序章 資本主義批判のアップデートのために

小倉利丸(富山大学名誉教授。専攻は現代資本主義論)

目次
序章 資本主義批判のアップデートのために
第1章 拡張される搾取――土台と上部構造の融合

 私たちが生きる社会を、文化や伝統を引き合いに出して肯定的に賛美するような言説は、あたかもいまここにある現実を悠久の人類の歴史と未来永劫続く人類の歩みのなかに位置づけることによって、この現実を暗黙のうちに正当化して肯定しようとする保守的で排他的な願望が必ずといっていいほど含まれている。結果として、いまある現実を肯定して生きる以外の選択肢を模索する努力を最初から断念させる。こうして、いまある現実を与件としたうえで、いま可能な微調整(実現可能な対案)に限定するということこそが分別ある行為だとみなされる。
 とりわけ日本に関していえば、数世代にわたって私たちの記憶には、民衆の力が権力を打ち倒すといった劇的な歴史がなく、もっぱら抗いがたいほどの力をもって支配者たちが連綿としてその力を保持してきた絶望的な風景しか思い起すことができない。たとえあの1960年代にまで遡ったとしても、そう言うしかないように思う。しかし、世界では、多くの革命があり敗北もあるなかで、資本主義近代が誇る自由と民主主義が文字どおり実現された国はどこにもなく、また、革命が期待された帰結をもたらすこともまたまれななかで、民衆がいまだに到来しない世界に自らの夢を託すことを心の底から断念したこともまた一度たりともなかった。日本の資本主義近代という時間の幅は、南北アメリカ大陸の先住民が経験してきた時間の数分の一にしかならない。いまだない社会への夢を断念させようとするいま/ここにある支配者たちの目論見を私たちは忘れていはならないと思う。そして、彼らの目論見が冒頭に掲げたようなありふれた日常感覚のなかにひそかに込められているということ、そのこと自体を本連載では問題にしたい。
 現実的な感覚とか科学的なデータに基づく「事実」を判断基準にすること自体のなかに、私たちの可能性を削ぐある種の抑圧が伏在している。私たちは、彼らがいう「現実的」とか「科学」を受け入れて彼らの土俵の上で物事を論じなければならないのだろうか。むしろ、現実と呼ばれるものは、先験的に与えられた誰にとっても同じ客観的な世界であるかのようにみなされているが、実はあらかじめ押し付けられたものを押し付けられたと実感するのではなく、むしろ自らの自発的な理解であるという転倒した意識によって受け入れさせられているものであるし、データもまた現実そのものではなく、現実を一定の方法に基づて構築されたカテゴリーによってあらかじめ抽象化し、一定の理論的な枠組みを前提にして、それ自体としては整合性がある理論に基づくものであったとしても、データは事実ではないし、現実を説明する「エビデンス」でもない(注1)。データは私自身を「データ化」して、データ化された私が、私そのものに取って代わるデータ・フェティシズムをもたらしている。
 私は、ファイクニュースの肩を持っているわけではない。フェイクニュースもまたもう一つのいかがわしい証拠や「エビデンス」を持ち出して自らを正当化しようとする以上、同じ穴のムジナでしかない。日常生活の実感も、科学的と称するデータとその理解も、それ自体に含まれているいまだ見ぬ世界へと至る道を塞ごうとする罠であることに用心しながら、そこから絶対的に切断された立場をとることが不可能である以上、罠に落ることを覚悟しながら罠から這い上がる格闘を覚悟しなければならない。
「本質」なるものの存在が懐疑的な時代であるにもかかわらず、本質に立ち返って、また、いまある現実を将来でも継続するにちがいない現実にすべきではないという明らかな価値観を伴う観点をとることが、いま/ここにある現実を根底から覆すだけの力になりうる。これは実践的な課題であってテキストの役目を超えるのだが、とりあえずは、この役目のギリギリの境界に立つような試みをしてみたいと思う。
