浅見克彦
書き物にタイトルをつけようとして、あーでもないこーでもないといろいろ考えていると、しばしば出口のない袋小路に入り込んでしまう。だが、今回の「サイボーグの腑」という副題は、構想の「詰め将棋」に疲れてベッドに体を横たえたときに、何げなく湧き出てきた。恐らくは、デヴィッド・クローネンバーグの世界に接しながら思考を紡ぎ出そうとしていたことが影響したのだろう。とはいえ、このタイトルに魅力を覚えたのは、それがサイボーグ表象に頻出する「ヒューマニティ」の色合いを、微妙に表していたからだ。サイボーグ表象に織り込まれた人間性は、メタリックでエレクトロニックなその身体に「腑」がおさまっているような矛盾を抱えていると同時に、その奥底には私たちが嫌悪する内臓と同じように、「ヒューマニティ」を否定する内実が潜んでもいる。しかも「腑」は、どれほど徹底して否定しようとしても、人間が捨てさることができない存在の基本でもある。
つまり、この少々異様な副題が意味するところは、サイボーグ表象を通じて人間の現在を考えるということにほかならない。サイボーグ表象には現代文化を生きる人間存在の実情が投影されている、という理解が本書の骨格をなしているということだ。実を言えば、こうした理解の枠組みそのものは、決して目新しいものではない。ジェームズ・G・バラードはフランス語版『クラッシュ』に寄せた序文で、SFが描き出す世界には現代人の心の状態が映し出されていると書いていたし、室井尚の『情報宇宙論』(岩波書店)にも同様の主旨の分析を見ることができる。そして、押井守が『イノセンス 創作ノート』(徳間書店スタジオジブリ事業本部)で提出している「人間はなぜ人形に惹かれるのか」「人間にとって他者とは何か」という問いも、同じ枠組みのなかに位置づけられるものだ。その意味では、この書物は少なくとも20年以上も前から問われ続けてきた古い問題を扱っていると言うべきだろう。ただし、そうした自己の鏡像を描き出す物語やサイボーグ存在を、人間がなぜ繰り返し生み出すのか、そしてそうした表象のディスクールが人間をどのような自己意識に導くのかという問いには、これまで十分な答えが出されてこなかった。この本は、この痒いところを掻いてみたい、という主旨の書き物だと言っていい。問題が古かろうと新鮮味がなかろうと、十分な答えが出ていなければ思考し、文字を連ねていく。書き手なる者、とりわけ理論に携わる者は、こうした課題に背を向けてはならないと思う。
最後にもう一つ。今回は、自分のこれまでの書き物に色気がなかったことを反省し、文字どおり色彩のイメージ世界が立ち上がるような文章を目指した。とりわけ、映像作品を批評するさいにこの点に心を配ったつもりだ。首尾のほどは読者の評価を待つしかないが、文章が映像の迫力を伝えきれていない個所があることは認めなければなるまい。だが、絵と文字というのは、互いの緊張関係のなかで独特の匂いを発するということもある。書き物が映像と相似的になることではなく、映像に寄り添いながらもそれとは違う変異体を生み出すことが大事なのではないだろうか。もちろん、あえてこの緊張の強度を高めながら、映像への「不可能」な介入を仕掛けることは、書き手が諦めてはならない刺激的な冒険なのだけれども。