書けますか?/賭けますか?――『脚本を書こう!』を書いて

原田佳夏

  恋人はサンタクロースと歌った人がいた。私のサンタクロースは、青弓社の編集者だった。……誤解を招きかねない文章だ。こんな紛らわしい導入部を書くハラダは本当に物書きなのか? その自問自答は、去年、2003年のクリスマスから始まった。
 「本を書きませんか?」――去年のクリスマス、とてつもないクリスマスプレゼントが青弓社から舞い込んできた。
  文筆で身を立てたいと一念発起して東京に飛び出してきてはや幾星霜。小説への夢はひとまずおいて、二十歳まで映画を10本も観たことがなかったのに脚本家としての道を選んでしまったハラダ。経理担当者として会社員を続けながら、夜のお仕事と称して舞台台本や映画脚本を書きつづけてきた。制約の多いなか、人とかかわりながら作品を作り上げていく脚本家という仕事のよさもつらさも体験してきた。そんなハラダに、脚本を書くための作法本を書かないかとお誘いがあったのだ。
  これは夢だろうか。いや夢にちがいない。そうだよな、きっと「本を出してあげるから、100万円用意しなさい」と続くのではと、眉に唾をつけながら話をうかがった。ところがどうだ。どうやら、青弓社の編集者は、本気でハラダに本を書かせようとしているらしい。ハラダと書いて「ムボウ」とルビを振ると常日頃吹聴していたが、青弓社と書いても「ムボウ」とルビを振るのだとそのときに知った。
  「かけますか?」ということばが「賭けますか?」に聞こえたのは、たぶん気のせいだと思う。筆の遅さだけはどこに出しても恥ずかしくないほどの大御所ぶりだが、幸いにもその評判は青弓社には届いていないようだ。しかし、よくよく考えるに、年に1、2本の舞台台本で四苦八苦、映画の企画書で七転八倒しているようなハラダが、こともあろうに「脚本を書こう」という作法本を書くなんて。しかも、ご丁寧にタイトルの最後に「!」がついている。正直、悩んだ。「!」について悩んだのではない。この業界で若輩のハラダごときが、作法本を書いていいのだろうかということについて悩んだのだ。しかし、こんな奇特な話はめったにないにちがいない。青弓社が「あ、しまった。ほかにもっといい人がいた」と言いだす可能性は、ハラダが痩せてナイスバディになるより高い。ええい、これも何かの思し召しだ。青弓社の酔狂に乗っかってしまえ。悩んだわりには、二つ返事で執筆をOKしてしまったハラダ。「書くのは早いです」(提出はいつも遅いですとは伝えなかった……)。「1時間で原稿用紙10枚は書けます」「じゃあ、楽勝ですね。350枚、来年の4月刊行をメドにお願いします」
  ――日本には四季がある。思い返すに、今年はその四季の移り変わりを愛でることはなかった。かわりに、移り変わりを恨めしく見送ったのだった。サクラが散り、4月はあっという間に過ぎていった。近刊案内の日付が「6月刊行予定」にさりげなく差し替えられていた。
  そして、ハラダは知ったのだった。物語を作ることと作法本を書くこととの大いなる相違について。知ったなどというなまやさしいものではない。思い切り、いわゆる「ライターズブロック」に陥ってしまったのである。物語はいくらでも書けると自信があった。しかし、人に何かを教えるための文章、自分のことをまとめることがこんなに困難だとは思わなかった。書けない。とにかく書けない。会社から帰ってきてパソコンの前に10時間以上座って、座りつづけて、朝になっても最初の一行が書けない。本当に書けないときのつらさを何に例えればいいのやら。そうだ。バトンを渡せば走るのを止められるのに、バトンを渡せず延々と走りつづけるリレー選手のような気分といったらわかっていただけるだろうか。ちなみに、50メートルを14秒で走るハラダにリレー選手の経験はない。そんなこんなで、のたうちまわりながらも、書き直しを繰り返して、少しずつ原稿の量は増えていった。
  そして近刊案内はいつしか「11月刊行予定」に、それがさらに「12月中旬」に差し替えられるころ、これ以上赤くはできないというほどの赤字が入ったゲラ刷り(印刷するときの元になる試し刷り、校正刷りのこと)が届けられたとき、冒頭の自問自答にエコーがかかった。「本当にぃぃぃ、ハラダはぁぁぁ、物書きと言えるのかぁぁぁ」――酒を飲んだわけでもないのに真っ赤なゲラ刷りは、青弓社にお願いして手元に置かせてもらうことにした。これから文章を書くとき、必ず読み返して、少しでもまともな文章を書けるよう、自らを戒めるために。
  「続けることが才能」――そのことば一つを頼りにここまでやってきた。青弓社には今回の出版まで多大なるご迷惑をおかけしたが、いい本に仕立てていただいたと思う。「こんなハラダでも書けるんだから、私だって脚本が書けるはず!」と多くの人が早合点して脚本に手を出してくれたら、新しい才能がたくさん出てくるやもしれぬ。そのキッカケになれたら幸いである。
  これからも遅々とした歩みかもしれないが、それでも人の心に何かしら届くものがある物語を紡ぎつづけていきたいと思うハラダであった。

