プライバシーをひけらかす人びと――『ポスト・プライバシー』を書いて

阪本俊生

  最近、プライバシーをひけらかす人の話をよく耳にする。集会所の片隅で若いカップルが仲良くしている。彼らは他人がいてもまったく平気といった感じである。電車や教室で鏡を見ながらの化粧直しは言うに及ばず、インターネットで「プライバシー」などと検索してみると、自室の生中継に出くわしたりもする。たくさん人がいる路上で、携帯電話で別れ話をしている女性は歩きながら泣きじゃくっている。感情にまかせて大声でしゃべっているので聞きたくなくとも聞こえてしまう。
  この前、「ミクシィ」なるものを知りたくて、ある学生に頼んで入会させてもらった。するとすぐに何人もの知らない方々から「マイミク」のお誘いが。もちろん各自それぞれの判断で情報に制限をかけているし、情報が本当なのかも定かでないが、それでもプライバシー情報のオンパレード。
  試しに学生のところを訪問すると、何だかとても接近した感じ。親近感がわくというよりはむしろ、いきなり部屋に上がり込んでいったような、大げさな言い方をすれば見てはならないものを見ている感覚に襲われて、はたして入会してよかったのだろうかと悩む私は、おそらく古いタイプの近代人なのだろう。もちろん彼らはプライバシーをひけらかしているわけではないが、それでもこんな世界があったのか、と改めて考えさせられた。
  プライバシーは変容しつつある。これについて明らかにしたいという思いから、この本を書きだしたのは10年前だった。そのときからプライバシーを取り巻く環境は大きく変化した。当時はインターネットも携帯電話もいまほどは浸透していなかったし、9・11のテロも起こっておらず、情報セキュリティへの関心もいまほど高くはなかった。ただその一方で、すでに監視カメラは増え始めていて、住民基本台帳ネットワークシステムをもたらした改正住民基本台帳法が国会で成立するなど、今日の情報化への方向に着々と進んでいた。
  プライバシーの変容の基本的方向性は、このときすでに定まっていたと思う。私のなかにあるのは、一言で表せば、環境経済学などが取り上げるエコツーリズムがいうところの「ゲーム牧場」のイメージである。これはアフリカなどでライオンやキリンなどの野生動物を野放しにして保護や管理をおこないながら生態系の維持にも役立てるというものだ。要するに野放しにしつつ、監視し、管理する。同じことが情報管理社会にもいえるとすれば、いわば「人間のゲーム牧場化」が進んでいるということになるだろう。
  これは東浩紀がいう環境管理型の社会に近いし、デイヴィッド・ライアンやジョージ・リッツァーも似たようなイメージをもっているといえるだろう。私自身もこれらに賛同する。しかし、私がこの本で書こうとしたのはこのことではない。
  この本は、実は、プライバシーの本でもなければ、監視社会論の本でもない。もちろんプライバシーをめぐって書いてはいる。しかしこの本のテーマは、個人と社会のかかわり方とその背景にある社会システムの変化だ。プライバシーを一つの社会意識としてとらえ、その変化を見ていくことから、私たちの社会的自己やアイデンティティの生まれ方について考え、さらにそれを変化させている社会システムの歴史的な変化をとらえようとしている。こう言うと引いてしまう人もいるかもしれないが、プライバシーを深く理解するうえで必要な視点の一つだと思っている。
  もちろんプライバシー意識は今日でも見られる。でもそのあり方は、以前と同じようでいて、微妙に変わってきているのではないだろうか。近代の主体の終わりとよくいわれたりするが、これは実際にどのようなかたちで起こっているのか。このような事態を示唆するような、実際の社会現象は見られないのだろうか。プライバシーへの着目はこうした取り組みの一環である。
  プライバシーの変化が、私たちのアイデンティティのあり方に変化をもたらしてきているとして、それは私たちをどのように変えつつあるのか。その結果、私たちはどうなっていくのか。これらについても、プライバシーの変化の考察はヒントを与えてくれるような気がする。
  プライバシー意識は近代に生まれた。そして今日、それは情報化のなかで、まさに問題の渦中にある。自動車の発明と普及が都市構造や生活スタイルを激変させたように、情報技術の発達と普及も私たちの生き方や存在のあり方を大きく変えつつあるだろう。しかもこちらは私たちのより身近なところ、すなわち身体や内面、親密性といったところに直接働きかけているように思える。
  すでにふれたように、この本はプライバシーについて書いたのではない。情報化がもたらすアイデンティティ形成の文化的・社会的様式の変化を、プライバシー意識の変容を通じて明らかにしようとしている。だから情報化に対する抵抗の戦略について語ろうとはしない。もしこのような抵抗との関連を問われたら、その抵抗が何のためであり、また何への抵抗であるのかについて、立ち止まって考えようというのがこの本である。

