“9・11トラウマ”を超えて、「ジャーナリズムの原像」へ――『国際紛争のメディア学』を書いて

橋本 晃

  本書の出発点となった原稿を書いたのはもう5年近く前のことだ。ペルシャ湾岸戦争取材のころから抱きはじめていた「限定戦争時におけるメディア統制とプロパガンダ」のテーマを1990年代半ば、30代も後半になってのアメリカ留学で集中的に研究し、その後のコソボ戦争での現地取材もふまえて書いた原稿は、ツテを辿って会いに行った某大手出版社の新書編集長からいい感触を得ていた。しかし、その夜、帰りの電車に乗っているときに、海の向こう、アメリカ・ニューヨークではツインタワーにハイジャック機が突っ込んでいた。いわゆる9・11アメリカ同時多発テロである。アメリカの繁栄の象徴である高層ビルの残骸さながらに、唯一の超大国の心臓部を直撃したテロの衝撃の余波で、原稿も粉微塵に砕け散っていった。
   その全7章からなる原稿「ユーゴスラビア空爆におけるメディア統制とプロパガンダ」は、和平交渉から開戦に至る詳細な経緯、ユーゴ当局および北大西洋条約機構(NATO)陣営のメディア統制などの現地で収集した事実の記録から、限定戦争時のメディア統制、メディアに内在する問題、「次の戦争」での諸問題の考察まで、いま読み返してもそれなりに貴重な要素を多々含むものだった。何よりも、9・11の後になって新書中心に、必ずしもこの問題をずっと考えてきたとは思えない筆者たちによって「戦争とメディア」をめぐる本が量産されてきたが、それ以前も以後も、本邦ではこの問題に正面から切り込んだ、その名に値するような論考はほとんどない。その意味での希少性と先駆性は十分に備えていた。
   が、日本から遠く離れたバルカンの、すでに国際政治のアジェンダ(議題)からも、メディアのそれからも「終わった」ものとしてかえりみられることがなくなったユーゴ問題を事例として分析した原稿は、「あの日から世界は変わってしまった」などといったいささか能天気にも見える9・11後の狂騒のなかで埋もれていく運命を余儀なくされた。それから、長い、雌伏のときが続いた。
   もちろん、この場を借りて原稿にまつわるルサンチマンを書き連ねたいわけではない。気を取り直してアタマのなかにあった原稿の注を復活させ、コンパクトな同名の学術論文に仕立て上げ、学会誌に掲載された。ちょうどそのころ、15年続けた新聞記者生活に別れを告げ研究者の道に足を踏み入れたこともあり、論文は本活的な研究活動の出発点となってくれた。研究に関心を寄せるジャーナリストからプラクティス(実践)の経験をもふまえた研究者へと立場が変わると、事実の詳細な記録とそれに基づく若干の理論的考察といった内容ではいかにも不十分に思えてきてならない。量産される新書類は自分に関係のない世界、と自らを厳しく律して、単なる各限定戦争におけるメディア統制、プロパガンダの実際と変遷といった具象的な事象を追いかけるにとどまらず、権力行使過程としての政治コミュニケーション、メディア自体に内在する権力性といったものを、その始原まで遡って、まずは理論的考察の枠組みづくりを試みる作業に専心した。
   こうした作業の、とりあえずの中間報告としてまとめたのが本書である。つまり、5年ほど前の“挫折”は、私にとっていいレッスンとなった。
   9・11とその衝撃をあまり大きくはとらえようとしない姿勢、また本書の全体に流れるトーンから、あるいは読者は“反米的”なるものを感じとるかもしれない。しかし、やや意外かもしれないが、私はアメリカとそこに住む人々がかなり好きなほうである。また独立革命前夜にプレスの自由の理念をプラクティスから体得していったプリンター/ジャーナリストたち、その伝統を正しく受け継ぐスモールタウンの、草の根のアメリカ。吉本隆明の「大衆の原像」になぞらえていえば、私は「ジャーナリズムの原像」とでもいうべきものを、そうしたアメリカのなかに幻視する。
   アメリカおよび国際政治の中心としてのワシントンD.C.や世界経済の中心であるニューヨーク、日本にとって死活的に重要な政治・経済・安全保障上のパートナー、そして冷戦終結後のグローバル化の進む世界で唯一の超大国――。アメリカといえばこうしたものばかり想起してほかの部分に眼を向ける想像力も持ち合わせない、この国の主流派の“大人たち”にこそ、違和感を禁じえないのだ。
   本書を制作している過程で、思いははや次なる作品に向かっていった。「ジャーナリズムの原像」が19世紀、北東部主導の産業化、ナショナルマーケットとユニティの成立、マスメディア化の進行といった流れのなかで、新たなテクノロジー、市場、政治、そしてオーディエンスにもみくちゃにされて、どのように変容していったか。それをかの国の19世紀を代表するプリンター/ジャーナリスト/作家の生涯と旅に仮託させて辿っていきたい。私は私自身の個人的な“9・11トラウマ”から、もはや自由になった。過去に深く沈潜しつつ、また書物の扉を開けて広がってくる世界でお会いできる日を楽しみにしている。