水崎雄文『校旗の誕生』「趣味的な研究」からスタートして

 校旗についての印象は人それぞれに違っているが、一般的にはいかめしいものとして受け止められているようだ。校旗の史料を求めて各地の図書館を訪ね、多くの学校史を調べてきたが、人を楽しませたり喜ばせたりするような、感動的でドラマチックな校旗に出合うことはなかった。こんなおもしろくない校旗を調べて歩こうというのだから、風変わりといわれても仕方がない。福岡県のある高校を訪ねたときに、校長が「何しているのだ」と言わんばかりの怪訝な顔をしたのを思い出す。退職教員と名乗るだけしか肩書がない素人研究者には、対応も冷たかった。
 とはいうものの、当初の私の調査はとてもずさんなものだった。校旗は学校創立と同時に誕生したものではないことを知っていたから、学校創立から校旗制定までどれくらいの期間が経過しているかを興味半分に調べるだけだった。高校教員を退職したあとの趣味としてはそれだけで十分だった。したがって、最初は貴重な史料もコピーせずに、持参した小さなノートに学校創立年と校旗制定年を簡単に筆記する程度でしかなかった。本格的に調べるようになってから当初のずさんな史料調査をおおいに悔やんだ。当時は校旗のデザインに興味がなかったのでコピーをとらなかったが、これも、いまとなっては残念である。
 ところで、私の大学での卒業論文は九州中世史だったが、そのとき助手だった瀬野精一郎さん(現・早稲田大学名誉教授) から「一等史料、二等史料」という言葉を聞いた覚えがある。三等史料という言葉を聞いたかどうかは覚えていないが、今回私が原稿を書くためにおおいに利用した学校史は、この三等史料なのである。中世史研究では、中世の原物は、文書だけではなく書画や器物にいたるまで残っていることは少なく、これらの史料は落書き、戯画の類まで一等史料なのである。これらを直接解読して論文を作成するのが最も理想的な研究であり、瀬野さんは、できるだけ一等史料を利用することを心がける方だった。この研究手法の正しさは近世や近・現代の研究でも言えるのだが、原物史料を直接手にすることができるのは限られた研究環境の人でしかない。二等史料は専門家が精緻さを心がけて解読し、それを公刊したものだが、まれに誤読している可能性がある。しかし、一点しかない原史料を多数の人が利用することはできないので、現在の研究の主流は二等史料利用ということになる。しかし校旗の研究は、それ以下の三等史料に頼らざるをえなかった。
 学校史を執筆するうえでまず大切なのは、一等資料に基づいて正しく過去の事実を伝えることだが、実情は、一等史料がないために過去に編集・出版された校友会誌などの記事を利用することが多い。また、執筆者の主観的な立場での史料の取捨選択や叙述は避けられず、その点でも学校史はまさしく三等史料である。今回の執筆にあたって手にした校史は、利用しなかったものも含めると400を超えると思われるが、内容は種々雑多だった。根本史料を丹念に収集して、それに基づいた精緻な考証がうかがえる優れた校史も多数あったが、その一方で、やたら史料を羅列した見かけ倒しの分厚い校史、あるいは、やや詳細な年表程度というページ数が少ない校史もあった。しかし、学校史の編集にかかわった経験がある私にはその苦労もわかり、これらを非難する気持ちにはなれなかった。とはいえ、著述内容を百パーセント信用することだけは避けたつもりである。
 そもそも、学校史は創立百周年や何十周年という記念事業の一環として発刊されるのだが、早くから事業の計画を立てて優れた執筆者と十分な資金を用意した場合は別として、一般には現職の教員が執筆・編集の中心になっているところが多い。私も日常の教職活動と並行して校史を執筆・編集したが、原稿完成までの半年間は連日大変だった。最後の3カ月は、授業の合間の10分の休憩時間にも原稿執筆に追われる毎日だった。公務のかたわら執筆する教員たちの校史に多大な成果を求めるのは酷なことである。それだけに、各地の図書館でほかと見劣りがする校史と出合っても、苦労が察せられた。校旗を制定した年月日だけしか記述されていない校史であってもありがたかった。たとえ1行でも校旗誕生についての記述があれば利用した。可能なかぎり多くの校旗誕生の事例を集めることによって、今回の著書はできあがっている。これらの校史の執筆にあたった各地の先生方にはこの場でお礼を申し上げたい。
 最近の公立図書館は地域の資料収集に力を入れていて、郷土資料閲覧コーナーや別室の郷土資料室を設置するところも多くなり、学校史の収集も進められている。しかし、まだ一部の図書館では学校史を三等史料として扱っている形跡がみられる。2001年11月に長崎県立図書館の郷土資料室を訪れたが、ここは近世長崎の研究資料が豊富で、そのときも多くの人が訪れていた。私の依頼に対して司書は閉架書庫のなかをいろいろ探してくれたが、学校史は一冊も出てこなかった。学校史を郷土資料として重視していないのである。私は九州に住んでいるが、著書のなかで長崎県の校旗に論及できなかったのはこのような事情によるものである。
 今回の著述に先立つ論文「近代日本史のなかの旧制中学校旗」(文部省科学研究費補助『戦後身体文化における日本・韓国比較研究』報告書所収)に対して何人かの先輩から「従来の研究の盲点を突いている」との指摘を受けたが、趣味的な研究から始まって専門家があまり利用しない三等史料の校史を各地で調査して収集したことが、このようなありがたい評価になったようだ。