メイド・イン・ジャパンのメカなら何でも直すことができる〈日本人〉――『アメリカ雑誌に映る〈日本人〉――オリエンタリズムへのメディア論的接近』を書いて

小暮修三

  まずは、僕がまだアメリカ留学したばかりの頃のエピソードをひとつ。
  ある日、大学院生専用図書館のコンピュータ室でデータ処理をしていたところ、近くに座っていたアメリカ人女性が「オーマィガッ!」とPCを前に慌てふためき始めた。僕が彼女の方に目をやると、彼女は部屋を見渡し、僕と目が合うやこちらに近づいて話しかけてきた。
 「ごめんね、ちょっとファイルが消えちゃったんだけど、元に戻せるかな?」
  どうやら、レポートを書いている最中にデータが消えてしまったらしい。僕は、彼女が使っていたPCをイジり、自動バックアップ用のデータを開いてあげた。彼女は、感謝の言葉とともに、僕がどこから来たのか尋ねた。僕が日本だと答えると、「ちょっと待って」と言って、自分の大きなカバンのなかをかき回し始めた。お礼に何かくれるのかなという淡い期待に少しだけ胸を膨らませながら待っていると、僕の目の前にウォークマンを差し出して、こう言った。
 「これ、ちょっと音の調子が悪いんだけど、直せるかな?」
  あまりにパンチが効いた質問だったので、彼女が言っている意味が全くわからなかった。僕の目が泳いだ状態になると、彼女は日本人だったら直せるかと思って試しに聞いてみただけだと早口で続けた。僕が無理だと答えると、彼女は「じゃぁイイ」と言って何もなかったかのように自分の作業に戻っていった。もちろん、「わけのわからないことを人に頼んどいて、「じゃぁイイ」じゃねぇーよ、無礼なヤツだな、オメェ!」と言い返せなかったのは言うまでもない。
  その後、アジア人留学生やアジア系アメリカ人男性がメカに強く、特に日本人男性であればメカはお手の物だというステレオタイプ(固定観念)が、多くのアメリカ人に根強くあり、その背景となる言説がテクノ・オリエンタリズムと呼ばれていることを知った。少なくとも僕の滞米時期(2000年以降)、日本人男性のステレオタイプは、メガネをかけた出っ歯で、カメラを首に掛け、ジャルパックのカバンを肩から提げて、何にでもお辞儀し、バカ高いみやげ物を買いまくるニンジャの子孫というものではなかった。そこで、本書の「はじめに」で書いたように、アメリカ人の前では、あえて古い日本人男性のステレオタイプに拠った自己紹介をしてウケを狙ったのである。
  ここでウケるか否かは、そのステレオタイプの古典性をどれだけ相手と共有しているかにかかっている。特定の意味作用システムを共有していなければ、そこに「笑い」は生まれてこない。そして、幸か不幸か、当時のアメリカではテクノ・オリエンタリズムの視線の下で、古典的なオリエンタリズムに基づくネタが「笑い」の対象として認知されていたのである。しかしながら、僕がテクノ・オリエンタリズムに基づくネタとして「メイド・イン・ジャパンのメカなら何でも直すことができる」とボケた場合、それは「笑い」ではなく「事実」として受け入れられてしまっていただろう。つまり、そこには特定の意味作用システムが共有されていないのである。このような考察から、テクノ・オリエンタリズムという特定の意味作用システムと、その形成過程についての調査・分析が始まり、古典的なオリエンタリズムの形成も含めた内容の本書を世に問う次第となった。
  そのリサーチは、研究にたずさわる者のご多分に漏れずヒジョーに地味なもので、大学の図書館に常駐し、古雑誌のページをシコシコめくり、必要な部分をスキャンする作業の繰り返しだった。アメリカ人の友人からは、「スキャナーの番人」という称号まで与えられた。そして、あまりにも毎日のように図書館で作業しているものだから、常勤のスタッフと勘違いされてか、はたまたテクノ・オリエンタリスティックなステレオタイプのたまものか、アメリカ人学生にPCやソフトの使い方を聞かれたり、ノートPCの修理を頼まれたり、iPodの使い方まで尋ねられるまでに至る。実際には、そんなもん知らねぇっつーの。しかしながら、そのようなステレオティピカルな視線を日常的に浴びることも、リサーチの収穫のひとつではあった。
  さらにリサーチを進めるなかで、ここでも特筆すべき点は、世界に冠たる科学雑誌「ナショナル・ジオグラフィック」のほぼ1世紀前の写真の「パクリ」を発見したことである。本書でも触れたが、同誌記者の撮影とされる日本に関する最初の「カラー写真」の何枚かが、実際は、日本人カメラマンの撮影によるみやげ物用「彩色写真」をトリミング(切り取り加工)したものだった。これは、シコシコ何万枚もの同誌に掲載された写真を見続けてきた過程で生じた違和感から、日本の古写真をも調べたことによって見つけ出すことができた。この発見によって、オリエンタリズムの相互補完関係という僕のロジックが、より強固なものになったと信じている。と同時に、同誌と同誌日本版発行元から目の敵にされることが想像できる。誠に名誉なことである。

  そんなこんなの明け暮れで、このような研究契機、リサーチ、そしてさらに地味なPCモニター監視員と化した分析を経て書いた本書を、楽しみながら読んでもらえれば幸いである。

『精神病の日本近代』というゴール、そして新たな地平へ――『精神病の日本近代――憑く心身から病む心身へ』を書いて

兵頭晶子

  小学生の頃、家族で六甲山に近い公園へ遊びに行った。広々としてあまり人もいないその公園は、ゴルフ場と住宅地に囲まれていた。住宅地には公園から見えるように白い大きな垂れ幕が下がっていて、そこには「精神病院建設反対」と書かれていた。その一角だけが、緑豊かでのどかな景色には馴染まず、ある違和感を放っていた。
  たいていの子どもにとって(あるいは大人でも)、病院はあまり行きたくない場所だろう。待ち時間は長いし、注射でもされようものなら痛いうえに、薬は苦い。でも、幼い頃から体が弱かった私にとって、病院は点滴や薬で病気を治してくれ、助けてくれる場所だった。だから、どうして病院を建てることに反対するのかよくわからず、隣にいる父に尋ねた。父が何と答えたのか、いまではもう覚えていない。

