突撃隊の消息について――『村上春樹と物語の条件――『ノルウェイの森』から『ねじまき鳥クロニクル』へ』を書いて

鈴木智之

 三人称を基調として書き進められるようになった最近の長篇(例えば『1Q84』)では少し様子が違うのかもしれないが、もっぱら一人称の視点から語られていた頃の村上春樹作品では、語り手であり主人公である人物――「僕」――が、少なくとも見かけ上は特に傑出するところのない「普通」の人として設定されることが多かった。それは、作家が主人公に等身大の自分自身を重ね合わせながら物語世界を造形していたということでもあるだろうし、またそれゆえに、読者の感情移入をしやすくする仕掛けになっていたとも思う。これに対して、主人公の周辺には、あまり「普通」とは言い難い個性あふれる脇役たちが、作品を経るごとに数多く配置されるようになる(その傾向は『羊をめぐる冒険』にはじまり、『ねじまき鳥クロニクル』で最も顕著になる)。おそらく、取り立てて突出するところのない人物を中心に長い物語を書き進めるために、そういう装置が必要になっていったのだろう。
  では、物語世界のなかで脇役たちは何をしているのか。それは読解を進めるうえで1つの焦点となる。もちろん、彼らは主人公が生きていく世界に現れる「他者」であり、物語の共演者である。現実の世界と同じように、人は他者との関わりのなかで何かを求め、何かを妨げられ、そうして何者かになっていく。「僕」の生きる世界に内在し、これを構成する要素としての他者。そういうものとして脇役たちの役割を考えなければならない。しかしそれだけではなく、村上春樹の作品ではしばしば、際立った個性を備えた人物たちが、主人公の抱えている問題――したがってまた作品全体の主題――を極端な形で体現し、論理的に純化された形で提示している。そのことを強く意識するようになったのは、『ノルウェイの森』についての論考(本書の第一部)を書いているときだった。「永沢」や「ハツミさん」や「レイコさん」が直面している問題を考えていくことが、そのままこの作品全体を動かしている「問い」の摘出につながる。同じことは、『ねじまき鳥クロニクル』についてもいえる。「加納クレタ」や「赤坂ナツメグ」のエピソードこそが、作品の構造を明らかにする鍵になっているのだ。このとき、脇役たちは、物語が物語に対してほどこす「解説」の役割を果たしているように見える。テクストによる作品への「注釈」とでもいえばいいだろうか。
  ともあれ、一見したところ物語の本筋にどう関わっているのかわからないような周辺のエピソードをクローズアップして、脇役たちを作品理解の導き手に抜擢する。それが、本書で採用した1つの方法論上の選択である。そして、その作戦は割合にうまく機能したのではないかと、ひそかに自画自賛している。少なくとも、多彩な脇役たちに大切な場所を割り当てることができた、と思う。
  だからこそ、この本のなかでまともに語ることのできなかった周辺的な人物のことが気がかりである。その1人は、『ノルウェイの森』の「突撃隊」。もう1人は、『ねじまき鳥クロニクル』の「牛河」である。どちらも、そのほかの登場人物たちとは明らかに違う雰囲気をもち、その「育ち」からして異質なものを感じさせる。いわば彼らは、「僕」の世界に間違って入り込んでしまった「闖入者」である。だから、こういう人たちの登場にこそ、物語の現実感覚が凝縮されているに違いない。そういう思いが、読んでいるときにも、書いているときにも色濃くあった。にもかかわらず、何も書けなかった。そこに、書き落としたものがあるような気がしている。
「綿谷ノボル」の秘書として「僕」の前に現れた「牛河」は、『1Q84』で相変わらずのいやらしい押しの強さを見せて再登場している。「牛河」は健在だ。いずれは、彼を真ん中に据えて、作品横断的な論考を書くことができるかもしれない。だが、「突撃隊」はどうしているのだろう。『ノルウェイの森』で、「僕」が暮らしている寮の同室者であった彼は、「国土地理院」に入って「地図を作る」ことを目標に「国立大学で地理学を専攻していた」。毎朝、1つの手順も省略せずラジオ体操を繰り返していた「突撃隊」。「直子」が京都の療養所へと移ってしまったあと、孤独を抱える「僕」に「蛍」をくれた「突撃隊」。しかし彼は、夏休みが明けて大学が再開されても、山梨の実家から戻ってこなかった。どんな事情があったのか、説明は一切なし。突然の退場。その後、消息は途絶えている。
「突撃隊」的なるものには居場所がない世界。「僕」や「緑」が生きていかなければならないのは、そういう世界なのだと了解してしまうことはできる。しかしそれはどこか寂しく、空恐ろしい。「突撃隊」はいまどこで何をして生きているのか。いまの僕には、それが気になってならない。