「永遠の反逆者」が目の前に!――『ミック・ジャガーという生き方』を書いて

佐藤明子

 「この本は、ミック・ファンやロックファンでなくても、楽しめると思いますよ」――それ以外とくに付け加えることはないが、今春の来日コンサートについて語ることを許してもらおう。
   曲がりなりにもミック・ジャガーについて一冊の本を書いた著者が、彼らのコンサートはこれで2回目などと大きな声では言えないが、言ってしまうけれど2回目だ。来日前は「今回はなるべくたくさん見たいな、そしてまたミックを待ち伏せでもしようかな」などと危ない夢がふくらむ一方だったが、現実は子どもたちの春休みで身動きがとれずに、夫が半日休暇をとって留守を引き受けてくれての名古屋ドーム参戦が関の山だった。電車を降り、たくさんのストーンズファンの群れにまぎれて会場への長い通路をひたすら歩く。自著を取り出して「わたし、これ書いたんです」と言ってみたい衝動にもかられたが、もちろんこらえた。
   席はアリーナで立ちっぱなし。これなら、3年前の2階席の方が全体が見渡せてスクリーンもしっかり見られたからよかったかも。ただ、Bステージかぶりつきだったのはラッキーで、3曲ではあったが至近距離でじっくりと見ることができた。近くで見る彼らはアカヌケしすぎていて、まるでマネキン人形のようだ。キースなどフィギュアとしか言いようがない。そんな彼らが演奏している。ミックの汗が見える。あのストーンズが目の前にいるんだ、もっと夢中になれ! どうしてわたしは、この期におよんでこんなに冷静なのか。いや、これが夢中というものか。夢中だから感動することさえ忘れてしまっていたのだ。夢が現実になった瞬間って、案外こんなものなのかも。
   ミックは何度もすぐそばまできてくれた。両手を大きく広げ、ひたすら腰を振り続ける、その悩ましげな顔は泣いているようだった。わたしが本書で書いたミックの魅力ここに極まれり!だ。でも、前回と違ってキースをほほえましく見ることができた。まるで父に対するようないたわりの思いがふつふつと湧きあがり、2曲のソロの間、目を細めっぱなしだった。自称どうしようもない人である彼を、それでも人々は愛し続けてきたのだ。
   そんな感慨で1曲目を聴いたが、相変わらず彼は自然体のままで、次の曲ではせっかくのこの熱い思いも薄れがちだ。それでもなお、こうして彼らが続けていることはすばらしいではないか。何十年もたってから立ち寄った店に同じマスターが笑ってそこにいるような安心感がある。
   ミックは最後に「ニッポンはいいなあ、またクルゼ」と言っていた。ステージに貼ったメモを照れくさそうに見ながら。実際に彼はまた来るつもりでいるのだろう。ストーンズがいつまでツアーを続けるのかは、メンバーの事情もあるだろうし、わからない。ただ、ミック本人は、いつかドームがガラガラになったとしても、身体を動かそうにも動かせないミジメな姿をさらすことになったとしても、これを続ける志があるのだろう。なぜなら彼は「永遠の反逆児」なのだから。醜くて美しい悪あがきのパフォーマンス、それは人間の証明だ。そのときが本当にきてしまったら、彼らの栄光を見てきた長年のファンにこそ、何かを感じてほしい。その瞬間こそが、ミックからのプレゼントなのだから。

深遠なるブリティッシュ・ロックの世界への「最初の1歩」――『ブリティッシュ・ロックの黄金時代――ビートルズが生きた激動の十年間』を書いて

舩曳将仁

 「洋楽やロックに興味がない」という人たちとじっくり話をしてみると、実は単なる聴かず嫌いであることが多い。「英語が理解できないから」とか、「ロックってやかましいから」とか、もっともらしい理由をつけるのだが、よくよく聞いてみると、「聴く機会がなかった」か「ハマルだけの音楽との出会いがなかった」という場合がほとんどだ。
   インターネットもない時代に、ラジオのエアチェックをマメにおこない、音楽雑誌の隅から隅まで目を通して情報を得ていたオヤジ世代のベテランのロック・ファンからすれば、なんとも嘆かわしいことだろう。ところが、改めて周りを見渡してみると、確かにロックを聴くようになる「きっかけ」や「出会い」は少ない。
   書店の音楽書籍コーナーには、マニアックなアルバム・ガイド本や、非常に細分化されたジャンルのロック紹介本はあるが、初心者向けの本が少ない。テレビやラジオでは、1970年代のロックが紹介されることなど皆無に等しい。インターネットではロック・ファン同士のコミュニティなどもあるが、なかには厳しく批判的なファンもいたりして、ロック初心者には敷居が高くなっている。実は、インターネットというのは、自分の興味ある話題に深く狭く潜っていくには長けていても、新しい世界を発見する横の広がりへとユーザーを連れていく可能性には乏しかったりする。
   そうすると、やはり活字媒体。気軽にロックの世界にふれられるような、入門書になるような本があれば……と思ったことが、拙著執筆の動機となった。

