猫神様に会いたくて――『猫神様の散歩道』を書いて

八岩まどか

  「猫じゃ、猫じゃ、とおっしゃいますけどね」という都々逸がある。江戸時代に、猫が後ろ足で立って踊るという見世物があったそうで、その様子にからめて歌われた内容だという話である。現代でも「猫のサーカス」なんてものがあるが、本来、猫は気分屋で、人間の言うとおりにはならない。自分の好きなことには熱中するが、好きなことでも飽きたらしばらくは見向きもしない。
  街で生きている野良猫も同じこと。妙に馴れ馴れしくすり寄ってくる日もあれば、翌日には、こちらが呼びかけても、聞こえぬふりをして去っていく。毎日餌をくれる人間にいちばん愛嬌を振りまくわけでもない。生き方そのものが気分次第に思えてくる。
  そんな猫を神様として祀っても、祀っている人にご利益を与えてくれるかどうかさえ疑わしい。
  ――と思っているあなた。あなたの部屋に招き猫は置いてありませんか? 家庭に幸福を招くお守りとして、いまや海外にも紹介されて人気は高まるばかりの、あの招き猫ですよ。
  本気で信じているかどうかは別として、招き猫だって立派な猫神様の一種。野良猫と同じように、猫神様もちゃっかりと人間の生活のなかに居場所を見つけて丸まっているのだ。
  しかし、猫神様の姿は招き猫だけではない。気分次第でいろいろな姿を見せてくれる。
  新著『猫神様の散歩道』では、全国各地の猫に関わりある寺社や地域を53カ所紹介している。あるときには山や島の主であったり、地域の猫たちを率いる仙人であったり、踊りが好きだったり、浄瑠璃を歌ったり、さらには飼い主に恩返しをしたりもする。その恩返しの仕方も、嵐を呼んだり葬儀で棺を奪うという超能力的なものから、他家から小判や卵を盗むという現実的なものまでさまざまだ。なかには子猫の痔が温泉で治ったなどという物語まで登場する。人間族の常識など猫神様の世界には通用しないのだ。
  猫神様に会いたくて旅を始めてから約2年で70カ所以上を訪ね歩いた。時間がかかったのは、自費で回るために青春18切符が利用できる季節に集中して動いたり、仕事のついでに立ち寄ったりしていたためでもあるが、それ以上に、所在がわからないところが多かったことが大きい。地元の観光案内所で尋ねても手がかりがつかめず、探し歩いてようやく見つけたことも少なくなかった。なかには、かつて猫神様との関わりがあったことが人々の記憶から失われてしまっていることもあったし、河川工事などで祠が取り壊されてしまったものもあった。
  このままでは猫神様の痕跡がどんどん失われてしまうのではないか、という危機感を強くした旅でもあった。かといって、猫神様をもっとビッグに、メジャーな存在にしていこう、というのも違和感がある。お稲荷さんのように全国区になるのは、猫神様には似合わない。街角で出会う野良猫のように、名前なんてなくとも、生きたいように暮らしていってほしいものだ。
  とりあえず、丸まってひっそりと暮らしておられる各地の猫神様を探し出し、記録に留めておかなければいけないだろう。というわけで、『続・猫神様の散歩道』のための新たな旅を始めたところ。もし、みなさまの住む町に猫神様の痕跡を見つけたら、ご一報ください。