レッスンとしての写真――『現代アメリカ写真を読む――デモクラシーの眺望』を書いて

日高 優

 写真の寡黙さの豊かさや深さを、どのようにしたら掬い取ることができるだろう――私が本書を通じてただひたすらに追求しようとしたのは、そうしたことでした。「写真に潜勢するものに応答しなくては」という想いが写真の研究を始めた当初からいまなお私を突き動かしていて、ほとんどそれだけが写真を研究し続けていることの動機だといっても過言ではないぐらいなのです。そして、なかには奇妙と思われる方もいるかもしれませんが、私は写真を研究してはいても写真マニアではなくて(幸か不幸か、ちっとも!)、写真的経験を生きる現代のひとりの凡庸な人間だからこそ、ジャーゴンや学問のトレンドに過度に囚われることなく、それ自体は言葉を持たない寡黙な写真の、しかし私たちの生に穴を穿つほどの力を掴まえることの方へと赴くことができたのかもしれない、などと考えるのです。どうやら私のスタンスは、「社会的風景」展のネイサン・ライアンズの思考、そしてもちろん、彼が参照点としたジョージ・ケペシュの思考と共鳴しているようです。ともあれ、すでに世に船出した一冊の書物にとって、作者や作者の個人的な感慨など、どうでもいいことではないでしょうか。そんなことよりも大切なのは、どんなに拙い言葉たちではあっても、本書のなかの言葉たちが、読者のみなさんの写真的経験、生の経験と結ばれ、生きられるということなのですから。
  本書の終章にも記したように、〈デモクラシーとしての写真〉とは、究極的には、「私たちが自らの感度を上げて写真になる」という企図のことを意味しています。つまり、「写真が世界の潜像を結ぶ場所であるようにわれわれは自らを世界の可能態へと向かう地点とし、自らを潜勢する関係性に普段に開き続ける主体性生の運動の場として生きる」。そして、〈デモクラシーとしての写真〉を生きるということは、混迷状態と見える現代の社会を生きるための、ひとつの不可欠なレッスンになるのではないでしょうか。それは、世界に潜在する他なるものへの感度を上げて、この世界のただなかで生きるというレッスンです。本書は、社会から逃走するのではなく、社会のただなかにいて諸力に拘束されたり痛みを感じたりしながら生きる凡庸な私たちの、パフォーマティヴな〈倫理的主体の生成〉というモメントを探索しています(写真ではこれまでほとんど探索されてこなかったけれども、しかし、私たちがこの世界に希望を持つことがゆるされるのだとすれば、決定的に重要なモメントになるのではないでしょうか)。要するに、写真になる、写真を生きるとは、そうした主体になるためのレッスンなのです。
  本書とともにアメリカの歴史を駆け足で紐解くだけでも、私たちは自己の過剰なる重力圏を解除して、他なるもの、他者を見出すのにどれだけの時間を要してきたかが痛感され、思わず愕然とすることでしょう。そして本書が明らかにするのは、写真が潜在する他者や他者との関係性を可視化しそれらに視線の権利を与えてきた、ということです。さらに、写真は一見寡黙ながらも/寡黙だからこそ、私たちの社会をいまなお浮き足立たせている「世界の中心で愛を叫ぶ」的美学(「エコ」や「コミュニケーション」の「優しい関係」を言祝ぐ美学)に穴を穿ち、その抑圧下に潜勢するものを解き放つ可能性を帯びているのです。
  写真関係の多くの書物のなかでも、本書はとにもかくにもユニークな位置を占めているかもしれません。写真の経験を掬うというスタンスを追求した結果がこの書物です。しかし、写真自体を把捉しようと写真に向かっていく研究、写真に潜勢する力を見出そうとする研究は、残念ながらむしろ意外にも少数派です。ましてや、本書はデモクラシーというもうひとつの系を引くわけですから……。とはいえ、別段、本書は奇をてらったものではありません。本書をお読みいただければ、「写真とデモクラシー」とは、なぜかこれまで書かれてこなかったことが不思議なぐらいの、書かれるべくして書かれたテーマであると感じ取っていただけるのではないでしょうか。