謝 黎『チャイナドレスをまとう女性たち――旗袍にみる中国の近・現代』旗袍をめぐるときめき

 チャイナドレスは中国語で「旗袍」(チーパオ)といいます。
 中国の服飾史で、名称を変えずに時代を超えてきたのは、「旗袍」が唯一の服といえるでしょう。私も、この旗袍のすごさに引かれ、実物の収集や研究を続けてきました。
 しかし、最初に日本にきたときには、観光地でみやげ用に売られているような旗袍にはちっとも興味がありませんでした。私が生まれた時代の中国は、ちょうど民国期の文化や歴史が批判されるときだったのです。そんな環境に育った私にとって、華やかな旗袍の歴史なんて、遠い昔の出来事にすぎなかったのです。
 ところが民国期の旗袍と出会ったときに、私はたちまち魅了されてしまいました。なんて美しいこと! しなやかで見たことのない生地や、エレガントなデザイン。窮屈な感じがしないのに体にフィットして、まるで着ていないみたいな着心地です……。
 それはまるで、現代の旗袍とは別物でした。なんで?……不思議に思いました。そんな旗袍がどのような歴史をもっているのだろう? 誰がどのような社会環境で着ていたのだろう? そこから私の旗袍に対する関心が深まっていったのです。
 私が民国の旗袍と出会い、その虜となり、着用する機会が増えてきてからのことです。日本から中国に帰国したある日のこと、上海の空港に父が迎えに来てくれました。私は上海にふさわしい服と思って、自分が気に入っている1940年代の灰色の麻の上着を着て帰ることにしました。しかし、私を見た父の反応は意外なものでした。「これ何?なんでこんな地味な服を着るの?」と疑問を投げかけられたのです。さらに家に着くと、今度は待っていた母が、「ここにいる間はお願いだから、こんな服を着ないで。近所の人にみられたら、みっともないよ」といわれました。
 私には、両親が何を言っているのかまったく理解できませんでした。この麻服は日本では好評で、それを着ていると、周りのみんながうらやましがってくれます。それなのにどうして両親は、こんなことを言うのでしょうか。
 その疑問を母に向けると、こんなことを話してくれました。「昔、このタイプの麻服は、金持ちの家で雇われていた女中さんが着るものだったのよ。昔の中国服を着るのはかまわないけれど、もっと華やかな服を着てちょうだい」と。
 私は旗袍の歴史や、それを着る人の社会背景について無知な自分を感じるとともに、母がまだ民国社会を引きずっていることを知りました。私たちにとって過去と思われる歴史は、いまの中国社会ではまだ生き続けているのです。 
 私はそのときには、父と母の気持ちを考えて麻服を上海で着ることはあきらめましたが、日本に戻ってきてからは逆に、このような「地味」な服がさらに気になるようになりました。いまの中国社会では忘れ去られようとしている服を通して、民国期の女性が何かを語りかけている気がするのです。
 それからは上海に帰るたびに、図書館で資料を探し、本屋では関わる本を買い、いろいろなところで実物を収集するようになりました。民国期の女性たちはどんな思いでこれらの服を着て、どんな生活を送っていたのだろうか。
 そんな調査を積み重ねていた、ある年の大晦日のことです。両親と年末年始をすごそうと上海に帰ったときにも、いつものとおり、上海図書館で資料を調べていました。中国では大晦日は家族全員で夕食をとるのが伝統です。ですから、夕方の時間帯にはみんなが一斉に移動をするためにタクシーがつかまらなくなってしまいます。
 私もその日は早めに帰ろうと思っていましたが、ついつい調査に熱中して、気がついたときには夕方になってしまいました。図書館のなかはガラガラです。タクシーなど、つかまるはずもない時間帯です。「どうしよう、家に帰れない……」と思ったときに、図書館の職員が大きな声で私の名前を呼んでいました。母が私の行動を予測して、上海図書館まで迎えに行くようにタクシー会社に電話してくれたのです。そのときはさすがに、母の愛と先見に感心しました。おかげで無事に大晦日を家族とすごすことができたのです。
 普段は日本にいることが多い私にとって、上海で調査をすることはほかの日本人と同様に、驚きやドキドキの連続です。でもそんな経験を通してさまざまなことを知り、多くの人と出会えることができるのも、旗袍の魅力のひとつなのでしょうね。これからも、この本をきっかけにして、たくさんの旗袍を好きな方と出会えるといいですね。

喜多村 拓『古本迷宮』本を愛する者がみる現実

 本はゴミだ、という断言が、この本には何回も出てきます。夏目漱石も芥川もゴミだと言い切る尊大さ。芥はゴミですが、芥川や漱石もかと言う方がいるかもしれません。この本を読んで、実に不遜な古本屋だと怒りだす読者もいるでしょう。実際、本がゴミにされる現場を見たことがない人に、この本から現実を直視してもらいたくて書きました。
 ペットブームの陰で、推定で年間五十万匹の動物たちが処分されているように、本は見えないところで大量虐殺されているのです。そのうちのひとりが古本屋なのです。毎週、筆者である古本屋のおやじは、処分を頼まれた純文学系の文庫本、文学全集、美術全集を車で捨てにいきます。芥川だけではない。ゴッホもセザンヌもゴミになります。最終処分場に捨てに行ったのは数年前のこと。リサイクル法が施行されてからは、古紙回収の業者の立て場に持ち込みます。千、二千冊ではきかない店の売れ残りの本も、ドドドドと本の山にぶちまけてきます。その現場を愛書家が見たら、きっと卒倒するにちがいありません。その本の山はブルドーザーで寄せられ、機械で四角い形に圧縮されて、ダンプカーでダンボール箱を作る工場などに運ばれていきます。
 本を愛してこの商売を始めた人にとっては、やがて時代とともに本が粗末にされていくのは見るにしのびない。いまや古本屋は、本が嫌いでなければ勤まらない。本に対して冷酷無惨、残虐なほど本を殺せる人でなければ、やっていけないのが現状になりました。
 この本に登場する北村古書店のおやじは、ホロコーストに遭っている本を救おうと、自分の店を本の駆け込み寺にします。その結果、増殖しつづける本に埋もれて身動きもとれなくなります。こんな本の受難の時代を、ブラックユーモアとして揶揄するだけではない。このまま突き進めば、世の中はどうなってしまうのだろうかという嘆かわしさから、近未来を予言してみました。
 それでも、本が売れないとボヤくのはまだ早いのです。読者がいないと諦めるのもまだ早いのです。これは、地方の一古本屋が四苦八苦しながら、あれやこれやとひとり格闘している涙ぐましい物語でもあります。いまこそ本を救わなければならない。そのために北村は立ち上がった……。
 と言うと、格好が良すぎますが、これは、その暇な古本屋が、暇にまかせて帳場で書いた、古本にまつわるバカげた話なのです。

古賀令子『コルセットの文化史』コルセットの時代[シーズン]、再び?

