「写真」と「芸術」のはざまにいた写真家たち――『写真、「芸術」との界面に――写真史一九一〇年代―七〇年代』を書いて

光田由里

  6月のなかば、はじめてポーランドに行ってきた。夏至が近く、ワールドカップのドイツ戦が始まる9時、夜のオープン・カフェでテレビ前に座っても、目抜き通りを紅白のポーランド国旗があちこち下がっている様子が明るく見渡せた。最後の数分でドイツにゴールを決められたとき、町に響き渡ったシャウトは長く尾をひいた。オオーッと言ったまま、隣のテーブルの人は動かなくなってしまった。
   ナチスに首都ワルシャワを焼き払われたこの国が、もし逆に、最後にゴールを決めた側になっていたとしたらどうだろう。どんなシャウトを聞けただろうか……。
   そのとき思い出したのは、ワルシャワの町なかにスタジオをもっていた、スタニスワフ・イグナツイ・ヴィトケーヴィチ(1885-1939)のことだった。彼のスタジオはドイツ軍のワルシャワ侵攻のときに焼け、絵画・原稿に加えて、万を超えたはずの写真も焼失してしまった。ヴィトケーヴィチは、美学者・画家・劇作家として著名で、多分に分裂的な天才肌の芸術家であり、ポーランド現代美術の父のような存在だという。そして写真愛好の人だった。
   彼が撮影し続けたのはポートレートである。ヴィトケーヴィチの真骨頂は、1930年代、レンズの前でみずから百面相を演じたセルフ・ポートレートのシリーズで、ナポレオンやら大司教やらチンピラやら、さまざまな人物に扮してみせた。文句なくおもしろく、これは現代美術である。何冊ものアルバムに自分の写真を整理し、飽くことなく撮り続けたくせに、ヴィトケーヴィチは「写真は自分の作品ではない、写真は芸術ではないから」などと言う。
   まるでどこかで聞いたようなセリフではないか。
   村山知義から中平卓馬まで、写真にひきつけられた芸術家なのに「芸術写真」を否定してきた人たち。野島康三、中山岩太、安井仲治ら、写真を「芸術」だと言わんとすべく奮闘してきた人たち。「写真」と「芸術」という2つの言葉の乖離が、彼らを束縛した。同時に、「芸術」とは距離があった「写真」だからこそ、彼らには可能だったことがある。それは「芸術」であることを疑わずにすんでいた絵画には、逆に難しかったことなのだ。
   ポーランドで、ヴィトケーヴィチの写真の所蔵家に会った。早死にした彼の友人たちを訪ね歩いて少しずつ写真を集め、30年近くを費やしてコレクションを作ったという。なぜ集めたのかを問うと、「欲しかったからじゃない。見たかったからだ。その頃、ヴィトケーヴィチの写真なんて誰も問題にしてなかった。見たいとしたら、自分で集めるしか方法がなかった」と答える。聞いたような話ではないか。「あなたは私の師匠です、ステファンさん」。私は言ってみた。「あなたを師匠と呼ぶ理由は、今度出る本にまとめました。でもすべて日本語ですけど」。「まあね」。ステファンさんの胴回りは大きい。「たとえ読めなくても、その存在が重要だ」。そうかもしれない。でも、できれば読んでくれる人がいてほしい。