すべての人が表現者となったあとの絵画――『絵画の「進化論」――写真の登場と絵画の変容』を書いて

小田茂一

  19世紀前半に発明された写真術という新しい技による視覚表現は、「ゆらぐ」ものへの関心を引き起こし、まずモネの絵画に取り入れられました。そして、写真から映像へと複製技術による視覚メディアが「進化」していくなかで、絵画の表現もまた変容していくことになったのです。本書『絵画の「進化論」』では、この流れをたどったのですが、写真や映像の絵画への影響や融合によってもたらされるさまざまな表現には、いまの世の中でも大変関心が集まっているように感じます。この本を刊行する前後の2008年2月から3月にかけても、液晶画面上に絵画的表現をおこなう「液晶絵画」展(三重県立美術館)や、昭和初期に活躍した大阪の写真倶楽部の前衛的写真や写真をベースとした現代の作品を紹介した展覧会「絵画の写真×写真の絵画」(大阪市立近代美術館〔仮称〕心斎橋展示室)などが開かれています。複製技術の進展、さらにデジタル化は、手作業をよりどころとしてきた「絵画」というジャンルの表現手段にも変化を促し、作品は多様な方法によって表出されるものとなっているのです。
  ところで、多くの人が自身の体験として複製技術を利用する表現者となり始めたのはいつのころからでしょうか。筆者は、それは1950年代末から60年代にかけてのことではなかったかと考えています。デジタルカメラが普及し、写真と私たちとの関わり方が急激に変貌した近年の状況と同様に、アナログの世界で誰もが視覚メディアを使いこなすことはそのころに可能になったのです。筆者は自らの体験として、この最初の大衆化に遭遇しました。筆者の小学生時代の途中あたりから、カメラで写すことは急速にポピュラーなものになったのです。それ以前は、お金のかかる大人の趣味あるいは職業であったことが、子どもの領分にまで広がったのです。
  こうしたことから、現在のメディア受容者の多くは、自分でカメラを操ることが大衆化されて以降に成長してきた人々といえるのです。19世紀半ば以来、受容者としてだけ接するものだった視覚メディアは、その時期を境として、子どもの趣味のレベルから自らが発信できるものになったのです。そして草野球の腕前と同じようなものとして私たちに身についていったといえるでしょう。またそのころは、テレビの普及とも重なる本格的な映像化へのスタートの時期でもあったのです。このことも当然のことながら、絵画制作や絵画の見方に大きな影響をもたらさないはずがありません。また、表現者としての手法も描くことより、まず写し撮ることが一層身近なものになっていったのです。
  いわゆる団塊の世代は、スナップ写真を撮ることの大衆化の担い手となったのですが、その経緯に簡単にふれてみます。国内メーカーによるきわめて廉価なカメラが相次いで登場したことでこのことは引き起こされたのですが、わが国の子どもたちは、当然その中心となって恩恵を受けたといえます。具体的には、1957年に発売されたブローニ判の「フジペット」に始まって、59年になると、筆者自身もこれで写真撮影に興じた「ペット35」(富士フイルム)という安いながらも大変よくできたカメラ、そして35ミリフィルムをハーフサイズにして使った「オリンパスペン」という累計、1700万台を超えるシリーズなど、コンパクトカメラの一大ブームへと拡大していったのです。そこには、自動調整(Electric Eye)機能もついて、文字どおり誰にでも写せるものになっていきました。
  こうして画像を作り出すことまでが日常に入り込んできたのですが、そのことはまた、描くことが変質していくプロセスだったとみることもできるかもしれません。本書で言及しているように、表現すべき「視覚的現実の大部分が自然そのものであったモネの時代」から、「印刷物などが身のまわりに溢れる視覚メディア万能のゲルハルト・リヒターの時代」への移り変わりをもたらしたといえるでしょう。その結果、私たち現代人は、切り取られた画像や映像のなかの現実にこそ、「絵画」表現への新たなモチベーションを見出すことを迫られるようになったのです。そのことをさらに推し進めるインターネット時代のインタラクティブな環境のなかで、私たちの想像力は、新たな表現としてこれから何を生み出していけるのでしょうか。

沢田研二のココロザシ――『沢田研二という生き方』を書いて

佐藤明子

  昨2007年9月に京都会館でおこなわれた沢田研二のライブの模様を「まえがき」に書いた。
  今年60歳になる身体でステージを隅から隅まで走り回って歌い続けた終盤、彼が突然、思いっ切り「疲れたねー」と口にしたことに私は少し驚き、珍しいと感じたのだ。「ジュリー、それは言わないでよ、と思った」というファンの声もあったと知ったが、私はそれを「ジュリーは観客にブルースを伝えているのでは」と解釈した。
  大げさだろうか? 大げさだな、たぶん。だけどそれは、ライブ(人生)のなかで弱音を吐くことがあってもいいではないかというメッセージととれなくもない。
  もともと弱音ばかり吐いている人間があのような大スターにはなれないだろう、という前提がそこにはあるのだが、たとえばテレビでひきこもりの青年をさらしもののように引っ張り出してきて、よってたかって「いい仕事を見つけて今度こそ頑張れ」と一方向ばかりに励ます大人たちを見るにつけ、何か違うメッセージはないものかと思っていたものだから、沢田研二というスターのなかにそうしたココロザシを見つけたかったのかもしれない。
  彼は、ご存じのように、魅惑的な声はもとより女性的な化粧や衣装、きゃしゃな肉体、そして派手なパフォーマンスで芸能界のトップに立った人だ。それが近年は、きらびやかな衣装こそ変わらないものの、その下の肉体は「ただのオッサン」に様変わりしてしまった。それも、ダイエットを繰り返したあげく「力およばず、これまで!」となった結果だと聞いてはいるが、いまの彼は「これもありだよ」と言っているようにも見えるのだ(そのうえで無理のない努力は続けているだろうけど)。
同じように、彼はファンの心ない振る舞いに対して見過ごすことができずに指摘したり、「そんなこと言わなくても」ということまで口にする人だと聞いている。そうしたコミットを懲りずに繰り返すということは、相手に何かを期待するあまり、とは違う。本当はとことん覚めたところがベースにありながらも、「もうあきらめた」とは言わない彼のココロザシなのだ、きっと。

