「知」を駆け抜けろ!――『メディア・リテラシーの社会史』を書いて

富山英彦

  私が社会学を始めたのは大学院の修士課程からである。その前は科学哲学や図書館情報学を専攻し、幸か不幸か学際的に国文学や民俗学、宗教学や歴史学を手広くかじり、知的な雰囲気を楽しんでいた。そのうえで、きちんと学問に取り組もうと入り込んだのが社会学だった。その大学院の研究や学習の過程で身についた「学問」なるものの方法は、ひとつの小さなテーマや素材に取り組み、深く掘り下げ、論文として完成させるものである。私の偏見かもしれないが「学問」とはそういうものであり、現にいまでも卒論指導などでは、なるべく小さなテーマを深く調べ、論じるようにアドバイスすることが多い。
しかしその一方で、私自身がそんな学問に飽き足らなさを感じていた。テレビで放映されるドキュメンタリーに感心し、芝居の舞台に感動し、小説を読んで没入した。学生だって教室で先生の話を聞くよりは、映画館に足を運んだり、好きなアーティストのライブに出かける方が楽しいに違いない。もしかしたらそうした大学以外のメディアとのかかわりの方が、彼ら・彼女らの人生に影響を与えているかもしれない。
  自分がバブルの頃に学生時代をすごし、高校から大学にかけては「ニューアカ」と呼ばれたファッショナブルな学問スタイルが流行したこともあって、私も格好いい学問に憧れていた。でも、元より田舎者で地味な自分がそんなスタイルになじむはずもない。私は表現の豊かさに惹かれながらも、自分の履歴や生活の糧としての「学問」に踏みとどまり、限界を感じていた。
  本書のテーマは、「豊かな表現」を可能にする「書く」力の獲得が、「読む」ことに支えられてきた「私」のダイナミズムを失わせるのではないかという問題である。そんな表現に対する憧れと疑惑は、私自身の経験のなかで芽生えていった。さらに付け加えれば、「あとがき」に書いた「頭のいい研究者」に対する批判ないし嫌みもまた、自分の憧れと表裏の関係にあることを表明しておこう。
  そんな思いを抱き続ける頃に、青弓社から本書の誘いをいただいた。
  「あとがき」にも書いたけれど、本書の完成までの道のりは長かった。出版という表現形式を甘く見ていたこともあるだろう。編集者の見識は鋭く、批評は辛かった。しばらく経って自分で読み返してもひどい内容だった。それでも出版の機会を待ってくれる編集者に申し訳なかった。最初に書いた丸一冊分の原稿は、そのほとんどを自ら捨てた。
  私は割り切って、資料の世界に没入することを決めた。それが本来は、自分の強みのはずだった。でもこの方法は時間がかかるし、疲れる。金もかかるし、評価もされにくい。何とでも言い訳できるが、とにかく私は資料に没入することから逃げていた。論文の本数がほしい就職エントリーの時期から大学に職を得てからというもの、時間ばかりかかって確実な成果が期待できない研究スタイルから逃げ続けていた。
  私は「出版の危機」に直面し、反省して、真面目に資料に取り組むことにした。でも情報系の大学に身をおく自分にとって、資料へのアクセスには限界がある。古い大学のように文書は蓄積されておらず、都心の大学のように頻繁に大型図書館や資料館に通うことも難しかった。私はとりあえず、所属する大学の図書館が所蔵する新聞の縮刷版をめくることから始めてみた。何かが得られる予感はあったけれど、確信はなかった。電子化されたデータベースを使わずにアナログ資料に取り組む方法は情報収集として効率が悪く、締め切りに間に合わないことは見えていた。でも時代をつかみ、論じるべき「相手」を見つけるためには時間と手間が必要だった。自分の身体に「時代」を染み込ませたかった。
  それと同時に憧れもあった。いままで自分がやってきた小さなテーマや素材を掘り下げるのではなく、近代日本なるもののメディア空間を駆け抜けてみたいと考えた。活字に驚いた時代からテレビに興奮する社会、そして現代のIT革命にいたるメディアの社会史を、人々のリテラシーに着目して書き抜きたいと思った。それはいままで自分が封印してきた手広い考察の方法であり、学生時代に楽しんだ「知」のスタイルに回帰することだった。そうして本書ができあがった。
  もしできるならば、多くの読者が「知」を楽しみ、駆け抜けることの興奮を味わっていただけたらと願っている。