   1960年代から70年代初頭にかけてのブリティッシュ・ロック・シーンは、個性的なアーティストが次々と登場し、ロック表現の可能性を試行錯誤した激動の時代だった。62年10月にビートルズがデビューを飾り、ローリング・ストーンズやキンクスなど、若いビート・バンドが後に続いた。彼らを筆頭にしたイギリスのバンドの多くが続々とアメリカに進出し、アメリカのヒット・チャートのほとんどをイギリス出身のロック・バンドが占めるなど、ブリティッシュ・インヴェイジョン(イギリスの侵略)と呼ばれるセンセーションを起こす。
   1967年には、サイケデリック・ムーヴメントの影響を受け、ビートルズが新しい音楽的アイディアを盛り込んだ『サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド』を発表。他のイギリスのロック・グループも、実験精神にあふれた個性的なロック・サウンドの創造に向かう。
   ロックの可能性を切り開いてきたビートルズが1970年に活動停止を迎えるのと入れ代わるように、後続のブリティッシュ・ロック・グループが頭角を現し、ビートルズ以上に斬新なロックを創造。個性的なグループが咲き乱れ、プログレッシヴ・ロックと呼ばれる革命的な音楽ムーヴメントがイギリスの音楽シーンに巻き起こる。

  拙著は、スリリングに展開した、まさに黄金時代と呼ぶにふさわしいブリティッシュ・ロック10年間の歴史を紹介したものである。
   音楽がデータで手軽にやりとりされる時代だから、若い世代にはピンとこないかもしれないが、「ロックとは何か」という命題に対して、アーティスト(作り手)だけでなく、ファン(聴き手)もまたそれぞれに答えを導き出そうとしていた熱い時代があったことに驚くはずだ。
   そして、40代や50代以上のロック・ファンにも拙著を手に取っていただき、かの時代を再発見するとともに、ロックで胸を熱くした青春時代を思い出してもらいたい。そして、ぜひ若い世代に熱くロックを語ってほしい。子供におもねってモーニング娘。やケミストリーを聴いてみるのもいいが、「俺はお前たちぐらいの頃はこんなカッコイイのを聴いていたんだぜ」と、レッド・ツェッペリンやディープ・パープルなどのアルバムを教えてあげてほしい。「オヤジの頭は古くせー」などと毒づく息子や、「ママは小言ばっかりよ!」と口答えする娘も、思わず唸ってしまうに違いない。あんまり熱いといやがられるかもしれないけれど……。
   1,000を超えるアーティスト数(索引付き)、150を超えるアルバム・ジャケット写真も掲載しているので、深遠なるブリティッシュ・ロックの世界に飛び込む「最初の1歩」にしてほしい。

可能性としてのアマチュアリズム――『写真家・熊谷元一とメディアの時代――昭和の記録/記憶』を書いて

矢野敬一

  ドラマティックな事件や事故を被写体とするのではなく、ごく当たり前の光景を写しただけなのに、なぜか心に残る写真がある。昭和という時代を回顧するさいにしばしば取り上げられるあの写真も、そうした1枚といっていいはずだ。真剣な面差しでコッペパンを口にする少年の姿には、貧しかったがしかし心豊かだった「昭和」という時代の雰囲気が見事に凝縮されている、そう感じる人も多いだろう。
   撮影者は、長野県下伊那郡阿智村(旧・会地村)の小学校教師だった熊谷元一(くまがいもといち)。ちなみにこの写真を収録した岩波写真文庫『一年生――ある小学教師の記録』は、昭和30年(1955年)の第1回毎日写真賞を受賞。土門拳や木村伊兵衛といった錚々たる写真家を抑えての栄冠だった。熊谷は戦前から「コドモノクニ」などの絵本雑誌に作品を掲載する童画家として知られる一方、アマチュア写真家としても昭和13年(1938年)に朝日新聞社から『会地村――一農村の写真記録』を上梓して大きな反響を呼んでいる。明治42年(1909年)生まれで、95歳を超えた現在も住まいのある東京都清瀬市で絵筆をとり、カメラを座右から離さない。
   福音館書店からの絵本『二ほんのかきのき』が、百万部を超えるロングセラーとなっているように、童画家としてはプロを自任する熊谷。だが写真家としては、あくまでもアマチュアだと、その姿勢を崩さない。実際、コッペパンを口にするこの写真を撮影した昭和28年(1953年)、熊谷は地元の会地小学校の1年生の担任教師であり、その立場から自らの教え子を被写体としたのだった。教室内は、屋外に比して当然ながら暗く、さらに現在のように高感度フィルムが容易に入手できたわけでもない。多くの技術的制約を被りながらの撮影だった。しかし当時、岩波写真文庫編集長だった名取洋之助は「光や影などの遊びをする余裕がなかった」結果、「絵画的な美意識にわざわいされずに、如実に現実生活の一片を、覗き見させてくれるのです」と、熊谷の作品を高く評価した(「新しい写真のタイプ」「図書」1955年3月号)。アマチュアとしての限界が、逆に独自の写真世界へと結実していったことを名取の言葉は示している。
   熊谷のアマチュア写真家としての経歴は、その方法論の絶えざる模索と不可分のものだった。たとえば『一年生』を撮影するにあたって熊谷の念頭にあったのは、写真の記録によって、子どもの表面的な行動だけでなく内面的な心の動きまで把握し、指導にあたっての資料として役立てたいという考えである。こうした発想は、一教師というアマチュア写真家ならではのものだろう。実際、『一年生』のページを繰っていると、国語の教科書を読むさいの実にさまざまな子どもたちの姿を写した写真、校内放送を聞いている子どもたちを2、3分おきに撮影し、次第に飽きてくる様子を被写体としたものなど、教師としての姿勢を如実に感じさせる写真が多い。ここからはプロとは違ったアマチュアなりの方法意識の結実が見出せよう。その後もたとえば同じ村の農家に1年間通い詰め、毎日そのくらしを撮影するといった、プロならば最初から敬遠するような忍耐強い試みに取り組んでいる。アマチュアとしての独自の方法意識が、熊谷の撮影姿勢を規定していたことを見逃してはなるまい。
   熊谷が初めてカメラを手にした昭和10年代は、カメラが大衆化する時代の始まりだった。だが購入したパーレットは安価で定評あるものとはいえ、代用教員だった熊谷の月給の約半分の値だった。それと比較して現在、カメラを手にすることははるかに容易になった。携帯電話にはデジカメが標準装備されるまでになっている。かつてのプリクラの流行を見るまでもなく写真の撮影行為はごく日常化しており、ことさら意識されることもない。しかしそれがゆえに写真を撮影する、という行為に対する方法意識はかえって希薄になっているのではないだろうか。誰しもが多様なメディアを利用できるものの、自己満足の域を出ない表現が、ただただあふれかえっているだけという思いを筆者は否定できない。熊谷元一の歩んだ軌跡は、写真や絵本、8ミリ、テレビという出版や映像ジャーナリズムがいっせいに展開していった同時代史としても位置付けられるものだ。そうした展開に熊谷は注意深く、自らの方法を模索しつつ歩調を合せていったのだった。だからこそ熊谷の営為を振り返ることは、アマチュアがメディアにどう関わっていくのかという、その限界と可能性を見究めることにつながる、とあらためて思う。可能性としてのアマチュアリズム、それを問うことこそが本書のねらいといってもいい。