 文化や伝統のなかで語られる物語の多くが、科学的な理解によって間違いとされたとしても、私たちはこのことに目くじらを立てることはあまりない。とはいえ、近代以降、科学が現実の社会に応用され具体化されることによって、神学や伝説・伝承の類いを押しのけて人々の世界理解の基盤となった。にもかかわらず、日常生活に伴う感覚や実感の非合理性は、いまに至るまで強固に日常生活のなかに定着し、科学的理性をもって仕事をこなす研究者や技術者であってさえ日常の非合理性は肯定されている。神を信仰するとか、人種的な偏見をもつとか、その実体も明らかとはいえない「国家」に忠誠を尽すとか、こうした一連の行為は、人々の科学的認識と矛盾することなく共存し、逆に、こうした非合理な存在を科学が正当化してしまうような作用さえありうる、ということが近代の歴史が歩んできた道だった。いわゆる「偽科学」とかフェイクをめぐるあからさまな虚偽以上に、この非合理性と科学の平和共存の社会意識のほうがずっと厄介な存在だ。近代日本が西洋の近代科学を経済に応用し軍事力を誇示する一方で、非合理としかいいようがない現人神がなぜ一国の統治機構の中心をなすことが可能だったのか。なぜ科学者は現人神の存在証明を科学的に追求しようとしなかったのか。医学生理学は天皇が神なのかどうかを証明するという責任を棚上げし、法学者は、法の形式合理性の枠組みに巧みに現人神を据えることに加担した。こうした世界理解の和解しようがない亀裂を人々が受け入れることができたのは、そもそも人々の日常生活そのものにこうした非合理性と合理性の間に折り合いをつけるある種の生活様式が形成されていたからにほかならない。これは、日本に限らず世界的な現象である。私たちは、世界のどこであれ、合理性と非合理性の間にかなりいいかげんな「折り合い」をつけながら日常生活を送っている。どのように折り合いをつけているのかといったごく私的な態度や判断は、長い間自己の内面か親密な人間関係かのなかにしか表出しなかったが、誰もが不特定多数にメッセージを発信できるコミュニケーション手段が確立して以降(つまり1990年代以降)、この「折り合い」が可視化され、人々がいかにそれぞれ非合理な世界を抱えているのかが露わになったことで、この厄介な世界が共振しはじめ、世界理解の共通の基盤と思われたものが意外に脆弱であることが示された。自由も平等も実は人々の日常経験のなかでは絵に描いた餅以上のものではなく、常に、この理想を獲得するための闘争を強いられてきただけでなく、それ自体が戦争を内包さえしていて、結果として、ナショナリズムや神観念といった非合理な世界に救いを求めるというパラドクスから逃れることもできなくなった。
 言い換えれば、科学的な正しさが私たちの日常生活や行動を変えうるだけの力を持つとは必ずしもいえない、という問題を、科学的合理性を持ち出して簡単に否定できると考えてきた合理主義者たちのアプローチでは問題は解決できず、その「解決」はときには暴力に委ねられるしかなかったということではないだろうか。非合理性が世界観や価値観として影響力をもつとき、それは、暴力を別にすれば、文化的な表象を通じてその正統性を維持してきた。19世紀が機械と合理主義、あるいは理性の時代であったとはいえ、同時に19世紀はロマン主義の時代でもあり、このロマン主義が20世紀になって大衆的な心情を捉えながら、当時の時代状況に即していえば高度なテクノロジー指向の国家でもあったナチズムとファシズムをももたらした。日本の文脈でいえば高度国防国家であり、戦艦大和を賛美するような機械崇拝と現人神や戦争の美学が大衆の心情のなかで棲み分けていた。日本浪漫派であれエルンスト・ユンガーであれダヌンツィオであれ、ロマン主義は理性を破壊(注2)したというよりも理性を飼い馴らしたのだ。他方で、合理主義者たちが主張する「合理性」が資本主義的な合理性にすぎないという批判は主に左翼から提起されてきた長い歴史があるが(注3)、いま私たちが直面しているのは、日常の非合理を政治的な支配のレベルで合理的な法の支配を超越して拡大し、世界観そのものを過去に向かって覆すような状況であり、私たちが闘わなければならないのは、こうした力に対してである。権威あるメディアや知識人が自国のことや自国民の問題を論じる段になると、その言説のなかに意識されないナショナリズム、あるいはレイシズムなきレイシズム(注4)が容易に忍び込む。習俗とみなされる宗教的な信仰を伝統や文化として肯定する日本の風土のなかで暮らす者たちが、アメリカの福音派の非合理を理解しがたい迷妄とみなしながら、天皇や皇室について語る場合は、その存在の「フェイク」を伝統とみなして肯定するのである。こうしたわかりやすい真実と虚偽の御都合主義的な腑分けよりも問題なのは、科学や学問あるいは文化や伝統の正統性によって裏付けを与えられた世界の基盤にある私たちからみれば明らかな虚偽の世界を人々が正しい世界とみなすある種の認識の転倒である。