  縁というのは不思議なもので、十年後、私は公園の隣にできた高校に通い始めた。近くに広い公園があるのが気に入って、その高校に決めたようなものだった。もっとも、在学中は友達とのおしゃべりや勉強に気を取られて、公園まで足を延ばすことは結局ほとんどなかったけれど。かつて精神病院建設が反対された土地は、老人ホームになっていた。
  そして。
  阪神・淡路大震災が起こる数カ月前、ひとりの男性が自殺した。──彼が大学時代からうつ病に罹っていたことを、通夜の席で、遺された子どもたちは初めて知った。

  その頃、「うつ病」という言葉が持つ響きは、いまとはかなり違っていた。だから、子どもたちがもう少し成長してから話そうと思っていたのかもしれない。それに、彼は単身赴任で各地を転々としていたから、ゆっくり話す機会もなかったのかもしれない。
 でも、もしこれが違う病気だったなら。子どもにもわかるように説明したのではないだろうか。たとえ一緒に暮らす時間が少なくても、確かに家族だったのだから。
 ではなぜ、彼は、うつ病という病気を伏せたまま死を選んでしまったのだろう。

  高校を卒業して大学生になった私は、たまたま同郷だった一つ年上の先輩から研究会に誘われた。研究会に参加するようになった私は、卒業論文のテーマを精神病にしようと思った。すると、被差別部落について研究していた先輩は次のようなことを言った。
「精神病は難しいと思うよ。部落と違って、「実態がある」から」
  なにしろ十年前の記憶なので、特に「実態」という表現が正確かどうか自信はないが、とにかく、そういう意味の指摘だったことは覚えている。

  だが。
  精神病と呼ばれる病気が実在することは、病気に悩む当事者や家族への差別を正当化するのだろうか。「間違っている」部落差別の対極に、「正しい」差別なんてあるのだろうか。この世の中に、「あっていい」差別など、はたして存在するのだろうか。
  だから私は精神病をテーマに選んだ。部落差別でもなく、ちょうどその頃、国が隔離政策の誤りを認めたハンセン病でもなく、いまなお差別が続いている精神病についてこそ研究しようと心に決めた。
  ──本書の始まりは、このような原風景のなかにあった。

  現在、私は、学習院大学と大阪大学で非常勤講師として二つの授業を担当している。学習院のほうは病気で入院された先生の代講なので、テーマが既に決まっていた。そこでほぼ十年ぶりに、被差別部落の問題を調べ直すことになった。そして、本当にあきれた話だが、部落差別がいまなお続いていることを知り、心の底から驚いた。
  確かに小学校や中学校で、うろ覚えながらも同和教育を受けたし、現在進行形の問題だからこそ、先輩もいまなお研究し続けているのだ。それでも、なぜだか信じられなかった。
  大正期に喜田貞吉が歴史学の立場から部落差別の迷妄を説き、水平社も設立され、精神病とは比較にならないほどのおびただしい研究が重ねられてきたにもかかわらず、「いわれなき差別」の筆頭とも言える部落差別が21世紀になったいまも続いているなんて、そんなことあるはずがないと思った。
  ──つまり私は、「正しい」とされる差別を追究するあまり、「間違っている」と宣言された差別の側を見落としてしまっていたのだ。

  いまなら、もっと違う本が書ける気がする。
  部落差別も、路上生活者の強制排除や日雇い労働者の住民登録削除に体現される非定住への排斥も、喜田や、同時代に民俗学を樹立した柳田国男が説いたような、前近代の残存などでは決してないことを。そうした差別をいまなお正当化し続ける原理が日本近代の基底にあり、その一環に精神病への差別も含まれているということを。
  もちろんそれは、本書を書き上げたからこそ見えてきた問題に他ならない。

  こうして、『精神病の日本近代』というひとつのゴールは、同時に、新たなスタートラインとなった。
  上記のような本を書き上げたとしたら、次は、どんな新しい扉が開くのだろう。
  ──その扉を開くのは、本書の読者であるあなた自身かもしれない。

1930年代の新聞の魔力――『近代日本の国際リゾート――一九三〇年代の国際観光ホテルを中心に』を書いて

砂本文彦

  この本は、戦前の新聞をずっと読み込んで見えてきたことに記述の多くを依っている。
  東京や大阪で発行された新聞はもちろんのこと、仙台、新潟、栃木、横浜、静岡、長野、松本、豊橋、名古屋、大津、広島、呉、新居浜、高知、佐賀、柳川、熊本、長崎、そして植民地だった京城(ソウル)、大田、釜山。こうした地方紙は現地に行って見る。授業の合間をぬっては各地の図書館を訪ね歩き、閲覧室にこもってせっせとめくる。
 1年は365日。新聞を5年分、10年分と見ていく。新聞のページ数にもよるが、例えば、1930年頃の「京城日報」は、朝から晩まで見ても2カ月分見るのがせいぜい。1年分を見ようとすると、単純に考えて1週間かかる計算だ。万事この調子なので、ずっと見ていると気絶しそうになる。だから、いつ読み終わるとか、そんなせこい計算はしない方がいい。
  最近は、新聞記事がデータベース化されているものもあって便利だが、これは案外もれていたりとか、それこそ文字でデータベース化されない広告やマンガ、タイトルがあいまいな写真は落ちていたりとかで、頼りすぎると足をすくわれる。記事の「余白」に思いがけない発見もあるから、やはり、ここはローテクでも、攻めの気持ちでがんがん新聞はめくりまくるべし。
  大学院生の頃からちまちまと新聞を見る根気が続いているわけは、新聞記事そのものがおもしろいからだ。とくに関心をもった1930年代は、20年代よりもページ数が増すとともに(それはそれで頭が痛いのだが)、内容も充実。1面の政治、外交、経済からめくって社会、文化、スポーツ、芸能、マンガ、そして広告はかなりおもしろい。さらに、どこそこの帝大生がカフェーの姉さんに入れあげて町の話題になった云々の痴話話なんかは、もう、笑うしかない。当時は、男は女に対し、女は男に対し、神秘的なものを感じていた。そのせいか「男の甲斐性とは?」「女も○△なの?」のような、異性を妙に意識した変な連載も真面目に堂々と出てくる。記事の根拠もそうあるわけではないようで、噂話も多くて、「そんなわけないだろう!(笑)」とひとりつっこみをしながら見ていた。この硬軟織り交ぜた紙面構成は、当時の雰囲気を味わえて、かなり笑える。