純愛と死別――『死と死別の社会学――社会理論からの接近』を書いて

澤井 敦

  2004年は、純愛ブームの年といわれた。『世界の中心で、愛をさけぶ(以下、セカチュー)』『いま、会いにゆきます』『冬のソナタ』などなど。ただ私が気になったのは、これらがみな「死別」というテーマを扱っているということだ。もちろん愛と死は、『ロミオとジュリエット』のような古典的純愛を例にあげるまでもなく、ひろく結び付けて考えられるものではある。ただ、その様相は社会的背景に応じて変化する。
  まず、ここでいう純愛のかたちが、基本的には「かなえられない愛」であるが、それでも「はなれられない絆」があるところに存立していると理解しよう。そして、一方で「純粋性への憧憬」がありながら、「俗世間での困難」というか、現実にはそれが存立し難いからこそ、一定の純愛のかたちがブームになると考えよう。どこにでもある平凡なものであれば、小説や映画のなかで憧憬の対象とはなりにくいからである。
 『ロミオとジュリエット』の場合、愛が「かなえられない」のは、家と家との確執、社会的障壁によるものだった。そして、偶然のいたずらに翻弄されてとはいえ、結果的には「はなれられない」絆は、あの世へともちこされることになる。しかし、こうした純愛のかたちがリアルなものと感じられるためには、あの世、そこでの再会ということが、一定程度リアルなものと感じられている必要がある。世俗化が進んだ現代においては、「僕は生き残ったロミオなんだ」という『セカチュー』の朔太郎の言がむしろリアルに感じられてしまう。
  では、日本における半古典的純愛、1964年の『愛と死を見つめて』(2006年にリメイクされてドラマ化されるそうだが)の場合はどうか。この場合、愛が「かなえられない」のは、軟骨肉腫という自然的障壁による。もはや家制度も法律上は消滅した時代である。そして「はなれられない」絆は、病に直面し将来に夢を描けないにもかかわらず、互いを「心の妻」「心の夫」と呼ぶ心情として現れる。社会的背景についていえば、当時はまだ恋愛結婚よりも見合い結婚が多かった。80年代以降のように結婚とセックスが分離する傾向はまだそれほどでもなく、「結婚を前提としたお付き合いをしてください」と申し込むことも普通のこととしてままある時代である。いったん成立した男女の関係が比較的安定したものと見なしうる時代にあって、ミコとマコの純愛はリアルなものと感じられた。しかし現在、マコは、二女をもうけ、かの純愛に関して「パパ、すごいじゃん」と娘さんに言われているそうだ。もちろん、だからといって、2005年の現時点でマコを責める者は、とりわけ若い世代であれば、皆無であろう。
  そして2004年の『セカチュー』である。ここでもまた白血病で彼女が先に逝く。筋書きとしては、『愛と死を見つめて』とそれほど変わりはない(もちろん『愛と死を見つめて』はもともと実在する二人の往復書簡であり、『セカチュー』のようにフィクションではないが)。ただ、ひとつ異なるのは、『セカチュー』の場合(とりわけ映画・ドラマ版の場合)、彼女が亡くなってからの後日談が大きな位置を占めているという点である。朔太郎は、彼女が死んでから10数年経っているのに、彼女のことを忘れられない。いや、忘れられないどころか「彼女はいるんだよ、いるとしか思えない」。ここでは、「はなれられない」絆は、生と死の境を隔てた関係性として現れている。男女の関係、家族の関係が多様化し流動化した状況にあって、一時の心情のもとに成立した関係性は、以前のように安定した自明のものとは見なされ難い。結局、「はなれられない」絆は、この世の枠内では、リアルなものと感じられにくくなっているということである。ただ、純愛をめぐるこうした「俗世間での困難」にもかかわらず、それでも人びとは、「純粋性への憧憬」を捨てることはない。「はなられない」絆が現代においてリアルと感じられるのは、それが生死の境を隔てるというこれ以上ない絶対的な別離を経てもなお存続している、とされる場合である。
  さて、『セカチュー』のような純愛がブームとなるこの現代の社会的背景を、「死の社会学」の観点から理解するとしたらどのようになるか。これに関して、新刊『死と死別の社会学――社会理論からの接近』の第5章、「死別と社会的死」で私なりの整理を試みた。ご一読いただければ幸いである。

