3月30日の日曜日のこと――極私的「愛も、闘争も」論序説――『刑法39条はもういらない』を書いて

佐藤直樹

  統合失調症は、思春期に恋愛を契機に発症することが多い。恋愛というのは、人生において一種の「危機」であり、それだけでも立派なビョーキだといっていいが、私にとって恋愛は「闘争」と完全にオーバーラップするものであった。
  それは、1969年3月30日の日曜日の午後のことだった。私はこの年に高校を卒業したものの、受験した大学は全部落ちて、浪人確定のブルーな気分のまま、生まれて初めてのデートで、清水の舞台からバンジー・ジャンプする心境で、そのころ「死ぬほど」好きだったNという女性に、喫茶店の片隅で告白というやつをした。が、「好きとかキライとかそういうんじゃなくって、お友達としてね」とやさしく諭され、あっさりフラれてしまった。要するに、向こうのほうがずっと大人だったのだ。
   彼女と別れて、折しも降ってきた雨に「春雨じゃぬれて帰ろう」などとカッコつけて、傘もささずに2時間ほど歩いてやっと家にたどりついたはいいが、アホなことに、フラれたことに気づくのにそれからしばらく時間がかかった。あまりのことに、ボーゼン自失していたのだ。
   これを世に「69年の3・30事件」という(んなわけ、ないか)。
   なぜこの日付をはっきりと覚えているかといえば、すぐそのあとで新谷のり子の「フランシーヌの場合」という反戦フォークがはやったからである。なんと69年3月30日の日曜日は、ベトナム戦争に抗議して、パリでフランシーヌが焼身自殺した日だったのだ。
   恋愛というのは、自分では制御できない絶対的な他者に出会うという経験のことである。絶対的な他者とは、「話せばわかる」ということがまるで通じないということである。言い換えれば、近代的啓蒙ということがまったく無効となる地平のことである。しかも、そのことを通じて無意識にせよ、フッサールのいう「エポケー」(自然的態度の停止)というやつをやってしまう。
   私の場合は、高校2年から浪人時代をつうじてほとんどこの「エポケー」状態で、Nのこと以外、ホントになーんにも考えられなかった。彼女とは具体的に何かあったわけでもなく、要するに片思いにすぎなかったのだが、大学受験のことなど、どーでもよくなった。高校も赤点ギリギリでやっと卒業できた。それまであたりまえで自明のことだと思っていたことが、まるでそう思えなくなったのだ。
   かなりツラかったので、いま考えれば、当時の文学青年の読書の典型みたいなものだったのだが、吉本隆明や木村敏や中原中也などにのめり込んでいった。そういってはなんだが、いま考えていることの大半は、この頃に思いついたものにすぎない。結局、ここ30年ぐらいさっぱり進歩がないことになる。
   しかも、時あたかも「全国教育学園闘争」が吹き荒れていた時代であった。当時真面目な高校生だった私も、これと無縁ではなかった。というよりも、恋愛の「エポケー」状態があまりにツラかったので、当時東北大にいた大内秀明や樋口陽一を呼んで、校内で「反戦ティーチ・イン」(どうだ、なつかしいだろう)を開催するなど、さまざまな活動にのめり込んだのだが、要するに、ほとんどヤケクソのなせる業であった。
   1969年1月には、例の東京大学「安田講堂」の機動隊との攻防戦があったが、私が住んでいた仙台でも、東北大学の封鎖解除をめぐって民青や機動隊との攻防戦がおこなわれたり、デモ隊が道路いっぱいに広がる(違法な)ジグザグデモやフランスデモをやったり、クルマをひっくり返して火をつけるなどという、いま考えればとんでもない悪事が、まあふつうに横行していた。
   大学の教室はふつう、正常に授業を受けるところであって、ストライキがおこなわれ、バリケードが積み上げられるようなところではない。車道はふつう、クルマが通行するところであって、人が道いっぱいに広がってデモをするところではない。クルマはふつう、平穏に道路を走っているもので、ひっくり返されて放火されるものではない。
  「全国教育学園闘争」は、私の自明で日常的な秩序感覚を完全にぶちこわした。つまり、ブランケンブルクのいう「自然な自明性の喪失」というやつである。私が「愛も、闘争も」といっているのは、この日常的感覚の反転が、恋愛にも闘争にも共通しているからである。つまりこれらに共通するのは、「エポケー」状態である。
   自分の恋愛体験のなかで心底思い知らされたのは、この「自然な自明性の喪失」という感覚であり、あとで木村の書物で、これをブランケンブルクが統合失調症論として展開していることを知ったときに、恋愛も統合失調症もきっと同じことなのだと確信した。つまり狂気は、日常性と関係のない彼岸にあるものではなく、正気、すなわち日常性の延長線上にあるものにすぎない。
  私の『刑法39条はもういらない』を通奏低音のように流れているのは、この30年ほど前に確信した、日常的な秩序感覚が全部ぶっこわれたという「愛も、闘争も」という経験である。それから日常性というものは、いつか何かのきっかけで壊れてしまう危ういものだという感覚が抜けない。
  39条廃止論という私の主張の背景にあるのは、何もメンドーなものではなく、日常は非 – 日常に、正気は狂気に、いつでも反転しうるものであるという、このごく単純な確信である。