 わかった! 重要なのは、これだ。笑える感覚が1930年代にあったことだ。

 実は、『近代日本の国際リゾート――一九三〇年代の国際観光ホテルを中心に』も、そんな笑える感覚からできた分厚い本だ。あのとき、どうしてここまで「国際観光ホテル」をつくることが全国的なブームとなり、われ先と身銭を切ってまで外国人を呼ぼうとしたのか。当時のほとんどの日本人は、リゾートなんて見たことも行ったこともないのに。
  本書は、外国人向けの施設整備を始めてからのいきさつと利用の実態を記したが、実は、「外国人をわがまちに!」という類の話が新聞紙上に出てくるのを見るだけでも、充分におもしろい。「わがまちに、ホテルがいるんだ!」と熱にうなされる人々。そんな臨場感というか、高揚感というか、抑制が利かない「近代」というべきか。そういうことが、当時の新聞をめくるとダイレクトに伝わってくる。
  ただ、そんな新聞も、日中戦争ぐらいからあまりおもしろくなくなる。どの新聞をめくっても、わたしがほしい記事がぐっと減る。一時、落ち着いて持ち直すのだが、太平洋戦争開戦が近づくと次第に悲壮感が漂いはじめ、めくるこちらも気分が重い。
  鉄がない、木材がない、油がない。わたしの専門の建築で言えば、釘がないから家も建たない。竹筋コンクリートなんてものも開発される始末。そして1941年の秋頃から、ついに「この冬、暖をとる燃料はあるのか?」の記事まで出てくる。12月の真珠湾攻撃の数日前には、開戦不可避のような文字が挟み込まれ、開戦の翌日は、まさに教科書で見た「米英に宣戦布告」。こうなると、もう、観光やリゾート、住宅地開発とかの浮いた話は、出ようもない。このふたつの戦争の開戦で、新聞はその社会的な役割を大きく変質していったことを痛切に感じた。わたしの歴史文化的な研究の立場から言えば、一次資料としての価値が格段に弱まったことを意味する。
  あともうひとつ。当時の新聞は、新聞社によって編集カラーが全く異なる。現在の新聞は、新聞社としての「主張」は控えめに、支持球団の違いや経済面などの扱いに大小の差がある程度だが、当時の新聞は我田引水の極致というか、主張と噂だらけ。当時、人々は新聞に正しさを期待さえしていなかったのではないか? それよりは、新聞を通して読み手の力を試す社会、という感じか。地方紙はその傾向がもっと強くて、地元出身の誰それが東京で大活躍だとか、植民地で大事件だとか、あるようなないような話が紙面をところ狭しと躍る。新聞はスターを求めていた。そもそも当時の人々は、新聞に中立性なんか望んでもいなかったのだろう。
  そんな紙面構成だったせいか、新聞は戦中になってすべて右に倣うか廃刊に追い込まれ、戦後には改めて報道機関としての中立性が新聞に求められた。時代や紙面が異なれば、同じ新聞といっても、記事がもつ社会的な意義や、ときには正確性まで違ってくるのである。したがって、新聞を研究対象にするとき、字面を追うこと自体はほとんど意味をなさない。
  これではまるで、新聞が役に立たないような書きっぷりだが、決してそうではない。正確性はさておき、ともかくあちこちに散らばった記事を拾い集めると、それこそパズルを合わせるようにひとつの絵が見えてくるのである。多様な(雑多か?)報道があるからこそ、それを可能にしている。そもそもこうした異種格闘技のような新聞の雰囲気は、まるですべてをさらけ出す近所のおじさんのようで、人間臭くて、ある種の親しみをおぼえてしまう。とってもオープンマインドなのだ。
  人というのはいつも正しく倫理に忠実に生きているだけではない。わたしは、どうも、こうした訳のわからない新聞報道が許容された時代の方に、計り知れない魅力を感じてしまう。わたしが人として試されているような気もするのだ。どう考えるんだ?、お前、と。
  考える身体が自分にあることを問いかけ続けてくる1930年代の新聞。それを通してわが身の存在を21世紀のいまに感じられるのが、うれしい。みなさんも、この興奮を体験してほしい。