映画を槍に、時代という怪物マタゴーヘルと立ち向かうために――『映画ライターになる方法』を書いて

まつかわゆま

  「まつかわ先生、これをお預かりしています」とカルチャー・サロンの方から渡された白い封筒。そこからすべてが始まりました。
  数日後、大雨のなか、青弓社にうかがい、「半年で書きます!」と大見栄切ったのは、いまから思えば怖いもの知らずというか、身の程知らずというか。結局、書き上げるまでに1年8カ月ほどかかり、すっかり「狼少年ゆま」になってしまいました。最後のほうは、「もういいです、やめましょう」と言われるのではないかとハラハラしました。
  ともあれ、まつかわゆま初めての映画本の書き下ろしです。正直なところ、マツケンサンバを踊りたいくらいにうれしいです。オレィッ!
  さて。「原稿の余白に」ということで、何が余白にあたるのかしらね、と考えたところ、それは「語り」だと気づきました。『映画ライターになる方法』では、講義でいつも語っていることをもう一度文章として構成しなおし、さらに考察を加え、映画ライターという仕事の発生を映画史的にとらえなおしてみたりしました。それはそれで、自分が考えてきたことや感じていたことが時代という事実にバックアップされて、論になっていくスリリングさがあり面白い経験でした。とかく評判の悪い映画ライターという仕事ですが、調べてみれば映画史的必然から生まれた仕事であり、どんどん変化していく映画業界にとっても観客にとっても必要な仕事なのだという思いを新たにしました。
  本書はハウツウの範疇を超えて、映画と時代と自分とにどのようにして取り組むのか、はっけよいのこった、という奮闘記として読んでいただける本になっているのではと思います。だって、映画って、見る人のもの。観客それぞれの「いま」にシンクロして違う姿を見せるものです。だから、映画を見ながらどのようにして自分の見方を見つけ、自覚し、表現して、面白がってもらえるように書くか、がライターにとっては大切なのではないか、と思うんですね。
  まぁ、私の場合、長いこと女優志願だったこともあってか、読者つまりお客さんを楽しませたいと思ってしまう傾向があり、それが授業や講義、講演や司会となると歯止めが効かなくなってしまいます。それこそが、まつかわゆまのまつかわゆまたるゆえん。だから「語り」なんです。
  原稿を書き上げて、青弓社の矢野恵二さんを映画ライター講座のOG・OB会にお誘いしたときのことです。身振り手振りに声色にと、講義のときのように「語る」私を見て矢野さんビックリ。「まつかわさんって、いつもこんなに熱いんですか?!」。はい。熱いんです。淀川さんも熱い方でしたよね。わたし、醒めているのってだめなんです。だって、好きなんだもん、映画。好きだからこそ、辛口にもなろうというもの。自分の人生の一部として考えてしまうから、感情移入してしまうから、どんなに映画的・作家的評価が高い作品でも、だめなものはだめ、なんですね。女性と子ども、立場の弱い人々を足蹴にするようなニオイがするといやになってしまうし、希望のかけらも感じさせないものは苦手。斜に構えるよりも、真正面からぶつかって、あきらめないで突破していくって映画に熱くなってしまいます。
  そう、私はラ・マンチャの女。いえ、世田谷区生まれのオジョーサマですけどね、ホホホ。でも私の心はラ・マンチャの男、ドン・キホーテ、なんです。私はミュージカル『ラ・マンチャの男』が大好きで、座右の銘は「事実は真実の敵なり」というせりふ。事実はひとつでも、真実はそれを体験する人の数だけあるはず。映画作家も自分ひとりの真実を描くために作品を作ります。その真実にどれだけ迫り、共感し、自分のものにできるかが、私の勝負だと思っているんですね。「夢ばかり見て現実を見ないのも狂気かもしれぬ。しかし、いちばん憎むべき狂気は、あるがままの現実と折り合いをつけて、あるべき姿のため闘わないことだ」というドン・キホーテにならって、映画を槍に、時代というマタゴーヘル(腕が四本ある怪物。実はただの風車なんですが)に向かっていきたいのです。
  2001年9月11日から4年。私の周りにはにょきにょきとマタゴーヘルが立ち並び、どんなに腕を振り回してもひとっつも倒れる気配がない、という状況になっています。けれど気がつけば、腕を振り回しているのは私一人ではなく、みんなそれぞれいろいろな形の槍を振り回して、力いっぱい立ち向かっているのです。映画という槍は、昔はともかく、そして日本では特にそんなに強い武器ではありません。けれど、まったく力がないわけではないと思います。現実を映画という虚構に読み替えてくれることで見えてくる真実があるのです。人はその真実で動きます。それが映画の力だと思います。
  現実と折り合いをつけること、事実だけを見て夢を見ず、真実を考えないこと。そんな世界はいやです。映画の力を信じる映画ライターとして、自分の真実を映画に見つけ、伝えていく。そんな映画ライターになりたい方を勇気づけられる本になれればいいなと思います。

無駄や遊びがあることが豊かさの原点――『企業スポーツの栄光と挫折』を書いて

澤野雅彦

 「企業スポーツ」は、以前から書いてみたいテーマでした。バブルのころ、金が余った多くの企業がスポーツチームを結成し、有名・有望スポーツ選手のスポンサーリングに名乗りをあげ、スポーツにとってはいい状態のように見えましたが、どこか釈然としない感じも持ちました。経営学が専門ですから、「企業スポーツ」が企業労務問題を起源に持つことも知っていましたし、企業でのヒアリングなどで運動部の部長や監督が労使関係などで一定の役割を果たしていることも聞いていました。ところが、このころから広告宣伝や売名行為としか思えないスポーツへの進出が続き、こんなことでは企業スポーツの信頼が失われると感じたのが動機です。
 当時は富山にいたので私のゼミからも何人か地元企業に就職していました。それまで「企業スポーツ」とは無縁だった企業が、サッカー・ワールドカップ誘致の流れで、国立サッカー場建設受注を目指してサッカーチームに出資するに及んで、これは「企業スポーツ」とは何か、経営学徒としてきちんと調べて議論しておく必要を感じたのです。
  それから10年以上が経過し、案の定そのサッカーチームは解散し、社会問題にさえなりました。また、バブルの崩壊を契機に状況は180度転回し、この間「企業スポーツ」も暗転して、チームの休・廃部が新聞紙上を賑わすようになりました。だから、もともとは、「こんなことでいいのか?、企業スポーツ」という議論をするつもりが、「がんばれ! 企業スポーツ」という論調になってしまいました。
  書いてみると、思わぬところから反響があり、驚きました。看護学校の先生から、「以前は学生のクラブ活動がいっぱいあり、看護学校の対抗戦に出ていたのに、学生の元気がなくなるとともに、近年では先生が陣頭指揮に立っても学生は踊らず、ほとんどのクラブで試合に出られない状態になったのも同じ話ですね」といわれました。また、ゼミの学生は、「この本を読んで、出身高校では入学早々に、できるだけ運動系クラブに入るように指導を受けたことを思い出しました。生徒が元気にスポーツをやっていれば問題を起こさずにすむからでしょうね」と話してくれました。
  大学で若い人と接していていちばん気になるのは、どんどん忙しくなっていることです。もちろん社会全体が忙しくなり、世知辛くなっていますが、若い人まで「利益にならないことはしない」ポリシーを持ちはじめて、何か言っても「どんな利益があるのですか?」と聞かれるのは心が寒くなります。また、以前はどこにでもいた仕切り屋とか宴会部長といったインフォーマルな役どころをこなす人も減っています。そんな縁の下の力持ちのようなことをしても、企業でも学校でも、業績や成績に反映されないからでしょうか。そのために、クラブ活動を含むレクリエーションがなくなりつつあります。
  そうはいっても、社会からレクリエーションがなくなるわけではなく、これは、業務となり外注化して生き延びています。よく問題を起こす合コン・合ハイ斡旋業をはじめ、仕切り屋に毛の生えた起業家が登場し、仲間内でその場を盛り上げてきた宴会部長はタレント化してテレビで笑いを売るようになりました。
  これはこれで、雇用を増加しGDPに貢献するのだから、とやかく言うことではありませんが、企業や大学など組織の元気を失わせることは否めず、また、組織のなかの種々の組織運営ノウハウを失わせていることは明らかです。
  最近マスコミなどでは、スロー・フードやスロー・ライフなどといって、個人生活の豊かさに注目する運動をおこなっています。レストランや食堂などでは価格競争が厳しくなって、セントラル・キッチンによるファスト・フードばかりが目立つようになり、ぎりぎりの人員削減によって馬車馬のように急き立てられて働かざるをえない人(私たちの職業も完全にそうなりました)が増えた状況で、難しいことだと思います。しかし、非経済的豊かさに、もう一度注目することが必要だと思います。
  個人生活ばかりではありません。多くの人は人生の3分の1は何らかの組織で働いているのですから、そんな組織のなかでの生活の豊かさを、もう一度考えてみる必要があるように思います。そんな思いを込めて、「企業スポーツ」の再興を論じてみました。無駄や遊びがあることが豊かさの原点であると、もう一度、この社会を考え直す機会として、ぜひこの本を読んでみてください。