 本書を辿る読者のみなさんの眼差しのうちに、デモクラシーが発火しますように。

スポーツした文学研究者たち――『スポーツする文学』を出版して

疋田雅昭

 言うまでもなく、昨2008年はオリンピックイヤーであった。本来ならば、そのタイミングを狙っていた本書の刊行だったが、諸般の事情でやっと先月刊行に至ることができた。しかし、当然のことながら、われわれが議論の前提としているスポーツをめぐる諸事情が、この1年で変わってしまったなどということはありえない。
  スポーツで起こるプレーの興奮や感動とは、それまでにあったチームや選手たちの「物語」や「意味」の共有を前提にしていることが多い。そうでなければ、同じスポーツには同じプレーが起こる確率は決して低くはないわけだから、過去に起こった同様なプレーとの差異を決定する具体的な要因などあるわけはない。だから、このこと自体は意識するにせよしないにせよ、むしろ常識なのだ。しかしながら、これまでのスポーツ研究は、スポーツが持つこうした「物語」や「意味」の存在をあまりに軽視してこなかっただろうか。または、個別の「物語」や「意味」にこだわりすぎて、それを抽象化するアプローチを忘れてはいないだろうか。
  われわれ「文学」を専門とする人間が、多くは社会学や歴史学的範疇で語られてきたこの言説群に参入しようと思った理由もまさにここにある。「……史」を構築しようとするのならば、具体的な物語に拘泥するような語り方も重要だろう。また、社会学的に考えるのならば、それぞれの時代とスポーツの関係を数値など様々なデータを基に構築していく語り方が必要になるのかもしれない。
  だが、われわれは、スポーツが起こす感動を支える「意味」や「物語」に徹底的にこだわる。それも、それらを支えるメカニズムを眼差す言葉を会得したいと思うのだ。それは、やや大風呂敷を広げれば、社会学や歴史学との「対話」の申し込みでもある。これをスポーツになぞらえて「試合」と言いたいところだが、もちろんこの「対話」に勝ち負けがあるわけではない。そう考えてみれば、われわれが扱うスポーツにも必ず勝ち負けがあるわけではないことに思い至る。あるときは自己探求のため、あるときはストレス解消や健康維持のため、またあるときは無目的にスポーツを楽しもうとすることさえある。
  もちろん、スポーツ研究をめぐる言説のレベル向上のために他流「試合」をしなくてはならないこともあるだろうし、より一層の技術向上のために「練習」を続けていくことも怠ってはならない。だから、われわれ執筆者一同としては、そういった「試合」を楽しみにもしている。ぜひ、お申し込みいただきたい次第である。
  しかし、同時にわれわれは「スポーツ」をしたかったわけでもある。スポーツの目的は様々である。だから、われわれはチームでもあるが、一方でそのチームの選手のスタンスは多種多様でもある。様々な目的を包摂したスポーツ……。その成果がこの書籍である。およそ3年間の合同トレーニング(なかには合宿まで含まれている!)によって、飛躍的に技術が向上した者もいれば、まだまだ向上の余地が望まれる者もいるかもしれない。そして、われわれのスポーツにも、今後様々な「意味」や「物語」が付与されていくだろう。そういった意味でも、われわれは「スポーツ」を「文学」したのである。

出版の動機と経過、そして反応――『美空ひばりという生き方』を書いて

想田 正

 中学生時代、隣のガキンコが「リンゴ追分」をいつも歌っていた。音楽といえば、家ではいつも、父が持っていたセミクラシックのレコードをかけていたから、これが歌謡曲に親しんだきっかけだった。当時の娯楽はラジオと映画ぐらいだったから、つけっぱなしのラジオから流れる歌謡曲に日々親しむことになった。
  筆者が入学した法政大学日本文学科では、アカデミックな官学に対抗し、対象を客体化して歴史的・社会的に研究する科学的方法を標榜しており、私たちはその薫陶を受けた。
  そのうち、全盛期を過ぎてきた歌謡曲がもつ大衆的意義を学術的に解明する試みが少ないことに思い至った。
  そうしたなか1996年に、竹島嗣学氏が設立した広域市民塾《美空ひばり学会》の存在を知る。この人は元新聞記者で、洒脱あふれる文章をものするだけではなく、弁舌・歌・楽器などどの分野も堂に入った器用人。拙著のカバー・扉にも、氏のイラストを使わせていただいた。
  この学会の目的は、「わが国を代表する天才歌手・美空ひばりの足跡を通して、その時代・文化・風俗・生活を幅広く研鑽する」とある。これは、歌謡曲を「学」として扱うべきと常々考えていた筆者にとってまことに共鳴するものだった。2001年の元旦に掲載された「朝日新聞」の紹介記事を見て直ちに入会。以降、学会ニュースに、歌謡曲を軸とした大衆芸能について、かつて学んだ方法に基づきながら思考した論考を持続的に掲載させていただいた。
  こうして蓄積されてきたものを、2008年に『美空ひばり歌謡研究』2分冊にまとめ、私家版として上梓。その後周囲の勧めによって、出版社に検討を打診し、サブカルチャー分野で定評のある青弓社の応諾を得て出版に至った次第である。
 