 毎シーズン発表されるパリ・コレクション。ファッション・クリエイターたちはみずからの創造や提案を世界に問うために、ジャーナリストやビジネス・ピープルたちはその新しい芽をいち早くつかみとろうと、世界中から集まる。2004-5秋冬コレクションの大きな話題は、ジャン=ポール・ゴルチエがクリエイティブ・ディレクターとなったエルメス社のコレクションだった。
 マドンナのセンセーショナルな衣装製作者としても知られるゴルチエは、幼時の「祖母のコルセットの記憶」にこだわりつづける。その名を冠した香水のボトルもコルセットをならっている。そして新エルメス・コレクションにもその刻印が押されたのだ。
 コルセットはいつから存在したのだろうか?
 コルセットに似た衣服は古代にもあった。地中海クレタ島の女性たちは、膨らんだスカートで下半身を覆う一方、ウエスト部分を細く締めたらしい。出土した多彩色テラコッタの女神像は、こうしたコルセット風の服装で身を包んでいる。しかし、クレタの文化はギリシャに滅ぼされた。そして、古代文明のギリシャ・ローマではゆったりした巻衣が主流で、女性性の身体的特徴にあまり価値を見いださなかったらしい。中世以降、オリエントなどの影響もあって衣服が立体化して男女差も確立し、女性の身体の曲線美を紐締め[レイシング]によって表現するようになった。
 ルネサンス時代に入ると女性服立体化の技巧は進展し、大きく膨らませたスカートの上半身は、堅く糊付けした麻地を張り骨[ボーン]で補強した胴着[ボディス]を強く紐締め[レイシング]するようになった。当時のヨーロッパ各地の宮廷ではそれぞれ多少の違いはあったものの細いウエストが好まれ、女性だけでなく男性もその細さを競ったという。イギリスのエリザベス一世も、強く締めた胴着[ボディス]とスカート枠[ファージンゲール]とでかっちり構築した豪奢な衣装姿の肖像画を残している。胴着[ボディス]は張り骨[ボーン]と紐締め[レイシング]の構造によって次第に本格的コルセット化するが、「コルセット」という呼称がイギリスで使われるようになったのは17世紀頃である。
 しかし、18世紀末、コルセットはその姿を消す。王政からモードまであらゆる旧体制を覆そうとするフランス革命の時代、宮廷スタイルの象徴としてコルセットも否定され、新しく台頭した直線的な新古典主義[ネオ・クラシシズム]スタイルはナポレオンの帝政から公認されたのだ。
 しかし、短期間の帝政崩壊後、再び女性の身体の曲線を誇張するシルエットが復活する。19世紀は、ブルジョワジーたちの価値観が時代を支配した。男女の役割分化が確立して女性にはあくまでも女らしさが求められ、機能を無視した装飾的・技巧的なモードが階級の印となった。コルセットは復活し、王侯貴族から労働者階級にいたるまで、選択の余地なく着けるべきものとなった。コルセットは女性専用ではなかった。伊達男のなかにも着用する者がいたらしい。流行によるフォルムの変遷や製作技術の進展・革新などによる変化は多様だったし、極端な紐締め[タイト・レイシング]の害を問題視する医学者や女性運動家たちによるコルセット批判もやかましかったが、コルセット着用は、世紀を超え第一次世界大戦まで続く。
 20世紀初頭、モードが女性たちのコルセットを脱がせた。後に「モードのサルタン」とも呼ばれるポール・ポワレらが提案するシンプルで緩やかな新しいモードが、コルセットを流行遅れにし、徐々に社会進出を始め、テニスやゴルフなどスポーツを楽しむようにもなっていた20世紀の女性たちは、コルセットに代わってブラジャーを採用するようになったのだ。
 コルセット・スタイルが復活するのは第二次世界大戦後、クリスチャン・ディオールの「ニュー・ルック」発表による。「整形下着[ファウンデーション]なしにモードはありえない」というディオール自身の作品は服そのものにコルセットのような張り骨[ボーン]が入っていたが、「ニュー・ルック」を追う女性たちは、少しでもウエストを細くしようと整形下着[ファウンデーション]を求めた。しかしすでに合成繊維が導入されてストレッチ性を備えた整形下着[ファウンデーション]は、以前のコルセットとは別のものだった。
 服の内側で身体を締め上げる伝統的コルセットは、モードの主流を外れた。しかし、コルセットはいまなお無視できない存在でありつづける。「内なるコルセット」として、「表着化したコルセット」として。
 コルセットから解放されたはずの現代女性を縛る「やせ願望」という「内なるコルセット」の締め付けは緩まる気配がない。モード誌のダイエット特集に整形美容医までもが加わって女性たちの「やせ願望」を強迫観念化しているようだ。
 そして、伝統的コルセットは、ロックやストリート・シーンなどでそのフェティッシュな存在感が再評価されている。こうしたサブ=カルチャーと共振するアヴァンギャルドなデザイナーの旗手ゴルチエらが、再びコルセットをモードの表舞台へと引っぱり出した。ヴィヴィアン・ウエストウッドやクリスチャン・ラクロワ、アレキサンダー・マックイーンらも加わった、過去の下着を「見せる」モードへ変貌[コンバート]する作業は、現代モード界に大きな影響を及ぼした。表のフォルムを支える裏の存在から、「見せる下着」という新しいコンセプトを得て表着となったコルセットは、その身体との密着性によって身体を誇らしげに顕示するツールと化した。
 そしていま、新しい「コルセットの時代[シーズン]」がやってきたのだろうか。パリで、そして東京でもクリエーターたちがコルセットを作り出している。「洋服」を日常着としながら、「祖母のコルセットの記憶」をもたない私たち。現代のコルセットは私たちの衣服の記憶に何かを残すのだろうか?