「写真にしゃべらされている」のかも――『写真を〈読む〉視点』を書いて

小林美香

  私は大学での講義を生業にしていて、写真史やデザイン、現代美術に関する講義を担当しているが、仕事の内容は無声映画や幻灯会(写し絵)の「弁士」のようなものかもしれない、と思う。パソコンをプロジェクターにつなげて、薄暗くした部屋のなかでスクリーンにさまざまな図版を投映しながら話をする。90分という講義時間を埋めるためには、相当数の図版を用意している。講義中は、それらの図版について自分が知っていること、考えていることを「話している」というよりも、図版のほうから何かの指示を受けて「しゃべらされている」、という感覚に近い。聴講している学生が、私がしゃべるのを見ていて、何かに取り憑かれているようだと感じる(実際、一人の学生からそう指摘されたことがある)ならば、たぶんそのとおりなのかもしれない。つまり、私は写真に取り憑かれて、しゃべらされているのである。
  この「取り憑かれている」感覚は、しゃべることを仕事にするようになる以前から自覚していた。写真を見るということに関心を持つようになったのは、高校生の頃(1988-91年)だったように思う。写真が発明され150年という節目の年(1989年)に重なっていたこともあって、写真史に関する本が刊行されたり、雑誌で特集が組まれたりしていた。当時広島で高校に通っていた私が、写真集を見ることができたのは県立図書館の美術書・大型書のコーナーだった。書棚の前に立って手当たり次第写真集をめくったり、高価すぎて自分では買えない写真集を何度も見たい一心で、数回同じ本を借りたりしていたことを記憶している。その後大学、大学院と経て現在にいたるが、勤務先の大学の図書館であれ、外国の美術館の図書室であれ、書棚に並べられた写真集に手を伸ばして写真に見入っているときの気持ちは、ほとんど変わっていないような気がする。
  見ることをしゃべることへと結びつけていったのは、学校という場所で仕事にするようになってからのことだが、「しゃべること」を体得すべき技や芸としてより強く意識するようになったのは、自主的に企画してきたレクチャーを通してだったように思う。学校での講義は一種の義務的な関係のうえで成立しているが、年齢・職業などさまざまな立場・関心を持つ人に対して、自分の知っていることや考えていることをしゃべり、そのことでお金をいただくということがどういうことなのか、を試行錯誤しながら学んできた。聞き手にも、そして自分にも満足のいく「しゃべり」をすることは難しく、芸の道は厳しく長いものだと思う。
  『写真を〈読む〉視点』というタイトルは、2003年におこなった「写真史の視点」というシリーズ・レクチャーと、2005年におこなった「写真を「読む」」というシリーズ・レクチャーのタイトルを組み合わせている。いわば、ここ数年の講義やレクチャーのような「しゃべり仕事」をまとめる機会をいただいて形になったものである。論文を発表することはあったものの、単著としてまとめることが初めての経験だったこともあり、「しゃべる」ことを「書く」ことへ転換させることは、私にとっていろいろな意味でチャレンジといえる経験だった。書き終えてみて、これまでに人の前でしゃべってきたことが、本という形になって見知らぬ人の手に届く「もの」になった、ということがどういうことなのか、ということに思いを巡らしたりもしている。自分の作った「もの」に対してどう責任をとっていくのかという新たな課題を手にしながら、これから何をしゃべろうかと思案したりもしている。