これまでとこれから――『音楽空間の社会学――文化における「ユーザー」とは何か』を書いて

粟谷佳司

  ポピュラー音楽研究の社会学者サイモン・フリスは、1988年に刊行した著書(Music for Pleasureのイントロダクション)で「ロックの時代精神」について書いていた。フリスによれば、ロックの時代はエルヴィス・プレスリーに始まり、ビートルズで頂点を迎え、セックス・ピストルズで終焉し、それ以降の音楽は時代精神が表現されていないという。私はそれから10年後の98年に刊行した論文でそのことについて論じた(「ロックの時代精神からオーディエンスへ」〔「ポピュラー音楽研究」第2号、日本ポピュラー音楽学会〕、あるいは「カルチュラル・スタディーズとポピュラー音楽のオーディエンス」〔東谷護編著『ポピュラー音楽へのまなざし――売る・読む・楽しむ』所収、勁草書房、2003年〕。なお、本書にはこの部分は収録していない)。このあたりの議論についてはこれから考えていこうと思っているが、本書で考察したのはこのようなロックの時代後のポピュラー音楽の実践ということになるだろうか。フリスについて言及した論文で私は、本書の「ユーザー」の議論にもつながる「オーディエンス」についてミシェル・ド・セルトーを取り上げた。
  本書の理論的バックグラウンドとしてカルチュラル・スタディーズがある。メディアと文化への関心によっているが、これは現代思想や文芸批評の著作を読み始めたころから続いているということに最近気づいた(1984年に出版された吉本隆明の『マス・イメージ論』〔福武書店〕あたりの著作やジャン・ボードリヤールの『消費社会の神話と構造』〔今村仁司/塚原史訳、紀伊國屋書店〕、『シミュラークルとシミュレーション』〔竹原あき子訳、法政大学出版局〕など)。
  メディアと文化の問題として、本書で考察したアンリ・ルフェーヴル、マーシャル・マクルーハン、テオドール・アドルノなどの議論はこれからの研究で展開させていこうと考えているが、現在はマクルーハンの議論をよく読み直しながら、メディアの形式と音楽や文学などの表現について考えている。マクルーハンは、本書で取り上げたジョディー・バーランドやゲイリー・ゲノスコも言及している(ゲノスコは彼の著作のなかでマクルーハンとともにボードリヤールも取り上げている)。バーランドらはトロントを中心とした新しいコミュニケーション学派とでもいえる研究者だが、彼/彼女らは、カルチュラル・スタディーズや現代思想にも造詣が深く、同時代性を感じる。ちなみに、バーランドとゲノスコは、2004年にトロントでおこなわれたPROBING MCLUHAN: UNDERSTANDING MEDIA CULTURE というイベントでもともに講演している。
  本書はバーランドらの議論を手がかりにして、社会空間と「ユーザー」という観点から音楽やメディア文化の諸問題について論じた。事例の調査は主にミニコミやインターネット上に現れたオーディエンス(ユーザー)の声、主催者へのインタビューを中心におこなった。調査を進めていくうちに、音楽は喜びや悲しみなどさまざまな感情を表現し、心を癒すメディアであり、また人々を結び付ける力があることを実感した。
  音楽にかぎらず、ポピュラーな文化としてあるものは、それを「使用」することによる意味の生産という観点からも考えることができる。本書で取り上げた「つづら折りの宴」のようなイベントは、ポピュラー音楽を「使用」することで人々が協働して作り上げた文化の空間である。このような活動は、「ユーザー」という自律した存在をクローズアップするのだ。
  本書で取り扱った社会空間とメディアや音楽に関する諸問題は、これからも研究で引き続き考えたいテーマである。

「戦争の百年」に翻弄されてきた私たちの歴史を、新たな視点で見つめ直したい ――『写真・ポスターから学ぶ戦争の百年――二十世紀初頭から現在まで』を書いて

鳥飼行博

 8月はたくさんの戦争関連書が出版されますが、本書『写真・ポスターから学ぶ戦争の百年』が、その1冊として書店に並べられることはとても光栄です。青弓社から企画を依頼されたのは、もう2年以上も前になります。刊行が遅れたのは多数のポスターや写真を集めて、整理したり、それに適った説明を加えようとしたためです。さらに、多くの図版を前に取捨選択に迷い、従来専門的な学術書を書いてきたために文章表現がカタくなりすぎ、何度もご指導いただきながらリライトしました。引用や原典にもこだわり、注も煩雑になりがちだったので、これは大幅に簡略しました。編集を担当していただいた矢野未知生氏からは、読みやすくわかりやすい表現・文章に直すようコメントを受け、とてもいい経験になりました。8月の刊行に間に合わせるために、タイ出張中にメールで校正することもしました。
  リライトを進めるうちに文章が長くなり、図版が増えて、368ページと当初の予定より大幅に増えてしまい、収拾がつかなくなりました。予定量を超えているので大幅に削減しなければいけないと心配していましたが、矢野氏のご好意で、そのまま出版することができ、うれしく思っています。
  本書は長らく携わってきた平和・人権研究の一環ですが、これまで書き溜めたものに加えて、新たに調べ直しをしました。写真・ポスターを調べていくと、同じものであっても提供機関や出版物によって異なる解説を加えていて、撮影対象や作成時期などの違いもあります。たった1枚のポスターでも、その作成にまつわる資料を入手するのは大変でした。ポスター自体には、作者、発行機関、発行時期の情報は必ずしも書き込まれていないのです。写真にいたっては、撮影時期や撮影者が不明なものがほとんどです。
  けれども、諸外国の公的機関やNPOは、戦争にまつわるポスターや写真など、歴史的資料の収集・整理だけではなく、その公開・利用について積極的に取り組んでいます。日本でも次第に図書館・博物館・大学などを中心に資料収集・公開が進んでいます。本書で多数の写真・ポスターを利用できたのも、そのような機関・NPOのおかげです。お世話になった方々に改めて感謝を申し上げますとともに、これからも、情報収集に利用させていただきたく存じます。
「戦争の百年」の著作を書き進めたのは、従来の研究成果を公表するだけではなく、心のうちにあるいのちへの希求を大きな戦争の流れのなかから拾い出して、具体的に表現してみたかったからです。百年という長期間を扱うので、1つの事象を論文風に書くだけの分量はありませんし、また従来の見解を要領よくまとめた20世紀の戦争通史を目指してもこれまでに出版されたものと変わらなくなってしまいます。そこで、百年間の写真・ポスターを1冊にまとめて掲載し、新聞記事や公式報告を絡めることで、客観的に戦争の百年を理解できるのではないかと考えました。戦争通史に、戦闘経過、兵器解説、戦争経済、人々の個人史をつなぎ合わせて、「戦争の百年」に翻弄されてきた私たちの歴史を新たな視点で見つめ直すことを目指してみようと思いました。
  できあがった本が届いた2日後、2008年8月24日(日曜日)の「毎日新聞」の「今週の本棚」に「図版で解説する百年間の戦争」として本書が取り上げられ、「「戦争の世紀」といわれる20世紀から現在までの近現代史を、写真やポスター、新聞記事、公文書など225点でたどっている」と掲載されました。本書を手にした方がいらっしゃるかと思うと、うれしいと同時に、緊張しました。
  書店店頭で本書を見かけたら、お手にとってごらんいただければ幸いです。