「ナイトメア叢書」という結晶――「ナイトメア叢書」を刊行して

一柳廣孝

  ナイトメア叢書の刊行がはじまった。文化現象としての「闇」への想像力に目を向け、隣接人文諸科学の成果を結集した新たな場となることを目指すシリーズである。東雅夫氏、高原英理氏をはじめ、多くの方々から激励の言葉をいただいた。ありがたいかぎりである。その反面、こうした企画の困難さもあらためて認識することとなり、気を引き締め直しているところである。
   さて、この叢書はいつ、どこから生まれたのか。私の記憶が曖昧なので、共編者の吉田司雄さんにお聞きしたら、別の編著を作っていたときの飲み会で出た企画だという。やはり企画とは、飲み屋で生まれるものらしい。
   吉田さんの指摘にしたがって手帳やメモのたぐいを調べていたら、この企画が出たのは2004年8月1日であることが判明した。メモには、こうある。「ナイトメア。幻想文学や怪奇オカルト系を含みこんだ形で、テーマを決め叢書化。年一回刊行。原稿募集。しかし相手がのってくれるかどうか」
   思い出した。提案者は、吉田さんである。「ナイトメア」の命名者も、吉田さんである。さらに付け加えれば、メモにある「相手」とは、もちろんわが青弓社である。のってくれたわけである。ありがたいかぎりである。
   さて、時代はいま、ぼんやりとした不安に包まれている。それが闇を引き寄せる。1990年代あたりから本格化してきた「闇」への眼差しは、多様なジャンルを越境しながら、さらに増殖をつづけている。こうした動きの背景に、グローバル化が進み多元化された社会の、複雑かつ劇的な変化を指摘してみたところで、あまり意味がないだろう。考えなければならないのは、そうした先の見えない世界で生きざるをえない、私たちの「心」のありようである。
   私たちが「心」の奥底で育ててしまった闇の深さと広さは、いまや論理のレベルで回収できない状況にまで進んでいる。しかし闇が生み出した多様な現象に切り込み、言説レベルで再構成していくそのプロセスは、闇を「闇」として認識するための、貴重な手がかりを与えてくれるだろう。
   「ナイトメア叢書」の第1巻、『ホラー・ジャパネスクの現在』は、私たちの「闇」への眼差しが生み出した結晶のひとつである。村山守さんの装幀、佐伯頼光さんの写真が、編者である私たちの思いを、形にしてくださった。私は一目で、やられました。
   さらに……本書を購入してくださった方は、カバーをはずしてみてください。闇を切り裂いた空間から、こちらを見つめる瞳があなたに突き刺さります。この瞳は、闇の彼方からあなたをうかがう他者の瞳です。また、それは同時に、闇に潜むあなた自身の眼でもあります。ふたつの眼差しが交錯する闇が生み出した結晶として、本シリーズが読者のみなさまに受け入れられますように。