   写真を見ながらしゃべるラジオ、「デジオ+写真」を不定期に更新しています。
   http://www.think-photo.net/mika/dedio/

絵はがきという窓から何が見えるのか――『絵はがきで見る日本近代』を書いて

富田昭次

  先日、東京・上野にある東京藝術大学大学美術館に足を運んだ。6月11日から開かれていた「柴田是真(ぜしん)展」を見るためである。  
  同展の開催は、やはり、ある美術展を見にいったときに気が付いた。「明治宮殿の天井画と写生帖」という副題の文字に引かれたのである。明治宮殿の天井画とは、千種之間の天井を華やかに彩った、直径1メートルを超える花丸の絵のこと。本書でも千種之間の絵はがきを収めただけに、その制作過程に関心があったのだ。
  とはいうものの、柴田の名は初めて聞いた。原稿を書くときに参考にした『宮城写真帖』や『明治宮殿の杉戸絵』には彼の名前が見当たらなかったからである。だから、同展は二重の意味で興味深かった。
  柴田は円山派の絵師として、また蒔絵師として活躍した。千種之間の天井画112枚(正確には下絵で、これをもとに京都で綴織が制作された)は、宮殿内装の総責任者・山高信離(のぶあきら)の依頼で制作されたという。同展では、長年、花鳥を描いてきた柴田の面目躍如の活躍ぶりが伝わってくるようであった。
  1枚の古い絵はがきが私の好奇心を刺激してくれる。この小さな紙片に興味を持つようになったのも、それが最大の理由だろうか。だから、本書を書いていて実に楽しかった。柴田と明治宮殿の天井画のことも、その絵はがきと出会えなかったら、展覧会に足を運ぶこともなかったかもしれない。
  本書は、歴史的に意味のある内容の絵はがきを時代に沿って並べ、本編は1ページに1点という形で並べたが、そういうルールでそろえると、お見せしたくてもお見せできなかった絵はがきが何点もあった。
  例えば、肉弾三勇士として自爆した3人の兵士の母親たちを写し出した絵はがきである。彼女たちは言うまでもなく、栄誉ある息子の殉死を喜ぶわけでもなく、悲痛な思いに暮れていた。また、函館の大火で焼け出され、着の身着のまま青森駅まで逃れてきた人々を写し出した絵はがきもあった。彼らの途方に暮れた表情が忘れられない。
  そうかと思うと、絵はがきを渉猟するなかで奇妙なものにも出会ったが、収まりどころが見つからず、紹介できなかった絵はがきもある。その1枚に、朝鮮総督府鉄道局発行のものがある。絵柄はこうだ。背負子(しょいこ)のようなものをそばに立てかけて、男が線路を枕に横たわっている。そして、次の一文が印刷されている。 「線路枕○みの仮 明けりゃ妻子の涙○ 皆さんどうか安全な所へお連れください 線路に仮睡死亡者は一ケ年七八人」
  判読できない文字は○としたが、およその見当はつくだろう。どうやら、線路上で仮眠をとっている間に、列車に轢かれ、命を落としてしまう人がいるというのである。いまでは考えられないことだが、なぜ、人々は線路上で仮眠をとっていたのだろう。
  その答えはまだ見出せないが、絵はがきはこのように庶民の暮らしが滲み出ているものも少なくない。近代に生きた人々の生活臭……それもまた絵はがきの魅力のひとつなのである。
  本書を上梓した前後、絵はがきに関する大著が相次いで刊行された。ひとつはブライアン・バークガフニ編著『華の長崎』(長崎文献社)、もうひとつは田中正明編『柳田國男の絵葉書』(晶文社)である。
  前者は、従来から見られるように、ひとつの都市の歴史などを絵はがきを通じてまとめたものだが、大判で、絵はがきも大きく収録されているので、見応えのある体裁に仕上がっている。
  一方の後者は、珍しい切り口で絵はがきを捉えている。民俗学者・柳田國男が旅行先から家族に宛てた絵はがき270枚を通じて、柳田の思考や言動、家族への思いを探ったものである。本書でわかったことだが、柳田も一時期、絵はがき収集に凝ったそうである。収集自体は途中でやめてしまったということだが、絵はがきへの関心が本書に結実したとも言えるのではないだろうか。
  小さな絵はがきの風景の向こうに何かが見える。ひとつのテーマで収集すれば、また一層大きな何かが見えてくる。絵はがきへの興味は尽きることがないようだ。

余白と作品――『児童虐待と動物虐待』を書いて

三島亜紀子

  まったくの雑談ではじめたいが、昔、この題にある「原稿の余白」の実物が好きだった。教科書や授業で配られるプリントに残された空白の白い部分が、なんだか好きだった。さて、何を書こうか、創造的な気分にさせる。嬉々として絵や文字で埋め尽くした。中学時代の英語の教科書のそれは、立派な「作品」となり、捨てるには忍びなくていまも保管してある。
  そんな私だったが、なかなか手が出せない部分があった。表紙だ。ツルツルして書きにくい。ところが、今回出版の運びとなった拙稿『児童虐待と動物虐待』には、すでに「作品」が存在している。同書の裏表紙には、編者として尽力してくださった、矢野未知生氏の「作品」が印字されているのだ。
  これをはじめて目にしたとき、なんとなく、自分のものでない居心地の悪さを感じた。虫歯を治療したあとに残る違和感のようなものである。   これには、裏話がある。矢野氏が書いてくださった草稿を書き替える機会が与えられていたものの、ボヤッとしていて私が原稿をメールで送付したのは、印刷に回したあとのことだったらしい。次の原稿がお蔵入りとなった。

