日記に見る雪中行軍の時代――『凍える帝国――八甲田山雪中行軍遭難事件の民俗誌』を書いて

丸山泰明

 今回博士論文を書籍にまとめるにあたって、いくつかの日記の記述を新たに取り入れている。これは博士論文を読んだ編集者の矢野未知生さんの、あれだけの出来事が社会にどのような衝撃を与えたのかわからず物足りないという批判に応えるものだったことは「あとがき」に書いたとおりだ。日記を資料として活用することにより、同時代の人々が雪中行軍をどのように受け止めたのかを生き生きと描き出せるのではないかと目論んだわけである。
  このような思惑から調査にとりかかったのだが、同時代の日記に雪中行軍の記述を探す作業は当初予想していた以上に苦労するところが多いものだった。雪中行軍隊が遭難した1902年(明治35年)の頃を記述した日記の公刊数が少なく、公刊されている日記があっても記述されておらず、記述があったとしてもごく簡単に書き留めたにすぎず取り上げるに至らないものもあったからだ。とはいえ、この苦労の見返りは大きかった。特に、陸軍大臣の寺内正毅や、陸軍省軍務局軍事課長の井口省吾といった陸軍中枢で関わっていた人物の日記に行き着くことができたのは有益であり、またこれまで存在に気づいていなかったことが強く悔まれた。この2人のほかにも本書では、跡見花蹊、中浜東一郎、近衛篤麿の日記を利用している。
  ところで、こうして調べるなかで行き当たった穂積歌子の日記は、非常に興味が引かれる記述ではあるものの、微小な事柄に入り込みすぎて論旨から離れてしまうので、残念ながら取り上げなかった。穂積歌子は実業家として有名な渋沢栄一の長女であり、法学者の穂積陳重と結婚した人物である。私のような民俗学を専攻している人間には、渋沢敬三の父篤二の姉、石黒忠篤の妻光子の母と表現したほうがなじみ深い人物だ。この穂積歌子の日記の1902年2月3日の個所には、「五時五十七分品川発汽車にて帰」った際に、「新宿より軍人一人乗合せたるが、青森へ今度の事件に付て行きたる人と見え、いろいろと話をなしたり」(穂積重行編『穂積歌子日記――明治一法学者の周辺 1890-1906』みすず書房、1989年、665ページ)と書き記されている。ここに出てくる「今度の事件」とは、八甲田山雪中行軍遭難事件のことを指していると考えて間違いない。このとき、新宿から乗り合わせた軍人とはいったい誰なのか。この日は清水谷実英東宮武官の一行が鉄道で青森へと向かっているが、当時の時刻表では青森行きは上野駅発午後6時なので品川駅発午後5時57分の汽車に乗っていたはずはない。穂積歌子はこの軍人とどのような会話をし、どのように批評したのだろうか。上層階級の女性の受け止め方として、とても興味が引かれるところである。
  穂積歌子の日記にはもう一つ気になる個所がある。それは同年5月28日の記述である。この日、穂積は「おくにさん」をつれて肺炎で熱を出した伯父をお見舞いに行った帰りに浅草に立ち寄っている。おくにさんこと大内くにとは渋沢栄一の妾であり、穂積より10歳年上だった。正妻の長女にとっての父の妾という存在は、横溝正史的大家族の世界ではとんでもない修羅場が巻き起こるはずの相手なのだが、そういうことはなく親しい間柄だったらしい。ともあれ、穂積はおくにさんと浅草で遊んだことを「浅草に立寄り花やしきに入り、次に珍世界に行き、エキス光線を見たり」(同書685ページ)と日記に書いている。この珍世界という見世物小屋で、2月19日から雪中行軍のジオラマが公開されたことは本書で述べたが、日記に書かれているのはX線の見世物だけである。ジオラマはもう撤去されていたのか。あるいは書き残されなかっただけなのか、残っていたのならば見てどのように思ったのか。非常にもどかしい。
  日記を探すために使った方法は、実に地道なものだった。勤務先の国立歴史民俗博物館の図書室と東京都立中央図書館、そして非常勤講師として通っていた学習院大学図書館の書架を歩き、背表紙を眺めて記述がありそうな日記を片っ端から開くというものだ。あらかじめ期待していたのに実際に読んでみると何も書いてなくてがっくりした人物もいる。原敬や森鴎外がそうだ。もしすべての書籍が電子化されれば、インターネットの検索でどの日記にどのような記述があるかはすぐにわかるようになるだろう。1冊1冊を開いて確認する作業は確かに手間がかかるし、なかった場合は資料を探すという目的の限りでは時間と労力を浪費したことになる。
  だが、ないならないなりに、寄り道する楽しさが紙の本にはある。日記を調べる作業は、しばしば当初の目的から離れて、この時代に生きた人々の日常を垣間見るものともなった。たとえば南方熊楠の日記から見えてくるのは、熊野の山中で観察と標本採集に連日没頭する姿だけだ。つい雪中行軍のことばかりに注目してしまいがちになるが、同じ時代に世事に惑わされずただひたすら微小な世界に生命の深奥を探ろうとした異能の博物学者もまた生きていたことにあらためて気づかされた。ある時期に集中して複数の日記を読むことはその時代を「輪切り」にすることでもあったのであり、その断面には様々な人々の多様な生き方が現れ出たのである。この時代の丸ごとの空気にふれることができたことこそが、日記を調べることによって得られた最大の収穫だった。

