スポーツした文学研究者たち――『スポーツする文学』を出版して

疋田雅昭

 言うまでもなく、昨2008年はオリンピックイヤーであった。本来ならば、そのタイミングを狙っていた本書の刊行だったが、諸般の事情でやっと先月刊行に至ることができた。しかし、当然のことながら、われわれが議論の前提としているスポーツをめぐる諸事情が、この1年で変わってしまったなどということはありえない。
  スポーツで起こるプレーの興奮や感動とは、それまでにあったチームや選手たちの「物語」や「意味」の共有を前提にしていることが多い。そうでなければ、同じスポーツには同じプレーが起こる確率は決して低くはないわけだから、過去に起こった同様なプレーとの差異を決定する具体的な要因などあるわけはない。だから、このこと自体は意識するにせよしないにせよ、むしろ常識なのだ。しかしながら、これまでのスポーツ研究は、スポーツが持つこうした「物語」や「意味」の存在をあまりに軽視してこなかっただろうか。または、個別の「物語」や「意味」にこだわりすぎて、それを抽象化するアプローチを忘れてはいないだろうか。
  われわれ「文学」を専門とする人間が、多くは社会学や歴史学的範疇で語られてきたこの言説群に参入しようと思った理由もまさにここにある。「……史」を構築しようとするのならば、具体的な物語に拘泥するような語り方も重要だろう。また、社会学的に考えるのならば、それぞれの時代とスポーツの関係を数値など様々なデータを基に構築していく語り方が必要になるのかもしれない。
  だが、われわれは、スポーツが起こす感動を支える「意味」や「物語」に徹底的にこだわる。それも、それらを支えるメカニズムを眼差す言葉を会得したいと思うのだ。それは、やや大風呂敷を広げれば、社会学や歴史学との「対話」の申し込みでもある。これをスポーツになぞらえて「試合」と言いたいところだが、もちろんこの「対話」に勝ち負けがあるわけではない。そう考えてみれば、われわれが扱うスポーツにも必ず勝ち負けがあるわけではないことに思い至る。あるときは自己探求のため、あるときはストレス解消や健康維持のため、またあるときは無目的にスポーツを楽しもうとすることさえある。
  もちろん、スポーツ研究をめぐる言説のレベル向上のために他流「試合」をしなくてはならないこともあるだろうし、より一層の技術向上のために「練習」を続けていくことも怠ってはならない。だから、われわれ執筆者一同としては、そういった「試合」を楽しみにもしている。ぜひ、お申し込みいただきたい次第である。
  しかし、同時にわれわれは「スポーツ」をしたかったわけでもある。スポーツの目的は様々である。だから、われわれはチームでもあるが、一方でそのチームの選手のスタンスは多種多様でもある。様々な目的を包摂したスポーツ……。その成果がこの書籍である。およそ3年間の合同トレーニング(なかには合宿まで含まれている!)によって、飛躍的に技術が向上した者もいれば、まだまだ向上の余地が望まれる者もいるかもしれない。そして、われわれのスポーツにも、今後様々な「意味」や「物語」が付与されていくだろう。そういった意味でも、われわれは「スポーツ」を「文学」したのである。