藤田ひろみ『あなたと聴く中島みゆき』こうして私はなろうとして中島みゆきさんのライターになった

 中島みゆきさんの『夜会』のプラチナチケットが、今年は2回分手に入った。京都-東京間を二往復する間、新幹線の窓から富士山を眺めて、「偶然に富士山に登った人はいない。登ろうとした人だけが登ったのだ」という言葉を私は思い出していた。私は偶然に中島みゆきさんのライターになったのではない。なろうとしてなったのだ。
 3年ほど前になる。私が主催している女性のためのグループで、もし余命があと3カ月、6カ月、1年と宣告されたら、それぞれ何をするかという、自分の生き方が問われるワークショップをおこなった。余命1年の場合、私の答えは「中島みゆきさんの論文を書く」だった。
 どんなときも中島さんの曲と向き合って、自分にとっての意味を考えてきた。それが消えてしまわないために、ほかの人が読んでもわかる文章にして残そうとしてきた。それをまとまったものにしなければ死ねない、私は迷わずにそう思ったのだった。
 そのさらに2年ほど前のこと、本書でも紹介しているFMIYUKIが立ち上がったときのことだ。私は東京まで記念のオフに出かけて行って、臆面もなく「中島みゆきさんのライターです」と宣言をした。誰かから認められていたわけではなかった。でも私のなかでは、自明のこととして私は中島さんのライターだった。
 中島さんについてのエッセー(「中島みゆきと癒し」として本書に所収)をグループの通信に連載しながら、これがいつか本になったらすごいよねと夢のように考えていたが、本当に実現するとは思っていなかった。ただ、いま振り返ってみて思うことは、勝手にライター宣言した日から、私は一度も迷わなかったし、一度も後戻りしなかったということだ。自分の内的必要性に応じて、私は自分のペースで書きつづけた。
 学会誌「女性学」に投稿した論文は、いまから思えば私にとっての大きな転機だったが、それよりも私は『夜会 金環蝕』が伝える、女性の解放と連帯というすばらしいメッセージを多くの人に対して明らかにできたことがうれしかった。
 実は、「女性学」への投稿は最初『金環蝕』と『問う女』というふたつの『夜会』を扱っていた。それが選外となり、私は『金環蝕』に論点を絞って再挑戦したのだった。したがって『問う女』で私が取り上げたかった問題はそのままになってしまったので、今度は修士論文で取り組んだのだった。そして修士論文が今回の執筆に結びついた。余命があと1年になったわけではなかったが、私のなかでは機が熟していたのだと思う。
 こんなふうに振り返ってみると、自分のなかで常に変わらない姿勢がありながらも、一歩一歩階段を登るように今回の出版に自分で近づいていったのだと思える。そして私は書くときはいつもひとりだけれど、見守り支えてくれる仲間や家族がいて、関わりのなかで自分を見つめることができるから、書くことが血肉をもつのだと思う。その意味で、本書にも書いたとおり、中島さんが『誕生』に込めたメッセージを、私は出会えた全ての人たちに感謝の気持ちを込めて贈りたいと思う。
 こうして私はなろうとして中島みゆきさんのライターになった。山を登るように一歩一歩近づいていった。ところが、思いがけない出版ということで、最後の急坂は全速力で一気に駆け上がらなければならなかった。私はいまも息を切らしている。それにもかかわらず、次の山をめざそうとしている自分もいる。人生には流れに乗る勢いが必要なときもあるだろうと思っている。それはそれとして、自分の出発点を見失わないためにこの文章を記した。あとがきに代えて。