衣・職・住――サービス・ワークの労働市場と女性たち――『温泉リゾート・スタディーズ――箱根・熱海の癒し空間とサービスワーク』を書いて

文貞實

 1980年代、定時制高校の話――当時、筆者は朝鮮学校を卒業後、都内の都立高校の定時制に編入し大学進学の準備をしていた(当時、朝鮮学校から日本の大学へ進学する場合、「大検」を取るか、「通信」「定時制」などへ編入しなければならなかった)。定時制の同窓生は10代から50代まで幅広い年齢層だったが、理容院や製菓店、和菓子屋などの住み込みから製造業の生産ラインで働いていた。ロッテのガム工場で働いていたAさんは、工場長が15分、時計を遅らすために、毎回、授業に遅刻していた。新宿の花園饅頭で住み込みで働いていた20代後半のBさんは、中卒で入社した新人のCさんと一緒に定時制に再入学したという。当時、都会に出てきて働いていた同窓生たちの環境に正直驚いた。何よりも彼女らがバブル経済前夜の豊かさと全く無縁だったことである。また、彼女らを通して東京に「衣・職・住」がセットの仕事が意外に多く、製造業だけでなく、理容院、手打ちそば屋(飲食店)など寮完備の自営業の裾野が広いことを知る。
    *
  2000年代、公立中学校の教諭から聞いた話――冬休みに家出した生徒が繁華街でキャバクラのティッシュ配りをしているところを見つけた。小柄な中学生が大人に交じって、冬空の下でミニスカートの上にベンチコートを羽織ってティッシュを配る姿にすぐには声をかけられなかったという。当時、生徒はキャバクラの寮に20代の先輩と一緒に暮らしていた。迎えに来た教諭を前に、先輩女性が「捜してくれる人がいるうちに、帰りなさい」と諭したという。当時、15歳の少女の居場所は家庭でも学校でもなく、優しい先輩と一緒に暮らすキャバクラの寮だった。実際、自分の居場所を仕事に求める女子が増えているという。『女はなぜキャバクラ嬢になりたいのか?』(三浦展、〔光文社新書〕、光文社、2008年)によれば、近年の格差社会の拡大のなかで、キャバクラ嬢になりたい女子が増えているという。その背景として同書では、低所得・低学歴の女子の仕事がサービスワークの非正規職に多いという現実とそれらのサービスワークが人に承認される仕事だという点をあげている。サービスワークは、もともと、自分のスキルを磨くことで、顧客から直接的に感謝される場面が多い仕事である。同書によれば、家庭環境や学歴など文化資本をもたない女子が自分の能力を磨くことで、他者から承認されるだけでなく、さらにお金を得られる仕事として、近年、キャバクラ嬢に関心が高まっているということらしい。同書ではふれていないが、そのようなキャバクラ(飲食店)の多くは寮完備である。このことも女子たちを引き付ける要因になっているのではないだろうか。
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  本書『温泉リゾート・スタディーズ』の話――本書の後半では、温泉リゾート地に観光ではなく、「衣・職・住」を求めてやってくる女性労働者に焦点を当てている。筆者がインタビューしたホテル・旅館の女性従業員(仲居さん)の多くが「衣・職・住」を求めて熱海・箱根にやってきた。彼女たちがハローワークや求人誌で仕事を探すときの第一条件は「住み込み」である。さらに、旅館では賄いの「食事」があり、「制服」の着用のため、着の身着のままで家を出てきた中高年の女性たちが飛び込みやすい仕事だ。しかし、初めての仕事に入るには、誰かの後押しが必要である。ある仲居さんは、テレビで『女は度胸』(NHK、泉ピン子主演)を観たのがこの仕事に入るきっかけになったと話していた。また別の仲居さんは、子連れで社員寮に入り、他の同僚たちが水商売や他の仕事に転職していくのを横目で見ながら、30年近く「辛抱、辛抱」と経文を唱えるうちにいつしか子育てを終え、結婚もさせ、孫まで抱けるようになったという。本書では、そのような仲居さんたちの熟練化(感情労働の主体化)についてふれたが、一方で、長時間労働やサービスワークに付随する感情労働の要請に応じられずに転職していった仲居さんたちの後を追うことはできなかった。自分の居場所を求めて、転職していった女性たちのその後の人生について考えるのは別の機会に譲る。
  最後に、刷り上がったばかりの本は真新しいインクや紙の匂いがする。その匂いのなかに、熱海・箱根で出会った仲居さんたちの人生の匂いが残っていたらと願う。

事後的にわかる研究動機――『植民地朝鮮の宗教と学知――帝国日本の眼差しの構築』を書いて

川瀬貴也

「どうしてそれを研究しているのですか?」「なぜそのテーマを選んだのですか?」
  この質問がいちばん苦手だった。しかし、人文系の研究をしていると、必ずこのような質問に遭うことがある。「面白そうだったから」というのは大前提なので、この質問はそういうことを聞いているのではなく、はたまた「誰もやっていないから(チャンスだと思った)」という功名心をぎらぎらさせた回答も期待していない(誰も手を付けていない、というのも大きなモティベーションの一つではあるが、「資料が少なすぎる」とか「あまり面白くない」からいままで誰も手を付けていなかっただけという危険性もあるので要注意)。
  教員となったいまは、聞かれるよりも聞く側になってこの問いを学生にしているが、この質問は実は、その研究をせざるをえない、その人の「実存的」なあり方を聞いている場合が多い。だから、この質問に簡単に答えることができないのはある意味当たり前。そして、このような質問をされるということは、少なくともその研究の面白さを伝え損ねていることが多いから、ますます聞かれた側はしどろもどろになってしまう。そして何よりも大きな問題は、「なぜその研究をやったのか」ということは、その研究にいったんけりをつけた時点で、事後的に(いくぶんの自己欺瞞をも交えながら)わかることが多いので、「いま答えろ」というのは実は酷なことなのだ。