  最初のほうに入りづらいところがあるが、そこさえ抜ければあっけないほど読みやすい本になったと思う。人々がジュリーにさまざまな彩りをつけてきたように、それこそ解釈はいろいろであっていい、ジュリーファン以外にもぜひ手に取って楽しんでほしい。

「イケてないファンによるイケてないオッカケ録」か?!――『OSKを見にいけ!』を書いて

青木るえか

 アマゾンのカスタマーレビューで『OSKを見にいけ!』酷評されてます。☆1つです。ほぼ最低の評価です。「こんなもので本気で金を取ろうという、読者を舐めたような態度に心底がっかりさせられた。出版社も作者も猛省してもらいたい」そうだ。青弓社がどう考えているかはわからないが、私に関しては、確かに反省すべき点はある。
  このレビュワーさんは、この本が「ネットの日記をそのまま本にした」ことをたいへんに怒っていらっしゃる。確かに。そのお気持ちはとてもよくわかる。なんかズルされたような気がしますもんね。
  しかし、ネットの日記を本にした気持ちもわかってほしいなあと思う。何も労力を惜しんだわけではなく(いや、その気持ちがまったく一片もないといえばウソになりますが)ネットの文章を、どうしても紙に印刷された、本になったものを読みたかった。いや、それだって、自分でプリントアウトして綴じりゃいいだろうと言われそうだが、私は不器用で、プリンターに紙をまっすぐ入れたつもりでもナナメになってて印刷もナナメ、紙を折って綴じるのも丁寧にやったつもりなのに端が揃わなくてギザギザになったりして、うまく本の体裁にできないと思う。ちゃんとオフセットで印刷してあってちゃんと製本してある本になってほしかったのだ。なら、同人誌印刷専門の印刷屋で、タイトル箔押しでもなんでもしてつくれや、って話か。
  私は、他人が何かに熱中していることについて書いた本が好きで、各種マニア雑誌なんかは、その対象物については読んでいてもさっぱりわからないが、人が入れ込んだときの行動(それも、他人から見て“ヘンな”行動)をとってしまう気持ちはよくわかるので、とても楽しい。
  私は、人にモノを勧めるのがとても苦手なので、OSKを勧めるのも、正攻法でやるとぜったいにうまくいかないのはわかりきっている。好きなものをホメるのがうまくないのだ。ちゃかすのは好きなんだが。しかし、好きな人をちゃかして、その好きな人を怒らせてしまったことはなんべんもあってトラウマになってるので(それでもやめられないのだが)ここは避けたほうがいいだろう。ならば自分がOSKを好きで好きで入れ込むあまり、ヘンな行動をしちゃってる、というのをお出しするのがよかろう、となると、当時書いてた日記がいちばん、熱気むんむんでよかったのだ。しかし、これじゃあ読む人はワケわからんよな、と思ってそれなりに注釈もつけたりしたけれど、注釈読んだってワケわかりませんね、これ。お読みになった人はいったいどういう感想をお抱きになったのだろうか。ものすごく気になる。あ、だからその感想が☆1つか……。

 本になったものを読み返してみて、ああ、これも書けばよかった、あれも書けばよかった、と思うところはあんまりない。
  固有名詞の説明とか、ほとんどなってない。自分で読んだってワケわからんことを書いてると思う。でもこれ、誰もがわかるように書くとなったら、この10倍ぐらいの文章量が必要で、そんなものを読んでいるヒマは(私以外の人は)ないだろう。だとしたら、なんだかワケはわからないが、何かに熱中して前のめりになってる人間の生態を面白がってくれたらいい、かと思うのだ。あとこれは私の夫が言ったことなんだけど、この本は「イケてないファンによるイケてないオッカケ録」であり、そういう「人類の進歩になんら寄与しない」レポートなんてなかなか本になって売り出されない、まあ、一種の病態記録みたいなものであろう、けっこう貴重である、と。なるほど確かにそうだ。でも内容の「深刻さがまったくない」この感じは、やはり☆1つってことになるだろうか。☆1つがよほどこたえているらしい。
  悔いが残るとすると、なかに入れた写真だ。もっといっぱい入れたかった。それも大貴さんの写真を。「いま、あなたが興味のあることは何ですか?」と問われると私はしばし考えて、いちおう見栄みたいなものもあるしそれっぽいことを答えようとするのだが、ムリヤリ考えたって何も出てこず、結局は「……大貴誠です」としか言えない。大ちゃんは去年2007年の4月の松竹座で退団しちゃったが、後ろ向き、という意味ではなくて退団して1年たったいまでも「大貴さんのことしか考えられん」状況で、毎日大貴さんのことばっかり考えている。本のなかの文章は、意識的に大貴さんに関する文章を少なめにしたんだけど(文章がアツすぎて読む人に胸焼けを起こさせてはまずいと思った)、文章に合わせて写真を選んだので大貴さんの写真も少なめになってしまった。
  べつに内容と関係なくていいから、大ちゃんの写真を大量に載せればよかった。そうすれば、もっとこの本の、ワケのわからなさが増しただろう。でもそんなことしてたら、☆1つどころかマイナスにされたかもしれない。相当、☆の件では恨みに思ってるんだな、こいつは。