図書館の政治性について考えてほしい――『図書館の政治学』を書いて

東條文規

  青弓社ライブラリーの1冊に『博物館の政治学』という本がある。何かの広告でこの本を知った私はすぐに購入した。著者の金子淳さんは未知の若い研究者だったが、私の問題意識と共通している部分も多く、一気に読んだ。
  ちょうど私が「図書館が「紀元二千六百年」にかけた夢」(「ず・ぼん」第8号、ポット出版、2001年)を書いた直後で、金子さんの著書は、同じ「紀元二千六百年」を博物館をテーマに詳述していた。さらに、昭和大礼や植民地の博物館建設構想などにも言及していて、私が図書館の歴史を調べていて関心をもった領域と重なっていた。
  その後私は、大正(1915年)と昭和(1928年)の天皇の即位大礼と当時の図書館界がどのようにかかわってきたかを調べはじめた。幸い、大正については、その詳細は『大礼記録』が2001年にマイクロフィルム34リールで臨川書店から復刻されていた。『紀元二千六百年祝典記録』の原本を利用させてもらった同志社大学人文科学研究所がこの『大正大礼記録』も所蔵していることを知った私は、また人文研のお世話になった。人文研にはこれ以外にも、大正と昭和の大礼時に東京府や京都府、京都市などが独自に編纂した記録もあって、同じように見せてもらえ、必要なところは自由に複写もできた。
  歴史研究者は資料が集まれば八割方仕事はできているとよく言うらしいが、私も複写物をリュックに詰め込んで香川に戻ったときにはほとんどその気になっていた。
  だが同じころ、職場の大学図書館の新築問題がいろいろな事情で暗礁に乗り上げ、日常業務以外に消耗する仕事が増えていた。帰宅すると酒を飲んで寝るだけの日が多くなり、休日には寝転んで小説を読むかボケーッとテレビを見ている日が続いた。せっかくの複写物も部屋の片隅に積み上げたままになっていた。
  そんな折、「出版ニュース」の清田義昭さんから「書きたいテーマ・出したい本」の執筆依頼が舞い込んだ。十年ほど前に同誌の「ブックストリート・図書館」の欄に書いたことがあったが、研究職ではない私には思いがけないことだった。
  私は、「戦争と皇室と図書館と」という短文を書いた。そのなかで夏ごろまでに「二つの大礼と図書館」というテーマで書き上げたいと記した。半分ハッタリではあったが、自分を強制しないとなかなか書けないと思っていたし、基本的な資料は複写物として手元にあるので、もう八割方書けていると、自分に都合よく解釈したのである。
  しばらくして、今度は青弓社の矢野恵二さんから、青弓社ライブラリーの1冊として『図書館の政治学』というテーマで書いてみませんかというお誘いの手紙が届いた。矢野さんは「出版ニュース」の短文を読んでくれていたのだ。私は、この短文に、確かに「二十数年間の図書館生活ではいろいろなことがあり、その折々に書いてきた図書館をめぐる拙文と地元(香川県)の子ども文庫の会報に毎月連載しているエッセイのようなものがだいぶ溜まっている。奇特な出版人(社)と出会えればいいのですが……」と書いた。
  が、まさかその「奇特な出版人(社)」があらわれると思っていなかった私はうれしかった。矢野さんは、文字どおり本来の意味で、私にとって「奇特な人」になった。
  実をいえば、はじめに記した『博物館の政治学』を読んだとき、私は、同じような問題意識で図書館を対象に1冊書いてみたいと思っていた。私の考えでは、編集委員をしている「ず・ぼん」に毎年80枚から100枚程度のものを書けば3、4年で1冊の本になるぐらいは溜まる。そのうえで、どこか出してくれる出版社を探そうと思っていた。
  ところが、「出版ニュース」に載ったことから矢野さんが声をかけてくれ、『博物館の政治学』と同じシリーズで出してくれるという。こんなにありがたいことはなかった。矢野さんとは当初、無謀にも6カ月ぐらいで書き上げると約束したが、その3倍ぐらい時間がかかってしまった。もちろん私の怠慢のせいだが、その間いくらかほかの資料も見ることができ、楽しみがのびた。
  それにしても、金子さんも書いていたが、博物館と同じく、図書館の政治性について関心を払う図書館関係者はそれほど多くない。現場の図書館員には直接役に立たないかもしれないが、本書を読んで過去そして現在の図書館の「政治性」について少しでも考えてほしいし、それは決して無駄ではないだろうと私は思っている。