 本書の「あとがき」に書いたが、僕が韓国研究に手を染めたきっかけは、指導教官の勧めと(指導教官のS先生は「広く東アジアに目を向けよ」と英語が苦手な教え子におっしゃってくださっただけで、韓国を選んだのは僕の選択)、幼少期の韓国体験である。
  もともと何事においても移り気な僕は、なかなか研究対象を絞ることができず、本書の内容もお読みになればおわかりのとおり、その時代のさまざまな事象をいわば「つまみ食い」して、なんとか「鳥瞰図」として仕立て上げようとしたものである。博士課程時代の最大の悩みは、そのテーマ(例えば教団や人物)一つで博士論文を書いてやろうと思える対象がなかなか見つからなかったことなのである(結局、そういうテーマは見つけられなかったので、本書のもととなるような博士論文を書くことになった)。しかし、もっと深い実存的なレベルを掘り起こせば、本書で取り上げたさまざまなテーマは、ある一貫性をもっている(少なくとも、研究動機には一貫性がある)と自分では思っている。それを自己分析すれば、以下のようなものだろう。
  まずは、韓国に幼少期に住んでいたといっても、韓国の歴史や言葉に本当に無知だったことへの反省がある。「あとがき」に書いたが、外国人が集住する地域で、ろくに韓国語を使うこともなく、ぬくぬくと「コロニアル」な生活をしていたことに罪悪感といわないまでも負い目は感じており、いずれもっと本腰を入れて韓国を知らなければ、と心のどこかで思っていたのは確かである。そして、大学院に入ってさまざまな韓国人留学生と交流をもった、ということも大きく影響していると思う。日本に来たばかりの留学生のお手伝いをする「チューター制度」というものがあり、僕は数人の韓国人留学生のチューターをしたが、彼らの話の端々に、1980年代の苦しかった民主化運動(当時留学にきていた人は、80年代後半期に学生運動を経験した人が多かった)の影が差していた。密輸した岩波文庫の『資本論』でマルクス主義と日本語を勉強した、と言う彼らの話から、いつしか僕は「ポストコロニアル」という、いままで抽象的にしか感じていなかった「流行」の用語の「生きた姿」を見るようになった。そして彼らと同じゼミ、自主的な研究会を繰り返し、ますますその思いは強まった。また、ネガティブな形ではあるが、「自由主義史観」やら「嫌韓流」といった流れも、僕の研究の背中を押したと思う。
「ポストコロニアル」というのは、俗で雑なまとめをすると「植民地状況が名目的には終わったにもかかわらず、生活のそこかしこに、いまだに植民地主義の名残が発見できる状態にイライラ・モヤモヤしている状態」ということだと思うが、僕の研究動機そのものがまさにポストコロニアリズムだったのだ、と見本刷りの本書をなでながら、自分で改めて得心したのだった(博士論文の口頭試問では、「なぜこのような対象を取り上げたのか」と質問され、しどろもどろだったのに)。

