日高 優
写真の寡黙さの豊かさや深さを、どのようにしたら掬い取ることができるだろう――私が本書を通じてただひたすらに追求しようとしたのは、そうしたことでした。「写真に潜勢するものに応答しなくては」という想いが写真の研究を始めた当初からいまなお私を突き動かしていて、ほとんどそれだけが写真を研究し続けていることの動機だといっても過言ではないぐらいなのです。そして、なかには奇妙と思われる方もいるかもしれませんが、私は写真を研究してはいても写真マニアではなくて(幸か不幸か、ちっとも!)、写真的経験を生きる現代のひとりの凡庸な人間だからこそ、ジャーゴンや学問のトレンドに過度に囚われることなく、それ自体は言葉を持たない寡黙な写真の、しかし私たちの生に穴を穿つほどの力を掴まえることの方へと赴くことができたのかもしれない、などと考えるのです。どうやら私のスタンスは、「社会的風景」展のネイサン・ライアンズの思考、そしてもちろん、彼が参照点としたジョージ・ケペシュの思考と共鳴しているようです。ともあれ、すでに世に船出した一冊の書物にとって、作者や作者の個人的な感慨など、どうでもいいことではないでしょうか。そんなことよりも大切なのは、どんなに拙い言葉たちではあっても、本書のなかの言葉たちが、読者のみなさんの写真的経験、生の経験と結ばれ、生きられるということなのですから。
本書の終章にも記したように、〈デモクラシーとしての写真〉とは、究極的には、「私たちが自らの感度を上げて写真になる」という企図のことを意味しています。つまり、「写真が世界の潜像を結ぶ場所であるようにわれわれは自らを世界の可能態へと向かう地点とし、自らを潜勢する関係性に普段に開き続ける主体性生の運動の場として生きる」。そして、〈デモクラシーとしての写真〉を生きるということは、混迷状態と見える現代の社会を生きるための、ひとつの不可欠なレッスンになるのではないでしょうか。それは、世界に潜在する他なるものへの感度を上げて、この世界のただなかで生きるというレッスンです。本書は、社会から逃走するのではなく、社会のただなかにいて諸力に拘束されたり痛みを感じたりしながら生きる凡庸な私たちの、パフォーマティヴな〈倫理的主体の生成〉というモメントを探索しています(写真ではこれまでほとんど探索されてこなかったけれども、しかし、私たちがこの世界に希望を持つことがゆるされるのだとすれば、決定的に重要なモメントになるのではないでしょうか)。要するに、写真になる、写真を生きるとは、そうした主体になるためのレッスンなのです。
本書とともにアメリカの歴史を駆け足で紐解くだけでも、私たちは自己の過剰なる重力圏を解除して、他なるもの、他者を見出すのにどれだけの時間を要してきたかが痛感され、思わず愕然とすることでしょう。そして本書が明らかにするのは、写真が潜在する他者や他者との関係性を可視化しそれらに視線の権利を与えてきた、ということです。さらに、写真は一見寡黙ながらも/寡黙だからこそ、私たちの社会をいまなお浮き足立たせている「世界の中心で愛を叫ぶ」的美学(「エコ」や「コミュニケーション」の「優しい関係」を言祝ぐ美学)に穴を穿ち、その抑圧下に潜勢するものを解き放つ可能性を帯びているのです。
写真関係の多くの書物のなかでも、本書はとにもかくにもユニークな位置を占めているかもしれません。写真の経験を掬うというスタンスを追求した結果がこの書物です。しかし、写真自体を把捉しようと写真に向かっていく研究、写真に潜勢する力を見出そうとする研究は、残念ながらむしろ意外にも少数派です。ましてや、本書はデモクラシーというもうひとつの系を引くわけですから……。とはいえ、別段、本書は奇をてらったものではありません。本書をお読みいただければ、「写真とデモクラシー」とは、なぜかこれまで書かれてこなかったことが不思議なぐらいの、書かれるべくして書かれたテーマであると感じ取っていただけるのではないでしょうか。
本書を辿る読者のみなさんの眼差しのうちに、デモクラシーが発火しますように。