 マスメディの時代とは違って、SNSのなかに浸透する心情は、個々人の内心の集合的な発露であって、倫理的あるいは理論的な正しさに還元できない人間の欲望を連鎖的に表出する回路がインターネットの時代に開かれた。フェイクやヘイトはネットに原因があるのではなく、むしろ結果にすぎない。人々を表向き「正しい」とみなす学校文化風の秩序に押し込めることによって、社会の矛盾やどうしようもない汚なさを正当化する強い者たちに立ち向かうことで決着をつけるのではなく、むしろ一人ひとりがあたかも社会の支配者であるかのように思い込むことを可能にする仮想の集団性によって、矛盾や汚なさの側に加担しやすい回路が形成されている。だから道徳的倫理的に「言ってはいけない」という歯止めは、確かに「言わない」という歯止めにはなったのだが、これはそもそも多くの人々がこれまで何世代にもわたってひそかに内面化してきた他者に対するネガティブな感情を表出させないというにすぎず、こうした感情それ自体が消え去ったわけではない。マスメディアの時代には、これで社会の正義を維持することができた。しかし、インターネットの時代には、この内面の差別や偏見、あるいは非合理な集団的な価値観が容易に表出しうるようになる。真理が権力を握ったとみなされる時代に、この真理によって支えられていると称する権力は、大衆のなかに、真理とは言い難い神話や憶測、偏見と差別をも植え付けてきた。近代国民国家が「ナショナリズム」なしには成り立たないということは、国家が合理性によって統治の必要かつ十分な条件を備えることは不可能なのだ、ということの証しでもある。だから解決されるべき問題は、もっと大きくやっかいなものだ。つまり、現代の世界が真理とか理論などとして正しいとみなしてきた世界についての説明が、総体としてフェイクの源泉であるのであって、そうだとすれば、そもそもの真理や理論そのものを疑うことなくして、フェイクの問題は解決できない。人間は社会的な存在であり、社会的な意識がその時代の支配的な制度によって深く規定されるとすれば、理性と科学を標榜する時代そのものに内在する非合理性とのひそかな共謀を暴く必要がある。のちに述べるように、この問題は、資本主義における世界の二重性、あるいは、カール・マルクスが土台と上部構造として論じた社会構造への資本主義からの応答に対する私たちの新たな闘争の構築という課題である。こうした社会の現実があらわになったのはインターネットによるコミュニケーションが現代資本主義の支配的な構造となったことによる。私的なコミュニケーションが社会的な事柄として相互に共振しながら社会総体のコミュニケーションの集団性が形成される。このコミュニケーションの基盤が現代資本主義の資本蓄積の基軸をなし、同時に、これが資本主義の統治機構、つまり国家の正統性と不可分な構造が形成された。のちに述べるように、マルクスの土台と上部構造としての資本主義全体の枠組みは、現代資本主義においてはコンピューターテクノロジーを駆使した土台と上部構造の相互浸透と融合へと向いつつある。市場は政治化され、国家はそれ自体が資本のガバナンスを模倣し、結果として民主主義の居場所は次第に縮小され、データ化された私たちには、サファリパークの飼い馴らされた動物の自由だけが残されることになる。最悪の場合は、生存を保障された刑務所の受刑者のような「生存権」だけしか与えられないことになる。

0−1 あえて罠に陥るべきか…