「知」を駆け抜けろ!――『メディア・リテラシーの社会史』を書いて

富山英彦

  私が社会学を始めたのは大学院の修士課程からである。その前は科学哲学や図書館情報学を専攻し、幸か不幸か学際的に国文学や民俗学、宗教学や歴史学を手広くかじり、知的な雰囲気を楽しんでいた。そのうえで、きちんと学問に取り組もうと入り込んだのが社会学だった。その大学院の研究や学習の過程で身についた「学問」なるものの方法は、ひとつの小さなテーマや素材に取り組み、深く掘り下げ、論文として完成させるものである。私の偏見かもしれないが「学問」とはそういうものであり、現にいまでも卒論指導などでは、なるべく小さなテーマを深く調べ、論じるようにアドバイスすることが多い。
しかしその一方で、私自身がそんな学問に飽き足らなさを感じていた。テレビで放映されるドキュメンタリーに感心し、芝居の舞台に感動し、小説を読んで没入した。学生だって教室で先生の話を聞くよりは、映画館に足を運んだり、好きなアーティストのライブに出かける方が楽しいに違いない。もしかしたらそうした大学以外のメディアとのかかわりの方が、彼ら・彼女らの人生に影響を与えているかもしれない。
  自分がバブルの頃に学生時代をすごし、高校から大学にかけては「ニューアカ」と呼ばれたファッショナブルな学問スタイルが流行したこともあって、私も格好いい学問に憧れていた。でも、元より田舎者で地味な自分がそんなスタイルになじむはずもない。私は表現の豊かさに惹かれながらも、自分の履歴や生活の糧としての「学問」に踏みとどまり、限界を感じていた。
  本書のテーマは、「豊かな表現」を可能にする「書く」力の獲得が、「読む」ことに支えられてきた「私」のダイナミズムを失わせるのではないかという問題である。そんな表現に対する憧れと疑惑は、私自身の経験のなかで芽生えていった。さらに付け加えれば、「あとがき」に書いた「頭のいい研究者」に対する批判ないし嫌みもまた、自分の憧れと表裏の関係にあることを表明しておこう。
  そんな思いを抱き続ける頃に、青弓社から本書の誘いをいただいた。
  「あとがき」にも書いたけれど、本書の完成までの道のりは長かった。出版という表現形式を甘く見ていたこともあるだろう。編集者の見識は鋭く、批評は辛かった。しばらく経って自分で読み返してもひどい内容だった。それでも出版の機会を待ってくれる編集者に申し訳なかった。最初に書いた丸一冊分の原稿は、そのほとんどを自ら捨てた。
  私は割り切って、資料の世界に没入することを決めた。それが本来は、自分の強みのはずだった。でもこの方法は時間がかかるし、疲れる。金もかかるし、評価もされにくい。何とでも言い訳できるが、とにかく私は資料に没入することから逃げていた。論文の本数がほしい就職エントリーの時期から大学に職を得てからというもの、時間ばかりかかって確実な成果が期待できない研究スタイルから逃げ続けていた。
  私は「出版の危機」に直面し、反省して、真面目に資料に取り組むことにした。でも情報系の大学に身をおく自分にとって、資料へのアクセスには限界がある。古い大学のように文書は蓄積されておらず、都心の大学のように頻繁に大型図書館や資料館に通うことも難しかった。私はとりあえず、所属する大学の図書館が所蔵する新聞の縮刷版をめくることから始めてみた。何かが得られる予感はあったけれど、確信はなかった。電子化されたデータベースを使わずにアナログ資料に取り組む方法は情報収集として効率が悪く、締め切りに間に合わないことは見えていた。でも時代をつかみ、論じるべき「相手」を見つけるためには時間と手間が必要だった。自分の身体に「時代」を染み込ませたかった。
  それと同時に憧れもあった。いままで自分がやってきた小さなテーマや素材を掘り下げるのではなく、近代日本なるもののメディア空間を駆け抜けてみたいと考えた。活字に驚いた時代からテレビに興奮する社会、そして現代のIT革命にいたるメディアの社会史を、人々のリテラシーに着目して書き抜きたいと思った。それはいままで自分が封印してきた手広い考察の方法であり、学生時代に楽しんだ「知」のスタイルに回帰することだった。そうして本書ができあがった。
  もしできるならば、多くの読者が「知」を楽しみ、駆け抜けることの興奮を味わっていただけたらと願っている。

純愛と死別――『死と死別の社会学――社会理論からの接近』を書いて

澤井 敦

  2004年は、純愛ブームの年といわれた。『世界の中心で、愛をさけぶ(以下、セカチュー)』『いま、会いにゆきます』『冬のソナタ』などなど。ただ私が気になったのは、これらがみな「死別」というテーマを扱っているということだ。もちろん愛と死は、『ロミオとジュリエット』のような古典的純愛を例にあげるまでもなく、ひろく結び付けて考えられるものではある。ただ、その様相は社会的背景に応じて変化する。
  まず、ここでいう純愛のかたちが、基本的には「かなえられない愛」であるが、それでも「はなれられない絆」があるところに存立していると理解しよう。そして、一方で「純粋性への憧憬」がありながら、「俗世間での困難」というか、現実にはそれが存立し難いからこそ、一定の純愛のかたちがブームになると考えよう。どこにでもある平凡なものであれば、小説や映画のなかで憧憬の対象とはなりにくいからである。
 『ロミオとジュリエット』の場合、愛が「かなえられない」のは、家と家との確執、社会的障壁によるものだった。そして、偶然のいたずらに翻弄されてとはいえ、結果的には「はなれられない」絆は、あの世へともちこされることになる。しかし、こうした純愛のかたちがリアルなものと感じられるためには、あの世、そこでの再会ということが、一定程度リアルなものと感じられている必要がある。世俗化が進んだ現代においては、「僕は生き残ったロミオなんだ」という『セカチュー』の朔太郎の言がむしろリアルに感じられてしまう。
  では、日本における半古典的純愛、1964年の『愛と死を見つめて』(2006年にリメイクされてドラマ化されるそうだが)の場合はどうか。この場合、愛が「かなえられない」のは、軟骨肉腫という自然的障壁による。もはや家制度も法律上は消滅した時代である。そして「はなれられない」絆は、病に直面し将来に夢を描けないにもかかわらず、互いを「心の妻」「心の夫」と呼ぶ心情として現れる。社会的背景についていえば、当時はまだ恋愛結婚よりも見合い結婚が多かった。80年代以降のように結婚とセックスが分離する傾向はまだそれほどでもなく、「結婚を前提としたお付き合いをしてください」と申し込むことも普通のこととしてままある時代である。いったん成立した男女の関係が比較的安定したものと見なしうる時代にあって、ミコとマコの純愛はリアルなものと感じられた。しかし現在、マコは、二女をもうけ、かの純愛に関して「パパ、すごいじゃん」と娘さんに言われているそうだ。もちろん、だからといって、2005年の現時点でマコを責める者は、とりわけ若い世代であれば、皆無であろう。
  そして2004年の『セカチュー』である。ここでもまた白血病で彼女が先に逝く。筋書きとしては、『愛と死を見つめて』とそれほど変わりはない(もちろん『愛と死を見つめて』はもともと実在する二人の往復書簡であり、『セカチュー』のようにフィクションではないが)。ただ、ひとつ異なるのは、『セカチュー』の場合(とりわけ映画・ドラマ版の場合)、彼女が亡くなってからの後日談が大きな位置を占めているという点である。朔太郎は、彼女が死んでから10数年経っているのに、彼女のことを忘れられない。いや、忘れられないどころか「彼女はいるんだよ、いるとしか思えない」。ここでは、「はなれられない」絆は、生と死の境を隔てた関係性として現れている。男女の関係、家族の関係が多様化し流動化した状況にあって、一時の心情のもとに成立した関係性は、以前のように安定した自明のものとは見なされ難い。結局、「はなれられない」絆は、この世の枠内では、リアルなものと感じられにくくなっているということである。ただ、純愛をめぐるこうした「俗世間での困難」にもかかわらず、それでも人びとは、「純粋性への憧憬」を捨てることはない。「はなられない」絆が現代においてリアルと感じられるのは、それが生死の境を隔てるというこれ以上ない絶対的な別離を経てもなお存続している、とされる場合である。
  さて、『セカチュー』のような純愛がブームとなるこの現代の社会的背景を、「死の社会学」の観点から理解するとしたらどのようになるか。これに関して、新刊『死と死別の社会学――社会理論からの接近』の第5章、「死別と社会的死」で私なりの整理を試みた。ご一読いただければ幸いである。