 なお、見本刷りが届いた日は、奇しくも僕の誕生日だった。僕の周りの人すべてに感謝するにはうってつけの日だった。

想像力を刺激する音を求めて――『クラシック名盤名演奏100』を書いて

平林直哉

 今回上梓した『クラシック名盤名演奏100』だが、このなかには自分が制作したCDがいくつか含まれている。なぜ、こうしたCD制作を始めるようになったのか、そのきっかけについては旧著『盤鬼、クラシック100盤勝負!』を読んでいただきたいのだが、もうひとつ私が日頃から気をつけていることがある。それはCDの解説書である。
  LPを買い始めた頃、あの見開きのデラックス・ジャケット盤はあこがれであった。わくわくして、神妙に見つめていた。そこに書いてあることがまだ完全に理解できたわけではないが、読めばなんとなく偉くなったような気がした。写真類もあれこれと掲載されていた。たとえば、ベートーヴェンが生きていた頃の街並みとか、作曲家が作品を仕上げた別荘、あるいは録音セッション風景、アーティストとその家族の写真とかである。それらを見て、あれこれといろいろなことを想像したのであり、こうした行為はいま思い出しても実に楽しい日々だった。
  ところがこの時代、CDも「安ければよし」という風潮に染まっている。CDを作ったことがある人にはわかりきったことだろうが、この解説書(ブックレット)はコストが高い。したがって、制作者が真っ先にこれをカットするのは十分に理解できる。けれども、何も書いていない、あるいはありきたりのことがごく少量書かれているだけとか、そんなCDを手にすると、少なくとも私は聴く意欲がさほど湧いてこないのである。
「文藝春秋」2009年12月号には「ユニクロ栄えて国滅ぶ」という浜矩子氏の一文が掲載されていた。その内容をごくおおまかに言えば、利益がないに等しい商品は賃金を低くし、消費はさらに低迷し、結果として生活を圧迫する悪循環を生むというものである。この文に追従する形で同誌2010年1月号に、作家の塩野七生氏が「価格破壊に追従しない理由」を寄稿していた。塩野氏は「価格破壊は文明の破壊」と位置づけ、その理由を「想像力の欠如」としている。たとえば、塩野氏自身は高価なハンドバッグを買うと、これに合う服は何か、あるいはどういうスタイルで持てばいいのか、と想像力が刺激されるというのである。そして印象的だったのは、塩野氏の「想像力とは筋力に似て、使わないと劣化するという性質を持つ」という言葉だった。さらに自身の創作についても、「損をさせません、と言える作品を書くには、頭脳と時間とおカネは充分に使う必要がある」、だから結果的に高くならざるをえないとも結んでいる。
  私がこれまでに作ったCDのブックレットには、埋もれさせておくには惜しい原稿を再使用したり、海外の文献を訳してもらったり、さらにはCDのために新規に依頼したインタビューを掲載したことも少なくない。要するに時間とお金はそれなりにかけているのである。こうした文章のなかには、たとえば「クナッパーツブッシュの地鳴りのような音」とある。これはいったいどんなものだったのか想像したくなるに違いない。また、「フルトヴェングラーの指揮で同じ曲を何度も演奏しても飽きなかった」というのはなぜなのか、その理由を多少なりとも考えたりするのではないだろうか。
  あしらいに使用したプログラム類にも気を遣った。ときには「なんでこんな薄っぺらい紙切れ1枚にあんなに高額を払ったのだろう」と後悔することもあったが、このプログラムを手にした人はどんな職業だったのかとか、その人はどれほどの感慨を抱いて帰路についたのかといったことに思いをめぐらせていくうちに、そうした苦労は次第に忘れてしまう。
  表紙に使用するアーティスト写真も重要である。いくらPD(公的所有物)音源とはいえ、先人たちの数々の苦労によって生み出された音源を拝借してCDを制作するのである。そこに、ありきたりの写真を使用することなど、とても失礼ではないか。手抜きブックレットにすれば、おそらく現在の倍以上のペースで発売することも可能である。しかし、そうしてしまえば、それこそ自分の想像力が一気に低下してきそうである。
  物書きなのにこんなにCD制作をしていていいのか、とときどき思う。でも、そうした作業を通じて、原稿に生かせるものをたくさん吸収していることも事実である。物書きとCD制作を通じて、最近特に強く思うことがある。それは「世の中には自分の知らないことが多すぎる」である。

ヴァーグナーを(で)笑え?――『ヴァーグナーの「ドイツ」──超政治とナショナル・アイデンティティのゆくえ』を書いて

吉田 寛

 先日、私の勤務先の大学で、フランス人とカナダ人の研究者と一緒にランチをする機会があった。前者はフランスから集中講義のために来ている哲学研究者で、私とは初対面、後者はフランス語圏カナダ人の政治学・経済学者で、私の同僚である。その場にいた私以外の全員がフランス語を話せるが、私はフランス語を話せないので、私が会話に加わると全員が(バイリンガルであるそのカナダ人以外にとって不慣れな)英語にスイッチしてくれる。だから、以下で紹介する会話は英語でおこなわれたものだ。
  最初の自己紹介の折に、その場にいた私の別の同僚(日本人)が、私が最近ヴァーグナーについての本を出版したことをそのフランス人研究者に伝えた。おそらくはそのためだろうが、そのランチの途中で(文脈は忘れてしまったのだが)ヴァーグナーの話題になり、フランス人研究者は私に「ウッディ・アレンのヴァーグナーに関するジョークを知っているか?」と尋ねてきた。彼の口ぶりではかなり有名なジョークらしく、いかにも当然知ってるよね?といった感じで聞かれたのだが、私は本当に知らなかったし、その場の日本人は全員知らなかったようだったので、せっかくなので(話題を流すこともできたのだが単純に知りたかったこともあり)教えてもらうことにした。
「私はそんなに長くワーグナーを聴けない。ポーランドを征服したくなる衝動にかられるから」というのがそのジョークである。後で調べたところ、ウッディ・アレンの『マンハッタン殺人ミステリー』(1993年)という映画に出てくるせりふらしい。フランス人研究者はこれをわれわれに紹介して、隣のカナダ人研究者と一緒に大爆笑。ただ私は(他の日本人もおよそ同様だったが)意味はわかるが、どこが面白いのかわからず、つられて苦笑するのがやっとであった。
  さて、この日のランチ以降、現在まで私が解決できていない問題は、この「笑い」のギャップは何だったのか、ということだ。言うまでもなく、ポーランドを侵攻したヒトラーがヴァーグナーを好んで聴いていた、という歴史的事実(およびそれに関する知識)が、このジョークの「意味」を形成している。だが、そのジョークで「大爆笑」できるかどうかは(すべてのジョークがそうであるように)、そうした「意味」とはまったく別の次元にある。意味がわからなければ(普通は)大爆笑はできないが、意味がわかったからといって(私がそうだったように)大爆笑できるとはかぎらないのだ。そして想像するに、私の周りの人々(分野は様々だが大半は日本人の研究者)はそのジョークの意味は理解できるはずだが、それを聞いて大爆笑はしないはずだ。ちなみにそのカナダ人の同僚は、日頃の笑いのツボはわりあい私と似通っているのだ。
  これは単にジョークや「笑い」に対する国民性の違いなのか(いわゆるフレンチ・ジョーク?)。それともとりわけ日本人が第二次世界大戦の影をまだ引きずっているからなのか。あるいは(その映画を見ていないから何とも言えないのだが)、歴史の大きな暗部をも「大爆笑」に変えてしまうウッディ・アレンの才能が特別なだけなのか。それはわからない。とにかく私はいま、ヴァーグナーなるものの本質は依然としてまったく謎だなあと落胆しており、だがそれと同時に、その日に目にした「大爆笑」が未来に向かうどこか明るい兆しであるような気がしている。
  ところで、私が『ヴァーグナーの「ドイツ」』をお送りした方々のひとりに、同年代の友人で、ドイツに留学してベートーヴェン研究で博士学位を取った新進気鋭の音楽学者がいる。その彼は、本を受け取ると即座に丁寧な御礼のハガキを私に送って寄こし、しかもそのハガキにヴァーグナーをあしらった絵葉書を用いる、という小粋なプレーを演じて私を脱帽させた。その絵葉書には「ヴァーグナーの音楽は聞こえほど悪くはない(Wagner’s music is better than it sounds)」というマーク・トウェインの言葉がドイツ語と英語で併記してある。
  さあ、またしてもヴァーグナー・ジョークだ。要は、何だかんだ言っても結局はひどい音楽だ、というわけである。しかも驚いたことに、後で本人の口から聞けば、この絵葉書はバイロイトのヴァーグナー記念館で買ったものだという。確かにそう聞いたうえでよく見ると、それまでは気付かなかったが、背景の絵は祝祭劇場のバルコニーと思しき場面であるし、隅っこに小さく「バイロイト:リヒャルト・ヴァーグナー祝祭」と印刷されてもいる。だが、バイロイトでこのような絵葉書をこっそり(かどうか知らないが)売ってしまうユーモアの感覚は、先に紹介した「大爆笑」とは違う意味でだが、やはり私には(その友人も同様の感想を述べていたが)理解しづらいものであり、また意外でもあった。一般的には日本人以上に「お堅い」と言われるドイツ人もなかなかやるじゃないかという感じだ。
  こうしたユーモアやジョークの感覚、あるいはその効果としての笑いは、先に述べたように、表面的な知識や解釈の層ではなく、人間の心のより深い部分に根ざしている。したがって、それを分析対象として捉えて、言語化し、議論の俎上に載せることは容易ではない(昨今のいわゆる「お笑い論」のようなものがしばしば失敗しているのはそのためだろう)。だがそうした部分にまであえて踏み込まないと、今日において本当にヴァーグナーについて考えたこと、論じたことにはならないのではないか、と私は、以上で記した体験を踏まえて、いま痛感しているところだ。次にヴァーグナーについての本を書くときには、ぜひこうした「笑い」の心性までをも視野に入れてみたいと意気込む一方、どうせジョークそのものの力には勝てないのだからと諦めてもいる。だったらいっそのこと新しいヴァーグナー・ジョークの1つでも作ってやるか、という野心はかえって身の程知らずだろうか。

