図書館の政治性について考えてほしい――『図書館の政治学』を書いて

東條文規

  青弓社ライブラリーの1冊に『博物館の政治学』という本がある。何かの広告でこの本を知った私はすぐに購入した。著者の金子淳さんは未知の若い研究者だったが、私の問題意識と共通している部分も多く、一気に読んだ。
  ちょうど私が「図書館が「紀元二千六百年」にかけた夢」(「ず・ぼん」第8号、ポット出版、2001年)を書いた直後で、金子さんの著書は、同じ「紀元二千六百年」を博物館をテーマに詳述していた。さらに、昭和大礼や植民地の博物館建設構想などにも言及していて、私が図書館の歴史を調べていて関心をもった領域と重なっていた。
  その後私は、大正(1915年)と昭和(1928年)の天皇の即位大礼と当時の図書館界がどのようにかかわってきたかを調べはじめた。幸い、大正については、その詳細は『大礼記録』が2001年にマイクロフィルム34リールで臨川書店から復刻されていた。『紀元二千六百年祝典記録』の原本を利用させてもらった同志社大学人文科学研究所がこの『大正大礼記録』も所蔵していることを知った私は、また人文研のお世話になった。人文研にはこれ以外にも、大正と昭和の大礼時に東京府や京都府、京都市などが独自に編纂した記録もあって、同じように見せてもらえ、必要なところは自由に複写もできた。
  歴史研究者は資料が集まれば八割方仕事はできているとよく言うらしいが、私も複写物をリュックに詰め込んで香川に戻ったときにはほとんどその気になっていた。
  だが同じころ、職場の大学図書館の新築問題がいろいろな事情で暗礁に乗り上げ、日常業務以外に消耗する仕事が増えていた。帰宅すると酒を飲んで寝るだけの日が多くなり、休日には寝転んで小説を読むかボケーッとテレビを見ている日が続いた。せっかくの複写物も部屋の片隅に積み上げたままになっていた。
  そんな折、「出版ニュース」の清田義昭さんから「書きたいテーマ・出したい本」の執筆依頼が舞い込んだ。十年ほど前に同誌の「ブックストリート・図書館」の欄に書いたことがあったが、研究職ではない私には思いがけないことだった。
  私は、「戦争と皇室と図書館と」という短文を書いた。そのなかで夏ごろまでに「二つの大礼と図書館」というテーマで書き上げたいと記した。半分ハッタリではあったが、自分を強制しないとなかなか書けないと思っていたし、基本的な資料は複写物として手元にあるので、もう八割方書けていると、自分に都合よく解釈したのである。
  しばらくして、今度は青弓社の矢野恵二さんから、青弓社ライブラリーの1冊として『図書館の政治学』というテーマで書いてみませんかというお誘いの手紙が届いた。矢野さんは「出版ニュース」の短文を読んでくれていたのだ。私は、この短文に、確かに「二十数年間の図書館生活ではいろいろなことがあり、その折々に書いてきた図書館をめぐる拙文と地元(香川県)の子ども文庫の会報に毎月連載しているエッセイのようなものがだいぶ溜まっている。奇特な出版人(社)と出会えればいいのですが……」と書いた。
  が、まさかその「奇特な出版人(社)」があらわれると思っていなかった私はうれしかった。矢野さんは、文字どおり本来の意味で、私にとって「奇特な人」になった。
  実をいえば、はじめに記した『博物館の政治学』を読んだとき、私は、同じような問題意識で図書館を対象に1冊書いてみたいと思っていた。私の考えでは、編集委員をしている「ず・ぼん」に毎年80枚から100枚程度のものを書けば3、4年で1冊の本になるぐらいは溜まる。そのうえで、どこか出してくれる出版社を探そうと思っていた。
  ところが、「出版ニュース」に載ったことから矢野さんが声をかけてくれ、『博物館の政治学』と同じシリーズで出してくれるという。こんなにありがたいことはなかった。矢野さんとは当初、無謀にも6カ月ぐらいで書き上げると約束したが、その3倍ぐらい時間がかかってしまった。もちろん私の怠慢のせいだが、その間いくらかほかの資料も見ることができ、楽しみがのびた。
  それにしても、金子さんも書いていたが、博物館と同じく、図書館の政治性について関心を払う図書館関係者はそれほど多くない。現場の図書館員には直接役に立たないかもしれないが、本書を読んで過去そして現在の図書館の「政治性」について少しでも考えてほしいし、それは決して無駄ではないだろうと私は思っている。