映画を槍に、時代という怪物マタゴーヘルと立ち向かうために――『映画ライターになる方法』を書いて

まつかわゆま

  「まつかわ先生、これをお預かりしています」とカルチャー・サロンの方から渡された白い封筒。そこからすべてが始まりました。
  数日後、大雨のなか、青弓社にうかがい、「半年で書きます!」と大見栄切ったのは、いまから思えば怖いもの知らずというか、身の程知らずというか。結局、書き上げるまでに1年8カ月ほどかかり、すっかり「狼少年ゆま」になってしまいました。最後のほうは、「もういいです、やめましょう」と言われるのではないかとハラハラしました。
  ともあれ、まつかわゆま初めての映画本の書き下ろしです。正直なところ、マツケンサンバを踊りたいくらいにうれしいです。オレィッ!
  さて。「原稿の余白に」ということで、何が余白にあたるのかしらね、と考えたところ、それは「語り」だと気づきました。『映画ライターになる方法』では、講義でいつも語っていることをもう一度文章として構成しなおし、さらに考察を加え、映画ライターという仕事の発生を映画史的にとらえなおしてみたりしました。それはそれで、自分が考えてきたことや感じていたことが時代という事実にバックアップされて、論になっていくスリリングさがあり面白い経験でした。とかく評判の悪い映画ライターという仕事ですが、調べてみれば映画史的必然から生まれた仕事であり、どんどん変化していく映画業界にとっても観客にとっても必要な仕事なのだという思いを新たにしました。
  本書はハウツウの範疇を超えて、映画と時代と自分とにどのようにして取り組むのか、はっけよいのこった、という奮闘記として読んでいただける本になっているのではと思います。だって、映画って、見る人のもの。観客それぞれの「いま」にシンクロして違う姿を見せるものです。だから、映画を見ながらどのようにして自分の見方を見つけ、自覚し、表現して、面白がってもらえるように書くか、がライターにとっては大切なのではないか、と思うんですね。
  まぁ、私の場合、長いこと女優志願だったこともあってか、読者つまりお客さんを楽しませたいと思ってしまう傾向があり、それが授業や講義、講演や司会となると歯止めが効かなくなってしまいます。それこそが、まつかわゆまのまつかわゆまたるゆえん。だから「語り」なんです。
  原稿を書き上げて、青弓社の矢野恵二さんを映画ライター講座のOG・OB会にお誘いしたときのことです。身振り手振りに声色にと、講義のときのように「語る」私を見て矢野さんビックリ。「まつかわさんって、いつもこんなに熱いんですか?!」。はい。熱いんです。淀川さんも熱い方でしたよね。わたし、醒めているのってだめなんです。だって、好きなんだもん、映画。好きだからこそ、辛口にもなろうというもの。自分の人生の一部として考えてしまうから、感情移入してしまうから、どんなに映画的・作家的評価が高い作品でも、だめなものはだめ、なんですね。女性と子ども、立場の弱い人々を足蹴にするようなニオイがするといやになってしまうし、希望のかけらも感じさせないものは苦手。斜に構えるよりも、真正面からぶつかって、あきらめないで突破していくって映画に熱くなってしまいます。
  そう、私はラ・マンチャの女。いえ、世田谷区生まれのオジョーサマですけどね、ホホホ。でも私の心はラ・マンチャの男、ドン・キホーテ、なんです。私はミュージカル『ラ・マンチャの男』が大好きで、座右の銘は「事実は真実の敵なり」というせりふ。事実はひとつでも、真実はそれを体験する人の数だけあるはず。映画作家も自分ひとりの真実を描くために作品を作ります。その真実にどれだけ迫り、共感し、自分のものにできるかが、私の勝負だと思っているんですね。「夢ばかり見て現実を見ないのも狂気かもしれぬ。しかし、いちばん憎むべき狂気は、あるがままの現実と折り合いをつけて、あるべき姿のため闘わないことだ」というドン・キホーテにならって、映画を槍に、時代というマタゴーヘル(腕が四本ある怪物。実はただの風車なんですが)に向かっていきたいのです。
  2001年9月11日から4年。私の周りにはにょきにょきとマタゴーヘルが立ち並び、どんなに腕を振り回してもひとっつも倒れる気配がない、という状況になっています。けれど気がつけば、腕を振り回しているのは私一人ではなく、みんなそれぞれいろいろな形の槍を振り回して、力いっぱい立ち向かっているのです。映画という槍は、昔はともかく、そして日本では特にそんなに強い武器ではありません。けれど、まったく力がないわけではないと思います。現実を映画という虚構に読み替えてくれることで見えてくる真実があるのです。人はその真実で動きます。それが映画の力だと思います。
  現実と折り合いをつけること、事実だけを見て夢を見ず、真実を考えないこと。そんな世界はいやです。映画の力を信じる映画ライターとして、自分の真実を映画に見つけ、伝えていく。そんな映画ライターになりたい方を勇気づけられる本になれればいいなと思います。