 こうした現状に対して、私たちがとれる対抗策は、納得を得られるように科学的な知の啓蒙の技法に磨きをかけることだろか。しかし、こうした方法ではたして「陽が昇る」という実感を「正しい」実感に修正することができるだろうか。相対性理論に基づく私たちの日常感覚はどのように構成しうるのだろうか。あるいは、私たちもまた、私たちに敵対するフェイクを超えるフェイクを編み出すというフェイク戦争を仕掛けるという手法が、政治的プロパガンダとしては正しいとしても、社会の正義を実現(いったい何が正義なのかという問題も含めて)するという本来あるべき社会変革のための運動の課題からすれば、理念なきプロパガンダはデマゴーギーにすぎないから、当然採るべき道ではない。もちろん、最大の厄介事は、敵——そもそも誰が敵なのかさえ判然としない——は決して彼らの主張をフェイクだとは考えおらず、私たちもまた、自分の主張をフェイクとは考えておらず、いずれもが自分の主張を真実だと信じている、という救いようがない事態にある。しかし、さらに厄介なことは、こうした厄介事があたかもSNSのような新しい双方向不特定多数を対象にしたほぼ誰でもが発信できるメディアのせいで蔓延したという批判に典型的に示されている誤解だ。多くの良識あるリベラルや既存のメディアを死守したいとつい考えてしまう一昔前の「マスメディア」は、フェイクを阻止する方法として、SNSの発信を検閲すべきだとかアカウントを停止すべきだとかというが、こうした口封じは口しか封じておらず、頭はそのままで、また、キーボードを叩く手の自由も奪えていない。マスメディアが情報発信を独占してきたこの1世紀の間、圧倒的多数の大衆は、口封じ同然の状況のなかで一方的に情報を受け取る側にいることを強いられてきた。この20世紀のマスメディア時代を通じて形成されてきた諸個人のパーソナリティは、内心の声として、レイシズムやセクシズムなど諸々の差別の感情を発酵——腐敗というべきか——させてきた。きわめて私的な会話のなかで繰り返し語られてきたにちがいない差別的嘲笑的な人間観や荒唐無稽な世界観は、その根源にあるのは支配的な社会そのものが構造的に有している差別や偏見、排外主義の個人の意識への反映なのだが、制度の側は、憲法や国連の高邁な人権条項などを口実に、システムに偏見や差別は組み込まれていないとして自らの構造的な問題を不問に付し、個人の言論だけを法の権力を動員して扼殺する手法を繰り返してきた。SNSという手段を与えられたことによって不特定多数への呟きとして噴出する偏見、差別、憎悪の言説は、この資本主義社会そのものの本質的な矛盾の表出であるという視点をこの社会を支持する人々が自ら認めることを期待することはできない。私たちの究極の課題は、そもそものフェイクやヘイトという言論そのものが無意味であるだけでなく、念頭に置かれることも、無意識のなかに抑圧されて延命することもない、そうした言説の存在そのものが不在であるような社会をめざすということだ(注5)。
 こうした呟きの言説の質を長年培ってきたのは、実はマスメディアであったり言論を支配できる教育現場や、権威主義的な政治家たちの言説、そしてこれらを身近で増幅する信頼を寄せる友人や近隣の人々、家族などが繰り返すわけだが、親密になればなるほど、そのコミュニケーションは政治的正しさのメッキが剥がれた歯に衣を着せぬ率直な嫌悪や排除の感情が共有されるという一連のコミュニケーションの構造だったとは言えないだろうか。人間は社会的な存在であり社会的なコミュニケーションのなかでパーソナリティを形成し社会や人間への価値観を形成する。人々は、メディアや教師の政治的に正しいように見える言説が言外に語っている侮蔑や差別のメッセージを的確に受け取っているのではないだろうか。
 太陽は昇るわけではないが、この実感には抗いがたいところがあり、これは、真実ではないことを事実として肯定することがどうして可能なのかということでもあるが、こうした問題が私たちの社会のなかには無数に存在しており、それが些細な日常の事柄であるだけでなく、それが政治的な権力を支える権威の正統性や資本の行動を左右するような大きな問題にもなる。そのわかりやすい事象がナショナリズムや宗教的な信仰だろうが、わかりにくいが社会にとって重要な事象が、本連載の守備範囲に関する限りでいえば、市場経済の構造をめぐる「科学的」な理論の擬制である。市場経済のフェティシズムと呼んでもいいような擬制だがそれ自体の内的な論理は一貫している、というやっかいな存在である。経済政策の策定者から金融市場の売買に関与するコンピューターのプログラムまで、私からすれば——そしてたぶん、非主流の経済学者たちやマルクス経済学者たちにとっても——支配的学説が現実の世界に及ぼす力の問題がある。市場は多くの人たちが見ているようなものではないのだが、そのことをやはり実感することが難しい。