「写真」と「芸術」のはざまにいた写真家たち――『写真、「芸術」との界面に――写真史一九一〇年代―七〇年代』を書いて

光田由里

  6月のなかば、はじめてポーランドに行ってきた。夏至が近く、ワールドカップのドイツ戦が始まる9時、夜のオープン・カフェでテレビ前に座っても、目抜き通りを紅白のポーランド国旗があちこち下がっている様子が明るく見渡せた。最後の数分でドイツにゴールを決められたとき、町に響き渡ったシャウトは長く尾をひいた。オオーッと言ったまま、隣のテーブルの人は動かなくなってしまった。
   ナチスに首都ワルシャワを焼き払われたこの国が、もし逆に、最後にゴールを決めた側になっていたとしたらどうだろう。どんなシャウトを聞けただろうか……。
   そのとき思い出したのは、ワルシャワの町なかにスタジオをもっていた、スタニスワフ・イグナツイ・ヴィトケーヴィチ(1885-1939)のことだった。彼のスタジオはドイツ軍のワルシャワ侵攻のときに焼け、絵画・原稿に加えて、万を超えたはずの写真も焼失してしまった。ヴィトケーヴィチは、美学者・画家・劇作家として著名で、多分に分裂的な天才肌の芸術家であり、ポーランド現代美術の父のような存在だという。そして写真愛好の人だった。
   彼が撮影し続けたのはポートレートである。ヴィトケーヴィチの真骨頂は、1930年代、レンズの前でみずから百面相を演じたセルフ・ポートレートのシリーズで、ナポレオンやら大司教やらチンピラやら、さまざまな人物に扮してみせた。文句なくおもしろく、これは現代美術である。何冊ものアルバムに自分の写真を整理し、飽くことなく撮り続けたくせに、ヴィトケーヴィチは「写真は自分の作品ではない、写真は芸術ではないから」などと言う。
   まるでどこかで聞いたようなセリフではないか。
   村山知義から中平卓馬まで、写真にひきつけられた芸術家なのに「芸術写真」を否定してきた人たち。野島康三、中山岩太、安井仲治ら、写真を「芸術」だと言わんとすべく奮闘してきた人たち。「写真」と「芸術」という2つの言葉の乖離が、彼らを束縛した。同時に、「芸術」とは距離があった「写真」だからこそ、彼らには可能だったことがある。それは「芸術」であることを疑わずにすんでいた絵画には、逆に難しかったことなのだ。
   ポーランドで、ヴィトケーヴィチの写真の所蔵家に会った。早死にした彼の友人たちを訪ね歩いて少しずつ写真を集め、30年近くを費やしてコレクションを作ったという。なぜ集めたのかを問うと、「欲しかったからじゃない。見たかったからだ。その頃、ヴィトケーヴィチの写真なんて誰も問題にしてなかった。見たいとしたら、自分で集めるしか方法がなかった」と答える。聞いたような話ではないか。「あなたは私の師匠です、ステファンさん」。私は言ってみた。「あなたを師匠と呼ぶ理由は、今度出る本にまとめました。でもすべて日本語ですけど」。「まあね」。ステファンさんの胴回りは大きい。「たとえ読めなくても、その存在が重要だ」。そうかもしれない。でも、できれば読んでくれる人がいてほしい。