触媒と舞台装置しての国際展――『ビエンナーレの現在――美術をめぐるコミュニティの可能性』を書いて

暮沢剛巳

  奥付の「編著者略歴」でも触れたように、ここ数年来国内外でいくつかの国際展を観て回る機会があった。そのうち「越後妻有トリエンナーレ」に関しては今回かなりのスペースを費やして論じたので、ここではそれと別に「リスボン建築トリエンナーレ」について述べてみたい。
   私がリスボンを訪れたのは2007年6月のことだ。初めて訪れたヨーロッパ西端の街は直行便がないこともあって予想以上に遠かったが、その疲労の分だけ、冷えたビールやワインの喉越しもまた格別だった。到着して早々にホテルで体を休めた翌朝、私は早速地下鉄に乗ってトリエンナーレ主会場の最寄りであるオリエント駅へと向かった。駅を降りた眼前には人工的な海岸線が開けており、その一角に主会場の「ポルトガル・パヴィリオン」も確かに建っていた。
   このトリエンナーレでは、「アーバン・ヴォイド」を記念すべき初回のメインテーマとして掲げていた。EU加盟を果たし、万博やサッカー・ユーロ選手権などの大規模な国家的イヴェントを実現したポルトガルだが、戦後長らくファシズムの独裁体制が続いた後遺症が尾を引いてか、国民の生活水準は現在も加盟国中下位に低迷しており、都市の再開発はなかなか思うに任せないようだ。一方、「ポルトガル・パヴィリオン」の設計者でもある世界的巨匠アルヴァロ・シザを筆頭に、著名なポルトガル人建築家の多くは北部の地方都市ポルトを拠点としており、首都リスボンはこの方面でも影が薄い。リスボンに滞在していた数日の間、何度か市街地を歩き回る機会があり、昔ながらの古い街並みと再開発された新しい街並みとがいささかチグハグな印象を否めなかったが、その意味では「アーバン・ヴォイド」というテーマには強い必然性が感じられたことは確かである。
   さて、ではこの「アーバン・ヴォイド」というテーマに対してはどのような回答が可能だろうか。メイン会場の国別展示には計12カ国が参加し、都市模型や映像インスタレーション、パネル展示などによってそれぞれ思い思いの回答を示していたが、なかでも日本の展示が示していた回答はそのユニークさにおいて際立っていた。日本の展示は全体で4つのパートから構成されていたが、その中心を占めていたのは「皇居美術館」、すなわち皇居を一種の空虚に見立てたロラン・バルトの「空虚の中心」を独自に再解釈し、皇居という空間に国宝・重文級の美術品を集中させるヴァーチャル・ミュージアムの仮想プロジェクトだったのである。このユニークな展示が、多くの観客の関心をさらったことは言うまでもない。
   その後、リスボンでの大きな反響はメディアの報道などを経て日本にも伝えられ、11月には新宿の多目的スペースで現地とはいささか装いをあらためた展示がおこなわれた。また、内外の展示の様子や新宿展と並行して開催されたシンポジウムなどを収録した単行本が出版されることも決まり、縁あってシンポジウムに出席した私は、その単行本にも執筆参加することになった。単身で外国の国際展を観に出かけるというごくプライヴェートな体験から発した意外な展開にわれながら驚かずにはいられないが、今後はこの貴重な経験を通じて得た「皇居」や「空虚」、あるいはそれとは裏返しの「混沌」や「戦争」への関心をさらに発展させ、ぜひとも具体的な作業を通じて深めていきたいと考えている。
   本書で論じた「越後妻有トリエンナーレ」では農村部のコミュニティにおけるアートの可能性を、共に本書を作った「国際展の文化政治学」のメンバーで訪れた「光州ビエンナーレ」では過酷な政治的現実の記憶がアートへと翻訳される瞬間を垣間見た。国際展はアートとアートならざるモノの思わぬ出会いを演出する触媒であり、舞台装置である。第3回の「横浜トリエンナーレ」や「ヴェネチア・ビエンナーレ建築展」などが予定されている今年は、一体私は何を見ることになるのだろうか。