米村みゆき『宮沢賢治を創った男たち』読者にとってどうでもいいこと

 いわゆる研究書と呼ばれる書物を手にとると、まず最初に「あとがき」を見る人は結構多い。これは、どうやら、私と同じ“業界”に棲んでいる人たちにとりわけ多く見られる習性らしい。『宮沢賢治を創った男たち』を手にした同業者の何人かが、同書の「あとがき」を読んでびっくりした、と伝えてくる。最初に「あとがき」を見て驚いた、というのだ。
「あとがき」には、お世話になった先生方のお名前や、自分を支えてくれた家族の名前を連ね、感謝の意を書くこと、いわゆる謝辞を記すのが通例……とまではいえなくとも、とても多い。私がこの先達の轍を踏まなかったのは、お世話になった先生がいないとか、親族から追放の扱いを受けているから、とかいうわけではもちろんない。たとえば、学位論文を審査した大学教員の方々は、宮沢賢治の作品は大嫌い、であったとしても、大部の論文を一字一句骨を折って読んでくださっただろうし、そういう私もいま、クリスマスも大晦日もお正月も返上して学生の書いた卒業論文(の下書き)を読んでいる立場だから痛いほどわかる。数年来お正月に顔を見せないと文句を言う家族だって、昔はともあれいまは、絶縁するほどには私を恨んではいないはずだし、私だっておせち料理用のたしにと北陸名産かぶら寿司を贈っている(私は以前、金沢で暮したことがある)。
 ただ、私は「○○先生、ありがとうございました」「妻の○○へ、この本を捧げる」という特定の固有名へ向けられた語句を目にするとき、名指しされていない、同書物を手にとる読者の大半にとっては、蚊帳の外に置かれた気分になるのではないのか、と思っているのだ。この感じ方には個人差はあるかもしれない。しかし、やはり教員や家族への謝辞を書いていない筆者に理由を尋ねると、「そんなことは、読者にはどうでもいいことだから」という返答があった。あるいは、なかには家族への謝辞をパロディ化して、洗濯機の愛妻号ありがとう、という「あとがき」を記した研究者もいて、つい吹き出してしまった。
もちろん、先生を崇拝し、家族想いの著者であるというメッセージを伝えることはできる。しかし、多くの読者へ向ける言葉としてわざわざそんなパフォーマンスをするのは遠回りだ。また「あとがき」で固有名を出された人たちが喜んだり、その人のメリットになっているとは限らない。この著者とあの先生はお仲間なのね、とカテゴライズされたり、単に審査のために読んだだけなのに「○○先生ありがとう」と書かれて、その著者を後押ししていると誤解され苦笑いをしている人だっているのだ。 
閑話休題、この欄は「原稿の余白に」なので、『宮沢賢治を創った男たち』の書物には、綴らなかった私の個人的なことに少し触れたい。同書のプロフィールを見た人から、経歴に関する質問が多いからだ。私は、名古屋にある大学の外国語学部を卒業した。大学在籍中になんらかの“変節”があって、日本文学に転向したわけではない。不本意入学だった(英語の教師になってほしいと思っていた親が入学金を同大に納めてしまった)。しかし、大学生活に息苦しくなり、大学の姉妹校に留学をした。ある文学の講義では、教室が若い人から年配の人たちでいっぱいになり、熱心な議論を繰り返していたことが印象的だった。日本文学を学ぼうと進学した別の大学の大学院では、自分で学費を稼ぐ人が少なくなく、私も貯金やアルバイトで遣り繰りし、書籍代を捻出するため頭を痛めた。調査のために名古屋から東京へ、あいだに国会図書館をはさみ、さらに岩手県・花巻まで夜行バスを乗り継いで移動し、とても疲れたことを覚えている。数年、家賃が二万円に満たない下宿屋さんにお世話になった。コンセントも一つしかなかったので、冬は暖房機はあまり使えずとても寒かった。博士課程のときに韓国・ソウルに語学留学したのは、大学院に韓国からの留学生が多かったことが大きなきっかけだ。みんな、日本語を流暢に話せるのに、日本人の日本文学研究者たちは、韓国語を話せない、学ぼうとしないことに疑問を抱いていた。留学の経験のおかげで、いま、学生を韓国の研修に引率したりしている。

佐倉智美『女子高生になれなかった少年――ある性同一性障害者の青春時代』のちに女子大生になったワタシ

 『女子高生になれなかった少年』がようやく世に出た。1年あまりにおよぶメールマガジンでの連載が終わってから、さらに1年あまり。そのあたり当世の出版事情の厳しさなどが垣間見えなくもないのだが、なにぶん本書の舞台は1980年代、私の“高校・大学時代”なので、執筆と出版のタイムラグはさほど問題ではない(その点、初著『性同一性障害はオモシロイ』〔現代書館、1999年〕では、この問題が大きかった。執筆時にはまだパートタイムで“女装”するだけだったのが、出版時にはほぼフルタイムで女性として生活するようになっていたりした)。
 それよりむしろ現在の高校生・大学生が本書を読んだときに、1980年代という時代背景が昔すぎて理解しにくいという問題が発生しないかが多少心配である。なにせJRはまだ「国鉄」。音楽聴くのもCDではなくアナログレコード。なにより携帯電話もインターネットもない。だから「そーゆーときは、まずメールしてみたらエエやん!」とツッコミを入れられそうな場面も少なくないが、そんな便利なものがなかったんだからしようがない。
 しかし本当のところ、1980年代と現在とでもっともちがいが大きいのは、じつはセクシュアルマイノリティをめぐる情報の質と量かもしれない。インターネットの有無とも関連するが、現在とくらべれば当時はそうした情報が格段に入手しがたかった。したがって自分のセクシュアリティについて正確に把握するための考察もできなかった。だからこそ私は、悶々とした謎の違和感を抱えたまま、貴重な青春時代を男子生徒・男子学生として過ごさなければならなかったのだ。
 その点、現在は恵まれている。例えば小学生からも、「5年生の女子です。でも自分は男子のほうがいいと思っています……」などという相談のメールをもらったりするくらいである。これは、早い時機から具体的に悩まなくてはならなくなったとも考えられるが、やはり自分がどういう存在なのか、なるだけ早くわかるほうが、次への対応がはるかにとりやすいので、おそらくはよいことなのだろう。自分の心の性別はこうなんだ、などと自覚さえできれば、学校に対する要望なども整理できるし、進学・就職に関する作戦だって立てられる。そうして、場合によっては「女子高生になる」という本人の希望を、百パーセントではなくても叶えることができるかもしれない。
 そういう意味では、最近の若い世代がうらやましいのはたしかである。同世代のセクシュアルマイノリティ仲間と飲みに行くと、そんな話題でひとしきり盛り上がることもある。とはいえ、私たちも現在ではこうあるべき自分・そうなりたい自分として生きているわけである。いまちゃんとしている以上は、将来「あのときちゃんとしていれば……」という後悔を現在以降に対して抱くことはないということだ。しょせん人生、前を向いて歩いていくしかないだろう。
 ちなみに私は2003年4月、大阪大学大学院の人間科学研究科に入学した。昨今は講演の機会が増えてきたこともあり、あらためてジェンダーにまつわるさまざまな事柄を勉強しなおしてみたいというのが公式な理由である。だがもちろんもっとヨコシマな動機も他にあって、その最たるものは「女子大生になってみたい」だろう。いざ入学してみると、大学院というところは年齢不詳・正体不明の人の多いこと! 私もそうだったのだが、社会人特別枠を利用して入試を受ける人は少なくないようで、なかには先生と見まごうような年長者もいる。そんな環境で、私が女子大生として楽しく過ごしているのは言うまでもない。女友達とノートの貸し借りをしたり、昼休みにはいっしょに学食でランチなんてこともある。もちろん勉学にも励んでいる……つもりである。
 願いはいつかは叶うのだ、なのかもしれない。