  本書に盛り込んだ筆者の意図は「ひばり歌謡学・序説」に尽くされているので、以下これを引く。
「国民歌謡の不在、歌謡曲の喪失が慨嘆されて久しい。それは昭和の終焉とほぼ軌を一にしていて、昨今昭和が見直されてきているものの、歌謡曲の喪失は、外来音楽の攻勢によってその存在が揺らいだことに起因しているだろう。
  結果、歌謡曲は「演歌」という限定された枠に押し込められることになるが、そのことは享受層を中・高年に限定することを伴っていた。とはいっても、若者たちがいつまでもポップスなどの分野に専心し続けるわけでもなく、行き場を失った彼らは、「フォーク=ニューミュージック」という新たなジャンルに求めていった。しかしこの世界は、折からの閉塞状況と相まって、ひたすら内部への沈潜・鬱屈の吐露となり、こうして世情と同様、歌の世界でも世代間の分裂は決定的になっていったのである。
  いま六十代以前の世代が往年の歌謡曲を口ずさむのは、単に懐旧の情だけではない。そこには生活・人生と一体となった「歌」があるからである。ニューミュージックや演歌にそうした役割は求め難い。われわれが「歌謡曲」の復権を願望するのは、こうしたかつて国民の実体と同化していて、昭和とともに喪失したまさに「国民歌謡」を欲するからにほかならない。
  しかしそれにしても、歌謡曲の黄金期を築いた歌手たちはたちどころに何人も挙げられるのに、なぜいま〈ひばり〉なのか。彼女がそれら群雄スターらのなかにあって、ひときわ輝く存在であり続けた要因は何だったのか。これを解明することは、スターとは何か、ヒットとは何か、はたまた彼女を支持し続けた大衆とは何かを問うのと同時に、昭和とはどのような時代であったかを照らし出すことにほかならない。そしてこれを解明することは、われらが切望する新たな「国民歌謡」を生み出すだろうと信じる」

 さて、本書を出版したことを周囲に紹介すると、共通の対応を受けることに気が付いた。それは、ほとんどの人が、まず小生の堅いイメージと作物にそぐわないとばかり爆笑することである。そして、「美空ひばりってお好きだったんですか?」と聞くのである。
  このような反応は、2つのことを示していると思う。第一に、世にいう学者先生は大衆歌謡などを扱うはずがない、と思われていること。第二に、対象が「好き」であることが前提だと思い込まれていること。小生がいっぱしの学者に見られているらしいことは汗顔の至りだが、それはともかく、インテリが大衆芸能を扱うことの戸惑いは、本書の「まえがき」で触れたように、竹中労が受けた半世紀前の経験と現状はなにほども変わっていないことを示すものだろう。
  そして、学問研究は対象にのめり込むのでなく突き放し客体視することから始まる、ということが、どうも一般に定着していないようなのである。そのことは巷に繁盛している「カルチャーセンター」の在り方を見れば容易に頷けることである。

 以上のことは、小著を刊行して痛感させられた思わぬ副産物だった。

ライトノベルという問題――『ライトノベル研究序説』を書いて

久米依子

 3年にわたるライトノベル研究会の成果として、一柳廣孝氏と共編著で本書を刊行することができた。ここ数年注目を集めているライトノベルとその周辺現象に、主として文学研究の立場から切り込んだ試みである。若い書き手が多いこともあって、それぞれが自分自身とライトノベルとの距離感を測りながら考察を進めるような、熱気を帯びた論集となった。
  研究会自体も、ライトノベルを「研究」する視座を開きたいという学生たちの願いから始まっている。当初は少人数で開始したが、いつの間にかさまざまな大学の友人・知人が集い、20人以上の会となった。脱会(?)するメンバーがほとんどいなかったのも特色である。サブカルチャーについて少し知的に語り合いたいという欲求は、若い世代に共通してあるらしい。
  3年間、研究の基盤を整えるために種々のアプローチを重ねたが、その間懸念していたのは、急速に発展したライトノベルの勢いが鈍り読むべき作品も減って、研究の意義が失われるのではないかということだった。しかし、どうやらそれは杞憂に終わった。現在のところライトノベル作家には新しい才能が次々と参入し、アニメ、マンガ、ゲームとのメディアミックス展開も活発で、書店のライトノベルの棚は明らかに拡張している。各国語に翻訳される例も出始めた。かつてマンガやアニメが戦後文化として認められていった道筋を、ライトノベルもたどる……かもしれない。そうなれば〈動物化〉した世代の〈データベース消費〉小説、といったこれまでの単純な裁断だけでは論じにくくなるだろう。本書はそのような動向への期待と、しかしこの現象がいったいどこに行き着くのか、という危惧と不安(!)も込めた1冊になっている。読者の方々にも、現在の「ライトノベルという問題」をともに考えていただければと願っている。
  本のなかで明言はしなかったが、こうした青少年向けサブカルチャー研究の可能性が広がったのは、やはりカルチュラル・スタディーズのおかげである。旧来のアカデミズムでは扱いにくかった大衆的な言説文化研究の方向を、カルチュラル・スタディーズから見出すことができた。娯楽的な文化が爛熟している日本社会では、ますます応用されるべき理論・方法だと思う。本書も題材はライトノベルながら、分析姿勢はハード&ヘビーを目指したつもりである。
  研究会の活動は出版によって一区切りついたが、今後はライトノベルだけでなく、現代の多様な文化にまで対象を広げて分析しようと話し合っている。ライトノベル現象そのものも調査を重ねなければならないし、メディアミックスが常態であるジャンルの特質を考えるためには、ミックスされる他ジャンルへの探究が欠かせない。
  再び研究会の成果を問う日がくるかどうかは未知数だが、今回の1冊を大切な指標として、若い会員の意欲的な取り組みが新たな研究シーンを開くことを待望している。
  さて、本書のカバーは印象的なイラストで飾られているが、これも本書に執筆した研究会の女性メンバーの労作である。カバーについては青弓社の矢野未知生さんにリードしてもらいながら、細部まで執筆者たちで話し合い、意匠を凝らした。書店で見かけたらぜひお手に取って、袖のイラストまでお目通しいただきたい。そこに描かれている矢野さんのイラストを見たうえで、「矢野さんはもっともっとハンサムではないか?」といった愛あるご批評などは、絶賛受け付け中です。