「お笑い」な日常をいく――『お笑い進化論』を書いて

井山弘幸

  現在1学期も半ばにさしかかり、殺人的に多忙なスケジュールにそろそろ疲労が蓄積したころである。月曜は県立女子大学で「自然科学概論」を教え、一旦自分の大学に戻ってオフィスアワーの時間は研究室に待機し、2時になると車を50分走らせて薬科大学に「歴史学」の話をしにいく。実際には前者は「科学とオカルト」、後者は「歴史のなかの偶然性」がテーマ。火曜は午前が「人間学演習」というゼミで現代科学論の講読。
  ここまでは「科学論」を看板に掲げている大学教官としてはありそうな話である。だが火曜の午後は「考える葦の冒険」という共通科目で約80人の学生を前に「お笑い」を主題にした講義を開講中。この時間に鑑賞するネタ選びのひとときは、1週間のなかで最も楽しい時間である。映画館なみの大スクリーンでコントや漫才を見せている間、私は画面を背にして、学生の反応をつぶさに観察する。こっそりと笑い声を録音して、作品ごとのスペクトルを記録する。学生たちは鑑賞したネタに講評を書き、自分なりに採点をすることになっているが、本当のところは実験台にされているのである。終了後すぐに判定用紙の集計をしてから帰宅。明日に備える。
  水曜日は午前に「情報メディア論演習」という別のゼミ。これもカモフラージュで、実際は「お笑いゼミ」なのだ。5年ほど続けているが、映像には残ってもシナリオ化されることのない往年の名作コントを分担して書き取り、テキストの作成と資料の分析を手がけてきた。活字に起こした作品は数百編にのぼる。
  というわけでこのたびの『お笑い進化論』の刊行に際して最も感謝すべき人間は、「お笑いゼミ」の学生たちであることは間違いない。「機械の体なんて、要らない!」という片桐仁の台詞でなぜ笑ったのか教えてくれたのも、新潟大学人文学部の学生だった。
  水曜の昼になると精力を使い果たした私の思考回路は停滞しはじめ、どうにか午後の大学院のゼミ「現代科学文化論」(文化人類学者のアメリカ文化論の講読)を終えると、夕方の会議では生ける屍と化すが、まだ1週間は終らない。木曜は午前が「科学基礎論」で6月は「実験方法論」の講義。この授業は奇しくも「考える葦」と同じ教室のため、ときどき錯覚して、現実の生真面目なレポートのなかに知らぬうちに笑いを探そうとしている自分に気がつく。映像設備があるので、30年以上前に放映された『ミステリーゾーン』を一緒に見たら好評だったので、何とか科学論にこじつけてラーメンズの「現代片桐概論」を見ようと思っている。昼は少し時間に余裕があるので、カフェ・ウェストという大学前の店で辛口野菜カレーを食べる。大学時代に駒場の満留賀という蕎麦屋で5年間ものあいだ、冷したぬき蕎麦を食べつづけたけれども、同一メニューの記録はウェストのカレーが遥かに上回ることになった。ブラックペパーの鼻に抜ける刺激で少し元気になって、午後の1年生向けの教養ゼミ「人文総合演習」の教室に行く。実は昨年はこのゼミでも「お笑い」を主題にしていたが、今年は「旅ゼミ」を開講している。あるゆる手段を使って自主的に旅を企画し、最後の日に全員で投票し最も人気のあった企画を実行するという単純なゼミである。
  木曜4時10分に、予定されているすべての授業が終わる。
  金曜日は卒論の指導と、夏のお笑いコンテストに参加予定の学生相手にシナリオ作成や演技指導をして、5時すぎに交響楽という名の珈琲専門店で1週間の疲れを癒して帰宅する。金曜の夜は先週から溜まっている録画ずみの番組の編集に当てられる。『お笑い進化論』脱稿後もTBS系の「ゲンセキ」や日テレ系の「ミンナのテレビ」など見逃せない番組が始まり、「もう書き終わったんだから、いいじゃない」と家族からは批判されながらも、お笑いのデータベースを完成すべく黙々と録画を続けている。
  というわけで「足を洗う」機会をつい逃してしまったため、お笑いの研究は現在もなお進行している。別に次の構想があるというわけではない。実際のところ、昨年夏に翻訳が終った『セレンディピティー論』の編集作業が始まっているし、同時進行でテレンス・ハインズの『オカルト論』の翻訳も年内に済ませなければならない。本当はお笑いどころではないのだ。ただ、『お笑い進化論』の終章にどさくさに紛れて挿入した「近代的自我とアイデンティティーの形成史」は、もともと別の機会に書こうと思っていた主題なので、モーリス・バーマンの Coming to our Senses あたりを手がかりに、きちんとした史的考証をまじえて完結したいと願っている。
  それにしても、本書を世に出すことができたのは、ひとえに青弓社の矢野恵二さんのおかげである。出版人とのつきあいは結構あるほうだが、これまで誰一人として「お笑い」をテーマにした本を書かせようとはしなかった。この道での実績はゼロの人間に勇気をもって執筆の機会を与えてくれた矢野さんに、この場を借りて感謝の気持を述べたい。お礼がわりに、いずれ矢野さんの好きそうなネタのセレクションでも作って進呈しようと思っている。