「音楽」は音楽であってほしい――『音楽を動員せよ――統制と娯楽の十五年戦争』を書いて

戸ノ下達也

 懸案だった『音楽を動員せよ――統制と娯楽の十五年戦争』をようやく刊行できた。「あとがき」でも書いたように、これはひとえに本当にたくさんのみなさま方のご協力、ご尽力、ご指導のたまものである。改めて、お世話になったみなさまに心から感謝を申し上げたい。
  実際に「音楽」を題材とする本書を書き進めるうえで励まされたのは、「海ゆかば」をはじめとする当時の楽曲群の「音」であった。これら生き証人である当時の楽曲を聴きながら、そのメロディーやハーモニーが当時どのように鳴り響いていたのか、また今日どのように聴こえているのかを意識せずにはいられなかった。そのこだわりが、本書を仕上げる唯一の機動力だったともいえるだろう。
  本書発売後の2月16日、上野の旧東京音楽学校奏楽堂で、私の拠り所でもある洋楽文化史研究会主催で「再現演奏会1941-1945――日本音楽文化協会の時代」を開催した。本書第2章で言及した社団法人日本音楽文化協会が何らかの形で関わった楽曲を中心に、第1部は寺嶋陸也のピアノや荒川洋のフルートによる器楽曲を3曲、第2部は栗山文昭指揮、コーロ・カロスの合唱による声楽曲14曲を演出付きで再演した。そこから聴こえてくるメロディーやハーモニーは、音楽の素晴らしさと表裏一体となった怖さ、社会と音楽文化の関わりを実感させるものであった。やはり音楽は、ナマの「音」で演奏し聴いてみないと本来の姿が理解できない。「Tokyo Cantat 2004オープニングコンサート」として開催された演奏会「《菩提樹》がうたいたい」のときに痛感した当然の事実を、改めて身をもって思わずにはいられなかった。本書の刊行と「再現演奏会」は意図して同じ時期に重なったわけではなく、偶然の結果だったのだが、本書で縷々述べてきた私自身の問題意識をこのタイミングで実際の「音」から考えることができたのは、本当に幸せであった。このような取り組みは、今後もぜひ継続していきたいと思っている。
「戦争の時代」の音楽は、その生まれた時代から現在に至るまで社会の荒波に翻弄され続けている。確かにその一部は「懐メロ」としてもてはやされた時期もあったが、受け手の世代の変遷とともに忘却の彼方へと葬り去られている。本書で取り上げた時代の音楽の営みは、その生まれながらにして背負わされた「重み」ゆえに、忌まわしい記憶、悲しい青春の記憶がないまぜになって人々の心の奥底に秘められている。「戦争の時代」を記憶している先達にとってはつらく苦しい思い出であることはよく理解できる。しかし昨今の社会の有り様を考えてみると、いまこそ歴史を正視し、その重みを再確認しなければいけない時期にあることもまた事実なのではないだろうか。そのためには「音」を再演し、また資料を読み込み、オーラルヒストリーを記録し、といった客観的かつ科学的で地道な作業を続けていく以外に方策が思いつかない。
  本書は、これまで書き溜めたのものを土台に現時点での総括を、と考えてまとめてみた。それであるために、試論や今後の課題を抽出して終わってしまっている問題も多い。特に戦後への見通しはこれからじっくりと見据えていきたいと考えている。
なぜ「戦争の時代」の「音楽文化」にこだわり続けるのか、自問自答の日々である。このこだわりは、私の意識のなかに通奏低音として響いている、イデオロギーや民族を克服してはじめて見えてくる人類究極の理想であるはずの「恒久平和」への祈りや願いを、自分なりに解決していきたいという想いを抱いているからなのかもしれない。本書で発信した課題を引き続き深化させていくことができれば……。まだまだたくさんの空白や課題が残されたままである。でも何より、いつも音楽は人々の慰安であり娯楽であってほしいと切に願うものである。