幻のカバー裏原稿
「核家族化や都市化の進行によって急増している」とされる児童虐待を発見・予防するために、法整備や社会制度の設計が推進されている。この社会政策は、人々の<自由>を引き換えにしながら、私たちの社会を変容させつつある。それを、児童虐待や動物虐待の歴史的背景、「世代間で繰り返される虐待」「児童虐待や少年犯罪にリンクする動物虐待」などの語られ方、虐待と母性愛神話の関連性などから析出する。児童虐待/動物虐待とソーシャルワーカーの関係を考察して、現在のケアのあり方や、専門家によるリスクコントロールを称揚する現代社会の心性を解読する。

  あまり変わらないが、本の裏表紙と比べると、微妙に違うことにお気づきかと思う。矢野氏の文章を尊重しながら、私の考えを入れたつもりだった。違和感があった一方で、矢野氏が私の文を読み込んでくださり、彼なりの理解をしてくださっていることに対してありがたいとも思っていた。だから、この原稿がカバー裏に載らないことがわかったときも、あーあ、と思ったぐらいだった。
  それより、カバーの裏側にある文章とカバーの内側にある活字の集積に違いが存在することに対して、ある種のおもしろさを感じた。そういえば、これまで、私あるいは私が書き出したものについての「作品」を目にすることがなかった。そして、私と私が書き出したものに関する「作品」の間に少し違いがある。母が私をモデルに(似ていない)人物画を描き、それが作品展で展示されるさまを眺めていたときのことが思い浮かんだ。
  受け入れられるにしろ受け入れられないにしろ、私の手を離れ、私の知らないところで、いろんなふうに理解される。それが流通するということなのかな、ともぼんやりと考えた。
  でも、「余白」とはいえ、しつこくお蔵入り原稿を載せているのは、やはり気がかりだからだろう。というのも、「はじめに」にも書いたように、題名そのものが誤解を招く恐れがあるからだ。単なる興味本位なんじゃないかと。そして、その立場も、あいまいと受け止める人もいるだろうなという懸念もあった。また「社会福祉学の人間」か、それとも「社会学の人間」か、というような不毛な所在に関する名乗りが要求されるだろうなという予想もあった。
  エクリチュールうんぬんの話じゃないが、書かれたものと現実との間にはずれがある。また書く人は読む人が自分なりに解釈するだろうことを折り込んで書く。これを言い換えると、書かれたものを読む人には、自分なりに解釈する自由があるといえるのかもしれない。ああ、私はプラトンのように潔くハラをすえられるのだろうかと。
  今日は、最後の校正原稿をファクスで出版社に送った日だ。その仕事自体、それほど時間はかからなかったが、それ以外に何をする気にもならず、前に読んだことのあるマンガを読んで無駄に過ごした。そしておもむろに本稿を書き始めたのだが、ひとしきり書き終えてみると、この「余白」には、不安な気持ちが吐露されている。これが出版日を前にした私の気持ちなのだろう。もちろん、そこには、一仕事終えた喜びもあるが。

猫神様に会いたくて――『猫神様の散歩道』を書いて

八岩まどか

  「猫じゃ、猫じゃ、とおっしゃいますけどね」という都々逸がある。江戸時代に、猫が後ろ足で立って踊るという見世物があったそうで、その様子にからめて歌われた内容だという話である。現代でも「猫のサーカス」なんてものがあるが、本来、猫は気分屋で、人間の言うとおりにはならない。自分の好きなことには熱中するが、好きなことでも飽きたらしばらくは見向きもしない。
  街で生きている野良猫も同じこと。妙に馴れ馴れしくすり寄ってくる日もあれば、翌日には、こちらが呼びかけても、聞こえぬふりをして去っていく。毎日餌をくれる人間にいちばん愛嬌を振りまくわけでもない。生き方そのものが気分次第に思えてくる。
  そんな猫を神様として祀っても、祀っている人にご利益を与えてくれるかどうかさえ疑わしい。
  ――と思っているあなた。あなたの部屋に招き猫は置いてありませんか? 家庭に幸福を招くお守りとして、いまや海外にも紹介されて人気は高まるばかりの、あの招き猫ですよ。
  本気で信じているかどうかは別として、招き猫だって立派な猫神様の一種。野良猫と同じように、猫神様もちゃっかりと人間の生活のなかに居場所を見つけて丸まっているのだ。
  しかし、猫神様の姿は招き猫だけではない。気分次第でいろいろな姿を見せてくれる。
  新著『猫神様の散歩道』では、全国各地の猫に関わりある寺社や地域を53カ所紹介している。あるときには山や島の主であったり、地域の猫たちを率いる仙人であったり、踊りが好きだったり、浄瑠璃を歌ったり、さらには飼い主に恩返しをしたりもする。その恩返しの仕方も、嵐を呼んだり葬儀で棺を奪うという超能力的なものから、他家から小判や卵を盗むという現実的なものまでさまざまだ。なかには子猫の痔が温泉で治ったなどという物語まで登場する。人間族の常識など猫神様の世界には通用しないのだ。
  猫神様に会いたくて旅を始めてから約2年で70カ所以上を訪ね歩いた。時間がかかったのは、自費で回るために青春18切符が利用できる季節に集中して動いたり、仕事のついでに立ち寄ったりしていたためでもあるが、それ以上に、所在がわからないところが多かったことが大きい。地元の観光案内所で尋ねても手がかりがつかめず、探し歩いてようやく見つけたことも少なくなかった。なかには、かつて猫神様との関わりがあったことが人々の記憶から失われてしまっていることもあったし、河川工事などで祠が取り壊されてしまったものもあった。
  このままでは猫神様の痕跡がどんどん失われてしまうのではないか、という危機感を強くした旅でもあった。かといって、猫神様をもっとビッグに、メジャーな存在にしていこう、というのも違和感がある。お稲荷さんのように全国区になるのは、猫神様には似合わない。街角で出会う野良猫のように、名前なんてなくとも、生きたいように暮らしていってほしいものだ。
  とりあえず、丸まってひっそりと暮らしておられる各地の猫神様を探し出し、記録に留めておかなければいけないだろう。というわけで、『続・猫神様の散歩道』のための新たな旅を始めたところ。もし、みなさまの住む町に猫神様の痕跡を見つけたら、ご一報ください。