現場で会える、きっと。――『スポーツライターになろう!』を書いて

川端康生

 本書のお話をはじめにもらったのは2006年春のことだったから、3年以上前になる。当時はちょうどドイツ・ワールドカップの直前。多忙さを言い訳に頭の隅の、さらに隅の方にうっちゃっているうちに時は流れ、ワールドカップが始まり僕はドイツへと旅立ち、興奮と熱狂の1カ月を過ごすうちに、ついに頭の隅からもこぼれ落ちた。ひどいことに忘れてしまったのである。
  依頼された「スポーツライターになろう」というテーマに、正直に言ってさほど食指が動かなかったせいもある。スポーツ選手になるのではなく、「スポーツライター」になる以上、やるべきトレーニングは決まっている。ライターとしての技術、つまり日本語の文章技術を身につけることである。ライター志望者ならそんなことはわかっているに違いないし、わかっているだけじゃなくそれなりの技術はすでに持っているはず。だとすれば、改めてアドバイスすることなどさほどないのではないかと感じていた。「わざわざ何を書けばいいのだろう?」と首を捻っている面もあった。

 そんな不誠実で懐疑的な僕が、それも3年以上もたったいまごろになって、今度は自分から「もしよかったら書かせてください」と申し出て本書に取り組んだのは、この間にスポーツライター志望者に対する認識を改める経験をしたからだ。
  2007年に、Jリーグの湘南ベルマーレの賛同を得て「スポーツマスコミ塾」を開講した。受講資格は高校生以上の男女。要するに10代や20代の学生から社会人まで、様々な立場や境遇のスポーツライター志望者と向き合うことになったのだ。
  そんななかで実感したのは、スポーツファンとスポーツライターとの一線に無頓着な志望者の多さだった。「スポーツライターになりたい」と言いながらほとんど本を読んでいない者、文章を書こうとしたことがない者、そういう受講者が少なくなかったのだ。
  なんのことはない。スポーツライターという職業の根幹である「書く」ということに対して無自覚なままに「スポーツライターになりたい」と願っているのである。もちろん、そんな願いが叶うことはありえない。
  だからスポーツマスコミ塾では最初の講義で「サッカー選手はボールを足で扱う仕事ですよね。ねらったところにボールを蹴るためにキックの練習をしますよね。その前に90分間走れる体力が必要ですよね。そのためにサッカー選手がトレーニングしているのはご存じのとおり。では、スポーツライターとはどんな仕事でしょう?……ならば、どんなトレーニングが必要でしょう?」と必ず問いかけるのが恒例になっている。
  そして毎講義(自主トレと称して)課題を出して、原稿の提出も求めるようにしている。とにかく「書く」ことに慣れてもらうためである。できるだけ原稿を書く機会を作るようにして、スポーツファンからスポーツライターへと塾生の意識を変え、スキルを身につけてもらおうと腐心しているというわけだ。
 そんな経験を反映して書いたのが本書である。だからスポーツマスコミ塾での講義と同じ流れで構成されている。まずは意識改革。スポーツ選手でもスポーツファンでもなく、スポーツ「ライター」になるのだという自覚を持ってもらうことからスタートし、それから「取材」や「企画」といったスポーツライターとしての専門技術へと進んでいく。
 同時にハウツーめいたことから営業や収入といった下世話なことまで、スポーツライターがどんな世界なのかを知ることができるように具体的なエピソードも挿入しながら紹介した。スポーツライターとして押さえておくべきことはひととおり網羅したつもりである。
 もちろん本気で「スポーツライターになろう」と思えば、まず書かなければならない。書けば書くほど必ず上達していくことは塾生たちを見ていても明らかだ。真面目に自主トレをこなし、原稿を書くことに慣れた者は必ずうまくなっていくのである。
 ちなみにスポーツマスコミ塾の受講生のなかからも、すでにプロのスポーツライターとしてデビューした者も出ている。やっぱり本気で「スポーツライターになろう」とした塾生である。本気で取り組めば、必ず原稿が書けるようになり、実力があればチャンスは意外に巡ってくる、スポーツライターとはそんな世界なのだ。
 本書を読んでスポーツライターを目指した本気のあなたと現場で会える日だってきっとくると僕は信じている。

