可能性としてのアマチュアリズム――『写真家・熊谷元一とメディアの時代――昭和の記録/記憶』を書いて

矢野敬一

  ドラマティックな事件や事故を被写体とするのではなく、ごく当たり前の光景を写しただけなのに、なぜか心に残る写真がある。昭和という時代を回顧するさいにしばしば取り上げられるあの写真も、そうした1枚といっていいはずだ。真剣な面差しでコッペパンを口にする少年の姿には、貧しかったがしかし心豊かだった「昭和」という時代の雰囲気が見事に凝縮されている、そう感じる人も多いだろう。
   撮影者は、長野県下伊那郡阿智村(旧・会地村)の小学校教師だった熊谷元一(くまがいもといち)。ちなみにこの写真を収録した岩波写真文庫『一年生――ある小学教師の記録』は、昭和30年(1955年)の第1回毎日写真賞を受賞。土門拳や木村伊兵衛といった錚々たる写真家を抑えての栄冠だった。熊谷は戦前から「コドモノクニ」などの絵本雑誌に作品を掲載する童画家として知られる一方、アマチュア写真家としても昭和13年(1938年)に朝日新聞社から『会地村――一農村の写真記録』を上梓して大きな反響を呼んでいる。明治42年(1909年)生まれで、95歳を超えた現在も住まいのある東京都清瀬市で絵筆をとり、カメラを座右から離さない。
   福音館書店からの絵本『二ほんのかきのき』が、百万部を超えるロングセラーとなっているように、童画家としてはプロを自任する熊谷。だが写真家としては、あくまでもアマチュアだと、その姿勢を崩さない。実際、コッペパンを口にするこの写真を撮影した昭和28年(1953年)、熊谷は地元の会地小学校の1年生の担任教師であり、その立場から自らの教え子を被写体としたのだった。教室内は、屋外に比して当然ながら暗く、さらに現在のように高感度フィルムが容易に入手できたわけでもない。多くの技術的制約を被りながらの撮影だった。しかし当時、岩波写真文庫編集長だった名取洋之助は「光や影などの遊びをする余裕がなかった」結果、「絵画的な美意識にわざわいされずに、如実に現実生活の一片を、覗き見させてくれるのです」と、熊谷の作品を高く評価した(「新しい写真のタイプ」「図書」1955年3月号)。アマチュアとしての限界が、逆に独自の写真世界へと結実していったことを名取の言葉は示している。
   熊谷のアマチュア写真家としての経歴は、その方法論の絶えざる模索と不可分のものだった。たとえば『一年生』を撮影するにあたって熊谷の念頭にあったのは、写真の記録によって、子どもの表面的な行動だけでなく内面的な心の動きまで把握し、指導にあたっての資料として役立てたいという考えである。こうした発想は、一教師というアマチュア写真家ならではのものだろう。実際、『一年生』のページを繰っていると、国語の教科書を読むさいの実にさまざまな子どもたちの姿を写した写真、校内放送を聞いている子どもたちを2、3分おきに撮影し、次第に飽きてくる様子を被写体としたものなど、教師としての姿勢を如実に感じさせる写真が多い。ここからはプロとは違ったアマチュアなりの方法意識の結実が見出せよう。その後もたとえば同じ村の農家に1年間通い詰め、毎日そのくらしを撮影するといった、プロならば最初から敬遠するような忍耐強い試みに取り組んでいる。アマチュアとしての独自の方法意識が、熊谷の撮影姿勢を規定していたことを見逃してはなるまい。
   熊谷が初めてカメラを手にした昭和10年代は、カメラが大衆化する時代の始まりだった。だが購入したパーレットは安価で定評あるものとはいえ、代用教員だった熊谷の月給の約半分の値だった。それと比較して現在、カメラを手にすることははるかに容易になった。携帯電話にはデジカメが標準装備されるまでになっている。かつてのプリクラの流行を見るまでもなく写真の撮影行為はごく日常化しており、ことさら意識されることもない。しかしそれがゆえに写真を撮影する、という行為に対する方法意識はかえって希薄になっているのではないだろうか。誰しもが多様なメディアを利用できるものの、自己満足の域を出ない表現が、ただただあふれかえっているだけという思いを筆者は否定できない。熊谷元一の歩んだ軌跡は、写真や絵本、8ミリ、テレビという出版や映像ジャーナリズムがいっせいに展開していった同時代史としても位置付けられるものだ。そうした展開に熊谷は注意深く、自らの方法を模索しつつ歩調を合せていったのだった。だからこそ熊谷の営為を振り返ることは、アマチュアがメディアにどう関わっていくのかという、その限界と可能性を見究めることにつながる、とあらためて思う。可能性としてのアマチュアリズム、それを問うことこそが本書のねらいといってもいい。