「お笑い」な日常をいく――『お笑い進化論』を書いて

井山弘幸

  現在1学期も半ばにさしかかり、殺人的に多忙なスケジュールにそろそろ疲労が蓄積したころである。月曜は県立女子大学で「自然科学概論」を教え、一旦自分の大学に戻ってオフィスアワーの時間は研究室に待機し、2時になると車を50分走らせて薬科大学に「歴史学」の話をしにいく。実際には前者は「科学とオカルト」、後者は「歴史のなかの偶然性」がテーマ。火曜は午前が「人間学演習」というゼミで現代科学論の講読。
  ここまでは「科学論」を看板に掲げている大学教官としてはありそうな話である。だが火曜の午後は「考える葦の冒険」という共通科目で約80人の学生を前に「お笑い」を主題にした講義を開講中。この時間に鑑賞するネタ選びのひとときは、1週間のなかで最も楽しい時間である。映画館なみの大スクリーンでコントや漫才を見せている間、私は画面を背にして、学生の反応をつぶさに観察する。こっそりと笑い声を録音して、作品ごとのスペクトルを記録する。学生たちは鑑賞したネタに講評を書き、自分なりに採点をすることになっているが、本当のところは実験台にされているのである。終了後すぐに判定用紙の集計をしてから帰宅。明日に備える。
  水曜日は午前に「情報メディア論演習」という別のゼミ。これもカモフラージュで、実際は「お笑いゼミ」なのだ。5年ほど続けているが、映像には残ってもシナリオ化されることのない往年の名作コントを分担して書き取り、テキストの作成と資料の分析を手がけてきた。活字に起こした作品は数百編にのぼる。
  というわけでこのたびの『お笑い進化論』の刊行に際して最も感謝すべき人間は、「お笑いゼミ」の学生たちであることは間違いない。「機械の体なんて、要らない!」という片桐仁の台詞でなぜ笑ったのか教えてくれたのも、新潟大学人文学部の学生だった。
  水曜の昼になると精力を使い果たした私の思考回路は停滞しはじめ、どうにか午後の大学院のゼミ「現代科学文化論」(文化人類学者のアメリカ文化論の講読)を終えると、夕方の会議では生ける屍と化すが、まだ1週間は終らない。木曜は午前が「科学基礎論」で6月は「実験方法論」の講義。この授業は奇しくも「考える葦」と同じ教室のため、ときどき錯覚して、現実の生真面目なレポートのなかに知らぬうちに笑いを探そうとしている自分に気がつく。映像設備があるので、30年以上前に放映された『ミステリーゾーン』を一緒に見たら好評だったので、何とか科学論にこじつけてラーメンズの「現代片桐概論」を見ようと思っている。昼は少し時間に余裕があるので、カフェ・ウェストという大学前の店で辛口野菜カレーを食べる。大学時代に駒場の満留賀という蕎麦屋で5年間ものあいだ、冷したぬき蕎麦を食べつづけたけれども、同一メニューの記録はウェストのカレーが遥かに上回ることになった。ブラックペパーの鼻に抜ける刺激で少し元気になって、午後の1年生向けの教養ゼミ「人文総合演習」の教室に行く。実は昨年はこのゼミでも「お笑い」を主題にしていたが、今年は「旅ゼミ」を開講している。あるゆる手段を使って自主的に旅を企画し、最後の日に全員で投票し最も人気のあった企画を実行するという単純なゼミである。
  木曜4時10分に、予定されているすべての授業が終わる。
  金曜日は卒論の指導と、夏のお笑いコンテストに参加予定の学生相手にシナリオ作成や演技指導をして、5時すぎに交響楽という名の珈琲専門店で1週間の疲れを癒して帰宅する。金曜の夜は先週から溜まっている録画ずみの番組の編集に当てられる。『お笑い進化論』脱稿後もTBS系の「ゲンセキ」や日テレ系の「ミンナのテレビ」など見逃せない番組が始まり、「もう書き終わったんだから、いいじゃない」と家族からは批判されながらも、お笑いのデータベースを完成すべく黙々と録画を続けている。
  というわけで「足を洗う」機会をつい逃してしまったため、お笑いの研究は現在もなお進行している。別に次の構想があるというわけではない。実際のところ、昨年夏に翻訳が終った『セレンディピティー論』の編集作業が始まっているし、同時進行でテレンス・ハインズの『オカルト論』の翻訳も年内に済ませなければならない。本当はお笑いどころではないのだ。ただ、『お笑い進化論』の終章にどさくさに紛れて挿入した「近代的自我とアイデンティティーの形成史」は、もともと別の機会に書こうと思っていた主題なので、モーリス・バーマンの Coming to our Senses あたりを手がかりに、きちんとした史的考証をまじえて完結したいと願っている。
  それにしても、本書を世に出すことができたのは、ひとえに青弓社の矢野恵二さんのおかげである。出版人とのつきあいは結構あるほうだが、これまで誰一人として「お笑い」をテーマにした本を書かせようとはしなかった。この道での実績はゼロの人間に勇気をもって執筆の機会を与えてくれた矢野さんに、この場を借りて感謝の気持を述べたい。お礼がわりに、いずれ矢野さんの好きそうなネタのセレクションでも作って進呈しようと思っている。

