようなメディアの2つの捉え方は、もちろん「本」というメディアでも成り立つ。私は(ここまで読んでいただいた方ならおわかりのとおり)どちらかというと「世界」とつながるほうの媒介性を魅力と感じ、数多くの本を読んできた(これは文学作品でも学術研究書でも同じだ)。
 ただ、本書の出版の後は、図らずも(オーソドックスな)「人と人をつなぐ」ほうの媒介性の大事さを再認識する出来事がいくつもあった。端的には、出版というメディアがつなぐ、こちらが想定していない(あるいは想定を上回る)読み手の応答である。
 まず、驚いたのが、松岡正剛さんによる書評サイト「千夜千冊」で取り上げられたことである(http://1000ya.isis.ne.jp/1648.html)。ここで、編集工学者である松岡さんによって、玩具文化史や大衆文化論ではない「模型の思想」の本と紹介されたことはたいへん光栄だった。さらに、近年のモノ理論(Thing Theory)やオブジェクト指向存在論(Object Oriented Ontology)と呼応する「もの思想」に連なるとの位置づけは、本書の理論的含意を適切に把握してくださっていて、ありがたかった。そこに松岡さんの持ち味である該博的な知識に裏打ちされた具体的な模型体験・模型史の記述が加わり、第一級の書評となっている。まだの方はぜひご一読いただきたい。
 また、「超音速備忘録」(http://wivern.exblog.jp/27063703/)や「徒然日記2~モデラーの戯言」(http://maidomailbox.seesaa.net/article/452814745.html)など、模型製作者(愛好者)のブログでのいくつかのレビューがある。そもそも私は本書を典型的な学術書のフォーマットで書いていて、専門であるメディア論や社会学には限らないとしても、ある程度人文学・社会科学の背景知識が必要な内容になっている。もちろん、さまざまな人々に広く読まれたいという思いも強かったので、記述のしかたは可能なかぎり平易になるよう心がけてはいた。しかし構成・文体などは学術的な専門書であるため、その意味では決して読みやすい本ではないように思う。それにもかかわらず、熱心な模型製作者(モデラー)によるブログで本書が書評されており、しかもそれぞれの視点からしっかり読み解いてくださっている。実作者(それも熱心な方々)にも届いたのは(幼少期から現在まで模型製作をおこなってきたひとりとして)本当にうれしかった。
 さらに、異分野の専門家からのリアクションがあった。例えば、建築設計事務所オンデザインが運営する、新感覚オウンドメディア『BEYOND ARCHITECTURE』(http://beyondarchitecture.jp/magazine/)から本書を読んだという連絡があり、オンデザインの代表である建築家・西田司さんと「模型と人とメディア」というテーマで対談することになった。同事務所は建築模型をとても細かく作ることで知られていて、昨2016年から「模型づくりランチ」という一般向けのワークショップまでスタートさせている。その背景には、建築模型が「施主と建築家を結ぶメディア」だという考えがあると聞いた。西田さんとの対談は、『BEYOND ARCHITECTURE』の「ケンチクウンチク」というコーナーに、11月末くらいから公開されるとのことだ。
 これらはすべて、筆者が属しているメディア論や社会学といった学術的コミュニティーの外からの応答である。ソーシャルメディアによる即時的で断片的な情報(接収)がメジャーになる時代にあって、スローペースではありながらも、さまざまな「人と人」を確実につないでいくのが出版物なのだなと、その重要性を改めて強く実感した。さらにこれは、もうひとつ別の媒介性である「世界をつなぐ」という観点から見ると、ある知的世界(メディア論・社会学)と他の知的世界(編集工学、模型製作、建築の世界)が『模型のメディア論』を介してつながったと、(少しおおげさには)記述できるかもしれない。
 *
 最後に、本書の読書会がいくつか計画されているので、告知させていただきたい。現時点(2017年11月1日)のところ、東京と名古屋の2カ所が決定している。希望される方はどなたでもご参加いただけるので、松井までご連絡ください(hirodongmel@gmail.com)。それぞれの幹事につなぎます。
・2017年12月17日(日)14:00-17:30、東京大学・本郷キャンパス
 (主催・モノ-メディア研究会、幹事・近藤和都さん、評者・谷島貫太さん、永田大輔さん)
・2018年1月27日(土)、愛知淑徳大学・星ヶ丘キャンパス
(幹事・宮田雅子さん、評者・伊藤昌亮さん、村田麻里子さん)
 他に、関西(大阪市立大学)でも2018年春までに計画されているので、決まり次第、筆者の「ツイッター」(https://twitter.com/himalayan16)などで告知します。

 