“9・11トラウマ”を超えて、「ジャーナリズムの原像」へ――『国際紛争のメディア学』を書いて

橋本 晃

  本書の出発点となった原稿を書いたのはもう5年近く前のことだ。ペルシャ湾岸戦争取材のころから抱きはじめていた「限定戦争時におけるメディア統制とプロパガンダ」のテーマを1990年代半ば、30代も後半になってのアメリカ留学で集中的に研究し、その後のコソボ戦争での現地取材もふまえて書いた原稿は、ツテを辿って会いに行った某大手出版社の新書編集長からいい感触を得ていた。しかし、その夜、帰りの電車に乗っているときに、海の向こう、アメリカ・ニューヨークではツインタワーにハイジャック機が突っ込んでいた。いわゆる9・11アメリカ同時多発テロである。アメリカの繁栄の象徴である高層ビルの残骸さながらに、唯一の超大国の心臓部を直撃したテロの衝撃の余波で、原稿も粉微塵に砕け散っていった。
   その全7章からなる原稿「ユーゴスラビア空爆におけるメディア統制とプロパガンダ」は、和平交渉から開戦に至る詳細な経緯、ユーゴ当局および北大西洋条約機構(NATO)陣営のメディア統制などの現地で収集した事実の記録から、限定戦争時のメディア統制、メディアに内在する問題、「次の戦争」での諸問題の考察まで、いま読み返してもそれなりに貴重な要素を多々含むものだった。何よりも、9・11の後になって新書中心に、必ずしもこの問題をずっと考えてきたとは思えない筆者たちによって「戦争とメディア」をめぐる本が量産されてきたが、それ以前も以後も、本邦ではこの問題に正面から切り込んだ、その名に値するような論考はほとんどない。その意味での希少性と先駆性は十分に備えていた。
   が、日本から遠く離れたバルカンの、すでに国際政治のアジェンダ(議題)からも、メディアのそれからも「終わった」ものとしてかえりみられることがなくなったユーゴ問題を事例として分析した原稿は、「あの日から世界は変わってしまった」などといったいささか能天気にも見える9・11後の狂騒のなかで埋もれていく運命を余儀なくされた。それから、長い、雌伏のときが続いた。
   もちろん、この場を借りて原稿にまつわるルサンチマンを書き連ねたいわけではない。気を取り直してアタマのなかにあった原稿の注を復活させ、コンパクトな同名の学術論文に仕立て上げ、学会誌に掲載された。ちょうどそのころ、15年続けた新聞記者生活に別れを告げ研究者の道に足を踏み入れたこともあり、論文は本活的な研究活動の出発点となってくれた。研究に関心を寄せるジャーナリストからプラクティス(実践)の経験をもふまえた研究者へと立場が変わると、事実の詳細な記録とそれに基づく若干の理論的考察といった内容ではいかにも不十分に思えてきてならない。量産される新書類は自分に関係のない世界、と自らを厳しく律して、単なる各限定戦争におけるメディア統制、プロパガンダの実際と変遷といった具象的な事象を追いかけるにとどまらず、権力行使過程としての政治コミュニケーション、メディア自体に内在する権力性といったものを、その始原まで遡って、まずは理論的考察の枠組みづくりを試みる作業に専心した。
   こうした作業の、とりあえずの中間報告としてまとめたのが本書である。つまり、5年ほど前の“挫折”は、私にとっていいレッスンとなった。
   9・11とその衝撃をあまり大きくはとらえようとしない姿勢、また本書の全体に流れるトーンから、あるいは読者は“反米的”なるものを感じとるかもしれない。しかし、やや意外かもしれないが、私はアメリカとそこに住む人々がかなり好きなほうである。また独立革命前夜にプレスの自由の理念をプラクティスから体得していったプリンター/ジャーナリストたち、その伝統を正しく受け継ぐスモールタウンの、草の根のアメリカ。吉本隆明の「大衆の原像」になぞらえていえば、私は「ジャーナリズムの原像」とでもいうべきものを、そうしたアメリカのなかに幻視する。
   アメリカおよび国際政治の中心としてのワシントンD.C.や世界経済の中心であるニューヨーク、日本にとって死活的に重要な政治・経済・安全保障上のパートナー、そして冷戦終結後のグローバル化の進む世界で唯一の超大国――。アメリカといえばこうしたものばかり想起してほかの部分に眼を向ける想像力も持ち合わせない、この国の主流派の“大人たち”にこそ、違和感を禁じえないのだ。
   本書を制作している過程で、思いははや次なる作品に向かっていった。「ジャーナリズムの原像」が19世紀、北東部主導の産業化、ナショナルマーケットとユニティの成立、マスメディア化の進行といった流れのなかで、新たなテクノロジー、市場、政治、そしてオーディエンスにもみくちゃにされて、どのように変容していったか。それをかの国の19世紀を代表するプリンター/ジャーナリスト/作家の生涯と旅に仮託させて辿っていきたい。私は私自身の個人的な“9・11トラウマ”から、もはや自由になった。過去に深く沈潜しつつ、また書物の扉を開けて広がってくる世界でお会いできる日を楽しみにしている。

「永遠の反逆者」が目の前に!――『ミック・ジャガーという生き方』を書いて

佐藤明子

 「この本は、ミック・ファンやロックファンでなくても、楽しめると思いますよ」――それ以外とくに付け加えることはないが、今春の来日コンサートについて語ることを許してもらおう。
   曲がりなりにもミック・ジャガーについて一冊の本を書いた著者が、彼らのコンサートはこれで2回目などと大きな声では言えないが、言ってしまうけれど2回目だ。来日前は「今回はなるべくたくさん見たいな、そしてまたミックを待ち伏せでもしようかな」などと危ない夢がふくらむ一方だったが、現実は子どもたちの春休みで身動きがとれずに、夫が半日休暇をとって留守を引き受けてくれての名古屋ドーム参戦が関の山だった。電車を降り、たくさんのストーンズファンの群れにまぎれて会場への長い通路をひたすら歩く。自著を取り出して「わたし、これ書いたんです」と言ってみたい衝動にもかられたが、もちろんこらえた。
   席はアリーナで立ちっぱなし。これなら、3年前の2階席の方が全体が見渡せてスクリーンもしっかり見られたからよかったかも。ただ、Bステージかぶりつきだったのはラッキーで、3曲ではあったが至近距離でじっくりと見ることができた。近くで見る彼らはアカヌケしすぎていて、まるでマネキン人形のようだ。キースなどフィギュアとしか言いようがない。そんな彼らが演奏している。ミックの汗が見える。あのストーンズが目の前にいるんだ、もっと夢中になれ! どうしてわたしは、この期におよんでこんなに冷静なのか。いや、これが夢中というものか。夢中だから感動することさえ忘れてしまっていたのだ。夢が現実になった瞬間って、案外こんなものなのかも。
   ミックは何度もすぐそばまできてくれた。両手を大きく広げ、ひたすら腰を振り続ける、その悩ましげな顔は泣いているようだった。わたしが本書で書いたミックの魅力ここに極まれり!だ。でも、前回と違ってキースをほほえましく見ることができた。まるで父に対するようないたわりの思いがふつふつと湧きあがり、2曲のソロの間、目を細めっぱなしだった。自称どうしようもない人である彼を、それでも人々は愛し続けてきたのだ。
   そんな感慨で1曲目を聴いたが、相変わらず彼は自然体のままで、次の曲ではせっかくのこの熱い思いも薄れがちだ。それでもなお、こうして彼らが続けていることはすばらしいではないか。何十年もたってから立ち寄った店に同じマスターが笑ってそこにいるような安心感がある。
   ミックは最後に「ニッポンはいいなあ、またクルゼ」と言っていた。ステージに貼ったメモを照れくさそうに見ながら。実際に彼はまた来るつもりでいるのだろう。ストーンズがいつまでツアーを続けるのかは、メンバーの事情もあるだろうし、わからない。ただ、ミック本人は、いつかドームがガラガラになったとしても、身体を動かそうにも動かせないミジメな姿をさらすことになったとしても、これを続ける志があるのだろう。なぜなら彼は「永遠の反逆児」なのだから。醜くて美しい悪あがきのパフォーマンス、それは人間の証明だ。そのときが本当にきてしまったら、彼らの栄光を見てきた長年のファンにこそ、何かを感じてほしい。その瞬間こそが、ミックからのプレゼントなのだから。