パーソナリティー類型の概念は便利な包丁(ただし、取り扱い注意)――『マシーン福田、マゾ麻生、サプライズ小沢――政治家の精神構造を分析する』を書いて

矢幡 洋

 小泉純一郎元首相の時代、官房長官だった福田康夫の国会答弁を見て驚いた。声にまるで抑揚がない。喜怒哀楽が表れない硬い表情。単調で、何がポイントなのかよくわからない。「強迫性パーソナリティーのしゃべり方だな」と思った。
  強迫性パーソナリティーは、完璧主義者だ。ベストなアウトプットを目指し、さんざん練って完璧な見通しを立ててから行動しようとする。多くの場合、優柔不断になる。なにごとも合理的に判断しなければならないと思っているので、感情を抑えようとする習慣がつく。コントロールが過剰になると、ロボットのようにさえ見えてしまう。完璧を求める気持ちが強くなるほど、ガスの元栓などがしまっているのを何度も確認しないと気がすまないという確認癖が強まる。細かいことにこだわりすぎて、かえって効率を落とす。多少ならば思い当たる節がある方もいるのではないか。私は多々あるのだが。
  こういったパーソナリティー理論は、セオドア・ミロンというパーソナリティー障害の国際的な大家に基づいている。どれぐらいの大家かというと、現在全世界で何十万部と売れているという、精神疾患の分類診断の国際標準『DSM』の第3版の人格障害部門の原案を一人で作成した、という人なのである。つまり、今日いろいろなところで流布している人格障害という概念の土台を築いた人なのだ。欧米の人格障害に関する単行本でミロンが言及されていない研究書を見つけることは難しい。それほどの存在なのに、どういうわけか、日本にはほとんどまったく紹介されてこなかった。
  そこで、私は数年前からミロンを日本に紹介する活動を延々と続けている。実は、『マシーン福田、マゾ麻生、サプライズ小沢』も、この直前に青弓社から刊行した『凶悪殺人と「超能力者」たち――スキゾタイパル人格障害とは何か』も、この紹介の一環として書いたものである(スキゾタイパル人格障害とは、対人関係を避け、エキセントリックで、しばしば幻覚様体験などの異常知覚経験があり、それを「自分には透視能力がある」などと超能力として自己解釈しがちな超常タイプ)。
  紹介のかたわら、私はミロンのパーソナリティー理論をもとにさまざまなジャンルの人のパーソナリティーを分析してきた。イチロー、野茂英雄、孫正義、三木谷浩史、ホリエモン、安藤美姫、カルロス・ゴーン、ラフマニノフ、小田和正などである。だが、スポーツマン・ミュージシャン・経営者よりは政治家の分析に力を注いできた。小泉純一郎、田中康夫、田中真紀子、石原慎太郎、杉村太蔵らである。それに、今回、安倍晋三、福田康夫、麻生太郎、小沢一郎が加わったというわけだ。
  ミロンは、個々のパーソナリティー類型を、さらに大きなグループで分けているので大変理解しやすい。「「快を求める」ことを行動原理とするか、「不快を避ける」ということを行動原理とするか」「エゴイスティックな自己志向なのか、同調的な他者志向か」などという視点によってパーソナリティーを4つのグループに大別しているのだ。ミロンも影響を受けている心理学者カレン・ホーナイのシンプルな表現を一部借りれば、これらは「他人から遠ざかろうとする」「他人と張り合おうとする」「他人と仲良くなろうとする」「いずれの態度にも決定することができず葛藤に陥る」(2冊の拙著で使ったネーミングでは、シゾイド族・自己愛族・依存族・葛藤族)というシンプルな定義でくくることができる。そして、それぞれのタイプに能動型と受動型がある。例えば、福田康夫は「強迫性パーソナリティー+自己愛パーソナリティー」、これに対して小沢一郎は「反社会性パーソナリティー+自己愛性パーソナリティー」が交ざっていると考える。これでいくと、周囲がお膳立てしてくれるまで待っていたかのように思われる福田康夫の慎重さは強迫性パーソナリティーからくるものであり、大連立構想を事前に明らかにせず大本営発表で民主党幹部にのませるつもりでいた壊し屋・小沢一郎の博打的奇手は反社会性パーソナリティーからくる、というように説明できてしまうのである。
  このように、パーソナリティー類型の概念は、拙著で再三注意するように過剰な単純化に陥らないように気をつければ、非常に便利な包丁なのである。
  一方の『凶悪殺人と「超能力者」たち』では、歴史的な「わけのわからない犯罪」10件に加えて2007年の「3大バラバラ殺人事件」(渋谷歯科医師宅妹バラバラ殺人事件、渋谷外資エリートバラバラ殺人事件、会津若松母親頭部切断事件)を取り上げた。片や、本書は安倍前首相も含め、いずれも一国のトップの座を争う面々である。総裁候補と凶悪殺人者たち、という日本社会の両極端の側からの照射でこの時代をどのように見るのかは読者にお任せしたい。この2冊でシゾイド族・自己愛族・葛藤族のことまでふれているので、ミロンの人格障害理論をここまで捕捉できるのはこの組み合わせしかない。
  なお、私はテレビの犯罪事件コメントで出演することが多くなってきているが、そのきっかけは青弓社から出した『少年Aの深層心理』である。不思議な縁を感じる。