チームスポーツとしての共著――『幻の東京オリンピックとその時代――戦時期のスポーツ・都市・身体』を刊行して

坂上康博

 12人で取り組んできた共著『幻の東京オリンピックとその時代――戦時期のスポーツ・都市・身体』が出版された。予定よりも1年ほど遅れてしまったが、デッドラインと定めてきた「2016年のオリンピックの開催地が決定する10月のIOC総会」にはギリギリ間に合った。このことがまずうれしい!
  石原慎太郎東京都知事を先頭に展開されてきた東京オリンピックの招致運動も、そこでひとまず決着がつくことになるが、なんとしてもその前に本書を出したかった。そこにこだわったのは、現在進行中の東京オリンピックをめぐる議論に“参戦”したいという強い思いがあったからだが、とはいえ本書は“緊急提言”を携えた際物とは違う。現実の動向をにらみながら、そこからは一定の距離を置き、歴史的な事実を丹念に追究した歴史研究の書である。
  そんな本を12人全員で、最後まで誰一人ドロップアウトせずに書き上げることが、できたことがこれまたうれしい。そこには単著の完成とはひと味もふた味もちがう特別の喜びがある。それは、力を合わせてゴールに向かうという、チームスポーツの醍醐味に似ている。サッカーに例えれば、絶妙なパスやアイコンタクト、チームメイトによる励ましなど、そんなシーンがたくさんあった。そしてスポーツ社会学、スポーツ史、日本近・現代史、デザイン史といった専門領域(ポジション)が異なる個性的なメンバーだからこそできた絶妙なコンビネーション。いまは出版を終えての安堵感とともに、このチームでの活動がこれで終わるという何ともいえないさみしさが同時に込み上げてくる。
  さて、本書は当初、「学生や一般読者がすんなりと読み進められるよう質は落とさず、しかし文章は平明に」を方針として掲げ、つまり研究書と一般書の中間的なもの、文章も価格もそのようなものを目指した。文章については妥協せずにこの方針を最後まで貫いたつもりだが、価格に関しては、残念ながら4,200円(税込み)という一般書とは言いがたいものになってしまった。
  全部で12章、計452ページ、写真が143点、図表が40点というボリュームなので、むしろこの価格で出せたこと自体が奇跡的だと思うが、分量の膨張をコントロールできなかった責任は、やはり編者が負わなければならないだろう。分量オーバーの原稿に対しては何度か削ってもらったが、時間がたつとまた膨れ上がる。新しい史実や史料の発見があって、それらがどんどん付け加わってくるからだが、それらについては「もったいない」という気持ちがはたらいてしまい、なかなか削れない。
  そんな葛藤を伴いながら刈り込み作業を重ねたが、それでも当初予定の2倍近くの分量になってしまった。さてどうするか? 2冊に分けるという案も検討したが、せっかくの一体感が壊れる。悩みに悩んで、最後は「写真と図表を削れるだけ削ってそれで出版」ということになった。
  だから本書は、2冊分の内容をもち、しかも100点を超える写真と多くの図表を掲載した、つまりヴィジュアル的にも資料的にも充実したものとなっていて、このような中味からすれば決して高い価格ではない――そんなふうに読者のみなさんが思ってくれたらうれしいのだが、さて結果はいかに?