 さて、冒頭に掲げた例え話にはまだ「嘘」がある。時間の流れが太古の昔から変わらない、というふうには社会のなかの時間は流れない。社会は物理的な時間ではなく「暦」として時間を刻み、歴史を(主として)支配者の物語として記録する。残念なことに、「暦」には、重さや長さのような中立的な尺度がない。2021年は西暦であり、キリスト暦というれっきとしたキリスト教の背景をもった時間の尺度である。イスラム暦があり、日本には悪名高い元号がある。どの暦を用いてもとても客観的で中立な歴史の時間を表示することはできない。「暦」に関しては、いかなる科学主義の合理主義者であっても、時間の尺度を自分勝手に決めてもそれをほかの人々と共有する合意を形成できなければ社会的な意味を獲得できない。

0−2 連載の構成

 こうした例え話を通じて本連載の課題を示すとすれば、以下のようになる。
 私たちは、決して完璧な合理主義者として日常生活を過ごすことは不可能だが、同時にまた、完璧に非合理にもなりきれないということ。理論的に合理的な推論によって構築される理論の体系は、同時に非合理な世界と共存できることは人類の歴史を振り返れば自明といってもいい。自然哲学が自然科学の知見からみて明らかに間違った前提にたっていても、そのことをもって自然哲学の意義が全て否定されるわけではない。問題は、科学的・合理的ではない、そうはなりえない人間の社会的な生活存在を前提にして、社会が人々に対して振る舞う抑圧と闘うための基礎をどのようにすれば築くことが可能なのか、という問題である。この問題は、合理主義と非(不)合理主義との相克としてとらえたり、感情の哲学・思想、バールーフ・スピノザ、フリードリヒ・ニーチェからアンリ・ベルクソンやアルトゥル・ショーペンハウエルといった思想家の系列をイマヌエル・カント、G・W・ヘーゲルからさらにはマルクスといった唯物論へと至る系譜と対置させるというよりも、こうした思想の世界(マルクスを哲学に還元すること自体が間違っているが)に向かうのではなく、現実の社会へと目を向けることで、社会を変革するための手掛かりを、合理主義的な資本主義批判でもなく、かといって非合理を梃子として情念の革命を構想するのでもない、ねじれた世界へと出立できるような準備をすることを考えたい。
 とりわけこうした議論が重要なのは、現代の資本主義が逢着している事態が、まさに合理主義の徹底的な追求のなかで人間を再定義する方向で資本主義の延命を図る方向がかなりはっりしてきているからだ。つまり、コンピューターが支配的な技術になり、ほぼ社会の全ての領域で、私的な領域であれ公的・国家的な領域であるかを問わずに、コンピューターによって処理されたデータとしての私が、新たな私の自己同一性形成にとっての不可欠な要件をなすようになってきたために、資本主義はますます人間の合理的とはいえない振る舞いをいかにしてデータ化してコンピューターのアルゴリズムの世界に翻訳しうるかというところに追い込まれてしまっている、という問題である(注6)。
 なぜコンピューターテクノロジーが「発達」することになったのか、その動因とともに、その発展の方向性、とりわけデータ処理の高速化(ビッグデータ)、ネットワーク化、予測と予防(AI)としてあわられている状況を、経済の相からみれば資本主義的な生産—消費様式の構造的な再編の問題であり、政治の相でみれば資本主義的な権力様式の構造的な再編の問題であり、軍事の相でいえば武力攻撃と軍の配置における地政学の根本的な転換(サイバー戦争におけるスペース)の問題であり、イデオロギーの相でいえば文化様式の構造的な再編の問題である。これらが、いずれもコンピューターテクノロジーと不可分一体のものであるということがもっている広がりはほぼ私たちが住む世界全体を覆うだけの広がりとなっている。最もミクロな領域でいえば、遺伝子や生物学上の諸現象が情報として捉えられ、工学との境界があいまいになっていること、マクロでいえば、気候変動のような地球規模の自然の変化を把握すための方法もまた情報としての自然の把握を介してのことになっており、情報科学抜きには成り立たなくなっている。そして人間自身もまた、アナログとしての生身の人間もまたデジタルの膨大なデータの束として、そのつどの必要に応じて必要な組み合わせが抽出、解析され、そのつど「私」と呼ばれる存在の実体が一時的に再構成される。「私」を取り巻く空間もまた、地理的な空間がもっている絶対的な実在性に対して、地図が現実の空間をその目的に応じて抽象化するように——自然の地形、行政区画、車の運転に必要な道路情報、グルメ地図など——空間は必要に応じて必要な情報の組み合わせによって提示される可変的な情報の束であり、しかも、地理的空間の制約を超えて、カテゴリーで空間を再構成することも当たり前にできてしまう。