たどり着いたところ――『イタリア、旅する心――大正教養世代のみた都市と美術』を書いて

末永 航

10年ほど前、この本のもとになった雑誌の連載を始めた頃には、日本で西洋美術史を始めた学者たち数人のイタリア体験を、残された紀行文から探っていくつもりだった。ところが、そのひとり児島喜久雄が学習院出身で『白樺』のメンバーであり、高校だけ第一高等学校に行ったので和辻哲郎や九鬼周造と同級生でもある、という具合に広い交友関係をもった人だった。そのお友達をたどっていくうちに、取り上げる人物がどんどん広がっていった。
  有島武郎・生馬兄弟、志賀直哉、阿部次郎など有名な人もいるが、『白樺』を飛び出してヨーロッパで客死した郡虎彦、白樺派の弟分でボーイスカウトの指導者になった三島章道、カトリックの法学者大澤章など、あまり知られていない興味深い人物も紹介している。
  最終的に24人が登場することになったが、それをまとめるのに「大正教養世代」という言葉を使った。「教養派」というは、漱石門下のことだけをさす場合が多いようで、ちょっと曖昧に「世代」ということにしたのである。
『白樺』はわずか300部の同人雑誌だったし、岩波書店は漱石門下の仲間が興した出版社だった。学生時代からこういう身内のメディアがあり、それがどんどん大きな影響力をもつようになっていったこの世代の人たちは、自分を正直に書く、一種の露出癖をもっていた。だからなかなか面白い紀行や日記が多い。この本では宿や食べ物といった旅の細部、ときには性や異性関係にまで踏み込んでいる。
『旅する心』というちょっと気恥ずかしい書名は、有島武郎の紀行文の題名からとった。大正教養世代の人たちが実に「心」好きで、臆面もなく文章や標題に多用するのに気づいたので、これをキーワードにした。戦後ほとんど全員が集合して出すようになった雑誌の誌名は、そのまんま『心』という。
  この本のカバーの装画は、いまはアメリカに住んでいる旧友、版画家の藤浪理恵子さんにつくってもらったが、素材は主にこちらで撮った写真である。漢字を何か入れたいといわれたので、「心景」という文字が入っている。これは児島喜久雄が亡くなった親友の哲学者九鬼周造への万感の思いを込めてデザインした九鬼の詩集『巴里心景』の背文字から借用した。友人たちのなかでほとんど唯一、甘い感傷に浸るのを嫌った児島だったが、この本の装丁では禁を解き、センチメンタル全開で斬新な意匠を展開している。
  この原稿を書き始めたとき、イタリアの16世紀美術史をやっている自分にとって、これは専門外のいわば隠し芸のつもりだった。ここで取り上げた方々がだいたい自分の祖父かその少し上の世代だったから、なんとなく肌のぬくもりを知っているような気がして、「研究」の対象として扱う気にはなれなかった。論文とは違う、もう少しくだけた文章にしようとしたのもそのせいだった。
  しかしこの十年の間に世の中の、そして自分の、ものを書くときの意識はずいぶんと変わった。戦前や戦後、大正・昭和の時代がいろいろな分野で真剣な研究の対象になってきて、立派な業績が次々に現れた。また、そういう研究が本や論文になるときの文体もいろいろなものが出てきた。ちょっと前なら誰かに叱られそうな、くだけたスタイルで研究者がものを書くのが普通になっている。
  自分にとっては表芸と隠し芸の仕切りがはっきりしなくなってきたのだが、そんなことはどうでもいいから、面白いと思うことを書けばいいという気持ちになれたのは、わりに最近のことだった。
  そしてできあがった本は、なんとも欲張りなへんてこなものである。
  ゴシップでたどる日本の美術史学・史でもあるし、もっと幅広い分野で、こんな一握りの仲良しサークルが日本を動かしていたのか、ということをいっている本でもある。その連中の生態を記録したものといってもいい。
  いま、ちょうど忘れられたところだが、この人たちのことは、みんながこれからもっと調べ考えていかなければならないと思う。
  それから、脱線だらけではあるけれど、イタリア旅行が主題である。昔の旅がどんなだったか、日本人にとってのイタリアがどんな存在だったのかもわかる。もちろんちょっと変わったイタリア・ガイドとしてお読みいただくこともできる。
  どれも中途半端だといわれればそのとおりなのだが、著者としてはなんだかどうしてもこうなったので、悔いはまったくない。青弓社苦心の索引も利用して、いろいろに楽しんでいただけるとうれしい。