21世紀の私家版「少女コレクション」――『セカイと私とロリータファッション』を書いて

松浦 桃

 『セカイと私とロリータファッション』を上梓して数カ月。ありがたいことに思いがけなく多くの人から反響をいただいている。執筆中にはこのような反響を全く予想していなかった。いや、書くからにはもちろん誰かに読んでほしいと思いながら書いていた。しかし、原稿を書いていた私の脳裏を去らなかった悩みは、実際にこの本を手に取るのはどのような人たちになるのだろうかということであった。本書の内容はロリータファッションを着ている当事者たちには自明のことも多い。一方、ロリータファッションにいまだ出合わない、あるいは出合ってもそれを着ようとは思わない人たちにとって、この本が何の役に立つのだろうか。そんな疑問にずっと答えが出せないまま、書き続けていた。
  本書ができあがってから、あらためて私にとってロリータファッションとは何だろうか、何に私は引かれたのだろうかと考えてみた。いままでに私が撮りためてきた、ロリータファッションの女性たちのたくさんの写真を整理して考えさせられたこと。それはファッションそのものが「着て歩く」ことをルールとしたゲームであるということだ。その洋服を着て人の目にふれる場に出る、それだけが「ファッション」=ゲームの場にいるための条件である。ゲームには勝ち負けが必ず意識される。しかし勝ち負けだけに執着していては人はゲームを本当に楽しむことはできない。勝ち負けが決まる前の宙ぶらりんの状態におかれることを楽しむことが「遊び」の心である。
  私たちはいま、華々しい遊びに、祝祭に飢えている。どこも似たような灰色に映る都市のなかを漂う私たち。平日のオフィスや学校で流れる退屈な「日常生活」に満ちた時間に倦んでいる私たち。ロリータファッションはそれをまとうだけで自分の周りに「祝祭の空間」を作り出す。それは他の誰かのためではなく、着ている私のための「ハレ」の心である。また同じファッションを楽しむ仲間と一緒にいれば、お互いの「ハレ」を私たちは共有する。そこにいるだけで、ロリータたちは「遊園地」や「特別なパーティ」を作り出すことができるのだ。
  相変わらず週末には、ロリータファッションでお洋服を物色に出かける私。そんな私と友人たちの間で交わされた会話のなかで印象に残ったのが、「私たちお洋服のマニアは、友達と会うときに、最初に友達の顔よりも友達の着ている服を確認している」という話である。この話は、お洋服に執心する私たちが、まさにファッションというゲームのなかでお互いのカードを確認しあう作業に熱中していることを示している。
  もっとも、華やかな装いならば、ショッピングモールのなかにほかにいくらでも用意されている。そこから私はなぜ、この花と、お菓子と、フリルとレースをいつも選ぶのだろう。私個人についていえば、女の子中心のファンタジーにいつも飢えているからだと思う。いつも飢えている。もっともっと「かわいい」が欲しいのである。どうしてこれほどまでに「ロリータ的」なモチーフを求めて飽きないのか、それを語りきるには字数が足りない。
  これほどまでに私を含めた多くの女性たち、最近では男性の心までをもとらえているロリータファッションとは何か。それらはどこから生まれ、どこへいこうとしているのか。少女的なるもの。少女そのもの。主体としての少女。主張としての「少女」。男性の書き手によって客体として論じられてきた「少女論」ではなく、まさに自らがすでに「少女」である、より「少女」たろうとする、主体としての「少女」。そしてその主張。 
  3年間そんなことを考えてきたにもかかわらず、そうしたものに私の目はなお引き付けられたままである。私は飽きない。もっともっと「少女」を語りたい。もう絶対に「少女」などとは呼ばれない年齢になっても、きっと私はどこかで私の「幻想の少女」になりたい。そんな気持ちを捨てきれずにいる。だから、今日もロリータファッションを着る。着るだけでは足りなくて、私の心は「彼女たち」の周りを漂い続けている。  
  ファッションという「戯れ」のなかにありながら、何か確固たる主張を感じさせるこの不思議な現象をその熱を保ったまま記録したかった。本田和子が書く、「ひらひら」と日常性の支配をかわし続けてきた、しなやかで、したたかな「少女」。その「少女」の現在進行形。ストリートのそこかしこに、彼女らはかくれんぼをするかのように遊び、見え隠れしている。
  ファッションであるというだけでは、個人の思い出のアルバム以外には残らず、忘れ去られていくかもしれない、こうした「いまだ言葉にならない何か」をできるかぎり追い、記録したいと考え、まとめたのがこの本である。本になったおかげで、私自身がなかなか足を延ばせないような遠隔地でも、この本と出合ってくださった読者がいる。また、入れていただいた図書館も多い。そこでは1冊の本が何人もの読者と出合っていくことだろう。そうした多くの「出合い」のなかから新しい視点や議論が生まれていくことを夢見ながら筆をおくことにする。