出口 顯『レヴィ=ストロース斜め読み』世界に一つだけの花

 余白については本書第8章「余白のフィロソフィー」でマンダリ人の神話を分析しながら論じたことでもあるが、本やその原稿の余白について語ることは必然的に本と原稿の内容を逆に余白化することであり、本来のものとは別の本をつくる営みになってしまう。だからそれは舞台裏やこぼれ話を語ることと決して同義ではない。
 例えば、本書はこれまでレヴィ=ストロースについて書いてきた論文を中心に編まれた論集だが、校正の段階で原稿を読み返して、誤解されつづけてきたレヴィ=ストロースの思想のよりよい理解のための「狂言回し」であるかもしれないにせよ、レヴィ=ストロース同様あるいはそれ以上に、柄谷行人の『探究Ⅰ・Ⅱ』にこだわりつづけているということは、文章そのものからわかる。そして、たとえ自分自身でそのこだわりを「再発見」したにせよ、原稿の余白として記すべきことにも思われない。同様に、他ならぬこの私が他ならぬこの私に執着することをなんとかしたいと、「個」「人格」「身体」「関係性」などの構造主義的理解を研究テーマにしてきたことも、本文とくに第6章から読みとれることであり、これもまた余白とはいえないだろう。余白とは、語ることができないから余白なのである――と述べたところで、ここでの責を免れるとも思われない。だから以下の余白ならぬ空白のページを埋めることになるのは、本書の基調音の変奏というべきだろう。
 代替不可能性、かけがえのなさということを考えてみよう。売り上げがダブルミリオンに達したSMAPが歌う「世界に一つだけの花」の歌詞ではないが、一人ひとりの個人はもともとお互いに違う「特別なオンリーワン」である。この歌では、だから「ナンバーワンにならなくていい」し、たとえ一卵性双生児、クローン人間であっても、なお彼らはかけがえのない個体であり、代替不可能ということになる。その意味での「オンリーワン」である。
 この歌の1番の歌詞では「それなのに僕ら人間はどうしてこうもくらべたがる、一人一人違うのにその中で一番になりたがる」とある。これは19世紀人類学の思想を彷彿とさせる。そのころ欧米に登場した人類学は、文明の絶頂にいた欧米を発達の頂点に位置づけ、そこからの隔たりに応じて世界中の文化を階層的に配列するという、エスノセントリズムに基づく比較を試み、人類の文化の進化を跡づけようとした。「世界に一つだけの花」はこうした、今日のわれわれにも根づいている考え方を批判しているといえよう。
 歌の最初(シングルバージョンのみ)と最後で「ナンバーワンにならなくてもいい、もともと特別なオンリーワン」と歌われる。つまりどんなに見た目は異なっていても、逆にどんなに似ていて遺伝子組成が同じでも、優劣をつける比較の対象にはならない、ナンバーワンを決めるような序列的比較は無意味だといっているのだ。これは進化論的比較を批判し、それぞれの文化の独自性を主張した文化相対主義の立場といえよう。人であること(歌では花であること、「そうさ僕らは世界に一つだけの花」)以外は共通点がないのだから、かけがえのない個体だというレベルでとらえるとき、共通なものがないなら、比較は無意味ということになるのだ。
 しかしこのような文化相対主義には支払うべき代償がある。違うのだからそれぞれの固有なものを大事にしなければならないと説くことが、その固有なものを守るために文化の間に隔壁をつくることになり、さらにそれが人種差別につながりかねないおそれも出てくるのだ。
「共通なものがないなら、比較は無意味ということになる」と述べた。しかし互いに全く異なっているということにおいて、じつはお互いが同じだということもいえる。「他と同じ性質を全く有していない」という共通の=同じ特徴を個々が有しているのである。代替不可能という意味での差異が全ての個体の共通性、あるいは同一性になるのである。つまり「違うことは同じこと」であり「同じことは違うこと」なのである。これは荒唐無稽に聞こえるかもしれないが、人間の個の関係、自己と他者の関係はまさにこのようにしか表現できないのであり、「自己は他者でもある故にかけがえのない自己になる」のである。神話や婚姻の透徹した分析と強靱な思考力で、レヴィ=ストロースが明らかにしたのは、こうした自己と他者の関係性の「構造」なのである。そして、「そうさ僕らは世界に一つだけの花」の「花」とかそれが意味する「人」とは、たんに分類のための普通名詞なのではなく、じつは「他者であるゆえに自己である」個それぞれに与えられる名前といえるだろう。
 このような思考に到達できるとき、われわれは、文化相対主義の代償を回避できるのではないだろうか。