たどり着いたところ――『イタリア、旅する心――大正教養世代のみた都市と美術』を書いて

末永 航

10年ほど前、この本のもとになった雑誌の連載を始めた頃には、日本で西洋美術史を始めた学者たち数人のイタリア体験を、残された紀行文から探っていくつもりだった。ところが、そのひとり児島喜久雄が学習院出身で『白樺』のメンバーであり、高校だけ第一高等学校に行ったので和辻哲郎や九鬼周造と同級生でもある、という具合に広い交友関係をもった人だった。そのお友達をたどっていくうちに、取り上げる人物がどんどん広がっていった。
  有島武郎・生馬兄弟、志賀直哉、阿部次郎など有名な人もいるが、『白樺』を飛び出してヨーロッパで客死した郡虎彦、白樺派の弟分でボーイスカウトの指導者になった三島章道、カトリックの法学者大澤章など、あまり知られていない興味深い人物も紹介している。
  最終的に24人が登場することになったが、それをまとめるのに「大正教養世代」という言葉を使った。「教養派」というは、漱石門下のことだけをさす場合が多いようで、ちょっと曖昧に「世代」ということにしたのである。
『白樺』はわずか300部の同人雑誌だったし、岩波書店は漱石門下の仲間が興した出版社だった。学生時代からこういう身内のメディアがあり、それがどんどん大きな影響力をもつようになっていったこの世代の人たちは、自分を正直に書く、一種の露出癖をもっていた。だからなかなか面白い紀行や日記が多い。この本では宿や食べ物といった旅の細部、ときには性や異性関係にまで踏み込んでいる。
『旅する心』というちょっと気恥ずかしい書名は、有島武郎の紀行文の題名からとった。大正教養世代の人たちが実に「心」好きで、臆面もなく文章や標題に多用するのに気づいたので、これをキーワードにした。戦後ほとんど全員が集合して出すようになった雑誌の誌名は、そのまんま『心』という。
  この本のカバーの装画は、いまはアメリカに住んでいる旧友、版画家の藤浪理恵子さんにつくってもらったが、素材は主にこちらで撮った写真である。漢字を何か入れたいといわれたので、「心景」という文字が入っている。これは児島喜久雄が亡くなった親友の哲学者九鬼周造への万感の思いを込めてデザインした九鬼の詩集『巴里心景』の背文字から借用した。友人たちのなかでほとんど唯一、甘い感傷に浸るのを嫌った児島だったが、この本の装丁では禁を解き、センチメンタル全開で斬新な意匠を展開している。
  この原稿を書き始めたとき、イタリアの16世紀美術史をやっている自分にとって、これは専門外のいわば隠し芸のつもりだった。ここで取り上げた方々がだいたい自分の祖父かその少し上の世代だったから、なんとなく肌のぬくもりを知っているような気がして、「研究」の対象として扱う気にはなれなかった。論文とは違う、もう少しくだけた文章にしようとしたのもそのせいだった。
  しかしこの十年の間に世の中の、そして自分の、ものを書くときの意識はずいぶんと変わった。戦前や戦後、大正・昭和の時代がいろいろな分野で真剣な研究の対象になってきて、立派な業績が次々に現れた。また、そういう研究が本や論文になるときの文体もいろいろなものが出てきた。ちょっと前なら誰かに叱られそうな、くだけたスタイルで研究者がものを書くのが普通になっている。
  自分にとっては表芸と隠し芸の仕切りがはっきりしなくなってきたのだが、そんなことはどうでもいいから、面白いと思うことを書けばいいという気持ちになれたのは、わりに最近のことだった。
  そしてできあがった本は、なんとも欲張りなへんてこなものである。
  ゴシップでたどる日本の美術史学・史でもあるし、もっと幅広い分野で、こんな一握りの仲良しサークルが日本を動かしていたのか、ということをいっている本でもある。その連中の生態を記録したものといってもいい。
  いま、ちょうど忘れられたところだが、この人たちのことは、みんながこれからもっと調べ考えていかなければならないと思う。
  それから、脱線だらけではあるけれど、イタリア旅行が主題である。昔の旅がどんなだったか、日本人にとってのイタリアがどんな存在だったのかもわかる。もちろんちょっと変わったイタリア・ガイドとしてお読みいただくこともできる。
  どれも中途半端だといわれればそのとおりなのだが、著者としてはなんだかどうしてもこうなったので、悔いはまったくない。青弓社苦心の索引も利用して、いろいろに楽しんでいただけるとうれしい。