無駄や遊びがあることが豊かさの原点――『企業スポーツの栄光と挫折』を書いて

澤野雅彦

 「企業スポーツ」は、以前から書いてみたいテーマでした。バブルのころ、金が余った多くの企業がスポーツチームを結成し、有名・有望スポーツ選手のスポンサーリングに名乗りをあげ、スポーツにとってはいい状態のように見えましたが、どこか釈然としない感じも持ちました。経営学が専門ですから、「企業スポーツ」が企業労務問題を起源に持つことも知っていましたし、企業でのヒアリングなどで運動部の部長や監督が労使関係などで一定の役割を果たしていることも聞いていました。ところが、このころから広告宣伝や売名行為としか思えないスポーツへの進出が続き、こんなことでは企業スポーツの信頼が失われると感じたのが動機です。
 当時は富山にいたので私のゼミからも何人か地元企業に就職していました。それまで「企業スポーツ」とは無縁だった企業が、サッカー・ワールドカップ誘致の流れで、国立サッカー場建設受注を目指してサッカーチームに出資するに及んで、これは「企業スポーツ」とは何か、経営学徒としてきちんと調べて議論しておく必要を感じたのです。
  それから10年以上が経過し、案の定そのサッカーチームは解散し、社会問題にさえなりました。また、バブルの崩壊を契機に状況は180度転回し、この間「企業スポーツ」も暗転して、チームの休・廃部が新聞紙上を賑わすようになりました。だから、もともとは、「こんなことでいいのか?、企業スポーツ」という議論をするつもりが、「がんばれ! 企業スポーツ」という論調になってしまいました。
  書いてみると、思わぬところから反響があり、驚きました。看護学校の先生から、「以前は学生のクラブ活動がいっぱいあり、看護学校の対抗戦に出ていたのに、学生の元気がなくなるとともに、近年では先生が陣頭指揮に立っても学生は踊らず、ほとんどのクラブで試合に出られない状態になったのも同じ話ですね」といわれました。また、ゼミの学生は、「この本を読んで、出身高校では入学早々に、できるだけ運動系クラブに入るように指導を受けたことを思い出しました。生徒が元気にスポーツをやっていれば問題を起こさずにすむからでしょうね」と話してくれました。
  大学で若い人と接していていちばん気になるのは、どんどん忙しくなっていることです。もちろん社会全体が忙しくなり、世知辛くなっていますが、若い人まで「利益にならないことはしない」ポリシーを持ちはじめて、何か言っても「どんな利益があるのですか?」と聞かれるのは心が寒くなります。また、以前はどこにでもいた仕切り屋とか宴会部長といったインフォーマルな役どころをこなす人も減っています。そんな縁の下の力持ちのようなことをしても、企業でも学校でも、業績や成績に反映されないからでしょうか。そのために、クラブ活動を含むレクリエーションがなくなりつつあります。
  そうはいっても、社会からレクリエーションがなくなるわけではなく、これは、業務となり外注化して生き延びています。よく問題を起こす合コン・合ハイ斡旋業をはじめ、仕切り屋に毛の生えた起業家が登場し、仲間内でその場を盛り上げてきた宴会部長はタレント化してテレビで笑いを売るようになりました。
  これはこれで、雇用を増加しGDPに貢献するのだから、とやかく言うことではありませんが、企業や大学など組織の元気を失わせることは否めず、また、組織のなかの種々の組織運営ノウハウを失わせていることは明らかです。
  最近マスコミなどでは、スロー・フードやスロー・ライフなどといって、個人生活の豊かさに注目する運動をおこなっています。レストランや食堂などでは価格競争が厳しくなって、セントラル・キッチンによるファスト・フードばかりが目立つようになり、ぎりぎりの人員削減によって馬車馬のように急き立てられて働かざるをえない人(私たちの職業も完全にそうなりました)が増えた状況で、難しいことだと思います。しかし、非経済的豊かさに、もう一度注目することが必要だと思います。
  個人生活ばかりではありません。多くの人は人生の3分の1は何らかの組織で働いているのですから、そんな組織のなかでの生活の豊かさを、もう一度考えてみる必要があるように思います。そんな思いを込めて、「企業スポーツ」の再興を論じてみました。無駄や遊びがあることが豊かさの原点であると、もう一度、この社会を考え直す機会として、ぜひこの本を読んでみてください。