一生の趣味として楽しもう!――『まるごとアコギの本』を書いて

山田篤志

 本書は、私が運営するサイト「初心者のためのアコースティックギター上達テクニック」(http://ac-guitar.com)にこれまで書いた原稿に加筆してまとめたものです。私にとって書籍の執筆は初めての経験で、右も左もわからない状態で書き始めました。実際のところは既存のサイトをもとに執筆したので、一から企画や構成を考える必要もなく、素人の私でも執筆はそれなりに進み、楽しい作業になりました……と思っていたのですが、それは私だけだったようなのです。

 7月31日に本書が発売されて、すぐにお盆がきました。毎年、お盆には実家に帰省するのが恒例となっていて、今年も妻と2人で戻りました。私の両親も本書のことを気にかけてくれていたようで、当然のように話題になりました。
父:「執筆は大変だったろうね?」
私:「まぁ、そうでもないよ。既存のサイトをまとめ直しただけだからね」
鬼の形相の妻:「そんなことないでしょ。だって、用事を頼んでも執筆中だからって全部断ってきたじゃない。理由を全部締め切りのせいにして、あたかも売れっ子作家になったかのような言い草だったでしょ!!(怒)」
鬼の形相の母:「(私に向かって)そりゃー、アンタが悪いわ!」
私:「えっ、出版おめでとう…じゃなくて!? 俺が悪いの!?」
 まぁ、こんなものです。いまから考えると妻には迷惑をかけていたかもしれませんね。青弓社にも……。この場を借りてお礼を申し上げます。

 さて、本書では「アコギは趣味として楽しいよ、一生の趣味になるよ」ということをわかりやすく解説したかったのですが、本当に読者に伝わっているかどうかが気になるところです。実際には、発売から2カ月がたった現在、「ツイッター」や「アマゾン」のレビューなどで少しずつ反響があり、まあまあ伝わっているなという感じで、ホッとしています。
「基本部分から歴史やコード理論など非常に勉強になりました」
「アコギに興味を持たせる、さらにはアマチュア演奏家として弦楽器に興味を持たせてくれる本としては非常に秀逸」
「リズムを意識したり、耳コピにチャンレジ、さらにはオリジナルの作曲まで視野を広げることが可能になる本だと思う」
 こういうご好評をいただくことは書き手冥利に尽きます。本当にありがとうございます。

 本書の「あとがき」でも書いたように、アコギを趣味としたとき、その可能性は2つあると思っています。
 1つ目は人生を豊かにするということ。豊かな人生といっても人それぞれで、私が押し付けるようなものでないことは十分に承知していますが、趣味を持つと人生が豊かになるといいます。まったくそのとおりだと思います。
 趣味の定義も難しいのですが、私は「自分が没頭できるもの」と考えています。人に認められなくても、お金にならなくてもいい、忙しいときでも時間を作ってまでもやりたい、たとえ上達しなくてもそれをやっていると楽しい、仲間が増えて一緒に盛り上がりたい……そういったものが趣味なのでしょう。
 例えば私の場合、友人の誕生日会で「「ハッピーバースデートゥーユー」を弾いて!」と言われればすぐに、子どもに「「アンパンマンのマーチ」を弾いて!」と言われればその場で、弾いてあげたいのです。うまく弾けなくてもいいのです。その場が盛り上がって、みんながハッピーな気持ちになることが大事だと思っています。
 また、過去に私のサイトを見た人から、こんなメールをいただきました。
「このサイトを見て基本の大切さを切に感じました。C→F→Cのチェンジが2週間でなんとか弾けるようになり、はずみがつきました。これからも貴サイトでレッスンを続けていきます。病院でボランティアをしているので、早く上達して、入院している方を少しでも元気づけられたらと思っています」
 うれしかったですね。とても穏やかな気持ちになりました。

 2つ目は自分の演奏をインターネットで世界中に配信できること。自分の演奏を録音したり動画に撮ったりして発表することも簡単にできます。そのあたりのコツも本書に書きました。もちろん私もSNSを使って楽しんでいます。会ったこともない外国の人と、翻訳ソフトと闘いながらメールでやりとりしています。趣味をきっかけに世界中の人とつながることは本当にすばらしいことです。

 アコギは奥が深いのでプロレベルまで極めようとすれば難しいのですが、趣味での演奏なら弾けるようになるまで時間はそれほどかかりません。このような可能性があるので、「音楽が好き、カラオケが好き」という方はぜひ本書を読んで、アコギを趣味としていただきたいのです。
 さらに、本書で書けなかったことも含め、私が運営するサイト「初心者のためのアコースティックギター上達テクニック」で少しずつですが更新しています。興味がある方は、ぜひのぞいてみてください。
 みなさんのアコギライフがすばらしいものになるよう切に願っています。

 

