自然体の軽やかさ 追悼・熊谷元一先生―― 『写真家・熊谷元一とメディアの時代――昭和の記録/記憶』 を書いて

矢野敬一

 手元からいつの間にか小型のカメラを取り出し、シャッターを切る。その所作がいかにも自然で軽やかだ。だからこそ被写体も構えることなく、写真に収まる。10年ほど前のことだろうか、筆者が見た熊谷元一先生の撮影場面での印象だ。熊谷元一写真賞授賞式の後、かつて先生が勤務したこともある長野県阿智村の小学校でのことだった。自然体が身についたその姿は熊谷先生の生き方そのものだ、と改めて思ったことがいまも印象に残っている。
  大型のカメラとたくさんの機材を使って、構図一つ決めるのにも時間をかける撮影方法もある。しかし熊谷先生のやり方は、およそその対極といってよい。先生自身、その仕事を三足のわらじ、と言っていた。小学校教師、童画家、そして写真家の三つだ。だが写真家については、絶えず自分はアマチュアだ、ということを強調されておられた。そしてアマチュアでしかできない仕事を自分はするのだ、ということも。先生の写真家としての仕事の軌跡を見ていると、アマチュアに徹したことのすごみ、さえ感じる。
  代表作の岩波写真文庫『一年生』は、小型のキヤノンⅡDで主に撮影した。フラッシュは用いない。撮影という点では、かなり制限があったことになる。だが受け持ちの新入生を被写体とする一年に及ぶ撮影の日々は、いきいきとした子供たちの姿をカメラに収めることに成功した。一発勝負、ではなく時間をかけて関係性を築き上げ、その可能性をフルに活かすというのが、熊谷先生の撮影手法といってよい。根気強い撮影ができるアマチュアならではのやり方だ。
  それは自分の生まれ育った村を被写体とし続けたことにも通じる。戦前、若き小学校教師時代に朝日新聞社から刊行された写真集『会地村 一農村の記録』から、その写真家としてのキャリアは始まった。当時、郷土という問題が注目されていたこともあり、この本は一躍脚光を浴びる。戦後になると、今度は農村婦人の問題がたまたま社会問題となっていたこともあり、岩波写真文庫から『農村の婦人』を刊行する。だがその後社会問題となった過疎や出稼ぎといったジャーナリスティックな被写体は、ことさら追い求めることはなかった。そういったこともあって、絶えず日常の生活を記録し続けても写真集として刊行する機会を得ない年月がその後続く。普通なら、そこで撮影を中断なり断念してしまうだろう。それをしなかったところが、熊谷先生のアマチュアとしての足腰の強さだ。昭和50年代以降になると昭和を回顧する機運の高まりとともに、熊谷先生の写真は時代の証言者として再び注目される。そして『ふるさとの昭和史』での日本写真協会賞功労賞、『熊谷元一写真全集』全四巻での毎日出版文化賞特別賞他、多くの受賞につながっていく。
  なぜ熊谷先生にだけは、こうした仕事ができたのか。先生の口からよく出たのは「~をするとおもしろいんではないか」という言葉だ。そんな軽やかな自然体で「おもしろさを見つける達人」だからこそ、ありきたりの暮らしのなかからもおもしろさを見逃さず、被写体にし続けることができたのではないか。そうした姿勢は童画家としての仕事、教師としての仕事にも一貫していた。童画家としての代表作『二ほんのかきの木』は、カキの木を中心として、村の一年の生活を風情豊かに描いた作品だ。あたりまえすぎる題材におもしろさという生命を吹き込むという姿勢は、ここにも息づいている。教え子との関係も、そうだ。自然体で接するなかから、その後教え子とのコラボレーション『五十歳になった一年生』や『一年生の時戦争が始まった』が生み出されていった。
  そうした日常の暮らしの現場からおもしろさを見出し、70年以上にわたってカメラや絵筆でつぶさに写しつづけてきたまなざしが、閉じられた。熊谷元一、享年百一歳。最後にお目にかかったのは、今年七月。誕生日のお祝いにご挨拶に行った折だ。もうその温顔に触れることができない寂しさを胸に、先生のご冥福をお祈りする。