音楽評論の「裏」バイブル――『音楽のグロテスク』を訳して

  私は、あの奇才ともいえるフランス・ロマン派の作曲家ベルリオーズの『音楽のグロテスク』の翻訳を出版できた。大変に光栄なことである。
  翻訳にあたっては大層苦労した。本書の各小話はたんに感じたままをつづった軽いエッセイではなく、じつはさまざまな角度から見ることができる深い内容をもっている。まず、この天才の頭のなかを解読し、しかも19世紀に生きた彼が感じたことを、翻訳する際に私自身の ものにしなければならなかった。著者には自分が優れているという自負があり(もちろん彼だからこそできるのだが)、他人を見下すことに余念がない。しかしそんな彼の頭のなかは、普通の人間である私にはむろんすぐに理解できるものではなく、悪戦苦闘を強いられた。それでも訳しながら、著者のあまりの皮肉屋ぶりに、私はあきれながら一人笑っていた……。それはフランス人特有の滑稽ともいえるが、ぜひ日本語でも広めたい味わい深さがある。いわば、「粋」な嘲笑による、知的な言葉遊びともいえるものだ。
  ところで、ベルリオーズの音楽について、私が感じるところを簡単にふれておこう。27歳のときの作品『幻想交響曲』は、前著『クラシックと日本人』(青弓社)でも書いたとおり、昔から日本人に愛好されている作品の一つである。私は子供の頃に、指揮者の小澤征爾がこれを熱演しているのをテレビで初めて見て圧倒された覚えがある。その音楽はじつに視覚的であり、グロテスクで、いままでに聴いたことがないものだった。魔に取りつかれて幻惑される話というのはクラシック音楽で多くみられるが、実際、これほど優れた曲はこの世にいくつもないのだと確信している。普通、作曲活動とは、誰かからの強い影響を自分のものにしてさらに発展させるのが常だが、ベルリオーズからはあまりそれが感じられない。彼の音楽語法は天才ゆえの独創性、すなわち「我流」の要素が大きい。構成は支離滅裂だし、美しいメロディーは故意に避けられている。しかし何かに取りつかれたように執拗なメロディーが、禁断のものを見たいという感情を巻き起こす。その躍動感は一見明るいけれどもわざとらしく、その先にはブラックホールのような不気味さが見え隠れする。それは、彼が愛したロマン派文学の世界を音楽に翻訳したものなのだろうか……。また、『幻想交響曲』以外で私が昔から好きなのは『イタリアのハロルド』である。これはヴィオラ独奏にオーケストラが伴う形式の曲で、やはり相当に風変わりな作品である。ヴィオラのメロディーは一聴したところ郷愁を誘うが、使われている和声が奇抜で、聴く者を「おや?」と思わせる。フェイドアウトして終わる方法も意外性に富んでいる。オペラで特筆すべきなのは、『トロイアの人びと』を別にすればやはり『ベンヴェヌート・チェリーニ』だろうか。私はパリのオペラ座でこれを見たことがあるが、演劇的な奥行きのある音楽と演出は本当に圧巻であった。
  さて、『音楽のグロテスク』の話に戻ろう。あの『幻想交響曲』のように、この評論集もときとしてどこまでが現実でどこまでが空想なのかわからなくなるときがある。また、裏の裏をかくことが彼のくせになっていて、読み慣れると面白いのだが、素直な考え方をする読者にとっては少しばかりの苦労が強いられるかもしれない。そうはいっても、これは短い評論の集成なので、面白そうだと思うところから読んでもかまわない。ただ、前後関係によって全体は緩やかに統一されていて、通して読み終えたときにバラバラの話を集めたという印象を受けない、ということは強調しておこう。ときには「グロテスク」たちを中心とした、本書の登場人物の生き生きとした会話がふんだんに取り入れられていて、評論集とは思えないくらいに臨場感がある。それは読者に、映像を見ているかのような錯覚を起こさせてくれる。当時のフランスの音楽事情を知らないと理解が困難な部分もあるが、その場合はギシャールの注を参照されたい。いまの日本がかかえている音楽界の問題が、意外にも19世紀のパリのそれと似ていることに驚くことだろう。
  フランス人が音楽について書いたものはまだまだ他にもたくさんある。それだけ彼らのなかには、「音楽について何か言ったり、書いたり」したくてしょうがない人が大勢いたのだろう(それはいまの日本も同じである)。それらのなかでもこの『グロテスク』は、相当に強烈なインパクトのある本で、表現もいささか辛辣である。音楽評論に王道が存在するとすれば、まさに本書は「裏」バイブルである。人は封印されたものや真実を知りたいという欲求には勝てないのであり、本書がそうした人びとの心を充実させてくれるものと思っている。

若者とは何者か――『族の系譜学――ユース・サブカルチャーズの戦後史』を書いて

難波功士

  若者とは、いまだ何者でもない者のことだと私は考える。
  世に言うニートやフリーターのことだけを念頭においているのではない。どこかの学生であったとしても、それには時限がある。たとえ定職に就いていたとしても、それを生涯の職と、なかなかそう簡単に決めきれるものではない。
  唐沢なをき『まんが極道①』(エンターブレイン、2007年)などを読むと、マンガ家とはすべからく永遠の若者ではないかと思えてくる。一時売れたとしても、結局「消えたマンガ家」は枚挙にいとまがない。吾妻ひでおですら、マンガ家として復帰するまでの間、ホームレス、配管工、入院患者(アルコール依存症)などの日々をすごしていた。過去の印税だけで食べていける安定は、ほんの一握りの超大家だけのものだろう。
  そうした「若者群像」のなかでも、「第5話 母と子」は特に胸を打つ。篭目山トト治(45歳)は、母親のパート収入に生活を頼りながら、年3回同人誌即売会に出店し、10冊程度を売りさばく以外は、日がな一日、商業マンガ誌に掲載された作品やその作者に悪態をついてすごしている。母は泣きながら「お願いだよ まっとうに職についてくれ カタギになっておくれ」と懇願するが、トト治は「うるさいうるさい マンガ家なんだ俺は誰が何と言おうと」(母と話をするときのコツは大声でケンカ腰にまくしたてることだ)……。
  結局、ユース・サブカルチャーズの戦後史とは、「何者かであろうとした若者たち」の右往左往の足跡であり、あるユース・サブカルチャーの成員となりえたとしても、ほとんどの場合、それが持続可能な何者かではない以上、その歴史とは見果てぬ夢たちの航跡なのである。そうしたはかなさこそが、私がユース・サブカルチャーズに「萌えた」最大のポイントだったように思う。老眼にむち打ち作品を仕上げ、最後には自費出版業者に騙されるトト治(とその母)の切なさには言葉を失う。そして日々大学生を眼前にしている身としては、若者たちがすみやかに何者かになることを願ってやまない。
  だが、かくいう私も、「この子たちのお父ちゃん」という定住の地を得たのは、44歳になってからのことだ。トト治のことを、とやかく言えた義理ではない。また『族の系譜学』の「あとがき」にも記したことだが、43歳のときに教員組合の書記長をやってみて、「おらぁ労働者だぁ」と心底思える経験をした。大学教員は、ディレッタントであり訳知りであることが多く、「かかる社会的・経済的環境のもと、こうした大学経営の舵取りは一部やむをえないところもあり……」といった妙な評論家的物わかりのよさを示してしまいがちだが、最後の最後まで理事会サイドとは別の視点に立ちえた――要するに平行線を辿り続け、団交ではなんら互いに得るものがなかった――ことは、仲間に恵まれたとしか言いようがない。
  教員である以前に労働者である、「こちとら教員歴は11年だが、労働者歴は23年だ」と考えるようになって、大学生と接するのも楽になってきた。要するに私の場合、「君たち、とっとと労働者(ということばに抵抗があるむきには職業人)になりなさい」というのが基本的なスタンスなのである。文系学部教員としては、実務に直結する何かを教える気はないが(そんなことはできないが)、就職活動が「文章(エントリーシートや論作文)を書く」「人前(面接やグループ・ディスカッション)で話す」の繰り返しである以上、レポートや卒論を書くこと、ゼミで発表・討論をすることが、働き口の獲得にいくばくかは結びついてくるはずである。
  大学教員11年目にして思うことは、「大学生は、大学生でなくなるために、大学生をしている」のであり、「若者は、いずれ若者でなくなるがゆえに、若者である」という屈曲である。そうした思いのうち、後者に関しては『族の系譜学』を書くことで、少しは吐き出せた。前者に関しては、いずれどこかで展開したいと思っているのだが……。 
  要するに、ありがちな大学改革論でも、学問論・教養論でもない大学(教育)論です。この場は、編集者・出版関係者の注目もある媒体だと思うのであえて申し上げますが、『大学生は、大学生でなくなるために、大学生をしている』企画、いかがでしょうか。ニーズはあると思うのですが……。できるだけ平易に、面白く読めるものにします。けっこう部数は出るんじゃないでしょうか。お父ちゃんは、子どもたちに自転車を買ってやりたいんですけど……。