すべての人が表現者となったあとの絵画――『絵画の「進化論」――写真の登場と絵画の変容』を書いて

小田茂一

  19世紀前半に発明された写真術という新しい技による視覚表現は、「ゆらぐ」ものへの関心を引き起こし、まずモネの絵画に取り入れられました。そして、写真から映像へと複製技術による視覚メディアが「進化」していくなかで、絵画の表現もまた変容していくことになったのです。本書『絵画の「進化論」』では、この流れをたどったのですが、写真や映像の絵画への影響や融合によってもたらされるさまざまな表現には、いまの世の中でも大変関心が集まっているように感じます。この本を刊行する前後の2008年2月から3月にかけても、液晶画面上に絵画的表現をおこなう「液晶絵画」展(三重県立美術館)や、昭和初期に活躍した大阪の写真倶楽部の前衛的写真や写真をベースとした現代の作品を紹介した展覧会「絵画の写真×写真の絵画」(大阪市立近代美術館〔仮称〕心斎橋展示室)などが開かれています。複製技術の進展、さらにデジタル化は、手作業をよりどころとしてきた「絵画」というジャンルの表現手段にも変化を促し、作品は多様な方法によって表出されるものとなっているのです。
  ところで、多くの人が自身の体験として複製技術を利用する表現者となり始めたのはいつのころからでしょうか。筆者は、それは1950年代末から60年代にかけてのことではなかったかと考えています。デジタルカメラが普及し、写真と私たちとの関わり方が急激に変貌した近年の状況と同様に、アナログの世界で誰もが視覚メディアを使いこなすことはそのころに可能になったのです。筆者は自らの体験として、この最初の大衆化に遭遇しました。筆者の小学生時代の途中あたりから、カメラで写すことは急速にポピュラーなものになったのです。それ以前は、お金のかかる大人の趣味あるいは職業であったことが、子どもの領分にまで広がったのです。
  こうしたことから、現在のメディア受容者の多くは、自分でカメラを操ることが大衆化されて以降に成長してきた人々といえるのです。19世紀半ば以来、受容者としてだけ接するものだった視覚メディアは、その時期を境として、子どもの趣味のレベルから自らが発信できるものになったのです。そして草野球の腕前と同じようなものとして私たちに身についていったといえるでしょう。またそのころは、テレビの普及とも重なる本格的な映像化へのスタートの時期でもあったのです。このことも当然のことながら、絵画制作や絵画の見方に大きな影響をもたらさないはずがありません。また、表現者としての手法も描くことより、まず写し撮ることが一層身近なものになっていったのです。
  いわゆる団塊の世代は、スナップ写真を撮ることの大衆化の担い手となったのですが、その経緯に簡単にふれてみます。国内メーカーによるきわめて廉価なカメラが相次いで登場したことでこのことは引き起こされたのですが、わが国の子どもたちは、当然その中心となって恩恵を受けたといえます。具体的には、1957年に発売されたブローニ判の「フジペット」に始まって、59年になると、筆者自身もこれで写真撮影に興じた「ペット35」(富士フイルム)という安いながらも大変よくできたカメラ、そして35ミリフィルムをハーフサイズにして使った「オリンパスペン」という累計、1700万台を超えるシリーズなど、コンパクトカメラの一大ブームへと拡大していったのです。そこには、自動調整(Electric Eye)機能もついて、文字どおり誰にでも写せるものになっていきました。
  こうして画像を作り出すことまでが日常に入り込んできたのですが、そのことはまた、描くことが変質していくプロセスだったとみることもできるかもしれません。本書で言及しているように、表現すべき「視覚的現実の大部分が自然そのものであったモネの時代」から、「印刷物などが身のまわりに溢れる視覚メディア万能のゲルハルト・リヒターの時代」への移り変わりをもたらしたといえるでしょう。その結果、私たち現代人は、切り取られた画像や映像のなかの現実にこそ、「絵画」表現への新たなモチベーションを見出すことを迫られるようになったのです。そのことをさらに推し進めるインターネット時代のインタラクティブな環境のなかで、私たちの想像力は、新たな表現としてこれから何を生み出していけるのでしょうか。

沢田研二のココロザシ――『沢田研二という生き方』を書いて

佐藤明子

  昨2007年9月に京都会館でおこなわれた沢田研二のライブの模様を「まえがき」に書いた。
  今年60歳になる身体でステージを隅から隅まで走り回って歌い続けた終盤、彼が突然、思いっ切り「疲れたねー」と口にしたことに私は少し驚き、珍しいと感じたのだ。「ジュリー、それは言わないでよ、と思った」というファンの声もあったと知ったが、私はそれを「ジュリーは観客にブルースを伝えているのでは」と解釈した。
  大げさだろうか? 大げさだな、たぶん。だけどそれは、ライブ(人生)のなかで弱音を吐くことがあってもいいではないかというメッセージととれなくもない。
  もともと弱音ばかり吐いている人間があのような大スターにはなれないだろう、という前提がそこにはあるのだが、たとえばテレビでひきこもりの青年をさらしもののように引っ張り出してきて、よってたかって「いい仕事を見つけて今度こそ頑張れ」と一方向ばかりに励ます大人たちを見るにつけ、何か違うメッセージはないものかと思っていたものだから、沢田研二というスターのなかにそうしたココロザシを見つけたかったのかもしれない。
  彼は、ご存じのように、魅惑的な声はもとより女性的な化粧や衣装、きゃしゃな肉体、そして派手なパフォーマンスで芸能界のトップに立った人だ。それが近年は、きらびやかな衣装こそ変わらないものの、その下の肉体は「ただのオッサン」に様変わりしてしまった。それも、ダイエットを繰り返したあげく「力およばず、これまで!」となった結果だと聞いてはいるが、いまの彼は「これもありだよ」と言っているようにも見えるのだ(そのうえで無理のない努力は続けているだろうけど)。
同じように、彼はファンの心ない振る舞いに対して見過ごすことができずに指摘したり、「そんなこと言わなくても」ということまで口にする人だと聞いている。そうしたコミットを懲りずに繰り返すということは、相手に何かを期待するあまり、とは違う。本当はとことん覚めたところがベースにありながらも、「もうあきらめた」とは言わない彼のココロザシなのだ、きっと。