長谷正人/中村秀之編著『映画の政治学』 他者の感受性を触発する映画的コミュニケーションを――長谷正人

 映画をめぐる言葉が、いまあまりにも貧しいのではないか。映画作品を映画作品としてまともに論じようとするような批評がほとんど存在しないのではないか。そういう空虚な状況に少しでも抗おうと考えて、この『映画の政治学』という(映画批評というのとは少し違うのだが)論集を中村秀之とともに編んだ。むろん反対に、ある意味では映画をめぐる言葉はいま世の中にあふれかえっていると言えるのかもしれない。これを書いている現在ならば、『踊る大捜査線 THE MOVIE2 レインボーブリッジを封鎖せよ!』 (本広克行監督)と『座頭市』(北野武監督)をめぐってマスメディアが大量に流している情報がそうだろう。前者が大ヒットして実写映画としての観客動員数の新記録を更新中であること、後者がベネチア映画祭の銀獅子賞を受賞したということ。これらの情報はここ1カ月ほどのあいだ、マスメディアを賑わしつづけた。
 しかしでは、これらの作品の内容、主題、出来ばえなどについての批評の言葉があるかと言えば、ほとんどないのだ。そもそも両作品とも、別の作品の二番煎じ(続篇とリメイク)として作られたわけなのだから、以前の作品として比較して批判されるのが普通だと思うのだが、そのような批評はほとんど見られなかった(実際、両作品とも、そのような批判をかわすように巧みに作られていることは間違いないのだが、その工夫のありようにさえほとんど誰も言及しないのだ)。マスメディア上で問題とされているのは、それらが「面白い映画」であるとか「駄作」であるというメディア自身の判断では決してなく、記録的にヒットしたとか外国で賞を取ったとかいった、メディアにとっても作品にとっても「外在的」なデータばかりである。つまり、こうした作品をめぐるマスメディア情報は、「作品」自体について語ることだけは避けて通っているのだ(しかし『踊る大捜査線』でさえ、決して批評する価値がない、ただの情報エンタテインメント作品ではないと思う。それはお台場というメディアイメージ化された観光スポットへと人びとの欲望を吸引するための情報エンタテインメントにすぎないことを自ら暴露しながら、実は情報映画として機能するという、用意周到な自己韜晦的映画なのだから)。
 むろんこうしたマスメディアの流す情報とは違ったところで、インターネット上の掲示板や日記には「映画作品」をめぐる多くの人びとの感想や批評が書き込まれていることも事実だろう。その意味では確かに、現代ほどさまざまな映画批評(?)を読める時代はないとも言える。だが私はつい先だって、やはり今年ヒットした『黄泉がえり』(塩田明彦監督)をめぐる批評や感想の言葉をネット上で次々と読んでいるうちに、なんだかげんなりしてきてしまった。要するにそれらの感想は、「泣けました」という絶賛か、さもなければ「思ったほど泣けませんでした」という酷評に二分されてしまうのである。つまりこれらの感想は、この作品との対話を通して評者が思考したことや想像したことを書いているのではなく、たんに自分の感覚がどれだけその作品に刺激されたかを報告しているだけなのだった。これではまるで、新しいジェットコースターの乗り心地を報告し合っているみたいではないか。「いやあ、今度のマシーンはスリリングだったよ」とか「そうかな、思ったほどでもなかったよ」などと。
 しかし『黄泉がえり』に観客が泣くということは、このような刺激-反応図式からは最も離れた地点に起きる出来事ではなかったのか。例えばイジメを苦にして自殺した男子中学生が、自分の葬式の最中に「黄泉がえって」くるエピソード。ここで観客は、彼がどのようにイジメを受け、どのように苦しんだのかをイメージとしてもセリフとしても全く知ることはできない。ただ結果的に黄泉がえって再び学校の自分の席に着いた彼が、その机の上にひっかき傷のように書かれた無数の悪口の言葉を指でなぞっていくのを私たちは見るだけである。あるいは、娘を出産したときに死んでしまった母親が、年老いた夫と大人になった娘のもとに若々しい姿のまま24年ぶりに黄泉がえってくるというエピソード。ここでも観客は、残された親子がどのような人生を歩んできたかを(母親が聾だったことを聞いた娘が、聾学校の教師という職業を選んだというセリフの説明を除いて)何もイメージとして知らされない。ただその奇妙な年齢構成の親子三人が、抱き合っているのを見るだけである。だからもし観客がこの映画を見て泣いたとしたら、刺激的なイメージやセリフや物語が涙という反応を惹起したためではなく、与えられていないはずのイメージを観客自らが勝手に想像してしまったためと言うしかないだろう。だからここで「批評」に求められているのは、映画を見て泣くというコミュニケーション自体の不思議さについて思考することのはずなのだ(本書第2章の斉藤綾子によるすばらしい論文を参照してほしい)。だがウェッブ上でこの映画について書く誰もが、その不思議さに立ち止まることなく、泣いたり泣かなかったりする自分を生理学者として報告するだけである。
 こうして私たちはいま、映画の言葉をめぐる、奇妙な二極分解の地点に立たされているように思う。一方にマスメディアによる、映画をめぐる、味もそっけもない、外在的な情報とデータの羅列。他方に個々人による、「泣ける」とか「笑える」とか「怖がれる」などといった、身も蓋もない生理学的気分の醸成装置としての映画紹介。この両者に欠けているのは、言うまでもなくコミュニケーションであり、対話であり、政治である。映画作品について語ることは、決して自分自身の生理学的反応の報告ではなく、他者の感受性を触発したり、他者の想像力を映画に向けて喚起させなおすような、言語的パフォーマンスであるはずだろう。そのようなパフォーマンスを喚起させてくれる過去の映画作品には、事欠かない(本書が示したのは、そのほんの一部である)。そしてそれはいまも作られつづけているのだ。だから怠慢なのは、映画をめぐる言葉のほうである。本書がそのような映画的コミュニケーションを生み出す起爆剤となることを願ってやまない。