深遠なるブリティッシュ・ロックの世界への「最初の1歩」――『ブリティッシュ・ロックの黄金時代――ビートルズが生きた激動の十年間』を書いて

舩曳将仁

 「洋楽やロックに興味がない」という人たちとじっくり話をしてみると、実は単なる聴かず嫌いであることが多い。「英語が理解できないから」とか、「ロックってやかましいから」とか、もっともらしい理由をつけるのだが、よくよく聞いてみると、「聴く機会がなかった」か「ハマルだけの音楽との出会いがなかった」という場合がほとんどだ。
   インターネットもない時代に、ラジオのエアチェックをマメにおこない、音楽雑誌の隅から隅まで目を通して情報を得ていたオヤジ世代のベテランのロック・ファンからすれば、なんとも嘆かわしいことだろう。ところが、改めて周りを見渡してみると、確かにロックを聴くようになる「きっかけ」や「出会い」は少ない。
   書店の音楽書籍コーナーには、マニアックなアルバム・ガイド本や、非常に細分化されたジャンルのロック紹介本はあるが、初心者向けの本が少ない。テレビやラジオでは、1970年代のロックが紹介されることなど皆無に等しい。インターネットではロック・ファン同士のコミュニティなどもあるが、なかには厳しく批判的なファンもいたりして、ロック初心者には敷居が高くなっている。実は、インターネットというのは、自分の興味ある話題に深く狭く潜っていくには長けていても、新しい世界を発見する横の広がりへとユーザーを連れていく可能性には乏しかったりする。
   そうすると、やはり活字媒体。気軽にロックの世界にふれられるような、入門書になるような本があれば……と思ったことが、拙著執筆の動機となった。

   1960年代から70年代初頭にかけてのブリティッシュ・ロック・シーンは、個性的なアーティストが次々と登場し、ロック表現の可能性を試行錯誤した激動の時代だった。62年10月にビートルズがデビューを飾り、ローリング・ストーンズやキンクスなど、若いビート・バンドが後に続いた。彼らを筆頭にしたイギリスのバンドの多くが続々とアメリカに進出し、アメリカのヒット・チャートのほとんどをイギリス出身のロック・バンドが占めるなど、ブリティッシュ・インヴェイジョン(イギリスの侵略)と呼ばれるセンセーションを起こす。
   1967年には、サイケデリック・ムーヴメントの影響を受け、ビートルズが新しい音楽的アイディアを盛り込んだ『サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド』を発表。他のイギリスのロック・グループも、実験精神にあふれた個性的なロック・サウンドの創造に向かう。
   ロックの可能性を切り開いてきたビートルズが1970年に活動停止を迎えるのと入れ代わるように、後続のブリティッシュ・ロック・グループが頭角を現し、ビートルズ以上に斬新なロックを創造。個性的なグループが咲き乱れ、プログレッシヴ・ロックと呼ばれる革命的な音楽ムーヴメントがイギリスの音楽シーンに巻き起こる。

  拙著は、スリリングに展開した、まさに黄金時代と呼ぶにふさわしいブリティッシュ・ロック10年間の歴史を紹介したものである。
   音楽がデータで手軽にやりとりされる時代だから、若い世代にはピンとこないかもしれないが、「ロックとは何か」という命題に対して、アーティスト(作り手)だけでなく、ファン(聴き手)もまたそれぞれに答えを導き出そうとしていた熱い時代があったことに驚くはずだ。
   そして、40代や50代以上のロック・ファンにも拙著を手に取っていただき、かの時代を再発見するとともに、ロックで胸を熱くした青春時代を思い出してもらいたい。そして、ぜひ若い世代に熱くロックを語ってほしい。子供におもねってモーニング娘。やケミストリーを聴いてみるのもいいが、「俺はお前たちぐらいの頃はこんなカッコイイのを聴いていたんだぜ」と、レッド・ツェッペリンやディープ・パープルなどのアルバムを教えてあげてほしい。「オヤジの頭は古くせー」などと毒づく息子や、「ママは小言ばっかりよ!」と口答えする娘も、思わず唸ってしまうに違いない。あんまり熱いといやがられるかもしれないけれど……。
   1,000を超えるアーティスト数(索引付き)、150を超えるアルバム・ジャケット写真も掲載しているので、深遠なるブリティッシュ・ロックの世界に飛び込む「最初の1歩」にしてほしい。