ダーウィン生誕100周年の頃の日本――『天皇制と進化論』を書いて

右田裕規

 今年はチャールズ・ダーウィンの生誕200周年にあたるという。彼の故郷イギリスの事情はわからないが、日本のメディアはダーウィンの特集をぼちぼち組み始めている。誕生月(11月)が近づくにしたがって、その企画や特集の数はさらに多くなるだろう。このたび青弓社から刊行した『天皇制と進化論』も、そういう流れに便乗できればと願っている。
 それはともかく、今年が生誕200年ということは、1世紀前が生誕100周年である。和暦でいうと明治42年(1909年)になる。この1909年頃から、日本でのダーウィン人気は相当な高まりを見せた。マスコミがダーウィンの特集を組んだり、学界が記念行事を開いたり、ビーグル号と日本との関係にまつわる噂話で盛り上がったりと、やはりさまざまな企画で祝っている。昔も今も人間が考えることは変わらないと、そのようにもいえるだろうか。
  とはいえ、100年という時間は長い。1909年の日本人が、ダーウィンやダーウィン進化論をどう受け止めたかは、当然ながら、2009年の日本人とは多少違っている。最大の違いは、進化論が「皇国史観」に反する「危険思想」として社会的に見なされていたという点である。天皇家や民族のルーツを神話の神々に求める「日本固有」の人類観を、真っ向から否定する科学理論。ダーウィン進化論は、そういう意味合いのもと、近代の日本社会に普及していった。
  とくに1900年代(明治40年代)は、皇国史観と進化論の対立にまつわる「事件」があれこれと起こり始めた時期である。皇国史観の信奉者が進化論批判をさかんに繰り出し、進化論の参考書が発禁処分をくらい、左翼運動家たちが(進化論から見た)天皇家の「真のルーツ」を暴露する内容のビラをばらまく、というようなことが、この頃から次々と起こり始めていた。そのなかでどうして1909年(明治42年)のマスコミや学界はダーウィンの生誕100周年を盛大に祝うことができたのか、不思議に思われるくらいである。
 『天皇制と進化論』では、それらの話も含めながら、皇国史観と進化論の対立の歴史を、当時の支配層の目線から追った。彼らは、進化論と皇国史観の対立という問題をどのようにとらえ、どのように処理していったのか。この点を歴史的に追跡した中身になっている。端的にいうと、それは混乱の歴史である。生誕100周年と200周年の間の日本では、皇国史観とダーウィン進化論の対立をめぐって、実にさまざまな政治的ハプニングが生じていく。たとえば「現人神」がアマチュア生物学者としての道を進み、しかもそのことが社会的にも周知の事実になっているという、昭和初期に起こった不可解な事態もまた、その一つである。そういうハプニングの記録を集めた本として、ご一読いただければと思う。

