佐藤守弘
本書で考察した対象は、題にあるとおり近代における〈トポグラフィ〉、すなわち場所/環境の表象だが、そのなかで重要な役割を果たすキーワードが〈旅行/観光〉である。にもかかわらず、私自身はとにかく生来の出不精で、観光旅行というものを好まない。京都に生まれ育ち、東京とニューヨークに遊んだ10年ほどを除いては、35年もこの偏狭な盆地に暮らしていることとなるが、京都市内でさえ知らないところが多い。普段の行動範囲は相当に限られていて、物を買うのもネットでの通信販売が多い。もちろん学会や校務出張などの目的があれば遠出もするが、基本的に旅行そのものには楽しみを見いだせないのである。だから、「気ままなぶらり旅」などは考えられない。ニューヨークに6年ほど住んでいたが、アメリカのその他の場所に旅行した経験は片手で足りる。いまでも、京都から大阪に行くことさえ、気分としては〈小旅行〉なのである。
とはいえ、それでも家族というものがあると、観光旅行のようなこともおこなわなければいけないわけだが、そうなるともう大騒動となる。なんとか旅行に目的を見いだそうと、ウェブを検索し目的地の情報を収集する。その場所の歴史を調べる。そこを描いた絵画や写真を捜し出す。現地のガイドに負けないくらいの予備知識を詰め込んで旅に出るのである。同行者こそいい迷惑で、延々と私の講釈を聞かされるはめに陥る。さらに、あれも見よう、ここにも行こうと分刻みのスケジュールを立ててしまって、同行者を疲れさせて、迷惑をかけることになる。もちろん私自身もそれ以上に疲れ果てる。あげくの果て、旅行なんて大嫌いということになるのである。
そんな人間が、旅と抜きがたく関わるトポグラフィックなイメージをなぜ扱うことになったのだろうか。考えてみたら、これは、京都という観光都市で生まれ育ったことと無関係ではないのかもしれない。幼少期から日常のなかに観光者の存在があり、私はそのまなざしに晒され続けていた。もちろん観光者にとって、私がとくに注目するべき存在であったと言いたいわけではない(べつに祇園祭のお稚児さんの格好をして歩いていたわけではないし)。むしろ彼ら/彼女らの視野の端に気づかれることもなくたたずむネイティヴだったのだろう。いわば、私自身も風景だったのだ。
ところで、以前、京都芸術センターが発行していた「diatxt.」という雑誌の第二期に「ピクチャリング・キョウト」という、視覚文化のなかでの京都をさまざまな角度から検証するエッセイを連載していたことがある(第9号〔2003年4月〕―第16号〔2005年9月〕)。連載のタイトルを「ピクチャリング・キョウト」としたのには理由があった。英語のto pictureという動詞には、「描く」という意味だけではなく、「想像する」という意味がある(本書でもたびたび引いたジェームズ・ライアンの“Picturing Empire”という本のタイトルから借用した)。私のような生活者にとって京都という都市は、さほど特殊な街ではない。居酒屋があって、パチンコ屋があって、コンビニがあって……。普通の日本の地方都市と一切変わりはない。それがメディアに登場した途端、「宮廷文化の香りの漂う古都」になったり、「はんなりとしたもてなしのある街」になったり、「和とモダンの溶け合う街」になったり、ときには「実は革新的な街」にまでなったりしてしまうのである。すなわち、イメージ、あるいはテクストによって表象された時点で、京都という都市は、想像された〈キョウト〉となるのである。
この連載エッセイの一部は、『トポグラフィの日本近代』の第3章「伝統の地政学」へと引き継いだのだが、それだけではなく、江戸泥絵における江戸(第1章「トポグラフィとしての名所絵」)、横浜写真における日本(第2章「観光・写真・ピクチャレスク」)、芸術写真における無名の山村(第4章「郷愁のトポグラフィ」)の、それぞれが表象する場合も同様である。そうした表象による場所性の構築を解きほぐすことで、トポグラフィに反乱を起こさせてみようというのが本書の試みであったことは、中平卓馬や辺見庸の言葉を借りて、「あとがき」に記したとおりである。
私自身、京都の風景の一部だったのだろうし、メディアの表象による「京都性」の言説に翻弄されてきた。私がトポグラフィの研究に携わってきたもともとの理由は、もしかすると京都の呪縛から逃れたい、それを除霊したいという、そんなごくごく私的な理由からであったのかもしれない、と初の単著を上梓したいま、思う。
そういえば、旅が嫌いな理由は、もうひとつあった。乗り物が嫌いなのである。たとえば電車に乗っている時間が楽しめない。じゃあ、眠ればいいのだが、これが眠れない。出張などのとき、なんとか時間をつぶそうと本を数冊――研究書、小説、エッセイなどをバランスよく――、それに駅で雑誌を買い、仕事もできるようにラップトップ・コンピュータ。以前はそれに携帯音楽プレイヤーと携帯ゲーム機を持っていっていたが、iPhoneを手に入れてからは、少しは荷物が少なくなった。でも荷物が重いのには変わりない。これが海外旅行となるとえらいことになってしまう。というわけで、現在取り組んでいるテーマのひとつが、〈鉄道の視覚文化〉なのだが、これもまたこじつければ、前例のとおり除霊作業なのかもしれない。