可能性としてのアマチュアリズム――『写真家・熊谷元一とメディアの時代――昭和の記録/記憶』を書いて

矢野敬一

  ドラマティックな事件や事故を被写体とするのではなく、ごく当たり前の光景を写しただけなのに、なぜか心に残る写真がある。昭和という時代を回顧するさいにしばしば取り上げられるあの写真も、そうした1枚といっていいはずだ。真剣な面差しでコッペパンを口にする少年の姿には、貧しかったがしかし心豊かだった「昭和」という時代の雰囲気が見事に凝縮されている、そう感じる人も多いだろう。
   撮影者は、長野県下伊那郡阿智村(旧・会地村)の小学校教師だった熊谷元一(くまがいもといち)。ちなみにこの写真を収録した岩波写真文庫『一年生――ある小学教師の記録』は、昭和30年(1955年)の第1回毎日写真賞を受賞。土門拳や木村伊兵衛といった錚々たる写真家を抑えての栄冠だった。熊谷は戦前から「コドモノクニ」などの絵本雑誌に作品を掲載する童画家として知られる一方、アマチュア写真家としても昭和13年(1938年)に朝日新聞社から『会地村――一農村の写真記録』を上梓して大きな反響を呼んでいる。明治42年(1909年)生まれで、95歳を超えた現在も住まいのある東京都清瀬市で絵筆をとり、カメラを座右から離さない。
   福音館書店からの絵本『二ほんのかきのき』が、百万部を超えるロングセラーとなっているように、童画家としてはプロを自任する熊谷。だが写真家としては、あくまでもアマチュアだと、その姿勢を崩さない。実際、コッペパンを口にするこの写真を撮影した昭和28年(1953年)、熊谷は地元の会地小学校の1年生の担任教師であり、その立場から自らの教え子を被写体としたのだった。教室内は、屋外に比して当然ながら暗く、さらに現在のように高感度フィルムが容易に入手できたわけでもない。多くの技術的制約を被りながらの撮影だった。しかし当時、岩波写真文庫編集長だった名取洋之助は「光や影などの遊びをする余裕がなかった」結果、「絵画的な美意識にわざわいされずに、如実に現実生活の一片を、覗き見させてくれるのです」と、熊谷の作品を高く評価した(「新しい写真のタイプ」「図書」1955年3月号)。アマチュアとしての限界が、逆に独自の写真世界へと結実していったことを名取の言葉は示している。
   熊谷のアマチュア写真家としての経歴は、その方法論の絶えざる模索と不可分のものだった。たとえば『一年生』を撮影するにあたって熊谷の念頭にあったのは、写真の記録によって、子どもの表面的な行動だけでなく内面的な心の動きまで把握し、指導にあたっての資料として役立てたいという考えである。こうした発想は、一教師というアマチュア写真家ならではのものだろう。実際、『一年生』のページを繰っていると、国語の教科書を読むさいの実にさまざまな子どもたちの姿を写した写真、校内放送を聞いている子どもたちを2、3分おきに撮影し、次第に飽きてくる様子を被写体としたものなど、教師としての姿勢を如実に感じさせる写真が多い。ここからはプロとは違ったアマチュアなりの方法意識の結実が見出せよう。その後もたとえば同じ村の農家に1年間通い詰め、毎日そのくらしを撮影するといった、プロならば最初から敬遠するような忍耐強い試みに取り組んでいる。アマチュアとしての独自の方法意識が、熊谷の撮影姿勢を規定していたことを見逃してはなるまい。
   熊谷が初めてカメラを手にした昭和10年代は、カメラが大衆化する時代の始まりだった。だが購入したパーレットは安価で定評あるものとはいえ、代用教員だった熊谷の月給の約半分の値だった。それと比較して現在、カメラを手にすることははるかに容易になった。携帯電話にはデジカメが標準装備されるまでになっている。かつてのプリクラの流行を見るまでもなく写真の撮影行為はごく日常化しており、ことさら意識されることもない。しかしそれがゆえに写真を撮影する、という行為に対する方法意識はかえって希薄になっているのではないだろうか。誰しもが多様なメディアを利用できるものの、自己満足の域を出ない表現が、ただただあふれかえっているだけという思いを筆者は否定できない。熊谷元一の歩んだ軌跡は、写真や絵本、8ミリ、テレビという出版や映像ジャーナリズムがいっせいに展開していった同時代史としても位置付けられるものだ。そうした展開に熊谷は注意深く、自らの方法を模索しつつ歩調を合せていったのだった。だからこそ熊谷の営為を振り返ることは、アマチュアがメディアにどう関わっていくのかという、その限界と可能性を見究めることにつながる、とあらためて思う。可能性としてのアマチュアリズム、それを問うことこそが本書のねらいといってもいい。