 これは一見すると技術革新であり進歩であり、人工的な知能による新たな支配の可能性をいま/ここにある支配者たちに夢想させることになっているが、しかし、むしろ政治が合理的な側面と非合理で予測困難な行動の側面の弁証法として構築されているという、その支配の軌道から脱線しつつあるということも示している。このことは近代の政治的な理念としての民主主義が果たすべき統治の実効性を削ぐことになりかねない。
 話がここで終わるなら、ある種の資本主義の終わりのような(私たちにとってはハッピーエンドな)筋書きになるが、こうした高度なコンピューター的な合理性がもたらす矛盾から運動の欲動が備給されているのは左翼だけではなく、むしろ右翼や保守主義者もまた、左翼以上に、このコンピューターが支配的な社会の新しい合理主義に異議申し立てをしている。彼らのスタンスははっきりしている。合理主義近代の裏面にへばりついている非合理で近代以前を諸々の形態で想起させる(本当に近代以前にそうした形態が存在していなくてもかまわない)表象や文化の領域を足掛かりにしながら、さらに、伝統を過去へと遡りながら、彼らにとっての社会の正当性の根拠を再構成しようとする。この傾向は、表れは様々であっても、どの社会にも見いだされる反動のプロジェクトである。彼らは、コンピューターの合理主義がとりこぼしている人間の非合理な側面と、これに付随する感情を高度なコンピューターの世界に接合して補完する。あたかもスティームパンクのように、歴史の時系列を伝統や過去への眼差しに依拠しながら未来を観る、つまり未来を過去の伝統に則して、しかし技術のあり方としては高度にコンピューター化されたデータ化された個人の存在を徹底して肯定することで、資本主義の将来をこじあけようというのだ。たぶん、こうした世界は、民主主義を壊死させながら資本主義は生き残るということになりかねない。独裁と民主主義のコンピューターテクロジー至上主義による弁証法的統一、これが資本主義の次の時代を特徴づけるのであれば、私たちもまた、この構造を正面に据えた闘いを模索しなければならない。
 上記で描いたような世界からは見えない世界がある。それは、一般に、フェイクとかポストトゥルースなどと呼ばれて極右の陰謀や政府のプロパガンダ(政府の広報やウェブページのデータの類い、議会の議事録などを含む)や、無名の庶民が引き起こすネットの炎上やリベンジポルノやネットのテクノロジーと深く関わるようなハッカーや金銭動機から政治的な動機に至る「犯罪」とみなされている世界だ。社会が容認しえない動機や情動にコンピューターコミュニケーションの社会基盤は手段を与えているとみなしてしまえば、手段を遮断することで動機の実現を阻止すればいい、という安直な対症療法に陥るが、ほとんどの政治的な対処はこの範囲を超えることはない。他方で、動機を問題にするときには、必ずといっていいほど、社会から逸脱した動機を社会が「正しい」とみなす情動へと矯正(強制)することに向かうことになる。しかし、いま起きているのは上記のようなモデルではない。極右がメインストリーム化し、保守と革新が議会政治では本質的な差異がない存在へと収斂しつつある現在、極右の陰謀と政府のプロパガンダは「正史」の位置を獲得し、政治的社会的マイノリティの言論空間は構造的暴力に晒される。社会から逸脱した動機がある特定の傾向に正統性を与え社会基盤へのアクセスを保障するという事態が世界規模で起きている。こうして、左翼の言説だけが周縁化され、ときには「犯罪化」される。いま起きているのは、私からみて陰謀やフェイクであるとみなしうる事柄が、政府のプロパガンダとともに、その正統性を主張するときに、常に、神話を含む過去の物語が参照される、という事態だ。過去を参照し、過去を再定義するなかで、未来への可能性を見いだそうとする伝統主義だ。
