砂本文彦
この本は、戦前の新聞をずっと読み込んで見えてきたことに記述の多くを依っている。
東京や大阪で発行された新聞はもちろんのこと、仙台、新潟、栃木、横浜、静岡、長野、松本、豊橋、名古屋、大津、広島、呉、新居浜、高知、佐賀、柳川、熊本、長崎、そして植民地だった京城(ソウル)、大田、釜山。こうした地方紙は現地に行って見る。授業の合間をぬっては各地の図書館を訪ね歩き、閲覧室にこもってせっせとめくる。
1年は365日。新聞を5年分、10年分と見ていく。新聞のページ数にもよるが、例えば、1930年頃の「京城日報」は、朝から晩まで見ても2カ月分見るのがせいぜい。1年分を見ようとすると、単純に考えて1週間かかる計算だ。万事この調子なので、ずっと見ていると気絶しそうになる。だから、いつ読み終わるとか、そんなせこい計算はしない方がいい。
最近は、新聞記事がデータベース化されているものもあって便利だが、これは案外もれていたりとか、それこそ文字でデータベース化されない広告やマンガ、タイトルがあいまいな写真は落ちていたりとかで、頼りすぎると足をすくわれる。記事の「余白」に思いがけない発見もあるから、やはり、ここはローテクでも、攻めの気持ちでがんがん新聞はめくりまくるべし。
大学院生の頃からちまちまと新聞を見る根気が続いているわけは、新聞記事そのものがおもしろいからだ。とくに関心をもった1930年代は、20年代よりもページ数が増すとともに(それはそれで頭が痛いのだが)、内容も充実。1面の政治、外交、経済からめくって社会、文化、スポーツ、芸能、マンガ、そして広告はかなりおもしろい。さらに、どこそこの帝大生がカフェーの姉さんに入れあげて町の話題になった云々の痴話話なんかは、もう、笑うしかない。当時は、男は女に対し、女は男に対し、神秘的なものを感じていた。そのせいか「男の甲斐性とは?」「女も○△なの?」のような、異性を妙に意識した変な連載も真面目に堂々と出てくる。記事の根拠もそうあるわけではないようで、噂話も多くて、「そんなわけないだろう!(笑)」とひとりつっこみをしながら見ていた。この硬軟織り交ぜた紙面構成は、当時の雰囲気を味わえて、かなり笑える。
わかった! 重要なのは、これだ。笑える感覚が1930年代にあったことだ。
実は、『近代日本の国際リゾート――一九三〇年代の国際観光ホテルを中心に』も、そんな笑える感覚からできた分厚い本だ。あのとき、どうしてここまで「国際観光ホテル」をつくることが全国的なブームとなり、われ先と身銭を切ってまで外国人を呼ぼうとしたのか。当時のほとんどの日本人は、リゾートなんて見たことも行ったこともないのに。
本書は、外国人向けの施設整備を始めてからのいきさつと利用の実態を記したが、実は、「外国人をわがまちに!」という類の話が新聞紙上に出てくるのを見るだけでも、充分におもしろい。「わがまちに、ホテルがいるんだ!」と熱にうなされる人々。そんな臨場感というか、高揚感というか、抑制が利かない「近代」というべきか。そういうことが、当時の新聞をめくるとダイレクトに伝わってくる。
ただ、そんな新聞も、日中戦争ぐらいからあまりおもしろくなくなる。どの新聞をめくっても、わたしがほしい記事がぐっと減る。一時、落ち着いて持ち直すのだが、太平洋戦争開戦が近づくと次第に悲壮感が漂いはじめ、めくるこちらも気分が重い。
鉄がない、木材がない、油がない。わたしの専門の建築で言えば、釘がないから家も建たない。竹筋コンクリートなんてものも開発される始末。そして1941年の秋頃から、ついに「この冬、暖をとる燃料はあるのか?」の記事まで出てくる。12月の真珠湾攻撃の数日前には、開戦不可避のような文字が挟み込まれ、開戦の翌日は、まさに教科書で見た「米英に宣戦布告」。こうなると、もう、観光やリゾート、住宅地開発とかの浮いた話は、出ようもない。このふたつの戦争の開戦で、新聞はその社会的な役割を大きく変質していったことを痛切に感じた。わたしの歴史文化的な研究の立場から言えば、一次資料としての価値が格段に弱まったことを意味する。
あともうひとつ。当時の新聞は、新聞社によって編集カラーが全く異なる。現在の新聞は、新聞社としての「主張」は控えめに、支持球団の違いや経済面などの扱いに大小の差がある程度だが、当時の新聞は我田引水の極致というか、主張と噂だらけ。当時、人々は新聞に正しさを期待さえしていなかったのではないか? それよりは、新聞を通して読み手の力を試す社会、という感じか。地方紙はその傾向がもっと強くて、地元出身の誰それが東京で大活躍だとか、植民地で大事件だとか、あるようなないような話が紙面をところ狭しと躍る。新聞はスターを求めていた。そもそも当時の人々は、新聞に中立性なんか望んでもいなかったのだろう。
そんな紙面構成だったせいか、新聞は戦中になってすべて右に倣うか廃刊に追い込まれ、戦後には改めて報道機関としての中立性が新聞に求められた。時代や紙面が異なれば、同じ新聞といっても、記事がもつ社会的な意義や、ときには正確性まで違ってくるのである。したがって、新聞を研究対象にするとき、字面を追うこと自体はほとんど意味をなさない。
これではまるで、新聞が役に立たないような書きっぷりだが、決してそうではない。正確性はさておき、ともかくあちこちに散らばった記事を拾い集めると、それこそパズルを合わせるようにひとつの絵が見えてくるのである。多様な(雑多か?)報道があるからこそ、それを可能にしている。そもそもこうした異種格闘技のような新聞の雰囲気は、まるですべてをさらけ出す近所のおじさんのようで、人間臭くて、ある種の親しみをおぼえてしまう。とってもオープンマインドなのだ。
人というのはいつも正しく倫理に忠実に生きているだけではない。わたしは、どうも、こうした訳のわからない新聞報道が許容された時代の方に、計り知れない魅力を感じてしまう。わたしが人として試されているような気もするのだ。どう考えるんだ?、お前、と。
考える身体が自分にあることを問いかけ続けてくる1930年代の新聞。それを通してわが身の存在を21世紀のいまに感じられるのが、うれしい。みなさんも、この興奮を体験してほしい。