執筆を終えたいま、振り返ると、あの夏の日のことが思い出される。――『光のプロジェクト――写真、モダニズムを超えて』を書いて

深川雅文

  1985年8月のある日、僕は、ハンブルクのギャラリーに付設された書店に並んだ本を見ていた。写真についての本を探していたところ、一冊の小ぶりの薄手の本に目が留まった。目立たない灰色の表紙には「Fuer eine Philosophie der Fotografie」と黒い文字でタイトルが印刷されている。Vilem Flusserという著者のことは全く知らなかった。ドイツ語で書かれた本を立ち読み始めて間もなく、写真の文化史的な革命性を鮮明に抉り出す考察であるとの直観が脳裡を走った。出版元のミュラー・ポーレ氏にすぐに電話をし、ゲッティンゲンの街を訪れて話し合い、なんの見通しもないのに日本語に翻訳したいとの希望を伝えた。若気の至りとはこのことだろう。出版のあてはなかったが、帰国後早々に翻訳に着手した。数年間の放浪生活の後、1988年、幸い美術館に学芸員として就職することになったものの翻訳の出版の可能性は見えなかった。その10年後、事態は一変し、同書の理解者を得て、勁草書房から『写真の哲学のために――テクノロジーとヴィジュアルカルチャー』として1999年に出版していただくことになった。『写真の哲学のために』の訳者あとがきは、本書の位置づけを説明してくれるのでその一節を引用しよう。

「『写真の哲学のために』は、「写真」をテーマにしているが、現代の文化状況に対するアクチュアルな哲学的批判がベースになっており、その意味では、たとえば、ベンヤミンの「複製技術時代の芸術作品」あるいは「写真小史」といった著作の系譜に連なるものである。したがって、室井尚氏が本書の「解説」で述べられておられるように、この書は”書店の「メディア論」や「写真」のコーナーにさびしく置かれるタイプの本ではない”だろう。(略)ここでは、そのテーマとなっている「写真」に立ち返り、写真論あるいは写真史という観点から、若干のコメントを加えておきたい。というのは、フルッサーの理論は、写真を考えるための新たな文化的視座と概念の枠組みを提示しており、それを写真に関する現実の現象や作品あるいは歴史的な事象において検証することは、写真に関する理解と歴史的な認識の深化を促すのみならず、写真という領域に限定されない、脱領域的な写真論の可能性も秘められているように思われるからである」(184ページ)

  本書で筆者が進めてきた考察は、上記の引用の最後の文章に書いた「検証」の作業の実践に深く関わっていた。こうした検証は、さまざまなかたちでなされることによって、その理論の妥当性と批判が進められると思う。筆者の考察はそのアプローチのひとつであり、さらにさまざまな歴史的・美術的事象からの検証が可能であるはずである。そういう意志をもつ読者は、ぜひ、さらなる検証にトライしていただきたい。そのために、本書でフルッサーの著作に関心をもたれた人には、『写真の哲学のために』だけでなく、村上淳一氏の名訳で出されているフルッサーの『テクノコードの誕生』『サブジェクトからプロジェクトへ』(いずれも東京大学出版会)の読書をお薦めしたいと思う。