 しかし、左翼はこうした状況に十分に対処できないように見える。過去は未来を創造するための否定的な教訓の書庫であって決してそこに立ち返るべき場所ではない。未来は、ある意味でいえばいまだにありえない世界の一(はじめ)からの創造であり、とりわけ、その条件は、現にある資本と国家が構想できるようなものとは本質的に異なる、つまり彼らには到底理解することができない世界を創出することでなければならない。この任務をいま現在の世界と過去の記憶と記録からなる総括という限られた駒を使って進まなければならない。
 このときにやっかいなのは、資本主義が過去に梃子の支点を置きながらも、未来という時間を先回りして常に彼らの世界のなかに囲い込むことに長けているという点だ。後述するように市場経済と資本の投資行動の基本がこの将来=未来への投企であり、コンピューターもまた予測の技術として開発されてきたという経緯のなかに、未来は過去の軛にとらわれ、私たちが描くべき夢を次々と市場の商品や国家の愛国心が奪いとってしまうメカニズムが存在している。このメカニズムそのものを解体する闘いを組むことが必須である。運動が資本と国家にとっては不可能な夢を見る必要があるのだ。本連載はそのための模索である。
 こうした見通しをもって、本連載が意図していることは以下の点にある。
 第一に、資本主義批判の核心となってきたマルクスの資本主義批判、とりわけ搾取をめぐる理論の拡張である。剰余価値論として商品価値論から導出された搾取の理論に対して、本連載は、マルクスが十分な検討を加えないままにした商品の使用価値を正面に据える。商品の使用価値は、その消費を通じて人々の生活を再構成して人口の日常的再生産と世代の再生産の具体的なありようを規定する。ここで問題になるのは、労働の量ではなく、市場での使用価値の調達から消費に至る過程のなかで商品の使用価値をめぐって形成される「意味」が人々の意識に作用するあり方だ。この過程は、資本主義における意味の剥奪を通じた身体性の搾取であり、これを通じて資本主義において人々は〈労働力〉となる。マルクスの搾取の理論に加えて、より包括的な搾取の構造がここにはある。こうした意味での使用価値を論じるには、狭義の意味での市場だけでなく市場を取り巻く情報環境、コミュニケーションのあり方を視野に入れなければならないが、現代資本主義はこの分野をコミュニケーションの労働化によって資本に包摂するようになる。これまでパラマーケット論として述べてきた議論のアップデートを試みることになる。
 第二に、資本主義の人間嫌いが機械化をもたらしてきた過去の経緯のなかで、人間をデータ化し管理する方向で開発されてきたテクノロジー進歩はいったいどのような思想によって支えられてきたのか。この問題を、行動主義からコンピューター科学へと至る人間を操作可能な対象とみなす道具主義的合理主義を中心に、監視社会を支えるイデオロギーとして批判を試みる。
 第三に、資本主義の基本的な構造を土台—上部構造として描いたマルクスの議論が、その後の資本主義によって脱構築される経緯こそが20世紀資本主義の生き残り戦略の基本にあることから、土台と上部構造が一体化する傾向をもっていることを指摘する。イデオロギーはもはや上部構造ではなく、これ自体が経済的土台が担う領域になる。そして法もまたコンピューターのアルゴリズムやプログラムに取って代られることによって、資本のテクノロジーが優位を占める。
 第四に、こうした傾向を支えているコンピューターコミュニケーションはこれまでのコミュニケーション分析では考慮されてこなかった機械化されフィードバックのメカニズムを内包させた非知覚過程に着目し、プライバシー空間の解体と人々の意識そのものの直接的な包摂を企図するものとしてビッグデータからAIに至るテクノロジーの問題を指摘する。ここでは、資本主義的な人間が機械に対して抱くフェティシズムがAIに対する同一化をもたらす点も指摘する。
 第五に、意識の資本と国家による実質的包摂の可能性に対して、私たちは、パラマーケットと非知覚過程を通じて、私たちの主体をも巻き込んで展開される意味世界がもたらす身体性搾取からの解放のためにとりうるとりあえずの方途について、いくつかの具体的な考え方を示す。人間の意識や行動を道具主義的に把握し操作可能な存在とみなす見方への有力な批判は、コンピューターを支えるプログラム思考そのものの本質に本質的な変更がなされないまま普遍化していることを考えたとき、この道具主義への有力な対抗でありつづけたフロイトの無意識の系譜をいまこの時代に再度検証すること意味のあることだ。とくに、ヴィルヘルム・ライヒからドゥルーズ=ガタリの前インターネット時代に存在した無意識をめぐる対抗政治が、なぜか監視社会化のなかでは影響力が削がれているのだが、いま一度この無意識の復権を考えてみる。