  最初のほうに入りづらいところがあるが、そこさえ抜ければあっけないほど読みやすい本になったと思う。人々がジュリーにさまざまな彩りをつけてきたように、それこそ解釈はいろいろであっていい、ジュリーファン以外にもぜひ手に取って楽しんでほしい。

「イケてないファンによるイケてないオッカケ録」か?!――『OSKを見にいけ!』を書いて

青木るえか

 アマゾンのカスタマーレビューで『OSKを見にいけ!』酷評されてます。☆1つです。ほぼ最低の評価です。「こんなもので本気で金を取ろうという、読者を舐めたような態度に心底がっかりさせられた。出版社も作者も猛省してもらいたい」そうだ。青弓社がどう考えているかはわからないが、私に関しては、確かに反省すべき点はある。
  このレビュワーさんは、この本が「ネットの日記をそのまま本にした」ことをたいへんに怒っていらっしゃる。確かに。そのお気持ちはとてもよくわかる。なんかズルされたような気がしますもんね。
  しかし、ネットの日記を本にした気持ちもわかってほしいなあと思う。何も労力を惜しんだわけではなく(いや、その気持ちがまったく一片もないといえばウソになりますが)ネットの文章を、どうしても紙に印刷された、本になったものを読みたかった。いや、それだって、自分でプリントアウトして綴じりゃいいだろうと言われそうだが、私は不器用で、プリンターに紙をまっすぐ入れたつもりでもナナメになってて印刷もナナメ、紙を折って綴じるのも丁寧にやったつもりなのに端が揃わなくてギザギザになったりして、うまく本の体裁にできないと思う。ちゃんとオフセットで印刷してあってちゃんと製本してある本になってほしかったのだ。なら、同人誌印刷専門の印刷屋で、タイトル箔押しでもなんでもしてつくれや、って話か。
  私は、他人が何かに熱中していることについて書いた本が好きで、各種マニア雑誌なんかは、その対象物については読んでいてもさっぱりわからないが、人が入れ込んだときの行動(それも、他人から見て“ヘンな”行動)をとってしまう気持ちはよくわかるので、とても楽しい。
  私は、人にモノを勧めるのがとても苦手なので、OSKを勧めるのも、正攻法でやるとぜったいにうまくいかないのはわかりきっている。好きなものをホメるのがうまくないのだ。ちゃかすのは好きなんだが。しかし、好きな人をちゃかして、その好きな人を怒らせてしまったことはなんべんもあってトラウマになってるので(それでもやめられないのだが)ここは避けたほうがいいだろう。ならば自分がOSKを好きで好きで入れ込むあまり、ヘンな行動をしちゃってる、というのをお出しするのがよかろう、となると、当時書いてた日記がいちばん、熱気むんむんでよかったのだ。しかし、これじゃあ読む人はワケわからんよな、と思ってそれなりに注釈もつけたりしたけれど、注釈読んだってワケわかりませんね、これ。お読みになった人はいったいどういう感想をお抱きになったのだろうか。ものすごく気になる。あ、だからその感想が☆1つか……。

 本になったものを読み返してみて、ああ、これも書けばよかった、あれも書けばよかった、と思うところはあんまりない。
  固有名詞の説明とか、ほとんどなってない。自分で読んだってワケわからんことを書いてると思う。でもこれ、誰もがわかるように書くとなったら、この10倍ぐらいの文章量が必要で、そんなものを読んでいるヒマは(私以外の人は)ないだろう。だとしたら、なんだかワケはわからないが、何かに熱中して前のめりになってる人間の生態を面白がってくれたらいい、かと思うのだ。あとこれは私の夫が言ったことなんだけど、この本は「イケてないファンによるイケてないオッカケ録」であり、そういう「人類の進歩になんら寄与しない」レポートなんてなかなか本になって売り出されない、まあ、一種の病態記録みたいなものであろう、けっこう貴重である、と。なるほど確かにそうだ。でも内容の「深刻さがまったくない」この感じは、やはり☆1つってことになるだろうか。☆1つがよほどこたえているらしい。
  悔いが残るとすると、なかに入れた写真だ。もっといっぱい入れたかった。それも大貴さんの写真を。「いま、あなたが興味のあることは何ですか?」と問われると私はしばし考えて、いちおう見栄みたいなものもあるしそれっぽいことを答えようとするのだが、ムリヤリ考えたって何も出てこず、結局は「……大貴誠です」としか言えない。大ちゃんは去年2007年の4月の松竹座で退団しちゃったが、後ろ向き、という意味ではなくて退団して1年たったいまでも「大貴さんのことしか考えられん」状況で、毎日大貴さんのことばっかり考えている。本のなかの文章は、意識的に大貴さんに関する文章を少なめにしたんだけど(文章がアツすぎて読む人に胸焼けを起こさせてはまずいと思った)、文章に合わせて写真を選んだので大貴さんの写真も少なめになってしまった。
  べつに内容と関係なくていいから、大ちゃんの写真を大量に載せればよかった。そうすれば、もっとこの本の、ワケのわからなさが増しただろう。でもそんなことしてたら、☆1つどころかマイナスにされたかもしれない。相当、☆の件では恨みに思ってるんだな、こいつは。