思索し続けるということ――『SF映画とヒューマニティ――サイボーグの腑』を書いて

浅見克彦

  書き物にタイトルをつけようとして、あーでもないこーでもないといろいろ考えていると、しばしば出口のない袋小路に入り込んでしまう。だが、今回の「サイボーグの腑」という副題は、構想の「詰め将棋」に疲れてベッドに体を横たえたときに、何げなく湧き出てきた。恐らくは、デヴィッド・クローネンバーグの世界に接しながら思考を紡ぎ出そうとしていたことが影響したのだろう。とはいえ、このタイトルに魅力を覚えたのは、それがサイボーグ表象に頻出する「ヒューマニティ」の色合いを、微妙に表していたからだ。サイボーグ表象に織り込まれた人間性は、メタリックでエレクトロニックなその身体に「腑」がおさまっているような矛盾を抱えていると同時に、その奥底には私たちが嫌悪する内臓と同じように、「ヒューマニティ」を否定する内実が潜んでもいる。しかも「腑」は、どれほど徹底して否定しようとしても、人間が捨てさることができない存在の基本でもある。
 つまり、この少々異様な副題が意味するところは、サイボーグ表象を通じて人間の現在を考えるということにほかならない。サイボーグ表象には現代文化を生きる人間存在の実情が投影されている、という理解が本書の骨格をなしているということだ。実を言えば、こうした理解の枠組みそのものは、決して目新しいものではない。ジェームズ・G・バラードはフランス語版『クラッシュ』に寄せた序文で、SFが描き出す世界には現代人の心の状態が映し出されていると書いていたし、室井尚の『情報宇宙論』(岩波書店)にも同様の主旨の分析を見ることができる。そして、押井守が『イノセンス 創作ノート』(徳間書店スタジオジブリ事業本部)で提出している「人間はなぜ人形に惹かれるのか」「人間にとって他者とは何か」という問いも、同じ枠組みのなかに位置づけられるものだ。その意味では、この書物は少なくとも20年以上も前から問われ続けてきた古い問題を扱っていると言うべきだろう。ただし、そうした自己の鏡像を描き出す物語やサイボーグ存在を、人間がなぜ繰り返し生み出すのか、そしてそうした表象のディスクールが人間をどのような自己意識に導くのかという問いには、これまで十分な答えが出されてこなかった。この本は、この痒いところを掻いてみたい、という主旨の書き物だと言っていい。問題が古かろうと新鮮味がなかろうと、十分な答えが出ていなければ思考し、文字を連ねていく。書き手なる者、とりわけ理論に携わる者は、こうした課題に背を向けてはならないと思う。
  最後にもう一つ。今回は、自分のこれまでの書き物に色気がなかったことを反省し、文字どおり色彩のイメージ世界が立ち上がるような文章を目指した。とりわけ、映像作品を批評するさいにこの点に心を配ったつもりだ。首尾のほどは読者の評価を待つしかないが、文章が映像の迫力を伝えきれていない個所があることは認めなければなるまい。だが、絵と文字というのは、互いの緊張関係のなかで独特の匂いを発するということもある。書き物が映像と相似的になることではなく、映像に寄り添いながらもそれとは違う変異体を生み出すことが大事なのではないだろうか。もちろん、あえてこの緊張の強度を高めながら、映像への「不可能」な介入を仕掛けることは、書き手が諦めてはならない刺激的な冒険なのだけれども。

〈人々の暮らし〉へのこだわり――『戦時グラフ雑誌の宣伝戦――十五年戦争下の「日本」イメージ』を書いて

井上祐子

  昨今の経済状況は〈100年に1度の危機〉と言われている。前回の経済危機(世界恐慌)はちょうど80年前の1929年、アメリカの株価の大暴落に始まり、今回同様急速に世界各国に波及していった。1930年代は世界各国が恐慌から抜け出そうともがくなかでファシズム国家が台頭して国際体制を揺るがし、国際政治的にも危機に陥る時代であり、最終的には第二次世界大戦へ突入していく。日本もまた例外ではなく、その渦中にあった。本書はその時代の日本の社会、戦争、そして日本とアジアの人々の暮らしを写して海外に「日本」を伝えていたグラフ雑誌を紹介したものである。
  私は15年前に戦時下の社会について勉強したいと思って大学院に入ったが、そのときにはこのような研究をすることになろうとは予想もしていなかった。研究分野を決めかねている私に、「広告とかどう?」と勧めてくださったのは、当時の指導教授であり、以来ずっとお世話になっている恩師赤澤史朗先生である。純粋芸術よりも大衆文化的なものの方が好きな私は、「それはいいかも」と思い、飛び付いた。それから戦時下の広告やポスター、漫画などいろいろな印刷メディアを眺める日々が始まる。グラフ雑誌についても国内向けの「アサヒグラフ」「写真週報」「同盟グラフ」などには一通り目を通し、海外向けの「FRONT」を含めて、論文にも少し書いた。
  拙稿に目を留めてくださった青弓社から当初提案された企画は『「NIPPON」と「FRONT」』というタイトルで、2002年から復刻版の刊行が始まった「NIPPON」を題材にして、「FRONT」と比較考察しながらグラフ雑誌が展開した対外宣伝について論じるというものだった。「アサヒグラフ海外版」の存在を知ったのがいつだったか覚えていないが、私はそこに「アサヒグラフ海外版」も入れ、むしろ「アサヒグラフ海外版」を軸に書きたいと申し出た。青弓社編集部の矢野未知生氏には快諾をいただき、「アサヒグラフ海外版」を引き継いでアジア・太平洋戦争期に出される「太陽」、ジャワ現地で出されていた「ジャワ・バルー」、毎日新聞社が発行していた「SAKURA」も入れて、新聞社のグラフ雑誌を軸として、歴史的経緯を踏まえながら各グラフ雑誌を比較考察していくという本書のスタイルが決まった。
  新聞社、そのなかでも朝日新聞社のグラフ雑誌を軸にした理由は、論文風に硬く言えば、「FRONT」や「NIPPON」とは異なる特質をもち、〈宣伝〉と〈記録〉の間で揺れ動く新聞社のグラフ雑誌を取り上げることで戦時下のグラフ雑誌がもっていた可能性と問題性に関する考察を深めたかったからということになるだろう。しかし、これはいささか格好よすぎる答えで、ザックバランに本音を言えば、スマートでおしゃれな「FRONT」や「NIPPON」よりも、社会や生活の〈記録〉にも力を注ぎ、日本とアジアのさまざまな人々の暮らしを取り上げた泥臭い「アサヒグラフ海外版」の方が私の性に合っていたというのがいちばん大きな理由である。
  思い出話で恐縮だが、私が歴史に興味をもちはじめたのは小学校6年生のときである。当時の担任の先生は、教育熱心な青年教師だった。歴史の宿題は年表の作成だったが、その年表が普通とは少し違っていた。普通の年表のように大きな事件や政治や経済、外交上の出来事を書く欄もあったのだが、それに加えて「農民など人々の暮らし」という欄があって、その欄の方がむしろ大きかった。そこを埋めるには教科書だけでは足りず、参考書や百科事典を調べては書き込んでいた。ちなみにテストも普通のテストではなく、「~について述べよ」という記術式で、「大変よろしい」という二重丸の評価をいただくのがその頃の私の密かな喜びだった。先生は、大きな歴史の流れの背後にある一般の人々の暮らしを見つめることが大切で、両者を結びつけて理解していくことが歴史を学ぶということだと教えたかったのだろう。〈歴史〉といえば〈人々の暮らし〉と思ってしまう習い性は、このときに形成されたのだと思う。
  このようなわけで〈人々の暮らし〉がふんだんに掲載されている朝日新聞社のグラフ雑誌を見ることは、私には興味深い作業だった。しかし、その後が大変だった。内容を追いかけるばかりでは論にはならないのだが、内容に興味をそそられるあまりその紹介に傾斜して、論を組み立てることから離れていく。書いては消し、消しては考え、問題意識を確認し、軌道修正を繰り返した。
  試行錯誤のなかでようやく書き上げた拙い著作ではあるが、図版は豊富に入れることができたので、戦時下の社会を身近に感じていただけるのではないかと思っている。歴史に興味をおもちの方にはもちろん読んでみていただきたいし、「歴史はあんまり……」と思っている方にも一度当時の日本やアジアの人々の姿をのぞいてみていただけたらうれしい。本書がみなさんと戦時下のグラフ雑誌、そしてそのなかに写し出された人々とを結ぶメディア(媒介物)になれば幸いである。