  検証のためには、理論的考察にとどまらず実際の作品のイメージに照らし合わせることも重要である。考察の現場は写真が流通する日常の生活の場であるとともに写真に関する歴史的事象にあるからである。本書は、写真についての本でありながら、所収する写真は十指にも満たない。その代わりに、本文のなかに図版注を多数挙げて、実際の作品イメージとの参照可能なかたちをとることができた。これは、ひとえに、美術出版社の『カラー版 世界写真史』をはじめ同社のカラー版美術書など日本語の美術出版が充実してきているという事情によって可能になった。こうした図版に照らし合わせながら本書を読み進めていただければ、本書がたんなる理論の書ではなく、実践的な書であることを感じていただけるのではないかと思う。

  よほど力量のある執筆者の場合はさておき、本の出版は、自らの意志でコントロールできるものではないのではないか。この本も例外ではないだろう。出版をめぐるさまざまな条件・環境の変化が、この本の出版を遅らせた面もあり、また時間の経過によって逆に促進させ、時宜を得させた面もある。冒頭に記した夏のある日がこの夏の出版に繋がるとは筆者自身想像できなかった。そして、注として挙げるべき図版の環境の充実ももちろん予想できなかった。一冊の本が、さまざまな人々の思索と出版への努力とに結びついていることを強く感じ、本書がその無限のネットワークの末端に連なることに感謝したい。そして、願わくば、この本がさらなる人々のリンクを導きますように。

音楽で人と人をつなぐ――『音楽療法士になろう!』を書いて

加藤博之

 本書『音楽療法士になろう!』は、私たち二人(加藤博之、藤江美香)が長年にわたっておこなってきた音楽療法の実践をもとに、理論と実際をわかりやすくまとめたものである。
  読者は音楽療法と聞いて、きっと何かすてきな響きを感じるかもしれない。音楽という言葉には、美的な感覚や人を安らげるところがある。あるいは、音楽療法という言葉自体にあまりなじみのない人もいるかもしれない。一般的には、音楽療法士はまだメジャーな呼び名とはいえないのだろう。長年音楽療法をおこなっている私たちでさえ、いろいろな人から「音楽療法? それは癒しでしょう」「ヒーリングのこと?」「モーツァルトの曲が効くんだよね」などと言われる。最近になって少しずつ理解者が増えてきているものの、まだまだこういった意見を多く聞く。それは、当たっている部分もあるが、音楽療法の一面を指摘しているにすぎず、結局受け身のニュアンスが強いのである。そこには、最も大切なセラピストとクライアント(対象者)相互の「やりとり(コミュニケーション)」がないのである。じつはこの「やりとり」にこそ、音楽療法の大切な有効性が隠されている。療法士とは言い換えればセラピストのことであり、それはまさに人とかかわる仕事なのである。そして、音楽を使って人とかかわるのが音楽療法士である。
  本書では、難しい理屈を並べ立てるという構成にはなっていない。人とかかわる仕事で最も大切なことは、こちらが相手に何かをしてあげるのではなく、ともに過ごすなかで互いに影響を受け合い、一緒に学び合うということなのである。謙虚な姿勢をもってはじめて対象者に向き合うことができる。セッション(音楽療法の活動)を通じて、セラピスト自身が得ることが非常に多い。とにかく、人間性が磨かれないとできない仕事なのである。だからこそ、療法士は魅力的な職業だといえるだろう。
  本書では、全編を通して「音楽療法士とは何か」を問い続けている。そして結局、最後まで明確な答えは出せないでいる。でもそれは当たり前のことなのかもしれない。なぜなら、音楽療法自体、日本ではこれからの領域であり、現在さまざまな理論や方法論が提案されているものの、「どれが最も有効か」ということは多くのセラピストが日々の実践を重ねるなかで検証されるべきことだからである。私たちも民間の立場で、これまで多くの対象者(主に障害のある子ども)とかかわってきた。そこで子どもたちからさまざまなことを学び、徐々に自分たちのスタイルを確立するようになった。本書で紹介している理論や方法論は決して私たちの最終到達地点ではないが、いまの時点でおこなっていることは今後もぶれないだろうと確信している。つまり、多くの年月を経てきて、やるべきことがやっと見えてきたのである。
  社会には音楽療法の本があふれている。どれも密度の濃い内容だが、概論的だったり、複数の著者がいろいろな方法論を紹介していたりするため、全編を読み通したときにセラピストの具体的な姿が浮かび上がってこない。私たちは、読者が読後に「なるほど、こういうセラピストがいるんだ」「このような経過を経てセラピストとして仕事をしているんだ」と感じるように、セラピストの生の姿、言い換えれば人間的な部分を特に強調したかったのである。セラピストは、限りなく人間的な仕事なのだから。それがどこまで達成できたかは読者の判断にゆだねることにするが、少なくとも自分たちの経験と学んだことは惜しみなく書きつづったつもりである。正直、ここまで書いていいのかと著者が躊躇するほど書いてしまった感もある。でも、一人でも多くの人に、自分たちが「生きる」ことと「セラピストが成長する」ことをダブらせながら、音楽療法士を目指していただければと思う。もちろん、「音楽療法士」が音楽表現を日々磨いていくことはいうまでもない。ただし、それは高い技術を一方的に相手に聴かせるのではなく、相手とその場を共有できる音楽空間を創造するために、さまざまな技能を鍛錬するのである。
  最後に、著者の加藤は音楽を独学で学んだ。一方、藤江は音楽大学出身である。この対照的な二人が組んでおこなう音楽療法はどのようなものか、という観点からも、本作を読んでいただけると興味が倍増するのではないかと考える。互いに影響を受け合って、いまがあるのだから。