「ナイトメア叢書」という結晶――「ナイトメア叢書」を刊行して

一柳廣孝

  ナイトメア叢書の刊行がはじまった。文化現象としての「闇」への想像力に目を向け、隣接人文諸科学の成果を結集した新たな場となることを目指すシリーズである。東雅夫氏、高原英理氏をはじめ、多くの方々から激励の言葉をいただいた。ありがたいかぎりである。その反面、こうした企画の困難さもあらためて認識することとなり、気を引き締め直しているところである。
   さて、この叢書はいつ、どこから生まれたのか。私の記憶が曖昧なので、共編者の吉田司雄さんにお聞きしたら、別の編著を作っていたときの飲み会で出た企画だという。やはり企画とは、飲み屋で生まれるものらしい。
   吉田さんの指摘にしたがって手帳やメモのたぐいを調べていたら、この企画が出たのは2004年8月1日であることが判明した。メモには、こうある。「ナイトメア。幻想文学や怪奇オカルト系を含みこんだ形で、テーマを決め叢書化。年一回刊行。原稿募集。しかし相手がのってくれるかどうか」
   思い出した。提案者は、吉田さんである。「ナイトメア」の命名者も、吉田さんである。さらに付け加えれば、メモにある「相手」とは、もちろんわが青弓社である。のってくれたわけである。ありがたいかぎりである。
   さて、時代はいま、ぼんやりとした不安に包まれている。それが闇を引き寄せる。1990年代あたりから本格化してきた「闇」への眼差しは、多様なジャンルを越境しながら、さらに増殖をつづけている。こうした動きの背景に、グローバル化が進み多元化された社会の、複雑かつ劇的な変化を指摘してみたところで、あまり意味がないだろう。考えなければならないのは、そうした先の見えない世界で生きざるをえない、私たちの「心」のありようである。
   私たちが「心」の奥底で育ててしまった闇の深さと広さは、いまや論理のレベルで回収できない状況にまで進んでいる。しかし闇が生み出した多様な現象に切り込み、言説レベルで再構成していくそのプロセスは、闇を「闇」として認識するための、貴重な手がかりを与えてくれるだろう。
   「ナイトメア叢書」の第1巻、『ホラー・ジャパネスクの現在』は、私たちの「闇」への眼差しが生み出した結晶のひとつである。村山守さんの装幀、佐伯頼光さんの写真が、編者である私たちの思いを、形にしてくださった。私は一目で、やられました。
   さらに……本書を購入してくださった方は、カバーをはずしてみてください。闇を切り裂いた空間から、こちらを見つめる瞳があなたに突き刺さります。この瞳は、闇の彼方からあなたをうかがう他者の瞳です。また、それは同時に、闇に潜むあなた自身の眼でもあります。ふたつの眼差しが交錯する闇が生み出した結晶として、本シリーズが読者のみなさまに受け入れられますように。

図書館の政治性について考えてほしい――『図書館の政治学』を書いて

東條文規

  青弓社ライブラリーの1冊に『博物館の政治学』という本がある。何かの広告でこの本を知った私はすぐに購入した。著者の金子淳さんは未知の若い研究者だったが、私の問題意識と共通している部分も多く、一気に読んだ。
  ちょうど私が「図書館が「紀元二千六百年」にかけた夢」(「ず・ぼん」第8号、ポット出版、2001年)を書いた直後で、金子さんの著書は、同じ「紀元二千六百年」を博物館をテーマに詳述していた。さらに、昭和大礼や植民地の博物館建設構想などにも言及していて、私が図書館の歴史を調べていて関心をもった領域と重なっていた。
  その後私は、大正(1915年)と昭和(1928年)の天皇の即位大礼と当時の図書館界がどのようにかかわってきたかを調べはじめた。幸い、大正については、その詳細は『大礼記録』が2001年にマイクロフィルム34リールで臨川書店から復刻されていた。『紀元二千六百年祝典記録』の原本を利用させてもらった同志社大学人文科学研究所がこの『大正大礼記録』も所蔵していることを知った私は、また人文研のお世話になった。人文研にはこれ以外にも、大正と昭和の大礼時に東京府や京都府、京都市などが独自に編纂した記録もあって、同じように見せてもらえ、必要なところは自由に複写もできた。
  歴史研究者は資料が集まれば八割方仕事はできているとよく言うらしいが、私も複写物をリュックに詰め込んで香川に戻ったときにはほとんどその気になっていた。
  だが同じころ、職場の大学図書館の新築問題がいろいろな事情で暗礁に乗り上げ、日常業務以外に消耗する仕事が増えていた。帰宅すると酒を飲んで寝るだけの日が多くなり、休日には寝転んで小説を読むかボケーッとテレビを見ている日が続いた。せっかくの複写物も部屋の片隅に積み上げたままになっていた。
  そんな折、「出版ニュース」の清田義昭さんから「書きたいテーマ・出したい本」の執筆依頼が舞い込んだ。十年ほど前に同誌の「ブックストリート・図書館」の欄に書いたことがあったが、研究職ではない私には思いがけないことだった。
  私は、「戦争と皇室と図書館と」という短文を書いた。そのなかで夏ごろまでに「二つの大礼と図書館」というテーマで書き上げたいと記した。半分ハッタリではあったが、自分を強制しないとなかなか書けないと思っていたし、基本的な資料は複写物として手元にあるので、もう八割方書けていると、自分に都合よく解釈したのである。
  しばらくして、今度は青弓社の矢野恵二さんから、青弓社ライブラリーの1冊として『図書館の政治学』というテーマで書いてみませんかというお誘いの手紙が届いた。矢野さんは「出版ニュース」の短文を読んでくれていたのだ。私は、この短文に、確かに「二十数年間の図書館生活ではいろいろなことがあり、その折々に書いてきた図書館をめぐる拙文と地元(香川県)の子ども文庫の会報に毎月連載しているエッセイのようなものがだいぶ溜まっている。奇特な出版人(社)と出会えればいいのですが……」と書いた。
  が、まさかその「奇特な出版人(社)」があらわれると思っていなかった私はうれしかった。矢野さんは、文字どおり本来の意味で、私にとって「奇特な人」になった。
  実をいえば、はじめに記した『博物館の政治学』を読んだとき、私は、同じような問題意識で図書館を対象に1冊書いてみたいと思っていた。私の考えでは、編集委員をしている「ず・ぼん」に毎年80枚から100枚程度のものを書けば3、4年で1冊の本になるぐらいは溜まる。そのうえで、どこか出してくれる出版社を探そうと思っていた。
  ところが、「出版ニュース」に載ったことから矢野さんが声をかけてくれ、『博物館の政治学』と同じシリーズで出してくれるという。こんなにありがたいことはなかった。矢野さんとは当初、無謀にも6カ月ぐらいで書き上げると約束したが、その3倍ぐらい時間がかかってしまった。もちろん私の怠慢のせいだが、その間いくらかほかの資料も見ることができ、楽しみがのびた。
  それにしても、金子さんも書いていたが、博物館と同じく、図書館の政治性について関心を払う図書館関係者はそれほど多くない。現場の図書館員には直接役に立たないかもしれないが、本書を読んで過去そして現在の図書館の「政治性」について少しでも考えてほしいし、それは決して無駄ではないだろうと私は思っている。