「食」から広がる世界――『もんじゃの社会史――東京・月島の近・現代の変容』を書いて

武田尚子

 「もんじゃ」を切り口に、「食を考えるおもしろさ」を味わっていただきたいと思い、この本を書いた。私たちの頭のなかのグルメ・リストをチェックしてみると、なぜか地名とフードが一緒になってインプットされている場合が多いことに気がつく。月島もんじゃをはじめ、仙台の牛タン、宇都宮の餃子、尾道ラーメンなど、全国レベルで知られているもの、地方レベルで浸透しているものなどさまざまだが、たぶん誰でもすぐに2、3は名前を挙げることができるだろう。ローカルな地名がつくと特別の味わいであるように思われ、食欲をそそられる。
  このようなタイプのローカル・フードは、かつて高度成長期に生協などによって流通ルートが開かれて、地方の農産物が都市の消費者に直接届けられるようになった産直品タイプのローカル・フードとは異なる性格のものである。また、おみやげとして持ち帰る地方名産の郷土菓子とも異なるものである。グルメの時代に新たに登場してきたのは、ある程度の規模の都市で、そこの飲食店に腰をおろして味覚を楽しむローカル・フードである。供される空間やローカルな雰囲気もエンジョイする大事な要素である。だから、アクセスが不便な田舎のローカル・フードではなく、アクセスがいい土地のローカル・フードが有名になりやすい。グルメの時代に登場してきたローカル・フードは、利便性がいい都市におけるローカル・フードとしてプロデュースされたもので、外部から集客するための「媒体(メディア)」として、効果を発揮している。
  「ローカル」と「外部」を媒介しているローカル・フードは、詳しく考えてみるに値する味わい深い食品である。「月島もんじゃ」もこのようなローカル・フードの1つである。単純に昔ながらのローカル色を維持しているだけでは、メジャーにはなりにくい。適度にローカルなテイストを残しながら、外部から来た人をキャッチする何か「旨み」が必要とされる。つまり、ローカル・フードは、もともとその地域に根ざす何か由来があったわけだが、オリジナルなテイストは徐々に変化し、異なる「旨み」が加わり、メジャー化にいたるという、変化の過程があったと考えられる。この本で描きたかったのはその変化の過程であった。
  現代社会は、それぞれの人の好みに合わせた消費が楽しめる高度消費社会である。「食」に関する情報量は増え、流通ルートも多様化し、「食」の「媒介」機能は高まっている。「食」は、高度消費/レジャー社会の重要なアイテムの1つとなっていて、「食」に対する現代人の関心をじょうずに利用することが重要になっている。「食」の「媒介」機能の高まりは、情報・商品の流通、交通機関など社会的基盤の整備、ツーリズム/ビジネスによる人の移動の活発化など、マクロ社会の変化によって促進されている。私たち個々人は、このような環境のマクロ社会のなかで、「食」について恒常的に刺激されつづけている消費者であり、情報を取捨選択して、自分なりの食の楽しみの世界を創り出しているフード・ハンターでもある。「味わう」ことが、生活の楽しみを増す時代に私たちは生きている。味わうことによって、身体にエネルギーが満ち、活力が充実する。自分をとりまく社会についても関心が高まる。一石ン鳥の「食」の楽しさを堪能するメニューはいろいろある。『もんじゃの社会史』を読んだ方々の楽しみの世界がひろがるとうれしい。