突撃隊の消息について――『村上春樹と物語の条件――『ノルウェイの森』から『ねじまき鳥クロニクル』へ』を書いて

鈴木智之

 三人称を基調として書き進められるようになった最近の長篇(例えば『1Q84』)では少し様子が違うのかもしれないが、もっぱら一人称の視点から語られていた頃の村上春樹作品では、語り手であり主人公である人物――「僕」――が、少なくとも見かけ上は特に傑出するところのない「普通」の人として設定されることが多かった。それは、作家が主人公に等身大の自分自身を重ね合わせながら物語世界を造形していたということでもあるだろうし、またそれゆえに、読者の感情移入をしやすくする仕掛けになっていたとも思う。これに対して、主人公の周辺には、あまり「普通」とは言い難い個性あふれる脇役たちが、作品を経るごとに数多く配置されるようになる(その傾向は『羊をめぐる冒険』にはじまり、『ねじまき鳥クロニクル』で最も顕著になる)。おそらく、取り立てて突出するところのない人物を中心に長い物語を書き進めるために、そういう装置が必要になっていったのだろう。
  では、物語世界のなかで脇役たちは何をしているのか。それは読解を進めるうえで1つの焦点となる。もちろん、彼らは主人公が生きていく世界に現れる「他者」であり、物語の共演者である。現実の世界と同じように、人は他者との関わりのなかで何かを求め、何かを妨げられ、そうして何者かになっていく。「僕」の生きる世界に内在し、これを構成する要素としての他者。そういうものとして脇役たちの役割を考えなければならない。しかしそれだけではなく、村上春樹の作品ではしばしば、際立った個性を備えた人物たちが、主人公の抱えている問題――したがってまた作品全体の主題――を極端な形で体現し、論理的に純化された形で提示している。そのことを強く意識するようになったのは、『ノルウェイの森』についての論考(本書の第一部)を書いているときだった。「永沢」や「ハツミさん」や「レイコさん」が直面している問題を考えていくことが、そのままこの作品全体を動かしている「問い」の摘出につながる。同じことは、『ねじまき鳥クロニクル』についてもいえる。「加納クレタ」や「赤坂ナツメグ」のエピソードこそが、作品の構造を明らかにする鍵になっているのだ。このとき、脇役たちは、物語が物語に対してほどこす「解説」の役割を果たしているように見える。テクストによる作品への「注釈」とでもいえばいいだろうか。
  ともあれ、一見したところ物語の本筋にどう関わっているのかわからないような周辺のエピソードをクローズアップして、脇役たちを作品理解の導き手に抜擢する。それが、本書で採用した1つの方法論上の選択である。そして、その作戦は割合にうまく機能したのではないかと、ひそかに自画自賛している。少なくとも、多彩な脇役たちに大切な場所を割り当てることができた、と思う。
  だからこそ、この本のなかでまともに語ることのできなかった周辺的な人物のことが気がかりである。その1人は、『ノルウェイの森』の「突撃隊」。もう1人は、『ねじまき鳥クロニクル』の「牛河」である。どちらも、そのほかの登場人物たちとは明らかに違う雰囲気をもち、その「育ち」からして異質なものを感じさせる。いわば彼らは、「僕」の世界に間違って入り込んでしまった「闖入者」である。だから、こういう人たちの登場にこそ、物語の現実感覚が凝縮されているに違いない。そういう思いが、読んでいるときにも、書いているときにも色濃くあった。にもかかわらず、何も書けなかった。そこに、書き落としたものがあるような気がしている。
「綿谷ノボル」の秘書として「僕」の前に現れた「牛河」は、『1Q84』で相変わらずのいやらしい押しの強さを見せて再登場している。「牛河」は健在だ。いずれは、彼を真ん中に据えて、作品横断的な論考を書くことができるかもしれない。だが、「突撃隊」はどうしているのだろう。『ノルウェイの森』で、「僕」が暮らしている寮の同室者であった彼は、「国土地理院」に入って「地図を作る」ことを目標に「国立大学で地理学を専攻していた」。毎朝、1つの手順も省略せずラジオ体操を繰り返していた「突撃隊」。「直子」が京都の療養所へと移ってしまったあと、孤独を抱える「僕」に「蛍」をくれた「突撃隊」。しかし彼は、夏休みが明けて大学が再開されても、山梨の実家から戻ってこなかった。どんな事情があったのか、説明は一切なし。突然の退場。その後、消息は途絶えている。
「突撃隊」的なるものには居場所がない世界。「僕」や「緑」が生きていかなければならないのは、そういう世界なのだと了解してしまうことはできる。しかしそれはどこか寂しく、空恐ろしい。「突撃隊」はいまどこで何をして生きているのか。いまの僕には、それが気になってならない。