「知」を駆け抜けろ!――『メディア・リテラシーの社会史』を書いて

富山英彦

  私が社会学を始めたのは大学院の修士課程からである。その前は科学哲学や図書館情報学を専攻し、幸か不幸か学際的に国文学や民俗学、宗教学や歴史学を手広くかじり、知的な雰囲気を楽しんでいた。そのうえで、きちんと学問に取り組もうと入り込んだのが社会学だった。その大学院の研究や学習の過程で身についた「学問」なるものの方法は、ひとつの小さなテーマや素材に取り組み、深く掘り下げ、論文として完成させるものである。私の偏見かもしれないが「学問」とはそういうものであり、現にいまでも卒論指導などでは、なるべく小さなテーマを深く調べ、論じるようにアドバイスすることが多い。
しかしその一方で、私自身がそんな学問に飽き足らなさを感じていた。テレビで放映されるドキュメンタリーに感心し、芝居の舞台に感動し、小説を読んで没入した。学生だって教室で先生の話を聞くよりは、映画館に足を運んだり、好きなアーティストのライブに出かける方が楽しいに違いない。もしかしたらそうした大学以外のメディアとのかかわりの方が、彼ら・彼女らの人生に影響を与えているかもしれない。
  自分がバブルの頃に学生時代をすごし、高校から大学にかけては「ニューアカ」と呼ばれたファッショナブルな学問スタイルが流行したこともあって、私も格好いい学問に憧れていた。でも、元より田舎者で地味な自分がそんなスタイルになじむはずもない。私は表現の豊かさに惹かれながらも、自分の履歴や生活の糧としての「学問」に踏みとどまり、限界を感じていた。
  本書のテーマは、「豊かな表現」を可能にする「書く」力の獲得が、「読む」ことに支えられてきた「私」のダイナミズムを失わせるのではないかという問題である。そんな表現に対する憧れと疑惑は、私自身の経験のなかで芽生えていった。さらに付け加えれば、「あとがき」に書いた「頭のいい研究者」に対する批判ないし嫌みもまた、自分の憧れと表裏の関係にあることを表明しておこう。
  そんな思いを抱き続ける頃に、青弓社から本書の誘いをいただいた。
  「あとがき」にも書いたけれど、本書の完成までの道のりは長かった。出版という表現形式を甘く見ていたこともあるだろう。編集者の見識は鋭く、批評は辛かった。しばらく経って自分で読み返してもひどい内容だった。それでも出版の機会を待ってくれる編集者に申し訳なかった。最初に書いた丸一冊分の原稿は、そのほとんどを自ら捨てた。
  私は割り切って、資料の世界に没入することを決めた。それが本来は、自分の強みのはずだった。でもこの方法は時間がかかるし、疲れる。金もかかるし、評価もされにくい。何とでも言い訳できるが、とにかく私は資料に没入することから逃げていた。論文の本数がほしい就職エントリーの時期から大学に職を得てからというもの、時間ばかりかかって確実な成果が期待できない研究スタイルから逃げ続けていた。
  私は「出版の危機」に直面し、反省して、真面目に資料に取り組むことにした。でも情報系の大学に身をおく自分にとって、資料へのアクセスには限界がある。古い大学のように文書は蓄積されておらず、都心の大学のように頻繁に大型図書館や資料館に通うことも難しかった。私はとりあえず、所属する大学の図書館が所蔵する新聞の縮刷版をめくることから始めてみた。何かが得られる予感はあったけれど、確信はなかった。電子化されたデータベースを使わずにアナログ資料に取り組む方法は情報収集として効率が悪く、締め切りに間に合わないことは見えていた。でも時代をつかみ、論じるべき「相手」を見つけるためには時間と手間が必要だった。自分の身体に「時代」を染み込ませたかった。
  それと同時に憧れもあった。いままで自分がやってきた小さなテーマや素材を掘り下げるのではなく、近代日本なるもののメディア空間を駆け抜けてみたいと考えた。活字に驚いた時代からテレビに興奮する社会、そして現代のIT革命にいたるメディアの社会史を、人々のリテラシーに着目して書き抜きたいと思った。それはいままで自分が封印してきた手広い考察の方法であり、学生時代に楽しんだ「知」のスタイルに回帰することだった。そうして本書ができあがった。
  もしできるならば、多くの読者が「知」を楽しみ、駆け抜けることの興奮を味わっていただけたらと願っている。