ジャンケレヴィッチファン倍増のために――『哲学教師ジャンケレヴィッチ』を訳して

原 章二

  ジャンケレヴィッチのファンは欧米ばかりか日本にも結構たくさんいる。だからその著作も15冊以上邦訳されている。しかし、この希有な哲学者・音楽家・音楽学者の人となり、その哲学と音楽観の相貌を身近から全体的に語ったもの、特にフランスでジャンケレヴィッチがどのように受け取られていたかをフランス人が語ったもの、しかもできるだけ哲学用語を使わずにその本質を語ったものは、これまで日本語で読むことができなかった。
 その意味で、どうみても不肖の弟子にすぎない私にとって、この翻訳はこの歳になってでもやるしかなかった。考えてみれば、師事というと大げさで、単に修士論文と博士論文を見てもらったうちの一人にすぎないのだが、ともあれその一員となったときの先生の歳に自分が近づいている。往事茫々とはいうが、先生のことは昨日のように、その華やいだ顔、話し方、口調、そのトーンまでいきいきと蘇る。こちらがまだ20代の若造で、なんでも吸収するだけの柔軟性をもっていたから当然だが、それにしても誰にとっても、この本のなかでも語られているように、先生の存在は鮮烈なまでに印象的だ。
 そんなわけで勇んで翻訳にとりかかった。本を手にした方はおわかりだと思うが、3分の1くらいのところまでは文字どおり先生の人となりを語っているので、懐かしく思い出しながら、また私と同世代で同じゼミナールに通っていた著者の文なので訳しやすかった。その余勢をかって、ほぼ半分まではよかった。しかし、そこからが大変だった。理由は私の怠惰もあるとはいえ、もう少しまともな理由もある。
 著者が「はじめに──感謝のしるしとしての不実」で明らかにしているように、ジャンケレヴィッチの著作からの引用と、著者がとった講義のノート・メモ(これがそもそもジャンケレヴィッチの実際に述べたことなのか、先生の話を聞きながら著者が思いついたことなのかがわからない)と、そして著者の地の文とが、入り乱れて区別のしようがないのだ。
  むろん、フランス語の原文では、前二者は引用の体裁をとっていて二重鍵括弧でくくられている(ただし、フランス語の本に通例の校正ミスがよくあって括弧の具合がよくわからないところもある)。それでもフランス語としてはまあ読めるのだが、そのまま日本語に訳すと文章の続き具合がどうもうまくいかない。
 これにはほんとうに難渋し、往生した。結局、予想外の年月がかかってしまった。どのように先の難所をクリアしたかといえば、著者が「はじめに」で述べていることを訳者もある程度おこなったのだ。つまり、訳出の過程で、自分も著者と同じ世代で、しかも同じころ同じ教室で講義を受けていたからには、自分がこの本を書いているつもりになって、そこから勢いをもらったのだ。たぶん、それは間違いではなかっただろうと思っている。ともかく、この本のおかげで先生の存在をふたたび身近に感じ、自分がいかに影響されていたかを思い知った。日本のジャンケレヴィッチのファンが少しでも増えて、若い人々をも巻き込んで、難しそうな硬い言葉をふりまわして観念遊戯に耽って学問しているつもりのお偉方が、おのれのカルタの城の心もとなさに少しは愕然とする契機になってくれればいいと思う。それは日本が変わることでもあるだろう。
 ジャンケレヴィッチが言うとおり、この本のなかでも繰り返されているとおり、「誰々がどう言った。だからどうしたというのだ。人生はそんなことのためにあるのではない」。
  まったくこの〈現代思想〉とやらの周辺をめぐって精妙な思索を展開しているつもりのお歴々の空疎さに対する一服の清涼剤としての役割だけは、この本が果たすことができるだろう。ただし、後半はゆっくり読まないとかなり面倒な記述もある。訳者としてはわかりやすく訳したつもりだが、2、3回読んでわからなかったら気にせずに、そこにジャンケレヴィッチの逆説が隠れているのだろう、著者リュブリナもよく消化せず、訳者もうまく訳せなかったのだろう、くらいに思って先に進み、本を閉じてそれで終わりにせずにジャンケレヴィッチのつぎの本に進んでくれたらありがたい。つぎにどれを読むかは「訳者あとがき」に書いておいた。
  最後になるが、著者の略歴はいろいろ調べてみたが、原書に記載されていることしかわからない。いかにもジャンケレヴィッチの弟子らしい振る舞いだ。そこで訳者も同じように年齢を記さなかった。リュブリナも書いているとおり、歳の上下など関係ない。若くても年寄りくさい連中はたくさんいる。歳をとってもジャンケレヴィッチのように若い人間もたくさんいる。