ロンドンでは本書を片手に巡り歩いてほしい――『ブリティッシュロック巡礼』を書いて

加藤雅之

「いま思えば、行っておけばよかった」――年を経るにつれて、こんな後悔が増えてくるのは自然の成り行きだろう。
 学生時代に熱心に聴いたブリティッシュロックを本場で体験しようと思ったのは、ロンドンに転居してから3年がたち、娘の学校への送り迎えから解放されてからだ。ロンドンに住んでいるのだからいつでも伝説のロッカーたちのコンサートへ行けるだろう、そんな甘い考えを捨てることになったきっかけは、ファンだったクリームのベーシスト、ジャック・ブルースの死(2014年10月25日)だった。
 調べてみると、ジャックはさまざまなフォーマットで6回は来日している。仕事で忙しかったり、ジャズやクラッシック、はたまたイタリアポップスなどロック以外の音楽に関心が移っていたり、と理由はいろいろある。ただ、改めて思い知ったのは、演奏する側にも聴く側にも、時間は迫っているということだ。それから、「冥途の土産ツアー」と勝手に銘打って、すでに70歳前後になっているロック黄金期のアーティストのコンサートに通い詰めることにした。
 これと並行して、いわゆるロック聖地巡りも始めたのだが、ここでも時の流れの残酷さを感じることになる。忘れ去られて正確な所在地が不明だったり、再開発で取り壊されたり。はたまた富裕層向け分譲地にあるジョン・レノンやリンゴ・スターの旧宅はセキュリティー強化で近寄ることさえ不可能になっていた。
 そこで、もしロックファンがロンドンへ行ったり住んだりする機会があれば最後のチャンスを逃さないでほしい、そんな思いに駆られて執筆したのが本書である。
 コンサート通いや家探しを続けるなかで、いろいろわかってきたことも多い。
 音楽的に言えば、世界的に成功したビートルズのようなバンドでもイギリスでは流行歌の一種ととらえられ、その時代の刻印が強く押されていること。言い換えれば、それ以降の世代以外からは古い音楽とみなされて、敬遠されてしまう。日本やアメリカでのように世代を超えてビートルズが聴かれるということはなく、さらに言えば、現在ではロックそのものが時代がかった音楽とみなされている印象を受けた。
 また、アメリカで成功してイギリスに戻ってこない人間に対する冷たさにも驚いた。アメリカに移住してしまったジョン・レノンやスティングに対する扱いは、日本ではちょっと想像できないだろう。ロックだけではない。イギリスが生んだ偉大な映画監督、チャールズ・チャップリンやアルフレッド・ヒッチコックについても、二人が生まれ育ったロンドンには記念館など存在しない。ハリウッドで成功したのが気に入らないのだと思われる。
 そして、イギリス人は英語を母語とする白人であっても、その人間がイギリス人か否か、を日本人が想像する以上に気にする。日本にも通じる島国根性とでも言うのだろうか。
 コンサートに行って衝撃を受けたのは、その飲酒文化。まあ、飲むこと飲むこと。ストイックな音楽性をもつキング・クリムゾンのような例外を除き、ほとんどのロックコンサートは酒が飲めるところで音楽もやっているぐらいに考えたほうがいい。演奏中も周りの観客がビールを買いに行ったり、トイレに行ったりと、ちっとも落ち着かないことも多かった。だが、それが本場、イギリスでのロックの聴き方なのだ。
 ロックの聖地巡りでは、外部の人間がめったに足を踏み入れない郊外の田舎町なども訪れた。そこでしばしば感じたのは、ロンドンの街中ではなかなか味わえない「よそ者」に対する疑わしげな視線だ。帰国直後の2016年6月の国民投票でイギリスは欧州連合(EU)脱退を決めてしまったが、排他的な民族主義の一端を垣間見た気がした。
 執筆のためいろいろ調べているうちに初めて知ったエピソードも多い。そのなかで特に面白いと思ったのは日本との関係だ。黄金期のブリティッシュロックに直接関わった日本人としては、いずれも末期のフリーとフェイセズに参加した山内テツ(b)が有名だが、カーブド・エアのカービー・グレゴリー(g)をたどっていくと加藤ヒロシ(g)という名前に行き当たった。カービーが巻き込まれた偽フリードウッド・マック事件に関連するストレッチというバンドに一時加入していたからだ。この加藤さん、リンド&リンダーズという関西のグループ・サウンズのメンバーで、元キング・クリムゾンのゴードン・ハスケル(b,vo)とジョー(JOE)というバンドも組んでいる。そこで、プロレスラー藤波辰巳のテーマ曲「ドラゴン・スープレックス」を発表したり、山口百恵のロンドン録音のアルバム『GOLDEN FLIGHT』でプロデュース・演奏したりと、なかなかの活躍ぶりなのだ。
 また、加藤さんは元Tレックスのスティーブ・ティックとも一時活動したが、同時期にティックとセッションしていたのが高橋英介(b,g)という人で、グループ・サウンズのZOO NEE VOOの出身。奥深い世界である。
 こういった本書に盛り込めなかったエピソードや写真を、書名と同じ「ブリティッシュロック巡礼」のブログhttps://ameblo.jp/noelredding/で順次公開しているので、興味がある方はぜひのぞいてみてほしい。