レッスンとしての写真――『現代アメリカ写真を読む――デモクラシーの眺望』を書いて

日高 優

 写真の寡黙さの豊かさや深さを、どのようにしたら掬い取ることができるだろう――私が本書を通じてただひたすらに追求しようとしたのは、そうしたことでした。「写真に潜勢するものに応答しなくては」という想いが写真の研究を始めた当初からいまなお私を突き動かしていて、ほとんどそれだけが写真を研究し続けていることの動機だといっても過言ではないぐらいなのです。そして、なかには奇妙と思われる方もいるかもしれませんが、私は写真を研究してはいても写真マニアではなくて(幸か不幸か、ちっとも!)、写真的経験を生きる現代のひとりの凡庸な人間だからこそ、ジャーゴンや学問のトレンドに過度に囚われることなく、それ自体は言葉を持たない寡黙な写真の、しかし私たちの生に穴を穿つほどの力を掴まえることの方へと赴くことができたのかもしれない、などと考えるのです。どうやら私のスタンスは、「社会的風景」展のネイサン・ライアンズの思考、そしてもちろん、彼が参照点としたジョージ・ケペシュの思考と共鳴しているようです。ともあれ、すでに世に船出した一冊の書物にとって、作者や作者の個人的な感慨など、どうでもいいことではないでしょうか。そんなことよりも大切なのは、どんなに拙い言葉たちではあっても、本書のなかの言葉たちが、読者のみなさんの写真的経験、生の経験と結ばれ、生きられるということなのですから。
  本書の終章にも記したように、〈デモクラシーとしての写真〉とは、究極的には、「私たちが自らの感度を上げて写真になる」という企図のことを意味しています。つまり、「写真が世界の潜像を結ぶ場所であるようにわれわれは自らを世界の可能態へと向かう地点とし、自らを潜勢する関係性に普段に開き続ける主体性生の運動の場として生きる」。そして、〈デモクラシーとしての写真〉を生きるということは、混迷状態と見える現代の社会を生きるための、ひとつの不可欠なレッスンになるのではないでしょうか。それは、世界に潜在する他なるものへの感度を上げて、この世界のただなかで生きるというレッスンです。本書は、社会から逃走するのではなく、社会のただなかにいて諸力に拘束されたり痛みを感じたりしながら生きる凡庸な私たちの、パフォーマティヴな〈倫理的主体の生成〉というモメントを探索しています(写真ではこれまでほとんど探索されてこなかったけれども、しかし、私たちがこの世界に希望を持つことがゆるされるのだとすれば、決定的に重要なモメントになるのではないでしょうか)。要するに、写真になる、写真を生きるとは、そうした主体になるためのレッスンなのです。
  本書とともにアメリカの歴史を駆け足で紐解くだけでも、私たちは自己の過剰なる重力圏を解除して、他なるもの、他者を見出すのにどれだけの時間を要してきたかが痛感され、思わず愕然とすることでしょう。そして本書が明らかにするのは、写真が潜在する他者や他者との関係性を可視化しそれらに視線の権利を与えてきた、ということです。さらに、写真は一見寡黙ながらも/寡黙だからこそ、私たちの社会をいまなお浮き足立たせている「世界の中心で愛を叫ぶ」的美学(「エコ」や「コミュニケーション」の「優しい関係」を言祝ぐ美学)に穴を穿ち、その抑圧下に潜勢するものを解き放つ可能性を帯びているのです。
  写真関係の多くの書物のなかでも、本書はとにもかくにもユニークな位置を占めているかもしれません。写真の経験を掬うというスタンスを追求した結果がこの書物です。しかし、写真自体を把捉しようと写真に向かっていく研究、写真に潜勢する力を見出そうとする研究は、残念ながらむしろ意外にも少数派です。ましてや、本書はデモクラシーというもうひとつの系を引くわけですから……。とはいえ、別段、本書は奇をてらったものではありません。本書をお読みいただければ、「写真とデモクラシー」とは、なぜかこれまで書かれてこなかったことが不思議なぐらいの、書かれるべくして書かれたテーマであると感じ取っていただけるのではないでしょうか。

 本書を辿る読者のみなさんの眼差しのうちに、デモクラシーが発火しますように。

スポーツした文学研究者たち――『スポーツする文学』を出版して

疋田雅昭

 言うまでもなく、昨2008年はオリンピックイヤーであった。本来ならば、そのタイミングを狙っていた本書の刊行だったが、諸般の事情でやっと先月刊行に至ることができた。しかし、当然のことながら、われわれが議論の前提としているスポーツをめぐる諸事情が、この1年で変わってしまったなどということはありえない。
  スポーツで起こるプレーの興奮や感動とは、それまでにあったチームや選手たちの「物語」や「意味」の共有を前提にしていることが多い。そうでなければ、同じスポーツには同じプレーが起こる確率は決して低くはないわけだから、過去に起こった同様なプレーとの差異を決定する具体的な要因などあるわけはない。だから、このこと自体は意識するにせよしないにせよ、むしろ常識なのだ。しかしながら、これまでのスポーツ研究は、スポーツが持つこうした「物語」や「意味」の存在をあまりに軽視してこなかっただろうか。または、個別の「物語」や「意味」にこだわりすぎて、それを抽象化するアプローチを忘れてはいないだろうか。
  われわれ「文学」を専門とする人間が、多くは社会学や歴史学的範疇で語られてきたこの言説群に参入しようと思った理由もまさにここにある。「……史」を構築しようとするのならば、具体的な物語に拘泥するような語り方も重要だろう。また、社会学的に考えるのならば、それぞれの時代とスポーツの関係を数値など様々なデータを基に構築していく語り方が必要になるのかもしれない。
  だが、われわれは、スポーツが起こす感動を支える「意味」や「物語」に徹底的にこだわる。それも、それらを支えるメカニズムを眼差す言葉を会得したいと思うのだ。それは、やや大風呂敷を広げれば、社会学や歴史学との「対話」の申し込みでもある。これをスポーツになぞらえて「試合」と言いたいところだが、もちろんこの「対話」に勝ち負けがあるわけではない。そう考えてみれば、われわれが扱うスポーツにも必ず勝ち負けがあるわけではないことに思い至る。あるときは自己探求のため、あるときはストレス解消や健康維持のため、またあるときは無目的にスポーツを楽しもうとすることさえある。
  もちろん、スポーツ研究をめぐる言説のレベル向上のために他流「試合」をしなくてはならないこともあるだろうし、より一層の技術向上のために「練習」を続けていくことも怠ってはならない。だから、われわれ執筆者一同としては、そういった「試合」を楽しみにもしている。ぜひ、お申し込みいただきたい次第である。
  しかし、同時にわれわれは「スポーツ」をしたかったわけでもある。スポーツの目的は様々である。だから、われわれはチームでもあるが、一方でそのチームの選手のスタンスは多種多様でもある。様々な目的を包摂したスポーツ……。その成果がこの書籍である。およそ3年間の合同トレーニング(なかには合宿まで含まれている!)によって、飛躍的に技術が向上した者もいれば、まだまだ向上の余地が望まれる者もいるかもしれない。そして、われわれのスポーツにも、今後様々な「意味」や「物語」が付与されていくだろう。そういった意味でも、われわれは「スポーツ」を「文学」したのである。