あるアーティストのファンであり続けること――『ライブミュージックの社会学』出版に寄せて

南田勝也

 私が『ライブミュージックの社会学』を編むことにしたのは、新型コロナウイルス感染症禍のくすぶった日々に考えていたひとつの問いがきっかけである。その問いとは「あるアーティストのファンであり続ける●●●●●ことはどのようにして可能か」というものである。このアジェンダは本書では展開していないので、このコラム欄で私の思念の道筋を記してみたい。
 
 現在、あるアーティストのファンであり続けることは、どんな条件で担保されているだろうか。もちろん往年のミュージシャンや解散バンドのファンの場合は「心のなかのナンバーワン」を永続的に定めているだろうが、そういうことではなく、活動の存続がそのまま経済基盤になっている現在進行形のアーティストとそのファンの関係についてだ。
 元来それは文化産業が守ってきた。音楽関連会社のマネジャーやエージェントが、世間知らずで気まぐれなアーティストに代わって、ファンの前に姿を現すスケジュールを組んできたのである。そのなかでもっとも重要な活動は新作のリリースであり、シングル盤なら数カ月に1枚、アルバム盤なら年に1枚のペースが大方にとっての標準になっていた。
 ディスクを発表すれば、音楽批評家によって新譜評が書かれ、音楽誌にインタビューが掲載されて露出の機会が増える。まず何よりも、心待ちにしていたファンがプレゼントを渡されたときのように喜ぶ。いそいそと街のレコード店に出かけてディスクを手に取り、帰りの電車で開封の儀を済ませ、帰宅するとうやうやしく再生する。その音源をリピート再生しながら次のアルバムが出る日を楽しみに待つ。つまり、ずっとファンでいてくれる。
 もうひとつはツアーだ。アーティストはいまも昔も巡業を好む。ギター1本で移動できるシンガーは旅の歌をレパートリーにもっているものだし、ライトバンに機材を詰め込む小所帯のバンドは深夜高速を利用して全国を回る。アリーナクラスのアーティストになるとそうはいかないが、近年ではライブ使用可能なハコモノが各地に設置されているので、当該地域のファンの欲求はそこで充足される。重要なことは継続性であり、とくに地方在住者にとっては数年に一度でも自分の住む地域に来てくれれば揺るぎない信頼につながる。
 ツアーのチケットがなかなかとれない人気者の場合は、ライブ参加のためにファンクラブの入会を半ば義務づけているパターンもある。これは批判の対象になりうるが実のところうまい仕組みであり、今回は抽選に外れても会員であるかぎり次のチャレンジは約束されているので、ファンがファンであり続けることに持続的に貢献する。
 また、そうしたクローズドなつながりとは反対のオープンな仕組みも進展していて、それがフェスである。現代的なフェスが誕生してから四半世紀、多様な出演者が彩る開放的な雰囲気が受け入れられ、全国各地で四季を通じて開催されている。ツアーの行程にフェス出演を組み込むアーティストは多くいる。ファンにとってはフェスのチケット代は割高だが入手は容易で、単独公演ならチケット争奪戦になるライブアクトを見る好機になっている。
 
 しかしこのようなルーティーンに基づく活動は、現在では崩壊寸前の状況にある。
 インターネット、とりわけサブスクリプションの登場は、シングル盤やアルバム盤のフィジカルな単位を無意味化させた。それどころか、それが新曲なのか過去曲なのかという時間の概念さえ曖昧にさせている。そもそも新人は別にしてベテランになるとアルバムは数年ごとのペースになりがちだし、シングル盤は出したとしても「一斉に店頭に並ぶ」販売スタイルが失われた結果、話題として盛り上げにくいものになっている。そして新人たちはフィジカルでの販売を放棄し、配信オンリーで独自のプロモーションを展開している。
 そこで頼りになるのはチャートのはずだが、多様に存在するポータルサイトの集計はまちまちで、著名なアーティストでもリリースに気づかれないままランク外へと埋もれていく。かつてなら誌面だけでなく広告面でも援護射撃していた音楽雑誌は、長引く出版不況によって全盛期の力を期待できない。音盤の発売スケジュールに寄り添って「ファンであり続ける」ことは確実に難しくなっている。
 となると、ライブが唯一的に残された紐帯になる。ライブでのアーティストは、新曲を演奏しようがしまいが、現在進行形の姿でファンの前に現れてくれる。ツアーのたびに新しいデザインのグッズも用意されて、記憶と記録の双方に痕跡を残してくれる。非線形的なインターネットの時空間に漂う楽曲群の不確かさとは対照的に、はっきりと線形的で確実な「ともに年月を重ねていく」感覚を与えてくれるのだ。これが2019年までは順調に推移していたアーティストとファンの関係式だった。
 しかしその幸福な関係式は、2020年2月以降のコロナ禍によって断絶の時を迎える。
 
 コロナ禍は生活のさまざまな場面にストレスをもたらしたが、私がもっともめいったのは、大学教員という職業柄もあるだろう、身体的・精神的に本来もっとも活発な若い世代が身動きできずに日々落ち込んでいく姿を目の当たりにしたことだった。
 あるゼミ生は、好きなバンドのライブ映像を見る気が起きないと語った。映像を見るとその空間に自分がいないことを自覚してしまう。ライブキッズだった彼女にはそれがつらすぎるのだ。また、あるゼミOGは、10枚以上の「使われることはなかった」チケットの写真を「Instagram」に投稿した。彼女はチケットを「この子達」と表現し、理不尽な現実に悲しみを覚えながらも、ファンであり続けるため踏ん張っていることをメッセージした。さらに、あるゼミOBは、学生時代からバンドを続けていて、2020年は大型イベントに誘われることが決まり、飛躍の年になるはずだった。しかしそのイベント自体が中止になった。
 コロナ禍がライブ市場にもたらした損失は、経済的なものにとどまらず、アーティストとファンの心理的な関係に及んでいた。当たり前に訪れるだろうと思っていた明日はぷつりと途絶え、次はどんな音を聴かせてくれるのだろうという高揚感は失われ、継続こそがバンドの命綱なのにそのモチベーションさえ奪われてしまった。
 私は、彼や彼女の顔を思い浮かべながら、コロナ禍が明ければライブミュージックに関する書籍を出版すると決めた。音楽研究として歴史性と現場性を存分に描ける執筆者に集ってもらい、学術書としてはイレギュラーなほどに写真をふんだんに用いたのは、ライブの魅力を人々に伝えて裾野を広げるためだ。
 幸いなことに、ゼミOBのバンドは、コロナ禍を乗り越えてライブ巧者の異名をとるほどに成長し、都内の中規模ライブハウスをソールドアウトにするレベルに達している。人間が出せる最高スピードの時速36kmで突っ走る彼らには追い付けないかもしれないが、私は彼らに倣い、ライブ研究の論文発表というツアーを継続していきたいと考えている。
 
『ライブミュージックの社会学』試し読み