純愛と死別――『死と死別の社会学――社会理論からの接近』を書いて

澤井 敦

  2004年は、純愛ブームの年といわれた。『世界の中心で、愛をさけぶ(以下、セカチュー)』『いま、会いにゆきます』『冬のソナタ』などなど。ただ私が気になったのは、これらがみな「死別」というテーマを扱っているということだ。もちろん愛と死は、『ロミオとジュリエット』のような古典的純愛を例にあげるまでもなく、ひろく結び付けて考えられるものではある。ただ、その様相は社会的背景に応じて変化する。
  まず、ここでいう純愛のかたちが、基本的には「かなえられない愛」であるが、それでも「はなれられない絆」があるところに存立していると理解しよう。そして、一方で「純粋性への憧憬」がありながら、「俗世間での困難」というか、現実にはそれが存立し難いからこそ、一定の純愛のかたちがブームになると考えよう。どこにでもある平凡なものであれば、小説や映画のなかで憧憬の対象とはなりにくいからである。
 『ロミオとジュリエット』の場合、愛が「かなえられない」のは、家と家との確執、社会的障壁によるものだった。そして、偶然のいたずらに翻弄されてとはいえ、結果的には「はなれられない」絆は、あの世へともちこされることになる。しかし、こうした純愛のかたちがリアルなものと感じられるためには、あの世、そこでの再会ということが、一定程度リアルなものと感じられている必要がある。世俗化が進んだ現代においては、「僕は生き残ったロミオなんだ」という『セカチュー』の朔太郎の言がむしろリアルに感じられてしまう。
  では、日本における半古典的純愛、1964年の『愛と死を見つめて』(2006年にリメイクされてドラマ化されるそうだが)の場合はどうか。この場合、愛が「かなえられない」のは、軟骨肉腫という自然的障壁による。もはや家制度も法律上は消滅した時代である。そして「はなれられない」絆は、病に直面し将来に夢を描けないにもかかわらず、互いを「心の妻」「心の夫」と呼ぶ心情として現れる。社会的背景についていえば、当時はまだ恋愛結婚よりも見合い結婚が多かった。80年代以降のように結婚とセックスが分離する傾向はまだそれほどでもなく、「結婚を前提としたお付き合いをしてください」と申し込むことも普通のこととしてままある時代である。いったん成立した男女の関係が比較的安定したものと見なしうる時代にあって、ミコとマコの純愛はリアルなものと感じられた。しかし現在、マコは、二女をもうけ、かの純愛に関して「パパ、すごいじゃん」と娘さんに言われているそうだ。もちろん、だからといって、2005年の現時点でマコを責める者は、とりわけ若い世代であれば、皆無であろう。
  そして2004年の『セカチュー』である。ここでもまた白血病で彼女が先に逝く。筋書きとしては、『愛と死を見つめて』とそれほど変わりはない(もちろん『愛と死を見つめて』はもともと実在する二人の往復書簡であり、『セカチュー』のようにフィクションではないが)。ただ、ひとつ異なるのは、『セカチュー』の場合(とりわけ映画・ドラマ版の場合)、彼女が亡くなってからの後日談が大きな位置を占めているという点である。朔太郎は、彼女が死んでから10数年経っているのに、彼女のことを忘れられない。いや、忘れられないどころか「彼女はいるんだよ、いるとしか思えない」。ここでは、「はなれられない」絆は、生と死の境を隔てた関係性として現れている。男女の関係、家族の関係が多様化し流動化した状況にあって、一時の心情のもとに成立した関係性は、以前のように安定した自明のものとは見なされ難い。結局、「はなれられない」絆は、この世の枠内では、リアルなものと感じられにくくなっているということである。ただ、純愛をめぐるこうした「俗世間での困難」にもかかわらず、それでも人びとは、「純粋性への憧憬」を捨てることはない。「はなられない」絆が現代においてリアルと感じられるのは、それが生死の境を隔てるというこれ以上ない絶対的な別離を経てもなお存続している、とされる場合である。
  さて、『セカチュー』のような純愛がブームとなるこの現代の社会的背景を、「死の社会学」の観点から理解するとしたらどのようになるか。これに関して、新刊『死と死別の社会学――社会理論からの接近』の第5章、「死別と社会的死」で私なりの整理を試みた。ご一読いただければ幸いである。