(1)日本の公式統計では、仕事をしたいがここ1カ月仕事が見つからないと諦めてしまえば失業統計に反映されない。実態としては失業者であるのに隠されてしまう潜在的な失業人口を日本の統計では「潜在労働力」と言い換えて失業のカテゴリーから排除する。
(2)たとえば、ジョルジュ・ルカーチ『理性の破壊』は、その早い時期に影響力をもった例だろう。
(3)人類学の知見は、この点で非常に有益な解毒剤になる。たとえば、モーリス・ゴドリエ『経済における合理性と非合理性』(今村仁司訳、国文社)、マーシャル・サーリンズ『石器時代の経済学』(山内昶訳、法政大学出版局)などを参照。
(4)Eduardo Bonilla-Silva、Racism without Racists : Color-Blind Racism and the Persistence of Racial Inequality in America、Rowman & Littlefield 参照。
(5)20世紀の社会主義を標榜する諸国は、いずれも半ば強制的な文化革命やイデオロギーの強制を通じた意識改変を試みて失敗した。教科書的なマルクス主義の教義に従えば、存在が意識を規定するとすれば、社会主義の建設=経済的土台によって上部構造としての意識はおのずとこれに規定されて変容を遂げるはずだから、トップダウンの意識変容の強制政策は不要なはずだ。ところが、そうならないとすれば、そもそもの教科書が間違っていたか、現実の経済的土台が社会主義の名にそぐうものではなかったのか、そのどちらかである。本連載では、この問題に直接アプローチしないが、資本主義がどのようにして人々の意識を資本主義的な意識として再生産するのか、という問題を、市場が供給する商品の使用価値の問題として考えてみる。これはマルスクが『資本論』でやり残した問題でもある。
(6)コンピューター開発の歴史は、20世紀の歴史がいわゆる社会主義と資本主義という二つの体制が共存した70年間の時代を間に挟んでいること、そしてコンピューター開発にソ連を中心とする社会主義圏の科学技術の動向も関わりがあること、このことを前提にすると、コンピューターを支配的なテクノロジーとして選択した体制を資本主義に限定すること自体が果たした正しい認識なのかどうか、という問いに私なりの答えを出しておかなければならないことになる。
 さらに、この問いに加えてやっかいなこととして、ソ連をはじめとする20世紀の社会主義、そして冷戦崩壊後も社会主義として資本主義諸国から敵対視される諸国(中国、キューバ、北朝鮮など)も含めて、これら諸国は資本主義とは本質的に異なるとともに、社会主義と彼ら自身が自称することをそのまま受け入れて社会主義として区別すべきなのかどうか、というもうひとつの問いである。このように問うということは、20世紀の冷戦の一方の当事者を社会主義とみなすことの是非という問題がここには含意されている。社会主義と呼ばれる体制が成立した当時から議論されてきた、社会主義を自称する諸国は社会主義の名に値するのかどうか、という問題は、簡単に解決できない半面、この問題に一定程度の答えを与えないかぎり、20世紀の資本主義にも自称社会主義にも共通するテクノロジーの問題への答えがうまく出せない。
 もし、自称社会主義諸国を文字どおりの社会主義あるいはその萌芽、過渡的形態とみなすにせよ、いずれにしても資本主義とは本質的に異なる統治機構と経済システムをもつ社会であるとすると、そうであってもなお資本主義と共通するテクノロジーの基盤をもっていたとすれば、テクノロジーへの問いを、資本主義とテクノロジーという枠組みで論じることが妥当かどうかが問われることになる。この問題はコンピューター以前の工業化のテクノロジーにも共通する問題だ。

 

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